通鑑紀事本末高祖、唐を興す(高祖興唐)
李世民と劉文静・裴寂が謀を合わせ、突厥の侵入と江都からの追及に迫られた李淵を挙兵に踏み切らせ、晋陽から関中に入って唐が建つまでを追う。李淵は王威・高君雅を斬って晋陽を掌握し、突厥の始畢可汗と結び、代王を立てるという名分を掲げて西進した。長雨と糧の乏しさに退却しかけたところを世民の泣諫が押しとどめ、霍邑で宋老生を斬って進路を開く。河東の屈突通を囲みつつ黄河を渡り、李神通と娘の李氏(娘子軍)の兵を合わせて長安を落として代王侑を立て、翌武徳元年に禅譲を受けて即位した。堯君素だけは河東に籠って死守し、部下に殺されて終わる。
年表(5件)
- 隋恭帝
- 義寧元年――挙兵の謀617年世民と裴寂の説得で李淵が決し、王威・高君雅を斬って挙兵する
- 義寧元年――突厥との結びと出師始畢可汗と結んで甲士三万で晋陽を発し、西河を下して南進する
- 義寧元年八月――霍邑の戦い宋老生を斬って霍邑を落とし、黄河を渡って長安を陥れ代王侑を立てる
- 唐高祖
- 武徳元年――受禅618年恭帝の禅譲を受けて即位し、屈突通を用い堯君素は河東に死ぬ
- 武徳二年秋八月619年酅公が薨じて隋恭帝と諡され、族子の行基が嗣を継ぐ
隋恭帝義寧元年(617年)――挙兵の謀
- 唐公李淵は神武粛公の竇毅の娘を娶り、建成・世民・玄霸・元吉の四男と、太子千牛備身の臨汾の柴紹に嫁いだ娘一人をもうけた。
- 李世民は聡明・勇決で識量が人並みを越え、隋室の乱れを見てひそかに天下を安んずる志を抱き、身を低くして士に接し、財を散じて客を結び、みなその心を得た。世民は右驍衛将軍の長孫晟の娘を娶っていた。
- 右勲衛の長孫順徳は長孫晟の族弟で、右勲侍の池陽の劉弘基とともに遼東の役を避けて亡命し、晋陽で李淵に身を寄せ、世民と親しかった。左親衛の竇琮は竇熾の孫で、これも太原に亡命していたが、日ごろ世民と隙があり常に疑心を抱いていた。世民が心を配って厚遇し、寝所への出入りを許したので、竇琮も安心した。
- 晋陽宮監の猗氏の裴寂と晋陽令の武功の劉文静は親しく、ともに宿していて城上の烽火を見た。裴寂が「これほど貧賤な身で、また乱離に遭う。どうやって生きていけようか」と嘆くと、劉文静は笑って「時勢の成り行きは知れている。我ら二人が手を組めば、貧賤など何を憂えよう」と言った。
- 劉文静は李世民を見て非凡と思い、深く交わりを結び、裴寂に「これは尋常の人ではない。豁達さは漢の高祖に似、神武ぶりは魏の太祖に似る。年は若いが世に出るべき才だ」と言った。裴寂は初め信じなかった。
- 劉文静は李密と姻戚だったことから連坐して太原の獄につながれた。世民が見舞うと、劉文静は「天下は大乱している。高祖・光武の才でなければ定められぬ」と言った。世民は「そのような人がいないとどうして分かる。人が見抜けぬだけだ。私が見舞いに来たのは女子供の情からではない。君と大事を議したいのだ。策はどうか」と言った。
- 劉文静は答えた。今、主上は江淮を南巡し、李密は東都に迫り、群盗は万を数えます。この際、真の主が彼らを駆使すれば、天下を取るのは手のひらを返すようなもの。太原の百姓はみな盗を避けて城に入っており、私は令として数年、その豪傑を知っています。一朝にして集めれば十万は得られ、尊公の率いる兵も数万。一言発すれば誰が従わぬでしょう。この勢いで隙を突いて関中に入り天下に号令すれば、半年ならずして帝業は成ります、と。
- 世民は笑って「君の言はまさに私の意に合う」と言い、ひそかに賓客を配置した。李淵は知らなかった。世民は李淵が従わぬことを恐れ、久しく躊躇して言い出せなかった。
- 李淵は裴寂と旧知で、しばしば連日連夜、宴して語り合った。劉文静は裴寂を通じて説かせようと、裴寂を世民に引き合わせた。世民は私財数百万銭を出し、竜山令の高斌廉に裴寂と博打をさせて少しずつ負けさせた。裴寂は大いに喜び、日ごとに世民と親しく交わるようになったので、世民は謀を打ち明け、裴寂は承諾した。
- ちょうど突厥が馬邑を侵し、李淵は高君雅に兵を率いさせ、馬邑太守の王仁恭と力を合わせて防がせたが、王仁恭と高君雅は戦って不利となった。李淵は連座を恐れて深く憂えた。
- 世民は隙を見て人を退けて説いた。今、主上は無道で百姓は困窮し、晋陽城外はみな戦場です。大人が小節を守っていれば、下には盗賊、上には厳刑があり、危亡は日を経ずして来ます。民心に順って義兵を興し、禍を福に転ずるに如くはありません。これは天が授けた時機です、と。
- 李淵は大いに驚いて「お前はどうしてそんなことを言う。今すぐお前を捕らえて役所に告げてやる」と言い、紙筆を取って上表を書こうとした。世民は静かに「私は天の時と人の事がこうであるのを見たので、あえて申し上げたのです。どうしても捕らえて告げるとおっしゃるなら、死は辞しません」と言った。李淵は「私がお前を告発できるものか。慎んで口外するな」と言った。
- 翌日、世民はまた説いた。今、盗賊は日々増えて天下に満ちています。大人は詔を受けて賊を討たれますが、賊を尽くせましょうか。いずれにせよ結局は罪を免れません。しかも世間ではみな李氏が図讖に応ずると伝えています。だから李金才(李渾)は無罪なのに一朝にして族滅されました。大人が仮に賊を尽くしても、功が高すぎて賞されず、身はいっそう危うくなります。昨日申し上げたことだけが禍を救う道、万全の策です。どうかお疑いなく、と。
- 李淵は嘆じて「私は一晩お前の言葉を考えたが、大いに理がある。今日、家を破り身を亡ぼすのもお前次第、家を化して国とするのもお前次第だ」と言った。
- これに先立ち、裴寂はひそかに晋陽宮の宮人を李淵に侍らせていた。李淵が裴寂と飲んで酔いが回ったとき、裴寂はさりげなく「二郎(世民)はひそかに兵馬を養って大事を挙げようとしています。ちょうど私が宮人を公に侍らせたことが発覚すれば連座して誅されるので、この急な計を立てたのです。衆情はすでに一致しております。公の御意はいかがですか」と言った。李淵は「わが子はまことにその謀を持っている。ここまで来た以上どうしようもない。従うほかあるまい」と言った。
