通鑑紀事本末唐、山東を平定する(劉黒闥)(唐平山東)

竇建徳の旧将だった劉黒闥が、唐の統治下で追い詰められた河北の旧党とともに挙兵し、半年で竇建徳の旧領を回復して漢東王を称するまでに勢いを得た経緯を追う。秦王李世民が洺水の決戦で堰を切って大破するが、劉黒闥は突厥を引き入れて再起し、淮陽王道玄を敗死させて再び山東を握った。最後は太子建成の遠征と魏徴の懐柔策に崩れ、部将諸葛徳威に売られて斬られ、呼応した徐円朗も滅んで山東が平定される五年間。

年表(4件)

唐高祖武徳二年(619年)

  • もと漳南の人の劉黒闥は若くして驍勇狡猾で、竇建徳と親しかった。後に群盗となり、郝孝徳・李密・王世充に転々と仕えた。王世充は騎将としたが、劉黒闥は王世充のすることを見るたびひそかに笑っていた。王世充が劉黒闥に新郷を守らせたが、李世勣が撃って捕らえ、竇建徳に献じた。竇建徳は将軍に任じ、漢東公の爵を賜った。

武徳四年(621年)――劉黒闥の挙兵

  • 竇建徳が敗れたとき、その諸将の多くは庫の物をひそかに隠し、また里に住んで横暴に振る舞い民の患いとなった。唐の官吏が法で取り締まり、時には杖を加えたので、竇建徳の旧将はみな驚き恐れて落ち着かなかった。
  • 高雅賢と王小胡は家が洺州にあり、家族をひそかに連れ出して逃げようとした。官吏が捕らえようとし、高雅賢らは貝州へ亡命した。折しも上が竇建徳の旧将の范願・董康買・曹湛および高雅賢らを召した。
  • そこで范願らは語り合った。王世充は洛陽ごと唐に降ったのに、その将相大臣の段達・単雄信らはみな滅ぼされた。我らは長安に至れば必ず免れまい。我らはこの十年来、百戦を経てとうに死んでいるはずの身だ。今、なぜ余生を惜しんで事を起こさぬのか。しかも夏王は淮安王を得て客礼で遇したのに、唐は夏王を得るや殺した。我らはみな夏王に厚遇された。今その仇を報いなければ天下の士に顔向けできぬ、と。
  • 乱を起こすことを謀って占うと、劉氏を主とするのが吉と出た。そこでともに漳南へ行き、竇建徳の旧将の劉雅に会って謀を告げた。劉雅は「天下がやっと安定した。私は耕作で老いたい。もう挙兵は望まぬ」と言った。衆は怒り、また謀が漏れるのを恐れて殺した。
  • 旧漢東公の劉黒闥はこのとき漳南に引きこもっていた。諸将が訪ねて謀を告げると、劉黒闥は喜んで従った。劉黒闥はちょうど野菜を植えていたが、耕牛を殺してともに飲食し、計を定めて衆を集め、百人を得た。
  • 秋七月甲戌、漳南県を襲って拠った。
  • 当時、諸道に事があれば行台尚書省を置き、無事なら廃していた。朝廷は劉黒闥の乱を聞いて洺州に山東道行台を置き、魏・冀・定・滄にそれぞれ総管府を置いた。丁丑、淮安王神通を山東道行台右僕射とした。
  • 八月丁酉、劉黒闥が鄃県を陥した。魏州刺史の権威と貝州刺史の戴元祥が戦っていずれも敗死した。劉黒闥はその残衆と器械をすべて収め、竇建徳の旧党も少しずつ出て帰し、衆は二千人に達した。漳南に壇を作って竇建徳を祭り、挙兵の意を告げ、大将軍と自称した。
  • 詔で関中の歩騎三千を発し、将軍の秦武通と定州総管の藍田の李玄通に撃たせ、また幽州総管の李芸に兵を率いて合流して撃たせた。
  • 丁未、劉黒闥が歴亭を陥し、屯衛将軍の王行敏を捕らえて拝させようとしたが応じないので殺した。
