通鑑紀事本末唐、河朔を平定する(竇建徳)(唐平河朔)

漳南の竇建徳が高麗征討の募兵を機に孫安祖を高鶏泊に走らせ、高士達のもとで頭角を現し、河朔を制して長楽王のち夏王を称するまでと、その滅亡を扱う。竇建徳は薛世雄を霧に乗じて破り、王琮・張玄素・麴稜ら降将を厚遇して人心を集め、宇文化及を滅ぼして裴矩に朝儀を定めさせた。洛陽を囲まれた王世充の救援要請に応じ、凌敬の河北迂回策と妻の曹氏の諫めを退けて武牢に迫るが、逸をもって労を待った秦王世民に牛口で大敗して捕らえられ、洺州の斉善行も降って河朔は平定された。

年表(7件)

隋煬帝大業七年(611年)

  • 漳南の人の竇建徳は若くして気概と侠気を尚び、胆力が人並みを越え、郷党に慕われた。高麗征討の募兵に応じ、勇敢さで二百人長に選ばれた。同県の孫安祖も驍勇で征士に選ばれた。
  • 孫安祖は家が水害で流され妻子が飢え死にしたことを理由に辞退したが、県令が怒って鞭打った。孫安祖は県令を刺し殺して逃げ、竇建徳のもとに来た。竇建徳がかくまい、官が追捕して足跡が建徳の家まで達した。
  • 竇建徳は孫安祖に言った。文皇帝の時代、天下は豊かで百万の兵を出して高麗を伐ってもなお敗れた。今は水害で百姓は困窮し、加えて先年の西征では出た者が帰らず傷はまだ癒えぬ。主上は憐れまずさらに兵を出して自ら高麗を撃つ。天下は必ず大乱となる。丈夫たる者、死なぬなら大功を立てるべきだ。ただ逃亡の虜で終わってよいものか、と。
  • そこで無頼の若者数百人を集めて孫安祖に率いさせ、高鶏泊に入って群盗とし、孫安祖は将軍と自称した。当時、鄃の人の張金称は河曲に、蓨の人の高士達は清河の境内に衆を集めて盗となっていた。
  • 郡県は竇建徳が賊と通じていると疑い、その家族をことごとく捕らえて殺した。竇建徳は麾下二百人を率いて高士達のもとへ逃げた。高士達は東海公と自称し、竇建徳を司兵とした。
  • まもなく孫安祖が張金称に殺され、その衆はすべて竇建徳に帰し、兵は一万余に達した。竇建徳は身を低くして人に接し、士卒と労苦をともにしたので、人々は争って付き従い、死力を尽くした。

大業十二年(616年)冬十二月

  • 涿郡通守の郭絢が一万余の兵で高士達を討った。高士達は才略が竇建徳に及ばぬと自覚し、竇建徳を軍司馬に進めて兵をすべて授けた。
  • 竇建徳は高士達に輜重を守らせ、自ら精兵七千を選んで郭絢に当たった。高士達と隙が生じて叛いたと偽り、人を送って郭絢に降を請い、先鋒となって高士達を撃って功を立てたいと申し出た。郭絢は信じて兵を率いて竇建徳に従い長河まで来たが、備えをしなかった。竇建徳が襲って数千を殺し捕らえ、郭絢の首を斬って高士達に献じた。張金称の残る衆もみな竇建徳に帰した。
  • 楊義臣が勝ちに乗じて平原に至り、高鶏泊に入って討とうとした。竇建徳は高士達に「歴代の隋将で用兵に長けた者は楊義臣に及ぶ者がない。今、張金称を滅ぼして来た。その鋒には当たれぬ。兵を引いて避け、戦いたくても戦えぬようにして月日を空費させ、将士が疲れたところで隙に乗じて撃てば破れる。さもなくば公の敵ではあるまい」と言った。
  • 高士達は従わず、竇建徳に営を守らせ、自ら精兵を率いて楊義臣を迎え撃った。小勝すると酒を浴びて宴を開いた。竇建徳は聞いて「東海公は敵を破りきれぬうちに驕り高ぶった。禍の至るのは遠くない」と言った。
  • 五日後、楊義臣が高士達を陣中で大破して斬り、勝ちに乗じて追撃してその営に迫ると、守兵はみな潰えた。竇建徳は百余騎で逃げ、饒陽に至って無防備なところを攻め落とし、兵三千余を得た。楊義臣は高士達を殺した以上、竇建徳は憂うるに足りぬとして引き揚げた。
  • 竇建徳は平原に戻って高士達の散兵を収め、死者を葬って高士達の喪を発した。軍は再び大いに振るい、将軍と自称した。
  • これに先立ち、群盗は隋の官や士族の子弟を捕らえるとみな殺したが、竇建徳だけは厚遇した。そのため隋の官が次第に城ごと降り、声勢は日ごとに盛んになり、兵は十余万に達した。