- 帝は李淵と王仁恭が賊を防げなかったとして、使者を送って捕らえ江都へ送らせようとした。李淵は大いに恐れた。世民と裴寂らはまた説いた。今、主は昏く国は乱れ、忠を尽くしても益はありません。副将が敗れて罪が明公に及ぶ。事はもう切迫しています。早く計を定めるべきです。しかも晋陽の兵馬は精強、宮監の蓄えは巨万。これで事を挙げれば何を成らぬと憂えましょう。代王は幼く、関中の豪傑は並び起こって帰属先が定まっていません。公が堂々と西に進んで撫でて取れば、袋の中の物を探るようなものです。なぜ一介の使者に囚われ、座して族滅を受けるのですか、と。李淵も同意し、ひそかに部署を定めて出発しようとした。
- ところが帝が続けて使者を駅伝で送り、李淵と王仁恭を赦して旧任に復させたので、李淵の謀もまた緩んだ。
- 李淵が河東討捕使になったとき、大理司直の夏侯端を副に請うた。夏侯端は夏侯詳の孫で、占候と人相に長けていた。李淵に「金玉の牀が揺れ動き、帝座が安らかでありません。参の分野に歳星が来ています。必ず真人がその分野から起こります。公でなくて誰でしょう。主上は猜疑深く残忍で、とりわけ李氏を忌んでいます。李金才が死んだ以上、公が変通を思わなければ、必ず次になります」と言い、李淵も心中そのとおりと思った。
- 晋陽の留守となると、鷹揚府司馬の太原の許世緒が説いた。公の姓は図籙にあり、名は歌謡に応じています。五郡の兵を握り、四方の戦地に当たっています。事を挙げれば帝業は成り、じっとしていれば滅亡は踵を返す間もありません。どうかお図りください、と。
- 行軍司鎧の文水の武士彠、前太子左勲衛の唐憲とその弟の唐倹もみな挙兵を勧めた。唐倹は「明公が北に戎狄を招き、南に豪傑を収めて天下を取られるのは、湯王・武王の挙です」と説いた。李淵は「湯武になぞらえるなど恐れ多い。私事としては身を全うし、公事としては乱を救うまでだ。卿はしばらく身を慎め。私は考えておく」と答えた。唐憲は唐邕の孫である。
- 当時、建成と元吉はまだ河東におり、そのため李淵は延引して発たなかった。
- 劉文静は裴寂に「先んずれば人を制し、後れれば人に制される。なぜ早く唐公に挙兵を勧めず、引き延ばしてばかりいるのか。しかも公は宮監でありながら宮人を客に侍らせた。公が死ぬのは構わぬが、なぜ唐公を誤らせるのか」と言った。裴寂はひどく恐れ、しきりに李淵に挙兵を促した。
- 李淵は劉文静に勅書を偽造させ、太原・西河・雁門・馬邑の民で二十歳以上五十歳以下をすべて兵とし、年末に涿郡に集めて高麗を撃つと布告させた。これで人心は騒然となり、乱を望む者がますます増えた。
- 劉武周が汾陽宮を占拠すると、世民は李淵に「大人は留守でありながら盗賊が離宮を占拠しました。早く大計を建てなければ禍は今にも至ります」と言った。李淵は将佐を集めて「劉武周が汾陽宮を占拠したのに我らは制せぬ。罪は族滅に当たる。どうしたものか」と言った。王威らはみな恐れて再拝して策を請うた。
- 李淵は「朝廷の用兵は進退すべて節度を仰ぐ。今、賊は数百里の内におり、江都は三千里の外。加えて道は険しく、他の賊も拠っている。城に籠って柱に膠づけしたような兵で、猪突する巨賊に当たれば必ず全うできぬ。進退窮まった。どうすればよい」と言った。王威らは「公は地位も親族としても賢としても国と休戚を同じくされる。奏上の返答を待っていて事機に間に合いましょうか。要は賊を平らげることです。専断で結構です」と言った。李淵はやむを得ず従うふりをして「では、まず兵を集めよう」と言い、世民と劉文静・長孫順徳・劉弘基らにそれぞれ募兵させた。遠近から駆けつけ、十日ほどで一万近くになった。あわせてひそかに使者を送り、建成と元吉を河東から、柴紹を長安から召した。
- 王威と高君雅は兵が大いに集まるのを見て李淵に異心があると疑い、武士彠に「長孫順徳と劉弘基はいずれも三度の徴発に背いた身で、犯した罪は死に当たる。どうして兵を率いさせられよう。捕らえて調べたい」と言った。武士彠は「二人とも唐公の食客です。そうなさればきっと大騒動になりましょう」と言い、王威らはやめた。
- 留守司兵の田徳平が王威らに募兵の状況を調べるよう勧めようとしたが、武士彠は「討捕の兵はすべて唐公に属し、王威・高君雅はただ席を借りているだけだ。何ができようか」と言い、田徳平もやめた。
- 晋陽の郷長の劉世竜が李淵に、王威と高君雅が晋祠での祈雨に乗じて害を加えようとしていると密告した。
- 五月癸亥の夜、李淵は世民に晋陽宮城の外に伏兵を置かせた。甲子の朝、李淵が王威・高君雅と並んで政務を執っていると、劉文静が開陽府司馬の胙城の劉政会を庭に立たせ、密告状があると称した。李淵が王威らに目配せして状を取って見よと促すと、劉政会は渡さず「告発しているのは副留守のことです。唐公だけがご覧になれます」と言った。李淵は驚いたふりをして「そんなことがあるものか」と言い、状を見ると、王威と高君雅がひそかに突厥を引き入れて侵寇させようとしている、とあった。高君雅は袖をまくって大声で罵り「これは謀反する者が私を殺そうとしているのだ」と言った。
- そのとき世民はすでに兵を配して街路を塞いでおり、劉文静が劉弘基・長孫順徳らとともに王威・高君雅を捕らえて獄につないだ。
- 丙寅、突厥数万が晋陽を侵し、軽騎で外郭の北門から入って東門から出た。李淵は裴寂らに兵を整えて備えさせつつ、城門をすべて開かせた。突厥は真意を測りかね、あえて進まなかった。人々は王威・高君雅が実際に呼び込んだのだと思った。李淵はそこで王威・高君雅を斬ってさらした。
- 李淵の部将の王康達が千余人で出戦してみな戦死し、城中は恐れ乱れた。李淵は夜に軍をひそかに城外に出し、夜明けに旗を立て鼓を鳴らして別の道から来させ、援軍のように見せた。突厥はついに疑いを解けず、城外に二日留まって大いに掠奪して去った。
