通鑑紀事本末太宗、突厥を平定する(太宗平突厥)

隋末に始畢可汗が煬帝を雁門に囲んだ事件から、唐が突厥を完全に領内の臣とするまでを追う。唐は挙兵の際に突厥の兵馬を借りたため、始畢・処羅・頡利の代を通じて驕慢な要求と侵入に悩み、長安遷都論まで出たが、秦王世民が諫めて退け、即位直後には便橋で頡利と盟って兵を退かせた。やがて頡利の失政と雪害で突厥が疲弊すると、貞観四年(630年)に李靖・李世勣が陰山で大破して頡利を捕らえ、降衆の処置は温彦博の説が採られた。結社率の乱の後は李思摩を可汗に立てて黄河の北に帰し、高宗永徽元年(650年)に車鼻可汗を捕らえて単于・瀚海の二都護府を置く。

年表(29件)

隋煬帝大業十一年(615年)――雁門の囲み

  • 秋八月、帝が北の塞を巡った。
  • はじめ裴矩は突厥の始畢可汗の部衆が次第に盛んになるのを見て、その勢いを分ける策を献じ、宗女を弟の叱吉設に嫁がせて南面可汗に拝そうとした。叱吉は受けず、始畢は聞いて次第に怨んだ。突厥の臣の史蜀胡悉は謀略に富み始畢に寵任されていたが、裴矩は交易と偽って馬邑の下に誘い出して殺し、使者を送って始畢に「史蜀胡悉が可汗に叛いて降ってきたので、可汗のために斬った」と告げた。始畢は真相を知り、これより朝貢しなくなった。
  • 戊辰、始畢が数十万騎を率いて車駕を襲おうと謀った。義成公主が先に使者を送って変を告げ、壬申、車駕は雁門に駆け込んだ。斉王暕は後軍で崞県を保った。
  • 癸酉、突厥が雁門を囲んだ。上下は恐れおののき、民家を壊して防戦の具とした。城中の兵民は十五万口、食糧はわずか二十日分。雁門の四十一城のうち突厥は三十九を落とし、雁門と崞だけが落ちなかった。
  • 突厥が雁門を急攻し、矢が帝の御前まで届いた。帝は大いに恐れ、趙王杲を抱いて泣き、目は腫れ上がった。
  • 左衛大将軍の宇文述は精鋭数千騎を選んで囲みを破って出るよう勧めた。納言の蘇威は「城を守れば我らに余力があります。軽騎はあちらの得意とするところ。陛下は万乗の主、軽々しく動かれるべきではありません」と言った。
  • 民部尚書の樊子蓋は「陛下が危険を冒して僥倖を求め、一朝狼狽されては、悔いても及びません。堅城に拠ってその鋭気を挫き、坐して四方の兵を徴して援けに来させ、陛下自ら士卒を撫でて、二度と遼を征さぬと諭し、勲功の格を厚くされれば、必ず誰もが奮い立ちます。何を成らぬと憂えましょう」と言った。
  • 内史侍郎の蕭瑀は「突厥の俗では可賀敦が軍謀に与ります。しかも義成公主は帝の娘として外夷に嫁いだ以上、必ず大国の援けを頼みとします。一人使者を送って告げれば、益がなくとも損はありません。また将士の心は、陛下が突厥の患いを免れたら再び高麗を事とされることを恐れております。もし明詔を発して高麗を赦し専ら突厥を討つと諭されれば、衆心はみな安らぎ、各自が奮って戦いましょう」と言った。蕭瑀は皇后の弟である。虞世基も賞格を重くして遼東の役を停める詔を下すよう勧め、帝は従った。
  • 帝は自ら将士を巡って「努めて賊を撃て。無事に切り抜けられれば、陣にある者はみな富貴を憂えるな。決して有司に筆を弄させて汝らの勲労を損なわせはせぬ」と言い、城を守って功ある者は無官なら直ちに六品に叙し物百段を賜り、有官の者は順に加増すると令した。慰労の使者が道に絶えず行き来し、衆はみな踊躍して昼夜防戦し、死傷はきわめて多かった。
  • 甲申、天下に募兵する詔を下すと、守令が競って難に駆けつけた。李淵の子の世民は十六歳で応募し、屯衛将軍の雲定興に属した。
  • 世民は雲定興に旗鼓を多く用意して疑兵とするよう説き、「始畢が敢えて兵を挙げて天子を囲んだのは、我らが急には援けに来られぬと思っているからです。昼は旌旗を引いて数十里に絶えぬようにし、夜は鉦鼓を響かせ合えば、虜は必ず救兵が大挙して来たと思って風を望んで逃げましょう。さもなくば彼は多く我は少なく、全軍で来て戦えば必ず支えきれません」と言い、雲定興は従った。
  • 帝が忍びの使者を義成公主に送って救いを求めると、公主は使者を始畢に送って「北の辺境に急変あり」と告げさせた。東都と諸郡の援兵も忻口に至った。
  • 九月甲辰、始畢が囲みを解いて去った。帝が人を出して山谷を偵察させると、みな空で胡馬はいなかった。二千騎を送って追跡させ、馬邑で突厥の老弱二千余人を得て帰った。

大業十二年(616年)

  • 突厥がしばしば北辺を侵し、詔で晋陽留守の李淵に太原道の兵を率いて馬邑太守の王仁恭とともに撃たせた。当時、突厥はまさに強く、両軍の衆は五千に満たず、王仁恭は心配した。李淵は騎射に長けた者二千人を選び、飲食も宿営もすべて突厥と同じようにさせ、突厥に遭遇すれば機を見て撃たせた。前後にしばしば勝ち、突厥はかなり憚った。

恭帝義寧元年(617年)

  • 夏五月、突厥数万が晋陽を侵した。唐公李淵が挙兵し、劉文静が突厥と結んで援けとするよう説き、突厥に代王を尊立する意を告げた。突厥は康鞘利に馬千匹を送らせて交易した。
  • 劉文静が突厥に赴いて兵を請い、秋八月、突厥の兵五百と馬二千匹を連れて到着した。

唐高祖武徳元年(618年)

  • はじめ五原通守の櫟陽の張長遜は中原の大乱を見て郡を挙げて突厥に付き、突厥は割利特勒とした。
  • 郝瑗が薛挙に梁師都および突厥と兵を連ねて長安を取るよう説き、薛挙は従った。当時、啓民可汗の子の咄苾は莫賀咄設と号し、五原の北に牙を建てていた。薛挙が使者を送って莫賀咄設と侵入を謀り、莫賀咄設は承諾した。
  • 唐主は都水監の宇文歆に莫賀咄設を賄賂させ、あわせて利害を説いて出兵を止めさせ、また莫賀咄設を説いて張長遜を入朝させ五原の地を中国に返させた。莫賀咄設はともに従った。
  • 夏四月己卯、武都・宕渠・五原などの郡がみな降り、王は張長遜を五原太守とした。張長遜はさらに詔書を偽造して莫賀咄設に示し、その謀を知っていると見せた。莫賀咄設は薛挙・梁師都らを拒んでその使者を受け入れなかった。
  • 五月辛未、突厥の始畢可汗が骨咄禄特勒を遣わし、太極殿で宴して九部の楽を奏した。
  • 当時、乱を避けて突厥に入る中国人が多く、突厥は強盛で、東は契丹・室韋から西は吐谷渾・高昌の諸国までみな臣従し、弓を引く者は百余万。帝は挙兵の当初、その兵馬を借りたので、前後の贈り物は数え切れなかった。突厥は功を恃んで驕り、長安に至る使者はしばしば横暴だったが、帝は寛容に容れた。
  • 秋九月、上は従子の襄武公琛と太常卿の鄭元璹に女妓を突厥の始畢可汗に贈らせた。壬戌、始畢がまた骨咄禄特勒を送ってきた。
  • 冬十月戊寅、突厥の骨咄禄を宴し、御座に上げて寵遇した。

武徳二年(619年)

  • 閏二月、突厥の始畢可汗が衆を率いて黄河を渡って夏州に至り、梁師都が兵を出して合流し、五百騎を劉武周に授け、句注から太原を侵そうとした。ところが始畢が没した。子の什鉢苾は幼くて立てられず、弟の俟利弗設を立てて処羅可汗とした。処羅は什鉢苾を尼歩設として東の偏、幽州の北に居らせた。
  • これに先立ち、上は右武候将軍の高静に幣を持たせて始畢のもとへ遣わしたが、豊州で始畢の死を聞き、勅でその地の庫に納めさせた。突厥は聞いて怒り、侵入しようとした。豊州総管の張長遜が高静に幣を持たせて塞を出し、朝廷からの弔慰の贈り物としたので、突厥は帰った。
  • 夏六月己酉、突厥が使者を送って始畢可汗の喪を告げた。上は長楽門で挙哀し、三日朝を廃し、詔して百官に館に赴いてその使者を弔わせ、また内史舎人の鄭徳挺を遣わして処羅可汗を弔い、帛三万段を賻贈した。
  • 秋八月、梁師都が突厥と合わせて数千騎で延州を侵した。行軍総管の段徳操は兵が少なくて敵せず、壁を閉じて戦わず、梁師都が緩んだのをうかがった。九月丙寅、副総管の梁礼に兵を率いて撃たせた。梁師都と梁礼の戦いが酣になったところで、段徳操が軽騎に旗を多く立てさせて背後を急襲した。梁師都の軍は潰え、二百余里追撃してその魏州を破り、男女二千余口を捕らえた。段徳操は段孝先の子である。