恭帝義寧元年(617年)

  • 春正月丙辰、竇建徳は楽寿に壇を築いて長楽王と自称し、百官を置いて改元した。
  • 秋七月、煬帝は詔して左禦衛大将軍・涿郡留守の薛世雄に燕の精兵三万で李密を討たせ、王世充ら諸将をみな薛世雄の節度に属させ、通る所の盗賊は随時討たせた。
  • 薛世雄が河間に至って七里井に軍すると、竇建徳の士衆は恐れて諸城を引き払って南に逃げ、豆子䴚に戻ると言い触らした。薛世雄は自分を恐れたと思って備えをしなかった。
  • 竇建徳は引き返して襲うことを謀った。その地は薛世雄の営から百四十里。竇建徳は決死の士二百八十人を率いて先行し、残る衆を続かせ、「夜のうちに着けば営を撃つ、夜が明けていたら降る」と約した。二里ほど手前で夜が明けかけ、竇建徳は迷って降伏を議したが、折しも深い霧が立ちこめて咫尺も見分けられなくなった。竇建徳は喜んで「天が私を助ける」と言い、営に突入して撃った。薛世雄の士卒は大混乱となって柵を越えて逃げ、薛世雄は止められず、側近数十騎で涿郡に逃げ帰り、恥じ憤って発病して没した。竇建徳はそのまま河間を囲んだ。

唐高祖武徳元年(618年)

  • 隋の河間郡丞の王琮が郡城を守って群盗を拒み、竇建徳は一年余り攻めたが落とせなかった。煬帝の凶報を聞いて王琮が吏士を率いて喪を発すると、城に登っていた者はみな哭した。竇建徳が使者を送って弔うと、王琮はその使者を通じて降を請うた。
  • 竇建徳は陣を退けて饗応を用意して待った。王琮が隋の滅亡に触れて伏して涙を流すと、竇建徳も泣いた。諸将が「王琮は長く我が軍を拒んで殺傷はきわめて多い。力尽きて降ったのだ。煮殺すべきです」と言うと、竇建徳は「王琮は忠臣だ。私はこれを賞して君に仕える道を勧めたい。どうして殺せよう。かつて高鶏泊で盗をしていたころなら妄りに人を殺すのも許されようが、今は百姓を安んじ天下を定めようというのだ。どうして忠良を害せよう」と言った。そして軍中に「以前、王琮と怨みのある者で妄りに動く者は三族を誅する」と布告し、王琮を瀛州刺史とした。河北の郡県はこれを聞いて争って竇建徳に付いた。
  • これに先立ち、竇建徳が景城を陥して戸曹の河東の張玄素を捕らえて殺そうとしたとき、県民千余人が号泣して身代わりを願い、「戸曹は清廉慎重で並ぶ者がありません。大王が殺されては、どうやって善を勧められましょう」と言った。竇建徳は釈放して治書侍御史としたが、張玄素は固辞した。江都の変後、改めて黄門侍郎とし、張玄素はようやく応じた。
  • 饒陽令の宋正本は博学で才気があり、竇建徳に河北平定の策を説いた。竇建徳は謀主とした。
  • 竇建徳は楽寿に都を定め、居所を金城宮と呼び、百官を備え置いた。
  • 冬十一月、大鳥五羽が楽寿に集まり、数万の鳥が従い、日を経て去った。竇建徳は自分の瑞兆として五鳳と改元した。宗城の人が黒い圭を得て献じたところ、宋正本と景城丞の会稽の孔徳紹はみな「これは天が夏の禹に賜ったもの。国号を夏と改められますよう」と言い、竇建徳は従った。宋正本を納言、孔徳紹を内史侍郎とした。
  • はじめ王須抜が幽州を掠めて流れ矢に当たって死に、将の魏刀児が代わって衆を率い、深沢に拠って冀・定の間を掠め、衆は十万に達して魏帝と自称した。竇建徳は偽って和を結び、魏刀児が備えを緩めたところを襲って破り、深沢を囲んだ。その徒が魏刀児を捕らえて降り、竇建徳は斬ってその衆をすべて併せ、易・定などの州もみな降った。
  • ただ冀州刺史の麴稜だけが降らなかった。麴稜の婿の崔履行は崔暹の孫で、奇術があって攻める者を自ら敗れさせられると言い、麴稜は信じた。崔履行は城を守る者にみな座らせて妄りに戦わせず、「賊が城に登ってもお前たちは恐れるな。私が賊を自ら縛らせてやる」と言った。そして壇を作って夜に章醮を行い、自ら喪服を着けて杖をついて北楼に登って慟哭し、婦女を屋根に上げて四方に裙を振らせた。竇建徳が急攻し、麴稜が戦おうとしても崔履行が固く止め、まもなく城が陥ちても崔履行はなお哭き続けていた。竇建徳は麴稜に会って「卿は忠臣だ」と言い、厚く礼遇して内史令とした。
  • 竇建徳は冀州を落として兵威はいよいよ盛んになり、衆十万で幽州を侵した。総管の羅芸が迎え撃とうとすると、薛万均が「彼は多く我は少ない。出戦すれば必ず敗れます。弱兵に城を背にし水を隔てて陣させれば、彼は必ず水を渡って撃ってくる。私が精騎百人で城の傍らに伏せ、半ば渡ったところで撃てば、勝てぬはずがありません」と言い、羅芸は従った。竇建徳は果たして兵を率いて水を渡り、薛万均が迎え撃って大破した。竇建徳はついに城下に至れず、兵を分けて霍堡や雍奴などの県を掠めたが、羅芸がまた迎え撃って破った。百余日対峙して落とせず、楽寿に帰った。薛万均は薛世雄の子である。

