通鑑紀事本末唐、隴右を平定する(薛挙)(唐平隴右)

金城に寓していた薛挙が、郝瑗の募兵に乗じて挙兵し、西秦霸王のち秦帝と称して隴西一帯を併せ、衆十三万を擁するまでと、唐との攻防を扱う。扶風で子の仁杲が李世民に破られるが、浅水原で唐の八総管を破って優勢に立ち、長安進撃を前に薛挙は病没した。苛虐で衆心を失った薛仁杲は、六十余日の対峙のすえ宗羅睺が浅水原で潰え、折墌城に降って長安で斬られる。義寧元年(617年)の挙兵から武徳元年(618年)の平定までの2年間。

年表(2件)
  • 隋恭帝
  • 義寧元年617年薛挙が金城で郝瑗を脅して挙兵し、秦帝を称して隴西を領有する
  • 唐高祖
  • 武徳元年618年浅水原で唐軍を破った薛挙が病没し、子の仁杲が李世民に降る

隋恭帝義寧元年(617年)

  • 汾陰の薛挙は金城に仮寓しており、驍勇は絶倫、家産は巨万で豪傑と交わり、西辺に雄を張って金城府校尉となっていた。
  • 当時、隴右に盗が起こり、金城令の郝瑗が募兵して数千を得、薛挙に率いて討たせた。夏四月癸未、まさに甲を授け酒を置いて士を饗しようとしたとき、薛挙は子の仁杲および同志十三人とともに座で郝瑗を脅して兵を発し、郡県の官を囚え、倉を開いて施した。
  • 薛挙は西秦霸王と自称し、秦興と改元し、仁杲を斉公、末子の仁越を晋公とした。群盗を集め、官の牧場の馬を奪い、賊帥の宗羅睺が衆を率いて帰したので義興公とした。
  • 将軍の皇甫綰が一万で枹罕に駐屯していたので、薛挙は精鋭二千を選んで襲い、枹罕を落とした。岷山の羌の酋長の鍾利俗が二万を率いて帰し、薛挙の兵は大いに振るった。改めて仁杲を斉王・領東道行軍元帥、仁越を晋王兼河州刺史、宗羅睺を興王として仁杲の副とし、兵を分けて地を略して西平・澆河の二郡を取った。まもなく隴西の地をすべて領有し、衆は十三万に達した。
  • 秋七月、薛挙は秦帝と自称し、妻の鞠氏を皇后、子の仁杲を皇太子に立てた。仁杲に兵を率いて天水を囲ませて落とし、薛挙は金城から都を移した。
  • 仁杲は力が強く騎射に長け、軍中で「万人敵」と呼ばれた。しかし性は貪欲で殺戮を好んだ。庾信の子の庾立を捕らえたとき、降らぬことに怒って火の上に磔にし、少しずつ切り取って軍士に食わせた。天水を落とすと富人をことごとく召して逆さ吊りにし、酢を鼻に注いで金宝を責め取った。薛挙は常に「お前の才略は事を成すに足りる。だが苛虐で恩がない。いずれ我が国家を覆すだろう」と戒めた。
  • 薛挙が晋王仁越に兵を率いて剣口に向かわせ河池郡に至ったが、太守の蕭瑀が撃退した。
  • 冬十二月、薛挙が子の仁杲に扶風を侵させ、唐弼が汧源に拠って防いだ。薛挙が使者を送って唐弼を招くと、唐弼は李弘芝を殺して薛挙に降を請うた。仁杲はその無防備に乗じて襲って破り、その衆をすべて併せた。唐弼は数百騎で扶風に走って降を請うたが、扶風太守の竇璡が殺した。
  • 薛挙の勢いはますます張り、衆は三十万と号して長安を取ろうと謀ったが、丞相李淵がすでに長安を定めたと聞いて、進んで扶風を囲んだ。李淵は李世民に兵を率いて撃たせ、また姜謩と竇軌をともに散関に出して隴右を安撫させた。
  • 癸巳、世民が扶風で薛仁杲を撃って大破し、隴坻まで追撃して帰った。
  • 薛挙は大いに恐れ、群臣に「古来、天子で降った者はあるか」と問うた。黄門侍郎の銭唐の褚亮は「趙佗は漢に帰し、劉禅は晋に仕え、近くは蕭琮が今なお貴い地位にあります。禍を転じて福とするのは古来あることです」と答えた。
  • 衛尉卿の郝瑗が進み出て「陛下のお尋ねは誤りです。褚亮の言も何と道理に背いていることか。昔、漢の高祖はしばしば敗走し、蜀の先主はたびたび妻子を失いながら、ついに大業を成しました。陛下はなぜ一戦の不利で亡国の計を立てられるのですか」と言った。薛挙も後悔して「まあ、これで君らを試したのだ」と言い、郝瑗を厚く賞して謀主とした。
  • 姜謩と竇軌が進んで長道に至ったが薛挙に敗れて引き返した。李淵が通議大夫の醴泉の劉世譲に唐弼の残党を安集させたが、薛挙と遭遇して戦い、敗れて捕らえられた。