  • はじめ洛陽が平定されてから徐円朗が降を請い、兗州総管・魯郡公を拝していた。劉黒闥が乱を起こすとひそかに徐円朗と通謀した。上が葛公の盛彦師に河南を安集させようとして任城まで来たとき、辛亥、徐円朗が盛彦師を捕らえて挙兵して反した。劉黒闥は徐円朗を大行台元帥とし、兗・鄆・陳・杞・伊・洛・曹・戴など八州の豪族がみな呼応した。辛酉、徐円朗が魯王と自称した。
  • 淮安王神通が関内の兵を率いて冀州に至り、李芸の兵と合流し、さらに邢・洺・相・魏・恒・趙などの州の兵を発して合わせて五万余人となり、劉黒闥と饒陽城の南で戦った。陣を十余里に布いた。劉黒闥は衆が少なく、堤に沿って一列に陣して当たった。
  • 折しも風雪があり、神通は風に乗じて撃ったが、やがて風向きが変わって神通は大敗し、士馬と軍資の三分の二を失った。李芸は西の端で高雅賢を撃って破り、数里追撃したが、大軍の不利を聞いて藁城に退いて守った。劉黒闥が迫って撃ち、李芸も敗れた。薛万均と薛万徹はともに捕らえられ、髪を切られて追われた。薛万均兄弟は逃げ帰り、李芸は兵を率いて幽州に帰った。劉黒闥の兵勢は大いに振るった。
  • 庚寅、劉黒闥が瀛州を陥して刺史の盧士叡を殺し、観州の人は刺史の雷徳備を捕らえて城ごと降った。
  • 毛州刺史の趙元愷は性が厳しく急で、配下は堪えられなかった。丁卯、州民の董燈明らが乱を起こして趙元愷を殺し、劉黒闥に呼応した。
  • 冬十一月壬寅、劉黒闥が定州を陥して総管の李玄通を捕らえた。劉黒闥はその才を愛して大将にしようとしたが、李玄通は応じなかった。旧吏で酒肉を届ける者があり、李玄通は「諸君は私の幽辱を憐れんで酒肉で慰めてくれた。諸君のために一酔しよう」と言い、酒が酣になると番人に「私は剣舞ができる。刀を貸してくれ」と言った。番人が渡すと、李玄通は舞い終えて嘆息し「大丈夫が国の厚恩を受け一方を鎮撫しながら守る所を全うできぬ。どの面下げて世に息をしていられよう」と言い、刀を引いて自ら刺し、腹を裂いて死んだ。上は聞いて涙を流し、その子の伏護を大将に任じた。
  • 十二月乙卯、劉黒闥が冀州を陥して刺史の麴稜を殺した。劉黒闥は淮安王神通を破ってから趙・魏に書を回し、竇建徳の旧将卒は競って唐の官吏を殺して呼応した。
  • 庚申、右屯衛大将軍の義安王孝常に兵を率いて劉黒闥を討たせた。劉黒闥は数万の兵で進んで宗城に迫った。黎州総管の李世勣は先に宗城に駐屯していたが、城を捨てて洺州に退いて守った。甲子、劉黒闥が追撃して李世勣らを破り、歩卒五千人を殺し、李世勣はかろうじて身一つで逃れた。
  • 丙寅、洺州の土豪が城を翻して劉黒闥に応じた。劉黒闥は城の東南に壇城を築いて天に告げ竇建徳を祭ってから入城した。十日後、兵を率いて相州を攻め落として刺史の房晃を捕らえ、右武衛将軍の張士貴は囲みを破って逃げた。
  • 劉黒闥は南に黎・衛の二州を取り、半年の間に竇建徳の旧領をすべて回復した。また使者を送って北に突厥と結び、頡利可汗が俟斤の宋邪那に胡騎を率いて従わせた。左武衛将軍の秦武通、洺州刺史の陳君賓、永寧令の程名振はみな河北から長安へ逃げ帰った。
  • 丁卯、秦王世民と斉王元吉に劉黒闥を討たせた。
  • 己巳、劉黒闥が邢州・趙州を陥し、庚午、魏州を陥して総管の潘道毅を殺し、辛未、莘州を陥した。

