通鑑紀事本末煬帝、隋を亡ぼす(煬帝亡隋)
煬帝が東京洛陽の営建と運河の開鑿、西苑・離宮の造営、江都への巡幸に民力を注ぎ込み、裴矩の献策で西域を経略し、三度の高麗遠征で天下を疲弊させて群盗を生むまでを追う。王薄・竇建徳・翟譲・杜伏威らが各地に起こる一方、虞世基・裴蘊・封徳彝は敗報を握りつぶし、蘇威ら諫めた者は次々に退けられて、煬帝は賊の実勢を知らぬまま江都に移った。帰郷を望む驍果に推された司馬徳戡・宇文化及が江都で煬帝を弑し、宗室を殺して北へ向かうが、唐は長安で禅譲を受け、化及は李密と竇建徳に破られて聊城で捕らえられ斬られた。仁寿四年(604年)の洛陽営建から武徳二年(619年)の皇泰主の死までを扱う。
年表(16件)
- 隋文帝
- 仁寿四年冬604年煬帝が洛陽に行幸し、伊水・洛水のほとりに東京を営むと詔する
- 煬帝
- 大業元年605年毎月丁男二百万を役して東京と顕仁宮を築き、通済渠と邗溝を開く
- 大業二年606年東京が完成し、四方の散楽を集めて洛口・回洛の両倉を置く
- 大業三年607年裴矩が『西域図記』を奏し、煬帝は西域経略を委ねて北巡する
- 大業四年608年百余万を動員して永済渠を掘り、丁男が尽きて婦人まで役に就かせる
- 大業五年609年西巡して燕支山で西域二十七国の拝謁を受け、西海など四郡を置く
- 大業六年610年洛陽端門街に百戯を並べて諸蕃に富を誇り、江南河を開く
- 大業七年611年高麗討伐の輸送に民が窮し、王薄・竇建徳ら群盗が各地に起こる
- 大業八年612年薩水で九軍が潰え、三十万五千のうち二千七百しか帰らない
- 大業九年613年楊玄感が黎陽に反し、劉元進・朱燮ら江南の乱が続いて三万余が誅される
- 大業十年614年三度目の遠征から凱旋するが、劉迦論・王徳仁ら賊は増え続ける
- 大業十一年615年李渾一族を讖により誅し、民を城内に移して盗に備える
- 大業十二年616年蘇威を除名し、諫言者を殺して江都に行幸、林士弘が楚を称する
- 恭帝
- 義寧元年617年梁師都・劉武周・薛挙・李密らが立ち、李淵が晋陽に挙兵して長安に入る
- 唐高祖
- 武徳元年――江都の弑逆618年宇文化及らが煬帝を縊り殺し、唐王が長安で即位する
- 武徳二年619年竇建徳が聊城で宇文化及を捕らえて斬り、王世充が皇泰主を殺す
隋文帝仁寿四年(604年)冬
- 章仇太翼が帝(煬帝)に、陛下は木の命であり雍州は水を破る要衝だから長く居るべきでない、また讖に「洛陽を修治すれば晋家に還る」とあると説いた。帝は深く納得した。
- 十一月乙未、洛陽に行幸し、晋王昭を長安の留守とした。
- 丙申、丁男数十万を動員して塹壕を掘らせた。竜門から東へ長平・汲郡に接し、臨清関に至り、黄河を渡って浚儀・襄城を経て上洛に達する線に関防を置いた。
- 癸丑、詔して伊水・洛水のほとりに東京を営建することとした。
煬帝大業元年(605年)
- 春三月丁未、楊素と納言の楊達、将作大匠の宇文愷に東京の営建を詔した。毎月、丁男二百万人を役し、洛州の城内の住民および諸州の富商大賈数万戸を移して充実させた。二崤の道を廃して葼冊の道を開いた。
- 宇文愷と内史舎人の封徳彝らに顕仁宮を造営させた。南は皁澗に接し北は洛水のほとりに跨がる。長江以南・五嶺以北の珍しい材木や奇石を洛陽に運ばせ、また国内の良木・珍しい草・珍禽奇獣を求めて園苑を満たした。
- 辛亥、尚書右丞の皇甫議に命じて河南・淮北の諸郡の民を前後で百余万動員し、通済渠を開かせた。西苑から穀水・洛水を引いて黄河に達し、さらに板渚から黄河を引いて滎沢を経て汴水に入れ、大梁の東から汴水を引いて泗水に入れ淮水に達した。また淮南の民十余万を動員して邗溝を開き、山陽から揚子に至って長江に入れた。渠の幅は四十歩、両岸に御道を築いて柳を植えた。長安から江都まで離宮四十余か所を置いた。
