通鑑紀事本末唐、東都を平定する(李密・王世充)(唐平東都)

楊玄感が黎陽に反して李密を謀主とし、その下計を採って洛陽を攻めて敗死するところから始まり、逃れた李密が瓦崗の翟譲に投じて興洛倉を落とし、魏公に推されて数十万を擁するまでを追う。李密は翟譲を殺して人心に疑いを生じ、宇文化及を童山に破って疲弊したところを王世充に偃師で撃たれ、邴元真の裏切りで洛口を失って唐に降り、再び叛いて熊耳山に斬られた。王世充は元文都・盧楚を殺して皇泰主を廃し毒殺して鄭を称するが、将帥と州県が次々に唐に降り、秦王世民の包囲と虎牢での竇建徳の敗北によって城を出て降った。

年表(7件)

隋煬帝大業九年(613年)――楊玄感の乱

  • 礼部尚書の楊玄感は驍勇で騎射に巧み、読書を好み賓客を喜び、国内の名士の多くと交遊した。蒲山公の李密と親しかった。李密は李弼の曽孫で、若くして才略があり志気は雄大、財を軽んじて士を好み、左親侍となった。
  • 煬帝が李密を見て宇文述に「さきほど左の隊列にいた色黒の小男は目つきが尋常でない。宿衛に置くな」と言った。宇文述はそれとなく李密に病と称して辞めるよう勧め、李密は人付き合いを断って読書に専心した。
  • 李密が黄牛に乗って『漢書』を読んでいるのに楊素が出会って非凡と思い、家に召して語り合って大いに喜び、子の玄感らに「李密の識見と度量はこれほどだ。お前たちは及ばぬ」と言った。これで玄感は李密と深く交わった。
  • あるとき玄感が李密を侮ると、李密は「人の評は実に即すべきで、面と向かって諂うわけにはいかぬ。両陣の間で機を決し、一喝して敵を震え上がらせることでは私は公に及ばぬ。だが天下の賢俊を駆使してそれぞれの用を果たさせることでは公は私に及ばぬ。官位が少し高くなったからといって天下の士大夫を軽んじてよいものか」と言い、玄感は笑って服した。
  • 楊素は功を恃んで驕り、朝廷や宴席でときに臣礼を失した。煬帝は内心恨んで口には出さず、楊素も察していた。楊素が薨じたとき、煬帝は近臣に「楊素が死ななければ、いずれ族滅していた」と言った。
  • 玄感はこれをかなり知っており、また代々貴顕で朝廷の文武の多くが父の旧吏であること、朝政が日々乱れて煬帝が猜疑深いことから内心落ち着かず、弟たちとひそかに乱を謀った。
  • 煬帝が征伐を事としていたので、玄感は代々国恩を受けている、将領となりたいと申し出た。煬帝は喜んで「将門には必ず将があり、相門には必ず相がある。まことに嘘ではない」と言った。以後、寵遇は日に隆んで朝政にも与った。
  • 煬帝が高麗を伐つとき、玄感に黎陽で輸送を監督させた。玄感は虎賁郎将の王仲伯、汲郡賛治の趙懐義らと謀り、わざと漕運を遅らせて発せず、遼水を渡った諸軍を飢えさせようとした。煬帝が使者を送って促すと、玄感は「水路に盗が多い。まとまって出せぬ」と言い立てて前後に分けて出した。
  • 玄感の弟の虎賁郎将玄縦と鷹揚郎将万石はともに遼東に従駕していたが、玄感がひそかに呼び寄せ、二人とも逃げ帰った。万石は高陽で監事の許華に捕らえられ涿郡で斬られた。
  • 当時、右驍衛大将軍の来護児が舟師で東萊から平壌に向かおうとしていた。玄感は家奴を偽の使者として東方から来させ、来護児が反したと称した。
  • 六月乙巳、玄感は黎陽県に入って城を閉じ、男子を捜索し、帆布を取って鎧とし、官属を置いてみな開皇の旧制に準じた。近郡に書を送り、来護児討伐を名目に兵を出して倉の所へ集まらせた。郡県の官で有能な者は、糧運を口実に呼び集めた。趙懐義を衛州刺史、東光尉の元務本を黎州刺史、河内郡主簿の唐禕を懐州刺史とした。
  • 治書侍御史の游元が輸送監督で黎陽にいた。玄感は「独夫(煬帝)が虐を恣にして絶域に身を陥れている。これは天が亡ぼす時だ。私は今、自ら義兵を率いて無道を誅する。卿の意はどうか」と言った。游元は色を正して「尊公は国の寵栄を受けること近古に比類なく、公の兄弟は高位が輝いている。誠を尽くし節を尽くして鴻恩に報いるべきなのに、墳墓の土も乾かぬうちに親から食い破ろうとされるとは。私は死あるのみ、お受けできません」と答えた。玄感は怒って囚え、しばしば兵で脅したが屈しないので殺した。游元は游明根の孫である。
  • 玄感は輸送人夫から壮健な者五千余人、丹楊・宣城の船頭三千余人を選び、三牲を屠って衆に誓い、「主上は無道で百姓を念とせず、天下は騒擾し、遼東で死んだ者は万を数える。今、君らとともに兵を起こして万民の苦を救う。どうだ」と諭した。衆はみな躍り上がって万歳を唱えた。そこで軍を編成した。唐禕は玄感のもとから逃げて河内に帰った。
  • これに先立ち、玄感はひそかに家僮を長安に遣わして李密と弟の玄挺を黎陽に呼んでいた。挙兵のとき李密がちょうど到着し、玄感は大いに喜んで謀主とし、「君は常々世を済うことを己の任としてきた。今がその時だ。策はどうか」と問うた。
  • 李密は答えた。天子は出征して遠く遼外にあり、幽州からなお千里、南に巨海、北に強胡があり、その間の一本道はきわめて険しい。公が兵を擁して不意を突き、長駆して薊に入り、臨渝の険に拠ってその咽喉を扼せば、帰路は絶たれ、高麗もこれを聞いて背後に迫るでしょう。旬月ならずして糧が尽き、その衆は降らねば潰えます。戦わずして擒にできる。これが上計です、と。
  • 玄感が次を問うと、李密は「関中は四方が塞がれた天府の国。衛文昇がいても意に介するに足りません。今、衆を率いて堂々と西進し、城を素通りしてまっすぐ長安を取り、その豪傑を収め士民を撫し、険に拠って守れば、天子が帰っても根本を失っており、ゆっくり図れます」と答えた。
  • さらに次を問うと、李密は「精鋭を選んで昼夜倍道で東都を襲取し四方に号令する。ただ唐禕が告げてすでに固守していることが心配です。兵を引いて攻めて百日落ちなければ、天下の兵が四面から来る。そうなればもう私の知るところではありません」と答えた。
  • 玄感は「そうではない。今、百官の家族はみな東都にいる。まずこれを取れば人心を動かすに足りる。しかも城を素通りして落とさねば、どうやって威を示すのか。公の下計こそ上策だ」と言い、兵を率いて洛陽に向かった。
  • 楊玄挺に驍勇千人を率いさせ前鋒として先に河内を取らせたが、唐禕が城に拠って拒み、玄挺は得るところなく、唐禕はまた人をやって東都に告げた。越王侗と樊子蓋らは兵を整えて備え、修武の民は連れ立って臨清関を守ったので、玄感は渡れず、汲郡の南で黄河を渡った。従う者は市のようだった。
  • 弟の積善に三千の兵で偃師から南へ洛水沿いに西進させ、玄挺には白司馬坂から邙山を越えて南に入らせ、玄感自ら三千余人でその後を十里ほど離れて進み、大軍と自称した。その兵はみな単刀と柳の楯を持つだけで、弓矢も甲冑もなかった。
  • 東都は河南令の達奚善意に精兵五千で積善を、将作監河南賛治の裴弘策に八千で玄挺を防がせた。達奚善意は洛水を渡って南の漢王寺に営したが、翌日、積善の兵が至ると戦わずして潰え、鎧と武器はみな積善に奪われた。
  • 裴弘策は白司馬坂に出て一戦して敗走し、鎧と武器を捨てた者が大半だった。玄挺は追わなかった。裴弘策は三、四里退いて散兵を収め再び陣を組んで待ったが、玄挺はゆっくり来て座って長く休み、突然立って撃つと、また敗れた。こうして五度戦った。
  • 丙辰、玄挺はまっすぐ太陽門に迫った。裴弘策は十余騎で官城に駆け込み、他は一人も帰らずみな玄感に帰した。
  • 玄感は上春門に駐屯し、衆に誓うたび「私は身は上柱国で家には巨万の金がある。富貴に求めるところはない。今、族滅を顧みぬのは、天下のために倒懸の急を解くためだけだ」と言った。衆はみな喜び、父老は争って牛と酒を献じ、子弟で軍門に来て働きを願う者は日に千を数えた。
  • 内史舎人の韋福嗣は韋洸の兄の子で、従軍して玄感を防いだが捕らえられた。玄感は厚遇し、その一党の胡師耽とともに文書を掌らせた。玄感は韋福嗣に樊子蓋への手紙を書かせ、帝の罪悪を数え、「今、昏君を廃して明君を立てようとしている。小さな礼にこだわって自ら憂いを招くな」と述べた。
  • 樊子蓋は外藩から入って京官となったばかりで、東都の旧臣の多くは彼を侮り、軍事の指図もあまり従わなかった。裴弘策は樊子蓋と同班で、先に賊を討って不利になったが、樊子蓋が再び出戦させようとしても行こうとしなかった。樊子蓋は引き出して斬ってさらした。国子祭酒の河東の楊汪が少し不遜だったので、これも斬ろうとし、楊汪は頓首して血を流してようやく免れた。以後、将吏は震え上がって仰ぎ見る者もなく、令は行われ禁は守られた。
  • 玄感は精鋭を尽くして城を攻め、樊子蓋は臨機に守って落とせなかった。しかし高官の子弟で応募して従軍していた者は、裴弘策の死を聞いてみな城に入ろうとしなかった。韓擒虎の子の世咢、観王雄の子の恭道、虞世基の子の柔、来護児の子の淵、裴蘊の子の爽、大理卿鄭善果の子の儼、周羅睺の子の仲ら四十余人がみな玄感に降り、玄感はことごとく側近の重任を委ねた。鄭善果は鄭訳の兄の子である。
  • 玄感は兵を収めて五万余を得、五千を慈磵道、五千を伊闕道の守りに分け、韓世咢に三千で滎陽を囲ませ、顧覚に五千で虎牢を取らせた。虎牢は降り、顧覚を鄭州刺史として虎牢を鎮させた。
  • 代王侑は刑部尚書の衛文昇に四万で東都を救わせた。衛文昇は華陰に至って楊素の家の墓を掘り、その骸骨を焼いて士卒に必死の覚悟を示し、堂々と淆・澠を出て東都城の北にまっすぐ向かった。玄感が迎え撃ち、衛文昇は戦いながら進んで金谷に駐屯した。
  • 遼東城が久しく落ちず、煬帝は布袋百余万に土を詰めて魚梁大道を築き、八輪の楼車を作って城内を射下ろそうとし、攻撃の期日が定まって城内は危機に瀕していた。そこへ楊玄感謀反の報が届き、煬帝は大いに恐れ、納言の蘇威を帳中に招いて「この小僧は聡明だ。患いにならぬか」と言った。蘇威は「是非を識り成敗を審らかにしてこそ聡明といいます。玄感は粗雑で、憂うるに足りません。ただ、これがきっかけで乱の階段ができることを恐れます」と答えた。煬帝は高官の子弟がみな玄感のもとにいると聞いていっそう憂えた。
  • 煬帝が太史令の庾質に「玄感は成功するか」と問うと、「玄感は地位こそ高いが、もともと人望はありません。百姓の疲労に乗じて僥倖を狙っているだけです。今、天下は一家であり、容易には動きません」と答えた。
  • 煬帝は虎賁郎将の陳稜に黎陽の元務本を攻めさせ、また左翊衛大将軍の宇文述と左候衛将軍の屈突通を駅伝で送って兵を発し玄感を討たせた。
  • 来護児は東萊に至って玄感が東都を囲んだと聞き、諸将を召して軍を返して救うことを議した。諸将はみな勅がないのに勝手に帰るべきでないと固執した。来護児は厳しい声で「洛陽の包囲は心腹の病、高麗の背命は疥癬にすぎぬ。公家の事は知る限り行うもの。専断の責めは私にある。諸君には関わりない。異議を唱える者は軍法で処す」と言い、その日のうちに軍を返し、子の弘整に駅伝で奏聞させた。煬帝はこのとき涿郡まで帰っており、すでに来護児に東都救援を勅していたので、弘整を見て大いに喜び、来護児に璽書を賜って「公が軍を返した時こそ、朕が公に勅した日である。君臣の意が合い、遠く隔たって符契のごとし」と述べた。
  • これに先立ち、右武候大将軍の李子雄が罪に連坐して除名され、従軍して功を立てて償うよう命ぜられ、来護児に従って東萊にいた。煬帝が疑って李子雄を鎖につないで行在所へ送るよう詔すると、李子雄は使者を殺して玄感のもとへ逃げた。
  • 衛文昇が歩騎二万で瀍水を渡って玄感と戦い、玄感はしばしば破った。玄感は戦うたび士卒に先立ち、向かうところを打ち破り、また部下をよく撫でて喜ばせたので、みな喜んで死力を尽くし、しばしば勝って衆は十万に達した。衛文昇は寡兵で敵し得ず死傷は大半に及んだが、さらに進んで邙山の南に駐屯し、玄感と決戦して一日に十余合戦った。折しも楊玄挺が流れ矢に当たって死に、玄感の軍はやや後退した。
  • 秋七月癸未、余杭の民の劉元進が玄感に呼応して挙兵し、衆は数万に達した。
  • はじめ楊玄感は東都に至って天下が響き応じ功は朝夕に成ると考えていたが、韋福嗣を得て心腹として委ね、李密を専任しなくなった。韋福嗣は策を献ずるたび両様に構えたので、李密はその意を察して玄感に「韋福嗣はもともと同盟の者ではなく、実は日和見しています。明公が大事を起こしたばかりなのに姦人が側にあり、その是非を聞いていては必ず誤られます。斬るべきです」と言った。玄感が「そこまでせずとも」と言うと、李密は退いて親しい者に「楚公は謀反を好みながら勝ちたくないらしい。我らは今に捕虜だ」と語った。
  • 李子雄が玄感に早く尊号を称するよう勧め、玄感が李密に問うた。李密は答えた。昔、陳勝が王を称そうとしたとき張耳が諫めて遠ざけられ、魏の武帝が九錫を求めたとき荀彧が止めて誅されました。今、私が正論を言えば二人の跡を追うことになりましょうが、諂って意に従うのは私の本意ではありません。なぜなら、挙兵以来しばしば勝ってはいても、郡県で従った所はまだありません。東都の守りはなお強く、天下の救援兵はますます至る。公は身を挺して力戦し早く関中を定めるべきなのに、急いで自ら尊ぼうとされる。人に示す度量が狭すぎませんか、と。玄感は笑って取りやめた。
  • 屈突通が軍を率いて河陽に駐屯し、宇文述が続いた。玄感が李子雄に計を問うと、「屈突通は軍事に習熟しています。ひとたび黄河を渡れば勝負は決しがたい。兵を分けて防ぐに如くはありません。屈突通が渡れなければ、樊子蓋と衛文昇は援けを失います」と答え、玄感も同意して屈突通を防ごうとした。ところが樊子蓋が謀を察してしきりにその営を攻めたので、玄感は行けなかった。
  • 屈突通は黄河を渡って破陵に軍した。玄感は二軍に分け、西で衛文昇に、東で屈突通に当たった。樊子蓋も出兵して大戦し、玄感の軍はしばしば敗れた。
  • 玄感が一党と謀ると、李子雄は「東都の援軍はますます至り、我が軍はしばしば敗れています。長く留まるべきではありません。まっすぐ関中に入り、永豊倉を開いて貧乏な者を賑わせれば、三輔は指図するだけで定まります。府庫を押さえて東を向いて天下を争えば、これも霸王の業です」と言った。
  • 李密は「弘化留守の元弘嗣が強兵を握って隴右にいます。彼が反したと言い触らし、使者を送って公を迎えに来たことにして関に入れば、衆を欺けます」と言った。折しも華陰の楊氏一族が嚮導を申し出た。
  • 壬辰、玄感は東都の囲みを解いて西の潼関に向かい、「私はすでに東都を破って関西を取った」と宣言した。宇文述らの諸軍が追った。
  • 弘農宮に至ると父老が玄感を遮って「宮城は空で、しかも粟が多く積んである。攻めれば落としやすい」と説き、玄感もそう思った。弘農太守の蔡王智積は官属に「玄感は大軍が来るのを聞いて西の関中を図ろうとしている。その計が成れば討ちにくくなる。計略で足止めして進ませなければ、十日ならずして擒にできる」と言った。
  • 玄感の軍が城下に至ると智積は城壁に登って罵った。玄感は怒って留まって攻めた。李密は「公は今、衆を欺いて西に入るところで、軍事は速さを貴びます。まして追兵が来ようとしているのに、なぜ滞られるのですか。前に進んで関に拠れず、退いて守る所もなければ、大衆が一朝にして散り、どうやって身を全うされるのですか」と諫めたが、玄感は従わず攻めて城門を焼いた。智積が内側から火を勢いづけたので玄感の兵は入れず、三日たっても落とせず、西へ引き揚げた。
  • 閺郷に至ると、宇文述・衛文昇・来護児・屈突通らの軍が皇天原で追いついた。玄感は槃豆に登って五十里に亘る陣を布き、戦いながら進んだが、一日に三度敗れた。
  • 八月壬寅、玄感は董杜原に陣し、諸軍が撃って大敗した。玄感は十余騎だけで上洛に逃げた。追騎が至ると玄感が一喝して追い返した。葭蘆戍に至って弟の積善と徒歩で逃げたが、免れぬと悟って「私は人に辱められて殺されるのは嫌だ。お前が私を殺せ」と言った。積善は刀を抜いて斬り殺し、自らも刺したが死ねず、追兵に捕らえられ、玄感の首とともに行在所に送られた。玄感の屍は東都の市で三日磔にされ、さらに切り刻んで焼かれた。
  • 玄感の弟の玄奨は義陽太守で、玄感のもとへ赴こうとして郡丞の周旋玉に殺された。仁行は朝請大夫で長安で誅された。
  • 玄感が東都を囲んだとき、梁郡の民の韓相国が挙兵して呼応し、玄感は河南道元帥とした。旬月の間に衆は十余万となり郡県を攻め掠めたが、襄城に至って玄感の敗を聞いて衆は次第に散り、吏に捕らえられ首を東都に送られた。
  • 玄感が西へ向かったとき、韋福嗣は逃げて東都に出頭した。当時、そういう者はみな咎められなかった。しかし樊子蓋が玄感の文書を押収した中に韋福嗣の書いた草稿があり、封じて帝に呈した。帝は捕らえて行在所に送るよう命じた。
  • 李密は亡命したが人に捕らえられ、これも東都に送られた。樊子蓋は韋福嗣・李密および楊積善・王仲伯ら十余人を鎖につないで高陽に送った。
  • 李密は王仲伯らとひそかに脱走を謀り、みなが持っていた金を出して使者に示し「我らが死ぬ日に、この金はすべて公に残す。どうか埋葬に使い、余りはご恩返しに」と言った。使者は金に釣られて承諾し、警戒が次第に緩んだ。李密は酒食の購入を願い出、宴飲して夜通し騒いだが、使者は気に留めなかった。魏郡の石梁駅まで来たとき、警護の者がみな酔ったので壁を穿って逃げた。李密が韋福嗣に一緒に行こうと呼んだが、韋福嗣は「私に罪はない。天子はせいぜい一度叱責されるだけだ」と言った。高陽に着くと帝は書の草稿を示し、大理に付した。刑に処された者はみな体を砕かれ、積善と韋福嗣はさらに車裂きにされた。