武徳三年(620年)

  • 秋七月、梁師都が突厥と稽胡の兵を引き入れて侵入し、行軍総管の段徳操が撃破して千余級を斬った。
  • 九月、突厥の莫賀咄設が涼州を侵し、総管の楊恭仁が撃ったが敗れ、男女数千人を掠められた。
  • 冬十一月、梁師都が尚書の陸季覧を遣わして突厥の処羅可汗に説かせた。近ごろ中原は喪乱して数国に分かれ、勢いは均しく力は弱いので、みな北面して突厥に帰属しました。今、定楊可汗(劉武周)が亡び、天下はことごとく唐のものとなろうとしています。師都は灰滅も辞さぬが、次は可汗に及ぶことを恐れます。定まらぬうちに南に中原を取り、魏の道武帝のようになさるに如くはありません。師都が嚮導を務めます、と。処羅は従った。
  • 莫賀咄設を原州から、泥歩設と梁師都を延州から、処羅自身を并州から、突厥利可汗と奚・霫・契丹・靺鞨を幽州から入らせ、竇建徳の軍が滏口から西に入るのと晋・絳で合流する謀を立てた。莫賀咄は処羅の弟の咄苾、突厥利は始畢の子の什鉢苾である。
  • 処羅はまた并州を取って楊政道を住まわせようとし、群臣の多くが諫めたが、処羅は「私の父は国を失い、隋のおかげで立った。この恩は忘れられぬ」と言った。出師しようとして急死した。義成公主はその子の奥射設が醜く弱いとして廃し、改めて莫賀咄設を立てて頡利可汗と号した。
  • 乙酉、頡利が使者を送って処羅の喪を告げ、上は始畢の喪と同じく礼遇した。
  • 十二月、突厥の倫特勒が并州で大いに民の患いとなり、并州総管の劉世譲が策を設けて捕らえた。上は聞いて大いに喜んだ。

武徳四年(621年)

  • 春三月庚申、靺鞨の渠帥の突地稽を燕州総管とした。
  • 突厥の頡利可汗は父兄の遺産を承けて士馬は雄盛、中国を凌ぐ志があり、隋の義成公主を妻としていた。公主の従弟の楊善経は乱を避けて突厥におり、王世充の使者の王文素とともに頡利に説いた。昔、啓民は兄弟に迫られて身一つで隋に逃げ、文皇帝の力によってこの土地を得、子孫が享受しております。今の唐の天子は文皇帝の子孫ではありません。可汗は楊政道を奉じて伐ち、文皇帝の徳に報いるべきです、と。頡利も同意した。
  • 上は中国がまだ安定していないので突厥をきわめて厚遇したが、頡利の要求は際限なく、言辞は驕慢だった。甲戌、突厥が汾陰を侵した。壬午、石州を侵し、刺史の王集が撃退した。
  • 夏四月己亥、突厥の頡利可汗が雁門を侵し、李大恩が撃退した。
  • 戊申、突厥が并州を侵した。はじめ処羅可汗が劉武周と呼応して并州を侵したとき、上は太常卿の鄭元璹を遣わして禍福を諭させたが、処羅は従わなかった。まもなく処羅が病死し、国人は鄭元璹が毒殺したと疑って留めて帰さなかった。上はさらに漢陽公瓌を遣わして頡利可汗に金帛を贈らせたが、頡利は瓌に拝させようとし、瓌が従わないのでこれも留め、さらに左驍衛大将軍の長孫順徳も留めた。上は怒ってその使者も留めた。瓌は李孝恭の弟である。
  • 五月、突厥が辺境を侵し、長平靖王叔良が五将を督して撃ったが、叔良は流れ矢に当たり、軍を返して六月戊子、道中で没した。
  • 秋八月癸卯、突厥が代州を侵し、総管の李大恩が行軍総管の王孝基を遣わして防がせたが全軍が全滅した。甲辰、進んで崞県を囲んだ。乙巳、王孝基が突厥から逃げ帰った。李大恩は衆が少なく城に拠って自守し、突厥は迫れず、一月余りで引き揚げた。
  • 九月、突厥が并州を侵し、左屯衛大将軍の竇琮らに撃たせた。戊午、突厥が原州を侵し、行軍総管の尉遅敬徳らに撃たせた。
  • 甲申、霊州総管の楊師道が突厥を撃って破った。楊師道は楊恭仁の弟である。
  • 高開道が突厥と兵を連ねてしばしば侵入し、恒・定・幽・易はみなその患いを蒙った。

武徳五年(622年)

  • 春二月、上が使者を送って突厥の頡利可汗に賄賂し、あわせて婚を結ぶことを許した。頡利は漢陽公瓌・鄭元璹・長孫順徳らを帰した。庚子、また使者を送って好を修め、上もその使者の特勒熱寒・阿史那徳らを帰した。
  • 并州総管の劉世譲が雁門に駐屯していたところ、頡利が高開道・苑君璋と衆を合わせて攻めたが落とせず、一月余りで帰った。
  • 夏四月壬申、代州総管の定襄王李大恩が突厥に殺された。これに先立ち、李大恩が突厥の飢饉に乗じて馬邑を取れると奏し、詔で殿内少監の独孤晟に兵を率いて李大恩とともに苑君璋を撃たせ、二月に馬邑で合流すると期した。独孤晟は期日に遅れて来ず、李大恩は独りでは進めず新城に兵を止めた。頡利可汗が数万騎を遣わして劉黒闥とともに李大恩を囲んだ。上は右驍衛大将軍の李高遷を救援に送ったが着かぬうちに李大恩は糧が尽き、夜に逃げたところを突厥に迎え撃たれ、衆は潰えて戦死した。上は惜しみ、独孤晟は死一等を減じて辺境に流された。
  • 五月、突厥が忻州を侵し、李高遷が撃破した。
  • 秋八月乙卯、突厥の頡利可汗が辺境を侵し、左武衛将軍の段徳操と雲州総管の李子和に兵を率いて防がせた。丙辰、頡利が十五万騎で雁門に入り、己未、并州を侵し、別に兵を送って原州を侵した。庚申、太子を幽州道から、秦王世民を秦州道から出して防がせ、李子和を雲中に向かわせて可汗を急襲させ、段徳操を夏州に向かわせて帰路を断たせた。
  • 辛酉、上が群臣に「突厥は侵入しておきながらまた和を求めている。和と戦とどちらが有利か」と問うた。太常卿の鄭元璹は「戦えば怨みが深くなります。和が有利です」と言い、中書令の封徳彝は「突厥は犬羊の衆を恃んで中国を軽んずる意があります。戦わずして和すれば弱みを示すことになり、来年また来ましょう。愚見では撃つに如くはありません。勝ってから和せば恩と威がともに著れます」と言い、上は従った。
  • 己巳、并州大総管の襄邑王神符が汾水の東で突厥を破り、汾州刺史の蕭顗が突厥を破って五千余級を斬った。
  • 丙子、突厥が廉州を侵し、戊寅、大震関を陥した。上は鄭元璹を頡利のもとへ遣わした。このとき突厥の精騎数十万が介休から晋州まで数百里の間、山谷に満ちあふれていた。
  • 鄭元璹は頡利に会って盟約違反を責め、言い争った。頡利はかなり恥じた。鄭元璹はそこで説いた。唐と突厥は風俗が異なります。突厥が唐の地を得ても住めません。今、掠奪して得たものはみな国人の手に入り、可汗に何の得がありましょう。軍を返して和親を修めるに如くはありません。跋渉の労なく坐して金幣を受け、しかもすべて可汗の府庫に入ります。兄弟の積年の歓を捨てて子孫に無窮の怨みを結ぶのと、どちらがよいでしょう、と。頡利は喜んで兵を引いて帰った。鄭元璹は義寧以来、五度突厥に使いし、危うく死にかけたことも数度あった。
  • 九月癸巳、交州刺史の権士通、弘州総管の宇文歆、霊州総管の楊師道が三観山で突厥を撃って破った。乙未、太子が凱旋。丙申、宇文歆が崇岡鎮で突厥を迎え撃って大破し、千余級を斬った。壬寅、定州総管の雙士洛らが恒山の南で突厥を撃ち、丙午、領軍将軍の安興貴が甘州で突厥を撃ち、いずれも破った。
  • 冬十一月乙酉、略陽公道宗を郡王に封じた。道宗は霊州総管となり、梁師都が弟の洛児に突厥数万を率いさせて囲んだが、道宗は隙に乗じて出撃して大破した。突厥は梁師都と結んで郁射設を旧五原に入り住まわせていたが、道宗が追い出して千余里の地を開いた。