武徳二年(619年)

  • 春閏二月、宇文化及が聊城を保ち、竇建徳が兵を放って攻めて生け捕った。
  • 竇建徳は戦勝や落城のたび、得た財物をすべて将士に分け、自分は何も取らなかった。また肉を食わず、常に野菜と粟飯を食べた。妻の曹氏は絹の衣を着ず、使う婢妾はわずか十人ほどだった。宇文化及を破って隋の宮人千人余を得たが、ただちに解散させた。
  • 隋の黄門侍郎の裴矩を左僕射として人事を掌らせ、兵部侍郎の崔君粛を侍中、少府令の何稠を工部尚書、右司郎中の柳調を左丞、虞世南を黄門侍郎、欧陽詢を太常卿とした。欧陽詢は欧陽紇の子である。その他も才に応じて職を授け政事を委ねた。留まらず関中や東都へ行きたい者はこれも許し、路銀と糧を与えて兵に護送させて境まで送った。隋の驍果はなお一万人近くいたが、これも解放して行きたい所へ行かせた。
  • また王世充と好を結び、使者を送って隋の皇泰主に上表した。皇泰主は夏王に封じた。
  • 竇建徳は群盗から起こったので、建国しても文物法度がなかった。裴矩が朝儀を定め律令を制し、竇建徳は大いに喜び、常に典礼を諮問した。
  • 竇建徳が邢州を陥し、総管の陳君賓を捕らえた。
  • はじめ宇文化及は隋の大理卿の鄭善果を民部尚書として聊城まで従え、化及のために督戦して流れ矢に当たっていた。竇建徳が聊城を落とすと王琮が鄭善果を捕らえ、「公は名臣の家、隋室の大臣でありながら、なぜ君を弑した賊のために命を捧げて苦戦し、こんな傷を負ったのか」と責めた。鄭善果はひどく恥じて自殺しようとし、宋正本が駆けつけて止めた。竇建徳もまた礼遇しなかったので、相州へ逃げ、淮安王神通が長安に送った。庚午、鄭善果が着き、上は優礼して左庶子・検校内史侍郎を拝させた。
  • 夏四月、竇建徳は王世充が皇泰主を廃して自立したと聞き、絶交した。ここで初めて天子の旌旗を建て、外出時は警蹕を用い、下す文書を詔と称した。隋の煬帝に閔帝の諡を追贈した。斉王暕の死のとき遺腹の子の政道があり、竇建徳は立てて鄖公とした。しかしなお突厥に頼って兵勢を強めた。隋の義成公主が使者を送って蕭皇后と南陽公主を迎え、竇建徳は千余騎で送り、あわせて宇文化及の首を義成公主に献じた。
  • 六月庚子、竇建徳が滄州を陥した。
  • 秋八月、竇建徳が十余万で洺州に向かい、淮安王神通は諸軍を率いて相州に退いて守った。己亥、竇建徳の兵が洺州城下に至った。丁未、洺州を陥し、総管の袁子幹が降った。乙卯、兵を率いて相州に向かい、淮安王神通は聞いて諸軍を率いて黎陽の李世勣のもとへ移った。
  • 己巳、竇建徳が相州を陥して刺史の呂珉を殺した。
  • 淮安王神通が慰撫使の張道源に趙州を鎮めさせた。庚寅、竇建徳が趙州を陥し、総管の張志昂と張道源を捕らえた。竇建徳はこの二人と邢州刺史の陳君賓が早く降らなかったとして殺そうとした。
