通鑑紀事本末太宗、内難を平定する(太宗平内難)
唐の建国を支えた秦王李世民と、年長ゆえに東宮に立った太子建成・斉王元吉との対立が、後宮の妃嬪の讒言や高祖の猜疑をはさんで深まり、玄武門の変に至るまでを追う。建成が慶州都督楊文幹に武具を送って発覚した事件、毒酒・驚馬・刺客といった暗殺の企て、房玄齢・長孫無忌・尉遅敬徳らの決起の勧めを経て、武徳九年(626年)六月、世民が玄武門で建成と元吉を射殺し、皇太子に立って国政を委ねられるまでの五年間。
年表(3件)
- 唐高祖
- 武徳五年――兄弟の対立622年妃嬪の讒言で高祖が世民を疎み、建成が劉黒闥討伐に出て功を求める
- 武徳七年――楊文幹の乱624年建成が楊文幹に武具を送った件が発覚し、楊文幹は挙兵して麾下に殺される
- 武徳九年――玄武門の変626年世民が玄武門で建成と元吉を誅し、皇太子として庶政を委ねられる
唐高祖武徳五年(622年)――兄弟の対立
- 上(高祖)が晋陽で挙兵したのはすべて秦王世民の謀によるもので、上は世民に「事が成れば天下はみなお前がもたらしたものだ。お前を太子とすべきである」と言った。世民は拝して辞退した。唐王となったとき将佐も世民を世子とするよう請い、上も立てようとしたが、世民が固辞してやめた。
- 太子建成は寛大で大まかな性質だが酒色と遊猟を好み、斉王元吉は過失が多く、いずれも上の寵を得ていなかった。世民の功名は日に盛んで、上は常に建成に代えようという意を抱いた。建成は内心落ち着かず、元吉と共謀して世民を倒そうとし、それぞれ党友を引き入れた。
- 上は晩年に寵姫が多く、幼い王が二十人近くいた。その母たちは競って年長の諸子と結んで身を固めようとした。建成と元吉は意を曲げて諸妃嬪に仕え、諂諛や贈賄で至らぬところなく上に取り入った。張婕妤と尹徳妃と密通したと言う者もあったが、宮禁は深く秘されて明らかにできなかった。
- 当時、東宮と諸王・公主の家および後宮の親戚は長安で横暴に振る舞い、人の田宅を奪って恣に不法を働いたが、有司は咎められなかった。
- 世民は承乾殿に、元吉は武徳殿の後院に住み、上の御所と東宮との間を昼夜通行して制限もなかった。太子と二王が御所に出入りするとき、みな馬に乗り弓や刀、雑物を携え、出会っても家人の礼で接した。太子の令と秦王・斉王の教は詔勅と並び行われ、有司はどれに従うべきか分からず、ただ届いた先後で決めるだけだった。
- 世民だけが諸妃嬪に仕えなかったので、妃嬪は競って建成と元吉を褒め世民を貶した。
- 世民が洛陽を平定したとき、上は貴妃ら数人を洛陽に遣わして隋の宮人を選ばせ府庫の珍宝を収めさせた。貴妃らはひそかに世民に宝貨を求め、また親族のために官を求めた。世民は「宝貨はすべて帳簿にして奏上済みである。官は賢才と功ある者に授けるべきだ」と言ってみな許さず、これでいっそう怨まれた。
- 世民は淮安王神通に功があるとして田数十頃を与えた。張婕妤の父が婕妤を通じて上に求め、上は手ずから勅を書いて賜ったが、神通は世民の教が先に届いていたとして渡さなかった。婕妤は上に「勅で妾の父に賜った田を、秦王が奪って神通に与えました」と訴えた。上は怒って世民を「私の手ずからの勅がお前の教に及ばぬというのか」と責めた。後日、左僕射の裴寂に「あの子は久しく兵を典って外にあり、書生に教え込まれて昔の子ではなくなった」と言った。
- 尹徳妃の父の尹阿鼠は驕り高ぶっていた。秦王府の属官の杜如晦がその門前を通ったとき、尹阿鼠の家僕数人が杜如晦を馬から引きずり下ろして殴り、指を一本折り、「お前は何者だ。私の門前を馬を下りずに通るとは」と言った。尹阿鼠は世民が上に訴えるのを恐れ、先に徳妃に「秦王の側近が妾の家を凌辱しました」と奏させた。上はまた怒って世民を「私の妃嬪の家すらお前の側近に凌辱される。まして小民はどうなるのか」と責めた。世民が懸命に弁明しても、上はついに信じなかった。