武徳五年(622年)――洺水の決戦

  • 春正月、劉黒闥が漢東王と自称し、天造と改元して洺州に都を定めた。范願を左僕射、董康買を兵部尚書、高雅賢を右領軍とし、王琮を召して中書令、劉斌を中書侍郎とした。竇建徳時代の文武はみな旧位に復した。その法制と政治はすべて竇建徳に倣ったが、攻戦の勇と決断はそれを上回った。
  • 庚寅、東塩州治中の王才芸が刺史の田華を殺して城ごと劉黒闥に応じた。
  • 秦王世民の軍が獲嘉に至ると、劉黒闥は相州を捨てて洺州に退いて守った。丙申、世民が相州を回復し、軍を肥郷に進めて洺水のほとりに営を並べて迫った。
  • 幽州総管の李芸が部下の兵数万を率いて秦王世民の劉黒闥討伐に合流した。劉黒闥は聞いて一万の兵を残して范願に洺州を守らせ、自ら兵を率いて李芸に当たり、夜に沙河に宿した。程名振が鼓六十具を城の西二里の堤上に載せて激しく打ち鳴らすと、城中の地はみな震動した。范願は驚き恐れて馳せて劉黒闥に告げ、劉黒闥は急ぎ引き返し、弟の十善と行台の張君立に一万の兵で鼓城の李芸を撃たせた。壬子、徐河で戦って十善と張君立は大敗し、八千人を失った。
  • 洺水の人の李去感が城ごと降り、秦王世民は彭公の王君廓に千五百騎で赴かせ、入城してともに守らせた。
  • 二月、劉黒闥が兵を率いて戻って洺水を攻めた。癸亥、列人まで来たところを秦王世民が秦叔宝に迎え撃たせて破った。
  • 己巳、秦王世民が邢州を回復した。辛未、并州の人の馮伯譲が城ごと降った。
  • 丙子、李芸が劉黒闥の定・欒・廉・趙の四州を取り、劉黒闥の尚書の劉希道を捕らえ、兵を率いて洺州で秦王世民と合流した。
  • 劉黒闥が洺水をきわめて激しく攻めた。城の四方はみな水で幅五十余歩あったが、劉黒闥は城の東北に二本の甬道を築いて攻めた。世民が三度兵を率いて救おうとしたが、劉黒闥に阻まれて進めなかった。
  • 世民は王君廓が守りきれぬことを恐れ、諸将を召して謀った。李世勣が「甬道が城下まで達すれば城は必ず守れません」と言い、行軍総管の郯勇公の羅士信が王君廓に代わって守ることを請うた。
  • 世民は城の西南の高い塚に登り、旗で王君廓を招いた。王君廓はその徒を率いて力戦し囲みを破って出、羅士信が側近二百人を率いてそれに乗じて入城し、王君廓に代わって固守した。
  • 劉黒闥は昼夜急攻した。折しも大雪で救援が行けず、八日目の丁丑、城が陥ちた。劉黒闥は日ごろその勇を聞いていたので生かそうとしたが、羅士信は言葉も顔色も屈しないので殺した。時に二十歳。
  • 辛巳、秦王世民が洺水を抜いた。
  • 三月、世民は李芸とともに洺水の南に営し、兵を分けて水の北に駐屯させた。劉黒闥がしばしば挑戦したが、世民は壁を固めて応じず、別に奇兵を送ってその糧道を絶った。
  • 壬辰、劉黒闥が高雅賢を左僕射とし、軍中で盛大な宴を開いた。李世勣が兵を率いてその営に迫ると、高雅賢は酔って単騎で追った。李世勣の部将の潘毛が刺して落馬させ、左右が続いて来て扶けて帰したが、営に着かぬうちに死んだ。
  • 甲午、諸将がまたその営に迫り、潘毛は王小胡に捕らえられた。
  • 劉黒闥が冀・貝・滄・瀛の諸州から糧を運び、水陸から進めた。程名振が千余人で迎え撃ち、その舟を沈め車を焼いた。
  • 秦王世民と劉黒闥は六十余日対峙した。劉黒闥がひそかに兵を出して李世勣の営を襲い、世民が兵を率いてその背後を突いて救おうとして、劉黒闥に包囲された。尉遅敬徳が壮士を率いて囲みを犯して入り、世民は略陽公道宗とともにそれに乗じて脱出した。道宗は帝の従子である。
  • 世民は劉黒闥の糧が尽きて必ず決戦に来ると読み、人をやって洺水の上流を堰き止めさせ、守りの吏に「私が賊と戦い始めたら決壊させよ」と言った。
  • 丁未、劉黒闥が歩騎二万を率いて南に洺水を渡り、唐の営に迫って陣した。世民が自ら精騎を率いてその精兵を撃って破り、勝ちに乗じてその歩兵を蹂躙した。劉黒闥は衆を率いて死力を尽くして戦い、午から日暮れまで数合戦ったが、支えきれなくなった。王小胡が劉黒闥に「智も力も尽きた。早く逃げるべきです」と言い、劉黒闥とともに先に逃げた。残る衆はそれを知らずなお戦っていた。
