通鑑紀事本末唐、鉄勒を平定する(唐平鉄勒)

磧北の鉄勒十五部のうち最強の薛延陀が、突厥の頡利に叛いて夷男(真珠可汗)のもとに大国となり、唐がこれを冊立しながらその強盛を警戒し、ついに滅ぼして鉄勒諸部を羈縻府州に編むまでを追う。貞観十五年(641年)の諾真水の戦いで李世勣が歩戦の陣を破り、婚姻の議は契苾何力の策で破棄される。真珠の死後、多弥可汗の暴虐に回紇らが叛き、貞観二十年(646年)に薛延陀は滅亡、太宗は霊州に赴いて諸部の帰服を受け、翌年、瀚海府以下十三府州と参天可汗道を置いた。後の龍朔年間の九姓の叛乱も契苾何力が鎮め、瀚海都護府は総章二年(669年)に安北都護府と改まる。

年表(17件)

唐太宗貞観元年(627年)

  • はじめ突厥が強大になると鉄勒の諸部は分散した。薛延陀・回紇・都播・骨利幹・多濫葛・同羅・僕固・抜野古・思結・渾・斛薛・結・阿跌・契苾・白霫など十五部があり、みな磧北に住み、風俗はおおむね突厥と同じで、薛延陀が諸部で最も強かった。
  • 西突厥の曷薩那可汗が強盛だったころ、鉄勒の諸部はみな臣従したが、曷薩那が際限なく徴税したので諸部はみな怨んだ。曷薩那がその頭目百余人を誅すると、鉄勒は連れ立って叛き、共に契苾の哥楞を推して易勿真莫賀可汗とし、貪于山の北に居らせ、また薛延陀の乙失鉢を也咥小可汗として燕末山の北に居らせた。
  • 射匱可汗の兵が再び振るうと、薛延陀と契苾の二部はともに可汗の号を去って臣従した。回紇など六部で鬱督軍山にいた者は東の始畢可汗に属した。統葉護可汗の勢いが衰えると、乙失鉢の孫の夷男が部落七万余家を率いて頡利可汗に付いた。
  • 頡利の政が乱れると薛延陀は回紇・抜野古らと連れ立って叛いた。頡利は兄の子の欲谷設に十万騎で討たせたが、回紇の酋長の菩薩が五千騎で馬鬛山で戦って大破し、欲谷設は逃げた。菩薩は天山まで追い、部衆の多くを捕らえた。回紇はこれで大いに振るい、薛延陀もその四設を破って、頡利は制せられなかった。

貞観二年(628年)

  • 突厥の北辺の諸姓の多くが頡利可汗に叛いて薛延陀に帰し、共にその俟斤の夷男を推して可汗としたが、夷男はあえて受けなかった。
  • 上はまさに頡利を図ろうとしており、游撃将軍の喬師望に間道から冊書を持たせて夷男を真珠毗伽可汗に拝し、鼓と纛を賜った。夷男は大いに喜んで使者を入貢させ、大漠の鬱督軍山に牙を建てた。東は靺鞨、西は西突厥、南は沙磧に接し、北は俱倫水に至り、回紇・抜野古・阿跌・同羅・僕骨・霫の諸部落がみな属した。

貞観三年(629年)

  • 秋八月丙子、薛延陀が弟の特勒を入貢させた。

貞観十二年(638年)

  • はじめ突厥の頡利が亡んで北方が空になると、薛延陀の真珠可汗は部落を率いて都尉揵山の北、独邏水の南に庭を建て、兵二十万。二子の抜酌と頡利苾を立てて南北の部を主宰させた。
  • 上はその強盛を後に制しがたいと恐れ、秋九月癸亥、二子をともに小可汗に拝して各々鼓と纛を賜った。表向きは優遇だが、実はその勢いを分けるためである。

貞観十三年(639年)

