通鑑紀事本末唐、西突厥を平定する(唐平西突厥)

隋の処羅可汗の代から、唐が西突厥とその後継の突騎施を制するまでの約百五十年を追う。裴矩の離間策で射匱が処羅を破り、統葉護の代に西域を統べたが、その死後は内訌が続き、貞観十二年(638年)に南北の二庭へ分裂する。唐に降った阿史那賀魯が沙鉢羅可汗として叛くと、顕慶二年(657年)に蘇定方が雪を冒して牙帳を襲って捕らえ、崑陵・濛池の二都護府を置いた。その後、十姓は主を失って突騎施の烏質勒・蘇禄が代わって西方に拠り、蘇禄の死後は莫賀達干らの争いを唐が制し、天宝年間まで突騎施可汗を冊立し続ける。

年表(30件)

隋煬帝大業元年(605年)

  • はじめ西突厥の阿波可汗が葉護可汗に捕らえられ、国人は鞅素特勒の子を立てた。これが泥利可汗である。泥利が没して子の達漫が立ち、処羅可汗と号した。その母の向氏はもと中国人で、泥利の弟の婆実特勒に再嫁した。開皇の末、婆実と向氏が入朝し、達頭の乱に遭ってそのまま長安に留まり、鴻臚寺に住んだ。
  • 処羅は烏孫の故地に多くおり、統御が道を失って国人の多くが叛き、また鉄勒に苦しめられた。鉄勒は匈奴の遺種で族類が最も多く、僕骨・同羅・契苾・薛延陀などの部があり、その酋長はみな俟斤と号した。族姓は異なっても総じて鉄勒と呼ばれ、おおむね突厥と俗を同じくし、掠奪を生業とし、大君長はなく、東西の両突厥に分属していた。
  • この年、処羅が兵を率いて鉄勒の諸部を撃ち、その物に重く税をかけた。また薛延陀を猜忌して変を起こすことを恐れ、その酋長数百人を集めてことごとく殺した。そこで鉄勒はみな叛き、俟利発俟斤の契苾歌楞を立てて莫何可汗とし、また薛延陀の俟斤の字也咥を小可汗として、処羅と戦ってしばしば破った。莫何は勇毅絶倫で人心をよく得、隣国に憚られ、伊吾・高昌・焉耆がみな付いた。

大業三年(607年)

  • 冬十月、鉄勒が辺境を侵し、帝は将軍の馮孝慈を敦煌から出して撃たせたが不利だった。鉄勒はまもなく使者を送って謝罪し降を請い、帝は裴矩に慰撫させた。

大業四年(608年)

  • 春正月、裴矩は西突厥の処羅可汗が母を思っていると聞き、使者を送って招き懐けることを請うた。
  • 二月己卯、帝は司朝謁者の崔君粛に詔書を持たせて慰諭させた。処羅は崔君粛に会うのにきわめて傲慢で、詔を受けても立とうとしなかった。
  • 崔君粛は言った。突厥はもと一国で、中ほどで二つに分かれた。毎年交戦して数十年、互いに滅ぼし得なかったのは、その勢いが均しいことが明らかだからだ。しかるに啓民が部落百万の衆を挙げ、身を低くし節を折って天子に臣として入ったのはなぜか。まさに可汗を深く恨みながら独りでは制せられず、大国に兵を借りて共に可汗を滅ぼそうとしたからだ。群臣はみな啓民の請いに従おうとし、天子はすでに許して出師の日も決まっていた。ところが可汗の母の向夫人が西国の滅亡を恐れ、朝夕に闕を守って哭泣し、哀しく祈って匍匐して謝罪し、使者を送って可汗を召して内属させたいと請うた。天子は憐れんで、ゆえに改めて使者をここに遣わされたのだ。今、可汗がこう傲慢に構えるなら、向夫人が天子を欺いたことになり、必ず都の市で屍をさらし、首を虜庭に送られよう。大隋の兵を発し東国の衆を資けて左右から挟撃すれば、可汗の滅亡は日を経ずして来る。どうして二度の拝礼を惜しんで慈母の命を絶ち、一言臣と称するのを惜しんで社稷を廃墟とするのか、と。
  • 処羅は驚いて立ち上がり、涙を流して再拝し、跪いて詔書を受け、使者を崔君粛に随行させて汗血馬を貢いだ。

大業七年(611年)

  • はじめ帝が西巡したとき、侍御史の韋節を遣わして西突厥の処羅可汗を召し、車駕と大斗抜谷で会わせようとしたが、国人が従わず、処羅は使者に謝して他の事情を口実にした。帝は激怒したがどうしようもなかった。
  • 折しもその酋長の射匱が使者を送って婚を求めてきた。裴矩は奏して「処羅が朝せぬのは強大を恃むだけです。臣に計をもって弱めさせてください。その国を分裂させればたやすく制せられます。射匱は都六の子、達頭の孫で、代々可汗として西面に君臨してきました。今、職を失って処羅に付属していると聞きます。ゆえに使者を送って援けを結ぼうとしているのです。その使者を厚く礼遇し、大可汗に拝されれば、突厥の勢いは分かれ、両方が我に従いましょう」と言った。帝は「公の言はもっともだ」と言った。
  • そこで裴矩を朝夕に館に行かせてそれとなく諭させた。帝は仁風殿でその使者を召し、処羅の不順の状を述べ、射匱は善に向かっているので大可汗に立て、兵を出して処羅を誅させ、その後で婚を結ぶと言った。帝は桃竹白羽の箭一本を取って射匱に賜り、「この事は速やかにすべきである。この箭のように疾くせよ」と言った。
  • 使者は帰路、処羅のもとを通った。処羅が箭を気に入って留めようとしたが、使者は策を弄して免れた。射匱は聞いて大いに喜び、兵を興して処羅を襲った。処羅は大敗し、妻子を捨てて側近数千騎を率いて東へ走り、道すがら掠奪されて高昌に寄寓し、東の時羅漫山を保った。
  • 高昌王の麴伯雅が状を上り、帝は裴矩と向氏の親しい側近を玉門関の晋昌城に馳せさせ、処羅を諭して入朝させた。
  • 十二月己未、処羅が臨朔宮に来朝した。帝は大いに喜んで格別の礼で迎えた。帝が処羅と宴すると、処羅は頭を地につけて拝謁の遅れを謝した。帝は温かい言葉で慰労し、天下の珍膳を備え、女楽を盛大に並べ、絹と管弦が耳目を眩ませた。しかし処羅にはついに不満の色があった。

大業八年(612年)