  • 国子祭酒の凌敬が諫めて「人臣はそれぞれ主のために用いられます。彼らが堅守して降らなかったのは忠臣だからです。今、大王がこれを殺されては、どうやって群下を励まされますか」と言った。竇建徳は怒って「私が城下に至っても降らず、力尽きて擒になった。どうして許せよう」と言った。凌敬は「今、大王は大将の高士興に易水で羅芸を防がせています。羅芸が来るや高士興が降ったら、大王の御意はいかがです」と言い、竇建徳は悟ってただちに釈放を命じた。
  • 冬十月己亥、幽州総管の燕公羅芸に李姓を賜り、燕郡王に封じた。辛丑、李芸が衡水で竇建徳を破った。
  • 竇建徳が兵を率いて衛州に向かった。竇建徳は行軍のとき常に三道に分け、輜重と弱兵を中央に置き、歩騎で左右を挟み、三里ほど隔てた。竇建徳が千騎で先行し黎陽の三十里手前を過ぎたとき、李世勣は騎将の丘孝剛に二百騎で偵察させた。丘孝剛は驍勇で馬上の槊に長け、竇建徳と遭遇して撃つと竇建徳は敗走したが、右翼の兵が救って丘孝剛を撃ち斬った。
  • 竇建徳は怒って引き返して黎陽を攻めて落とし、淮安王神通、李世勣の父の李蓋、魏徴、および帝の妹の同安公主を捕らえた。李世勣だけが数百騎で逃れて黄河を渡ったが、数日後、父のために戻って竇建徳に降った。衛州も黎陽の陥落を聞いて降った。竇建徳は李世勣を左驍衛将軍として黎陽を守らせたが、常にその父の李蓋を側に置いて人質とした。魏徴を起居舎人とした。
  • 滑州刺史の王軌の奴が王軌を殺し、その首を持って竇建徳に降った。竇建徳は「奴が主を殺すのは大逆である。どうして受けられよう」と言い、ただちに奴を斬らせ、首を滑州に返した。吏民は感じて喜び、その日のうちに降を請うた。こうして周辺の州県および徐円朗らもみな風を望んで帰した。
  • 己未、竇建徳は洺州に戻って万春宮を築き、都を移した。淮安王神通を下博に置いて客礼で待遇した。
  • 十一月、李世勣は唐に帰りたいと思ったが父に禍が及ぶのを恐れ、郭孝恪に相談した。郭孝恪は「我らは竇氏に仕えたばかりで、動けば疑われる。まず功を立てて信を得、そのうえで図るべきだ」と言い、李世勣は従った。王世充の獲嘉を襲って破り、多くの捕虜を得て竇建徳に献じ、竇建徳は親しんだ。
  • 十二月、李世勣がまた人を遣って竇建徳に説いた。曹・戴の二州は戸口が豊かで、孟海公がひそかにその地を領していますが、鄭の人と外は結び内は離れています。大軍で臨めば期日どおりに取れます。孟海公を得て徐・兗に臨めば、河南は戦わずして定まります、と。竇建徳は同意して自ら河南を従えようとし、まず行台の曹旦らに五万を率いて黄河を渡らせ、李世勣は三千を率いて合流した。