  • 秋七月、詔で李思摩を乙弥泥孰俟利苾可汗として鼓と纛を賜り、諸州に安置した突厥および胡をみな黄河を渡らせて旧部に帰らせようとした。突厥は薛延陀を憚って塞を出ようとしなかった。
  • 上は大農卿の郭嗣本を遣わして薛延陀に璽書を賜った。頡利が敗れてその部落はみな帰化した。私はその旧過を許してその後の善を嘉し、その重臣を我が百官と同様に、部落を我が百姓と同様に待遇した。中国は礼義を貴び人の国を滅ぼさぬ。先に突厥を破ったのは頡利一人が百姓の害だったからで、実にその土地を貪り人畜を利としたのではなく、常に改めて可汗を立てようとしていた。ゆえに降った部落を河南に置いて牧畜させた。今、戸口が増えて私の心も大いに喜ばしい。すでに立てると許した以上、信を失えぬ。秋の半ばに突厥を黄河の北へ渡らせて故国を回復させる。汝、薛延陀の受冊が先、突厥の受冊が後である。後の者が小、先の者が大である。汝は磧北に、突厥は磧南にあり、各々土地を守り部落を鎮撫せよ。分を越えてわざと掠奪し合えば、私は兵を出してそれぞれの罪を問う、と。薛延陀は詔を奉じ、そこで思摩に部下を率いて河北に牙を建てさせた。

貞観十五年(641年)――諾真水の戦い

  • 薛延陀の真珠可汗は上が東に封禅しようとしていると聞き、配下に「天子が泰山に封じれば士馬はみな従い、辺境は必ず空になる。この時に思摩を取れば朽木を折るようなものだ」と言った。
  • そこで子の大度設に同羅・僕骨・回紇・靺鞨・霫らの兵合わせて三十万を出させ、砂漠を渡って南に白道川に駐屯し、善陽嶺に拠って突厥を撃たせた。俟利苾可汗は防ぎきれず、部落を率いて長城に入って朔州を保ち、使者を送って急を告げた。
  • 十一月癸酉、上は営州都督の張倹に部下の精兵および奚・霫・契丹を率いてその東境を圧させ、兵部尚書の李世勣を朔州道行軍総管として兵六万・騎千二百で朔方に、右衛大将軍の李大亮を霊州道行軍総管として兵四万・騎五千で霊武に駐屯させ、右屯衛大将軍の張士貴に兵一万七千を率いさせ慶州道行軍総管として雲中に出させ、涼州都督の李襲誉を涼州道行軍総管としてその西に出した。
  • 諸将が出発を告げると、上は戒めた。薛延陀は強盛を恃んで砂漠を越えて南下し、数千里を行って馬はすでに疲れ痩せている。およそ用兵の道は、利を見れば速やかに進み、不利なら速やかに退くことだ。薛延陀は思摩の不備に乗じられず、急いで撃ったが、思摩が長城に入ってからも速やかに退かなかった。私はすでに思摩に秋草を焼き払わせている。彼らの糧は日々尽き、野には得るものがない。近ごろ偵察が来て言うには、その馬は林の木の枝と皮をほとんど食い尽くしたという。卿らは思摩とともに挟撃し、速戦は要らぬ。彼らが退こうとするのを待って一斉に奮撃すれば、破るのは必至だ、と。
  • 十二月己亥、薛延陀が使者を送って入見し、突厥との和親を請うた。
  • 甲辰、李世勣が諾真水で薛延陀を破った。
  • はじめ薛延陀は西突厥の沙鉢羅および阿史那社爾を撃ったとき、いずれも歩戦で勝ちを取った。侵入しようとするにあたって大いに歩戦を教え、五人を一伍とし、一人が馬を執り四人が前で戦い、勝てば馬を与えて追撃させることとした。
  • そこで大度設が三万騎で長城に迫って突厥を撃とうとしたが、思摩がすでに逃げていたので、成らぬと知って人を城に登らせて罵らせた。
  • 折しも李世勣が唐兵を率いて至り、砂塵が空に上った。大度設は恐れてその衆を率いて赤柯濼から北へ走った。李世勣は麾下および突厥の精騎六千を選んで直道から迎え撃ち、白道川を越えて青山で追いついた。大度設は数日走って諾真水に至り、兵を整えて引き返して戦い、陣は十里に亘った。
  • 突厥が先に戦って勝てず引き返して逃げ、大度設が勝ちに乗じて追ったところで唐兵に遭遇した。薛延陀が一万の矢を一斉に放って唐の馬が多く死んだ。李世勣は士卒にみな馬を下りて長い矟を持たせ、まっすぐ前へ突撃させ、薛延陀の衆は潰えた。副総管の薛万徹が数千騎でその馬を執る者を収めると、薛延陀は馬を失ってなす術を知らなかった。唐兵が放って撃ち、二千余級を斬り、五万余人を捕虜とした。大度設は身一つで逃げ、薛万徹が追ったが及ばなかった。その衆は漠北に至って大雪に遭い、凍死した人畜は十中八、九に及んだ。
  • 李世勣が軍を定襄に返した。突厥の思結部で五台にいた者が叛いて逃げ、州の兵が追い、折しも李世勣の軍が帰るところで挟撃してことごとく誅した。
  • 丙子、薛延陀の使者が辞去するとき、上は「私はお前たちと突厥に大漠を境と約した。侵す者があれば私が討つ。お前は強きを恃んで漠を越えて突厥を攻めた。李世勣の率いたのはわずか数千騎にすぎぬのに、お前はすでにこの狼狽ぶりだ。帰って可汗に伝えよ。すべての挙措の利害はよく適切に選べ、と」と言った。