  • 春正月、帝は西突厥の処羅可汗の衆を三つに分けた。弟の闕達度設に弱者一万余口を率いさせて会寧に居らせ、特勒の大奈に別に残る衆を率いさせて樓煩に居らせ、処羅には五百騎を率いさせて常に車駕の巡幸に従わせ、曷娑那可汗の号を賜って賞賜はきわめて厚かった。

唐高祖武徳元年(618年)

  • 冬十二月癸酉、西突厥の曷娑那可汗が宇文化及のもとから来降し、西突厥曷娑那可汗を帰義王とした。曷娑那が大きな真珠を献じると、上は「真珠はまことに至宝だが、朕が宝とするのは王の赤心である。真珠は用がない」と言い、ついに返した。

武徳二年(619年)

  • 秋七月乙酉、西突厥の統葉護可汗が使者を入貢させた。
  • はじめ西突厥の曷娑那可汗が隋に入朝し、隋人が留めたので、国人はその叔父を立てて射匱可汗と号した。射匱は達頭可汗の孫である。立つと領土を拓いて東は金山、西は海に至り、そこで北突厥と敵対し、亀茲の北の三弥山に庭を建てた。
  • 射匱が没して弟の統葉護可汗が立った。統葉護は勇にして謀があり、北に鉄勒を併せて弓を引く者数十万、烏孫の故地に拠り、また庭を石国の北の千泉に移した。西域の諸国はみな臣従し、葉護はそれぞれ吐屯を遣わして監督させ、その徴税を督した。
  • 九月、西突厥の曷娑那可汗は北突厥と怨みがあり、曷娑那が長安にいたので、北突厥が使者を送って殺すよう請うたが、上は許さなかった。群臣はみな「一人を保って一国を失えば、後に必ず患いとなります」と言ったが、秦王世民は「人が窮して帰したのに殺すのは不義です」と言った。上は長く逡巡したが、やむを得ず、丙戌、曷娑那を内殿に引いて宴飲し、その後、中書省に送って北突厥の使者に殺させた。

武徳八年(625年)

  • 夏四月、西突厥の統葉護可汗が使者を送って婚を請うた。上は裴矩に「西突厥は道が遠く、緩急に助け合えぬ。今、婚を求めてきたがどうか」と問うた。裴矩は「今、北の寇がまさに強い。国家の今日の計としては、まず遠交近攻とすべきです。臣は婚を許して頡利を威すべきと思います。数年後に中国が充実して北夷に抗するに足りてから、ゆっくり適切を考えればよろしい」と答え、上は従い、高平王道立をその国に遣わした。統葉護は大いに喜んだ。道立は上の従子である。

太宗貞観元年(627年)

  • 西突厥の統葉護可汗が真珠統俟斤を高平王道立とともに遣わし、万釘の宝飾金帯と馬五千匹を献じて公主を迎えようとした。頡利は中国が西突厥と和親するのを望まず、しばしば兵を送って侵入し、また人を遣って統葉護に「お前が唐の公主を迎えるなら、必ず我が国中を通らねばならぬ」と言わせた。統葉護は困り、婚は成らなかった。

貞観二年(628年)

  • 冬十二月、西突厥の統葉護可汗が伯父に殺され、伯父が自立した。これが莫賀咄侯屈利俟毗可汗である。国人は服さず、弩矢畢部は泥孰莫賀設を推して可汗としようとしたが、泥孰は承知しなかった。
  • 統葉護の子の咥力特勒は莫賀咄の禍を避けて康居に逃げていた。泥孰は迎えて立てた。これが乙毗鉢羅肆葉護可汗である。莫賀咄と攻め合って兵を連ねてやまず、ともに使者を送って婚を請うた。上は許さず、「お前の国はまさに乱れ、君臣が定まっていない。どうして婚を言えようか」と言い、あわせて各々分を守って攻め合わぬよう諭した。そこで西域の諸国および鉄勒で先に西突厥に属していた者はみな叛いた。

貞観四年(630年)

  • 西突厥の種族が伊吾に散在していたので、詔で涼州都督の李大亮を西北道安撫大使とし、磧口に糧を貯えて来る者に賑給させ、招慰の使者が道に絶えなかった。
  • 李大亮が上言した。遠きを懐けようとする者は必ずまず近きを安んじます。中国は根本、四夷は枝葉。中国を疲れさせて四夷を奉ずるのは、根本を抜いて枝葉を増やすようなものです。臣は遠く秦漢を考え近く隋室を見ましたが、外に戎狄を事とすればみな疲弊を招きました。今、西突厥を招致しても、労費が見えるだけで益は見えません。まして河西の州県は蕭条とし、突厥が弱まってようやく耕穫できるようになったばかり。今また供給のこの役では民は堪えられません。しばらく招慰を罷めるのが便宜です。伊吾の地はおおむね砂漠で、その人が自ら君長を立てて臣と称して内属を求めるなら、羈縻して受け入れ、塞外に居らせて中国の藩屏とする。これこそ虚の恵みを施して実の利を収める道です、と。上は従った。
  • 西突厥の肆葉護可汗は先代可汗の子として衆に慕われ、莫賀咄可汗の部下の酋長も多く帰した。肆葉護が兵を率いて莫賀咄を撃ち、莫賀咄は敗れて金山に逃げたが泥孰設に殺された。諸部の兵は肆葉護を推して大可汗とした。

貞観六年(632年)

  • 秋七月、西突厥の肆葉護可汗が兵を出して薛延陀を撃ったが敗れた。
  • 肆葉護は猜疑深く強情で讒言を信じた。乙利可汗が最も功が多かったが、肆葉護は自分の族類でないとして誅滅した。これによって諸部はみな身を保てぬと感じた。肆葉護はまた莫賀設の子の泥孰を忌んでひそかに図ろうとし、泥孰は焉耆に逃げた。設卑達官が弩失畢の二部とともに攻め、肆葉護は軽騎で康居に走り、まもなく没した。国人は泥孰を焉耆から迎えて立てた。これが咄陸可汗で、使者を送って内附した。丁酉、鴻臚少卿の劉善因を遣わして咄陸を奚利邲咄陸可汗に立てた。

貞観八年(634年)

  • 西突厥の咄陸可汗が没し、弟の同娥設が立った。これが沙鉢羅咥利失可汗である。

貞観九年(635年)