大業十二年(616年)――李密、瓦崗に拠る

  • 李密は逃亡してから郝孝徳を頼ったが礼遇されず、王薄のもとに入ったが王薄も非凡と見なかった。李密は困窮して樹の皮を削って食い、淮陽の村里に潜んで姓名を変え、徒衆を集めて教授した。郡県が疑って捕らえようとし、李密は逃げて妹の夫の雍丘令の丘君明を頼った。丘君明はかくまいきれず、遊侠の王秀才の家に預け、王秀才は娘を娶らせた。丘君明の従甥の丘懐義が密告し、帝は懐義自身に勅書を持たせて梁郡通守の楊汪と連絡して捕らえさせた。楊汪が兵で王秀才の家を囲んだが、ちょうど李密が外出しており免れた。丘君明と王秀才は死んだ。
  • 韋城の翟譲は東都の法曹で、罪に連坐して斬られることになった。獄吏の黄君漢はその驍勇を非凡と思い、夜中にひそかに「翟法司よ、天の時と人の事はおおよそ察せられよう。どうして獄中で死んでよいものか」と言った。翟譲は驚き喜んで叩頭し「私は囲いの中の豚も同然、生死はただ黄曹主のご命令のままです」と言った。黄君漢はただちに枷を壊して出した。
  • 翟譲が再拝して「再生の恩を蒙るのは幸いですが、黄曹主はどうなさるのですか」と泣くと、黄君漢は怒って「公を大丈夫と見込み、生民の命を救えると思えばこそ、死を顧みずに逃がすのだ。なぜ女子供のように涙を流して礼を言うのか。君はただ努めて身を全うせよ。私のことは憂えるな」と言った。
  • 翟譲はこうして瓦崗に亡命して群盗となり、同郡の単雄信は驍健で馬上の槊に長け、若者を集めて従った。離狐の徐世勣は衛南に家があり、十七歳で勇略があった。翟譲に「東郡は公にとっても私にとっても郷里で、知り合いが多い。侵掠すべきではない。滎陽・梁郡は汴水の通る所、行き交う舟や商人を襲えば十分に自活できます」と説き、翟譲も同意して二郡の境に入り、公私の船の物資を奪って豊かになった。従う者はますます増え、徒衆は一万余に達した。
  • 当時ほかに外黄の王当仁、済陽の王伯当、韋城の周文挙、雍丘の李公逸らがみな衆を擁して盗となっていた。李密は雍丘から亡命して諸首領の間を往来し、天下を取る策を説いた。はじめは誰も信じなかったが、次第にそう思うようになり、「この人は公卿の子孫でありながら志気がこれほどだ。今、誰もが楊氏が滅び李氏が興ると言う。王者は死なぬと聞くが、この人は再三危地を脱している。その人ではないか」と語り合い、次第に李密を敬うようになった。
  • 李密は諸首領のうち翟譲が最も強いと見て、王伯当を介して翟譲に会い、翟譲のために策を立てて諸小盗を説いてみな従わせた。翟譲は喜んで次第に親しく交わり、李密と事を計るようになった。
  • 李密は翟譲に説いた。劉邦も項羽も布衣から起こって帝王となりました。今、主は上で昏く民は下で怨み、精兵は遼東で尽き、突厥との和親も絶えた。それでいて江南に巡遊し東都を捨てている。これも劉項が奮い立った機会です。足下の雄才大略と精鋭の士馬をもって三京を席巻し暴虐を誅すれば、隋を亡ぼすのは難しくありません、と。翟譲は「我ら群盗は日々身を反して草間に生き延びているだけ。君の言うようなことは私の及ぶところではない」と謝した。
  • 折しも李玄英という者が東都から逃れ、諸賊を経巡って李密を探し「この人こそ隋に取って代わる」と言った。理由を問われて李玄英は言った。近ごろ民間の謡に「桃李章」があり、「桃李の子、皇后は揚州を繞る、宛転たり花園の裏、浪りに語るなかれ誰か許すと道う」と。桃李子とは逃亡した李氏の子のこと、皇も后も君の意。宛転花園裏とは天子が揚州にあって帰る日なく溝壑に転ずること。莫浪語誰道許とは「密」の意である、と。李玄英は李密に会って身を委ねて仕えた。
  • 前宋城尉の斉郡の房彦藻は才を負って時に用いられぬのを恨み、楊玄感の謀に加わっていたが、姓名を変えて亡命し、梁と宋の間で李密に出会って、ともに漢水・沔水の一帯を遊歴し、諸賊のもとを回ってその豪傑を説いた。帰るころには従う者が数百人になり、なお客分として翟譲の営にいた。
  • 翟譲は李密が豪傑に慕われるのを見てその計に従おうとしたが、決しかねていた。賈雄という者が陰陽と占候に通じて翟譲の軍師となり、その言はすべて用いられていた。李密は賈雄と深く結び、術数に託して翟譲を説かせることにし、賈雄も承諾したがまだ発していなかった。
  • そこへ翟譲が賈雄を召して李密の言を告げ可否を問うた。賈雄は「吉なること言うべからず」と答え、さらに「公が自立されても必ずしも成るとは限りません。この人を立てれば成らぬ事はありません」と言った。翟譲が「では蒲山公が自立すればよい。なぜ私に従いに来たのか」と言うと、賈雄は「事には因るところがあります。来られたのは、将軍の姓が翟であるからです。翟とは沢のこと。蒲は沢がなければ生じません。ゆえに将軍が要るのです」と答えた。翟譲は納得し、李密との親交は日ごとに篤くなった。
  • 李密は翟譲に説いた。今、四海は沸き立ち耕作もできません。公の士衆は多くとも倉の蓄えはなく、ただ野を掠めるばかりで常に不足に苦しんでいます。日を重ねて長引き、大敵が臨めば必ず離散します。まず滎陽を取って兵を休め穀を蓄え、士馬が肥え充つのを待ってから人と利を争うに如くはありません、と。翟譲は従った。
  • そこで金隄関を破り、滎陽の諸県を攻めて多く落とした。滎陽太守の郇王慶は楊弘の子で討てず、帝は張須陀を滎陽通守に移して討たせた。
  • 庚戌、張須陀が兵を率いて翟譲を撃った。翟譲は以前しばしば張須陀に敗れており、来訪を聞いて大いに恐れ避けようとした。李密は「張須陀は勇だが謀がなく、兵も連勝して驕り、しかも強情だ。一戦で擒にできる。公はただ陣を布いて待たれよ。私が公のために破ってみせる」と言った。
  • 翟譲はやむを得ず兵を整えて戦おうとした。李密は千余人を大海寺の北の林間に伏せた。張須陀は日ごろ翟譲を軽んじ、方陣で前進した。翟譲は戦って不利となり、張須陀が勝ちに乗じて十余里追ったところで李密が伏兵を出して襲い、張須陀の兵は敗れた。李密は翟譲・徐世勣・王伯当と合流して包囲した。張須陀は囲みを破って出たが、部下が全部は出られなかったので、馬を躍らせて再び入って救い、四度往復してついに戦死した。部下の兵は昼夜号哭して数日やまず、河南の郡県は気力を失った。
  • 鷹揚郎将の河東の賈務本は張須陀の副で、これも負傷し、残る五千余人を率いて梁郡に逃れ、まもなく没した。詔で光禄大夫の裴仁基を河南道討捕大使としてその衆を代わって率いさせ、虎牢に鎮を移した。
  • 翟譲は李密に牙旗を建てさせて別に部下を統べさせ、蒲山公営と号した。李密の部隊は厳正で、号令すれば士卒は盛夏でもみな背に霜雪を負うようだった。李密は自ら倹素な服を着、得た金宝はすべて麾下に分け与えたので、人々はよく働いた。麾下の士卒は翟譲の士卒にしばしば辱められたが、日ごろの規律のため報復しなかった。
  • 翟譲は李密に「今、物資と糧はほぼ足りた。私は瓦崗に帰りたい。公が行かぬなら好きにされよ。私はここで別れる」と言い、輜重を率いて東に向かった。李密も西へ行き、康城に至って数城を説き伏せ、多くの物資を得た。翟譲はまもなく後悔して兵を率いて李密に従った。