- 李建成と李元吉は弟の智雲を河東に置き去りにして去り、吏が智雲を捕らえて長安に送り殺した。建成と元吉は途中で柴紹に会い、ともに行った。
- 六月己卯、李建成らが晋陽に着いた。
義寧元年――突厥との結びと出師
- 劉文静が李淵に突厥と結んでその兵馬を借り兵勢を増すよう勧め、李淵は従った。自ら手紙を書き、言葉を低くし礼を厚くして始畢可汗に送り、「大挙して義兵を起こし、遠く主上を迎え、開皇のころのように突厥と和親したい。ともに南下してくださるなら百姓を侵さぬようにしていただきたい。ただ和親して座して宝貨を受けるだけでもよい。可汗のお選び次第」と述べた。
- 始畢は手紙を得て大人たちに「隋主の人となりは私が知っている。迎えて来させれば必ず唐公を害し、我らを撃つのは疑いない。もし唐公自身が天子となるなら、私は盛暑も厭わず兵馬で助けよう」と言い、その旨で返書させた。使者は七日で戻った。
- 将佐はみな喜んで突厥の言に従うよう請うたが、李淵は承知しなかった。裴寂・劉文静らは「今、義兵は集まりましたが軍馬がひどく不足しています。胡兵は必要ありませんが馬は逃してはなりません。また引き延ばせば向こうが後悔するかもしれません」と言った。李淵は「諸君は次善の策を考えよ」と言い、裴寂らは天子を太上皇と尊び、代王を帝に立てて隋室を安んじ、郡県に檄を回し、旗色を絳と白を交えたものに改めて突厥に示すことを請うた。李淵は「これは耳を掩って鐘を盗むようなものだが、時勢に迫られてやむを得ぬ」と言って許し、使者を送ってこの議を突厥に告げた。
- 西河郡が李淵の命に従わなかった。甲申、李淵は建成と世民に兵を率いて西河を撃たせ、太原令の太原の温大有を同行させて「わが子らは年少である。卿に軍事の参謀を頼む。事の成否はこの行軍で占おう」と言った。
- 当時、軍士は集まったばかりで訓練もされていなかったが、建成と世民は苦楽をともにし、敵に遇えば自ら先頭に立ち、道沿いの野菜や果物も買わなければ食べず、盗んだ軍士があると持ち主を探して弁償させ、盗んだ者を咎めもしなかった。軍士も民も感じ入って喜んだ。
- 西河の城下に至ると、城に入ろうとする民はみな入らせた。郡丞の高徳儒が城を閉ざして拒み守り、己丑、攻め落とした。高徳儒を軍門に引き出し、世民は「お前は野鳥を鸞だと言って人主を欺き高官を得た。私が義兵を興したのは、まさにそういう佞人を誅するためだ」と罪を数えて斬った。他は一人も殺さず、秋毫も犯さず、それぞれ慰撫して生業に復させた。遠近はこれを聞いて大いに喜んだ。
- 建成らが兵を率いて晋陽に戻るまで往復九日。李淵は喜んで「この調子で兵を用いれば天下を横行できる」と言い、関中入りの計を定めた。
- 李淵は倉を開いて貧民を賑わせ、応募者は日々増えた。三軍に分けて左右とし、総じて「義士」と呼んだ。裴寂らが李淵に大将軍の号を奉った。
- 癸巳、大将軍府を建て、裴寂を長史、劉文静を司馬、唐倹と前長安尉の温大雅を記室とした。温大雅はなお弟の大有とともに機密を掌った。武士彠を鎧曹、劉政会と武城の崔善為・太原の張道原を戸曹、晋陽長の上邽の姜謩を司功参軍、太谷長の殷開山を府掾、長孫順徳・劉弘基・竇琮および鷹揚郎将の高平の王長諧・天水の姜宝誼・陽屯を左右統軍とし、他の文武も才に応じて任じた。
- また世子の建成を隴西公・左領軍大都督として左の三統軍を隷させ、世民を敦煌公・右領軍大都督として右の三統軍を隷させ、それぞれ官属を置いた。柴紹を右領軍府長史、諮議の譙の人の劉贍を西河通守とした。張道原は名を河、殷開山は名を嶠といい、いずれも字で通っていた。殷開山は殷不害の孫である。
- 突厥が柱国の康鞘利らを遣わして馬千匹を送り李淵と交易し、李淵の関中入りに兵を送る、その多寡は望みのままと申し出た。丁酉、李淵は康鞘利らを引見し、可汗の書を受けて礼容を尽くして恭しくし、贈り物も手厚くしたが、馬は良いものを選んで半分だけ買った。義士たちが私財で残りを買いたいと請うと、李淵は「虜は馬が豊富で利を貪るから、次々に持ってくるだろう。お前たちには買いきれまい。私が少しだけ取ったのは、貧しく、また急いでもいないと示すためだ。お前たちのために掛けで手に入れておく。費用の心配はいらぬ」と言った。
- 乙巳、霊寿の賊帥の郗士陵が衆数千を率いて李淵に降り、李淵は鎮東将軍・燕郡公とし、鎮東府を置いて僚属を補い、山東の郡県を招撫させた。
- 己巳、康鞘利が北に帰り、李淵は劉文静を突厥に遣わして兵を請わせた。そのとき私かに劉文静に「胡騎が中国に入るのは生民の大害だ。私が求めるのは、劉武周が引き入れて辺境の患いとするのを恐れるためであり、また胡馬は放牧で飼料もかからぬので、声勢を借りたいだけだ。数百人を越えては用がない」と言った。
- 秋七月壬子、李淵は子の元吉を太原太守として晋陽宮の留守とし、後事をすべて委ねた。
- 癸丑、李淵は甲士三万を率いて晋陽を発し、軍門を立てて衆に誓い、郡県に檄を回して代王を尊立する意を諭した。西突厥の阿史那大奈もその衆を率いて従った。甲寅、通議大夫の張綸に兵を率いて稽胡を従わせた。
- 丙辰、李淵が西河に至り、吏民を慰労し、窮乏の者に施した。七十歳以上の民にはみな散官を授け、その他の豪傑は才に応じて任じ、口頭で功と能を問うて自ら官秩を書き付け、一日に千余人を任じた。官を受けた者はみな正式の辞令を求めず、李淵が書いた官名の紙をそれぞれ分けて持って帰った。
- 李淵は雀鼠谷に入った。壬戌、賈胡堡に軍した。霍邑から五十余里の地である。代王侑は虎牙郎将の宋老生に精兵二万を率いて霍邑に駐屯させ、左武候大将軍の屈突通に驍果数万で河東に駐屯させて李淵を防がせた。長雨に遭って李淵は進めず、府佐の沈叔安らに弱兵を率いて太原に帰らせ、さらに一月分の糧を運ばせた。
- 乙丑、張綸が離石を陥し、太守の楊子崇を殺した。
- 劉文静が突厥に至って始畢可汗に会い、兵を請い、あわせて「長安に入れば民衆と土地は唐公のもの、金玉と繒帛は突厥のものとする」と約した。始畢は大いに喜び、丙寅、大臣の級失特勒を先に李淵の軍に遣わし、兵がすでに出発したことを告げた。