貞観十六年(642年)――婚姻の議

  • 秋九月癸亥、薛延陀の真珠可汗が叔父の沙鉢羅泥孰俟斤を遣わして婚を請い、馬三千・貂皮三万八千・瑪瑙の鏡一つを献じた。
  • 冬十月、上が侍臣に「薛延陀は漠北で強情に構えている。今これを御するには二策しかない。兵を出して滅ぼすか、婚姻を結んで撫でるかだ。どちらに従うべきか」と問うた。房玄齢が「中国は定まったばかりで、兵は凶器、戦は危うきもの。臣は和親が便宜と考えます」と答え、上は「そうだ。朕は民の父母である。民の利になるなら、どうして娘一人を惜しもうか」と言った。
  • これに先立ち、左領軍将軍の契苾何力の母の姑臧夫人と弟の賀蘭州都督の沙門はともに涼州にいた。上は何力を帰省させ、あわせてその部落を撫でさせた。当時、薛延陀はまさに強く、契苾の部落はみな帰属したがった。何力は大いに驚いて「主上の厚恩がこれほどなのに、どうしてたちまち叛逆をなすのか」と言った。その徒は「夫人も都督も先に彼のもとへ行かれた。どうして行かぬのか」と言い、何力は「沙門は親に孝、私は君に忠である。決してお前たちには従わぬ」と言った。
  • その徒は何力を捕らえて薛延陀に連れて行き、真珠の牙帳の前に置いた。何力は足を投げ出して座り、佩刀を抜いて東に向かって大声で「唐の烈士が虜庭で屈辱を受けてよいものか。天地日月よ、我が心を知れ」と叫び、左の耳を切って誓った。真珠は殺そうとしたが、その妻が諫めて止めた。
  • 上は契苾が叛いたと聞いて「必ず何力の意ではない」と言った。左右が「戎狄は気類が相親しむもの。何力が薛延陀に入るのは魚が水に向かうようなものです」と言うと、上は「そうではない。何力の心は鉄石のごとし。決して私に叛かぬ」と言った。折しも薛延陀から使者が来てその事情を詳しく述べた。上は涙を流して左右に「何力は果たしてどうだ」と言い、ただちに兵部侍郎の崔敦礼に節を持たせて薛延陀に赴かせ、新興公主を嫁がせることとして何力を求めた。何力はこうして帰り、右驍衛大将軍を拝した。