  • 冬十月乙亥、処月が初めて使者を入貢させた。処月と処密はいずれも西突厥の別部である。

貞観十二年(638年)――西突厥の南北分裂

  • はじめ西突厥の咥利失可汗はその国を十部に分け、部ごとに酋長一人を置き、それぞれに箭一本を賜って「十箭」と称した。また左右の廂に分け、左廂を五咄陸と号して五大啜を置いて砕葉以東に居らせ、右廂を五弩失畢と号して五大俟斤を置いて砕葉以西に居らせ、総じて「十姓」と称した。
  • 咥利失は人心を失い、臣の統吐屯に襲われた。咥利失は敗れて弟の歩利設とともに焉耆に逃げて保った。統吐屯らは欲谷設を大可汗に立てようとしたが、統吐屯が人に殺され、欲谷設の兵も敗れ、咥利失は故地を回復した。
  • このとき西部はついに欲谷設を立てて乙毗咄陸可汗とした。乙毗咄陸は立つと咥利失と大戦してその衆を殺傷し、そこで領地を二分し、伊列水以西は乙毗咄陸に、以東は咥利失に属した。

貞観十三年(639年)

  • 西突厥の咥利失可汗の臣の俟利発が乙毗咄陸可汗と通謀して乱をなした。咥利失は窮して鏺汗に逃げて死んだ。弩失畢部落は弟の子の薄布特勒を迎えて立てた。これが乙毗沙鉢羅葉護可汗である。
  • 沙鉢羅葉護は立つと雖合水の北に庭を建て、これを「南庭」と称した。亀茲・鄯善・且末・吐火羅・焉耆・石・史・何・穆・康などの国はみな付いた。咄陸は鏃曷山の西に庭を建て、これを「北庭」と称した。厥越失・抜悉弥・駁馬・結骨・火燖・触水昆などの国はみな付いた。伊列水を境とした。

貞観十四年(640年)

  • 侯君集が高昌を討ったとき、西突厥の可汗はその葉護を可汗浮図城に駐屯させて高昌王の麴文泰の後援としたが、侯君集が至ると可汗は恐れて西へ千余里逃げ、葉護は城ごと降った。

貞観十五年(641年)

  • 西突厥の沙鉢羅葉護可汗がしばしば使者を入貢させた。秋七月甲戌、左領軍将軍の張大師に節を持たせ、その号のまま可汗に立て、鼓と纛を賜った。
  • 上はまた使者に金帛を多く持たせ、諸国を歴訪して良馬を買わせようとした。魏徴が諫めて「可汗の位が定まらぬうちに先に馬を買えば、彼は必ず陛下の志が馬を買うことにあり、可汗を立てるのは名目だけと思いましょう。可汗が立てられても徳を感じることは浅く、立てられなければ怨みは実に深い。諸国もこれを聞けば中国を軽んじます。馬は買えぬかもしれず、買えても美しい話ではありません。もし彼らを安寧にできれば、諸国の馬は求めずとも自ずと来ましょう」と言い、上は喜んで取りやめた。
  • 乙毗咄陸可汗と沙鉢羅葉護が攻め合い、乙毗咄陸が次第に強大となって西域の諸国の多くが付いた。まもなく乙毗咄陸は石国の吐屯に沙鉢羅葉護を撃たせて捕らえ、連れ帰って殺した。

貞観十六年(642年)

  • 西突厥の乙毗咄陸可汗は沙鉢羅葉護を殺してその衆を併せ、また吐火羅を撃って滅ぼした。強大を恃んでついに驕り高ぶり、唐の使者を拘留し西域を侵し暴れ、兵を送って伊州を侵した。
  • 郭孝恪が軽騎二千を率いて烏骨から迎え撃って破った。乙毗咄陸はまた処月・処密の二部に天山を囲ませたが、郭孝恪が撃退し、勝ちに乗じて進んで処月の俟斤の居城を抜き、遏索山まで追撃し、処密の衆を降して帰った。
  • はじめ高昌が平定されてから、毎年、兵千余人を出して守備させていた。褚遂良が上疏して論じた。聖王が治を行うには華夏を先にし夷狄を後にします。陛下は兵を興して高昌を取られましたが、数郡は蕭然として年を重ねても回復せず、毎年千余人を徴発して遠く郷里を離れて屯戍させ、産を破って装備を整えさせ、また罪人を流して充てておりますが、みな無頼の子弟で、辺境を騒がせるばかり。何の益がありましょう。派遣された者の多くはまた逃亡し、追捕の煩わしさばかりが増します。加えて通る道は千里の砂漠、冬の風は刃のごとく夏の風は焼くがごとく、往来する者は多く死にます。仮に張掖・酒泉に烽火の警があっても、陛下は高昌の一人の兵、一斗の粟も用いられず、結局は隴右の諸州の兵糧を発して赴かせるほかありません。とすれば河西は中国の心腹、高昌は他人の手足です。どうして根本を疲弊させて無用の土地を事とされるのですか。しかも陛下は突厥や吐谷渾を得られてもその地を有さず、君長を立てて撫でられました。高昌だけそうできぬわけがありましょうか。叛けば捕らえ、服せば封ずる。刑としてこれに勝る威はなく、徳としてこれに勝る厚さはありません。どうか改めて高昌の子弟で立てるべき者を選び、その国に君臨させ、子々孫々大恩を負わせて永く唐室の藩輔とすれば、内は安く外は寧く、よろしいではありませんか、と。上は聞かなかった。
  • 西突厥の侵入に至って上は悔い、「魏徴と褚遂良が私に高昌を再び立てるよう勧めた。私はその言を用いず、今まさに自ら咎めている」と言った。
  • 乙毗咄陸が西に康居を撃ち、道すがら米国を破って多くを捕獲したが、配下に分けなかった。その将の泥孰啜が勝手に奪い取り、乙毗咄陸は怒って泥孰啜を斬ってさらしたので、衆はみな憤怒した。泥孰啜の部将の胡禄屋が襲撃し、乙毗咄陸の衆は散り、白水胡城に逃げて保った。
  • そこで弩失畢の諸部および乙毗咄陸の部下の屋利啜らが使者を闕に遣わし、乙毗咄陸を廃して改めて可汗を立てることを請うた。上は使者に璽書を持たせて莫賀咄の子を乙毗射匱可汗に立てた。
  • 乙毗射匱は立つと、乙毗咄陸が留めていた唐の使者をことごとく礼をもって送り返し、諸部を率いて白水胡城の乙毗咄陸を撃った。乙毗咄陸が兵を出して撃ち、乙毗射匱は大敗した。
  • 乙毗咄陸が使者を送って旧部落を招くと、旧部落はみな「我らが千人戦死して一人だけ残ったとしても、お前には従わぬ」と言った。乙毗咄陸は衆に慕われぬことを自ら知り、西の吐火羅へ走った。

貞観二十年(646年)

  • 夏六月丁卯、西突厥の乙毗射匱可汗が使者を入貢させ、あわせて婚を請うた。上は許し、亀茲・于闐・疏勒・朱倶波・葱嶺の五国を割いて聘礼とさせた。

貞観二十二年(648年)