- 世民は宮中の宴に侍るたび、諸妃嬪を前にして太穆皇后が早く亡くなって上の天下を見られなかったことを思い、時にすすり泣いて涙を流した。上は見て不快になった。諸妃嬪はそこでひそかに共に世民を讒言し、「海内は幸い無事で陛下はご高齢です。ただ楽しまれるべきなのに、秦王はいつも一人で泣かれる。まさに妾らを憎んでおられるのです。陛下の万歳の後、妾ら母子は必ず秦王に容れられず、一人も残りますまい」と言い合って泣き、さらに「皇太子は仁孝です。陛下が妾ら母子を託されれば必ず保全してくださいましょう」と言った。上は心を痛め、これによって太子を替える意はなくなり、世民を次第に疎んじ、建成と元吉は日に親しくなった。
- 太子中允の王珪と洗馬の魏徴が太子に説いた。秦王の功は天下を覆い、内外の心が帰しています。殿下はただ年長ゆえに東宮におられるだけで、海内を鎮服する大功がありません。今、劉黒闥は敗残の余りで衆は一万に満たず、糧も乏しい。大軍で臨めば朽木を折るようなものです。殿下は自ら撃って功名を取り、あわせて山東の豪傑を結ばれれば、身を安んじられましょう、と。太子は上に願い出て許された。王珪は王頍の兄の子である。
武徳七年(624年)――楊文幹の乱
- はじめ斉王元吉が太子建成に秦王世民を除くよう勧め、「兄上のために私が手ずから刺しましょう」と言った。世民が上に従って元吉の邸に行幸したとき、元吉は護軍の宇文宝を寝所に伏せて世民を刺そうとしたが、建成は性質がかなり仁厚で急ぎ止めた。元吉は怒って「兄上のために計ったまで。私に何の得がありましょう」と言った。
- 建成は擅に長安および四方の驍勇な者二千余人を募って東宮の衛士とし、左右の長林に分屯させて「長林兵」と号した。またひそかに右虞候率の可達志に燕王李芸のもとから幽州の突撃騎兵三百を出させ、宮の東の諸坊に置いて東宮の長上に補充しようとした。人に告発され、上は建成を召して責め、可達志を巂州に流した。
- 慶州都督の楊文幹はかつて東宮の宿衛を務めており、建成は親しくして、ひそかに壮士を募って長安に送らせていた。
- 上が仁智宮に行幸しようとして建成に留守を命じ、世民と元吉はみな従った。建成は元吉に世民を図るよう頼み、「安危の計はこの年に決する」と言った。また郎将の爾朱煥と校尉の橋公山に武具を楊文幹に届けさせたが、二人は豳州に至って変を告発し、太子が楊文幹に挙兵させて内外呼応しようとしていると訴えた。また寧州の人の杜鳳挙も宮に来て事情を述べた。
- 上は怒り、他の用件にかこつけて手ずから詔を書いて建成を召し、行在所に来させた。建成は恐れて行こうとしなかった。太子舎人の徐師謩は城に拠って挙兵するよう勧め、詹事主簿の趙弘智は車服を貶し従者を減らして上に謝罪するよう勧めた。建成は仁智宮に赴き、六十里手前で官属をすべて毛鴻賓の砦に留め、十余騎で上に会いに行き、叩頭して謝罪し、身を投げ出して息も絶えんばかりだった。上の怒りは解けず、その夜は幕の下に置いて麦飯を食わせ、殿中監の陳福に監視させた。
- 司農卿の宇文穎を馳せさせて楊文幹を召したが、宇文穎は慶州に至って事情を告げ、楊文幹はついに挙兵して反した。上は左武衛将軍の銭九隴と霊州都督の楊師道に撃たせた。
- 夏六月甲子、上は秦王世民を召して謀った。世民が「楊文幹は小僧のくせに狂逆をなした。その府の僚属がすでに捕らえて誅しているでしょう。さもなくば一将を遣わして討たせれば済むこと」と言うと、上は「そうではない。楊文幹の事は建成に連なる。呼応する者が多いかもしれぬ。お前が自ら行け。帰ったらお前を太子に立てる。私は隋の文帝のように自ら子を誅すことはできぬ。建成は蜀王に封じよう。蜀の兵は脆弱だ。後にお前に仕えられるなら全うしてやれ。仕えられぬなら取るのはたやすい」と言った。