- 李淵は書を送って李密を招いた。李密は兵の強さを恃んで盟主になろうとし、己巳、祖君彦に返書させた。「兄とは流派こそ異なるが根は同じである。私は虚薄な身ながら四海の英雄に盟主と推された。望むところは互いに助け合い力を合わせ、子嬰を咸陽で捕らえ、商の紂王を牧野で斃すこと。壮んなことではないか」と述べ、さらに李淵に歩騎数千を率いて自ら河内まで来て面と向かって盟約するよう求めた。
- 李淵は書を得て笑い「李密は妄りに自らを誇っている。手紙一枚で招ける相手ではない。私はこれから関中に事を起こすところだ。今すぐ絶交すれば敵をもう一つ作ることになる。言葉を低くして持ち上げ、その志を驕らせ、私のために成皋の道を塞がせ東都の兵を引きつけさせるに如くはない。私は西征に専念でき、関中を平定して険に拠り威を養い、ゆっくり蚌と鷸の争いを眺めて漁夫の利を収めても遅くはない」と言った。
- そこで温大雅に返書させた。「私は凡庸だが、幸いに家の余慶を承け、外に出ては八使となり内に入っては六屯を典った。倒れるのを扶けられぬのは賢者の責めるところ。ゆえに義兵を大いに集め、北狄と和親して天下を匡そうとしている。志は隋を尊ぶことにある。天が民を生めば必ず牧する者がある。今、牧たるべきは君でなくて誰か。老夫は五十を越え、そこまでは望まぬ。大弟を喜んで戴き、鱗に攀じ翼に付こう。弟よ、早く図籙に応じて万民を安んじられよ。宗盟の長として一族の籍に容れられ、再び唐に封ぜられれば、それで栄誉は十分である。牧野で紂王を斃すことなど口にするに忍びず、咸陽で子嬰を捕らえよとの仰せはまだ承れぬ。汾晋の周辺をなお安定させねばならず、盟津の会合の期日は決めかねている」と。
- 李密は書を得て大いに喜び、将佐に示して「唐公に推された。天下は定まったも同然だ」と言った。以後、使者の往来が絶えなかった。
- 雨が久しくやまず、李淵の軍中は糧が乏しく、劉文静も戻らなかった。突厥が劉武周とともに隙に乗じて晋陽を襲うという噂が流れ、李淵は将佐を召して北帰を謀った。裴寂らはみな「宋老生と屈突通は兵を連ねて険に拠り、容易には落とせません。李密は連和すると言うが姦計は測りがたく、突厥は貪欲で信義なく利だけを見ます。劉武周は胡に仕える者。太原は一方の要地で、しかも義兵の家族がそこにいます。帰って根本を救い、改めて後の挙を図るに如くはありません」と言った。
- 李世民は言った。今、穀物は野に満ちています。糧の欠乏を何を憂えましょう。宋老生は軽率で、一戦で捕らえられます。李密は倉の粟に執着して遠謀に及びません。劉武周と突厥は外は付き合っていても内実は猜疑し合っています。劉武周は遠く太原を狙うにしても、近くの馬邑を忘れられましょうか。もともと大義を興し身を顧みず蒼生を救おうとし、まず咸陽に入って天下に号令すべきなのです。今、小敵に遭ってすぐ引き揚げれば、義に従った者たちは一朝にして離散するでしょう。太原一城に戻って守れば、ただの賊です。どうして身を全うできましょう、と。李建成も同意したが、李淵は聞かず出発を急がせた。
- 世民が再び諫めに入ろうとしたが、日が暮れて李淵はすでに寝ており、入れなかった。世民は外で号泣し、声が帳中に届いた。李淵が召して問うと、世民は「今、兵は義によって動いています。進んで戦えば勝ち、退けば散ります。前で衆が散り、後ろから敵が乗じれば、死亡は日を経ずして来ます。悲しまずにいられましょうか」と言った。
- 李淵は悟って「軍はもう発ってしまった。どうする」と言い、世民は「右軍は装備を整えていますがまだ発っていません。左軍は去ったとはいえ、まだ遠くまでは行っていないはず。自ら追いかけます」と答えた。李淵は笑って「私の成敗はすべてお前次第だ。もう何も言うまい。お前の思うようにせよ」と言った。世民は建成と道を分けて夜に追い、左軍を呼び戻した。丙子、太原からの糧も届いた。
義寧元年八月――霍邑の戦い
- 八月己卯、雨が上がった。庚辰、李淵は軍中に鎧と武器・行装を干させた。辛巳の朝、東南の山裾の細道から霍邑に向かった。
- 李淵は宋老生が出てこないことを心配したが、建成と世民は「宋老生は勇だが謀がありません。軽騎で挑発すれば出ないはずがない。仮に固守しても、我らに内通していると誣告すればよい。彼は左右に奏されるのを恐れ、出ずにおれません」と言った。李淵は「お前たちの見立てはよい。宋老生は賈胡まで出て迎え撃つこともできぬのだから、何もできぬと分かる」と言った。
- 李淵は数百騎で先に霍邑城の東数里に至って歩兵を待ち、建成と世民に数十騎で城下に行かせ、鞭を挙げて指し示し城を囲むような素振りを見せ、あわせて罵らせた。宋老生は怒って三万の兵を率い、東門と南門から分かれて出た。
- 李淵は殷開山に急いで後軍を呼ばせた。後軍が着くと、李淵は軍士に食事をさせてから戦おうとしたが、世民が「時機を逃してはなりません」と言った。李淵は建成と城の東に、世民は城の南に陣した。李淵と建成の戦いがやや後退したところで、世民は軍頭の臨淄の段志玄とともに南の原から兵を駆け下ろし、宋老生の陣を突いてその背後に出た。世民は自ら数十人を殺し、二本の刀とも刃こぼれし、袖は血まみれになったが、振り落としてまた戦った。
- 李淵の兵は勢いを取り戻し、「宋老生を捕らえたぞ」と叫び伝えると、宋老生の兵は大敗した。李淵の兵が先に城門に迫って門は閉じられ、宋老生は馬を下りて堀に飛び込んだところを劉弘基が斬った。屍が数里に横たわった。
- すでに日が暮れていたが、李淵はただちに登城を命じた。攻城具はなく、将士は生身でよじ登り、ついに落とした。
- 李淵が霍邑の功を賞するとき、軍吏は奴の身分で応募した者を良人と同じに扱ってよいか疑った。李淵は「矢石の中で貴賤の別はない。勲を論ずるのに等差があろうか。みな本来の勲どおりに授けよ」と言った。