恭帝義寧元年(617年)――興洛倉の攻略と魏公の即位

  • 春二月、李密が翟譲に説いた。今、東都は空虚で兵は訓練されておらず、越王は幼く、留守の諸官は政令が統一されず士民の心は離れています。段達や元文都は暗愚で謀がなく、私の見るところ将軍の敵ではありません。将軍が私の計を用いられれば、天下は指図するだけで定まります、と。
  • そこで一党の裴叔方を遣わして東都の虚実を探らせた。留守の官司が気づいて防備を固め始め、あわせて江都に急報した。
  • 李密は翟譲に言った。事勢がこうなった以上、兵を出さぬわけにいきません。兵法に「先んずれば人を制し、後れれば人に制される」とあります。今、百姓は飢饉に苦しみ、洛口倉には粟が多く積まれ、都から百里余り。将軍が自ら大衆を率いて軽装で急襲すれば、向こうは遠くて救えず、しかも備えがない。落とすのは落ちた物を拾うようなものです。知れ渡るころにはすでに手中にある。粟を出して窮乏の者に施せば、遠近の誰が帰服しないでしょう。百万の衆も一朝で集まります。威に拠って鋭を養い、逸をもって労を待てば、たとえ向こうが来ても備えがあります。そのうえで四方に檄を飛ばし、賢豪を招いて計策を仰ぎ、驍悍な者を選んで兵権を授け、亡ぶべき隋の社稷を除き将軍の政令を布く。壮んなことではありませんか、と。
  • 翟譲は「これは英雄の略で、私の堪えるところではない。ただ君の命に従い、力を尽くして事に当たろう。君が先に発せられよ。私は後詰めを務める」と言った。
  • 庚寅、李密と翟譲は精兵七千で陽城の北に出、方山を越え、羅口から興洛倉を襲って落とした。倉を開いて民の取るに任せると、老弱が子を背負って道に連なった。朝散大夫の時徳叡が尉氏ごと李密に応じ、前宿城令の祖君彦が昌平から帰した。
  • 祖君彦は祖珽の子で、博学強記、文辞は豊かで敏く、国内に名を知られていた。吏部侍郎の薛道衡がかつて高祖に推薦したが、高祖は「あれは斛律明月を殺す歌を作った男の子ではないか。朕にはこの類は要らぬ」と言った。煬帝が即位するとなおその名を憎み、通常の選任で東平郡書佐・検校宿城令にとどめた。祖君彦は才を負って常に鬱屈して乱を思っていた。李密は日ごろその名を聞いていたので得て大いに喜び、上客として軍中の書檄をすべて委ねた。
  • 越王侗は虎賁郎将の劉長恭と光禄少卿の房崱に歩騎三万五千で李密を討たせた。当時、東都の人はみな李密を「飢えた賊が米を盗んでいる烏合の衆で破りやすい」と考え、争って応募し、国子三館の学士や貴顕の親戚まで従軍した。器械は整い衣服は華やかで、旌旗と鉦鼓もきわめて盛んだった。
  • 劉長恭らが正面に当たり、河南討捕使の裴仁基らに部下を率いて汜水から西へ入って背後を突かせ、十一日に倉城の南で合流すると約した。李密と翟譲はその計をすべて知った。
  • 東都の兵が先に到着し、士卒はまだ朝食もとっていなかったが、劉長恭らは駆り立てて洛水を渡らせ、石子河の西に南北十余里に陣した。李密と翟譲は驍雄を選んで十隊に分け、四隊を横嶺の下に伏せて裴仁基に備え、六隊を石子河の東に陣させた。
  • 劉長恭らは李密の兵が少ないのを見て軽んじた。翟譲がまず交戦して不利となったが、李密が麾下を率いて横から突き、隋兵は飢えて疲れていたので大敗した。劉長恭らは衣を脱いでひそかに逃れて東都に帰り、士卒の死者は十中五、六に及んだ。越王侗は劉長恭らの罪を赦して慰撫した。
  • 李密と翟譲はその輜重と武具をすべて収め、威声は大いに振るった。翟譲はここで李密を主に推し、魏公の号を奉った。
  • 庚子、壇場を設けて即位し元年と称して大赦した。文書を発するときは行軍元帥府と称した。魏公府には三司・六衛を、元帥府には長史以下の官属を置いた。翟譲を上柱国・司徒・東郡公とし、そこにも長史以下を置いたが、元帥府の半分に減らした。単雄信を左武候大将軍、徐世勣を右武候大将軍として各々部下を率いさせ、房彦藻を元帥左長史、東郡の邴元真を右長史、楊徳方を左司馬、鄭徳韜を右司馬、祖君彦を記室とし、その他の封拝にも差をつけた。
  • こうして趙・魏以南、江淮以北の群盗はみな響き応じた。孟譲・郝孝徳・王徳仁および済陰の房献伯、上谷の王君廓、長平の李士才、淮陽の魏六児・李徳謙、譙郡の張遷、魏郡の李文相、譙郡の黒社・白社、済北の張青特、上洛の周比洮・胡驢賊らがみな李密に帰した。李密はことごとく官爵を授けて各々その衆を率いさせ、百営簿を置いて統轄した。道路には降る者が流れのように絶えず、衆は数十万に達した。護軍の四茂に周囲四十里の洛口城を大きく築かせて居した。
  • 李密は房彦藻に兵を率いて東方の地を略させ、安陸・汝南・淮安・済陽を取った。河南の郡県の多くが李密の手に落ちた。
  • 夏四月、李密は孟譲を総管・斉郡公とした。己丑の夜、孟譲が歩騎二千で東都の外郭に入って豊都市を焼き掠め、夜明けごろに去った。こうして東都の住民はすべて宮城内に移り、台省や官庁はみな人で埋まった。
  • 鞏県長の柴孝和と監察御史の鄭頲が城ごと李密に降り、李密は柴孝和を護軍、鄭頲を右長史とした。
  • 裴仁基は賊を破って軍資を得るたびすべて士卒に賞したが、監軍御史の蕭懐静が許さないので士卒は恨んだ。蕭懐静はまたしきりに裴仁基の落度を探して弾劾した。倉城の戦いで裴仁基は期日に間に合わず、劉長恭らの敗を聞いて恐れて進めず、百花谷に駐屯して塁を固めて自守したが、朝廷から罪を得ることも恐れていた。
  • 李密はその窮状を知って人を送って説き、厚利で誘った。賈務本の子の閏甫が軍中にあり、裴仁基に降伏を勧めた。裴仁基が「蕭御史をどうする」と言うと、賈閏甫は「蕭君は止まり木の鶏のようなもの。機を見るを知らねば、明公の一刀で済むこと」と答え、裴仁基は従った。
  • 賈閏甫を李密のもとへ遣わして降を請うと、李密は大いに喜び、賈閏甫を元帥府司兵参軍兼直記室として復命させ、裴仁基に手紙を送って慰め受け入れた。裴仁基は虎牢に戻ったが、蕭懐静が密かにこれを上表した。裴仁基は知って蕭懐静を殺し、衆を率いて虎牢ごと降った。李密は裴仁基を上柱国・河東公とした。裴仁基の子の行儼は驍勇で戦上手だったので、これも上柱国・絳郡公とした。
  • 李密は秦叔宝と東阿の程齩金を得ていずれも驃騎とし、軍中でとくに驍勇な者八千人を選んで四驃騎に分属させて自らの護衛とし、「内軍」と号し、常に「この八千人は百万に当たる」と言っていた。程齩金は名を知節と改めた。羅士信・趙仁基もみな衆を率いて李密に帰し、李密は総管として各々部下を統べさせた。
  • 癸巳、李密は裴仁基と孟譲に二万余で回洛東倉を襲わせて破り、天津橋を焼いて兵を放って大いに掠奪した。東都が兵を出して撃ち、裴仁基らは敗走した。李密は自ら衆を率いて回洛倉に駐屯した。東都の兵はなお二十余万あり、城に登って夜警し、昼夜甲を解かなかった。李密は偃師と金墉を攻めたがいずれも落とせず、乙未、洛口に帰った。
  • 東都城内は糧に乏しかったが布帛は山積みで、絹を釣瓶の綱にし、布を焚いて煮炊きするほどだった。越王侗は人をやって回洛倉の米を城に運ばせ、兵五千を豊都市、五千を上春門、五千を北邙山に駐屯させ、九つの営を首尾呼応させて李密に備えた。
  • 丁酉、房献伯が汝陰を陥し、淮陽太守の趙陀が郡ごと降った。己亥、李密は三万を率いて再び回洛倉に拠り、大いに営と塹壕を修めて東都に迫った。段達らが七万で防ぎ、辛丑、倉の北で戦って隋兵は敗走した。
  • 丁未、李密は幕府に郡県へ檄を回させ、煬帝の十罪を数えて「南山の竹を尽くしても罪は書き尽くせず、東海の波を決しても悪は流し尽くせぬ」と述べた。祖君彦の辞である。
  • 五月、煬帝は監門将軍の涇陽の龐玉と虎賁郎将の霍世挙に関内の兵で東都を援けさせた。
  • 柴孝和が李密に説いた。秦の地は山川の険固で、秦漢が拠って王業を成した所です。今、翟司徒に洛口を守らせ、裴柱国に回洛を守らせ、明公自ら精鋭を選んで西に長安を襲うに如くはありません。京邑を落とせば基は固く兵は強くなり、そのうえで東に向かって河洛を平らげれば、檄を伝えるだけで天下は定まります。今や隋はその鹿を失い、豪傑が競って逐っています。早く手を打たねば必ず先んずる者が出て、悔やんでも及びません、と。
  • 李密は「それはまことに上策で、私も久しく考えてきた。だが昏主はなお存し、従う兵もなお多い。私の部下はみな山東の人で、洛陽が落ちぬうちに誰が私に従って西に入ろうか。諸将は群盗の出で、留めれば互いに雌雄を争う。そうなれば大業は崩れる」と答えた。柴孝和は「では大軍が西上できぬ以上、私が忍びで行って隙をうかがいましょう」と言い、李密は許した。柴孝和は数十騎で陝県に至り、山の賊で帰する者が一万余に上った。
  • 当時、李密の兵鋒はきわめて鋭く、苑に入って隋兵としばしば連戦したが、李密が流れ矢に当たって営中に臥した。丁丑、越王侗は段達と龐玉らに夜、兵を出して回洛倉の西北に陣させた。李密は裴仁基と出戦したが、段達らが大破して殺傷は大半に及んだ。李密は回洛を捨てて洛口に逃げ、龐玉と霍世挙は偃師に軍した。柴孝和の衆は李密の退却を聞いて散り、柴孝和は軽騎で李密に帰した。楊徳方と鄭徳韜はともに死に、李密は鄭頲を左司馬、滎陽の鄭乾象を右司馬とした。
  • 六月、李密は再び衆を率いて東都に向かった。丙申、平楽園で大戦し、李密は左を騎、右を歩とし、中央に強弩を並べ、千の鼓を鳴らして突撃した。東都の兵は大敗し、李密は再び回洛倉を取った。
  • 秋七月、煬帝は江都通守の王世充に江淮の精兵を率いさせ、将軍の王隆に卭・黄の蛮を率いさせ、河北大使の太常少卿韋霽、河南大使の虎牙郎将王辯らにそれぞれ部下を率いさせ、ともに東都に赴いて連絡して李密を討たせた。韋霽は韋世康の子である。
  • 煬帝は詔して左禦衛大将軍・涿郡留守の薛世雄に燕の精兵三万で李密を討たせ、王世充ら諸将はみな薛世雄の節度を受けさせ、軍の通る所の盗賊は随時討ち取らせた。
  • 九月、武陽郡丞の元宝蔵が郡ごと李密に降り、甲寅、李密は元宝蔵を上柱国・武陽公とした。元宝蔵は食客の鉅鹿の魏徴に謝意の啓を書かせ、あわせて武陽を魏州と改めることを請い、また部下を率いて西に魏郡を取り、南で諸将と会して黎陽倉を取ることを請うた。李密は喜んで元宝蔵を魏州総管とし、魏徴を召して元帥府文学参軍として記室を掌らせた。
  • 魏徴は幼くして孤児となり貧しかったが読書を好み大志があり、落魄して生業を営まず、はじめは道士となっていた。元宝蔵が召して書記を典らせ、李密はその文辞を愛してこれを召したのである。
  • はじめ貴郷長の弘農の魏徳深は政治が清静で、厳しくせずして治まった。遼東の役で徴税があらゆる形で行われ、使者が入れ替わり立ち替わり郡県に成果を責め、民は堪えられなかったが、貴郷の里だけは煩わされず、有無を融通し合い、力を出し尽くさずに求められる分を給した。
  • 元宝蔵が詔を受けて賊を捕らえ、しばしば器械を調達し、動もすれば軍法で処したので、近隣の城では造作の工事をすべて役所に集め、官吏が互いに督責して昼夜騒がしくても間に合わなかった。魏徳深は都合のよいように官府を修めさせ、役所はひっそりとして何事もないようだった。ただ吏に「他県より度を越えて立派にして百姓を苦労させるな」と戒めるだけだったが、民はそれぞれ心を尽くし、常に諸県で最も成績がよく、県民は父母のように愛した。
  • 元宝蔵はその能を喜び、千の兵を率いさせて東都に赴かせた。率いていた兵は元宝蔵が李密に降ったと聞き、親戚を思って都の門を出て東に向かって慟哭して戻った。降伏を勧める者があると、みな泣いて「私は魏明府とともに来たのだ。どうして見捨てて去れようか」と言った。
  • 河南・山東が大水で餓死者が野に満ち、煬帝は黎陽倉を開いて賑わせるよう詔したが、吏が時に応じて給せず、死者は日に数万人に上った。
  • 徐世勣が李密に「天下の大乱はもともと飢饉によるもの。今さらに黎陽倉を得れば大事は成ります」と言った。李密は徐世勣に麾下五千を率いさせ、原武から黄河を渡らせた。元宝蔵・郝孝徳・李文相および洹水の賊帥張升、清河の賊帥趙君徳とともに黎陽倉を襲って破って拠り、倉を開いて民の思うままに食わせた。十日ほどで兵二十余万を得、武安・永安・義陽・弋陽・斉郡が相次いで降った。竇建徳や朱粲の輩も使者を送って李密に付き、李密は朱粲を揚州総管・鄧公とした。
  • 泰山の道士の徐洪客が李密に書を献じ、大衆が長く集まれば米が尽きて人が散り、軍が老いて戦に飽き、成功しがたいとし、進取の機に乗じ士馬の鋭さを頼んで流れに沿って東へ向かい、まっすぐ江都に迫って独夫を捕らえ天下に号令するよう勧めた。李密はその言を壮として書を送って招いたが、徐洪客はついに出ず、行方も知れなかった。
  • 王世充・韋霽・王辯および河内通守の孟善誼、河陽郡尉の独孤武都がそれぞれ部下を率いて東都に集まった。ただ王隆だけが期日に遅れて来なかった。
  • 己未、越王侗は虎賁郎将の劉長恭らに留守の兵を、龐玉らに偃師の兵を率いさせ、王世充らと合わせて十余万で洛口の李密を撃たせ、洛水を挟んで対峙した。煬帝は詔して諸軍をみな王世充の節度に属させた。
  • 煬帝が江都郡丞代行の馮慈明を東都に遣わすと、李密に捕らえられた。李密は日ごろその名を聞いており、座を勧めて労い、礼意はきわめて厚く、「隋の祚はすでに尽きた。公は私とともに大功を立てぬか」と言った。
  • 馮慈明は「公の家は代々先朝に仕えて栄禄を兼ね備えていたのに、門閥をよく守れず、玄感と挙兵し、たまたま網を逃れて今日があるだけ。ただ食い破ることばかり図られ、ご高志は解しかねます。王莽・董卓・王敦・桓玄も強盛でなかったわけではないが、一朝にして滅び、罪は祖宗にまで及んだ。私は死ぬまでのこと。お受けできません」と答えた。李密は怒って囚えた。
  • 馮慈明は警護の席務本を説いて逃げ出し、江都に上表し東都にも書を送って賊の形勢を論じたが、雍丘で李密の将の李公逸に捕らえられた。李密はまたその義を認めて釈放したが、営門を出たところで翟譲が殺した。馮慈明は馮琮の子である。
  • 李密が洛口を落としたとき、箕山府郎将の張季珣が固守して落ちなかった。李密はその寡弱を見て人をやって呼ばせたが、張季珣は口を極めて罵った。李密は怒って兵を送って攻めたが落とせなかった。当時、李密の数十万がその城下にあり、張季珣は四面を塞がれて率いる兵は数百に過ぎなかったが、志はいよいよ固く、必死を誓った。久しくして糧が尽き水も涸れ、士卒は衰えて病んだ。張季珣は慰め労い、一人も離散しなかった。三月からこの月まで持ちこたえて城はついに陥ちた。張季珣は李密に会っても拝せず「天子の爪牙が、どうして賊に拝せようか」と言った。李密はなお降そうと誘い諭したが、ついに屈しないので殺した。張季珣は張祥の子である。
  • 冬十月壬寅、王世充が夜に洛水を渡り黒石に営した。翌日、兵を分けて営を守らせ、自ら精兵を率いて洛水の北に陣した。李密は聞いて兵を率いて洛水を渡り迎え撃ったが大敗し、柴孝和は溺死した。李密は麾下の精騎を率いて洛水の南に渡り、残る衆は東の月城に走った。王世充が追って囲むと、李密は洛南から馬を駆ってまっすぐ黒石に向かい、営中は恐れて六つの烽火を挙げた。王世充は月城の囲みを解いて狼狽して救いに戻り、李密は引き返して戦って大破し、三千余級を斬った。
  • 王世充は洛北の敗以来、壁を固めて出なかった。越王侗が使者を送って労うと、王世充は恥じ恐れて李密に戦いを請うた。丙辰、王世充と李密は石子河を挟んで陣した。李密は南北十余里に陣を布いた。翟譲がまず王世充と戦って不利となり退き、王世充が追うと、王伯当と裴仁基が横から背後を断ち、李密が中軍を率いて撃った。王世充は大敗して西に走った。
  • 翟譲の司馬の王儒信は翟譲に自ら大冢宰となって全軍を統べ李密の権を奪うよう勧めたが、翟譲は従わなかった。翟譲の兄の柱国滎陽公の翟弘は粗野で愚かな人物で、翟譲に「天子はお前が自らなるべきだ。なぜ人に譲るのか。お前がやらぬなら私がやる」と言った。翟譲はただ大笑して意に介さなかったが、李密は聞いて憎んだ。
  • 総管の崔世枢が鄢陵から李密に帰したばかりのころ、翟譲は私邸に囚えて財貨を責め、崔世枢が金を用意できずにいると刑を加えようとした。また元帥府記室の邢義期を博打に呼び、来るのが遅れると杖八十を打った。翟譲は左長史の房彦藻に「君は先に汝南を破って多くの宝貨を得たのに、魏公にばかり与えて私には全く渡さぬ。魏公は私が立てたのだ。事はどうなるか分からぬぞ」と言った。
  • 房彦藻は恐れて李密に報告し、左司馬の鄭頲とともに「翟譲は貪欲で偏屈、不仁で君を君と思わぬ心があります。早く手を打つべきです」と説いた。李密が「今は安危が定まっていない。すぐに誅殺しては遠方に何を示すのか」と言うと、鄭頲は「毒蛇が手を噛めば壮夫は腕を落とします。全うするものが大きいからです。あちらが先に思いを遂げれば悔いても及びません」と言い、李密も従った。
  • 酒宴を設けて翟譲を招いた。戊午、翟譲は兄の弘および兄の子で司徒府長史の摩侯とともに李密のもとへ来た。李密は翟譲・翟弘・裴仁基・郝孝徳と同席し、単雄信らはみな立って侍し、房彦藻と鄭頲が行き来して差配した。
  • 李密が「今日は高官の方々と飲む。大勢は要らぬ。左右は数人残して給仕させよ」と言い、李密の側近はみな退いたが、翟譲の側近はなお残っていた。房彦藻が李密に「今は楽しみの時ですが、ひどく寒うございます。司徒の側近にも酒食を給しては」と言うと、李密は「司徒の指図に任せる」と答え、翟譲も「たいへん結構」と応じたので、翟譲の側近をみな外に出した。ただ李密の配下の壮士の蔡建徳だけが刀を持って立って侍した。
  • 食事が出る前に、李密が良い弓を出して翟譲に射を試させた。翟譲が弓を引き絞ったところで蔡建徳が背後から斬りつけ、翟譲は牀の前に倒れ、声は牛の吼えるようだった。翟弘・摩侯・王儒信もみな殺された。徐世勣が走って出ようとすると門の者が斬りつけて首を傷つけたが、王伯当が遠くから叱って止めた。単雄信は叩頭して命乞いし、李密は赦した。
  • 左右が驚き騒いで為すすべを知らぬ中、李密は大声で「君らとともに義兵を起こしたのは、もともと暴乱を除くためだ。司徒は貪虐を専らにし僚属を辱め、上下の別もなくなった。今、誅したのはその一家だけで、諸君には関わりない」と言い、徐世勣を扶けて幕下に置き、自ら傷の手当てをした。
  • 翟譲の麾下が散ろうとすると、李密は単雄信を先に遣わして宣撫させ、まもなく自ら単騎でその営に入って一つ一つ撫で諭し、徐世勣・単雄信・王伯当に分けて率いさせ、内外はようやく落ち着いた。翟譲は残忍、摩侯は猜疑深く、王儒信は貪欲放縦だったので、死んだ日にその部下に哀しむ者はいなかった。だが李密の将佐には初めて自ら疑う心が生じた。
  • はじめ王世充は翟譲と李密が長く睦まじくいられぬと見抜き、互いに図り合うのに乗じようと期待していたが、翟譲の死を聞いて大いに失望し「李密は生まれつき明察決断に富む。竜となるか蛇となるか、まことに測りがたい」と嘆いた。
  • 十二月庚子、王世充の軍士に李密に降る者があり、李密が「王世充の軍中は何をしているか」と問うと、「近ごろ募兵を増やし、将士に二度も饗宴を賜っていますが、理由は分かりません」と答えた。
  • 李密は裴仁基に「危うくあの奴めの計に落ちるところだった。光禄は分かるか。私が久しく出兵せぬので王世充は糧秣が尽きかけ、戦いたくてもできない。だから募兵して士を饗し、月末の闇夜に乗じて倉城を襲おうというのだ。急いで備えよ」と言った。そこで平原公の郝孝徳、琅邪公の王伯当、斉郡公の孟譲に兵を整えて倉城の側に分屯させて待たせた。
  • その夜、三鼓に王世充の兵が果たして来た。王伯当が先に遭遇して戦って不利となり、王世充の兵が城に迫ったが、総管の魯儒が防いで退けた。王伯当が兵を収め直して撃つと王世充は大敗し、その驍将の費青奴を斬り、士卒の戦死・溺死は千余人に及んだ。
  • 王世充はしばしば李密と戦って勝てず、越王侗が使者を送って労うと、王世充は兵が少なくしばしば戦って疲弊していると訴え、越王侗は七万を増派した。