  • 守りの吏が堰を切り、洺水が一丈余りの深さで押し寄せ、劉黒闥の衆は大潰した。一万余級を斬り、数千人が溺死した。劉黒闥は范願らと二百騎で突厥に走り、山東はすべて平定された。
  • 徐円朗は劉黒闥の敗北を聞いて大いに恐れ、なす術を知らなかった。河間の人の劉復礼が「劉世徹という者がおり、その才略は世に出るものでなく、名は東方に高く、しかも非常の相があって真の帝王の器です。将軍が自立されても結局は成らぬでしょう。劉世徹を迎えて奉じれば、天下は指図するだけで定まります」と説き、徐円朗も同意して劉復礼に浚儀へ劉世徹を迎えに行かせた。
  • ある者が徐円朗に「将軍は人に惑わされて劉世徹を迎えて奉じようとしておられる。劉世徹が志を得れば、将軍に身の置き所がありましょうか。遠く古を引くまでもない。将軍は翟譲と李密の例をご覧にならぬのか」と説き、徐円朗はまたそう思った。
  • 劉世徹が到着したときにはすでに数千の衆を擁し、城外に留まって徐円朗の出迎えを待った。徐円朗は出ず、人を遣って召した。劉世徹は事情の変化を知って逃げようとしたが免れぬと思い、入って謁した。徐円朗はその兵をことごとく奪い、司馬として譙・杞の二州を従えさせた。東方の人は日ごろその名を聞いていたので向かうところみな降ったが、徐円朗はついに殺した。
  • 秦王世民が河北から兵を率いて徐円朗を撃とうとしたところ、上が召して駅伝で入朝させたので、兵を斉王元吉に属させた。庚申、世民が長安に至り、上は長楽で迎えた。世民が徐円朗を取る形勢を詳しく述べると、上は再び黎陽に遣わし、大軍と合流して済陰へ向かわせた。
  • 丙子、行台民部尚書の史万宝が徐円朗の陳州を攻めて抜いた。
  • 夏六月辛亥、劉黒闥が突厥を引き入れて山東を侵し、詔で燕郡王李芸に撃たせた。
  • 乙卯、淮安王神通を遣わして徐円朗を撃たせた。
  • 丁卯、劉黒闥が突厥を引き入れて定州を侵した。
  • 秋七月甲申、秦王世民は淮・済の間がほぼ平定されたとして、淮安王神通・行軍総管の任瓌・李世勣に徐円朗を攻めさせ、乙酉、凱旋した。
  • 劉黒闥が定州に至ると、旧将の曹湛と董康買が鮮虞に亡命しており、再び兵を集めて呼応した。甲午、淮陽王道玄を河北道行軍総管として討たせた。
  • 九月、劉黒闥が瀛州を陥して刺史の馬匡武を殺し、塩州の人の馬君徳が城ごと叛いて劉黒闥に付いた。
  • 冬十月己酉、詔して斉王元吉に山東で劉黒闥を討たせた。壬子、元吉を領軍大将軍・并州大総管とした。癸丑、貝州刺史の許善護が劉黒闥の弟の十善と鄃県で戦い、許善護の全軍が全滅した。甲寅、右武候将軍の桑顕和が晏城で劉黒闥を撃って破った。観州刺史の劉会が城ごと叛いて劉黒闥に付いた。
  • 乙丑、行軍総管の淮陽壮王道玄が劉黒闥と下博で戦い、軍が敗れて劉黒闥に殺された。
  • 当時、道玄は三万の兵を率いていたが副将の史万宝と折り合いが悪かった。道玄が軽騎を率いて先に出て陣を犯し、史万宝に大軍で続くよう命じたが、史万宝は兵を抱えて進まず、親しい者に「私は手ずからの勅を奉じており、『淮陽の小僧の軍事はすべて老夫に委ねる』とあった。今、王は軽鋭で妄りに進んだ。ともに行けば必ず同じく敗死する。王を賊の餌にするに如くはない。王が敗れれば賊は必ず争って進む。私は陣を固めて待ち、破るのは必至だ」と言った。
  • これによって道玄は単独で進んで敗死した。史万宝が兵を整えて戦おうとしたが、士卒はみな戦意がなく、軍はついに大潰し、史万宝は逃げ帰った。
  • 道玄はしばしば秦王世民に従って征伐し、死んだとき十九歳。世民は深く惜しみ、人に「道玄はいつも私に従って征伐し、私が深く賊陣に入るのを見て心から倣おうとし、こうなった」と言って涙を流した。世民は挙兵以来、前後数十戦、常に士卒に先立って軽騎で深入りし、しばしば危地に陥りながら、ついに矢や刃で傷ついたことがなかった。