武徳六年(623年)

  • 夏五月丙申、梁師都の将卒の獠児が突厥を引き入れて林川を侵した。
  • 戊戌、苑君璋の将の高満政が代州を侵し、驃騎将軍の李宝言が撃退した。
  • 癸卯、高開道が突厥を引き入れて幽州を侵し、突地稽が兵を率いて迎え撃って破った。
  • 六月戊午、高満政が馬邑ごと降った。これに先立ち、前并州総管の劉世譲が広州総管に任じられて赴任しようとしたとき、上が辺境防備の策を問うた。劉世譲は「突厥が近ごろしばしば侵すのは、まさに馬邑を中継地としているからです。勇将を崞城に守らせ、金帛を多く貯えて降る者を厚く賞し、しばしば騎兵を出してその城下を掠め、稲を踏み荒らし生業を破れば、一年余りで彼は食を得られず必ず降ります」と答え、上は「公でなくて誰が勇将か」と言って劉世譲に崞城を守らせた。馬邑はこれに苦しんだ。
  • 当時、馬邑の人の多くは突厥に属することを望まなかった。上がまた人を遣って苑君璋を招諭した。高満政が苑君璋に突厥の戍兵をことごとく殺して唐に降るよう説いたが従わなかったので、高満政は衆心の望むところに乗じて夜に苑君璋を襲った。苑君璋は気づいて突厥に逃げ、高満政は苑君璋の子および突厥の戍兵二百人を殺して降った。
  • 壬戌、梁師都が突厥とともに匡州を侵した。
  • 丁卯、苑君璋が突厥の吐屯設とともに馬邑を侵し、高満政が戦って破った。高満政を朔州総管として滎国公に封じた。
  • 秋七月丙子、苑君璋が突厥とともに馬邑を侵し、右武侯大将軍の李高遷と高満政が防ぎ、臘河谷で戦って破った。
  • 癸未、突厥が原州を侵し、乙酉、朔州を侵して李高遷が敗れ、行軍総管の尉遅敬徳が兵を率いて救った。己亥、太子に兵を率いて北辺に駐屯させ、秦王世民を并州に駐屯させて突厥に備えた。
  • 八月甲辰、突厥が真州を侵し、また馬邑を侵した。己未、原州を侵した。辛未、原州の善和鎮を陥し、癸酉、渭州を侵した。
  • 九月庚寅、突厥が幽州を侵した。壬寅、高開道が突厥二万騎を引き入れて幽州を侵した。
  • 突厥は弘農公の劉世譲を自分の患いと憎み、臣の曹般陀を送って劉世譲が可汗と通謀して乱をなそうとしていると言わせた。上は信じ、冬十月丙午、劉世譲を殺してその家を没収した。
  • 秦王世民はなお并州にいた。己未、詔して世民に軍を率いて帰らせた。
  • はじめ上は右武候大将軍の李高遷に朔州総管の高満政を助けて馬邑を守らせた。苑君璋が突厥一万余騎を引き入れて城下に至り、高満政が撃破した。頡利可汗は怒って大々的に兵を出して馬邑を攻めた。李高遷は恐れて部下二千人を率いて関を斬り開いて夜逃げし、虜に迎え撃たれて半数を失った。
  • 頡利が自ら衆を率いて城を攻め、高満政が兵を出して防ぎ、一日に十余合戦うこともあった。上は行軍総管の劉世譲に救わせたが、松子嶺まで来て進めず、崞城に退いて守った。
  • 折しも頡利が使者を送って婚を求めた。上は「馬邑の囲みを解けば婚を議せる」と言い、頡利は兵を解こうとしたが、義成公主が攻撃を固く請うた。頡利は高開道が攻城具の製作に長けているので召して馬邑をきわめて激しく攻めた。頡利は高満政を誘って降らせようとしたが、高満政は罵った。
  • 糧が尽きかけ救兵も来ないので、高満政は囲みを破って朔州に逃げようとした。右虞候の杜士遠は虜の兵が盛んで免れぬと恐れ、壬戌、高満政を殺して突厥に降った。苑君璋はさらに城中の豪傑で高満政と同謀した者三十余人を殺した。上は高満政の子の玄積を上柱国として爵を継がせた。
  • 丁卯、突厥がまた和親を請い、馬邑を唐に返した。上は将軍の秦武通を朔州総管とした。
  • 突厥がしばしば辺境の患いとなったので、并州大総管府長史の竇静が上表して太原に屯田を置いて輸送を省くよう請うた。議する者は煩わしいとして許さなかった。竇静は切論してやまず、勅で竇静を召して入朝させ、裴寂・蕭瑀・封徳彝と上の前で論難させた。裴寂らは屈服させられず、竇静の議に従い、年に穀数千斛を収めた。上は善しとして検校并州大総管を命じた。竇静は竇抗の子である。
  • 十一月辛巳、秦王世民が并州の境にさらに屯田を増置するよう請い、従った。
  • 十二月己巳、突厥が定州を侵し、州の兵が撃退した。

武徳七年(624年)――遷都論と豳州の対峙

  • 春三月丁酉、突厥が原州を侵した。夏五月辛未、朔州を侵した。六月、突厥が代州の武周城を侵し、州の兵が撃破した。
  • 秋七月己巳、苑君璋が突厥とともに朔州を侵し、総管の秦武通が撃退した。
  • 戊寅、突厥が原州を侵し、寧州刺史の鹿大師を救援に送り、また楊師道を大木根山に向かわせて帰路を断たせた。庚辰、突厥が隴州を侵し、護軍の尉遅敬徳に撃たせた。癸未、突厥が陰盤を侵した。己丑、突厥の吐利設が苑君璋とともに并州を侵した。
  • ある者が上に「突厥がしばしば関中を侵すのは、子女と玉帛がみな長安にあるからです。長安を焼いて都としなければ、胡の侵入は自ずと止みましょう」と説いた。上はもっともと思い、中書侍郎の宇文士及を遣わして南山を越えて樊・鄧まで行かせ、住める土地を探させて遷都しようとした。太子建成・斉王元吉・裴寂はみなこの策に賛成し、蕭瑀らは不可と知りながら諫められなかった。
  • 秦王世民が諫めた。戎狄の患いは古来あることです。陛下は聖武をもって竜のごとく興り、中夏に居を定められました。精兵百万、征する所に敵なし。どうして胡が辺境を騒がせただけで、たちまち都を遷して避け、四海に恥をさらし百世の笑いものとなられるのですか。かの霍去病は漢廷の一将にすぎぬのに匈奴を滅ぼす志を抱きました。まして私は藩屏の末席を汚す身。どうか数年の猶予をお与えください。頡利の首を繋いで闕下に届けてご覧に入れます。もし成らなければ、遷都はそれからでも遅くありません、と。上は「よし」と言った。
  • 建成が「昔、樊噲は十万の衆で匈奴の中を横行しようと言いました。秦王の言も同じようなものではありませんか」と言うと、世民は「形勢はそれぞれ異なり、用兵も同じではありません。樊噲ごとき小僧、何を言うに足りましょう。十年を出ずして必ず漠北を定めます。虚言を申しているのではありません」と答えた。
  • 閏月己未、詔して世民と元吉に兵を率いて豳州に出て突厥を防がせ、上は蘭池で送別した。
  • 苑君璋が突厥を引き入れて朔州を侵した。八月戊辰、突厥が原州を侵した。壬申、忻州を侵し、丙子、并州を侵して京師は戒厳となり、戊寅、綏州を侵して刺史の劉大俱が撃退した。
  • このとき頡利と突利の二可汗が国を挙げて侵入し、営を連ねて南上した。秦王世民が兵を率いて防いだ。折しも関中は長雨で糧の輸送が絶え、士卒は征役に疲れ、武器も傷んでおり、朝廷も軍中もみな憂えた。
  • 世民が豳州で虜と遭遇し、兵を整えて戦おうとした。己卯、可汗が一万余騎で突然城の西に至り、五隴阪に陣した。将士は震え恐れた。世民は元吉に「今、虜騎が凌いでいる。怯えを見せてはならぬ。一戦すべきだ。お前は私とともに行けるか」と言った。元吉は恐れて「虜の形勢はこの通りです。どうして軽々しく出られましょう。万一不利になれば悔いても及びません」と言った。世民は「お前が出られぬなら私が独りで行く。お前はここに留まって見ていよ」と言った。
  • 世民は騎を率いて虜の陣に馳せつけ、「国家は可汗と和親している。なぜ約に背いて我が地に深入りしたのか。私は秦王である。可汗が闘えるなら独りで出て私と闘え。衆を率いて来るなら、私はこの百騎で当たるまでだ」と告げた。頡利は真意を測りかね、笑って応じなかった。
  • 世民はさらに前に出て騎を遣わし突利に「お前は以前、私と盟を結び、急あらば助け合うと言った。今、兵を率いて攻めてくるとは、何と香火の情がないことか」と告げた。突利も応じなかった。
  • 世民がさらに前に出て溝の水を渡ろうとすると、頡利は世民が軽々しく出てきたのを見、また香火の言を聞いて、突利が世民と謀っているのではないかと疑い、人を送って止め、「王は渡られるに及ばぬ。私に他意はない。改めて王と盟約を固めたいだけだ」と言い、兵を引いてやや退いた。
  • その後、長雨がいっそう激しくなった。世民は諸将に「虜が恃むのは弓矢だけだ。今、長雨が続いて筋も膠もみな緩み、弓は使えぬ。彼らは翼を折られた飛鳥のようなものだ。我らは家に住み火で煮炊きし、刀と槊は鋭い。逸をもって労を制するこの機に乗じなくて、何を待つのか」と言い、ひそかに軍を夜に出して雨を冒して進んだ。突厥は大いに驚いた。
  • 世民はさらに人を遣って突利に利害を説かせ、突利は喜んで従った。頡利は戦おうとしたが突利が承知せず、突利とその夾畢特勒の阿史那思摩を送って世民に会わせ和親を請い、世民は許した。思摩は頡利の従叔である。突利はこれを機に自ら世民に身を託し、兄弟の契りを結ぶことを請い、世民も恩意で撫でて盟を結んで去った。
  • 庚寅、岐州刺史の柴紹が杜陽で突厥を破った。
  • 壬申、突厥の阿史那思摩が入見し、上は御榻に上げて慰労した。思摩は容貌が胡に似て突厥に似ていなかったので、処羅は阿史那の種でないと疑い、処羅・頡利の代を通じて常に夾畢特勒にとどまり、ついに兵を典る設になれなかった。入朝すると和順王の爵を賜った。
  • 丁酉、左僕射の裴寂を突厥に遣わした。
  • 九月癸卯、突厥が綏州を侵し、都督の劉大俱が撃破して特勒三人を捕らえた。
  • 冬十月己巳、突厥が甘州を侵した。