唐高祖武徳元年(618年)――洛北の大勝と皇泰主の即位

  • 春正月、王世充は東都の兵を得て進んで洛北で李密を撃って破り、鞏の北に駐屯した。辛酉、王世充は諸軍にそれぞれ浮橋を造って洛水を渡り李密を撃たせた。橋の完成した順に進んだので前後がそろわなかった。
  • 虎賁郎将の王辯が李密の外柵を破り、李密の営中は驚き乱れて潰えかけたが、王世充はこれを知らず角笛を吹いて兵を収めた。李密は決死の士を率いて乗じ、王世充は大敗した。橋を争って溺死した者は一万余、王辯は死に、王世充はかろうじて逃れた。洛北の諸軍はみな潰え、王世充は東都に入れず北の河陽に向かった。その夜は激しい風と冷たい雨で、軍士は水を渡って濡れ、道で凍死した者もまた万を数えた。
  • 王世充はわずか数千人で河陽に至り、自ら獄につないで罪を請うた。越王侗は使者を送って赦し、東都に召し返して金帛と美女を賜って安心させた。王世充は敗残兵を集めて一万余を得、含嘉城に駐屯して再び出ようとしなかった。
  • 李密は勝ちに乗じて金墉城に拠り、門や城、廬舎を修めて住んだ。鉦鼓の音は東都まで聞こえた。まもなく三十余万を擁して北邙に陣し、南は上春門に迫った。
  • 乙丑、金紫光禄大夫の段達と民部尚書の韋津が兵を出して防いだが、段達は李密の兵の盛んなのを見て恐れて先に引き返した。李密が兵を放って乗じ、軍は潰えて韋津は死んだ。
  • こうして偃師・柏谷および河陽都尉の独孤武都、検校河内郡丞の柳燮、職方郎の柳続らがそれぞれ部下を率いて李密に降った。竇建徳・朱粲・孟海公・徐円朗らもそろって使者を送って上表し即位を勧めた。李密の官属の裴仁基らも上表して位号を正すよう請うたが、李密は「東都がまだ平らがぬ。これを議すべきではない」と言った。
  • 戊辰、唐王は世子建成を左元帥、秦公世民を右元帥として諸軍十余万を督して東都を救わせた。
  • 東都が食に乏しく、太府卿の元文都らが城を守る者に公糧を食わずに済むよう募って散官二品に進めたので、商賈で象笏を持って朝する者が数え切れぬほどになった。
  • 二月、李密は房彦藻・鄭頲らを東の黎陽に出して道を分けて州県を招慰させ、梁郡太守の楊汪を上柱国・宋州総管とし、また自筆の書を送って「昔、雍丘で追捕されたことがあるが、帯鉤を射たり袂を斬ったりした(管仲や勃鞮の)故事にあやかろうとは思わぬ」と述べた。楊汪も使者を往来させて意を通じ、李密も懐柔して待遇した。
  • 房彦藻が書を送って竇建徳を招くと、竇建徳は言葉を低くし礼を厚くした返書を送り、羅芸の南侵を口実に北辺の防御を請うた。房彦藻は帰路、衛州で賊帥の王徳仁に襲われ殺された。王徳仁は数万の衆で何慮山に拠り、四方に掠奪して数州の患いとなっていた。
  • 夏四月、世子建成らが東都に至り芳華苑に軍したが、東都は門を閉じて出ず、招諭にも応じなかった。李密が兵を出して争い、小競り合いをして双方引き揚げた。
  • 城中に内応しようとする者が多かったが、趙公世民は「我らは関中を定めたばかりで根本がまだ固まっていない。孤軍で遠く来ており、東都を得ても守れぬ」と言って受け入れなかった。戊寅、軍を率いて帰った。
  • 東都は号令が四門の外に及ばず、人心は定まらなかった。朝議郎の段世弘らが西の唐軍に呼応しようと謀ったが、唐軍がすでに帰ったので、人を送って李密を招き、己亥の夜に引き入れる約をした。事が発覚し、越王は王世充に討たせて誅した。李密は城中がすでに落ち着いたと聞いて引き返した。
  • 五月、王徳仁が房彦藻を殺したので、李密は徐世勣に討たせ、王徳仁の兵は敗れた。甲寅、王徳仁は武安通守の袁子幹とともに唐に降り、詔で鄴郡太守とした。
  • 煬帝の凶報が東都に至り、戊辰、留守の官が越王を奉じて皇帝の位に即かせ、大赦して皇泰と改元した。段達を納言・陳国公、王世充を納言・鄭国公、元文都を内史令・魯国公、皇甫無逸を兵部尚書・杞国公とし、また盧楚を内史令、郭文懿を内史侍郎、趙長文を黄門侍郎としてともに朝政を掌らせた。時人はこれを「七貴」と呼んだ。皇泰主は眉目が絵のようで、温厚仁愛、風格は厳然としていた。
  • 東都は宇文化及の西上を聞いて上下が震え恐れた。蓋琮という者が上疏して、李密を説いて力を合わせ化及を防ぐよう請うた。
  • 元文都は盧楚らに「今、仇と恥はまだ雪がれておらず兵力も足りぬ。李密の罪を赦して化及を撃たせれば、二賊が自ら闘い、我らはゆっくりその疲弊に乗じられる。化及を破れば李密の兵も疲れ、しかもその将士は我らの官賞を利とするから離間しやすく、李密も擒にできよう」と言い、盧楚らも同意した。そこで蓋琮を通直散騎常侍として勅書を持たせて李密に賜った。
  • 当時、李密は東都と長く対峙し、また東で化及を防いでいたので常に背後の東都を憂えていた。蓋琮の到着に大いに喜び、上表して降を乞い、化及を討滅して罪を償いたいと請い、捕らえた凶党の雄武郎将の于洪建を送り、元帥府記室参軍の李倹と上開府の徐師誉らを入朝させた。皇泰主は于洪建を左掖門外で誅させた。
  • 元文都らは李密の降を誠実と信じ、宣仁門の東に賓館を盛大に飾った。皇泰主は李倹らを引見し、李倹を司農卿、徐師誉を尚書右丞とし、李密を太尉・尚書令・東南道大行台行軍元帥・魏国公に冊し、まず化及を平らげてから入朝して政を輔けるよう命じた。徐世勣を右武候大将軍とし、あわせて詔して李密の忠款を称え、「その用兵の機略はすべて魏公の節度を仰げ」と述べた。
  • 元文都らは和解を喜んで天下は定まると考え、酒宴して音楽を奏させた。王世充は色をなして「朝廷の官爵を賊に与えるとは、何をするつもりだ」と言った。元文都らも王世充を疑い、これより隙が生じた。
  • 秋七月、皇泰主は大理卿の張権と鴻臚卿の崔善福を遣わして李密に書を賜り、「今日以前のことはともに洗い流す。使者到着以後は互いに心を通わせよ。七政の重きは公の匡輔を待ち、九伐の利は公の指揮に委ねる」と述べた。
  • 張権らが着くと李密は北面して詔書を拝受した。西の憂いがなくなり、精兵をすべて東に向けて化及を撃った。
  • 李密は化及の軍糧が尽きかけているのを知り、偽って和を結んだ。化及は大いに喜んで兵に思うまま食わせ、李密が糧を送ってくれると期待した。ところが李密の配下で罪を得た者が逃げて化及に投じ、事情をすべて話した。化及は激怒し、食も尽きたので永済渠を渡り童山の下で李密と戦った。
  • 辰から酉まで戦い、李密は流れ矢に当たって落馬して気を失い、側近は逃げ散り、追兵が迫った。ただ秦叔宝だけが守り抜き、李密は助かった。秦叔宝はさらに兵を収めて力戦し、化及は退いた。
  • 化及は汲郡に入って軍糧を求め、また使者を送って東郡の吏民を拷問して米粟を責めた。王軌らはその酷さに堪えられず、通事舎人の許敬宗を李密のもとへ送って降を請うた。李密は王軌を滑州総管、許敬宗を元帥府記室として魏徴とともに文書を掌らせた。房公の蘇威は東都にあって衆に従って李密に降った。
  • 化及は王軌の離反に大いに恐れ、汲郡から兵を率いて以北の諸郡を取ろうとしたが、将の陳智略が嶺南の驍果一万余、樊文超が江淮の排鑹、張童児が江東の驍果数千を率いて、みな李密に降った。化及にはなお二万の衆があり、北の魏県に向かった。李密はもはや何もできぬと見て西の鞏・洛に帰り、徐世勣を残して備えさせた。
  • 李密は戦勝のたび使者を送って皇泰主に捷を告げ、隋の人はみな喜んだ。しかし王世充だけは麾下に「元文都の輩は筆吏にすぎぬ。私の見るところ、必ず李密に擒にされる。しかも我が軍士はしばしば李密と戦って父兄子弟を多く失っている。一朝にしてその下に付けば、我らは生き残るまい」と言い、その衆を激怒させようとした。
  • 元文都は聞いて大いに恐れ、盧楚らと、王世充の入朝に乗じて伏兵で誅する謀を立てた。段達は凡庸で臆病、事の失敗を恐れて婿の張志に盧楚らの謀を王世充に告げさせた。
  • 戊午の夜三鼓、王世充が兵を整えて含嘉門を襲った。元文都は変を聞いて入り、皇泰主を奉じて乾陽殿に出御させ、兵を並べて自衛し、諸将に門を閉じて守らせた。将軍の跋野綱は兵を率いて王世充に出遭うと馬を下りて降り、将軍の費曜と田闍は門外で戦って不利だった。
  • 元文都は自ら宿衛の兵を率いて玄武門から出て背後を襲おうとしたが、長秋監の段瑜が門の鍵を求めても得られぬと称して手間取り、時が過ぎた。夜が明けかけ、元文都は兵を率いて太陽門から出て迎え撃とうとしたが、乾陽殿に戻ってきたときには王世充がすでに太陽門を攻めて入っていた。
  • 皇甫無逸は母と妻子を捨てて右掖門を斬り開いて西の長安へ逃げた。盧楚は太官署に隠れたが王世充の一党に捕らえられ、興教門で王世充に会うと、王世充は乱刃で斬り殺させた。
  • 進んで紫微宮門を攻めると、皇泰主は人を紫微観に登らせて「兵を挙げて何をしようというのか」と問わせた。王世充は馬を下りて謝し「元文都・盧楚らが横暴にも私を図りました。文都を殺させていただければ、甘んじて刑に服します」と言った。
  • 段達が将軍の黄桃樹に命じて元文都を捕らえて送らせた。元文都は皇泰主を顧みて「臣は今朝死にます。陛下も夕には及びましょう」と言った。皇泰主は慟哭して送り出し、興教門を出たところで盧楚と同じく乱刃で斬られ、盧楚(原文は盧元)の諸子も殺された。
  • 段達はまた皇泰主の命と称して門を開いて王世充を入れた。王世充は人を遣って宿衛の者をすべて交代させてから乾陽殿で皇泰主に会った。皇泰主は「勝手に誅殺しておきながら奏聞もせぬ。臣たる道であろうか。公は強力を恣にして、私にまで及ぼうというのか」と言った。
  • 王世充は伏し拝して涙を流し「臣は先皇に抜擢され、粉骨しても報い切れません。文都らは禍心を包み蔵し、李密を招いて社稷を危うくしようとしました。臣が異を唱えるのを憎み、猜疑を深く積みました。臣は死を免れるのに必死で奏聞の暇もなかったのです。もし内心に不善があり陛下に背いているなら、天地日月がご照覧のこと、臣の一門を滅ぼして種を残さぬようになさってください」と、言葉と涙をともに流して謝した。
  • 皇泰主は誠意と思って殿に上げて長く語り、ともに入って皇太后に会わせた。王世充は髪を解いて二心なきことを誓った。そこで王世充を左僕射・総督内外諸軍事とした。
  • 日中までに趙長文と郭文懿を捕らえて殺し、そのうえで城を巡って元文都・盧楚を誅した趣旨を告げ諭した。王世充は含嘉城から尚書省に移り住み、次第に党与を結んで威福を恣にした。兄の世惲を内史令として禁中に居らせ、子弟はみな兵馬を典り、政事を十の部門に分けてすべて一党に主宰させた。勢いは内外を震わせ、なびき従わぬ者はなく、皇泰主は手を拱くのみであった。
  • 李密は入朝しようとして温まで来たが、元文都らの死を聞いて金墉に引き返した。東都は大飢饉で、私鋳銭が粗悪で大半は錫の輪を混ぜて糸のように細く、米は一斛が銭八、九万した。
  • はじめ李密は儒生の徐文遠に学んだことがあった。徐文遠は皇泰主の国子祭酒だったが、自ら薪を採りに出て李密の軍に捕らえられた。李密は徐文遠を南面して座らせ、弟子の礼で北面して拝した。
  • 徐文遠は「老夫は厚礼を受けた以上、言を尽くさぬわけにいかぬ。将軍の志は、伊尹・霍光となって絶えたものを継ぎ傾くものを扶けることにあるのか。それなら老夫は老いたりとはいえ力を尽くしたい。もし王莽・董卓のように危機に乗じて利を求めるのなら、老夫の用はない」と言った。李密は頓首して「先ごろ朝命を奉じて上公の位に列しました。庸虚の身を尽くして国難を匡救したい。それが私の本志です」と答えた。徐文遠は「将軍は名臣の子でありながら道を失ってここに至った。遠くまで行かぬうちに立ち返れれば、なお忠義の臣たり得よう」と言った。
  • 王世充が元文都らを殺した後、李密がまた徐文遠に計を問うと、「王世充も私の門人だ。人となりは残忍で偏狭、この勢いに乗じた以上、必ず異図を抱く。将軍の先の計は成らぬ。王世充を破らねば入朝はできぬ」と答えた。李密は「先生は儒者で時事に疎いと思っていたが、座して大計を決せられる。何と明察なことか」と言った。徐文遠は徐孝嗣の玄孫である。
  • はじめ李密は翟譲を殺してからかなり驕り高ぶり、士衆を憐れまなくなった。倉の粟は多くても府庫の銭帛はなく、戦士に功があっても賞するものがなく、また新たに帰した者を厚遇したので、衆心はかなり怨んだ。徐世勣が宴席でその短所を風刺したところ、李密は不快になって黎陽の鎮守に出した。名は委任だが、実は疎んじたのである。
  • 李密は洛口倉を開いて米を配ったが、守衛も担当官も置かず、証文もなく、取る者は好きなだけ持って行った。倉を離れてから運びきれずに道端に捨てる者もあり、倉城から郭門まで米が数寸の厚さに積もり、車馬に踏まれた。
  • 群盗で食を求めて来た者は家族を含めて百万口近く、甕もないので荊で籠を編み、洛水で米を研いだので、両岸十里の間は白砂のように見えた。李密が喜んで賈閏甫に「これぞ食足るというものだ」と言うと、賈閏甫は「国は民を本とし、民は食を天とします。今、民が子を背負って流れるように来るのは、その天がここにあるからです。それを担当官が惜しむこともなくこう浪費している。一朝にして米が尽き民が散れば、明公は誰とともに大業を成されるのですか」と答えた。李密は謝して賈閏甫を判司倉参軍事とした。
  • 李密は東都の兵がしばしば敗れて弱まり、将相が互いに殺し合っているのを見て、朝夕にも平らげられると考えた。王世充は大権を専らにしてから将士に厚く賞し器械を修繕し、これもひそかに李密を取ろうと図っていた。
  • 当時、隋軍は食に乏しく李密の軍は衣が少なかったので、王世充が交易を請うた。李密は渋ったが、長史の邴元真らがそれぞれ私利を求めて許すよう勧めた。これより先、李密に帰する東都の人は日に百を数えていたが、食を得られるようになると降る者は減った。李密は後悔してやめた。
  • 李密は宇文化及を破って帰ったが、精鋭の兵と良馬の多くを失い、士卒は疲れ病んでいた。王世充はその疲弊に乗じて撃とうとしたが、人心が一つでないことを恐れ、「左軍衛士の張永通が三度、周公の夢を見て、王世充に意を伝え、兵を整えて助け賊を撃てと言われた」と偽り、周公の廟を立てて出兵のたびまず祈った。王世充は巫に「周公が僕射に急ぎ李密を討たせよ、大功があろう、さもなくば兵はみな疫病で死ぬと仰せだ」と言わせた。王世充の兵は楚の人が多く妖言を信じ、みな戦いを請うた。
  • 王世充は精鋭を選んで二万余人・馬二千余匹を得た。壬子、出撃した。旗には「永通」の字を書き、軍容はきわめて盛んだった。癸丑、偃師に至り通済渠の南に営し、渠の上に三つの橋を架けた。
  • 李密は王伯当に金墉を守らせ、自ら精兵を率いて偃師の北に出、邙山を背にして待った。李密が諸将を集めて議すると、裴仁基が言った。王世充が全軍で来た以上、洛下は必ず空です。兵を分けて要路を守らせ東へ行かせぬようにし、精兵三万を選んで黄河沿いに西へ出して東都に迫れば、王世充は引き返す。そうしたら我らは兵を収める。王世充が再び出れば、我らはまた迫る。こうすれば我らに余力があり、向こうは奔命に疲れる。破るのは必至です、と。
  • 李密は「公の言はまことに結構だ。今、東都の兵には当たりがたい三つがある。武器が精鋭なのが一、決意して深入りしているのが二、食が尽きて戦いを求めているのが三。我らはただ城に拠って固守し力を蓄えて待てばよい。向こうは戦おうにも戦えず、逃げようにも道がない。十日ならずして王世充の首は麾下に届く」と言った。