- 庚申、黄門侍郎の王弘らを江南に遣わし、龍舟および各種の船数万艘を造らせた。東京では官吏の督励が厳しく、役に就いた丁男の死者は十中四、五。担当官は死者を車に載せ、東は成皋、北は河陽まで、道に列をなして運んだ。また東宮に天経宮を作り、四季に高祖を祭った。
- 夏五月、西苑を築いた。周囲二百里、内に周囲十余里の海を作り、方丈・蓬莱・瀛洲の三山を水上百余尺の高さに築き、台観宮殿を山上に連ね、向背が神業のようであった。海の北には龍鱗渠が曲がりくねって海に注ぎ、渠に沿って十六の院を作り、門はみな渠に臨んだ。院ごとに四品の夫人が主となり、堂殿楼観は華麗を極めた。宮中の樹木が秋冬に落葉すると絹を切って花や葉を作って枝に付け、色があせると新しいものに替え、常に春のようにした。池の中も絹で蓮や菱を作り、行幸のときは氷を除いて敷いた。十六院は競って料理の精美を張り合い、恩寵を求めた。帝は月夜に宮女数千騎を従えて西苑に遊ぶのを好み、「清夜遊曲」を作って馬上で奏させた。
- 秋八月壬寅、江都に行幸し、顕仁宮を発した。王弘が龍舟を送って奉迎した。乙巳、小朱航に乗って漕渠から洛口に出、龍舟に乗った。龍舟は四層、高さ四十五尺、長さ二百尺。最上層に正殿・内殿・東西の朝堂を備えていた。沿道の郡県に食を献じさせ、多い州は百輿に及び、水陸の珍味を極めた。後宮は食べ飽き、出発の際には多くを捨てて埋めた。
大業二年(606年)
- 春正月辛酉、東京が完成し、将作大匠の宇文愷を開府儀同三司に進めた。
- 二月丙戌、吏部尚書の牛弘らに輿服・儀衛の制度を議定させ、開府儀同三司の何稠を太府少卿として営造させ江都に送らせた。何稠は知恵と工夫に富み、図籍を広く読み、古今を参酌して多くを改めた。袞冕には日月星辰を描き、皮弁は漆紗で作った。また黄麾三万六千人の儀仗、輅・輦・車輿、皇后の鹵簿、百官の儀服を作り、華美を極めて帝の意に沿わせた。
- 州県に羽毛を送らせたので、民は網を張って捕らえ、水陸の禽獣で飾りに使える種はほぼ絶滅した。烏程に百尺を越す高木があり、枝も付かず上に鶴の巣があった。民が取ろうとして取れず、根を伐ろうとすると、鶴は子を殺されるのを恐れて自ら羽をむしって地に投げた。当時の人はこれを瑞兆と称し、「天子が羽儀を造れば鳥獣が自ら羽毛を献ずる」と言った。
- 動員された工人は十万余、金銀・銭帛の消費は巨億に上った。帝が遊幸するたび羽儀は街路にあふれ、二十余里に亘った。
- 三月庚午、江都を発し、夏四月庚戌、伊闕から法駕を整え、千乗万騎を備えて東京に入った。辛亥、端門に出御して大赦し、天下の当年の租賦を免じた。五品以上の文官は車に乗り、朝廷では弁服に玉を佩び、武官は馬に珂を加え、幘を戴き袴褶を着ることとした。文物の盛大さは近世に比類なかった。
- 秋七月甲戌、元徳太子昭が薨じた。帝は数声哭しただけでやめ、まもなく音楽を奏させ、平日と変わらなかった。
- 八月辛卯、皇孫の倓を燕王、侗を越王、侑を代王に封じた。いずれも昭の子である。
- 九月乙丑、秦孝王の子の浩を秦王に立てた。
- 冬十月、鞏の東南の原に洛口倉を置き、周囲二十余里の倉城を築き、三千の穴を穿った。一穴に八千石を容れ、監官と鎮兵千人を置いた。十二月、洛陽の北七里に回洛倉を置き、倉城は周囲十里、三百の穴を穿った。
- もと北斉の温公(後主)の時代に、魚竜・山車などの雑技があり散楽と呼ばれた。北周の宣帝のとき鄭訳が奏して招いたが、高祖が禅を受けると牛弘に楽を定めさせ、正声・清商および九部四舞に属さぬ者はすべて解放した。
- 帝は啓民可汗の入朝に際して富と楽を誇示しようとし、太常少卿の裴蘊は意を迎えて、天下の周・斉・梁・陳の楽家の子弟をすべて調べ上げて楽戸とし、六品以下庶人までで音楽に長じた者はみな太常に勤めさせるよう奏し、帝は従った。