唐高祖武徳元年(618年)

  • 郝瑗が薛挙に、梁師都および突厥と兵を連ねて長安を取るよう説き、薛挙は従った。しかし突厥は薛挙を拒み、梁師都らもその使者を受け入れなかった。
  • 夏六月癸未、薛挙が涇州を侵し、秦王世民を元帥として八総管の兵を率いて防がせた。
  • 秋七月、薛挙が進んで高墌に迫り、遊撃兵は豳・岐にまで及んだ。秦王世民は溝を深く塁を高くして戦わなかった。ところが世民が瘧を患い、軍事を長史・納言の劉文静と司馬の殷開山に委ね、「薛挙は孤軍で深入りし、食は少なく兵は疲れている。挑戦してきても決して応ずるな。私の病が癒えたら君らのために破ってやる」と戒めた。
  • 殷開山は退いて劉文静に「王は公が処理できまいと案じてこう言われたのだ。しかも賊は王の病を聞いて必ず我らを軽んずる。武を輝かせて威を示すべきだ」と言い、高墌の西南に陣したが、兵の多さを恃んで備えをしなかった。薛挙が兵をひそかに回してその背後を突き、壬子、浅水原で戦って八総管はみな敗れ、士卒の死者は十中五、六。大将軍の慕容羅睺・李安遠・劉弘基はみな没した。世民は兵を率いて長安に帰り、薛挙は高墌を抜いて唐兵の死者を集めて京観を築いた。劉文静らはみな連坐して除名された。
  • 八月、薛挙が子の仁杲に寧州を囲ませたが、刺史の胡演が撃退した。郝瑗が薛挙に「今、唐兵は破れたばかりで関中は騒動しています。勝ちに乗じてまっすぐ長安を取るべきです」と言い、薛挙も同意したが、発病して取りやめた。辛巳、薛挙が没し、太子仁杲が立って折墌城に居し、薛挙に武帝と諡した。
  • 己丑、秦王世民を元帥として薛仁杲を撃たせた。
  • 九月甲寅、秦州総管の竇軌が薛仁杲を撃って不利となった。驃騎将軍の劉感が涇州を鎮めていたが、仁杲が囲み、城中の糧が尽きた。劉感は乗馬を殺して将士に分け、自分は一切食べず、ただ馬の骨を煮て汁を取り木屑と混ぜて食べた。城は幾度も陥落しかけた。
  • 折しも長平王叔良の兵が涇州に至り、仁杲は食が尽きたと言い触らして兵を率いて南に去った。乙卯、また高墌の人を遣わして偽って城ごと降ると申し出た。叔良は劉感に衆を率いて赴かせた。己未、城下に至って門を叩くと、城中の者が「賊はすでに去った。城を越えて入られよ」と言った。劉感が門を焼かせると、城の上から水をかけて消したので、劉感は詐りと知り、歩兵を先に帰し、自ら精兵を率いて殿を務めた。
  • まもなく城上に三つの烽火が上がり、仁杲の兵が南原から一斉に下って百里細川で戦い、唐軍は大敗した。劉感は仁杲に捕らえられた。
  • 仁杲は再び涇州を囲み、劉感に城中へ「援軍はすでに敗れた。早く降るがよい」と言わせようとした。劉感は承諾したが、城下に至ると大声で「逆賊は飢えており滅亡は朝夕にある。秦王が数十万の衆を率いて四面から集まっておられる。城中は憂えず励め」と叫んだ。仁杲は怒って劉感を城の傍らに捕らえて膝まで埋め、馬を駆けさせて射たが、死ぬまで声色はいっそう厳しかった。叔良は城に籠って固守し、かろうじて身を全うした。劉感は劉豊生の孫である。
  • 庚申、隴州刺史の陝の人の常達が宜禄川で薛仁杲を撃って千余級を斬った。
  • 薛仁杲はしばしば常達を攻めたが落とせず、将の仵士政に数百人で偽って降らせた。常達は厚遇したが、乙丑、仵士政は隙をうかがって徒党とともに常達を脅し、城中の二千人を擁して仁杲に降った。常達は仁杲に会っても言葉も顔色も屈しなかったので、仁杲は壮として釈放した。奴賊の帥の張貴が常達に「お前は私を知っているか」と言うと、常達は「死に損なった奴の賊にすぎぬ」と答えた。張貴は怒って殺そうとしたが、人が救って免れた。