貞観十七年(643年)――婚約の破棄

  • 閏六月、薛延陀の真珠可汗が甥の突利設を遣わして納幣し、馬五万匹・牛と駱駝一万頭・羊十万口を献じた。庚申、突利設が饌を献じ、上は相思殿に出御して群臣を大いに饗し、十部の楽を設けた。突利設は再拝して寿を祝し、賜与はきわめて厚かった。
  • 契苾何力が「薛延陀と婚を結ぶべきではありません」と上言した。上は「私はすでに許した。天子でありながら食言できようか」と言った。何力は「臣は陛下にただちに絶交せよと申しているのではありません。しばらくその事を引き延ばしていただきたい。臣は古に親迎の礼があると聞きます。夷男に親迎せよと勅されれば、京師までは来ずとも霊州までは来るはず。彼は必ず来られません。そうすれば絶つ名分が立ちます。夷男は剛戻な性質で、婚が成らなければ配下もまた離心し、一、二年のうちに必ず病死し、二子が立つのを争うので、坐して制せられましょう」と答え、上は従った。
  • そこで真珠可汗に親迎を求め、あわせて詔を発して霊州に行幸して会うこととした。真珠は大いに喜んで霊州へ行こうとした。臣が「もし留められたら悔いても及びません」と諫めたが、真珠は「私は唐の天子に聖徳があると聞く。自ら行って会えれば死んでも恨みはない。しかも漠北には必ず主があるべきだ。私の行くのは決まった。もう多言するな」と言った。
  • 上は使者を三道に分けて派遣し、献じられた家畜を受け取らせた。薛延陀にはもともと倉庫も厩もなく、真珠は諸部から取り立てて往復一万里、道は砂漠を渡って水も草もなく、半ば近くが痩せ死んで、期日に間に合わなかった。
  • 議する者の中に、聘財が整わぬのに婚を結べば戎狄に中国を軽んじさせると言う者があり、上はついに詔を下して婚を絶ち、霊州行幸を停め、三人の使者を呼び戻した。
  • 褚遂良が上疏して論じた。薛延陀はもと一俟斤にすぎませんでした。陛下が沙漠を掃き平らげて万里が寂寞となり、残る寇が逃げ惑う中で酋長を必要とされ、璽書と鼓・纛を賜って可汗に立てられました。近ごろまた大恩を降して婚姻を許され、西は吐蕃に告げ北は思摩に諭され、中国の子どもまで知らぬ者がありません。北門に行幸してその献じた食を受け、群臣と四夷が終日宴楽し、みな「陛下は百姓を安んじようとして娘一人を惜しまれない」と言いました。生ある者で徳を懐かぬ者がありましょうか。今、一朝にして進退の意を生じ改悔の心を抱かれる。臣は国家のためにこの評判を惜しみます。顧みる利は甚だ少なく、失うものは甚だ多い。嫌隙が生じれば必ず辺境の患いとなり、彼の国は欺かれた怒りを蓄え、こちらの民は約を破った恥を抱く。遠人を服させ戎士を訓える道ではありますまい。陛下が天下に君臨されて十七年、仁恩で万類を結び信義で戎夷を撫でられ、みな喜んで背く力もありません。どうして始めがあって終わりがないようにされるのですか。竜沙以北の部落は数え切れず、中国が誅してもついに尽くせません。徳をもって懐けるべきで、悪をなす者は夷にあって華になく、信を失う者は彼にあってこちらにないとすれば、堯・舜・禹・湯も陛下に遠く及びますまい、と。上は聞かなかった。
  • このとき群臣の多くは、国家がすでに婚を許して聘幣を受けた以上、信を失って戎狄に改めて辺患を生じさせてはならぬと言った。
  • 上は答えた。卿らはみな古を知って今を知らぬ。昔、漢の初めは匈奴が強く中国が弱かった。ゆえに子女を飾り金や綿を捨てて餌とした。それは時宜に適っていた。今、中国は強く戎狄は弱い。我が歩兵千人で胡騎数万を撃てる。薛延陀が匍匐して頭を地につけ、ただ我が望むままに従って驕慢を働かぬのは、君長となったばかりで、雑姓は自分の種族でないため、中国の勢いを借りて威服させようとしているだけだ。かの同羅・僕骨・回紇ら十余部は兵が各々数万、力を合わせて攻めればたちまち破り滅ぼせる。それでも敢えて発せぬのは、中国が立てた者を畏れるからだ。今、娘を嫁がせれば、彼は大国の婿を自負し、雑姓の誰が服さずにおれよう。戎狄は人面獣心、一朝わずかでも意に満たなければ必ず食い破って害をなす。今、私が婚を絶ってその礼を退ければ、雑姓は私が彼を棄てたと知り、日を経ずして瓜のように切り裂くだろう。卿らはまあ覚えておけ、と。