武徳八年(625年)

  • はじめ上は天下が大いに定まったとして十二軍を廃したが、突厥の侵入がやまないので、辛亥、再び十二軍を置き、太常卿の竇誕らを将軍として士馬を選練し、大挙して突厥を撃つことを議した。
  • 甲寅、涼州の胡の睦伽陀が突厥を引き入れて都督府を襲い子城に入ったが、長史の劉君傑が撃破した。
  • 夏六月丙子、燕郡王李芸を華亭県および弾箏硤の水に駐屯させ、水部郎中の姜行本に石嶺の道を断たせて突厥に備えた。丙戌、頡利可汗が霊州を侵し、丁亥、右衛大将軍の張瑾を行軍総管として防がせ、中書侍郎の温彦博を長史とした。
  • これに先立ち、上は突厥への書に対等国の礼を用いていた。秋七月甲辰、上は侍臣に「突厥は貪婪で飽くことを知らぬ。朕はこれを征する。今後、書は用いず、すべて詔勅を用いよ」と言った。
  • 己酉、突厥の頡利可汗が相州を侵した。丙辰、代州都督の藺謩が新城で突厥と戦って不利となり、改めて行軍総管の張瑾を石嶺に、李高遷を大谷に向かわせて防がせた。丁巳、秦王を蒲州に駐屯させて突厥に備えさせた。
  • 八月壬戌、突厥が石嶺を越えて并州を侵した。癸亥、霊州を侵し、丁卯、潞・沁・韓の三州を侵した。
  • 詔で安州大都督の李靖を潞州道から出し、行軍総管の任瓌を太行に駐屯させて突厥を防がせた。頡利可汗は十余万の兵で朔州を大いに掠めた。
  • 壬申、并州道行軍総管の張瑾が大谷で突厥と戦って全軍が全滅し、張瑾は身一つで李靖のもとへ逃げた。行軍長史の温彦博が虜に捕らえられ、虜は温彦博の職が機密に近いことから国家の兵糧の虚実を問うたが、温彦博は答えず、陰山に移された。
  • 庚辰、突厥が霊州を侵し、甲申、霊州都督の任城王道宗が撃破した。丙戌、突厥が綏州を侵し、丁亥、頡利可汗が使者を送って和を請うて退いた。
  • 九月癸巳、突厥の没賀咄設が并州の一県を陥し、丙申、代州都督の藺謩が撃破した。
  • 丙午、右領軍将軍の王君廓が幽州で突厥を破り、捕虜と斬首は二千余人。
  • 突厥が藺州を侵した。
  • 冬十月、突厥が鄯州を侵し、霍公柴紹を救援に送った。
  • 十一月戊戌、突厥が彭州を侵した。

武徳九年(626年)――便橋の盟

  • 春二月丁亥、突厥が原州を侵し、折威将軍の楊毛に撃たせた。
  • 三月辛亥、突厥が霊州を侵した。癸丑、南海公の欧陽胤が使いで突厥にあり、その徒五十人を率いて可汗の牙帳を急襲しようと謀ったが、露見して突厥に囚われた。
  • 丁巳、突厥が涼州を侵し、都督の長楽王幼良が撃退した。
  • 夏四月丁卯、突厥が朔州を侵し、庚午、原州を侵し、癸酉、涇州を侵した。
  • 戊寅、安州大都督の李靖が霊州の硤石で突厥の頡利可汗と戦い、朝から申の刻まで戦って突厥は退いた。
  • 癸未、突厥が西会州を侵した。五月戊戌、秦州を侵した。蘭州を侵した。六月、隴州を侵し、辛未、渭州を侵したので、右衛大将軍の柴紹に撃たせた。
  • 秋七月己丑、柴紹が秦州で突厥を破り、特勒一人を斬り、士卒の首級千余を挙げた。
  • 八月丙辰、突厥が使者を送って和を請うた。
  • 癸亥、詔して太子に位を伝え、甲子、太宗が東宮の顕徳殿で皇帝の位に即いた。
  • はじめ稽胡の酋長の劉仚成が衆を率いて梁師都に降ったが、梁師都は讒言を信じて殺した。これによって配下は疑い恐れて降る者が多く、梁師都は次第に衰弱した。そこで突厥に朝して策を献じ、侵入を勧めた。頡利と突利の二可汗が兵十余万騎を合わせて涇州を侵し、進んで武功に至り、京師は戒厳となった。
  • 己卯、突厥が進んで高陵を侵した。辛巳、涇州道行軍総管の尉遅敬徳が涇陽で突厥と戦って大破し、その俟斤の阿史徳烏没啜を捕らえ、千余級を斬った。
  • 癸未、頡利可汗が渭水の便橋の北まで進み、腹心の執失思力を入見させて虚実をうかがわせた。執失思力は「頡利と突利の二可汗が兵百万を率いて今至りました」と誇張して言った。
  • 上は責めて「私はお前の可汗と面と向かって和親を結び、贈った金帛は前後に数え切れぬ。お前の可汗は自ら盟約に背いて兵を率いて深入りした。私に恥じるところはない。お前は戎狄とはいえ人の心もあろう。どうして大恩をすっかり忘れて強盛を誇るのか。私は今、まずお前を斬ってやる」と言った。執失思力は恐れて命乞いをした。
  • 蕭瑀と封徳彝が礼をもって帰すよう請うと、上は「今、帰せば虜は私が恐れていると思い、いっそう凌ごう」と言い、執失思力を門下省に囚えた。
  • 上は自ら玄武門を出て、高士廉・房玄齢ら六騎とともにまっすぐ渭水のほとりへ行き、頡利と水を隔てて語り、盟約違反を責めた。突厥は大いに驚き、みな馬を下りて並んで拝した。まもなく諸軍が続いて至り、旌旗と甲が野を覆った。頡利は執失思力が戻らず、しかも上が身を挺して軽装で出てきたうえ軍容がきわめて盛んなのを見て、恐れの色を見せた。
  • 上は諸軍に手を振って退かせ陣を布かせ、独り留まって頡利と語った。蕭瑀は上が敵を軽んじていると馬を押さえて固く諫めた。
  • 上は言った。私はすでに十分に策を練った。卿の知るところではない。突厥が国を傾けて来て郊外にまで迫れたのは、我が国内に難があり、朕が即位したばかりで抗し防げぬと思ったからだ。私が弱みを見せて門を閉じて守れば、虜は必ず兵を放って大いに掠め、もはや制せられぬ。ゆえに朕は軽騎で独り出て、彼らを軽んじているように見せ、また軍容を輝かせて必ず戦うと知らしめ、虜の意表を突いてその図りごとを狂わせたのだ。虜は我が地に深入りしている以上、必ず恐れる心がある。ゆえに戦えば勝ち、和すれば固い。突厥を制服するのはこの一挙にある。卿はまあ見ていよ、と。
  • この日、頡利が和を請い、詔で許した。上はその日のうちに宮に帰った。乙酉、また城の西に行幸し、白馬を斬って便橋の上で頡利と盟い、突厥は兵を引いて退いた。
  • 蕭瑀が上に「突厥がまだ和さぬとき、諸軍は争って戦おうとしたのに陛下はお許しにならず、臣らも疑っておりました。ところが虜は自ら退きました。その策はどこにあったのですか」と問うた。
  • 上は答えた。私が見るに、突厥の衆は多くとも整っておらず、君臣の志はただ賄賂を求めるだけだ。和を請うたとき、可汗は独り水の西にあり、重臣はみな私に謁しに来た。私が酔わせて縛り、そのうえで襲えば、その衆を破るのは朽木を折るようなものだった。また長孫無忌と李靖に幽州に伏兵を置いて待たせてあった。虜が逃げ帰れば伏兵が前を遮り大軍が背後を突き、覆すのは手のひらを返すようなものだった。それでも戦わなかったのは、私が即位して日が浅く、国家は安からず百姓は富んでいないからだ。しばらく静かにして撫でるべきである。ひとたび虜と戦えば損害はきわめて多い。虜が怨みを深く結び、恐れて備えを固めれば、私はもう志を得られぬ。ゆえに甲を巻き戈を収め、金帛で釣った。彼らは欲するところを得たのだから自ずと退く。志は驕り緩んで二度と備えぬ。そのうえで威を養い隙を待てば、一挙に滅ぼせる。「これを取らんと欲せば、必ず固くこれに与えよ」とはこのことだ。卿には分かるか、と。蕭瑀は再拝して「及ぶところではありません」と言った。