  • しかし陳智略・樊文超・単雄信はみな「王世充の戦卒は数えるほどしかなく、しばしば破られて胆をつぶしています。兵法に『倍すれば戦う』とありますが、まして倍どころではない。しかも江淮の新附の士は、この機に手柄を立てたいと望んでいます。その鋭気のあるうちに用いれば志を得られましょう」と言った。こうして諸将の七、八割が騒いで戦いを望み、李密は衆議に惑わされて従った。裴仁基は強く争ったが容れられず、地を叩いて「公は後で必ず悔やまれる」と嘆いた。
  • 魏徴は長史の鄭頲に「魏公はしばしば勝ってはいるが、驍将と精鋭の多くが死に、戦士の心は緩んでいる。この二つで敵に応ずるのは難しい。しかも王世充は食が乏しく死戦を志しており、鋒を争いにくい。深い溝と高い塁で拒み、旬月ならずして王世充の糧が尽き自ら退くのを追って撃つに如くはない。必ず勝てる」と言った。鄭頲が「それは老書生の常談だ」と言うと、魏徴は「これは奇策だ。なぜ常談というのか」と言い、衣を払って立ち去った。
  • 程知節が内馬軍を率いて李密と同じ営で北邙山の上にあり、単雄信が外馬軍を率いて偃師城の北に営した。王世充が数百騎を通済渠に渡らせて単雄信の営を攻めたので、李密は裴行儼と程知節に助けさせた。裴行儼が先に敵に駆け寄って流れ矢に当たって落馬し、程知節が救って数人を殺し、王世充の軍はなびいた。程知節は裴行儼を抱えて二人乗りで戻ったが、王世充の騎兵に追われて槊で貫かれた。程知節は身を捻ってその槊をへし折り、あわせて追手を斬って裴行儼とともに逃れた。日が暮れて双方兵を収めて営に帰った。李密の驍将の孫長楽ら十人ほどがみな重傷を負った。
  • 李密は宇文化及を破ったばかりで王世充を軽んじる心があり、壁塁を設けなかった。王世充は夜に二百余騎をひそかに北山に入れて谷に伏せ、軍士にみな馬に飼葉をやらせ、寝床で食事をとらせた。
  • 甲寅の朝、戦おうとするとき、王世充は衆に誓った。今日の戦いは単に勝負を争うのではなく、死生の分かれ目がこの一挙にある。勝てば富貴は言うまでもないが、負ければ一人も逃れられぬ。争うところは死である。国のためだけではない。各々努めよ、と。
  • 夜明けに兵を進めて李密に迫った。李密は兵を出して応じたが、隊列が整わぬうちに王世充が兵を放って撃った。王世充の士卒はみな江淮の剽悍な者で、飛ぶように出入りした。王世充はあらかじめ李密に似た顔の男を探し出して縛って隠しておき、戦いが酣になったところで陣の前を引き回して「李密を捕らえたぞ」と叫ばせ、士卒はみな万歳を唱えた。伏兵が高所から駆け下って李密の営に迫り、火を放って廬舎を焼いた。李密の衆は大潰し、将の張童仁と陳智略はみな降った。
  • 李密は一万余人と洛口に馳せた。王世充は夜に偃師を囲んだ。鄭頲が偃師を守っていたが、部下が城を翻して王世充を入れた。
  • はじめ王世充の家族は江都にあり、宇文化及に従って滑台に至り、さらに王軌に従って李密のもとに入っていた。李密は偃師に留め置いて王世充を招く材料にしようとしていた。偃師が破れると王世充は兄の世偉と子の玄応・虔恕・瓊らを得、また李密の将佐の裴仁基・鄭頲・祖君彦ら数十人を捕らえた。
  • 王世充は兵を整えて洛口に向かい、邴元真の妻子と鄭虔象の母および李密の諸将の子弟を得て、みな慰撫し、ひそかに父兄を呼ばせた。
  • もと邴元真は県の吏だったが、収賄で亡命して瓦崗の翟譲に従った。翟譲は吏の経験を買って書記を掌らせた。李密が幕府を開いて当代の英才を選んだとき、翟譲が邴元真を長史に推し、李密はやむを得ず用いたが、軍の謀議には加えなかった。李密が西で王世充を防ぐ間、邴元真に洛口を守らせていた。
  • 邴元真は貪欲卑劣で、宇文温が李密に「邴元真を殺さねば必ず公の患いとなる」と言ったが、李密は答えなかった。邴元真はこれを知ってひそかに李密への叛きを謀り、楊慶が聞いて李密に告げ、李密も疑ってはいた。
  • このとき李密が洛口城に入ろうとしたが、邴元真はすでに人を遣って王世充を引き入れていた。李密は知りながら発せず、衆と謀って、王世充の兵が半ば洛水を渡ったところで撃つことにした。ところが王世充の軍が来ても李密の斥候が時に応じて気づかず、出戦しようとしたときには王世充の軍はすべて渡り終えていた。単雄信らもまた兵を率いて自ら拠って動かず、李密は支えきれぬと見て麾下の軽騎を率いて虎牢に逃げた。邴元真はそのまま城ごと降った。
  • はじめ単雄信は驍捷で馬上の槊に長け、名は諸軍に冠して軍中で「飛将」と呼ばれた。房彦藻は単雄信が去就を軽んじるとして除くよう勧めたが、李密はその才を愛して忍びなかった。李密が敗れると、単雄信は部下を率いて王世充に降った。
  • 李密が黎陽へ行こうとすると、ある者が「翟譲を殺したとき徐世勣は危うく死ぬところでした。今、敗れて身を寄せて、無事でいられましょうか」と言った。当時、王伯当は金墉を捨てて河陽を保っており、李密は虎牢から帰して諸将と議した。
  • 李密は南に黄河を隔て北に太行を守り、東は黎陽と連ねて進取を図ろうとしたが、諸将はみな「今、兵は敗れたばかりで衆心は危ぶんでいます。さらに留まれば、日を経ずして叛亡し尽くしましょう。しかも人心が望んでおらず、成功は難しい」と言った。
  • 李密は「私が頼みとするのは衆だ。衆が望まぬ以上、私の道は窮まった」と言い、自刎して衆に謝そうとした。王伯当が抱きついて号泣し、衆もみな悲しんで泣いた。李密はさらに「諸君が幸いにも見捨てぬなら、ともに関中に帰ろう。私自身に功はなくとも、諸君は必ず富貴を保てる」と言った。
  • 府掾の柳燮が「明公は唐公と同族で、しかも昔からのよしみがあります。挙兵にこそ加わりませんでしたが、東都を阻んで隋の帰路を断ち、唐公が戦わずして長安に拠れるようにした。これも公の功です」と言い、衆もみな同意した。
  • 李密が王伯当に「将軍は家族が多い。私と一緒に行けまい」と言うと、王伯当は「昔、蕭何は子弟をすべて率いて漢王に従いました。私は兄弟そろって従えぬのが残念なくらいです。公が今日不利になったからといって、去就を軽んじましょうか。たとえ野に屍をさらしても本望です」と答えた。左右で感激せぬ者はなく、李密に従って関に入った者は二万人に上った。こうして李密の将帥と州県の多くが隋(王世充)に降った。
  • 冬十月、李密の到着が近づくと、上(高祖)は使者を送って迎え労わせ、その使いが道に連なった。李密は大いに喜んで徒党に「私は百万の衆を擁して一朝にして甲を解いて唐に帰した。山東の数百の城は、私が北にいると知って使者を送って招けば、みな来るだろう。竇融に比べても功は小さくない。台司の一つくらいには処されるのではないか」と語った。
  • 己卯、長安に着いたが、有司の待遇はやや薄く、部下の兵は数日食にありつけず、衆心はかなり怨んだ。やがて李密は光禄卿・上柱国とされ、邢国公の爵を賜った。李密は望みに満たず、朝臣の多くも軽んじ、執政の者が賄賂を求めることもあって、内心はなはだ不平だった。ただ上だけが親しく礼遇し、常に「弟」と呼び、舅の子の独孤氏を娶らせた。
  • 癸未、王世充は李密の美人と珍宝および将卒十余万を収めて東都に帰り、闕下に陳列した。乙酉、皇泰主が大赦し、丙戌、王世充を太尉・尚書令・内外諸軍事とし、太尉府を開いて官属を備え人物を選ばせた。
  • 李密の総管の李育徳が武陟ごと降り、陟州刺史を拝した。その他の将佐の劉徳威・賈閏甫・高季輔らも相次いで降った。
  • 上は李密に豳州で秦王世民を迎えさせた。李密は智略と功名を恃み、上に対してもなお傲慢な色があったが、世民に会うと思わず驚服し、ひそかに殷開山に「真の英主だ。ああでなければ、どうして禍乱を定められよう」と語った。
  • 徐世勣は李密の旧領域に拠っていたが、まだ帰属先を決めていなかった。魏徴は李密に従って長安に来たが久しく朝廷に知られず、自ら山東の安集を願い出た。上は秘書丞として駅伝で黎陽に赴かせ、徐世勣に書を送って早く降るよう勧めた。
  • 徐世勣は西に付く決意を固め、長史の陽翟の郭孝恪に「この民衆と土地はみな魏公のものだ。私が上表して献ずれば、主君の敗北を利として自分の功とし富貴を求めることになる。私はそれを恥じる。今、郡県の戸口と士馬の数を書き上げて魏公に啓し、自ら献じていただこう」と言った。そこで郭孝恪を長安に遣わし、また糧を運んで淮安王神通に送った。
  • 上は徐世勣の使者に表がなく、ただ李密宛ての啓があるだけと聞いて不審に思ったが、郭孝恪が徐世勣の意を詳しく述べたので、上は嘆じて「徳に背かず功をねだらぬ。まことの純臣だ」と言い、李姓を賜った。郭孝恪を宋州刺史とし、徐世勣とともに虎牢以東を経営させ、得た州郡の官の選補を委ねた。
  • 李密は驕貴に久しく慣れ、また帰国の功を自負していたが、朝廷の待遇が本来の望みに副わず、鬱々として楽しまなかった。大朝会で光禄卿として食事を進める役に当たり、深く恥じ、退いて左武衛大将軍の王伯当に語った。王伯当も内心不満で、「天下の事は公の胸中にあります。今、東海公(徐世勣)は黎陽に、襄陽公は羅口におり、河南の兵馬は指折り数えられます。いつまでもこうしていられましょうか」と言い、李密は大いに喜んだ。
  • そこで上に策を献じ「私はいたずらに栄寵を蒙り京師に安坐して報効がありません。山東の衆はみな私の旧麾下です。行って収め撫でたい。国威を借りれば王世充を取るのは地に落ちた芥を拾うようなものです」と述べた。
  • 上も李密の旧将士の多くが王世充に付いていないと聞き、李密を遣わして収めさせようとした。群臣の多くが「李密は狡猾で謀反を好みます。今これを遣わすのは、魚を淵に投じ虎を山に放つようなもの。必ず戻りません」と諫めた。
  • 上は「帝王には自ずと天命があり、小僧の取れるものではない。仮に叛き去っても、蓬の矢を蓬の中に射るようなもの。今、二賊を闘わせれば、私は座してその疲弊を収められる」と言った。
  • 辛未、李密を山東に遣わして未帰順の残衆を収めさせた。李密が賈閏甫の同行を請い、上は許し、李密と賈閏甫をともに御榻に上らせて食を賜り、杯を回して「我ら三人でこの酒を飲むのは同心を明らかにするためだ。よく功名を建てて朕の意に副え。丈夫は一言を人に許せば千金にも代えぬ。弟を行かせまいと固執する者もいたが、朕は弟に赤心を推す。他人に隔てられるものではない」と言った。李密と賈閏甫は再拝して命を受け、上はさらに王伯当を李密の副として遣わした。
  • 十二月、上は李密に麾下の半分を華州に留めさせ、半分を率いて関を出させた。長史の張宝徳が同行しており、李密が逃げれば罪が及ぶと恐れて、必ず叛くと封事で上言した。上の心は変わったが、李密を驚かせぬよう、勅書を下して労い、部下は留めてゆっくり行かせ、単騎で入朝して改めて指図を受けよと命じた。
  • 李密は稠桑で勅を受け、賈閏甫に言った。勅で私を行かせておきながら、故なくまた召し返す。天子は先に「固執する者がある」と言われたが、あの讒言が行われたのだ。私が今戻れば生きる道はない。桃林県を破ってその兵糧を収め、北へ走って黄河を渡るに如くはない。使者が熊州に達するころには私は遠く離れている。もし黎陽に着けば大事は必ず成る。公の意はどうか、と。
  • 賈閏甫は答えた。主上の明公への待遇はきわめて厚い。まして国家の姓名は図讖に著れ、天下は結局一統されましょう。明公はすでに身を委ねながら再び異図を生じられる。任瓌と史万宝が熊州・穀州に拠っており、朝に事を起こせば夕には兵が至ります。桃林に勝っても兵を集める暇がありましょうか。ひとたび叛逆と称されれば、誰が容れましょう。明公のためには、まず朝命に応じてもとより異心なきことを明らかにし、自然に讒言が通じぬようにし、改めて山東に出る機を待たれるのがよろしい、と。
  • 李密は怒って「唐は私を絳侯・灌嬰と同列に置く。堪えられようか。しかも讖文の応は彼我ともに承知のこと。今、私を殺さず東行させるのは、王者は死なぬことの証だ。たとえ唐が関中を定めても、山東は結局私のものになる。天が与えるのに取らず、手を束ねて人に投ずるのか。公は私の心腹なのに、なぜそんなことを言う。心を同じくせぬなら、斬ってから行く」と言った。
  • 賈閏甫は泣いて言った。明公は讖に応ずると言われますが、近ごろ天も人も次第に離れております。今、海内は分崩し、人は自ら擅にしようと思い、強い者が雄となる。明公は逃亡して間もなく、誰が聞き入れましょう。しかも翟譲が誅されて以来、人はみな明公が恩を捨て本を忘れたと言っています。今日、誰が手持ちの兵を手を束ねて公に委ねましょうか。彼らは必ず奪われることを慮って逆らい、一朝にして勢いを失えば足を置く地もありません。厚恩を蒙った者でなければ、こうまで憚らず申せましょうか。どうか熟慮を。大きな福は二度来ぬとも恐れますが、明公の身の置き所さえあるなら、私は殺されても構いません、と。
  • 李密は激怒して刃を振り上げて撃とうとし、王伯当らが強く請うて許した。賈閏甫は熊州へ逃げた。王伯当も李密を止め、まだその時ではないと言ったが、李密は従わなかった。王伯当は「義士の志は存亡によって心を変えぬもの。公がどうしても聞かれぬなら、伯当は公と死をともにするまでです。しかし結局は益がありますまい」と言った。李密は使者を捕らえて斬った。
  • 庚子の朝、李密は桃林県の官を欺いて「詔で一時京師に戻ることになった。家人を県の官舎に預けたい」と言い、驍勇な者数十人を選んで婦人の衣を着せ面覆いを着けさせ、裙の下に刀を隠して妻妾に見せかけ、自ら率いて県の官舎に入った。たちまち服を替えて突き出て県城に拠り、徒衆を駆り集め、まっすぐ南山に向かい、険に乗じて東へ進み、旧将の伊州刺史の襄城の張善相に使いを馳せて兵で迎え接するよう命じた。
  • 右翊衛将軍の史万宝が熊州を鎮めており、行軍総管の盛彦師に「李密は驍賊だ。しかも王伯当が輔けている。今、決意して叛いた以上、まず当たりがたい」と言った。盛彦師は笑って「数千の衆でこれを迎え撃ち、必ずその首を梟してみせます」と言った。史万宝が「どんな策でそうできるのか」と問うと、盛彦師は「兵は詐りを尚びます。公には申せません」と答えた。
  • 盛彦師はただちに衆を率いて熊耳山を越え、南の要道に拠り、弓弩に道を挟んで高所に構えさせ、刀楯を谷に伏せ、「賊が半ば渡ったら一斉に発せよ」と命じた。ある者が「李密は洛州に向かうと聞くのに、公が山に入るのはなぜか」と問うと、盛彦師は「李密は洛に向かうと言いふらして、実は不意を突いて襄城の張善相のもとへ走ろうとしている。もし賊が谷口に入ってから背後から追えば、山路は険しく狭くて力を発揮できず、一人が殿を務めるだけで制せられなくなる。今、私が先に谷に入れば、擒にするのは必至だ」と答えた。
  • 李密は陝を過ぎて、もう憂いはないと思い、衆を擁してゆっくり進み、果たして山を越えて南に出た。盛彦師が撃つと、李密の衆は首尾が断ち切られて救い合えず、李密と王伯当を斬って、ともに首を長安に送った。盛彦師はその功で葛国公の爵を賜り、武衛将軍を拝して熊州を領した。
  • 李世勣は黎陽にいた。上が使者を送って李密の首を示し、その叛状を告げると、李世勣は北面して拝伏し号泣し、上表して収葬を請うた。詔でその屍を返し、李世勣は喪に服して君臣の礼を備え、儀衛を大いに整え、全軍が白衣を着て李密を黎陽山に葬った。