  • 薛仁杲は太子だったころ諸将としばしば隙があり、即位すると衆心は猜疑して恐れた。郝瑗は薛挙を哭して病を得、ついに起てなかった。これによって国勢は次第に弱まった。
  • 秦王世民が高墌に至ると、仁杲は宗羅睺に兵を率いて防がせた。宗羅睺がしばしば挑戦したが、世民は壁を固めて出なかった。諸将がこぞって戦いを請うと、世民は「我が軍は敗れたばかりで士気は沮喪している。賊は勝ちを恃んで驕り、我らを侮る心がある。塁を閉じて待つべきだ。彼が驕り我らが奮えば、一戦で勝てる」と言い、軍中に「戦いを口にする者は斬る」と令した。
  • 六十余日対峙し、仁杲の糧が尽き、その将の梁胡郎らが部下を率いて降った。世民は仁杲の将士の心が離れたと知り、行軍総管の梁実に浅水原に営させて誘った。宗羅睺は大いに喜んで精鋭を尽くして攻めた。梁実は険を守って出ず、営中に水がなく、人馬とも数日飲めなかった。宗羅睺の攻撃はきわめて激しかった。
  • 世民は賊がすでに疲れたと見て「戦える」と諸将に言った。夜明けに右武候大将軍の龐玉を浅水原の南に陣させた。宗羅睺が兵を合わせて撃ち、龐玉は支えきれなくなりかけたところで、世民が大軍を率いて原の北から不意に出た。宗羅睺が兵を返して戦い、世民は驍騎数十を率いて先に陣を陥し、唐兵が内外から奮撃して喊声が地を動かし、宗羅睺の士卒は大潰し、数千級を斬った。
  • 世民は二千余騎で追撃した。竇軌が馬を押さえて苦諫し「仁杲はなお堅城に拠っています。宗羅睺を破ったとはいえ軽々しく進むべきではありません。ひとまず兵を留めて様子を見られますよう」と言ったが、世民は「私は久しく考えてきた。破竹の勢いは逃せぬ。舅上、もう言われるな」と言って進んだ。
  • 仁杲は城下に陣し、世民は涇水に拠って臨んだ。仁杲の驍将の渾幹ら数人が陣中から降ったので、仁杲は恐れて兵を城に入れて拒み守った。日暮れに大軍が続いて至って囲んだ。夜半、城を守る者が争って身を投げて下り、仁杲は策が尽きて、己酉、出て降った。精兵一万余、男女五万口を得た。
  • 諸将がみな賀し、そのうえで「大王は一戦して勝つや、ただちに歩兵を捨て攻城具もないまま軽騎で城下に迫られました。誰もが落とせまいと思ったのに、ついに取られた。これはなぜですか」と問うた。
  • 世民は答えた。宗羅睺の率いる者はみな隴外の人で、将は驍く卒は悍い。私はただ不意を突いて破っただけで、斬獲は多くない。緩めればみな城に入り、仁杲が撫でて用いれば容易には落とせぬ。急げば散って隴外に帰り、折墌は手薄になり、仁杲は肝をつぶして謀る暇もない。だから勝てたのだ、と。衆はみな悦服した。
  • 世民は得た降卒をすべて仁杲兄弟や宗羅睺・翟長孫らに率いさせ、ともに狩猟して疑い隔てなかった。降兵は威を畏れ恩に感じ、みな死を尽くしたいと願った。
  • 世民は褚亮の名を聞いて探し出し、厚く礼遇して王府文学に招いた。
  • 上は使者を送って世民に「薛挙父子は我が士卒を多く殺した。必ずその一党をことごとく誅して冤魂に謝せ」と伝えた。李密が「薛挙が無辜を虐殺したのは、それゆえに亡んだのです。陛下がなぜ怨まれましょう。心服した民は撫でぬわけにいきません」と諫めたので、首謀者だけを誅して他はみな赦した。
  • 癸亥、秦王世民が長安に至り、薛仁杲を市で斬った。上は常達に帛三百段を賜り、劉感に平原郡公を追贈して忠壮と諡し、仵士政を殿庭で打ち殺し、張貴はとくに淫虐だったとして腰斬にした。
  • 上は将士を饗して労い、群臣に「諸公がそろって私を推戴して帝業を成した。天下が太平になれば、ともに富貴を保てよう。もし王世充が志を得ていたら、公らに子孫が残っただろうか。薛仁杲君臣のごときは、前車の鑑とせぬわけにいくまい」と語った。