武徳三年(620年)

  • 春正月、李世勣は竇建徳が河南に来たところでその営を急襲して殺し、父と竇建徳の土地を得て唐に帰ろうと謀ったが、竇建徳の妻が出産して長く来なかった。
  • 曹旦は竇建徳の妻の兄で、河南で侵掠が多く、従属する諸賊はみな恨んだ。賊帥の魏郡の李文相は李商胡と号し、衆五千余で孟津の中潬に拠っていた。母の霍氏も騎射に長け、霍総管と自称していた。
  • 李世勣は李商胡と義兄弟の契りを結び、入ってその母に拝した。母は泣いて「竇氏は無道である。どうして仕えるのか」と言い、李世勣は「母上、ご心配なく。一月とかからず殺して、ともに唐に帰りましょう」と言った。李世勣が辞去すると、母は李商胡に「東海公は私にともにこの賊を図ると約した。事は長引けば変が生じる。彼の来訪を待つまでもない。速やかに決するに如くはない」と言った。
  • その夜、李商胡は曹旦の副将ら二十三人を招いて酒を飲ませ、みな殺した。曹旦の別将の高雅賢と阮君明はまだ黄河の北にいて渡っていなかった。李商胡は大船四艘で河北の兵三百人を渡らせ、中流ですべて殺したが、獣医が一人泳いで逃れ、南岸に着いて曹旦に告げたので、曹旦は厳重に警戒して備えた。
  • 李商胡は事を起こしてから初めて人をやって李世勣に告げた。李世勣は曹旦と営を連ねており、郭孝恪が曹旦を襲うよう勧めたが、李世勣は決しかね、曹旦にすでに備えがあると聞いて、郭孝恪と数十騎で李商胡のもとへ走った。李商胡はさらに精兵二千を率いて北へ阮君明を襲って破り、高雅賢は衆を収めて去り、李商胡は追ったが及ばず戻った。
  • 竇建徳の群臣が李蓋の誅殺を請うと、竇建徳は「李世勣は唐の臣で私に捕らえられた身。本朝を忘れぬのは忠臣である。その父に何の罪があろう」と言って赦した。
  • 甲午、李世勣と郭孝恪が長安に着いた。曹旦は済州を取ってから洺州に戻った。
  • 二月、竇建徳が李商胡を攻めて殺した。竇建徳は洺州で農桑を勧め課し、領内に盗はなく、商旅は野宿できた。
  • 夏五月、竇建徳が高士興に幽州の李芸を撃たせたが落とせず、籠火城に退いた。李芸が襲撃して大破し、五千級を斬った。
  • 竇建徳の大将軍の王伏宝は勇と略が軍中随一だったが、諸将が妬んで謀反すると讒言し、竇建徳は殺した。王伏宝は「大王はなぜ讒言を聞いて自ら左右の手を斬られるのですか」と言った。
  • 秋八月、竇建徳の共州県令の唐綱が刺史を殺して州ごと降った。
  • 上が使者を送って竇建徳と和を結び、竇建徳は同安公主を使者とともに帰した。
  • 冬十月、竇建徳が二十万で再び幽州を攻めた。竇建徳の兵がすでに城壁をよじ登っていたが、薛万均と薛万徹が決死の士百人を率いて地道から背後に出て急襲した。竇建徳の兵は潰走し、千余級を斬った。李芸の兵は勝ちに乗じてその営に迫った。竇建徳は営中に陣し、塹壕を埋めて出て奮撃して大破し、追撃して城下まで至ったが、攻めて落とせずに帰った。
  • 十一月、竇建徳が黄河を渡って孟海公を撃った。
  • はじめ王世充が竇建徳の黎陽を侵したので、竇建徳は殷州を襲って破って報い、これより二国は敵対して使者も通じなくなった。唐兵が洛陽に迫ると、王世充は使者を送って竇建徳に救いを求めた。
  • 竇建徳の中書侍郎の劉彬が説いた。天下は大乱し、唐は関西を得、鄭は河南を得、夏は河北を得て鼎足の勢いを成しています。今、唐が兵を挙げて鄭に臨み、秋から冬にかけて唐兵は日々増し鄭地は日々縮まっています。唐は強く鄭は弱く、勢いとして支えきれません。鄭が亡べば夏も独り立ちできません。仇を解き忿を除いて兵を出して救い、夏が外を撃ち鄭が内を攻めれば唐を破れます。唐師が退いたらゆっくりその変化を見て、鄭が取れるなら取り、二国の兵を併せて唐師の疲れに乗ずれば、天下は取れます、と。竇建徳は従い、使者を王世充に送って救援を約し、また礼部侍郎の李大師らを唐に送って洛陽の兵を退けるよう請うた。秦王世民は留め置いて答えなかった。
  • 十二月壬辰、燕郡王李芸がまた籠火城で竇建徳を撃って破った。
  • 張道源は竇建徳に従って河南にいたが、ひそかに人を長安に送って、兵を出して洺州を攻め山東を震撼させるよう請うた。丙午、詔で劉世譲を行軍総管として兵を率いて土門を出て洺州に向かわせた。
  • 竇建徳の行台尚書令の恒山の胡大恩が降を請うた。