- 壬午、李淵は霍邑の吏民を引見して西河と同様に労い賞し、壮丁を選んで従軍させた。関中の軍士で帰りたい者にはみな五品の散官を授けて帰らせた。官が濫発だと諫める者があったが、李淵は「隋氏が勲賞を惜しんだからこそ人心を失った。どうしてそれに倣えよう。しかも官で衆を収めるのは、兵を用いるより優れているではないか」と言った。
- 丙戌、李淵が臨汾郡に入り、霍邑と同様に慰撫した。庚寅、鼓山に宿し、絳郡通守の陳叔達が拒み守ったが、辛卯、攻めて落とした。陳叔達は陳の高宗の子で才学があり、李淵は礼遇して用いた。
- 癸巳、李淵が竜門に至り、劉文静と康鞘利が突厥の兵五百人・馬二千匹を連れて到着した。李淵は援軍の到来を喜び、劉文静に「私が西へ進んで黄河に着くころに突厥が来た。兵は少なく馬は多い。すべて君が使命を果たした功だ」と言った。
- 汾陽の薛大鼎が李淵に、河東を攻めず竜門からまっすぐ黄河を渡って永豊倉を押さえ、遠近に檄を飛ばせば関中は座して取れると説いた。李淵は従おうとしたが、諸将が先に河東を攻めるよう請うたので、薛大鼎を大将軍府察非掾とした。
- 河東県の戸曹の任瓌が説いた。関中の豪傑はみな爪先立って義兵を待っています。私は馮翊に長年おり、その豪傑を知っています。行って諭せば必ず風になびきましょう。義師が梁山から黄河を渡り韓城を指して郃陽に迫れば、蕭造は文吏ですから必ず塵を望んで降を請います。孫華の輩もみな遠く迎えに出るでしょう。そのうえで堂々と進んで永豊倉を押さえれば、長安を得ずとも関中はすでに定まったも同然です、と。李淵は喜んで任瓌を銀青光禄大夫とした。
- 当時、関内の群盗で孫華が最も強かった。丙申、李淵は汾陰に至り、書を送って招いた。
- 己亥、李淵が壺口に進軍すると、黄河沿いの民で舟を献ずる者が日に百を数え、そこで水軍を置いた。
- 壬寅、孫華が郃陽から軽騎で河を渡って李淵に会った。李淵は手を握って座らせ、慰め励まし、左光禄大夫・武郷県公・領馮翊太守とした。その配下で功ある者は孫華に任せて順次官を授け、賞賜はきわめて厚かった。
- 孫華を先に渡らせ、続いて左右統軍の王長諧・劉弘基と左領軍長史の陳演寿、金紫光禄大夫の史大奈に歩騎六千で梁山から渡らせ、河西に営を構えて大軍を待たせた。任瓌を招慰大使とし、韓城を説いて降した。
- 李淵は王長諧らに「屈突通の精兵は少なくない。五十余里の距離にいて戦いに来ぬのは、その衆が用をなさぬ証拠だ。しかし屈突通は罪を恐れて出ぬわけにもいくまい。彼が自ら河を渡って卿らを撃てば、私が河東を攻めれば必ず守りきれぬ。全軍で城を守れば、卿らがその渡河点を絶ち、前からは咽喉を扼し後ろからは背を叩く。彼は逃げなければ必ず捕らえられる」と言った。
- 九月乙卯、張綸が竜泉・文成などの郡を従え、いずれも落とし、文成太守の鄭元璹を捕らえた。鄭元璹は鄭訳の子である。
- 屈突通は虎牙郎将の桑顕和に驍果数千を率いさせ、夜に王長諧らの営を襲った。王長諧らは戦って不利だったが、孫華と史大奈が遊撃騎兵で背後から桑顕和を撃って大破した。桑顕和は脱出して城に入り、自ら河の渡し橋を切った。
- 丙辰、馮翊太守の蕭造が李淵に降った。蕭造は蕭脩の子である。
- 戊午、李淵が諸軍を率いて河東を囲んだ。屈突通は城に籠って守った。将佐は再び李淵に太尉を領するよう推し、官属を増置し、李淵は従った。
- 当時、河東はまだ落ちず、三輔の豪傑で参じる者が日に千を数えた。李淵は兵を率いて西の長安に向かおうとしたが、決しかねていた。裴寂は「屈突通は大衆を擁して堅城に拠っています。これを捨てて去り、長安を攻めて落とせなければ、退いて河東に追われ腹背に敵を受けます。これは危うい道です。まず河東を落とし、その後で西へ長安に上るに如くはありません。長安は屈突通を援けと頼んでおり、屈突通が敗れれば長安も必ず破れます」と言った。
- 李世民は言った。そうではありません。兵は神速を貴びます。我らは連勝の威に乗じ帰服した衆を撫し、堂々と西進すれば、長安の人々は風を望んで震え上がり、智は謀に及ばず勇は決断に及ばず、枯れ葉を振るい落とすように取れます。堅城の下に留まって自ら疲弊すれば、向こうは謀をめぐらし備えを整えて我らを待ち、いたずらに月日を費やして人心が離れれば大事は去ります。しかも関中に蜂起した将たちはまだ帰属先が定まっていません。早く招き懐けねばなりません。屈突通は自守の虜にすぎず、憂うるに足りません、と。
- 李淵は両方を採り、諸将を残して河東を囲ませ、自ら軍を率いて西へ向かった。朝邑の法曹の武功の靳孝謨が蒲津・中渾の二城ごと降り、華陰令の李孝常が永豊倉ごと降って、あわせて河西の諸軍を迎え入れた。李孝常は李円通の子である。京兆の諸県も多く使者を送って降を請うた。
- 庚申、李淵が諸軍を率いて黄河を渡り、甲子、朝邑に至って長春宮に宿した。関中の士民で帰する者は市のようだった。
- 丙寅、李淵は世子の建成と司馬の劉文静に王長諧ら数万を率いさせ、永豊倉に駐屯して潼関を守り東方の兵に備えさせ、慰撫使の竇軌らにその節度を受けさせた。敦煌公世民には劉弘基ら数万を率いさせて渭北を従わせ、慰撫使の殷開山らにその節度を受けさせた。竇軌は竇琮の兄である。
- 冠氏長の于志寧、安養尉の顔師古、および世民の妻の兄の長孫無忌が長春宮で李淵に謁見した。顔師古は名を籕といい字で通っており、于志寧は于宣敏の兄の子、顔師古は顔之推の孫で、みな文学で名を知られていた。長孫無忌はさらに才略があった。李淵はみな礼遇して用い、于志寧を記室、顔師古を朝散大夫、長孫無忌を渭北行軍典籤とした。
- 屈突通は李淵の西進を聞き、鷹揚郎将の湯陰の堯君素を河東通守に任じて蒲坂を守らせ、自ら数万を率いて長安に向かったが、劉文静に阻まれた。将軍の劉綱が潼関を守り都尉の南城に駐屯していたので、屈突通はそこに拠ろうとした。王長諧が先に兵を率いて劉綱を襲って斬り、城に拠って屈突通を防ぎ、屈突通は北城に退いて守った。李淵は将の呂紹宗らに河東を攻めさせたが落とせなかった。