- 上は仁智宮が山中にあって盗兵の急襲を恐れ、夜に宿衛を率いて南に山外へ出、数十里行った。東宮の官属と将卒で後から来る者はみな三十人ずつの隊に分けて兵で囲み守らせた。翌日、仁智宮に戻った。
- 世民が出発してから、元吉と妃嬪が代わる代わる建成のために取りなし、封徳彝も外で弁護したので、上の意はついに変わり、再び建成を京師に帰して留守に就かせ、ただ兄弟が睦まじくないことだけを責め、罪を太子中允の王珪、左衛率の韋挺、天策兵曹参軍の杜淹に帰していずれも巂州に流した。韋挺は韋沖の子である。
- はじめ洛陽平定後、杜淹は久しく任官できず、建成に仕えようとした。房玄齢は杜淹が狡知に長けており、建成を教導すればますます世民に不利になると考え、世民に言って天策府に引き入れさせた。
- 秋七月、楊文幹が寧州を襲って陥し、吏民を駆り立てて百家堡に拠った。秦王世民の軍が寧州に至ると、その一党はみな潰えた。癸酉、楊文幹は麾下に殺され、首を京師に送られた。宇文穎を捕らえて誅した。
- 上が突厥を避けて遷都しようとし、秦王世民が諫めて止めた。建成が妃嬪とともに世民を讒言し「突厥はしばしば辺境の患いとなっても、賂を得れば退きます。秦王は外に賊を防ぐ名を借りて、内では兵権を握って簒奪の謀を成そうとしているのです」と言った。
- 上が城南で狩猟し、太子・秦王・斉王がみな従った。上が三子に馬を駆って射て勝ちを競わせた。建成は肥え太っているがよく跳ね上がる胡馬を持っており、世民に「この馬はたいそう駿足で数丈の谷も越えられる。弟は乗馬に長けている。試しに乗ってみよ」と言った。
- 世民が乗って鹿を追うと馬が跳ね上がった。世民は跳んで数歩離れた所に立ち、馬が起きるとまた乗った。これが三度あり、宇文士及を顧みて「彼はこれで私を殺そうというのだ。死生には命がある。何を害されようか」と言った。
- 建成はこれを聞いて妃嬪に上へ「秦王は自分で『私には天命がある。まさに天下の主となるのだ。どうして無駄に死ぬものか』と言っております」と讒言させた。上は激怒し、まず建成と元吉を召し、それから世民を召し入れて「天子には自ずと天命がある。智力で求められるものではない。お前はなぜそう急いで求めるのか」と責めた。世民は冠を脱いで頓首し、法司に取り調べさせるよう請うたが、上の怒りは解けなかった。
- 折しも有司が突厥の侵入を奏した。上は表情を改めて世民を労い励まし、冠と帯を着けさせて突厥のことを謀った。閏月己未、詔して世民と元吉に兵を率いて幽州に出て突厥を防がせ、上は蘭池で送別した。上は賊寇があるたび世民に討たせたが、事が平らぐと猜疑はいっそう強くなった。
武徳九年(626年)――玄武門の変
- 夏六月丁巳、太白(金星)が昼に天を渡った。
- 秦王世民は太子建成・斉王元吉と隙が生じてから、洛陽が要地であることから、一朝ことがあればそこへ出て保つことを考え、行台工部尚書の温大雅に洛陽を鎮めさせ、秦府車騎将軍の滎陽の張亮に王保ら千余人を率いて洛陽に赴かせ、ひそかに山東の豪傑を結んで変に備え、多く金帛を出して自由に使わせた。元吉が張亮の不軌を告発し、吏に下して取り調べたが、張亮は最後まで何も言わず、釈放されて洛陽に戻った。
- 建成が夜に世民を招いて酒を飲ませ、毒を盛った。世民は急に心痛を起こして血を数升吐き、淮安王神通が扶けて西宮に帰した。