武徳四年(621年)――虎牢の決戦

  • 春二月、竇建徳が周橋を落とし孟海公を捕らえた。
  • 三月、行軍総管の劉世譲が竇建徳の黄州を攻めて抜いたが、洺州の備えが厳しく進めなかった。折しも突厥が侵入しようとしたので、上は劉世譲を召し返した。竇建徳が任じた普楽令の平恩の程名振が降った。
  • 竇建徳が管州を陥して刺史の郭士安を殺し、また滎陽・陽翟などの県を陥した。水陸を並行して進み、舟を浮かべて糧を運び、黄河をさかのぼって西上した。王世充の弟の徐州行台世辨が将の郭士衡に数千の兵で合流させ、あわせて十余万、三十万と号し、成皋の東原に軍し、板渚に宮を築いて使者を王世充と通わせた。
  • これに先立ち、竇建徳は秦王世民に書を送り、潼関まで軍を退いて鄭の侵した地を返し、旧好を修めるよう請うていた。世民が将佐を集めて議すると、みなその鋒を避けるよう請うた。
  • 郭孝恪は「王世充は窮まって降伏寸前です。竇建徳が遠来して助けるのは、天が二人ともに亡ぼそうとしているのです。武牢の険に拠って防ぎ、隙をうかがって動けば必ず破れます」と言った。
  • 記室の薛収は言った。王世充は東都に拠って府庫は充実し、率いる兵はみな江淮の精鋭。目下の患いはただ糧の欠乏だけです。だからこそ我らに押さえ込まれ、戦おうにも戦えず、守っても長続きしない。竇建徳は自ら大衆を率いて遠く救援に来た以上、精鋭を極めて我らに死をかけるでしょう。これを放置してここまで来させ、二寇が合従して河北の粟を洛陽に運ばれれば、戦争はまさに始まったばかりとなり、兵を収める日はなく、統一の期は果てしなくなります。今は兵を分けて洛陽を守らせ、溝を深く塁を高くし、王世充が出兵しても慎んで戦わせぬこと。大王自ら驍鋭を率いて先に成皋を押さえ、兵を励まし士を訓練して到着を待ち、逸をもって労を待てば必ず勝てます。竇建徳を破れば王世充は二十日と経たず自ら下り、二人の主が縛につきましょう、と。世民はこれを善しとした。薛収は薛道衡の子である。
  • 蕭瑀・屈突通・封徳彝はみな「我が兵は疲れており、王世充は堅城に拠って急には抜けません。竇建徳は勝ちに乗じて来て鋒は鋭く気は盛ん。腹背に敵を受けるのは完全な策ではありません。新安に退いて守り、その疲弊を待つに如くはありません」と言った。
  • 世民は言った。王世充は兵が挫け食が尽き、上下の心は離れている。力攻めせずとも坐して勝てる。竇建徳は孟海公を破ったばかりで将は驕り卒は怠っている。我らが武牢に拠ってその咽喉を扼せば、彼が険を冒して鋒を争ってくれば取るのはたやすい。躊躇して戦わなければ、旬月のうちに王世充は自ら潰える。城が破れて兵が強まれば気勢は倍加する。一挙に両者を取るのはこの行にある。速やかに進まねば賊が武牢に入り、新たに帰した諸城は必ず守れぬ。二賊が力を合わせればその勢いは必ず強くなる。何の疲弊を待つのか。私の計は決した、と。
  • 屈突通らがなお囲みを解いて険に拠り変化を見るよう請うたが、世民は許さず、麾下を二分して屈突通らを斉王元吉の副として東都を囲み守らせ、自ら驍勇三千五百を率いて東の武牢に向かった。
  • このとき真昼に出兵し、北邙を経て河陽に至り、鞏に向かって去った。王世充は城に登って望み見たが真意を測りかね、ついに出られなかった。
  • 癸未、世民が武牢に入った。甲申、驍騎五百を率いて武牢の東二十余里に出て竇建徳の営をうかがった。道すがら従騎を分けて残し、李世勣・程知節・秦叔宝に率いさせて道の傍らに伏せさせ、わずか四騎だけを連れて進んだ。
  • 世民は尉遅敬徳に「私が弓矢を執り、公が槊を執って従えば、百万の衆でも我らをどうもできまい」と言い、また「賊が我らを見て引き返せば上策だ」と言った。竇建徳の営から三里ほどの所で竇建徳の遊撃兵に出会い、斥候と思われた。世民は大声で「私は秦王だ」と叫び、弓を引いて射てその一将を斃した。
  • 竇建徳の軍中は大いに驚き、五、六千騎を出して追った。従う者はみな色を失ったが、世民は「お前たちは先に行け。私が敬徳と殿を務める」と言った。轡を押さえてゆっくり進み、追騎が近づくと弓を引いて射、そのたび一人を斃した。追う者は恐れて止まり、止まってはまた来た。これを再三繰り返し、来るたび必ず斃れる者があった。世民は前後で数人を射殺し、尉遅敬徳は十人ほどを殺したので、追う者はもはや迫れなかった。