- 柴紹が長安から太原へ向かうとき、妻の李氏に「尊公が挙兵された。今、一緒に行くわけにはいかぬが、ここに残れば禍が及ぶ。どうしたものか」と言った。李氏は「あなたはただ急いで行かれよ。私は一介の婦人、身を隠すのはたやすい。自分で何とかします」と答え、柴紹は出発した。
- 李氏は鄠県の別荘に帰り、家財を散じて徒衆を集めた。李淵の従弟の李神通は長安にいたが、逃れて鄠県の山中に入り、長安の大侠の史万宝らと挙兵して李淵に呼応した。西域の商胡の何潘仁は司竹園に入って盗となり、衆数万を擁し、前尚書右丞の李綱を脅して長史とした。
- 李氏は奴の馬三宝を遣わして何潘仁を説かせ、李神通と合流させて鄠県を攻め落とした。李神通の衆は一万を越え、関中道行軍総管と自称し、前藥城長の令狐徳棻を記室とした。令狐徳棻は令狐熙の子である。
- 李氏はまた馬三宝に群盗の李仲文・向善志・丘師利らを説かせ、みな衆を率いて従った。李仲文は李密の従父、丘師利は丘和の子である。
- 西京の留守はしばしば兵を出して何潘仁らを討ったが、みな敗れた。李氏は盩厔・武功・始平を従え、衆は七万に達した。左親衛の段綸は段文振の子で、李淵の娘を娶っており、藍田で徒衆を集めて一万余を得た。
- 李淵が黄河を渡ると、李神通・李氏・段綸はそれぞれ使者を送って迎えた。李淵は李神通を光禄大夫、その子の道彦を朝請大夫、段綸を金紫光禄大夫とし、柴紹に数百騎で南山沿いに李氏を迎えさせた。何潘仁・李仲文・向善志および関中の群盗はみな李淵に降を請い、李淵は一つ一つ書で慰労して官を授け、それぞれ現在地に留まらせ、敦煌公世民の節度を受けさせた。
- 刑部尚書領京兆内史の衛文昇は老齢で、李淵の兵が長安に向かうと聞いて憂え恐れて病となり、政務に与らなくなった。ただ左翊衛将軍の陰世師と京兆郡丞の骨儀だけが代王侑を奉じて城に登って拒み守った。
- 己巳、李淵が蒲津に赴き、庚午、臨晋から渭水を渡って永豊倉に至って軍を労い、倉を開いて飢民を賑わせた。辛未、長春宮に戻り、壬申、馮翊に進駐した。
- 世民の行く先々では吏民や群盗が流れるように帰し、世民はその豪俊を収めて僚属を備え、涇陽に営して兵は九万に達した。李氏が精兵一万余を率いて渭北で世民と合流し、柴紹とそれぞれ幕府を置き、「娘子軍」と号した。
- これに先立ち、平涼の奴賊数万が扶風太守の竇璡を数か月囲んだが落とせず、賊中の食が尽きた。丘師利が弟の行恭に五百人で米麦を担がせ牛と酒を持たせて奴賊の営に赴かせた。奴の首領が長揖しただけだったので丘行恭は自ら斬り、その衆に「お前たちはみな良人ではないか。なぜ奴を主に仕えて天下に奴賊と呼ばれるのか」と言った。衆はみな伏して「公にお仕えしたい」と言い、丘行恭はその衆を率いて丘師利とともに渭北で世民に謁した。世民は光禄大夫とした。竇璡は竇琮の従子である。
- 隰城尉の房玄齢が軍門で世民に謁した。世民は一目見て旧知のように扱い、記室参軍として謀主とした。房玄齢もまた知己に遇ったとして心力を尽くし、知る限りのことをすべて行った。
- 李淵は劉弘基と殷開山に兵を分けて西の扶風を略させ、衆六万を得て南に渭水を渡り、長安の故城に駐屯させた。城中から出撃してきたのを劉弘基が迎え撃って破った。
- 世民は兵を率いて司竹に向かい、李仲文・何潘仁・向善志がみな衆を率いて従った。阿城に宿営し、兵は十三万、軍令は厳正で秋毫も犯さなかった。
- 乙亥、世民は盩厔から使者を送って李淵に長安への進発の期日を仰いだ。李淵は「屈突通は東へ行って再び西へ来られぬ。憂うるに足りぬ」と言い、建成に倉の精兵を選んで新豊から長楽宮へ向かわせ、世民には新たに帰した諸軍を率いて北の長安故城に駐屯させ、到着した者はみなその指図を受けさせた。延安・上郡・雕陰もみな李淵に降を請うた。
- 丙子、李淵が軍を率いて西進し、通った離宮や園苑をすべて廃止し、宮女を出して親族に返した。
- 冬十月辛巳、李淵が長安に至り、春明門の西北に営した。諸軍がみな集まり、合わせて二十余万。李淵は各自の塁壁に留まり、村落に入って侵掠せぬよう命じた。しばしば使者を城下に送って衛文昇らに隋を尊ぶ意を諭したが、返答はなかった。辛卯、諸軍に進んで城を囲ませた。甲午、李淵は宿営を安興坊に移した。
- 甲辰、李淵は諸軍に攻城を命じ、七廟と代王・宗室を犯した者は三族を誅すと約した。孫華が流れ矢に当たって死んだ。
- 十一月丙辰、軍頭の雷永吉が先登し、ついに長安を落とした。代王は東宮にいたが、左右は逃げ散り、ただ侍読の姚思廉だけが側に侍していた。軍士が殿に登ろうとすると、姚思廉は厳しい声で「唐公は義兵を挙げて帝室を匡そうとされている。卿らは無礼をするな」と叱った。衆はみな驚いて庭下に並んだ。
- 李淵は東宮に王を迎え、大興殿の後ろに移して住まわせ、姚思廉に王を扶けて順陽閤下まで送らせ、姚思廉は泣いて拝して去った。姚思廉は姚察の子である。
- 李淵は長楽宮に戻り、民と法十二条を約し、隋の苛酷な禁令をすべて除いた。
- 李淵の挙兵のとき、留守の官がその墳墓を暴き五廟を毀っていた。このとき衛文昇はすでに没していた。戊午、陰世師と骨儀らを捕らえ、貪婪苛酷で義師を拒んだ罪を数えてともに斬った。死んだ者は十余人で、他は問わなかった。
- 馬邑郡丞の三原の李靖は日ごろ李淵と隙があった。李淵は入城して李靖を捕らえ斬ろうとしたが、李靖は大声で「公は義兵を興して暴乱を平らげようとされているのに、私怨で壮士を殺されるのですか」と叫んだ。世民が強く取りなしたので釈放し、世民は幕府に招いた。李靖は若くして志気があり文武の才略を備え、舅の韓擒虎はいつも撫でて「将帥の略を語り合えるのはこの子だけだ」と言っていた。
- 壬戌、李淵は法駕を備えて代王を迎え、天興殿で皇帝の位に即かせた。時に十三歳。大赦して改元し、遠く煬帝を太上皇と尊んだ。
- 甲子、李淵が長楽宮から長安に入った。李淵を仮黄鉞・使持節・大都督内外諸軍事・尚書令・大丞相とし、唐王に進封した。武徳殿を丞相府とし、「教」を「令」と改称し、日ごとに虔化門で政務を執った。