史論(臣光曰)

  • 孔子は「食を去り兵を去っても信を去るべからず」と言った。唐の太宗が薛延陀に娘を嫁がせられぬと見極めたのなら、初めから婚を許さねばよかった。許しておきながら、また強きを恃み信を棄てて絶ったのは、薛延陀を滅ぼしたとはいえ、なお恥ずべきことである。王者の発言と号令は、慎まずにおれようか。

貞観十八年(644年)

  • はじめ上が突厥の俟利苾可汗を北に黄河を渡らせたとき、薛延陀の真珠可汗はその部落が動揺することを恐れて大いに嫌い、あらかじめ漠北に軽騎を蓄えて撃とうとした。上が使者を送って攻めてはならぬと戒めると、真珠可汗は答えた。至尊のご命令とあれば従わぬわけにまいりません。しかし突厥は反覆して予測しがたい。破られる前は毎年中国を犯し、殺した人は千万を数えました。臣は至尊が勝たれたのだから、切り分けて奴婢として中国の人に賜るべきと思っておりましたが、かえって子のように養われた。その恩徳は至れり尽くせりです。それなのに結社率はついに反しました。この輩は獣心です。どうして人の道理で待遇できましょう。臣は厚恩を蒙っております。至尊のためにこれを誅させてください、と。これより双方はしばしば攻め合った。

貞観十九年(645年)

  • 上が高麗を伐とうとしたとき、薛延陀が使者を入貢させた。上は「お前の可汗に伝えよ。今、我ら父子は東に高麗を征する。お前が寇をなせるなら、早く来るがよい」と言った。真珠可汗は恐れ、使者を送って謝し、あわせて兵を出して軍を助けたいと請うたが、上は許さなかった。
  • 高麗が駐蹕山で敗れると、莫離支が靺鞨を遣わして真珠を説き、厚利で誘った。真珠は懾れ服して動けなかった。
  • 九月壬申、真珠が没し、上はそのために発哀した。
  • はじめ真珠は庶長子の曳莽を突利失可汗として東方に居らせて雑種を統べさせ、嫡子の抜灼を肆葉護可汗として西方に居らせて薛延陀を統べさせることを請い、詔で許され、いずれも礼をもって冊命された。曳莽は性が躁がしく軽々しく兵を用い、抜灼と折り合わなかった。真珠が没して喪に来会したが、葬儀の後、曳莽は抜灼に図られるのを恐れて先に部下のもとへ帰った。抜灼は追撃して殺し、自ら立って頡利俱利薛沙多弥可汗となった。
  • 上が高麗を征したとき、右領軍大将軍の執失思力に突厥を率いて夏州の北に駐屯させて薛延陀に備えた。薛延陀の多弥可汗は立つと、上が出征してまだ帰らぬことから、兵を率いて河南を侵した。上は左武候中郎将の長安の田仁会と執失思力に兵を合わせて撃たせた。執失思力は痩せた姿を見せて偽って退いて深入りさせ、夏州の境に至って陣を整えて待ち受け、薛延陀は大敗した。六百余里追撃し、磧北に威を輝かせて帰った。
  • 多弥がまた兵を出して夏州を侵した。十二月己未、勅で礼部尚書の江夏王道宗に朔・并・汾・箕・嵐・代・忻・蔚・雲の九州の兵を発して朔州を鎮めさせ、右衛大将軍・代州都督の薛万徹と左驍衛大将軍の阿史那社爾に勝・夏・銀・綏・丹・延・鄜・坊・石・隰の十州の兵を発して勝州を鎮めさせ、勝州都督の宋君明と左武候将軍の薛孤呉に霊・原・寧・塩・慶の五州の兵を発して霊州を鎮めさせ、また執失思力に霊・勝二州の突厥の兵を発して道宗らと呼応させた。薛延陀は塞下に至って備えがあると知り、進めなかった。

