通鑑紀事本末太宗の太子廃立(太宗易太子)

太宗が即位して八歳の承乾を太子に立ててから、その廃位と晋王治の擁立に至る十八年間を追う。承乾は于志寧・孔穎達・張玄素らの諫めを退けて遊猟と奢侈にふけり、突厥の風俗を真似て徳を失う。一方で多芸な魏王泰が寵を得て嫡を狙い、朝士を結んで党をなしたため、承乾は圧迫を恐れて侯君集・漢王元昌・杜荷らと謀反を企てる。貞観十七年(643年)、紇干承基の告発で謀が露見し、承乾は廃されて庶人となり、泰も幽閉され、長孫無忌・褚遂良の主張で仁孝の晋王治が太子となる。

年表(7件)

唐高祖武徳九年(626年)

  • 秋八月、太宗が皇帝の位に即いた。
  • 冬十月癸亥、皇子の中山王承乾を太子に立てた。八歳であった。

太宗貞観七年(633年)

  • 帝は左庶子の于志寧と右庶子の杜正倫に「朕は十八歳までなお民間にあり、民の苦しみも実情も虚偽もすべて知った。それでも大位に就いて世務を処理するのに誤りがある。まして太子は深宮に生まれ育ち、百姓の艱難を見聞きしていない。驕り気ままにならずにおれようか。卿らは極力諫めよ」と言った。
  • 太子は遊戯を好み、かなり礼法を欠いた。于志寧は右庶子の孔穎達とともにしばしば直諫し、上は聞いて嘉し、それぞれに金一斤と帛五百匹を賜った。

貞観十三年(639年)

  • 太子承乾は遊猟にふけって学問を怠るようになり、右庶子の張玄素が諫めたが聞かなかった。

貞観十四年(640年)

  • 上は右庶子の張玄素が東宮でしばしば諫争していると聞き、銀青光禄大夫・行左庶子に抜擢した。
  • 太子が禁中で鼓を打っていたので張玄素が閤を叩いて切諫すると、太子はその鼓を出して張玄素の前で毀した。
  • 太子が長く出て官属に会わなかったので、張玄素は「朝廷が俊賢を選んで至徳を輔けさせております。今、時には月を越えて宮臣にお会いにならぬのでは、どうやって万一の助けとなれましょう。しかも宮中には婦人しかおりません。樊姫のような者がいるかどうかも分かりません」と諫めたが、太子は聞かなかった。

貞観十五年(641年)

  • 太子詹事の于志寧が母の喪に遭ったが、まもなく起復して職に就いた。
  • 太子が宮室を造営して農事を妨げ、また鄭衛の音楽を好んだので、于志寧が諫めたが聞かなかった。また宦官を寵愛して常に側に置いたので、于志寧は上書して「易牙以来、宦官が国家を覆したのは一度や二度ではありません。今、殿下がこの輩を親しく寵愛し、衣冠の士を侮らせるのは、助長すべきことではありません」と述べた。
  • 太子が司馭らを使役して半年も交代を許さず、また私に突厥の達哥友を宮に引き入れたので、于志寧が上書して切諫した。太子は激怒して刺客の張師政と紇干承基を送って殺させようとしたが、二人はその邸に入り、于志寧が喪の苫と土塊の上に寝起きしているのを見て、ついに殺すに忍びず取りやめた。

貞観十六年(642年)