- 上は西宮に行幸して世民の病を見舞い、建成に「秦王はもともと酒が飲めぬ。今後は夜に飲ませてはならぬ」と勅した。そして世民に言った。最初に大計を建て海内を削平したのはみなお前の功だ。私はお前を嗣に立てようとしたが、お前が固辞し、しかも建成は年長で嗣となって久しい。奪うに忍びない。お前たち兄弟は相容れぬようだ。ともに京邑にいれば必ず争いが起きる。お前を行台に帰して洛陽に居らせ、陝より東はすべて主宰させよう。あわせて漢の梁孝王の故事に倣って天子の旌旗を建てることを許す、と。
- 世民は涙を流して膝下を遠く離れたくないと辞したが、上は「天下は一家である。東西の両都は道も近い。私がお前を思えばすぐ行く。悲しむには及ばぬ」と言った。
- 出発しようとするとき、建成と元吉は謀って「秦王が洛陽に至って土地と甲兵を得れば、もはや制せられぬ。長安に留めておけば一匹夫にすぎず、取るのはたやすい」と言った。そこでひそかに数人に封事を上らせ、「秦王の側近は洛陽行きを聞いて喜び躍らぬ者がない。その志向を見るに、二度と戻りますまい」と言わせ、また側近の臣に利害を説かせた。上の意はついに移り、事は取りやめになった。
- 建成と元吉は後宮とともに日夜、世民を上に讒訴した。上は信じて世民を罪しようとしたが、陳叔達が「秦王は天下に大功があります。退けてはなりません。しかも性は剛烈です。挫き抑えれば憂憤に堪えず、不測の病になるかもしれません。陛下が悔いても及びますまい」と諫め、上はやめた。
- 元吉がひそかに秦王を殺すよう請うと、上は「彼には天下を定めた功がある。罪状も明らかでない。何を口実にするのか」と言った。元吉は「秦王は東都を平定した当初、様子をうかがって帰らず、銭帛をばらまいて私恩を植えました。また勅命に違いました。謀反でなくて何でしょう。速やかに殺すべきで、口実の心配など要りません」と言ったが、上は応じなかった。
- 秦府の僚属はみな憂え恐れてなす術を知らなかった。行台考功郎中の房玄齢が比部郎中の長孫無忌に「今や嫌隙はすでに成り、一朝にして禍が起これば、府朝が地に塗れるだけでなく、実に社稷の憂いとなります。王に周公の事を行うよう勧めて家国を安んじるに如くはありません。存亡の機は髪一筋も容れぬ、まさに今日です」と言った。長孫無忌は「私も久しくこれを胸に抱きながら口に出せなかった。今、あなたの言はまさに私の心に合う。謹んで申し上げよう」と言った。
- 長孫無忌が入って世民に言い、世民は房玄齢を召して謀った。房玄齢は「大王の功は天地を覆い、大業を承けるべきです。今日の憂危はまさに天の助けです。どうかお疑いなく」と言い、府属の杜如晦とともに世民に建成と元吉を誅すよう勧めた。
- 建成と元吉は秦府に驍将が多いので誘って自分のために用いようと考え、ひそかに金銀の器一車を左二副護軍の尉遅敬徳に贈り、あわせて書を送って「どうか長者のお目をこちらに向け、布衣の交わりを篤くしたい」と招いた。
- 尉遅敬徳は辞して言った。私は蓬の戸に甕の窓の身で、隋末の乱離に遭って久しく逆賊の地に沈み、罪は誅にも余ります。秦王が更生の恩を賜り、今また藩邸に名を連ねております。ただ身を殺して報いるのみ。殿下には功がなく、重い賜り物を誤って受けるわけにはまいりません。もし私かに殿下と交われば、それは二心を抱き、利に走って忠を忘れることになります。殿下も何の用がありましょう、と。建成は怒って絶交した。
- 尉遅敬徳が世民に告げると、世民は「公の心は山岳のごとし。金を斗の高さに積まれても公は動かぬと分かっている。贈られた物はただ受けておけ。何の憚りがあろう。しかもその陰謀を知ることができる。良策ではないか。さもなくば禍が公に及ぶ」と言った。
- まもなく元吉が壮士に夜、尉遅敬徳を刺させようとした。尉遅敬徳は知って重い門をすべて開け放ち、安らかに臥して動かなかった。刺客はしばしばその庭まで至ったが、ついに入れなかった。