  • 世民はじりじりと退いて誘い、伏兵の中に入れた。李世勣らが奮撃して大破し、三百余級を斬り、驍将の殷秋と石瓉を捕らえて帰った。
  • そこで書を竇建徳に送って諭した。趙・魏の地は久しく我が有だったが、足下に侵奪された。ただ淮安王が礼遇され公主が帰されたので、心を開いて怨みを解いた。王世充は先ごろ足下と好を修めながらすでに反覆している。今、滅亡は朝夕に迫り、さらに言葉を飾って誘っている。足下は三軍の衆をもって他人に食を仰ぎ、千金の資を空しく外の費に供している。まことに上策ではない。今、先鋒が出会っただけで、そちらはたちまち崩れた。郊迎の労もまだ通わぬうちに、恥ずかしくはないか。ゆえに鋒鋭を抑え、善き選択を聞くことを願う。もし命を得られぬなら、悔いても追いつくまい、と。
  • 竇建徳は武牢に阻まれて進めず、数か月も駐屯し、戦ってしばしば不利となり、将士は帰りたがった。
  • 夏四月丁巳、秦王世民が王君廓に軽騎千余で糧運を襲わせ、また破って大将軍の張青特を捕らえた。
  • 凌敬が竇建徳に説いた。大王が全兵で黄河を渡って懐州・河陽を攻め取り、重臣に守らせ、改めて鼓を鳴らし旗を建てて太行を越えて上党に入り、汾・晋を従えて蒲津に向かわれよ。こうすれば三つの利があります。一は無人の境を進むので万全に勝てること、二は地を拓き衆を収めて勢いがいっそう強まること、三は関中が震え驚いて鄭の囲みが自ずと解けること。今の策としてこれに勝るものはありません、と。
  • 竇建徳は従おうとしたが、王世充の急を告げる使者が道に相次ぎ、王琬と長孫安世は朝夕に涙を流して洛陽救援を請い、またひそかに金玉で竇建徳の諸将を釣ってその謀を妨げた。諸将はみな「凌敬は書生だ。戦事を何と知ろう。その言が用いられようか」と言った。
  • 竇建徳は凌敬に謝して「今、衆心はきわめて鋭い。天が私を助けるのだ。これに乗じて決戦すれば必ず大勝する。公の言には従えぬ」と言った。凌敬が固く争うと、竇建徳は怒って引き出させた。
  • 妻の曹氏が「祭酒の言に背いてはなりません。今、大王が滏口から唐国の虚を突き、営を連ねて次第に進んで山北を取り、あわせて突厥を通じて西から関中を掠めれば、唐は必ず軍を返して自らを救い、鄭の囲みは解けぬはずがありません。ここに兵を留めて軍を老いさせ財を費やして、成功を求めていつになるのですか」と言った。竇建徳は「これは女の知るところではない。私は鄭を救いに来た。鄭は今、倒懸の苦にあり滅亡は朝夕に迫っている。それを捨てて去るのは、敵を恐れて信を棄てることだ。できぬ」と答えた。
  • 間諜が「竇建徳は唐軍の秣が尽きて黄河の北で馬を放牧するのをうかがい、武牢を襲おうとしている」と告げた。
  • 五月戊午、秦王世民は北に黄河を渡り、南は広武に臨んで敵情を視察し、馬十余匹を河の中州に放って誘い、夕に武牢に戻った。
  • 己未、竇建徳は果たして全軍を挙げて板渚から牛口に出て陣した。北は大河に至り、西は汜水に迫り、南は鵲山に連なって二十里に亘り、鼓を鳴らして進んだ。諸将はみな恐れた。
  • 世民が数騎で高い丘に登って眺め、諸将に言った。賊は山東に起こって大敵に遭ったことがない。今、険を渡りながら騒がしいのは規律がない証拠。城に迫って陣するのは我らを侮る心があるからだ。我らが兵を出さずにいれば彼の勇気は自ずと衰える。陣が長引けば兵は飢え、自ずと退こうとする。そこを追って撃てば勝てぬはずがない。諸君と約す。正午を過ぎれば必ず破ってみせる、と。
  • 竇建徳は唐軍を侮り、三百騎に汜水を渡らせて唐営の一里ほどの所に止め、使者を送って世民に「精鋭数百を選んで手合わせ願いたい」と伝えた。世民は王君廓に長槊二百を率いさせて応じ、進んでは退き、勝負はつかず双方引き揚げた。
  • 王琬が隋の煬帝の驄馬に乗り、甲と武器も鮮やかに陣前に進み出て衆に誇示した。世民が「あれはまことの良馬だ」と言うと、尉遅敬徳が取りに行くと請うた。世民は「一頭の馬のために猛士を失えようか」と止めたが、尉遅敬徳は従わず、高甑生・梁建方と三騎でまっすぐその陣に入り、王琬を捕らえてその馬を引いて戻った。誰も敢えて当たる者はなかった。