貞観元年(627年)に先立つ処置

  • 突厥の頡利が馬三千匹・羊一万口を献じたが、上は受けず、ただ掠奪した中国の戸口を返すよう詔し、温彦博を召還した。
  • 丁未、上は諸衛の将卒を顕徳殿の庭に引いて射を習わせ、「戎狄の侵掠は古来あることだ。患いは、辺境が少し安らぐと人主が遊びに耽って戦を忘れ、そのため寇が来ても防げなくなることにある。今、朕は汝らに池を掘らせ苑を築かせず、専ら弓矢を習わせる。閑にして事なきときは汝らの師となり、突厥が侵入すれば汝らの将となる。中国の民を少しは安んじられようか」と諭した。そこで日ごとに数百人を引いて殿庭で射を教え、上は自ら臨んで試し、命中の多い者に弓・刀・帛を賞し、その将帥にも上等の考課を加えた。

太宗貞観元年(627年)

  • 夏五月、苑君璋が衆を率いて降った。
  • はじめ苑君璋は突厥を引き入れて馬邑を陥し高満政を殺してから、退いて恒安を保った。その衆はみな中国人で、多くが苑君璋を捨てて降った。苑君璋は恐れて、これも降って北辺の守りを務めて罪を贖いたいと請い、上皇は許した。苑君璋が誓約を請うと、上皇は雁門の人の元普を遣わして金券を賜った。
  • 頡利可汗がまた人を遣って招いたので、苑君璋は躊躇して決しかねた。恒安の人の郭子威が「恒安は地が険しく城は堅く、突厥はまさに強い。それに拠って変を見るべきで、人に手を束ねるべきではありません」と説き、苑君璋は元普を捕らえて突厥に送り、また突厥と結んでしばしば侵入した。このとき頡利の政が乱れ、頼るに足りぬと知って、ついに衆を率いて降った。上は苑君璋を隰州都督・芮国公とした。
  • はじめ突厥は性が淳厚で政令も簡素だった。頡利可汗は華人の趙徳言を得て委任したが、趙徳言は威福を専らにして旧俗を多く変え、政令は煩雑苛酷になり、国人は喜ばなくなった。頡利はまた諸胡を信任して突厥を疎んじたが、胡人は貪欲で反覆が多く、兵乱が毎年起こった。
  • 折しも大雪が数尺積もり、家畜が多く死に、連年の飢饉で民はみな凍え飢えた。頡利は費用が足りず諸部から重く取り立てたので、内外は離れ怨み、諸部の多くが叛いて兵は次第に弱くなった。
  • 進言する者の多くが撃つよう請い、上は蕭瑀と長孫無忌に「頡利の君臣は昏虐で、危亡は必至である。今これを撃てば、盟を結んだばかりを破ることになる。撃たねば機会を失うかもしれぬ。どうすべきか」と問うた。蕭瑀は撃つよう請い、長孫無忌は「虜が塞を犯していないのに信を棄てて民を労するのは、王者の師ではありません」と答え、上はやめた。
  • はじめ西突厥の曷薩那可汗が強盛で、鉄勒の諸部はみな臣従していた。曷薩那が際限なく徴税したので鉄勒は連れ立って叛き、頡利に付いた。頡利の政が乱れると、薛延陀は回紇・抜野古らとともに叛き、頡利は制せられなかった。
  • 頡利はいっそう衰え国人は離散した。折しも大雪が平地で数尺積もり、羊馬が多く死んで民は大いに飢えた。頡利は唐がその疲弊に乗ずるのを恐れ、兵を率いて朔州の境に入り、上は「狩りをする」と言い立てながら実は備えを設けた。
  • 鴻臚卿の鄭元璹が突厥から帰って上に「戎狄の興衰は専ら羊馬を目安とします。今、突厥は民が飢え家畜が痩せています。これは亡びの兆しで、三年とかかりません」と言い、上もそう思った。
  • 群臣の多くが隙に乗じて突厥を撃つよう勧めたが、上は「人と盟を結んだばかりで背くのは不信である。人の災いを利とするのは不仁である。人の危うきに乗じて勝ちを取るのは不武である。たとえその種族がことごとく叛き家畜が残らずとも、朕はついに撃たぬ。必ず罪があってから討つ」と言った。

貞観二年(628年)

  • はじめ突厥の突利可汗は幽州の北に牙を建てて東の偏を主宰していたが、奚・霫など数十部の多くが突厥に叛いて降ってきた。頡利可汗は衆を失ったことを責めた。薛延陀・回紇らが欲谷設を破ったとき、頡利は突利に討たせたが、突利の兵も敗れて軽騎で逃げ帰った。頡利は怒って十余日拘留して鞭打った。突利はこれを怨み、ひそかに頡利に叛こうとした。頡利がしばしば突利に兵を徴したが突利は与えず、上表して入朝を請うた。
  • 上は侍臣に「かつて突厥が強く、弓を引く者百万で中夏を凌いだ。それで驕り恣にして民を失った。今、自ら入朝を請うのは、困窮したからでなくてこうしようか。朕はこれを聞いて喜びもし懼れもする。なぜか。突厥が衰えれば辺境が安らぐゆえに喜ぶ。しかし朕がもし道を失えば、いつか突厥のようになる。懼れずにおれようか。卿らは苦諫を惜しまず、朕の及ばぬところを輔けよ」と言った。
  • 頡利が兵を出して突利を攻め、夏四月丁亥、突利が使者を送って救いを求めた。上は大臣に「朕は突利と兄弟である。急あらば救わぬわけにいかぬ。しかし頡利ともまた盟がある。どうすべきか」と諮った。兵部尚書の杜如晦は「戎狄に信はなく、結局は約を破ります。今その乱に乗じて取らねば、後悔しても及びません。乱を取り亡ぶを侮るのは古の道です」と言った。
  • 丙申、契丹の酋長が部落を率いて降った。頡利が使者を送って梁師都と契丹を交換したいと請うた。上は使者に言った。契丹は突厥と種族が異なる。今、帰附して来たのに、なぜ返せというのか。梁師都は中国の人で、我が土地を盗み我が百姓を虐げている。突厥はこれを受け入れて庇っている。私が兵を興して討てば、かえって救いに来る。彼は釜の中を泳ぐ魚のようなもの。我が有にならぬ心配などない。仮に得られずとも、決して降附した民と交換したりはせぬ、と。
  • これに先立ち、上は突厥の政が乱れて梁師都を庇えぬと知り、書を送って諭したが、梁師都は従わなかった。上は夏州都督長史の劉旻と司馬の劉蘭成に図らせた。劉旻らはしばしば軽騎を送ってその稲を踏み荒らし、多く反間を放って君臣を離間させたので、その国は次第に虚しくなり、降る者が相次いだ。その名将の李正宝らが梁師都を捕らえようと謀ったが、事が漏れて唐に逃げ込み、これで上下はますます疑い合った。
  • 劉旻らは取れると見て上表して兵を請い、上は右衛大将軍の柴紹と殿中少監の薛万均に撃たせ、また劉旻らに朔方の東城に拠って迫らせた。梁師都が突厥の兵を引いて城下に至ると、劉蘭成は旗を伏せ鼓を鳴らさず出なかった。梁師都が夜逃げすると劉蘭成が追撃して破った。
  • 突厥が大挙して兵を出して梁師都を救おうとした。柴紹らは朔方の数十里手前で突厥と遭遇し、奮撃して大破し、そのまま朔方を囲んだ。突厥は救えず、城中は食が尽きた。壬寅、梁師都の従父弟の洛仁が梁師都を殺して城ごと降り、その地を夏州とした。
  • 秋九月己未、突厥が辺境を侵した。朝臣の中に古の長城を修め民を砦に上げるよう請う者があったが、上は「突厥は災異が相次ぎ、頡利は懼れて徳を修めるどころか暴虐をいっそう増し、骨肉が攻め合っている。滅亡は朝夕に迫る。朕はまさに公らのために沙漠を掃き清めるところだ。どうして民を労して遠く砦を修める必要があろう」と言った。