貞観二十年(646年)――薛延陀の滅亡

  • 春正月辛未、夏州都督の喬師望と右領軍大将軍の執失思力らが薛延陀を撃って大破し、二千余人を捕獲した。多弥可汗は軽騎で逃げ、部曲は騒然となった。
  • 薛延陀の多弥可汗は狭量で気短く、猜疑深くて恩がなく、父の代の貴臣を廃棄して専ら自分の親しい者だけを用いたので、国人は付かなかった。多弥は誅殺が多く、人々は落ち着かなかった。回紇の酋長の吐迷度が僕骨・同羅とともに撃ち、多弥は大敗した。
  • 夏六月乙亥、詔して江夏王道宗と左衛大将軍の阿史那社爾を瀚海安撫大使とし、また右領衛大将軍の執失思力に突厥の兵を、右驍衛大将軍の契苾何力に涼州および胡の兵を率いさせ、代州都督の薛万徹と営州都督の張倹にそれぞれ部下の兵を率いさせ、道を分けて並び進んで薛延陀を撃たせた。
  • 上が校尉の宇文法を烏羅護の靺鞨に遣わしたところ、東境で薛延陀の阿波設の兵に遭遇した。宇文法は靺鞨を率いて撃破した。薛延陀の国中は驚き騒いで「唐兵が来た」と言い、諸部は大いに乱れた。多弥は数千騎で阿史徳時健の部落へ逃げたが、回紇が攻めて殺し、その宗族もほぼ滅ぼしてその地に拠った。諸俟斤は互いに攻撃し合い、競って使者を送って帰服を願い出た。
  • 薛延陀の残衆は西へ走ったがなお七万余口あり、共に真珠可汗の兄の子の咄摩支を立てて伊特勿失可汗とし、故地に帰った。まもなく可汗の号を去り、使者を送って上表して鬱督軍山の北に住むことを請うた。兵部尚書の崔敦礼を遣わして安集させた。
  • 鉄勒九姓の酋長は、その部落が日ごろ薛延陀の種族に服していたので、咄摩支が来ると聞いてみな恐れた。朝議は磧北の患いとなることを恐れ、改めて李世勣と九姓の鉄勒に共に図らせた。上は李世勣に「降れば撫で、叛けば討て」と戒めた。
  • 己丑、上は手ずから詔を書いた。薛延陀が破滅し、鉄勒の諸部には降附して来る者もあれば、まだ帰服せぬ者もある。今、機に乗ぜねば後悔を残すだろう。朕は自ら霊州に赴いて招撫する。昨年の遼東征討の兵はみな徴発せぬ、と。
  • 李世勣が鬱督軍山に至ると、その酋長の梯真達官が衆を率いて降った。薛延陀の咄摩支は南の荒れ谷へ逃げた。李世勣が通事舎人の蕭嗣業を送って招慰し、咄摩支は蕭嗣業のもとへ来て降ったが、その部落はなお両様に構えていた。李世勣は兵を放って追撃し、前後で五千余級を斬り、男女三万余人を捕らえた。
  • 秋七月、咄摩支が京師に至り、右武衛大将軍を拝した。
  • 八月己巳、上が霊州に行幸した。
  • 江夏王道宗の兵が砂漠を渡り、薛延陀の阿波達官の数万の衆と遭遇して交戦し、道宗が撃破して千余級を斬り、二百里追撃した。道宗と薛万徹はそれぞれ使者を送って鉄勒の諸部を招諭し、その酋長はみな喜んで頓首して入朝を請うた。
  • 庚午、車駕が浮陽に至った。回紇・抜野古・同羅・僕骨・多濫葛・思結・阿跌・契苾・跌結・渾・斛薛など十一姓がそれぞれ使者を入貢させ、「薛延陀は大国に仕えず暴虐無道で、奴らの主となる資格がなく、自ら敗死を招きました。部落は鳥のように散って行方も知れません。奴らはそれぞれ分地を持ち、薛延陀に従いませんでした。天子に帰命いたします。どうかお憐れみを賜り、役所を置いて奴らを養育してください」と述べた。
  • 上は大いに喜び、辛未、詔して回紇らの使者に宴楽を賜り、頒賜して官を拝し、その酋長に璽書を賜り、右領軍中郎将の安永寿を答礼の使者として遣わした。
  • 壬申、上が漢の旧甘泉宮に行幸し、詔した。戎狄は天地とともに生じ、上皇の代から並び立ち、殃いを流し禍を構えてきた。開闢以来のことである。朕はいささか偏師を命じてついに頡利を擒にし、初めて廟略を弘めてすでに延陀を滅ぼした。鉄勒の百余万戸が北溟に散り住みながら、遥かに使者を遣わして身を委ねて内属し、編戸に列することを請い、州郡と同じにと願っている。天地開闢以来、まだ聞いたことがない。礼を備えて廟に告げ、あわせて天下に頒示せよ、と。
  • 九月、上が霊州に至った。鉄勒の諸俟斤が使者を送って相次いで霊州に来る者は数千人、みな「天至尊が奴らの可汗となってくださることを願います。子々孫々、常に天至尊の奴となり、死んでも恨みはありません」と言った。
  • 甲辰、上はその事を詩に序して「恥を雪ぎて百王に酬い、凶を除きて千古に報ゆ」と詠んだ。公卿が霊州に石に刻むことを請い、従った。
  • 冬十二月戊寅、回紇の俟利発の吐迷度、僕骨の俟利発の歌濫抜延、多濫葛の俟斤の末、抜野古の俟利発の屈利失、同羅の俟利発の時健啜、思結の酋長の烏碎、および渾・斛薛・奚結・阿跌・契苾・白霫の酋長がみな来朝した。庚辰、上は芳蘭殿で宴を賜り、有司に厚くもてなすよう命じ、五日に一度会合を開いた。