- 元吉は尉遅敬徳を上に讒言し、詔獄に下して取り調べさせ殺そうとしたが、世民が固く請うて免れた。また左一馬軍総管の程知節を讒言して康州刺史として出させた。程知節は世民に「大王の手足も羽翼も尽きます。身がどうして長らえましょう。私は死んでも去りません。早く決断を」と言った。
- また金帛で右二護軍の段志玄を誘ったが、段志玄は従わなかった。
- 建成が元吉に「秦府の智略の士で憚るべきは房玄齢と杜如晦だけだ」と言い、いずれも上に讒言して追い出した。
- 世民の腹心では長孫無忌だけが府中に残り、その舅の雍州治中の高士廉、左候車騎将軍の三水の侯君集および尉遅敬徳らとともに、日夜、世民に建成と元吉を誅すよう勧めた。世民は躊躇して決しかね、霊州大都督の李靖に問うたが李靖は辞退し、行軍総管の李世勣に問うたが李世勣も辞退した。世民はこれによって二人を重んじた。
- 折しも突厥の郁射設が数万騎を率いて河南に駐屯し、塞に入って烏城を囲んだ。建成は元吉を世民に代えて諸軍を督して北征させるよう推し、上は従い、元吉に右武衛大将軍の李芸、天紀将軍の張瑾らを督して烏城を救わせた。
- 元吉は尉遅敬徳・程知節・段志玄および秦府右三統軍の秦叔宝らを同行させることを請い、秦王の帳下の精鋭の士を検閲して元吉の軍に加えた。
- 率更丞の王晊が世民にひそかに告げた。太子が斉王に「今、お前が秦王の驍将と精兵を得て数万の衆を擁したら、私は秦王とともに昆明池でお前を送別する。そこで壮士に幕の下で締め殺させ、急死したと奏する。主上は信じられぬはずがない。私が人をやって説き、私に国事を授けさせよう。尉遅敬徳らはお前の手中に入るのだから、みな穴埋めにせよ。誰が服さぬものか」と語りました、と。
- 世民が王晊の言を長孫無忌らに告げると、無忌らは先手を打つよう勧めた。世民は嘆いて「骨肉の相殺は古今の大悪だ。私も禍が朝夕に迫っていることは知っている。彼らが発してから義をもって討てばよいのではないか」と言った。
- 尉遅敬徳は言った。人情として誰が死を惜しまぬでしょう。今、衆人が死をもって王に奉ずるのは天授です。禍の機が起ころうとしているのに、王はなお平然として憂えられない。大王が自ら身を軽んじられても、社稷宗廟をどうなさるのか。大王が私の言を用いられぬなら、私は草沢に身を隠すまで。大王の側に留まって手をこまねいて殺されるわけにはまいりません、と。
- 長孫無忌も「敬徳の言に従われなければ、事は今にも敗れます。敬徳らは必ず王のものでなくなり、無忌もそれに随って去り、二度と大王にお仕えできません」と言った。世民は「私の言うことも全く捨て去るべきではあるまい。公らはさらに図られよ」と言った。
- 尉遅敬徳は「王が今、事を処するのに疑われるのは智ではありません。難に臨んで決せられぬのは勇ではありません。しかも大王が日ごろ養われた勇士八百余人のうち、外にいた者は今すでに宮に入り、甲を着け兵を執っております。事勢はすでに成りました。大王がどうしてやめられましょう」と言った。
- 世民が府の僚属に諮ると、みな言った。斉王は凶戻で、ついに兄に仕えようとしません。近ごろ護軍の薛実が斉王に「大王のお名前は合わせれば唐の字になります。大王はついに唐の祀りを主宰されましょう」と言い、斉王は喜んで「ただ秦王さえ除けば、東宮を取るのは手のひらを返すようなものだ」と言ったと聞きます。彼は太子と乱を謀ってまだ成らぬうちに、すでに太子を取る心を抱いている。乱心に限りがなく、何をしでかすか分かりません。二人が志を得れば、天下は唐のものでなくなりましょう。大王の賢をもってすれば二人を取るのは地に落ちた芥を拾うようなもの。なぜ匹夫の節に殉じて社稷の計を忘れられるのですか、と。