貞観三年(629年)

  • 秋八月丙子、薛延陀の毗伽可汗が弟の統特勒を入貢させた。上は宝刀と宝鞭を賜って「卿の部下に大罪ある者は斬り、小罪の者は鞭打て」と言い、夷男は大いに喜んだ。
  • 突厥の頡利可汗は大いに恐れ、初めて使者を送って臣と称し、公主を娶って婿の礼を修めることを請うた。
  • 代州都督の張公謹が突厥を取れる状況を上言した。頡利は欲を恣にして暴を逞しくし、忠良を誅して姦佞に親しむのが一。薛延陀ら諸部がみな叛いたのが二。突利・拓設・欲谷設がみな罪を得て身の置き所がないのが三。塞北は霜と旱で糧が絶えたのが四。頡利が同族を疎んじて諸胡を親任しているが、胡人は反覆するので大軍がひとたび臨めば必ず内変が生じるのが五。華人で北に入った者はきわめて多く、近ごろ各地で群がって山険に拠っていると聞くので、大軍が塞を出れば自然に呼応するのが六、と。
  • 上は頡利可汗が和親を請いながら梁師都を援けたことを理由に、丁亥、兵部尚書の李靖を行軍総管として討たせ、張公謹を副とした。
  • 九月丙午、突厥の俟斤九人が三千騎を率いて降った。戊午、抜野古・僕骨・同羅・奚の酋長がそろって衆を率いて降った。
  • 冬十一月辛丑、突厥が河西を侵し、粛州刺史の公孫武達と甘州刺史の成仁重が戦って破り、千余口を捕らえた。
  • 庚申、行并州都督の李世勣を通漢道行軍総管、兵部尚書の李靖を定襄道行軍総管、華州刺史の柴紹を金河道行軍総管、霊州大都督の薛万徹を暢武道行軍総管とし、衆合わせて十余万、みな李靖の節度を受けて道を分けて突厥を撃たせた。
  • 乙丑、任城王道宗が霊州で突厥を撃って破った。
  • 十二月戊辰、突利可汗が入朝した。上は侍臣に「かつて太上皇は百姓のために突厥に臣と称された。朕は常に心を痛めてきた。今、単于が頭を地につけた。これで前の恥を雪げようか」と言った。
  • 壬午、靺鞨が使者を入貢させた。上は「靺鞨が遠く来たのは、突厥がすでに服したからである。昔の人は戎を防ぐのに上策はないと言った。朕が今、中国を治め安んじれば四夷が自ずと服する。これこそ上策ではないか」と言った。
  • 庚寅、突厥の都射設が部下を率いて降った。