武徳二年(619年)――王世充の簒奪

  • 春正月壬寅、王世充は隋朝の顕官と名士をことごとく太尉府の官属とした。杜淹と戴冑もその中にいた。
  • 王世充は朝政を専ら統べ、事は大小を問わずすべて太尉府に関わり、台省や監署はひっそりとした。王世充は府の門外に三つの牌を立て、一つは文学と才識で時務を済える者、一つは武勇と智略で鋒を推し敵を陥せる者、一つは冤罪を抱えて訴えが通らぬ者を求めるものとした。書を上って事を陳べる者が日に数百あり、王世充はことごとく引見して自ら目を通し、懇ろに慰め諭したので、誰もが言を聴かれ計を用いられると喜んだ。しかし結局は何一つ実行しなかった。下は士卒や下働きまで、王世充はみな甘言で喜ばせたが、実の恩恵はなかった。
  • 隋の馬軍総管の独孤武都は王世充に親任されていた。その従弟の司隷大夫の独孤機と虞部郎の楊恭慎、前勃海郡主簿の孫師孝、歩兵総管の劉孝元・李倹・崔孝仁が唐兵を招き入れる謀を立て、孫孝仁が独孤武都を説いた。王公はいたずらに女子供のような態度で愚民を喜ばせているが、狭量で貪欲残忍、親旧も顧みぬ。どうして大業を成せよう。図讖の文が李氏に帰するのは誰もが知る。唐は晋陽に起こって関内を領有し、兵は止まらず英雄が影のように付き従い、しかも心を開いて人を待ち、善を挙げ功を貴び旧悪を念とせぬ。勝勢に拠って天下を争えば、誰が敵しよう。我らは身を寄せる所を誤り、座して滅びを待っている。今、任管公の兵は近く新安にあり、しかも我らの旧知である。密使を送って呼び、夜に城下に至らせて我らが内応して門を開いて入れれば、事は必ず成る、と。
  • 独孤武都は従ったが、事が漏れて王世充はみな殺した。楊恭慎は楊達の子である。
  • はじめ王世充は元文都・盧楚を殺してから人心が服さぬことを慮り、なお皇泰主に媚びて礼はきわめて謙り、劉太后の仮子となることを請い、「聖感皇太后」の尊号を奉った。しかし次第に驕り横暴になった。あるとき宮中で食を賜って帰宅後に激しく吐き、毒を盛られたと疑い、これ以後は朝謁しなくなった。
  • 皇泰主は王世充が結局は臣たり得ぬと知りながら制する力がなく、ただ内庫の綵物を取って幡や花を大量に作り、また調度や玩具を出して僧に貧しい者へ施させ福を求めるばかりだった。王世充は一党の張績と董濬に章善・顕福の二門を守らせ、宮内の雑物は毫釐たりとも持ち出させなかった。
  • この月、王世充は人を遣って印と剣を献じさせ、また黄河の水が澄んだと言って、衆に誇示して自分の符瑞としようとした。
  • 閏二月丁巳、驃騎将軍の張孝珉が精兵百人で王世充の汜水城を襲い、外郭に入って米船百五十艘を沈めた。
  • 己未、王世充が穀州を侵した。王世充は秦叔宝を竜驤大将軍、程知節を将軍として厚遇したが、二人は王世充の詐りの多さを嫌った。程知節は秦叔宝に「王公は器量が狭く妄言が多く、呪誓を好む。まるで老巫女だ。どうして乱を撥める主であろうか」と言った。
  • 王世充が九曲で唐兵と戦ったとき、秦叔宝と程知節はともに兵を率いて陣中にいたが、徒党数十騎とともに西へ百歩ほど駆けて馬を下り、王世充に拝して「私は公の格別の礼遇を受け、報効を深く思ってきました。しかし公は猜疑深く讒言を喜んで信ぜられ、私が身を託す所ではありません。もはやお仕えできず、これでお暇をいただきます」と言い、馬を躍らせて唐に降った。王世充はあえて追わなかった。
  • 上は二人を秦王世民に仕えさせた。世民は日ごろその名を聞いており厚礼し、秦叔宝を馬軍総管、程知節を左三統軍とした。当時、王世充の驍将にはほかに驃騎の武安の李君羨、征南将軍の臨邑の田留安がおり、これも王世充の人となりを憎んで衆を率いて降った。世民は李君羡を側近に置き、田留安を右四統軍とした。
  • 王世充は李育徳の兄の厚徳を獲嘉に囚えていたが、厚徳は守将の趙君穎とともに殷州刺史の段大師を追い、城ごと降った。厚徳を殷州刺史とした。
  • 癸亥、陟州刺史の李育徳が王世充の河内の砦三十一か所を攻め落とした。乙丑、王世充が兄の子の君廓に陟州を侵させたが、李育徳が撃退して千余級を斬った。李厚徳が親の病を見舞いに帰り、李育徳に獲嘉を守らせたところ、王世充が兵を合わせて攻め、丁卯、城が陥ちて李育徳と弟三人はみな戦死した。
  • 三月壬申、王世充が穀州を侵し、刺史の史万宝は戦って不利だった。
  • 王世充が新安を侵したのは、外には攻取を装いながら、実は自分に付く文武を集めて禅譲を受けることを議するためだった。李世英が強く不可として「四方が東都に馳せ帰したのは、公が隋室を中興できるからです。今、九州の地で一つも清まらぬうちに位号を正されては、遠方の人はみな叛き去ろうと思うでしょう」と言い、王世充は「公の言うとおりだ」と答えた。
  • しかし長史の韋節や楊続らは「隋氏の運数は尽きており、道理は明らかです。非常の事は常人と議すべきではありません」と言い、太史令の楽徳融も「先年、長星が出たのは旧を除き新を布く徴です。今、歳星は角・亢にあり、亢は鄭の分野。速やかに天道に順わねば王気が衰えましょう」と言い、王世充は従った。
  • 外兵曹参軍の戴冑が「君臣は父子のようなもの、休戚をともにします。明公は忠を尽くして国に殉ずるに如くはなく、そうすれば家も国もともに安泰です」と言うと、王世充は言葉を飾って賛意を示して帰らせた。王世充が九錫を受けることを議したとき、戴冑がまた強く諫めたので、王世充は怒って鄭州長史として出し、兄の子の行本とともに虎牢を鎮めさせた。
  • そこで段達らに皇泰主へ王世充に九錫を加えるよう請わせた。皇泰主は「鄭公は近ごろ李密を平らげてすでに太尉を拝した。それ以来、格別の功績はない。天下がやや平らいでから議しても遅くはない」と言った。段達が「太尉が望んでおられるのです」と言うと、皇泰主はじっと段達を見つめて「公の好きにせよ」と言った。
  • 辛巳、段達らは皇泰主の詔として王世充を相国・仮黄鉞・総百揆とし、鄭王に進爵して九錫を加え、鄭国に丞相以下の官を置いた。
  • 甲午、王世充は将の高毗に義州を侵させた。
  • 東都の道士の桓法嗣が『孔子閉房記』を王世充に献じ、相国が隋に代わって天子となるべきだと言った。王世充は大いに喜んで桓法嗣を諫議大夫とした。王世充はまた雑多な鳥を捕らえて帛に文字を書いて首に結び、符命だと言って放ち、その鳥を得て献ずる者にも官爵を授けた。
  • そこで段達が皇泰主の命として王世充に殊礼を加えた。王世充は上表して三度辞退し、百官が即位を勧め、都堂に位を設けた。納言の蘇威は老齢で朝謁に堪えなかったが、王世充は蘇威が隋の重臣であることを利用して士民の目を眩ませようとし、勧進のたび必ず蘇威の名を筆頭に置き、殊礼を受ける日には蘇威を扶けて百官の上に置き、そのうえで南面して正座して受けた。
  • 夏四月、王世充は長史の韋節・楊続らと太常博士の衡水の孔穎達に禅代の儀を作らせ、段達・雲定興ら十余人を遣わして「天命は常ならず、鄭王の功徳ははなはだ盛んです。どうか陛下は唐虞の跡に倣われますよう」と奏上させた。
  • 皇泰主は膝を正して机に拠り、怒って言った。天下は高祖の天下である。もし隋の祚がまだ亡んでいないなら、この言は発すべきでない。必ず天命がすでに改まったというのなら、禅譲など煩わすまでもない。公らはある者は祖父以来の旧臣、ある者は三公の高位にありながら、こうした言を吐く。朕は何を望めようか、と。顔色は凜として、その場にいた者はみな汗を流した。退朝して太后に泣いて訴えた。
  • 王世充はさらに人を遣って「今、海内は安らかでなく、年長の君を立てる必要があります。四方が安集すれば必ず政を天子にお返しします。前の誓いのとおりに」と言わせた。
  • 癸卯、王世充は皇泰主の命と称して鄭に禅位させ、兄の世惲に皇泰主を含涼殿に幽閉させた。三度の辞譲の表と敦めの勅書があったが、皇泰主は何も知らなかった。諸将に兵を率いて宮城を清めさせ、また術師に桃湯と葦の火で禁中を祓わせた。
  • 乙巳、王世充は法駕を備えて宮に入り、皇帝の位に即いた。丙午、大赦して開明と改元した。
  • 戊申、王世充は子の玄応を太子、玄恕を漢王とし、その他の兄弟宗族十九人をみな王とし、皇泰主を潞国公とした。蘇威を太師、段達を司徒、雲定興を太尉、張僅を司空、楊続を納言、韋節を内史、王隆を左僕射、韋霽を右僕射、斉王世惲を尚書令、楊汪を吏部尚書、杜淹を少吏部、鄭頲を御史大夫とした。世惲は王世充の兄である。
  • また国子助教の呉の人の陸徳明を漢王の師とし、玄恕にその家へ赴いて束脩の礼を行わせた。陸徳明は恥じて巴豆散を服して臥し病と称した。玄恕が入って寝台の下に跪いても、陸徳明は排便をして見せ、ついに口をきかなかった。陸徳明は名を元朗といい字で通っていた。
  • 王世充は闕下や玄武門など数か所にみな腰掛けを設け、一定の場所を持たず、自ら上表を受け、あるいは軽騎で市街を巡ったが、道を清めもせず、民はただ道を避けるだけだった。王世充は轡を押さえてゆっくり進みながら「昔は天子が九重の奥深くに居られ、下々の事情は届かなかった。今、世充は天子の位を貪るのではなく、時の危機を救い恤みたいだけである。ちょうど一州の刺史のように自ら庶務を見、士庶とともに朝政を評したい。門に制限があってはと思い、門外に席を設けて政を聴く。各々思いを尽くせ」と語り、また西の朝堂で冤罪を、東の朝堂で直諫を受け付けさせた。そこで書や策を献ずる者が日に数百条あり、煩雑で目を通しきれず、数日後にはもう出て来なくなった。
  • 王世充の将軍の丘懐義が門下内省にいて、越王君度・漢王玄恕・将軍の郭士衡を呼び、妓妾を交えて飲み博打をした。侍御史の張蘊古が弾劾すると、王世充は激怒して素手の者に君度と玄恕を捕らえさせて耳を数十回打ち、また東上閤に引き入れてそれぞれ杖四十を打たせたが、丘懐義と郭士衡は問わなかった。張蘊古には帛百段を賞して太子舎人に遷した。君度は王世充の兄の子である。
  • 王世充は朝に臨むたび懇ろに教え諭し、言葉は重複して千々に乱れ、侍衛の者は疲れ果て、百司は奏事しても聴くのに疲れた。御史大夫の蘇良が「陛下は言葉が多すぎて要領を得られません。こうせよと言えばそれで済むのに、なぜ多言を要しましょう」と諫めた。王世充は長らく黙っていたが、蘇良を罪にはしなかった。しかし性質がこうなので、ついに改められなかった。
  • 王世充はしばしば伊州総管の張善相を攻めた。張善相は防いだが糧が尽き援軍も来ず、癸亥、城が陥ちた。張善相は王世充を口を極めて罵って死んだ。帝は聞いて「私が善相に背いたのだ。善相が私に背いたのではない」と嘆き、その子に襄城郡公の爵を賜った。
  • 五月、王世充が義州を陥し、また西済州を侵したので、右驍衛大将軍の劉弘基に兵を率いて救わせた。
  • 癸巳、梁州総管・山東道安撫副使の陳政が麾下に殺され、その首を持って王世充のもとに走った。陳政は陳茂の子である。
  • 王世充は礼部尚書の裴仁基と左輔大将軍の裴行儼に威名があるのを忌み、裴仁基父子もこれを知って落ち着かず、尚書左丞の宇文儒童、その弟の尚食直長の宇文温、散騎常侍の崔徳本と、王世充とその一党を殺して皇泰主を再び尊立する謀を立てた。事が漏れてみな三族を誅された。