  • はじめ西突厥の乙毗咄陸可汗は阿史那賀魯を葉護として多邏斯水(西州の北千五百里)に居らせ、処月・処密・姑蘇・歌邏禄・失畢の五姓の衆を統べさせた。乙毗咄陸が吐火羅に走り、乙毗射匱可汗が兵を送って追い迫ると、部落は逃げ散った。
  • 夏四月乙亥、賀魯が残る衆数千帳を率いて内属し、詔で庭州の莫賀城に置き、左驍衛将軍を拝した。
  • 賀魯は唐兵が亀茲を討つと聞いて嚮導となることを請い、数十騎を従えて入朝した。上は崑丘道行軍総管とし、厚く宴し賜って遣わした。
  • 冬十二月戊寅、崑丘道行軍総管・左驍衛将軍の阿史那賀魯を泥伏沙鉢羅葉護とし、鼓と纛を賜って、西突厥の未服の者を招討させた。

貞観二十三年(649年)

  • 春二月丙戌、瑤池都督府を置いて安西都護に隷させた。戊子、左衛将軍の阿史那賀魯を瑤池都督とした。

高宗永徽二年(651年)――賀魯の叛乱

  • 左驍衛将軍・瑤池都督の阿史那賀魯は離散した廬帳を招集して次第に勢いを増し、太宗の崩御を聞いて西州・庭州の二州を襲取することを謀った。庭州刺史の駱弘義がその謀を知って上表した。
  • 上は通事舎人の橋宝明を馳せ遣わして慰撫させた。橋宝明は賀魯を説いて長子の咥運を宿衛に入らせ、右驍衛中郎将を授けたが、まもなく帰した。咥運は父に勧めて衆を擁して西へ走らせ、乙毗射匱可汗を撃破してその衆を併せ、雙河および千泉に牙を建てて沙鉢羅可汗と自称した。咄陸の五啜と弩失畢の五俟斤がみな帰し、兵は数十万。乙毗咄陸可汗と兵を連ね、処月・処密および西域の諸国の多くが付いた。咥運を莫賀咄葉護とした。
  • 焉耆王の婆伽利が没し、国人が旧王の突騎支を再び立てることを上表して請うた。夏四月、詔で突騎支に右武衛将軍を加えて国に帰らせた。
  • 秋七月、西突厥の沙鉢羅可汗が庭州を侵し、金嶺城および蒲類県を攻め落とし、数千人を殺し掠めた。詔で左武候大将軍の梁建方と右驍衛大将軍の契苾何力を弓月道行軍総管、右驍衛将軍の高徳逸と右武候将軍の薛孤呉仁を副として、秦・成・岐・雍の府兵三万人および回紇五万騎を発して討たせた。
  • 冬十二月壬子、処月の朱邪孤注が招撫使の単道恵を殺し、突厥の賀魯と結んだ。

永徽三年(652年)

  • 春正月癸亥、梁建方と契苾何力らが牢山で処月の朱邪孤注を大破した。孤注が夜逃げすると、梁建方は副総管の高徳逸に軽騎で追わせ、五百余里行って孤注を生け捕り、九千級を斬った。

永徽四年(653年)

  • 西突厥の乙毗咄陸可汗が没し、その子の頡苾達度設は真珠葉護と号し、初めから沙鉢羅可汗と隙があった。五弩失畢とともに沙鉢羅を撃って破り、千余級を斬った。

永徽五年(654年)

  • 閏四月丙子、処月部に金満州を置いた。

永徽六年(655年)

  • 夏六月癸未、左屯衛大将軍の程知節を葱山道行軍大総管として西突厥の沙鉢羅可汗を討たせた。
  • 西突厥の頡苾達度設がしばしば使者を送って沙鉢羅可汗討伐の兵を請うた。冬十一月甲戌、豊州都督の元礼臣を遣わして頡苾達度設を可汗に冊拝させた。元礼臣が砕葉城に至ると沙鉢羅が兵を出して阻み、進めなかった。頡苾達度設の部落の多くは沙鉢羅に併呑され、残る衆は寡弱で諸姓に慕われなかった。元礼臣はついに冊拝せずに帰った。

顕慶元年(656年)

  • 秋八月辛丑、葱山道行軍総管の程知節が西突厥を撃ち、歌邏禄・処月の二部と楡慕谷で戦って大破し、千余級を斬った。副総管の周智度が突騎施・処木昆らの部を咽城で攻めて抜き、三万級を斬った。
  • 冬十二月、程知節が軍を率いて鷹娑川に至り、西突厥二万騎に遭遇した。別部の鼠尼施ら二万余騎が続いて至った。前軍総管の蘇定方が五百騎を率いて馳せ撃ち、西突厥は大敗した。二十里追撃して千五百余人を殺し捕らえ、馬と器械が山野に連なって数え切れなかった。
  • 副大総管の王文度がその功を妬み、程知節に「今回は賊を破ったといっても官軍にも死傷がある。危うきに乗じて軽々しく振る舞うのは成敗の分かれ目。何を急いでこうするのか。今後は常に方陣を組み輜重を内に置き、賊に遇えば戦う。これが万全の策だ」と言った。また別に旨を得たと偽り、程知節が勇を恃んで敵を軽んじるので王文度に統制させるとして、軍を収めて深入りを許さなかった。
  • 士卒は終日馬に乗り甲を着けて陣を組み、疲労に堪えず、馬も多く痩せ死んだ。蘇定方が程知節に「出師は賊を討つためです。今は自守して坐して自ら疲弊しています。賊に遇えば必ず敗れます。こんな臆病ぶりでどうして功を立てられましょう。しかも主上は公を大将とされたのに、どうして軍の副官に号令を専らにさせられるのですか。事は決してそうではありますまい。王文度のことを急ぎ上表して奏聞されますよう」と言ったが、程知節は従わなかった。
  • 恒篤城に至ると胡の一団が帰附してきた。王文度は「この輩は我らが軍を返すのを待って再び賊となる。ことごとく殺してその財を取るに如くはない」と言った。蘇定方は「それでは自ら賊となるだけです。何が叛を伐つと言えましょう」と言ったが、王文度はついに殺してその財を分け、蘇定方だけが受けなかった。
  • 軍が帰り、王文度は詔を偽った罪で死に当たったが、特に除名にとどめられた。程知節も逗留して賊を追わなかった罪で死一等を減じて免官された。