  • 淮陽王道玄の敗北に山東は震え驚き、洺州総管の廬江王瑗は城を捨てて西へ走り、州県はみな叛いて劉黒闥に付いた。十日ほどで劉黒闥は旧領をすべて回復し、乙亥、進んで洺州に拠った。
  • 十一月庚辰、滄州刺史の程大買が劉黒闥に迫られて城を捨てて逃げた。斉王元吉は劉黒闥の兵の強さを恐れて進めなかった。
  • 甲申、詔して太子建成に兵を率いて劉黒闥を討たせ、陝東道大行台および山東道行軍元帥・河南河北の諸州はみな建成の処分を受け、便宜の処置を許した。
  • 己亥、斉王元吉が兵を送って劉十善を魏州で撃って破った。
  • 劉黒闥が兵を擁して南下し、相州以北の州県はみな付いた。ただ魏州総管の田留安だけが兵を整えて拒み守り、劉黒闥は攻めても落とせず、兵を率いて南に元城を抜き、また戻って攻めた。
  • 十二月戊午、劉黒闥が恒州を陥して刺史の王公政を殺した。
  • 癸亥、幽州大総管の李芸が廉・定の二州を回復した。
  • 甲子、田留安が劉黒闥を撃って破り、その莘州刺史の孟柱を捕らえ、将卒六千人を降した。
  • 当時、山東の豪傑の多くは長吏を殺して劉黒闥に応じ、上下は互いに猜疑して人心はますます離れ怨んだ。田留安だけは吏民に対して坦然として疑わず、報告に来る者は親疎を問わずみな寝所まで直接入れた。常に吏民に「私と諸君はともに国のために賊を防いでいる。心を同じくし力を合わせるべきだ。どうしても順を捨てて逆に従いたいなら、私の首を斬って行くがよい」と言った。吏民はみな「田公は至誠をもって人に接しておられる。ともに死力を尽くして報いよう。決して背いてはならぬ」と戒め合った。
  • 花竹林という者はもと劉黒闥の一党で、ひそかに異心を抱いていた。田留安は知りながら事を挙げず、引いて側近に置いて鍵を委ねた。花竹林は感激してかえって心を寄せ、ついにその働きを得た。田留安は功により道国公に進封された。
  • 乙丑、并州刺史の成仁重が范願を撃って破った。
  • 劉黒闥が魏州を攻めて落とせぬうちに、太子建成と斉王元吉の大軍が昌楽に至った。劉黒闥が兵を率いて防ぎ、二度陣を布いたがいずれも戦わずに終わった。
  • 魏徴が太子に言った。先に劉黒闥を破ったとき、その将卒はみな名を挙げられて死刑とされ、妻子は捕虜とされました。ゆえに斉王が来られたとき、党与の罪を赦す詔書があってもみな信じませんでした。今、その囚人と捕虜をすべて解いて慰め諭して帰せば、座視するだけでその離散を見られましょう、と。太子は従った。
  • 劉黒闥は食が尽き、衆の多くが逃亡し、その頭目を縛って降る者もあった。劉黒闥は城中の兵が出て大軍と内外呼応して撃つのを恐れ、夜に逃げた。館陶に至ったが永済橋が未完成で渡れなかった。
  • 壬申、太子と斉王が大軍で至った。劉黒闥は王小胡に水を背にして陣させ、自ら橋の完成を見届けてから橋の西に渡ると、衆はついに大潰し、武器を捨てて降った。大軍が橋を渡って進み、劉黒闥に従って渡れたのはわずか千余騎、そこで橋が壊れたので、劉黒闥は数百騎とともに逃げおおせた。

武徳六年(623年)

  • 春正月己卯、劉黒闥が任じた饒州刺史の諸葛徳威が劉黒闥を捕らえて城ごと降った。
  • 当時、太子は騎将の劉弘基を送って劉黒闥を追わせていた。劉黒闥は官軍に迫られて逃げ続け休む間もなく、饒陽に至ったときは従う者わずか百余人、ひどく飢えていた。諸葛徳威が出迎えて入城を勧めたが、劉黒闥は応じなかった。諸葛徳威が涙を流して固く請うので、劉黒闥は従った。城の傍らの市中で休むと、諸葛徳威が食事を出した。食べ終わらぬうちに諸葛徳威が兵を整えて捕らえ、太子のもとへ送り、弟の十善とともに洺州で斬られた。
  • 劉黒闥は刑に臨んで「私は幸いにも家で野菜を鋤いていたのに、高雅賢の輩に誤られてここに至った」と嘆いた。
  • 二月丙寅、徐円朗は窮して数騎で城を捨てて逃げ、土民に殺された。その地はすべて平定された。