- 乙丑、楡林・霊武・平涼・安定の諸郡がみな使者を送って命を請うた。
- 丙寅、詔して軍国の機務は大小を問わず、文武の官の任命は貴賤を問わず、法制と賞罰はすべて相府に帰し、ただ郊祀と四時の禘祫だけを奏聞することとした。
- 丞相府の官属を置き、裴寂を長史、劉文静を司馬とした。何潘仁が李綱を派遣して李淵に会わせると、李淵は留めて丞相府司録とし、専ら人事を掌らせた。また前考功郎中の竇威を司録参軍として礼儀を定めさせた。竇威は竇熾の子である。
- 李淵は府庫を傾けて功臣に賜り、国用が不足した。右光禄大夫の劉世竜が策を献じ、今、義師数万が京師にあって薪が高く布帛が安いので、六街と苑中の樹を伐って薪とし布帛と交換すれば十数万匹を得られると言い、李淵は従った。
- 己巳、李建成を唐の世子、李世民を京兆尹・秦公、李元吉を斉公とした。
- 十二月癸未、唐王李淵の祖父の襄公に景王、父の仁公に元王、夫人の竇氏に穆妃と諡を追贈した。
- 世民が薛仁杲を扶風で破った。乙未に平涼留守の張隆、丁酉に河池太守の蕭瑀および扶風・漢陽郡が相次いで降った。竇璡を工部尚書、燕国公蕭瑀を礼部尚書・宋国公とした。
- 李孝恭が朱粲を撃破し、諸将が捕虜を皆殺しにするよう請うと、李孝恭は「いけない。それでは今後、誰が降ろうとするか」と言ってみな釈放した。そこで金川から巴蜀に出、檄書の届いた先で降り従った州は三十余に上った。
- 屈突通は劉文静と一月余り対峙し、また桑顕和に夜襲させた。劉文静は左光禄大夫の段志玄と力を尽くして苦戦し、桑顕和は敗走してその衆はすべて捕虜になった。屈突通の形勢はいよいよ窮した。
- 降伏を勧める者があったが、屈突通は泣いて「私は二代の主に仕え、恩顧はきわめて厚い。人の禄を食んでその難に背くことは、私にはできぬ」と言い、いつも自分の首をさすって「国家のために一刀を受けるべきだ」と言った。将士を労い励ますたび必ず涙を流し、人々もそれで彼を慕った。
- 丞相李淵が屈突通の家僕を遣わして呼ぶと、屈突通はその場で斬った。長安陥落と家族が李淵に捕らえられたことを聞くと、桑顕和を残して潼関を鎮めさせ、兵を率いて東に出、洛陽に向かおうとした。屈突通が去るや、桑顕和は城ごと劉文静に降った。
- 劉文静は竇琮らに軽騎で桑顕和とともに追わせ、稠桑で追いついた。屈突通は陣を組んで固めた。竇琮が屈突通の子の寿を遣わして諭させると、屈突通は「この賊はどこから来た。昔はお前と父子だったが、今はお前と仇敵だ」と罵り、左右に射させた。
- 桑顕和がその衆に「今、京城はすでに陥ちた。お前たちはみな関中の人だ。去ってどこへ行く」と言うと、衆はみな武器を捨てて降った。屈突通は免れぬと知り、馬を下りて東南に向かって再拝し、号泣して「臣は力尽きてここに至りました。あえて国に背いたのではありません。天地の神々がご存じです」と言った。
- 軍人が屈突通を捕らえて長安に送り、李淵は兵部尚書として蔣公の爵を賜り、秦公元帥府長史を兼ねさせた。
- 李淵は屈突通を河東城下に遣わして堯君素を招諭させた。堯君素は屈突通を見てむせび泣いて堪えられず、屈突通も涙が襟を濡らした。屈突通が「わが軍はすでに敗れた。義旗の指す所、響き応じぬものはない。事勢はこうだ。卿は早く降るべきだ」と言うと、堯君素は「公は国の大臣であり、主上は公に関中を委ね、代王は公に社稷を託されました。それをどうして国に背いて生きて降り、あまつさえ人の説客となられるのですか。公の乗っておられる馬は代王が賜ったもの。どの面下げてそれに乗っておられるのですか」と言った。屈突通は「ああ君素よ、私は力尽きて来たのだ」と言い、堯君素は「今はまだ力は尽きておりません。多言は無用です」と答え、屈突通は恥じて退いた。
- 劉文静らが兵を率いて東に地を略し、弘農郡を取り、新安以西を平定した。
- 甲辰、李淵は雲陽令の詹俊と武功県正の李仲袞に巴蜀を従わせ、これを下した。
唐高祖武徳元年(618年)――受禅
- 春正月丁未朔、隋の恭帝が詔して唐王に剣履上殿・賛拝不名を許した。唐王は長安を落としてから書を諸郡県に諭し、東は商洛から南は巴蜀まで、郡県の長史や盗賊の首領、氐羌の酋長が争って子弟を遣わして降を請い、有司の返書は日に百通を数えた。
- 二月己卯、唐王は太常卿の鄭元璹に兵を率いて商洛に出て南陽を従わせ、左領軍府司馬の安陸の馬元規に安陸および荆襄を従わせた。
- 三月己酉、斉公元吉を鎮北将軍・太原道行軍元帥・都督十五郡諸軍事とし、便宜に従って処置することを許した。乙卯、秦公世民を趙公に改めた。
- 戊辰、隋の恭帝が詔して十郡を唐国に加え、唐王を相国として百官を統べさせ、唐国に丞相以下の官を置き、九錫を加えた。
- 唐王は僚属に言った。これは諂諛の者のすることだ。私が大政を執りながら自ら寵錫を加えてよいものか。もし魏晋の跡を踏むなら、あれはみな繁文と偽飾で天を欺き人を罔い、実を考えれば五霸にも及ばぬのに名声は三王を越えようとする。私が常々非難し笑い、恥じてきたことだ、と。
- ある者が「歴代行われてきたことを廃してよいものでしょうか」と言うと、唐王は「堯・舜・湯・武は時によって名を得、取ると与えるとで道は異なったが、みなその至誠を推して天に応じ人に順った。夏や商の末に必ず唐虞の禅譲に倣ったなどとは聞かぬ。少帝に知恵があれば、こんなことは承知すまい。知恵がなければ、私が自ら尊びながら謙譲を装うことになる。平生の本心として、そういうことはせぬ」と言った。そこで丞相府を相国府と改めただけで、九錫と特別の礼はすべて有司に返した。
- 夏四月、煬帝の凶報が長安に届き、唐王は慟哭して「私は北面して人に仕えながら、道を失った主を救えなかった。哀しみを忘れられようか」と言った。
- 五月戊午、隋の恭帝が唐に禅位し、代邸に退いた。甲子、唐王が太極殿で皇帝の位に即き、刑部尚書の蕭造を南郊に遣わして天に告げ、大赦して改元した。郡を廃して州を置き、太守を刺史とし、五運を推して土徳とし、色は黄を尚んだ。