  • 斉王世渾が王世充に「儒童らが謀反したのは、まさに皇泰主がなお存しているからです。早く除くに如くはありません」と言い、王世充は従った。兄の子の唐王仁則と家奴の梁百年を遣わして皇泰主に毒を盛らせた。皇泰主は「改めて太尉に請うてくれ。かつての約束からすればここまでするはずがない」と言い、梁百年が取り次ごうとしたが世惲が許さなかった。太后に訣別を請うたが、これも許されなかった。そこで席を敷いて香を焚いて仏を礼し、「今より後、二度と帝王の家に生まれませぬように」と願った。薬を飲んでも死にきれず、帛で縊り殺された。諡を恭皇帝という。
  • 王世充は兄の楚王世偉を太保、斉王世惲を太傅・領尚書令とした。
  • 秋七月、王世充が将の羅士信に穀州を侵させたが、羅士信は衆千余人を率いて唐に降った。これに先立ち、羅士信は李密に従って王世充と戦って敗れ、王世充に捕らえられていた。王世充は厚遇して寝食をともにしたが、やがて邴元真らを得るとこれも羅士信と同じ待遇にしたので、羅士信は恥じた。羅士信が駿馬を持っており、王世充の兄の子の趙王道詢が欲しがったが与えなかったところ、王世充が奪って道詢に与えたので、羅士信は怒って降ったのである。
  • 上は来訪を聞いて大いに喜び、使者を送って迎え労い、帛五千段を賜り、その部下に食糧を給し、羅士信を陝州道行軍総管とした。王世充の左竜驤将軍の臨涇の席辯も、同僚の楊虔安・李君義とともに部下を率いて降った。
  • 丙子、王世充が将の郭士衡に穀州を侵させたが、刺史の任瓌が大破し、捕虜と斬首でほぼ全滅させた。
  • 甲申、行軍総管の劉弘基が将の种如願に王世充の河陽城を襲わせ、黄河の橋を壊して帰った。
  • 八月丙午、将軍の秦武通の軍が洛陽に至り、王世充の将の葛彦璋を破った。
  • 冬十月、王世充が自ら兵を率いて地を従え、滑台に至り黎陽に臨んだ。尉氏の城主の時徳叡、汴州刺史の王要漢、亳州刺史の丁叔則が使者を送って降り、時徳叡を尉州刺史とした。王要漢は王伯当の兄である。
  • 王世充は従弟の世辨に徐・亳の兵で雍丘を攻めさせた。李公逸は使者を送って救援を求めたが、上は賊地に隔てられて救えなかった。李公逸は属官の李善行に雍丘を守らせ、自ら軽騎で入朝しようとして、襄城で王世充の伊州刺史の張殷に捕らえられた。王世充が「卿は鄭を越えて唐に臣従するが、その説はどこにあるのか」と問うと、李公逸は「私は天下に唐があることだけを知り、鄭があることを知らぬ」と答え、王世充は怒って斬った。李善行も没した。上は李公逸の子を襄邑公とした。

武徳三年(620年)――洛陽包囲戦の始まり

  • 王世充の将帥や州県で唐に降る者が月を追って相次いだので、王世充は法を厳しくし、一人が逃亡すれば一家を老幼を問わず処刑し、父子兄弟夫婦が互いに告発すれば免ずることとした。また五家で保を組ませ、一家全員が逃亡して四隣が気づかなければみな連坐して誅した。殺す者はますます多くなったが、逃げる者はいっそう増えた。薪を採りに出る者にまで出入りの回数を制限し、公私ともに困窮して民は生きた心地がしなかった。
  • 宮城を大獄とし、意に忌む者は家族ごと宮中に拘禁し、諸将が出征するときもその家族を宮中に人質に取った。禁じ止められた者は常に一万口を下らず、飢え死にする者が日に数十人あった。
  • 王世充はまた台省の官を司・鄭・管・原・伊・殷・梁・湊・嵩・谷・懐・徳など十二州の営田使とし、丞や郎でこの任に出られる者は仙人にでもなったように喜んだ。
  • 夏四月、羅士信が慈澗を囲み、王世充は太子玄応に防がせた。羅士信が玄応を刺して落馬させたが、人が救って助かった。
  • 庚申、懐州総管の黄君漢が王世充の太子玄応を西済州で撃って大破し、熊州行軍総管の史万宝が九曲で迎え撃ってまた破った。
  • 辛酉、王世充が鄧州を陥した。
  • 五月、突厥が阿史那揭多を遣わして馬千匹を王世充に献じ、あわせて婚を求めた。王世充は宗女を娶らせ、あわせて交易した。
  • 顕州行台尚書令の楚王楊士林は唐の官爵を受けながら、北は王世充と結び南は蕭銑と通じていた。詔で廬江王瑗と安撫使の李弘敏に討たせたが、兵が出ぬうちに長史の田瓉が楊士林に忌まれ、甲寅、田瓉が楊士林を殺して王世充に降った。王世充は田瓉を顕州総管とした。
  • 上が王世充討伐を議した。王世充は聞いて諸州鎮の驍勇な者をみな洛陽に集め、四鎮将軍を置いて人を募って四つの城を分け守らせた。
  • 秋七月壬戌、詔して秦王世民に諸軍を督して王世充を撃たせた。陝東道行台の屈突通は二人の子が洛陽にいた。上が「今、卿を東征させたいが、二人の子はどうする」と言うと、屈突通は「臣は昔、捕虜となり死ぬのが当然でした。陛下は縛を解いて恩礼を加えてくださった。あのとき臣は心に誓い、余生を陛下のために節を尽くすと期しました。ただ死に場所を得られぬのを恐れるばかりです。今、先駆けを務められるなら、二人の子など顧みるに足りましょうか」と答えた。上は「義に殉ずる士とはここまでのものか」と嘆じた。
  • 癸亥、突厥が使者をひそかに王世充のもとへ遣わしたが、潞州総管の李襲誉が迎え撃って破り、牛羊を万を数えるほど捕らえた。
  • 壬午、秦王世民が新安に至った。王世充は魏王弘烈に襄陽を、荆王行本に虎牢を、宋王泰に懐州を鎮めさせ、斉王世惲に南城を検校させ、楚王世偉に宝城、太子玄応に東城、漢王玄恕に含嘉城、魯王道徇に曜儀城を守らせた。王世充は自ら戦兵を率い、左輔大将軍の楊公卿に左竜驤二十八府の騎兵、右游撃大将軍の郭善才に内軍二十八府の歩兵、左游撃大将軍の跋野綱に外軍二十八府の歩兵、総勢三万を率いさせて唐に備えた。弘烈と行本は世偉の子、泰は王世充の兄の子である。
  • 羅士信が前鋒を率いて慈澗を囲み、王世充が自ら三万で救った。己丑、秦王世民が軽騎で前方を偵察していて突然王世充と遭遇した。衆寡敵せず、道は険しく狭くて包囲された。世民が左右に馬を駆って射ると、みな弦の音とともに斃れ、その左建威将軍の燕琪を捕らえたので、王世充は退いた。世民が営に戻ると、砂塵で顔が覆われて軍は誰か分からず防ごうとしたが、兜を脱いで名乗ってようやく入れた。
  • 翌日、歩騎五万を率いて慈澗に進軍し、世民は慈澗の守りを抜いた。王世充は洛陽に帰った。
  • 世民は行軍総管の史万宝を宜陽から南の竜門に拠らせ、将軍の劉徳威を太行から東の河内包囲に、上谷公の王君廓を洛口から糧道の遮断に、懐州総管の黄君漢を河陰から回洛城攻撃に向かわせ、大軍は北邙に駐屯して営を連ねて迫った。王世充の洧州長史の繁水の張公謹が刺史の崔枢とともに州城ごと降った。
  • 八月、鄧州の土豪が王世充の任じた刺史を捕らえて降った。
  • 甲辰、黄君漢が校尉の張夜叉に舟師で回洛城を襲わせて落とし、その将の達奚善定を捕らえ、河陽の南橋を切って帰り、砦二十余を降した。王世充は太子玄応に楊公卿らを率いて回洛を攻めさせたが落とせず、その西に月城を築いて兵を残して守らせた。
  • 王世充が青城宮に陣し、秦王世民も陣を置いて当たった。王世充は水を隔てて世民に「隋室は倒れ、唐帝は関中に、鄭帝は河南にある。世充はかつて西を侵したことがない。王が急に兵を挙げて東へ来られたのはなぜか」と言った。世民は宇文士及に「四海はみな皇風を仰いでいるのに、ただ公だけが教化を遮っている。そのために来たのだ」と応じさせた。王世充が「互いに兵を収めて和睦するのがよかろう」と言うと、また「詔を奉じて東都を取るのであり、和睦せよとは命ぜられておらぬ」と応じた。日暮れにそれぞれ兵を引いた。
  • 九月癸酉、王世充の顕州総管の田瓉が部下の二十五州ごと降った。これより襄陽と王世充の連絡は絶えた。
  • 史万宝が甘泉宮に進軍した。丁丑、秦王世民が右武衛将軍の王君廓に轘轅を攻めさせて抜いた。王世充が将の魏隠らに王君廓を撃たせたが、王君廓は偽って逃げ伏兵を設けて大破し、そのまま東へ地を従えて管城まで至って帰った。これに先立ち、王世充の将の郭士衡と許羅漢が唐の領域を掠めたのを、王君廓は計略で撃退していた。詔で「卿は十三人で賊一万を破った。古来、少をもって衆を制した例はない」と労った。
  • 王世充の尉州刺史の時徳叡が部下の杞・夏・陳・随・許・潁・尉の七州ごと降った。秦王世民は便宜として州県の官をみな王世充の任じたままとして変更せず、尉州を南汴州と改めた。こうして河南の州県が相次いで降った。
  • 辛巳、世民が五百騎で戦地を見回り魏の宣武陵に登ったところ、王世充が歩騎一万余で急に来て包囲した。単雄信が槊を構えてまっすぐ世民に迫ったが、尉遅敬徳が馬を躍らせて大声を挙げ、横から刺して単雄信を落馬させ、王世充の兵がやや退いたところで世民を助けて囲みを出た。世民と尉遅敬徳は改めて騎兵を率いて戦い、王世充の陣に出入りして往復に妨げがなかった。屈突通が大軍を率いて続いて至り、王世充の兵は大敗して身一つで逃れ、その冠軍大将軍の陳智略を捕らえ、千余級を斬り、排槊兵六千を得た。
  • 冬十月甲午、王世充の大将軍の張鎮周が降った。
  • 甲辰、行軍総管の羅士信が王世充の硤石堡を襲って抜き、さらに千金堡を囲んだ。堡中から大いに罵られたので、羅士信は夜に百余人に嬰児数十を抱かせて堡の下に行かせ、児を泣かせて「東都から羅総管に帰順しに来た」と偽らせ、やがて「ここは千金堡だ。我らは間違えた」と言い合わせて立ち去らせた。堡中は羅士信がすでに去り、来たのは洛陽からの逃亡者と思って兵を出して追った。羅士信は道に伏兵を置き、門が開くのを待って突入して皆殺しにした。
  • 李密の敗北のとき楊慶は洛陽に帰り、王世充は管州総管として兄の娘を娶らせていた。秦王世民が洛陽に迫ると、楊慶はひそかに人を送って降を請うた。世民は総管の李世勣に兵を率いてその城に拠らせ、楊慶は降って上柱国・郇国公を拝した。
  • 当時、王世充の太子玄応は虎牢を鎮めて滎・汴の間に軍していたが、これを聞いて兵を率いて管城に向かった。李世勣は撃退し、郭孝恪に書を書かせて滎州刺史の魏陸を説かせ、魏陸はひそかに降を請うた。玄応が大将軍の張志を魏陸のもとに遣わして徴兵させると、丙辰、魏陸は張志ら四将を捕らえて州ごと降った。
  • 陽城令の王雄が諸砦を率いて降り、秦王世民は李世勣に兵を率いて応接させ、王雄を嵩州刺史とした。嵩山南麓の路が初めて通じた。
  • 魏陸は張志に玄応の書を偽らせて東道の兵を停め、その将の張慈宝をひとまず汴州に帰らせ、あわせて汴州刺史の王要漢にひそかに告げて張慈宝を図らせた。王要漢は張慈宝を斬って降った。玄応は諸州がみな叛いたと聞いて大いに恐れ、洛陽に逃げ帰った。詔で王要漢を汴州総管とし、郳国公の爵を賜った。
  • 十一月戊子、安撫大使の李大亮が王世充の沮・華の二州を取った。
  • 唐兵が洛陽に迫り、王世充は使者を送って竇建徳に救いを求めた。竇建徳は使者を王世充のもとへ遣わして救援を約した。
  • 十二月辛卯、王世充の許・亳など十一州がみな降を請うた。辛丑、王世充の随州総管の徐毅が州ごと降った。
  • 王世充は兄の子の代王琬と長孫安世を竇建徳のもとへ遣わして答礼させ、あわせて兵を乞うた。