貞観四年(630年)――頡利の滅亡

  • 春正月、李靖が驍騎三千を率いて馬邑から進んで悪陽嶺に駐屯し、夜に定襄を襲って破った。突厥の頡利可汗は李靖の急襲を予想しておらず、大いに驚いて「唐が国を傾けて来たのでなければ、李靖がどうして孤軍でここまで来られよう」と言った。その衆は一日に何度も驚き、牙を磧口に移した。李靖はさらに間諜を送って心腹を離間させ、頡利の親しい康蘇密が隋の蕭后および煬帝の孫の政道を連れて降った。乙亥、京師に至った。
  • これに先立ち、降った胡が「中国人でひそかに蕭后に書状を通じている者がいる」と言った。このとき中書舎人の楊文瓘が取り調べるよう請うたが、上は「天下がまだ定まらず突厥がまさに強かったころ、愚民は無知でそういうこともあったろう。今、天下はすでに安らいだ。過ぎたことを問う必要はない」と言った。
  • 李世勣が雲中に出て白道で突厥と戦い、大破した。
  • 二月甲辰、李靖が陰山で突厥の頡利可汗を破った。
  • これに先立ち、頡利は敗れて鉄山に逃げ込み、残る衆はなお数万あった。執失思力を入見させて謝罪し、国を挙げて内附し自ら入朝することを請うた。上は鴻臚卿の唐倹らを遣わして慰撫し、また李靖に兵を率いて頡利を迎えるよう詔した。頡利は外に卑辞を用いながら内心は躊躇し、草が青み馬が肥えるのを待って漠北へ逃げようとしていた。
  • 李靖は兵を率いて李世勣と白道で合流し、謀って言った。頡利は敗れたとはいえその衆はなお盛んだ。もし砂漠の北へ逃げて九姓に頼れば、道は険しく遠く追いつきがたい。今、詔使が彼のもとにおり、虜は必ず気を緩めている。精騎一万を選んで二十日分の糧を持たせて襲えば、戦わずして擒にできる、と。
  • この謀を張公謹に告げると、張公謹は「詔書ですでにその降伏を許し、使者があちらにおります。どうして撃てましょう」と言った。李靖は「これは韓信が斉を破った手だ。唐倹らごとき惜しむに足りぬ」と言い、兵を整えて夜に出発し、李世勣が続いた。
  • 軍が陰山に至って突厥の千余の天幕に遭遇し、捕らえて軍に従わせた。頡利は使者を見て大いに喜び、内心すっかり安心していた。李靖は武邑の蘇定方に二百騎で前鋒を務めさせ、霧に乗じて進み、牙帳まで七里に迫ってようやく虜が気づいた。頡利は千里の馬に乗って先に逃げ、李靖の軍が至ると虜の衆は潰えた。唐倹は身一つで帰り得た。
  • 李靖は一万余級を斬り、男女十余万を捕らえ、家畜数十万を獲、隋の義成公主を殺してその子の疊羅施を捕らえた。
  • 頡利が一万余人を率いて砂漠を渡ろうとしたが、李世勣が磧口に軍しており、頡利は到っても渡れず、その大酋長はみな衆を率いて降った。李世勣は五万余口を捕らえて帰り、陰山の北から大漠に至るまで領土を開いた。露布で報告した。
  • 甲寅、突厥に勝ったことで天下に赦した。
  • 三月戊辰、突厥の夾畢特勒の阿史那思摩を右武候大将軍とした。庚午、突厥の思結俟斤が四万の衆を率いて降った。丙子、突利可汗を右衛大将軍・北平郡王とした。
  • はじめ始畢可汗は啓民の同母弟の蘇尼失を沙鉢羅設として部落五万家を督させ、牙を霊州の西北に置かせていた。頡利の政が乱れても蘇尼失の部だけは離心しなかった。突利が唐へ走ったとき、頡利は蘇尼失を立てて小可汗とした。頡利が敗走して身を寄せ、吐谷渾に逃げようとしたが、大同道行軍総管の任城王道宗が兵を率いて迫り、蘇尼失に頡利を捕らえて送らせようとした。頡利は数騎で夜に逃げて荒れ谷に隠れたが、蘇尼失は恐れて馳せ追って捕らえた。
  • 庚辰、行軍副総管の張宝相が衆を率いて突然沙鉢羅の営に至り、頡利を捕らえて京師に送った。蘇尼失は衆を挙げて降り、漠南の地はついに空になった。
  • 突厥の頡利可汗が長安に至り、夏四月戊戌、上は順天楼に出御し、文物を盛大に並べて頡利を引見し、罪を数えた。父兄の業を藉りて淫虐を恣にして亡ぶに至ったのが罪の一。しばしば我と盟いながら背いたのが二。強きを恃んで戦を好み、屍を野に晒したのが三。我が作物を踏みにじり我が子女を掠めたのが四。私が汝の罪を宥し社稷を存したのに、引き延ばして来なかったのが五。ただ便橋以来、二度と大挙して侵さなかった。それで死を免れたのだ、と。頡利は哭して謝して退いた。詔で太僕に館させ、厚く食を給した。
  • 上皇は頡利を擒にしたと聞いて「漢の高祖は白登で困窮して報いられなかった。今、我が子が突厥を滅ぼした。私の託した人を得た。もう何を憂えようか」と嘆じた。上皇は上と貴臣十余人および諸王・妃・公主を召して凌煙閣に酒を置き、酒が酣になると上皇自ら琵琶を弾き、上は起って舞い、公卿が代わる代わる立って寿を祝し、夜に及んで散じた。
  • 突厥が亡びると、その部落はある者は北に薛延陀に付き、ある者は西に西域へ走ったが、唐に降った者はなお十万口あった。詔して群臣にその処置を議させた。
  • 朝士の多くは、北狄は古来中国の患いである、今、幸いにも破れ亡んだのだから、ことごとく河南の兗・豫の間に移し、その種族を分けて州県に散居させ、耕織を教えれば、胡虜を農民に化して永く塞北の地を空にできる、と言った。
  • 中書侍郎の顔師古は、突厥と鉄勒は上古より臣従させ得なかったもの、陛下がすでに臣従させた以上、みな河北に置き、酋長を分立させてその部落を領させれば永く患いはない、と述べた。
  • 礼部侍郎の李百薬は、突厥は一国とはいえ種類が分かれ各々酋帥がある、今その離散に乗じてそれぞれ本部で君長を置き、互いに臣属させぬがよい、仮に阿史那氏を存立させても本族を臣とさせるだけにとどめるべきだ、国が分かれれば弱くて制しやすく、勢いが均しければ互いに呑めない、各自が身を保って必ず中国に抗し得ぬ、あわせて定襄に都護府を置いて節度させよ、これが辺境を安んじる長策だ、と述べた。
  • 夏州都督の竇静は、戎狄の性は禽獣のごとく、刑法で威すことも仁義で教えることもできぬ、まして故郷を慕う情は忘れがたい、中国に置けば損あって益なく、一朝変が生じて我が王土を犯すことを恐れる、その敗亡の余りに望外の恩を施し、王侯の号を貸し、宗室の女を娶らせ、土地を分け部落を分割して権を弱め勢いを分ければ羈縻しやすく、常に藩臣として永く辺塞を保たせられる、と述べた。
  • 温彦博は、兗・豫の間に移すのは物の性に背き、養い存する道ではない、後漢の建武の故事に準じて降った匈奴を塞下に置き、その部落を全うし土俗に順わせて空虚の地を実らせ、中国の防壁とするのが善策だ、と述べた。
  • 魏徴は言った。突厥は代々寇盗をなし百姓の仇です。今、幸いに破れ亡びました。陛下はその降附を憐れんで殺し尽くすに忍びぬのであれば、放って故土に帰らせるべきで、中国に留めてはなりません。そもそも戎狄は人面獣心、弱ければ服を請い強ければ叛乱するのがその常性です。今、降る者の衆は十万近く、数年後には倍に増え、必ず腹心の病となり、悔いても及びません。晋の初め、諸胡が民と雑居し、郭欽や江統がみな武帝に塞外へ駆り出して乱の階を絶つよう勧めましたが、武帝は従わず、二十余年後、伊水・洛水の間はついに毛皮の民の地となりました。これが前事の明鑑です、と。
  • 温彦博は「王者は万物に対し、天が覆い地が載せるように遺すところがありません。今、突厥は窮して我に帰した。どうして棄てて受けずにおれましょう。孔子は『教えありて類なし』と言われました。その死亡を救い生業を授け礼義を教えれば、数年後にはみな我が民となります。その酋長を選んで宿衛に入らせれば、威を畏れ徳を懐きます。何の後患がありましょう」と言った。
  • 上はついに温彦博の策を用い、突厥の降衆を東は幽州から西は霊州まで置き、突利がもと統べていた地を分けて順・祐・北・長の四州都督府を置き、また頡利の地を六州に分け、左に定襄都督府、右に雲中都督府を置いてその衆を統べさせた。
  • 五月辛未、突利を順州都督として部落の官を率いさせ、上は戒めて「お前の祖父の啓民は身一つで隋に逃げ、隋は立てて大可汗とし北荒を領有させた。お前の父の始畢はかえって隋の患いとなった。天道が容れず、ゆえに今日、お前たちをこう乱亡させたのだ。私がお前を可汗に立てぬのは、啓民の前例を戒めとするからだ。今、お前を都督とする。よく国法を守り、互いに侵掠するな。ただ中国を永く安んじたいだけでなく、お前の宗族をも永く全うさせたいのだ」と言った。
  • 壬申、阿史那蘇尼失を懐徳郡王、阿史那思摩を懐化郡王とした。頡利の滅亡のとき、諸部落の酋長はみな頡利を捨てて降ったが、思摩だけが従い、ついに頡利とともに擒となった。上はその忠を嘉して右武候大将軍を拝し、まもなく北開州都督として頡利の旧衆を統べさせた。
  • 丁丑、右武衛大将軍の史大奈を豊州都督とした。その他、到着した酋長はみな将軍・中郎将を拝して朝廷に並び、五品以上が百余人、ほぼ朝士の半ばを占めた。これによって長安に移り住んだ者は一万家近くに上った。
  • 六月丁酉、阿史那蘇尼失を北寧州都督、中郎将の史善応を北撫州都督とした。壬寅、右驍衛将軍の康蘇を北安州都督とした。
  • 秋八月戊午、突厥の欲谷設が降った。欲谷設は突利の弟である。頡利が敗れて高昌へ走ったが、突利が唐に礼遇されていると聞いて降ったのである。
  • 九月戊辰、伊吾の城主が入朝した。隋末に伊吾は内属して伊吾郡が置かれたが、隋の乱で突厥に臣従していた。頡利が滅んだので、その属する七城を挙げて降り、その地に伊西州を置いた。

貞観五年(631年)

  • 隋末に中国人の多くが突厥に取られていたが、突厥が降ってから上は使者に金帛で贖わせた。五月乙丑、有司が奏したところ、贖った男女は八万口に上った。

貞観六年(632年)

  • 突厥の頡利可汗は鬱々として意を得ず、しばしば家人と向かい合って悲泣し、容貌は痩せ衰えた。上は見て憐れみ、虢州は麋鹿が多く狩猟に適するとして頡利を虢州刺史とした。頡利は辞して行くことを望まず、冬十月癸未、改めて右衛大将軍とした。

貞観七年(633年)冬十二月

  • 帝が上皇に従って旧漢の未央宮で酒宴した。上皇は突厥の頡利可汗に舞わせ、また南蛮の酋長の馮智戴に詩を詠ませ、そのうえで笑って「胡と越が一家となるのは古来なかったことだ」と言った。
  • 帝は觴を捧げて寿を祝し「今、四夷が入って臣となったのは、みな陛下のご教誨によるもので、臣の智力の及ぶところではありません。昔、漢の高祖も太上皇に従ってこの宮で酒宴し、妄りに自らを誇りましたが、臣の取らぬところです」と言った。上皇は大いに喜び、殿上はみな万歳を唱えた。

貞観八年(634年)

  • 春正月癸未、突厥の頡利可汗が没した。国人にその俗に従って屍を焼いて葬らせた。

貞観十年(636年)

  • 春正月辛丑、突厥の拓設の阿史那社爾を左驍衛大将軍とした。
  • 社爾は処羅可汗の子で、十一歳で智略を知られ、可汗は拓設として磧北に牙を建てさせ、欲谷設と分けて鉄勒の諸部を統べさせた。在官十年、一度も賦斂をしなかった。諸設が富貴になれぬのを鄙しむと、社爾は「部落さえ豊かなら私には十分だ」と言い、諸設は恥じて服した。
  • 薛延陀が叛いて欲谷設を破ったとき、社爾の兵も敗れ、残る衆を率いて西の辺境に退いた。頡利可汗が亡んで西突厥も乱れ、咄陸可汗の兄弟が国を争った。社爾は偽って降ると称して赴き、兵を率いて西突厥を襲って破り、その地のほぼ半分を取って衆十余万を擁し、荅布可汗と自称した。
  • 社爾は諸部に「最初に乱をなして我が国を破ったのは薛延陀だ。私は先可汗のために仇を報い、撃ち滅ぼす」と言った。諸部はみな「西方を得たばかりで、しばらく留まって鎮撫すべきです。今すぐ捨てて遠く去れば、西突厥が必ず旧地を取りに来ます」と諫めたが、社爾は従わず、磧北で薛延陀を撃ち、百余日兵を連ねた。折しも咥利失可汗が立ち、社爾の衆は長い戦役に苦しんで多くが社爾を捨てて逃げ帰った。薛延陀が兵を放って撃ち、社爾は大敗して高昌に退いて保った。旧兵で残った者はわずか一万余家、また西突厥の圧迫を恐れ、ついに衆を率いて降った。勅でその部落を霊州の北に置き、社爾は長安に留めて皇妹の南陽長公主を娶らせ、苑内の屯兵を典らせた。