  • 春正月乙丑、魏王泰が『括地志』を献上した。魏王泰は学を好み、司馬の蘇朂が「古の賢王はみな士を招いて書を著しました」と説いたので、泰は奏請して修めたのである。そこで大いに館舎を開いて時の俊才を広く招き、人物が集まって門前は市のようになった。泰への月々の給与は太子を上回った。
  • 諫議大夫の褚遂良が上疏して論じた。聖人が礼を制するに、嫡を尊び庶を卑しみ、世子の用いる物は制限を設けず王者と同じにしますが、庶子は愛されても嫡を越えられません。これは嫌疑の兆しを塞ぎ禍乱の源を除くためです。もし親しむべき者を疎んじ、尊ぶべき者を卑しめれば、佞巧の姦が機に乗じて動きます。昔、漢の竇太后が梁の孝王を寵愛して、ついに憂死させ、宣帝が淮陽憲王を寵愛して危うく敗れるところでした。今、魏王が閤を出たばかりですから、礼の則を示し、謙譲と倹約を訓えてこそ良器となりましょう。これがいわゆる「聖人の教えは厳しくせずして成る」というものです、と。上は従った。
  • 上はまた泰を武徳殿に移り住まわせようとした。魏徴が上疏して「陛下は魏王を愛され、常に安全であらしめようとされております。ならばその驕奢を抑え、嫌疑の地に置かれるべきではありません。今、この殿に移されれば、そこは東宮の西にあたり、昔、海陵(隋の斉王暕)が住み、当時の人は不可としました。時も事も違うとはいえ、魏王の心も安んじられぬのではないかと恐れます」と述べた。上は「危うく誤るところだった」と言い、ただちに泰を邸に帰らせた。
  • 夏六月甲辰、詔して今後、皇太子が庫の物を出して用いるとき、担当官は制限を設けぬこととした。そこで太子は際限なく取り出した。
  • 左庶子の張玄素が上書して論じた。周の武帝は山東を平定し、隋の文帝は江南を統一し、勤倹で民を愛し、いずれも令主でした。しかし子が不肖で、ついに宗祀を亡ぼしました。聖上は殿下に対して親としては父子、事としては家と国を兼ねておられるゆえ、用いる物に制限を設けられぬのです。ところが恩旨から六十日も経たぬうちに、用いた物はすでに七万を超えました。驕奢の極み、これに過ぎるものがありましょうか。まして宮臣の正しい士は側になく、群れなす邪佞と淫らな巧者が深宮に近侍している。外から見えるだけでもこの過失、内の隠れた所は数え切れましょうか。苦い薬は病に利き、苦い言葉は行いに利きます。どうか安きに居て危うきを思い、日々慎まれますよう、と。
  • 太子はその書を憎み、下僕に張玄素が早朝に出るのをうかがわせ、ひそかに大きな馬鞭で打たせ、危うく死なせるところだった。
  • 秋八月丁酉、上が「当今、国家として何が急務か」と問うた。諫議大夫の褚遂良が「今、四方に憂いはありません。ただ太子と諸王の分限を定めることが最も急務です」と答え、上は「その言はもっともだ」と言った。
  • 当時、太子承乾は徳を失い、魏王泰が寵を得ていたので、群臣の間に日々疑議が生じた。上は聞いて憎み、侍臣に「今、群臣で忠直なこと魏徴に及ぶ者はない。太子の傅として遣わし、天下の疑いを絶とう」と言った。
  • 九月丁巳、魏徴を太子太師とした。魏徴は病が少し癒えて朝堂に出て辞退の表を奉ったが、上は手ずから詔を書いて諭した。周の幽王と晋の献公は嫡を廃して庶を立て、国を危うくし家を亡ぼした。漢の高祖は危うく太子を廃するところを四皓によってようやく安んじた。私が今、公に頼るのはその意である。公の病は承知している。臥したまま護ってくれてよい、と。魏徴はそこで詔を受けた。