貞観二十一年(647年)――羈縻府州の設置

  • 春正月丙申、詔して回紇部を瀚海府、僕骨を金微府、多濫葛を燕然府、抜野古を幽陵府、同羅を亀林府、思結を盧山府、渾を皋蘭州、斛薛を高闕州、奚結を鶏鹿州、阿跌を鶏田州、契苾を楡溪州、思結の別部を蹛林州、白霫を寘顔州とし、それぞれの酋長を都督・刺史とし、各々に金銀・繒帛および錦の袍を賜った。鉄勒は大いに喜び、捧げ戴いて歓呼し、拝舞して塵の中を転げ回った。
  • 帰るとき上は天成殿に出御して宴し、十部の楽を設けて送った。諸酋長は「臣らはすでに唐の民です。天至尊のもとへ往来するのは父母を訪ねるようなもの。回紇の南、突厥の北に一道を開いて『参天可汗道』と称し、六十八の駅を置き、各々に馬と酒肉を備えて通行の使者に供したい。毎年、貂皮を貢いで租賦に充てます。あわせて文の書ける人を派遣して表疏を作らせてください」と奏し、上はみな許した。
  • こうして北の荒はすべて平定された。しかし回紇の吐迷度はすでにひそかに可汗と自称し、官の称号はみな突厥の故事のとおりだった。
  • 夏四月丙寅、燕然都護府を置いて瀚海など六都督と皋蘭など七州を統べさせ、揚州都督府司馬の李素立をこれに任じた。李素立が恩と信で撫でると夷の集落は懐き、そろって馬牛を献じたが、李素立は酒一杯を受けただけで残りはすべて返した。
  • 六月丁丑、詔した。隋末の喪乱で辺境の民が戎狄に掠められた。今、鉄勒が帰化した以上、使者を燕然などの州に遣わして都督と連絡し、没落した人を探し求め、財貨で贖い、糧を給して次々に本籍に帰らせよ。室韋・烏羅護・靺鞨の三部の人で薛延陀に掠められた者も贖って帰らせよ、と。

貞観二十二年(648年)