  • 世民は河北の馬を呼び戻させ、到着してから出戦することにした。竇建徳は辰から午まで陣を布いたままで、士卒は飢え疲れてみな列に座り込み、また争って水を飲み、じりじりと退こうとした。
  • 世民は宇文士及に三百騎で竇建徳の陣の西を過ぎて南へ駆けさせ、「賊が動かなければ引き返せ。動いたら兵を率いて東へ出よ」と戒めた。宇文士及が陣前に至ると陣は果たして動いた。世民は「撃てる」と言った。ちょうど中州の馬も届いたので出戦を命じた。
  • 世民が軽騎を率いて先に進み、大軍が続き、東に汜水を渡ってその陣に迫った。竇建徳の群臣はちょうど朝謁の最中で、唐騎が急に来たので朝臣は竇建徳のもとに駆け寄った。竇建徳は騎兵を召して唐兵を防がせようとしたが、騎兵は朝臣に阻まれて通れない。竇建徳が朝臣に手を振って退かせ、進退している間に唐兵が至った。竇建徳は窮して東の坂に退いて拠った。
  • 竇抗が兵を率いて撃ったが少し不利となり、世民が騎を率いて駆けつけると向かうところみななびいた。淮陽王道玄は身一つで陣を貫いてまっすぐその背後に出、また陣を突いて戻り、二度出入りした。飛矢が身に集まって蝟の毛のようだったが勇気は衰えず、射る者はみな弦の音とともに倒れた。世民は副馬を与えて自分に従わせた。
  • こうして諸軍が大いに戦い、砂塵が空を覆った。世民は史大奈・程知節・秦叔宝・宇文歆らを率い、旗を巻いて突入し、その陣の後ろに出て唐の旗幟を掲げた。竇建徳の将士は振り返ってこれを見て大潰し、三十里追撃して三千余級を斬った。
  • 竇建徳は槊に当たって牛口渚に隠れたが、車騎将軍の白士譲と楊武威が追い、竇建徳は落馬した。白士譲が槊を構えて刺そうとすると、竇建徳は「殺すな。私は夏王だ。お前を富貴にしてやれる」と言った。楊武威が下りて捕らえ、副馬に載せて世民に見えさせた。世民が「私は王世充を討っているのに、お前に何の関わりがあって境を越えて我が兵鋒を犯したのか」と責めると、竇建徳は「今、自分から来なければ、遠くまで取りに来られる手間をかけましょう」と答えた。
  • 竇建徳の将士はみな潰え去り、捕虜五万人は世民がその日のうちに解散させて郷里に帰した。封徳彝が入って賀すと、世民は笑って「公の言に従わなかったからこそ今日がある。智者の千慮も一失を免れぬというわけか」と言い、封徳彝はひどく恥じた。
  • 竇建徳の妻の曹氏は左僕射の斉善行と数百騎で洺州に逃げ帰った。
  • 壬申、斉善行が洺・相・魏などの州ごと降った。当時、竇建徳の残衆は洺州に逃げ着き、竇建徳の養子を主に立てて徴兵して唐に抗そうとし、あるいは民を掠奪して海辺に戻って盗になろうとしていた。
  • 斉善行だけが不可として言った。隋末の喪乱ゆえに我らは草野に集まり、かろうじて生を求めたにすぎぬ。夏王の英武で河朔を平定し士馬は精強だったのに、一朝にして手のひらを返すように擒となった。これは天命の帰する所があり人力で争えぬということではないか。今、これほど敗れて、守っても成らず逃げても免れぬ。同じく亡国の身となる以上、どうしてさらに民に害を残せよう。心を委ねて唐に命を請うに如くはない。どうしても絹帛が欲しいなら府庫の物をすべて散じよ。二度と民を損なうな、と。
  • そこで府庫の帛数十万段を運んで万春宮の東の街に置き、将卒に配った。三昼夜かかって終わり、なお兵を配して街区を守らせ、物を得た者はただちに出させ、二度と人家に入らせなかった。士卒がすべて散じてから、右僕射の裴矩、行台の曹旦とともに百官を率い、竇建徳の妻の曹氏と伝国の八璽、および宇文化及を破って得た珍宝を奉じて唐に降を請うた。上は斉善行を秦王左二護軍とし、厚く賜った。
  • 竇建徳の博州刺史の馮士羨が改めて淮安王神通を慰撫山東使に推し、三十余州を従えて、竇建徳の地はすべて平定された。
  • 秋七月甲子、秦王世民が長安に至った。世民は黄金の甲を着け、斉王元吉・李世勣ら二十五将がその後に従い、鉄騎一万、甲士三万、前後に鼓吹を配して、王世充と竇建徳および隋の乗輿・御物を俘として太廟に献じ、飲至の礼を行って饗した。
  • 丙寅、竇建徳を市で斬った。