武徳四年(621年)――洛陽の陥落

  • 春正月、王世充の梁州総管の程嘉会が部下ごと降った。
  • 杜伏威が将の陳正通と徐紹宗に精兵二千を率いて秦王世民の王世充攻めに合流させた。甲申、梁を攻めて落とした。
  • 秦王世民は精鋭千余騎を選び、みな黒衣に玄甲を着せて左右の隊に分け、秦叔宝・程知節・尉遅敬徳・翟長孫に分けて率いさせた。戦うたび世民自ら玄甲を着けて率いて先鋒となり、機に乗じて進撃して向かうところ破らぬものはなく、敵はこれを畏れた。
  • 行台僕射の屈突通と賛皇公の竇軌が兵を率いて営屯を巡視していて突然王世充と遭遇し、戦って不利となった。秦王世民が玄甲を率いて救い、王世充は大敗して騎将の葛彦璋を捕らえられ、捕虜と斬首は六千余人。王世充は逃げ帰った。
  • 王世充の太子玄応が兵数千で虎牢から糧を洛陽に運ぼうとしたが、秦王世民が将軍の李君羨に迎え撃たせて大破し、玄応は身一つで逃れた。
  • 世民は宇文士及に東都包囲の許可を奏請させた。上は宇文士及に「帰って汝の王に伝えよ。今、洛陽を取るのはただ兵を休めたいからだ。城を落とした日、乗輿・法物・図籍・器械で私家に必要でないものはお前が収めよ。その他の子女・玉帛はすべて将士に分け与えよ」と言った。
  • 辛丑、世民が青城宮に軍を移した。壁塁がまだ立たぬうちに、王世充が二万を率いて方諸門から出、古い馬坊の垣と塹壕に拠り穀水に臨んで唐兵を防いだ。諸将はみな恐れたが、世民は精騎を北邙の魏宣武陵に陣して眺め、左右に「賊の勢いは窮まった。全軍で出て一戦に僥倖を求めているのだ。今日これを破れば、以後は二度と出て来まい」と言った。
  • 屈突通に歩卒五千で水を渡って撃たせ、「交戦したら煙を上げよ」と戒めた。煙が上がると世民は騎兵を率いて南下し、士卒に先立って屈突通と合勢して力戦した。
  • 世民は王世充の陣の厚薄を知ろうとして精騎数十とともに突き入り、まっすぐその背後に出た。衆はみななびいて殺傷は多かった。ところが長い堤に隔てられて諸騎とはぐれ、将軍の丘行恭ひとりが従っていた。王世充の数騎が追いついて、世民の馬は流れ矢に当たって斃れた。丘行恭は馬を返して追手を射、放つ矢はすべて命中し、追手は前へ出られなかった。丘行恭は馬を下りて世民に与え、自らは馬前で長刀を執り、跳び上がって大声を挙げ、数人を斬って陣を突き抜け、大軍に入ることができた。
  • 王世充もまた衆を率いて死力を尽くして戦い、散ってはまた合すること四度、辰から午に至ってようやく退いた。世民が兵を放って乗じ、まっすぐ城下まで迫り、捕虜と斬首は七千人。そのまま包囲した。
  • 驃騎将軍の段志玄は王世充の兵と力戦して深入りし、馬が倒れて捕らえられた。二騎が両側からその髻をつかんで洛水を渡ろうとしたが、段志玄が身を躍らせて奮うと二人とも落馬し、段志玄は駆け帰った。追う者は数百騎あったが迫れなかった。
  • はじめ驃騎将軍の王懐文が唐軍の斥候で王世充に捕らえられた。王世充は懐柔しようとして側近に置いた。壬寅、王世充が右掖門を出て洛水に臨んで陣を布いたとき、王懐文が突然槊を取って王世充を刺した。王世充は衣の下に甲を着けており、槊は折れて通らなかった。左右は不意を突かれてみな呆然として為すすべを知らず、王懐文は唐軍へ走ったが、寫口で追いつかれて殺された。王世充は帰って衣の下の甲を脱いで肌を群臣に示し、「懐文が槊で私を刺したが、ついに傷つけられなかった。天命ではないか」と言った。
  • これに先立ち、御史大夫の鄭頲は王世充に仕えるのを喜ばず、しばしば病と称して政に与らなかった。このとき王世充に「臣は仏に金剛不壊の身があると聞きます。陛下はまさにそれです。臣はまことに幸いにも仏の世に生まれました。官を捨てて髪を落とし沙門となり、精進に努めて陛下の神武を助けたく存じます」と言った。
  • 王世充は「国の大臣で声望も重い者が一朝にして道に入れば、世間を驚かせよう。兵乱が休んでから志に従うがよい」と言い、鄭頲が固く請うても許さなかった。鄭頲は退いて妻に「私は元服して仕官し、志は名節を慕っていたが、不幸にも乱世に遭ってここまで流離した。猜忌の朝廷に身を置き、危亡の地に足を重ねている。智力は浅く身を全うする術もない。人生には必ず死がある。早いか遅いかの違いだけだ。ひとまず好むところに従えば、死んでも恨みはない」と言い、髪を落として僧服を着た。
  • 王世充は聞いて激怒し「お前は私が必ず敗れると思って、身を免れようというのか。誅さずして何で衆を制せよう」と言い、鄭頲を市で斬った。鄭頲は言笑自若とし、見る者は壮とした。詔で王懐文に上柱国・朔州刺史を追贈した。
  • 庚戌、王泰が河陽を捨てて逃げ、その将の趙敻らが城ごと降った。別将の単雄信と裴孝達が総管の王君廓と洛口で対峙していたので、秦王世民は歩騎五千を率いて援け、轘轅に至ると単雄信らは逃げ去り、王君廓が追って破った。
  • 乙卯、王世充の懐州刺史の陸善宗が城ごと降った。
  • 秦王世民が洛陽の宮城を囲んだ。城中の守りはきわめて厳重で、大砲の飛石は重さ五十斤で二百歩を飛び、八弓の弩の箭は車の輻のようで鏃は巨大な斧のよう、五百歩を射た。世民は四面から昼夜休まず攻めたが、十日余りで落とせなかった。城中で城を翻そうとした者は十三組あったが、いずれも果たせず死んだ。
  • 唐の将士はみな疲弊して帰りたがり、総管の劉弘基らは凱旋を請うた。世民は「今、大挙して来たのは一労永逸のためだ。東方の諸州はすでに風を望んで従い、ただ洛陽の孤城だけが残り、その勢いは長く続かぬ。功は成るところなのに、なぜ捨てて去るのか」と言い、軍中に「洛陽を破らぬうちは決して帰らぬ。凱旋を口にする者は斬る」と令し、衆は二度と口にしなかった。
  • 上も聞いてひそかに世民に帰還を勅した。世民は洛陽は必ず落とせると上表し、また参謀軍事の封徳彝を入朝させて形勢を直接論じさせた。封徳彝は上に「王世充は得た地こそ多いが、みな名目だけの帰属で、号令の行われるのは洛陽一城のみ。智も力も尽き、陥落は朝夕にあります。今、軍を返せば賊の勢いは再び振るい、互いに結び合って後に図りにくくなりましょう」と言い、上は従った。世民は王世充に書を送って禍福を諭したが、王世充は返答しなかった。
  • 戊午、王世充の鄭州司兵の沈悦が使者を左武候大将軍の李世勣のもとへ送って降を請うた。左衛将軍の王君廓が夜に兵を率いて虎牢を襲い、沈悦が内応してついに抜き、その荆王行本と長史の戴冑を捕らえた。沈悦は沈君理の孫である。
  • 唐兵が洛陽を囲み、塹壕を掘り塁を築いて守った。城中は食に乏しく、絹一匹が粟三升、布十匹が塩一斤、服飾や珍玩は土芥のように安かった。民は草の根も木の葉も食べ尽くし、泥水を澄ませて浮いた泥を取り、米屑を混ぜて餅にして食べ、みな体が腫れ脚が萎えて、死者が道に折り重なった。皇泰主が民を宮城に移したとき三万家あったが、このとき三千家もなかった。公卿の貴顕ですら糠さえ足りず、尚書郎以下は自ら物を背負って運び、しばしば飢え死にした。
  • 竇建徳は将の范願に曹州を守らせ、孟海公と徐円朗の衆をすべて動員して西の洛陽救援に向かった。滑州に至ると王世充の行台僕射の韓洪が門を開いて迎え入れた。己卯、酸棗に軍した。
  • 秦王世民は麾下を二分し、屈突通を斉王元吉の副として東都を囲み守らせ、自ら驍勇三千五百人を率いて東の武牢に向かった。
  • 夏四月壬寅、王世充の騎将の楊公卿と単雄信が兵を出して戦い、斉王元吉は撃って不利となり、行軍総管の盧君諤が戦死した。
  • 王世充の平州刺史の周仲隠が城ごと降った。
  • 五月、竇建徳を擒にした。甲子、王世充の偃師と鞏県がともに降った。乙丑、太子左庶子の鄭善果を山東道撫慰大使とした。王世充の将の王徳仁は旧洛陽城を捨てて逃げ、亜将の趙季卿が城ごと降った。
  • 秦王世民は竇建徳・王琬・長孫安世・郭士衡らを囚えて洛陽城下に連れて行き王世充に見せた。王世充は竇建徳と語って泣き、長孫安世らを城に入れて敗戦の様子を述べさせた。王世充は諸将を召して包囲を突破して襄陽に走ることを議したが、諸将はみな「我らが頼みとしたのは夏王です。夏王が擒になった以上、脱出できても結局は成りますまい」と言った。
  • 丙寅、王世充は素服して太子・群臣二千余人とともに軍門に至って降った。世民は礼をもって迎えた。王世充は伏して汗を流し、世民が「卿は常々私を小僧扱いしていたが、今、その小僧に会って、なぜそう恭しいのか」と言うと、王世充は頓首して謝罪した。
  • そこで諸軍を配分してまず洛陽に入れ、市街を分け守らせて侵掠を禁じ、犯す者はなかった。
  • 丁卯、世民が宮城に入り、記室の房玄齢にまず中書・門下省に入って隋の図籍を収めさせたが、詔勅はすでに王世充に毀たれていて何も得られなかった。蕭瑀・竇軌らに庫を封じさせ、その金帛を収めて将士に分け与えた。
  • 王世充の一党で罪のとくに重い段達・王隆・崔洪丹・薛徳音・楊汪・孟孝義・単雄信・楊公卿・郭什柱・郭士衡・董叡・張童児・王徳仁・朱粲・郭善才ら十余人を洛水のほとりで斬った。士民は朱粲の残忍を憎み、争って瓦礫を投げてその屍を打ち、たちまち塚のようになった。韋節・楊続・長孫安世ら十余人は囚えて長安に送った。罪なくして王世充に囚えられていた士民はみな釈放し、殺された者は祭って誄した。
  • 戊寅、王世充の徐州行台の杞王世辨が徐・宋など三十八州を挙げて河南道安撫大使の任瓌のもとで降を請い、王世充の旧地はすべて平定された。
  • 秋七月庚申、王世充の行台の王弘烈・王泰、左僕射の豆盧行襃、右僕射の蘇世長が襄州ごと降った。上は豆盧行襃と蘇世長のいずれとも旧交があり、これに先立ってしばしば書を送って招いたが、豆盧行襃はそのたび使者を殺していた。長安に着くと上は豆盧行襃を誅し、蘇世長を責めた。蘇世長は「隋がその鹿を失い天下が競って逐い、陛下がすでにそれを得られた。今さら同じ狩りをした者を憤って、肉を争った罪を問われるのですか」と言い、上は笑って赦し、諫議大夫とした。
  • 甲子、王世充を太廟に俘とした。上は王世充を見て罪を数えた。王世充は「臣の罪はまことに誅に当たります。しかし秦王は臣に死を許さぬと約されました」と言った。丙寅、詔して王世充を赦して庶人とし、兄弟子姪とともに蜀に移すこととした。
  • 王世充は護送の人夫がまだ整わなかったので雍州の役所に置かれていた。独孤機の子の定州刺史の独孤修徳が兄弟を率いてその所に至り、詔と偽って鄭王世充を呼び出し、王世充が兄の世惲とともに出てきたところを殺した。詔で独孤修徳の官を免じた。その他の兄弟子姪も道中で謀反の名目で誅された。