貞観十三年(639年)

  • 四月、上が九成宮に行幸した。
  • はじめ突厥の突利可汗の弟の結社率は突利に従って入朝し、中郎将を歴任したが、家では無頼で、突利に斥けられたのを怨んで謀反を誣告した。上はこれで軽んじ、久しく位を進めなかった。
  • 結社率はひそかに旧部落を結んで四十余人を得、晋王治が四鼓に宮を出るとき、門が開いて警衛が解かれるのに乗じて宮門に馳せ入り、まっすぐ御帳を指せば大功を得られると謀った。
  • 四月甲申、突利の子の賀邏鶻を擁して夜に宮外に伏せた。折しも大風で晋王が出なかったので、結社率は夜が明けるのを恐れ、ついに行宮を犯し、四重の幕を越えて弓矢を乱射し、衛士の死者は数十人。折衝の孫武開らが衆を率いて奮撃し、長く戦ってようやく退けた。結社率は御厩に駆け込んで馬二十余匹を盗み、北へ走って渭水を渡り部落へ逃げようとしたが、追捕されて斬られた。賀邏鶻は罪を許して嶺表に流した。
  • 結社率の反乱以来、進言する者の多くが突厥を黄河の南に留めるのは不都合だと言った。秋七月庚戌、詔して右武候大将軍・化州都督・懐化郡王の李思摩を乙弥泥孰俟利苾可汗とし、鼓と纛を賜り、諸州に安置していた突厥および胡をみな黄河を渡らせて旧部に帰らせ、代々藩屏として永く辺塞を保たせようとした。
  • 突厥はみな薛延陀を憚って塞を出ようとしなかった。上は司農卿の郭嗣本を遣わして薛延陀に璽書を賜り、薛延陀は詔を奉じた。そこで思摩に部下を率いさせ河北に牙を建てさせた。
  • 上は斉政殿に出御して送別した。思摩は涙を流して觴を捧げて寿を祝し「奴らは破れ亡んだ余りで灰と土になるところを、陛下がその骸骨を存し、また可汗を立ててくださいました。願わくは万世の子孫まで常に陛下にお仕えします」と言った。また礼部尚書の趙郡王孝恭らに冊書を持たせてその種族のもとへ赴かせ、黄河のほとりに壇を築いて立てさせた。
  • 上は侍臣に「中国は根幹であり、四夷は枝葉である。根幹を割いて枝葉に与えれば、木がどうして茂ろうか。朕は魏徴の言を用いず、危うく狼狽するところだった」と言った。
  • また左屯衛将軍の阿史那忠を左賢王、左武衛将軍の阿史那泥熟を右賢王とした。阿史那忠は蘇尼失の子で、上はきわめて厚遇し宗女を娶らせた。塞を出てからは中国を慕い、使者に会えば必ず涙を流して入侍を請い、詔で許した。

貞観十四年(640年)

  • 春三月丙辰、寧朔大使を置いて突厥を保護させた。

貞観十五年(641年)

  • 春正月乙亥、突厥の俟利苾可汗が初めて部落を率いて黄河を渡り、旧定襄城に牙を建てた。戸三万、兵四万、馬九万匹。あわせて「臣は分不相応に恩を蒙って部落の長となりました。願わくは子々孫々、国家のために一匹の犬として北門を吠え守りたい。もし薛延陀が侵迫すれば、家族を長城内に移すことをお許しください」と奏し、詔で許した。
  • 冬十月、并州大都督長史の李世勣は在州十六年、令は行われ禁は守られ、民も夷も心服した。上は「隋の煬帝は百姓を労して長城を築いて突厥に備えたが、ついに何の益もなかった。朕はただ李世勣を晋陽に置いただけで辺境に塵も立たぬ。長城としてこれに勝る壮なるものがあろうか」と言った。十一月庚申、李世勣を兵部尚書とした。
  • 薛延陀が兵二十万を合わせて突厥を撃ち、俟利苾可汗は防ぎきれず、部落を率いて長城に入って朔州を保ち、使者を送って急を告げた。上は兵を発して李思摩と挟撃させ、唐兵が放って撃ち、漠北まで追撃した。

貞観十八年(644年)

  • はじめ上は突厥の俟利苾を北に黄河を渡らせ、衆十万・兵四万を擁させたが、俟利苾は撫御できず、衆は服さなかった。十一月戊午、みな俟利苾を捨てて南に黄河を渡り、勝州と夏州の間に置かれることを請い、上は許した。
  • 群臣はみな「陛下はまさに遠く遼左を征そうとされているのに、突厥を河南、京師から遠からぬ所に置かれる。後の憂いとならぬはずがありません。どうか洛陽に留まり鎮められ、諸将を東征に遣わされますよう」と言った。
  • 上は答えた。夷狄も人である。その情は中夏と変わらぬ。人主は徳沢の及ばぬことを患うべきで、異類を猜疑する必要はない。徳沢が行き渡れば四夷を一家のようにできるが、猜疑が多ければ骨肉すら仇敵となる。煬帝は無道で人心を失って久しく、遼東の役では人がみな手足を断って征役を避け、楊玄感は輸送の卒をもって黎陽に反した。戎狄が患いだったのではない。朕が今、高麗を征するのはみな志願者を取っており、十人募れば百人、百人募れば千人集まり、従軍できぬ者はみな憤って鬱屈している。隋が怨む民を行かせたのと比べものになろうか。突厥は貧弱で、私が収めて養った。その感恩は骨髄に入っているはずで、どうして患いとなろう。しかも彼らは薛延陀と嗜好がほぼ同じである。それが北に薛延陀へ走らず南に我に帰したのだから、その情は明らかだ、と。そして褚遂良を顧みて「お前は起居を知る職だ。私のために記しておけ。今より十五年、突厥の患いがないことは保証する」と言った。
  • 俟利苾は衆を失って軽騎で入朝し、上は右武衛将軍とした。

貞観二十一年(647年)

  • 冬十一月、突厥の車鼻可汗が使者を入貢させた。
  • 車鼻は名を斛勃といい、もと突厥の同族で代々小可汗だった。頡利が敗れたとき、突厥の残衆は奉じて大可汗にしようとしたが、当時、薛延陀がまさに強く、車鼻はあえて受けず、その衆を率いて帰属した。ある者が薛延陀に「車鼻は貴種で勇略があり衆に慕われている。後患となるのを恐れる。殺すに如くはない」と説いた。車鼻は知って逃げ、薛延陀が数千騎で追ったが、車鼻は兵を整えて戦って大破し、そこで金山の北に牙を建てて乙注車鼻可汗と自称した。突厥の残衆が少しずつ帰し、数年の間に兵三万人を得、時に出て薛延陀を掠めた。
  • 薛延陀が敗れると車鼻の勢いはいっそう張り、子の沙鉢羅特勒を入見させ、また自ら入朝することを請うた。詔で将軍の郭広敬を遣わして召したが、車鼻はただ言葉を飾っただけで初めから来る気はなく、ついに来なかった。

貞観二十三年(649年)

  • 上は突厥の車鼻可汗が入朝しないので、右驍衛郎将の高侃に回紇・僕骨らの兵を発して襲撃させた。兵がその境に入ると諸部落が相次いで降り、抜悉密の吐屯の肥羅察が降り、その地に新黎州を置いた。
  • 冬十月、突厥の諸部に舎利など五州を置いて雲中都督府に隷させ、蘇農など六州を定襄都督府に隷させた。

高宗永徽元年(650年)

  • 夏六月、高侃が突厥を撃って阿息山に至った。車鼻可汗が諸部の兵を召したがみな駆けつけず、数百騎で逃げ去った。高侃は精騎を率いて金山まで追って捕らえて帰り、その衆はみな降った。
  • 秋九月庚子、高侃が車鼻可汗を捕らえて京師に至った。釈放して左武衛将軍を拝し、その残る衆を鬱督軍山に置き、狼山都督府を置いて統べさせ、高侃を衛将軍とした。
  • こうして突厥はことごとく領内の臣となり、単于・瀚海の二都護府を分置した。単于は狼山・雲中・桑乾の三都督と蘇農など十四州を領し、瀚海は瀚海・金徽・新梨など七都督と仙蕚など八州を領し、それぞれ酋長を都督・刺史とした。