- こうして四方の散楽が東京に大集合し、芳華苑の積翠池のほとりで観覧した。舎利獣がまず出て跳ね回り水を街路に満たし、黿・鼉・亀・鼈・水人・虫魚が地を覆い、鯨が霧を噴いて日を隠したかと思うと、たちまち長さ七、八丈の黄竜に変じた。また二人が竿を戴き、上の舞人がひらりと跳んで左右入れ替わり、神鼇が山を背負い、幻術師が火を吐くなど、千変万化。芸人はみな錦繍や綵絹を着、舞人は環佩を鳴らして花飾りを付けた。京兆・河南にその衣装を作らせ、両京の錦綵は尽き果てた。
- 帝は艶麗な詩を多く作り、楽正の白明達に新曲を作らせて広めた。音はきわめて哀怨であった。帝は大いに喜んで白明達に「北斉は片隅の国でありながら、楽工の曹妙達はなお王に封ぜられた。私は今、天下を統一している。お前を貴くしてやる。身を慎め」と言った。
大業三年(607年)
- 夏四月庚辰、河北を安定させるため趙・魏を巡省すると詔した。丙寅、車駕が北巡した。
- 六月、帝は雁門を過ぎ、楡林から塞を出た。甲士五十万、旌旗と輜重が千里に絶えず、観風殿と周囲二千歩の行城を作った。八月、突厥の啓民の帳に行幸して帰った。
- 西域の諸胡が多く張掖に来て交易しており、帝は吏部侍郎の裴矩に管掌させた。裴矩は帝が遠征を好むのを知り、来訪する商胡から諸国の山川・風俗・王および庶人の姿や服飾を聞き取り、『西域図記』三巻・四十四国を撰して奏上した。あわせて地図を別に作り、要害を尽くした。西傾山から先は縦横二万里近く、敦煌から西海までを三道に分け、北道は伊吾から、中道は高昌から、南道は鄯善からで、いずれも敦煌に集まると記した。
- そのうえで裴矩は言った。国家の威徳と将士の驍勇をもってすれば、濛汜に浮かび崑崙を越えるのは手のひらを返すほど容易です。ただ突厥と吐谷渾が羌胡の国々を分領して塞いでいるため朝貢が通じません。今はみな商人を通じてひそかに誠意を伝え、首を伸ばして臣妾となることを願っています。服属させて安撫し、使者を遣わすだけで兵車を動かさずにおけば、諸蕃が従い、吐谷渾と突厥は滅ぼせます。戎と夏を一つにするのはここにあります、と。
- 帝は大いに喜び、物五百段を賜い、日ごとに裴矩を御座に召して自ら西域のことを問うた。裴矩は胡の地に珍宝が多く、吐谷渾は容易に併呑できると盛んに説いた。帝はこうして秦の始皇帝・漢の武帝の功業を慕う気持ちを昂ぶらせ、西域を通じ四夷を経略することをすべて裴矩に委ね、黄門侍郎とした。
- 裴矩はまた張掖に赴いて諸胡を引き寄せ、利で釣って入朝を勧めた。以後、西域の諸胡の往来が絶えず、通過する郡県は送迎に疲れ、費用は万々を数えた。中国を疲弊させて滅亡に至らしめたのは、みな裴矩が唱導したことである。
大業四年(608年)
- 正月乙巳、詔して河北の諸軍百余万を動員し、永済渠を掘って沁水を引き、南は黄河に達し北は涿郡に通じさせた。丁男が足りず、婦人まで役に就かせ始めた。
- 三月乙丑、車駕が五原に行幸し、塞を出て長城を巡った。
- 帝は宮室の造営をやめる日がなかった。両京と江都の苑囿・亭殿は多かったが、時が経つとますます飽き、遊幸しても左右を見回して気に入るものがなく、行き先に困った。そこで天下の山川の図を取り寄せて自ら見渡し、宮苑を置くべき景勝地を探した。
- 夏四月、汾州の北、汾水の源に汾陽宮を営むよう詔した。
- 秋七月辛巳、丁男二十余万を動員して楡谷から東へ長城を築いた。
- 九月辛未、天下の鷹匠を徴して東京に集め、到着した者は一万余人に及んだ。
大業五年(609年)
- 春正月丙子、東京を東都と改めた。戊子、帝が東都から西に帰った。二月戊申、車駕が西京に至った。
- 三月己巳、河右を西巡。乙亥、扶風の旧宅に行幸。夏四月癸亥、臨津関を出て黄河を渡り、西平に至って兵を並べ演習し、吐谷渾を撃とうとした。