顕慶二年(657年)――蘇定方の遠征

  • 春閏正月庚戌、右屯衛将軍の蘇定方を伊麗道行軍総管とし、燕然都護の渭南の任雅相と副都護の蕭嗣業を副として、回紇らの兵を発し北道から西突厥の沙鉢羅可汗を討たせた。蕭嗣業は蕭鉅の子である。
  • はじめ右衛大将軍の阿史那弥射および族兄の左屯衛大将軍の阿史那歩真はいずれも西突厥の酋長で、太宗の世に衆を率いて降っていた。ここに至って詔で弥射と歩真を流沙安撫大使として南道から旧衆を招集させた。
  • 冬十二月、蘇定方が西突厥の沙鉢羅可汗を撃って金山の北に至り、まず処木昆部を撃って大破した。その俟斤の嬾独禄らが一万余帳を率いて降り、蘇定方は撫でてその千騎を発して同行させた。
  • 右領軍郎将の薛仁貴が上言した。泥孰部は日ごろ賀魯に服さず、賀魯に破られて妻子を捕らえられました。今、唐兵が賀魯の諸部を破って泥孰の妻子を得たら、返して賜与を加え、賀魯が賊で大唐がその父母であることをはっきり知らせれば、人は死力を尽くして力を惜しみません、と。上は従い、泥孰は喜んで従軍して共に賀魯を撃つことを請うた。
  • 蘇定方が曳咥河の西に至ると、沙鉢羅が十姓の兵十万近くを率いて防戦に来た。蘇定方は唐兵と回紇一万余人で撃った。沙鉢羅は蘇定方の兵が少ないのを侮ってまっすぐ進んで包囲した。蘇定方は歩兵に南の原に拠らせ、矟を並べて外に向けさせ、自らは騎兵を北の原に陣した。沙鉢羅がまず歩軍を攻め、三度突撃しても動かず、蘇定方が騎兵を率いて撃った。沙鉢羅は大敗し、三十里追撃して数万人を斬り捕らえた。
  • 翌日、兵を整えて再び進むと、胡禄屋など五弩失畢が全軍で降り、沙鉢羅は処木昆屈律啜と数百騎だけで西へ走った。
  • そのころ阿史那歩真が南道から出、五咄陸の部落は沙鉢羅の敗北を聞いてみな歩真のもとへ来て降った。
  • 蘇定方は蕭嗣業と回紇の婆閏に胡兵を率いて邪羅斯川に向かって沙鉢羅を追わせ、自らは任雅相と新附の衆を率いて続いた。折しも大雪が平地で二尺積もり、軍中はこぞって晴れを待って行くよう請うたが、蘇定方は「虜は雪の深さを恃んで我らが進めぬと思い、必ず士馬を休ませている。急ぎ追えば追いつける。緩めれば彼は遠く逃げてもう追えぬ。日を省き功を兼ねるのはこの時だ」と言い、雪を踏んで昼夜兼行し、通る先々でその部衆を収めた。
  • 雙河に至って弥射・歩真の兵と合流し、沙鉢羅の居所まで二百里の所から陣を布いて長駆し、まっすぐその牙帳に至った。沙鉢羅はその徒とまさに狩りに出ようとしていた。蘇定方は不備を突いて兵を放って撃ち、数万人を斬り捕らえ、その鼓と纛を得た。沙鉢羅は子の咥運、婿の閻啜らと脱出して石国へ向かった。
  • 蘇定方はそこで兵を休め、諸部を各々の居所に帰し、道路を通じ郵駅を置き、骸骨を埋め疾苦を問い、境界を画し生業を回復させ、沙鉢羅に掠められた者はすべて調べて返した。十姓は元のとおり安堵した。
  • そこで蕭嗣業に兵を率いて沙鉢羅を追わせ、蘇定方は軍を率いて帰った。
  • 沙鉢羅は石国の西北の蘇咄城に至り、人馬は飢え疲れ、人に珍宝を持たせて城に入って馬を買わせようとした。城主の伊沮達官は偽って酒食を出して迎え、誘い入れて門を閉じて捕らえ、石国に送った。蕭嗣業が石国に至ると、石国の人は沙鉢羅を引き渡した。
  • 西突厥の地を五分して濛池・崑陵の二都護府を置き、阿史那弥射を左衛大将軍・崑陵都護・興昔亡可汗として五咄陸の部落を統べさせ、阿史那歩真を左衛大将軍・濛池都護・継往絶可汗として五弩失畢の部落を統べさせ、光禄卿の盧承慶に節を持たせて冊命させた。あわせて弥射・歩真と盧承慶に、降った諸姓についてその部落の大小と位望の高下に準じて刺史以下の官を授けさせた。

顕慶三年(658年)

  • 阿史那賀魯は捕らえられてから蕭嗣業に「私はもと亡命の虜で、先帝に生かされた。先帝は私を厚遇されたのに、私は背いた。今日の敗北は天の怒りである。私は中国では刑人を必ず市で行うと聞く。願わくは昭陵の前で私を刑して先帝に謝したい」と言った。上は聞いて憐れんだ。
  • 賀魯が京師に至り、冬十一月甲午、昭陵に献じた。勅でその死を免じ、その種族を分けて六都督府とし、その役属していた諸国にもみな州府を置き、西は波斯まですべて安西都護府に隷させた。賀魯はまもなく死に、頡利の墓の傍らに葬られた。

顕慶四年(659年)

  • 春三月壬午、西突厥の興昔亡可汗が真珠葉護と雙河で戦い、真珠葉護を斬った。

龍朔二年(662年)

  • 冬十二月、䫻海道総管の蘇海政が詔を受けて亀茲を討ち、勅で興昔亡・継往絶の二可汗に兵を発して同行させた。
  • 興昔亡の境に至ったとき、継往絶は日ごろ興昔亡と怨みがあり、ひそかに蘇海政に「弥射が謀反しています。誅されますよう」と言った。当時、蘇海政の兵はわずか数千で、軍吏を集めて謀り「弥射が反すれば我らは生き残る者もない。先手を打って誅すに如くはない」と言い、勅と偽って「大総管が帛数万段を持参して可汗および諸酋長に賜る」と称した。興昔亡はその徒を率いて賜物を受けに来たところを、蘇海政はことごとく捕らえて斬った。その鼠尼施・抜塞幹の両部が逃げたので、蘇海政は継往絶とともに追討して平らげた。
  • 軍が帰って疏勒の南に至ると、弓月部がまた吐蕃の衆を引いて来て唐兵と戦おうとした。蘇海政は軍が疲れているのであえて戦わず、軍資を吐蕃に賂して和を約して帰った。
  • これによって諸部落はみな興昔亡を冤罪と考えてそれぞれ離心した。継往絶がまもなく没して十姓は主を失い、阿史那都支と李遮匐がその残る衆を収めて吐蕃に付いた。

咸亨二年(671年)

  • 夏四月甲申、西突厥の阿史那都支を左驍衛大将軍兼匐延都督として五咄陸の衆を安集させた。

咸亨四年(673年)