- 世民がなお決しかねると、衆は「大王は舜をどのような人と思われますか」と問うた。「聖人だ」と答えると、衆は「舜が井戸を浚って出られなければ井中の泥となり、倉の屋根を塗って下りられなければ倉上の灰となっていたでしょう。どうして沢を天下に被らせ法を後世に施せましたか。ゆえに小さな杖なら受け、大きな杖なら逃げる。存する所が大きいからです」と言った。
- 世民が占いを命じたところ、幕僚の張公謹が外から来てこれを見、亀甲を取って地に投げて「占いは疑いを決するためのもの。今、事は疑うところがない。何を占いましょう。占って不吉なら、やめられるのですか」と言った。こうして計が定まった。
- 世民が長孫無忌にひそかに房玄齢らを召させたが、房玄齢は「勅旨で二度と王に仕えてはならぬとされております。今、私かに謁すれば必ず死罪です。お教えを奉じられません」と言った。世民は怒って尉遅敬徳に「玄齢と如晦は私に叛くのか」と言い、佩刀を渡して「公が行って見よ。来る気がなければ首を斬って来い」と言った。
- 尉遅敬徳が行って長孫無忌とともに「王はすでに計を決された。公らは速やかに入ってともに謀られよ。我ら四人は連れ立って道を行くわけにいかぬ」と諭した。そこで房玄齢と杜如晦に道士の服を着せ、長孫無忌とともに入らせ、尉遅敬徳も別の道から至った。
- 己未、太白がまた昼に天を渡った。傅奕がひそかに「太白が秦の分野に現れました。秦王が天下を有つべきです」と奏し、上はその上奏文を世民に渡した。
- そこで世民はひそかに建成と元吉が後宮と淫乱していることを奏し、「臣は兄弟に対して毫も負い目がありません。今、臣を殺そうとするのは、王世充や竇建徳のために仇を報いるかのようです。臣が今、無実の死を遂げて永く君と親に別れ、魂が地下に帰れば、まことにあの賊どもに会うのが恥ずかしい」と述べた。上は読んで驚き、「明日、取り調べる。お前は早く参上せよ」と答えた。
- 庚申、世民は長孫無忌らを率いて入り、玄武門に伏兵を置いた。張婕妤がひそかに世民の上表の内容を知って馳せて建成に告げ、建成は元吉を召して謀った。元吉は「宮府の兵を整え、病と称して朝せず、形勢を見るべきです」と言ったが、建成は「兵の備えはすでに厳重だ。弟とともに入って参上し、自ら消息を問おう」と言い、ともに玄武門へ向かった。
- 上はこのときすでに裴寂・蕭瑀・陳叔達らを召してその事を取り調べようとしていた。
- 建成と元吉が臨湖殿に至って変を察し、馬を返して東の宮府に帰ろうとした。世民が従って呼びかけると、元吉は弓を引いて世民を射ようとしたが、三度とも引き絞れなかった。世民が建成を射て殺した。
- 尉遅敬徳が七十騎を率いて続いて至り、左右が元吉を射て落馬させた。世民の馬が林に逃げ込んで木の枝に引っかかり、世民は落ちて起てなかった。元吉が駆けつけて弓を奪い、首を締めようとしたところへ尉遅敬徳が馬を躍らせて叱った。元吉は徒歩で武徳殿へ向かおうとし、尉遅敬徳が追って射殺した。
- 翊衛車騎将軍の馮翊の馮立は建成の死を聞いて「生きてその恩を受けながら、死んでその難を逃れてよいものか」と嘆き、副護軍の薛万徹、屈咥直府左車騎の万年の謝叔方とともに東宮と斉王府の精兵二千を率いて玄武門に馳せた。張公謹は力が強く、独りで門を閉じて防ぎ、入れなかった。
- 雲麾将軍の敬君弘が宿衛兵を掌って玄武門に駐屯していたが、身を挺して出て戦った。親しい者が「事はまだ分かりません。しばらく様子を見て、兵が集まり列を成してから戦っても遅くありません」と止めたが、敬君弘は従わず、中郎将の呂世衡とともに大声を上げて進み、ともに戦死した。敬君弘は敬顕儁の曽孫である。