貞観十七年(643年)――承乾の廃位

  • 春正月丙寅、上は群臣に「外の士民は太子に足の病があり、魏王が聡明でしばしば遊幸に従うことから、たちまち異議を生じていると聞く。僥倖を狙う輩にはすでに付会する者がいる。太子は足を病んでいても歩行に支障はない。しかも礼では嫡子が死ねば嫡孫を立てる。太子の男子はすでに五歳である。朕は決して庶子で宗嫡に代え、窺い狙う源を開いたりはせぬ」と言った。
  • はじめ太子承乾は声色と狩猟を好み、行うところは奢侈だった。上に知られるのを恐れ、宮臣の前では常に忠孝を論じ、時には涙を流したが、退いて宮中に帰れば小人どもと狎れ戯れた。宮臣で諫めようとする者があると、太子は先にその意を察して迎え拝し、容を正して端座し、咎を引いて自ら責め、弁舌は巧みで、宮臣は答礼する暇もなかった。宮中の秘事は外に知られなかったので、当時の評判は初めみな賢と称した。
  • 太子は八尺の銅の炉と六つの仕切りのある大鼎を作り、逃亡奴を集めて民間の馬牛を盗ませ、自ら臨んで煮て、寵愛する下男どもとともに食べた。
  • また突厥の言葉と服飾を真似ることを好み、側近から突厥に似た容貌の者五人を選んで一落とし、髪を編み羊の皮衣を着せて羊を牧させ、五つの狼頭の纛と幡旗を作り、穹廬を設けて自らその中に居し、羊を集めて煮て、佩刀を抜いて肉を切って食べ合った。
  • またあるとき側近に「私が試しに可汗になって死ぬから、お前たちはその喪儀を真似よ」と言い、地に倒れ伏した。衆はみな号哭し、馬に乗って周りを走り、その体に臨んで顔に傷をつけることしばらく、太子は突然起きて「一朝、天下を得たら、数万騎を率いて金城の西で狩りをし、それから髪を解いて突厥となり、思摩に身を委ねよう。一設くらいにはなれて人後に落ちはすまい」と言った。
  • 左庶子の于志寧と右庶子の孔穎達がしばしば太子を諫め、上は嘉して二人に金帛を賜い、太子を諷刺し励まし、于志寧を詹事に遷した。于志寧は左庶子の張玄素とともにしばしば上書して切諫し、太子はひそかに人を遣って殺そうとしたが果たさなかった。
  • 漢王元昌は行いに不法が多く、上はしばしば譴責したので、そのため怨望していた。太子は元昌と親しく、朝夕ともに遊戯した。左右二隊に分け、太子と元昌がそれぞれ一隊を率い、氈の甲を着け竹の矟を執り、陣を布いて大声を上げて交戦し、突き刺して血を流すのを娯楽とした。命に従わぬ者は樹に縛って打ち、死者が出ることもあった。
  • そして「私が今日天子となれば、明日には苑中に万人の営を置き、漢王と分けて率いてその戦闘を観よう。楽しくないか」と言い、また「私が天子となれば思うまま欲を恣にし、諫める者はただちに殺す。数百人も殺せば衆は自ずと定まる」と言った。
  • 魏王泰は多芸で上に寵愛され、太子に足の病があるのを見てひそかに嫡を奪う志を抱き、節を折って士に下って声誉を求めた。上は黄門侍郎の韋挺に泰の府の事を摂させ、後に工部尚書の杜楚客に代えた。二人はともに泰のために朝士を結び、杜楚客は時に金を懐にして権貴に賄賂し、「魏王は聡明で上嗣とすべきです」と説いた。文武の士はそれぞれ縁故を頼って、ひそかに朋党をなした。
  • 太子はその圧迫を恐れ、人を遣って泰の府の典籤と偽って封事を上らせ、その中はすべて泰の罪悪を述べたものだった。捕らえるよう勅が下ったが捕らえられなかった。
  • 太子は太常の楽童の称心を寵愛して寝起きをともにし、道士の秦英と韋霊符は妖術で太子の寵を得ていた。上は聞いて激怒し、称心らをことごとく捕らえて殺し、連坐して死んだ者も数人あり、太子を厳しく責めた。太子は泰が告げたと思って怨みと怒りをいっそう募らせ、称心を思い続けて宮中に部屋を構えてその像を立て、朝夕に供え祭り、行き来しては涙を流し、また苑中に塚を作って私に官を贈り碑を立てた。上の心は次第に不快になり、太子もそれを知って病と称して朝謁せず、時には数か月に及んだ。
  • ひそかに刺客の紇干承基らおよび壮士百余人を養い、魏王泰を殺そうと謀った。