  • 冬十二月丙午、弓月・疏勒の二王が降った。
  • 西突厥の興昔亡可汗の代に諸部が離散し、弓月および阿悉吉はみな叛いた。蘇定方が西討したとき阿悉吉を捕らえて帰った。弓月は南に吐蕃と結び北に咽麫を招いて共に疏勒を攻めて降した。上は鴻臚卿の蕭嗣業を遣わして兵を発して討たせたが、蕭嗣業の兵が着かぬうちに弓月は恐れて疏勒とともに入朝した。上は罪を赦して国に帰らせた。

調露元年(679年)

  • はじめ西突厥の十姓可汗の阿史那都支およびその別帥の李遮匐が吐蕃と連和して安西に侵迫した。朝議は兵を出して討とうとしたが、吏部侍郎の裴行倹が「吐蕃が寇をなして劉審礼が全滅し、干戈がまだ止んでおりません。どうして再び西方に出師できましょう。今、波斯王が没し、その子の泥洹師が人質として京師におります。使者を遣わして国に帰らせ、道すがら二虜のもとを通らせて便宜に取れば、血を流さずに擒にできます」と言い、上は従った。裴行倹に波斯王の冊立を命じ、なお安撫大食使とした。裴行倹は粛州刺史の王方翼を自分の副に奏請し、あわせて検校安西都護を命じた。

永淳元年(682年)

  • 春二月、西突厥の阿史那車薄が十姓を率いて反した。
  • 三月、裴行倹に右金吾将軍の閻懐旦ら三総管を率いさせ道を分けて西突厥を討たせようとしたが、軍が出ぬうちに裴行倹が薨じた。
  • 夏四月、阿史那車薄が弓月城を囲み、安西都護の王方翼が軍を率いて救い、伊麗水で虜の衆を破って千余級を斬った。
  • まもなく三姓の咽麫が車薄と兵を合わせて王方翼を防いだ。王方翼は熱海で戦い、流れ矢が腕を貫いた。王方翼は佩刀でこれを切ったが、左右は気づかなかった。率いていた胡兵が王方翼を捕らえて車薄に応じようと謀った。王方翼はこれを知り、みな召して会議し、偽って軍資を出して賜うといって順に引き出しては斬った。折しも大風が吹き、王方翼は鉦鼓を鳴らしてその音をかき消し、七十余人を誅したが、その徒は気づかなかった。
  • そのうえで副将を分遣して車薄と咽麫を襲って大破し、その酋長三百人を捕らえ、西突厥はついに平定された。閻懐旦らはついに出動しなかった。
  • 王方翼はまもなく夏州都督に遷り、召されて辺事を議した。上は王方翼の衣に血の染みがあるのを見て問い、王方翼が熱海の苦戦の様子を詳しく答えた。上は傷を見て嘆息したが、結局、廃后(王皇后)の近親であることから用いられずに帰った。

則天皇后垂拱元年(685年)

  • はじめ西突厥の興昔亡・継往絶の両可汗が死んでから十姓は主を失い、部落の多くが散り失せた。太后は興昔亡の子の左豹韜衛翊府中郎将の元慶を左玉鈐衛将軍兼崑陵都護に抜擢し、興昔亡可汗を襲って五咄陸の部落を統べさせた。

垂拱二年(686年)

  • 秋九月丁未、西突厥の継往絶可汗の子の斛瑟羅を右玉鈐衛将軍として継往絶可汗を襲わせ、五弩失畢の部落を統べさせた。

天授元年(690年)

  • 西突厥の十姓は垂拱以来、東突厥に侵掠されてほぼ散り失せた。濛池都護・継往絶可汗の斛瑟羅がその残る衆六、七万人を収めて内地に入居し、左衛大将軍を拝し、竭忠事主可汗と改号した。

聖暦二年(699年)

  • 秋八月癸巳、突騎施の烏質勒が子の遮弩を入見させ、侍御史の元城の解琬を遣わして烏質勒および十姓の部落を安撫させた。

久視元年(700年)

  • 西突厥の竭忠事主可汗の斛瑟羅を平西軍大総管として砕葉を鎮めさせた。

長安三年(703年)

  • 西突厥の可汗の斛瑟羅は刑を用いること残酷で、諸部は服さなかった。烏質勒はもと斛瑟羅に隷して莫賀達干と号し、よくその衆を撫でたので諸部が帰し、斛瑟羅は制せられなかった。
  • 烏質勒は都督二十員を置いて各々七千人の兵を率いさせ砕葉の西北に駐屯させ、後に砕葉を攻め落としてその牙帳を移して住んだ。斛瑟羅の部衆は離散し、そのまま入朝して二度と帰れず、烏質勒はその地をことごとく併せた。

長安四年(704年)

  • 春正月、阿史那懐道を西突厥十姓可汗に冊拝した。

中宗神龍二年(706年)

  • 閏正月甲戌、突騎施の酋長の烏質勒を懐徳郡王とした。
  • 冬十二月、安西大都護の郭元振が突騎施の烏質勒の牙帳に赴いて軍事を議した。大風雪の日で、郭元振は帳の前に立って烏質勒と長く語り、雪が深くなっても足を移さなかった。烏質勒は老いて寒さに堪えられず、会が終わって没した。
  • その子の娑葛が兵を整えて郭元振を攻めようとした。副使の御史中丞の解琬が知って夜に逃げるよう勧めたが、郭元振は「私は誠心をもって人に接している。何を疑い恐れよう。しかも深く敵地にいる。逃げてどこへ行ける」と言い、安らかに臥して動かず、翌朝入って哭してきわめて哀しんだ。娑葛はその義に感じ、郭元振を元どおり待遇した。
  • 戊戌、娑葛に嗢鹿州都督・懐徳王を襲がせた。