- 門を守る兵と薛万徹らが長く力戦し、薛万徹が鼓を鳴らして秦府を攻めようとしたので、府の士は大いに恐れた。尉遅敬徳が建成と元吉の首を示すと、宮府の兵はついに潰えた。薛万徹は数十騎で終南山へ逃げた。馮立は敬君弘を殺してから、その徒に「これで少しは太子に報いられた」と言い、兵を解いて野に逃げた。
- 上はちょうど海池に舟を浮かべていた。世民が尉遅敬徳を宿衛に入らせた。尉遅敬徳が甲を着け矛を持ってまっすぐ上のもとに至ると、上は大いに驚いて「今日の乱は誰の仕業か。卿はここへ何をしに来た」と問うた。尉遅敬徳は「秦王は太子と斉王が乱をなしたので兵を挙げて誅されました。陛下を驚かせ動揺させることを恐れ、臣を宿衛に遣わされたのです」と答えた。
- 上が裴寂らに「今日こんなことが起きようとは思わなかった。どうしたらよいか」と言うと、蕭瑀と陳叔達は「建成と元吉はもともと義挙の謀に加わらず、天下に功もありません。秦王の功高く望みの重いのを憎んで共に姦謀をなしました。今、秦王がすでに討って誅されました。秦王の功は宇宙を覆い、全土の心が帰しています。陛下が元良(皇太子)の位に処し国務を委ねられれば、もう何事もありますまい」と言った。上は「よし。それが私のかねての心だ」と言った。
- そのとき宿衛および秦府の兵と二宮の側近との戦いはまだ止んでいなかった。尉遅敬徳が手ずからの勅を下して諸軍がみな秦王の処分を受けるようにと請い、上は従った。天策府司馬の宇文士及が東上閤門から出て勅を宣し、衆はそれで落ち着いた。上はまた黄門侍郎の裴矩を東宮に遣わして諸将卒を諭させ、みな解散した。
- 上は世民を召して撫でて「近ごろ、危うく投杼の惑い(讒言を信じる過ち)に陥るところだった」と言った。世民は跪いて上の乳を吸い、長く号泣した。
- 建成の子の安陸王承道・河東王承徳・武安王承訓・汝南王承明・鉅鹿王承義、元吉の子の梁郡王承業・漁陽王承鸞・普安王承奨・江夏王承裕・義陽王承度はみな連坐して誅され、属籍からも除かれた。
- はじめ建成は元吉に、正位の後は皇太弟に立てると約束していた。そのため元吉は死力を尽くしたのである。
- 諸将が建成と元吉の側近百余人をことごとく誅してその家を没収しようとしたが、尉遅敬徳が固く争って「罪は二凶にあり、すでに誅を受けました。支党にまで及ぶのは安きを求める道ではありません」と言い、取りやめになった。
- この日、詔を下して天下に赦し、凶逆の罪は建成と元吉に止め、その他の党与は一切問わず、僧尼・道士・女冠はみな旧のままとし、国家の庶事はすべて秦王の処分を仰ぐこととした。
- 辛酉、馮立と謝叔方はみな自ら出頭した。薛万徹は逃げ隠れたが、世民がしばしば人を遣って諭したので出てきた。世民は「これらはみな仕える者に忠であった義士だ」と言って釈放した。
- 癸亥、世民を皇太子に立て、また詔して今後、軍国の庶事は大小を問わずすべて太子が処決してから奏聞することとした。
史論(臣光曰)
- 嫡子の年長者を立てるのは礼の正道である。しかし高祖が天下を得たのはすべて太宗の功であり、隠太子(建成)は凡庸でありながらその上位にあった。地位が嫌疑を招き勢いが迫れば、必ず相容れない。
- 仮に高祖に文王の明があり、隠太子に泰伯の賢があり、太宗に子臧の節があったなら、乱はどこから生じただろうか。そうでなかった以上、太宗が初め相手が先に発するのを待ってから応じようとしたのは、やむを得ぬこととして、まだましであった。
- ところが群下に迫られてついに禁門で血を流し、同腹の兄弟に刃を向けて千古の譏りを残した。惜しむべきことである。
- そもそも創業して統を垂れる君は子孫の手本となる。後の中宗・粛宗・代宗の継承の乱れも、これを引き合いに口実としたのではあるまいか。