  • 秋八月辛未、左領軍大将軍の執失思力を金山道から出して薛延陀の残る寇を撃たせた。
  • 回紇の吐迷度の兄の子の烏紇がその叔母と通じた。烏紇と俱陸莫賀達官の俱羅勃はいずれも突厥の車鼻可汗の婿で、共に吐迷度を殺して車鼻に帰することを謀った。烏紇が夜に十余騎を率いて吐迷度を襲って殺した。
  • 燕然副都護の元礼臣が人を遣って烏紇を誘い、瀚海都督に奏することを約した。烏紇が軽騎で元礼臣のもとへ礼を言いに来ると、元礼臣は捕らえて斬り、報告した。上は回紇の部落が離散するのを恐れ、兵部尚書の崔敦礼を遣わして安撫させた。久しくして俱羅勃が入見し、上は留めて帰さなかった。
  • 冬十月甲戌、回紇の吐迷度の子で前左屯衛大将軍の婆閏を左驍衛大将軍・大俟利発・瀚海都督とした。

高宗龍朔元年(661年)

  • 冬十月、回紇の酋長の婆閏が没し、甥の比粟毒が代わってその衆を率い、同羅・僕固とともに辺境を犯した。詔して左武衛大将軍の鄭仁泰を鉄勒道行軍大総管、燕然都護の劉審礼と左武衛将軍の薛仁貴を副とし、鴻臚卿の蕭嗣業を仙蕚道行軍総管、右屯衛将軍の孫仁師を副として兵を率いて討たせた。劉審礼は劉徳威の子である。

龍朔二年(662年)

  • 春三月、鄭仁泰らが天山で鉄勒を破った。
  • 鉄勒九姓は唐兵の到来を聞いて十余万を合わせて防いだ。驍健な者数十人を選んで挑戦させたが、薛仁貴が三矢を放って三人を殺すと、残りはみな馬を下りて降を請うた。薛仁貴はことごとく穴埋めにし、磧北を渡ってその残る衆を撃ち、葉護の兄弟三人を捕らえて帰った。軍中はこれを歌って「将軍の三箭 天山を定め、戦士の長歌 漢関に入る」と言った。
  • 思結・多濫葛などの部落は先に天山を保っていたが、鄭仁泰らの到来を聞いてみな迎えて降った。鄭仁泰らは兵を放って撃ち、その家族を掠めて軍士に賞したので、虜は連れ立って遠く逃げた。将軍の楊志が追ったが虜に敗れた。
  • 斥候が鄭仁泰に「虜の輜重が近くにある。行けば取れる」と告げた。鄭仁泰は軽騎一万四千を率いて道を倍して赴き、大磧を越えて仙蕚河に至ったが虜は見当たらず、糧が尽きて帰った。大雪に遭って士卒は飢え凍え、甲と武器を捨て、馬を殺して食べ、馬が尽きると人が人を食い合い、塞に入るころ残った兵はわずか八百人だった。
  • 軍が帰ると司憲大夫の楊徳裔が弾劾して奏した。鄭仁泰らは降った者を誅殺して虜を逃げ散らせ、士卒を撫でず、糧を計らず、骸骨が野を覆い、甲を捨てて寇を資けた。聖朝の創業以来、今日ほどの喪敗はない。薛仁貴は監臨の地で貪淫を恣にした。得たものを誇っても失ったものを補えない。あわせて法司に付して罪を科されたい、と。詔で功をもって罪を贖い、みな釈放した。
  • 右驍衛大将軍の契苾何力を鉄勒道安撫使、左衛将軍の姜恪を副としてその残る衆を安んじさせた。何力は精騎五百を選んで九姓の中に馳せ入り、虜は大いに驚いた。何力は「国家はお前たちがみな脅されて従ったと知っている。お前たちの罪は赦す。罪は酋長にある。それを得れば済む」と告げた。その部落は大いに喜び、共にその葉護および誤特勒ら二百余人を捕らえて何力に渡した。何力はその罪を数えて斬り、九姓はついに定まった。

龍朔三年(663年)

  • 春正月、左武衛将軍の鄭仁泰が鉄勒の叛いた者を討ち、残る種族もことごとく平らげた。
  • 二月、燕然都護府を回紇に移して瀚海都護と改名し、旧瀚海都護を雲中の古城に移して雲中都護と改名し、砂漠を境として、磧北の州府はみな瀚海に、磧南は雲中に隷させた。

総章二年(669年)

  • 秋八月甲戌、瀚海都護府を安北都護府と改めた。