景竜二年(708年)――娑葛の反乱

  • 冬十一月庚申、突騎施の酋長の娑葛が自立して可汗となり、唐の使者の御史中丞の馮嘉賓を殺し、弟の遮弩らに衆を率いて塞を犯させた。
  • はじめ娑葛が烏質勒に代わって衆を統べると、父の代の旧将の闕啜忠節が服さずしばしば攻め合った。忠節は衆が弱くて支えきれず、金山道行軍総管の郭元振が忠節を召して入朝させ宿衛させるよう奏した。
  • 忠節が播仙城まで来たとき、経略使の右威衛将軍の周以悌が説いた。国家が高官顕爵を惜しまず君を待遇するのは、君に部落の衆があるからです。今、身一つで入朝すれば一介の老胡にすぎず、寵禄を保てぬどころか生死も人の手に握られます。今、宰相の宗楚客と紀処訥が権を用いています。二公に厚く賄賂して留まって行かずにすませ、安西の兵を発し吐蕃を引いて娑葛を撃ち、阿史那献を可汗に求めて十姓を招き、郭虔瓘に抜汗那の兵を発させて自らを助けさせるに如くはありません。そうすれば部落を失わず仇も報いられる。入朝と比べて同日に語れましょうか、と。郭虔瓘は歴城の人で、当時、西辺の将だった。
  • 忠節はその言に従い、間諜の使者を送って宗楚客と紀処訥に賄賂し、周以悌の策のとおりにするよう請うた。
  • 郭元振はその謀を聞いて上疏して論じた。先年、吐蕃が辺を犯したのは、まさに十姓と四鎮の地を求めて得られなかったからにすぎません。近ごろ兵を収めて和を請うたのは、中国の礼義を慕い悦んだからではなく、ただ国内に難が多く人畜に疫病が流行り、中国がその弊に乗ずるのを恐れて、しばらく志を屈して自ら親しみを求め、国を少し安んじようとしたのです。どうして十姓四鎮の地を取ることを忘れましょうか。
  • 続けて言う。今、忠節は国家の大計を論ぜず、ただ吐蕃の嚮導となろうとしている。四鎮の危機はここから始まるでしょう。近ごろ黙啜が跳梁して応ずべきことが多く、加えて四鎮の兵は疲弊しており、勢いとして忠節のために経略できなかった。突騎施を憐れんだのではありません。忠節は国家の内外の意を体せず、かえって吐蕃を求める。吐蕃が志を得れば忠節はその掌中にあり、どうして再び唐に仕えられましょう。往年、吐蕃は中国に恩がなくとも十姓四鎮の地を求めた。今、娑葛を破って功があれば于闐・疏勒を分けよと請うでしょう。何の理屈で抑えられますか。またその部下の諸蛮および婆羅門らが服さぬとき、唐兵を借りて討たせよと言われても、何の言葉で拒めますか。ゆえに古の智者はみな夷狄の恵みを受けたがりませんでした。その求めが際限なく、ついに後患となることを予め憂えたからです。
  • さらに言う。彼が阿史那献を請うのは、献が可汗の子孫で、それに依って十姓を招き懐けようというのでしょう。しかし献の父の元慶、叔父の僕羅、兄の俀子および斛瑟羅・懐道らはみな可汗の子孫です。往時、唐も吐蕃も一通り立てて可汗とし、十姓を招撫しようとしましたが、みな成らず、まもなく自ら破滅しました。なぜか。この者たちには人に過ぎる才がなく、恩威が衆を動かすに足りぬからです。可汗の旧種であっても衆心はついに親しみません。まして献は父兄よりさらに疎遠です。もし忠節の兵力で自ら十姓を誘い脅せるなら、可汗の子孫を立てる必要もありません。
  • また、郭虔瓘に抜汗那へ入って兵を発させようとしていますが、虔瓘は以前すでに忠節とともに勝手に抜汗那に入って兵を発しようとして、一枚の甲一匹の馬も得られませんでした。抜汗那は侵擾に堪えず、南に吐蕃を引いて俀子を奉じて四鎮を侵しました。当時は抜汗那の四方に強敵の後援がなく、虔瓘らは恣に侵掠して無人の境を行くようでしたが、それでも俀子を引いて患いとなりました。今は北に娑葛があり、急なら力を合わせ、内は諸胡が壁を固めて拒み守り、外は突厥が隙をうかがって遮ります。臣の見るところ、虔瓘らの今回の行動は往年ほど志を得られず、内外に敵を受けて自ら危亡を招き、いたずらに虜と隙を結んで四鎮を不安にするだけです。臣の愚かな推測ですが、実に得策ではありません、と。
  • 宗楚客らは従わず、建議して馮嘉賓に節を持たせて忠節を安撫させ、侍御史の呂守素に四鎮を処置させ、将軍の牛師奨を安西副都護として、甘州・涼州以西の兵を発し、あわせて吐蕃を徴して娑葛を討とうとした。
  • 娑葛が使者の娑臘を遣わして馬を献じており、京師でその謀を聞いて馳せ帰って娑葛に報じた。そこで娑葛は五千騎を安西に、五千騎を撥換に、五千騎を焉耆に、五千騎を疏勒に出して侵入した。
  • 郭元振は疏勒にあり、河口に柵を築いて出なかった。忠節が計舒河口で馮嘉賓を迎えたところ、娑葛が兵を送って襲い、忠節を生け捕り、馮嘉賓を殺した。呂守素は僻城で捕らえられ、駅の柱に縛られて骨を削がれて殺された。
  • 癸未、牛師奨が突騎施の娑葛と火焼城で戦い、牛師奨の兵は敗れて全滅した。娑葛はついに安西を陥して四鎮の路を断ち、使者を送って上表し、宗楚客の首を求めた。
  • 宗楚客はまた奏して周以悌を郭元振に代えて衆を統べさせ、郭元振を召して入朝させ、阿史那献を十姓可汗とし、焉耆に軍を置いて娑葛を討たせようとした。
  • 娑葛が郭元振に書を送って「私は唐と初めから悪意はない。ただ闕啜の仇であるだけだ。宗尚書が闕啜の金を受け取って不当に奴(自称)の部落を破ろうとし、馮中丞と牛都護が相次いで来た。奴がどうして坐して死を待てようか。また史献が来ようとしていると聞くが、いたずらに軍と州を騒がせるだけで、安寧の日はありますまい。どうか大使が計らって処置してください」と述べた。
  • 郭元振が娑葛の書を奏すると、宗楚客は怒って郭元振に異図ありと奏し、召して罪しようとした。郭元振は子の郭鴻に間道からその実情を詳しく奏させ、西土を定めるために留まり帰らぬことを請うた。周以悌はついに白州に流され、改めて郭元振を周以悌に代え、娑葛の罪を赦して十四姓可汗に冊した。

景竜三年(709年)

  • 秋七月、突騎施の娑葛が使者を送って降を請うた。庚辰、欽化可汗に拝し、名を守忠と賜った。

睿宗景雲二年(711年)

  • 冬十二月癸卯、興昔亡可汗の阿史那献を招慰十姓使とした。

玄宗開元二年(714年)

  • 西突厥十姓の酋長の都担が叛いた。三月己亥、磧西節度使の阿史那献が砕葉などの鎮を落として都担を捕らえ、その部落二万余帳を降した。
  • 突騎施可汗の守忠の弟の遮弩は、分けられた部落が兄より少ないのを恨んで叛いて突厥に入り、嚮導となって守忠を伐つことを請うた。黙啜が二万の兵を送って守忠を撃って捕らえて帰り、遮弩に「お前は兄に叛いた。私に何の益があろう」と言い、これも殺した。

開元三年(715年)