  • 吏部尚書の侯君集の婿の賀蘭楚石が東宮の千牛だった。太子は侯君集が怨望していることを知り、しばしば賀蘭楚石に侯君集を東宮に引き入れさせ、身を安んずる術を問うた。侯君集は太子が暗劣なので隙に乗じて図ろうと考え、謀反を勧めて手を挙げ「この良い腕を殿下のために用いましょう」と言い、また「魏王は上に愛されております。殿下には庶人勇(隋の楊勇)の禍がありましょう。もし勅で召されたら、ひそかに備えられますよう」と言った。太子は大いに同意した。
  • 太子は侯君集および左屯衛中郎将の頓丘の李安儼に厚く賄賂し、上の意向の動静を探らせて報告させた。李安儼はもと隠太子に仕え、隠太子が敗れたとき力戦したので、上は忠と認めて親任し宿衛を典らせていた。李安儼は深く太子に身を託した。
  • 漢王元昌も太子に謀反を勧め、「近ごろ上の側に琵琶の上手な美人がいる。事が成ったらそれを賜りたい」と言い、太子は許した。
  • 洋州刺史の開化公の趙節は趙慈景の子で、母は長広公主。駙馬都尉の杜荷は杜如晦の子で、城陽公主を娶っていた。いずれも太子に親しまれ、その謀反の謀に加わった。同謀の者はみな腕を割いて帛で血を拭い、焼いた灰を酒に混ぜて飲み、生死をともにすると誓い、ひそかに兵を率いて西宮に入る謀を立てた。
  • 杜荷が太子に「天文に変があります。速やかに発してこれに応ずるべきです。殿下はただ急病で危篤と称されよ。主上は必ず自ら見舞いに来られます。それに乗じて志を得られましょう」と言った。
  • 太子は斉王祐が斉州で反したと聞いて、紇干承基らに「私の宮の西の牆は大内までわずか二十歩だ。卿らと大事をなすのに、斉王ごときと比べものになるか」と言った。
  • 折しも斉王祐の反乱を取り調べたところ紇干承基に連座し、紇干承基は大理の獄に繋がれて死罪となった。
  • 夏四月庚辰朔、紇干承基が変を告げて太子の謀反を訴えた。勅で長孫無忌・房玄齢・蕭瑀・李世勣と大理・中書・門下に合同で取り調べさせ、謀反の形はすでに明白だった。
  • 上が侍臣に「承乾をどう処すべきか」と問うと、群臣は誰も答えなかった。通事舎人の来済が進んで「陛下が慈父たるを失わず、太子が天年を全うできれば、それでよろしいでしょう」と言い、上は従った。来済は来護児の子である。
  • 乙酉、詔して太子承乾を廃して庶人とし、右領軍府に幽閉した。
  • 上は漢王元昌の死を免じようとしたが群臣が固く争ったので、家で自尽を賜り、その母・妻・子は赦した。侯君集・李安儼・趙節・杜荷らはみな誅された。左庶子の張玄素、右庶子の趙弘智、令狐徳棻らは諫争できなかったとしてみな連坐して免官され庶人とされた。その他、連坐すべき者はすべて赦された。詹事の于志寧はしばしば諫めたことから、独り労い励ましを蒙った。紇干承基を祐川府折衝都尉とし、平棘県公の爵を賜った。
  • 侯君集が捕らえられ、賀蘭楚石が改めて闕に赴いてその事を告げた。上は侯君集を引き出して「朕は刀筆の吏に公を辱めさせたくない。ゆえに自ら公を取り調べる」と言った。侯君集は初め認めなかったが、賀蘭楚石が始終を詳しく述べ、また承乾と往来した書状を示したので、侯君集は言葉に窮して認めた。
  • 上は侍臣に「君集には功がある。命乞いをしてやりたいが、どうか」と言ったが、群臣は不可とした。上は侯君集に「公と永訣する」と言って涙を流し、侯君集も自ら地に身を投げ、市で斬られた。
  • 侯君集は刑に臨んで監刑の将軍に「君集は蹉跌してここに至った。しかし藩邸から陛下にお仕えし、二国を撃ち取った。どうか子一人を全うして祭祀を奉らせてほしい」と言った。上はその妻と子を赦して嶺南に移した。その家を没収したところ、幼いときから人の乳を飲んで食物を摂らぬ美人が二人いた。
  • はじめ上が李靖に侯君集へ兵法を教えさせたとき、侯君集は上に「李靖は謀反するでしょう」と言った。理由を問うと「李靖は私に粗いところだけを教えて精妙な部分を隠します。それで分かります」と答えた。上が李靖に問うと、李靖は「これはむしろ侯君集が謀反しようとしているのです。今、中国はすでに定まり、私が教えたところで四夷を制するに足ります。それなのに侯君集は私の術をことごとく求める。謀反でなくて何でしょう」と答えた。