- 六月甲戌朔、趙公世民を尚書令、黄台公瑗を刑部侍郎、相国府長史の裴寂を右僕射・知政事、司馬の劉文静を納言、司録の竇威を内史令、李綱を礼部尚書・参掌選事、司掾の殷開山を吏部侍郎、属の趙慈景を兵部侍郎、韋義節を礼部侍郎、主簿の陳叔達と博陵の崔民幹をともに黄門侍郎、唐倹を内史侍郎、録事参軍の裴晞を尚書右丞とした。また隋の民部尚書の蕭瑀を内史令、礼部尚書の竇璡を戸部尚書、蔣公屈突通を兵部尚書、長安令の独孤懐恩を工部尚書とした。李瑗は上の従子、独孤懐恩は上の母方の従兄弟である。
- 上は裴寂をきわめて厚遇し、群臣に比べる者がなかった。賞賜の品は数え切れず、尚書奉御に日ごとに御膳を裴寂に賜らせ、朝に臨めば必ず同席させ、閤に入れば寝所まで招き入れ、言うことはすべて聞き入れ、「裴監」と呼んで名を呼ばなかった。
- 蕭瑀には庶政を委ね、大小を問わずすべて掌らせた。蕭瑀もひたむきに力を尽くし、違法を正して過失を挙げたので、人々は憚り、そしる者も多かったが、蕭瑀は終始弁明しなかった。
- あるとき上が勅を下したのに内史がすぐ宣行しなかった。上が遅滞を責めると、蕭瑀は「大業の世には内史の宣する勅が前後で食い違い、有司はどれに従うべきか分からなくなりました。易きが前で難きが後になったのです。私は省に長くおり、その事をよく見ました。今は王業の始まりで、事は安危にかかわり、遠方が疑えば機会を失う恐れがあります。ゆえに私は勅を受けるたび必ず精査し、前の勅と矛盾しないと確かめてから宣行いたします。遅れの咎はまことにそのためです」と答えた。上は「卿がそこまで心を用いてくれるなら、私は何も憂えることはない」と言った。
- 己卯、四親の廟主を祔し、高祖の瀛州府君に宣簡公、曽祖の司空に懿王、祖の景王に景皇帝・廟号太祖、祖妣に景烈皇后、父の元王に元皇帝・廟号世祖、母の独孤氏に元貞皇后と追尊し、妃の竇氏に穆皇后と諡した。毎年の昊天上帝・皇地祇・神州地祇の祀りには景帝を配し、感生帝と明堂には元帝を配することとした。
- 庚辰、世子建成を皇太子、趙公世民を秦王、斉公元吉を斉王に立てた。宗室の黄瓜公白駒を平原王、蜀公孝基を永安王、柱国道玄を淮陽王、長平公叔良を長平王、鄭公神通を永康王、安吉公神符を襄邑王、柱国徳良を新興王、上柱国博乂を隴西王、上柱国奉慈を勃海王とした。孝基・叔良・神符・徳良は帝の従父弟、博乂・奉慈は弟の子、道玄は従父兄の子である。
- 乙酉、隋帝を酅国公とし、詔した。近世以来、時運が移り変わるたび前代の親族は誅されぬことがなかった。だが興亡の結果は人の力によるものであろうか。隋の蔡王智積らの子孫はみな有司に付し、才を量って選用せよ、と。
- 丁酉、万年県法曹の武城の孫伏伽が上表した。隋は自らの過ちを聞くのを嫌って天下を失いました。陛下は晋陽で龍飛され遠近が響き応じ、一年たたぬうちに帝位に登られました。しかしそれは得ることの易しさを知るだけで、隋が失ったことの難しくなかったことをご存じないのです。私はその轍を改め、下情を尽くされるべきと存じます。およそ人君の言動は慎まねばなりません。
- 続けて言う。陛下が即位された翌日に鷂の雛を献ずる者がありました。これは若者のすることで、聖主の必要とされるものではありません。また百戯・散楽は亡国の淫らな音です。近ごろ太常が民間から婦人の裙襦五百余着を借りて妓の衣装に充て、五月五日に玄武門で演じようとしています。これも子孫の法とすべきことではありません。この類はすべて廃止なさるべきです。
- さらに、善悪の習いは朝夕に染まって人を移しやすいものです。皇太子・諸王の僚属や側近は慎重に選ぶべきで、家風が睦まじからず、日ごろ行義なく、専ら奢侈を好み声色と遊猟を事とする者は近づけてはなりません。古来、骨肉が離れて国を敗り家を亡ぼしたのは、みな側近の離間によらぬものはありません。どうかお慎みください、と。
- 上は表を読んで大いに喜び、詔を下して褒め、治書侍御史に抜擢し、帛三百匹を賜り、あわせて遠近に頒示した。
- 秋九月、虞州刺史の韋義節が隋の河東通守の堯君素を攻めたが久しく落とせず、たびたび不利となった。壬子、工部尚書の独孤懐恩に交代させた。
- 十一月癸丑、独孤懐恩が蒲坂で堯君素を攻めた。行軍総管の趙慈景は帝の娘の桂陽公主を娶っていたが、堯君素に捕らえられ、城外で梟首されて降伏の意なきことを示された。
- 冬十二月、隋将の堯君素が河東を守り、上は呂紹宗・韋義節・独孤懐恩を相次いで攻めさせたがいずれも落とせなかった。
- 外の包囲が厳しく、堯君素は木の鵞鳥を作り、首に事情を詳しく記した書状を付けて黄河に流した。河陽の守備兵がこれを得て東都に届けた。皇泰主は見て嘆息し、堯君素を金紫光禄大夫とした。
- 龐玉と皇甫無逸が東都から降ってきたので、上はみな城下に遣わして利害を説かせたが、堯君素は従わなかった。金券を賜って死を免ずると約したが応じず、その妻も城下に来て「隋室はすでに亡びました。あなたはなぜ自ら苦しむのですか」と言うと、堯君素は「天下の名分と大義は婦人の知るところではない」と言って弓を引いて射、妻は弦の音とともに倒れた。
- 堯君素も自ら成算のないことは知っていたが、志は死守にあり、国家のことに及ぶたび嗚咽した。将士に「私は昔、藩邸で主上にお仕えした。大義として死なざるを得ぬ。もし隋の祚が永く尽き天命の帰する所があるなら、自ら首を斬って諸君に渡す。諸君はそれで富貴を取るがよい。今は城池は堅く倉の蓄えも豊かで、大事はまだ分からぬ。妄りに心を動かしてはならぬ」と言った。堯君素は厳正で衆を御するのが巧みで、部下も叛けなかった。
- 久しくして倉の粟が尽き、人が人を食う有様となり、また外部の者を捕らえて江都の陥落をわずかに知った。丙子、堯君素の側近の薛宗らが堯君素を殺して降り、首を京師に送った。
武徳二年(619年)秋八月
- 丁酉、酅公が薨じ、隋恭帝と諡した。嗣子がなかったので、族子の行基に継がせた。