  • 突騎施の守忠が死んで黙啜の兵が帰ると、守忠の部将の蘇禄が残る衆を集めて酋長となった。蘇禄はきわめて綏撫に長け、十姓の部落は次第に帰して衆二十万を得、西方に拠った。まもなく使者を入見させた。この年、蘇禄を左羽林大将軍・金方道経略大使とした。

開元四年(716年)

  • 突騎施の蘇禄がまた自立して可汗となった。

開元五年(717年)

  • 突騎施の酋長・左羽林大将軍の蘇禄の部衆は次第に広がり、朝貢は欠かさぬものの、ひそかに辺境をうかがう志があった。五月、十姓可汗の阿史那献が葛邏禄の兵を発して撃とうとしたが、上は許さなかった。
  • 秋七月、安西副大都護の湯嘉恵が、突騎施が大食・吐蕃を引き入れて四鎮を取ろうと謀り、鉢換および大石城を囲んだので、すでに三姓葛邏禄の兵を発して阿史那献とともに撃たせたと奏した。

開元六年(718年)

  • 夏五月辛亥、突騎施都督の蘇禄を左羽林大将軍・順国公・充金方道経略大使とした。

開元七年(719年)

  • 冬十月壬子、突騎施の蘇禄を忠順可汗に冊拝した。

開元十年(722年)

  • 冬十二月庚子、十姓可汗の阿史那懐道の娘を交河公主として突騎施可汗の蘇禄に嫁がせた。

開元十四年(726年)

  • 杜暹が安西都護のとき、突騎施の交河公主が牙官に馬千匹を安西に届けさせて交易しようとし、使者が公主の「教」を宣した。杜暹は怒って「阿史那の女がどうして私に教を宣せるのか」と言い、その使者を杖打って留めて帰さず、馬は雪で全部死んだ。
  • 突騎施可汗の蘇禄は激怒し、兵を出して四鎮を侵した。折しも杜暹が入朝し、趙頤貞が代わって安西都護となり、城に籠って自守した。四鎮の人畜と蓄えはみな蘇禄に掠められ、安西はかろうじて残った。やがて蘇禄は杜暹が宰相になったと聞いて次第に退き、まもなく使者を入貢させた。

開元十八年(730年)

  • 突騎施が使者を入貢させ、上は丹鳳楼で宴した。突厥の使者も同席した。二つの使者が席次を争い、突厥は「突騎施は小国で、もと突厥の臣である。我らの上に居るべきではない」と言い、突騎施は「今日の宴は我らのために設けられたもの。私はその下に居るわけにいかぬ」と言った。上はそこで東西に幕を設け、突厥を東、突騎施を西に置いた。

開元二十三年(735年)

  • 冬十月戊申、突騎施が北庭および安西の撥換城を侵した。

開元二十四年(736年)

  • 春正月、北庭都護の蓋嘉運が突騎施を撃って大破した。
  • 秋八月甲寅、突騎施が大臣の胡禄達干を遣わして降を請い、許した。

開元二十六年(738年)――蘇禄の死

  • 突騎施可汗の蘇禄は日ごろ清廉倹約で、攻戦して得たものはそのつど諸部に分けて私蓄を残さなかったので、衆は喜んで用いられた。唐の公主を娶りながら、ひそかに突厥および吐蕃と通じ、突厥も吐蕃もそれぞれ娘を嫁がせた。蘇禄は三国の娘を可敦とし、また数人の子を葉護に立てたので、費用が次第に増え、これによって攻戦で得たものを二度と分けなくなった。
  • 晩年に中風を患って片手が萎縮し、諸部は離心した。酋長の莫賀達干と都摩度の両部が最も強く、その部落はまた黄姓と黒姓に分かれて互いに背き合った。そこで莫賀達干が兵を整えて夜に蘇禄を襲って殺した。
  • 都摩度ははじめ莫賀達干と共謀していたが、やがて異を唱え、蘇禄の子の骨啜を立てて吐火仙可汗としてその残る衆を収め、莫賀達干と攻め合った。
  • 莫賀達干が使者を送って磧西節度使の蓋嘉運に告げ、上は蓋嘉運に突騎施および抜汗那以西の諸国を招集させた。吐火仙と都摩度は砕葉城に拠り、黒姓可汗の爾微特勒は怛邏斯城に拠り、ともに兵を連ねて唐を防いだ。

開元二十七年(739年)

  • 秋八月乙亥、磧西節度使の蓋嘉運が突騎施可汗の吐火仙を捕らえた。蓋嘉運が砕葉城を攻めると吐火仙は出戦して敗走し、賀邏嶺で捕らえた。
  • 疏勒鎮守使の夫蒙霊詧と抜汗那王の阿悉爛達干を分遣してひそかに兵を率いて怛邏斯城に突入させ、黒姓可汗の爾微を捕らえ、そのまま曳建城に入って交河公主を取り、散り散りになっていた民数万をすべて収めて抜汗那王に与えた。威は西陲を震わせた。
  • 九月戊午、処木昆・鼠尼施・弓月など、先に突騎施に隷していた諸部がみな衆を率いて内附し、あわせて安西の管内に移り住むことを請うた。

開元二十八年(740年)

  • 春三月甲寅、蓋嘉運が入って捷を献じた。上は吐火仙の罪を赦して左金吾大将軍とした。蓋嘉運が阿史那懐道の子の昕を十姓可汗に立てることを請い、従った。
  • 夏四月辛未、昕の妻の李氏を交河公主とした。
  • 冬十一月、突騎施の莫賀達干は阿史那昕が可汗となったと聞いて怒り、「最初に蘇禄を誅したのは私の謀である。今、史昕を立てて、何をもって私に賞するのか」と言い、諸部を率いて叛いた。上はそこで莫賀達干を可汗に立てて突騎施の衆を統べさせ、蓋嘉運に招諭を命じた。十二月乙卯、莫賀達干が降った。

天宝元年(742年)

  • 夏四月、上が兵を出して十姓可汗の阿史那昕を突騎施に送り込もうとしたが、俱蘭城で莫賀達干に殺された。
  • 突騎施の大纛官の都摩度が降り、六月乙未、都摩度を三姓葉護に冊した。

天宝三載(744年)

  • 夏五月、河西節度使の夫蒙霊詧が突騎施の莫賀達干を討って斬り、改めて黒姓の伊里底蜜施骨咄禄毗伽を立てることを請うた。六月甲辰、骨咄禄毗伽を十姓可汗に冊拝した。

天宝八載(749年)

  • 秋七月、突騎施の移撥を十姓可汗に冊した。

天宝十二載(753年)

  • 秋九月甲辰、突騎施の黒姓可汗の登里伊羅密施を突騎施可汗とした。