  • 江夏王道宗がかつてくつろいで上に「侯君集は志が大きく智が小さく、わずかな功を自負して房玄齢や李靖の下にいるのを恥じております。吏部尚書となってもその志を満たしません。私が見るところ、必ず乱をなしましょう」と言った。上は「君集の才器なら何をさせても差し支えない。朕がどうして重い位を惜しもうか。ただ順番が来ていないだけだ。臆測で妄りに猜疑を生じてよいものか」と言った。侯君集が反して誅されてから、上は道宗に「果たして卿の言のとおりだった」と謝した。
  • 李安儼の父は九十余歳で、上は憐れんで奴婢を与えて養わせた。
  • 太子承乾が罪を得ると、魏王泰は自ら入って上に侍り、上は面と向かって太子に立てることを許した。岑文本と劉洎もこれを勧めたが、長孫無忌は固く晋王治を立てるよう請うた。
  • 上は侍臣に「昨日、青雀(泰)が私の懐に飛び込んで『臣は今日初めて陛下の子となれました。生まれ変わった日です。臣には子が一人おりますが、臣が死ぬ日にはその子を陛下のために殺し、位を晋王に伝えましょう』と言った。誰が我が子を愛さぬだろう。朕はこれを見て深く憐れんだ」と言った。
  • 諫議大夫の褚遂良は「陛下のお言葉は大変な失言です。どうか慎重にお考えになり、誤られませぬよう。陛下の万歳の後、魏王が天下に拠って、愛児を殺して位を晋王に伝えるなどということがありましょうか。陛下は先に承乾を太子に立てながら、また魏王を寵愛し、その礼秩が承乾を超えたことで今日の禍が生じたのです。前の事は遠くありません。鑑とするに足ります。陛下が今、魏王を立てられるなら、まず晋王の身の処し方を定められてこそ安全を得られましょう」と言った。上は涙を流して「私にはそんなことはできぬ」と言い、立って宮に入った。
  • 魏王泰は上が晋王治を立てるのを恐れ、治に「お前は元昌と親しかった。元昌は今、敗れた。憂えずにおれるか」と言った。治はそれで憂いが顔に出、上は怪しんでしきりに理由を問い、治はありのままを告げた。上は愕然とし、初めて泰を立てると言ったことを悔いた。
  • 上が面と向かって承乾を責めると、承乾は「臣は太子であって、ほかに何を求めましょう。ただ泰に図られたゆえに、朝臣と身を安んずる術を謀ったところ、不逞の輩がついに臣に不軌を教えたのです。今もし泰を太子とされれば、まさに彼の思う壺です」と言った。
  • 承乾が廃されてから、上は両儀殿に出御し、群臣がみな退出した後、長孫無忌・房玄齢・李世勣・褚遂良だけを留めて「私の三人の子と一人の弟のしたことがこうだ。私の心はまことに拠り所がない」と言い、寝台に身を投げた。長孫無忌らが争って前に出て扶え抱いた。上はまた佩刀を抜いて自ら刺そうとし、褚遂良が刀を奪って晋王治に渡した。
  • 長孫無忌らが上のご意向を問うと、上は「私は晋王を立てたい」と言った。長孫無忌は「謹んで詔を奉じます。異議のある者は斬らせていただきます」と言った。上は治に「お前の舅がお前を許してくれた。拝謝せよ」と言い、治は拝した。
  • 上が長孫無忌らに「公らはすでに私と意を同じくしたが、外の議論はどうか」と問うと、「晋王は仁孝で、天下の心が寄せられて久しい。どうか陛下、試みに百官を召して問われよ。異論のある者があれば、臣は陛下に対して万死に値します」と答えた。
  • 上はそこで太極殿に出御し、文武六品以上を召して「承乾は悖逆、泰も凶険で、いずれも立てられぬ。朕は諸子から嗣を選びたい。誰がふさわしいか、卿らは明言せよ」と言った。衆はみな声を上げて「晋王は仁孝です。嗣とすべきです」と言い、上は喜んだ。
  • この日、泰が百余騎を従えて永安門に至った。門司に勅してその騎をすべて退けさせ、泰を粛章門に引き入れて北苑に幽閉した。
  • 丙戌、詔して晋王治を皇太子に立て、承天門の楼に出御して天下に赦し、三日の酺を許した。
  • 上は侍臣に「私が泰を立てれば、太子の位は工作して得られるということになる。今後、太子が道を失い、藩王がうかがうことがあれば、両方とも棄てる。これを子孫に伝えて永く後の法とする。しかも泰を立てれば承乾も治も全うできぬが、治を立てれば承乾も泰も無事でいられる」と言った。

史論(臣光曰)

  • 唐の太宗は天下という大器を愛する者に私せず、禍乱の源を塞いだ。遠謀に長けていたというべきである。