- 五月乙亥、抜延山で大狩猟を行い、囲みは周囲二十里に及んだ。庚辰、長寧谷に入り星嶺を越え、丙戌、浩亹川に至ったが、橋が未完成だったので都水使者の黄亘および工事監督の九人を斬った。数日で橋ができて進んだ。
- 六月辛丑、帝は給事郎の蔡徴に「古来、天子には巡狩の礼がある。それなのに江東の諸帝は多く白粉を塗って深宮に座り、百姓と会わなかった。あれはどういう理屈か」と問い、蔡徴は「それゆえに長く世を保てなかったのです」と答えた。
- 丙午、張掖に至った。帝が西巡しようとしたとき、裴矩に高昌王の麴伯雅や伊吾の吐屯設らを説かせ、厚利で釣って入朝させていた。壬子、帝が燕支山に至ると、麴伯雅・吐屯設らと西域二十七国が道の左に拝謁した。みな金玉を佩び錦罽を着させ、香を焚き楽を奏し、歌舞で賑わせた。
- 帝はさらに武威・張掖の士女を盛装させて見物させ、衣服や車馬が立派でない者は郡県が督励した。騎馬と車が道にあふれ、周囲数十里に亘って中国の盛大さを示した。吐屯設が西域数千里の地を献じ、帝は大いに喜んだ。
- 癸丑、西海・河源・鄯善・且末などの郡を置き、天下の罪人を守備兵として流して守らせた。劉権に河源郡の積石鎮を守らせ、大いに屯田を開き、吐谷渾を防いで西域への路を通じさせた。
- このとき天下は郡百九十、県千二百五十五、戸は八百九十万余、東西九千三百里、南北一万四千八百十五里。隋の隆盛はここに極まった。
- 帝は裴矩に懐柔の才略ありとして銀青光禄大夫に進めた。西京の諸県から西北の諸郡はみな塞外へ輸送し、毎年の費用は巨億万に上った。道は険しく遠く、賊に襲われて人畜が死亡し到着しなかった分は、郡県がその家を徴発して破産させた。こうして百姓は生業を失い、西方がまず疲弊した。
- 丙辰、帝は観風殿に出御して文物を盛大に備え、麴伯雅と吐屯設を殿上に上げて宴飲し、階庭に陪した蛮夷の使者は二十余国。九部の楽と魚竜の戯を奏して楽しませ、差をつけて賜与した。戊午、天下に赦した。
- 吐谷渾には青海があり、牝馬をそこに置くと竜種を得るという言い伝えがあった。秋七月丁卯、青海に馬牧を置き、牝馬二千匹を谷川に放って竜種を求めたが、効果がなく取りやめた。
- 車駕が東に帰り、大斗抜谷を通ったが、山路が狭く険しく、一列になって進んだ。風雪で暗く、文武は飢えて濡れ、夜になっても前営に届かず、凍死した士卒は大半、馬驢は十中八、九を失った。後宮の妃や公主も狼狽してはぐれ、軍士と入り混じって山中で夜を明かした。
- 九月癸未、車駕が西京に入り、冬十一月丙子、再び東都に行幸した。
大業六年(610年)
- 春正月、諸蕃の酋長が洛陽に勢揃いした。丁丑、端門街に百戯を盛大に並べた。戯場は周囲五千歩、管弦を執る者一万八千人、音は数十里に聞こえ、夕方から明け方まで灯火が天地を照らし、一月続いて終わった。費用は巨万。以後、これが毎年の恒例となった。
- 諸蕃が豊都市での交易を請い、帝は許した。あらかじめ店を整えさせて軒先をそろえ、帷帳を盛んに張り、珍貨を積み上げ、人も物も華やかにし、菜売りまで竜鬚の筵を敷かせた。胡客が酒食の店を通るたび招き入れて座らせ、酔い飽きて散じても代金を取らず、「中国は豊かなので、酒食は例により代金を取りません」と偽った。胡客はみな驚嘆したが、目端の利く者は気づき、絹を樹に巻いてあるのを見て「中国にも貧者がいて衣が体を覆えぬではないか。それをこの者たちに与えたらどうか。樹に巻いて何になる」と言った。市の人々は恥じて答えられなかった。
- 帝は裴矩の才を称え、群臣に「裴矩はよく朕の意を汲む。上奏することはみな朕がすでに考えて口に出す前のことで、裴矩はそれを申し出る。国を奉じて心を尽くす者でなければ、こうはできぬ」と言った。
- 当時、裴矩と左翊衛大将軍の宇文述、内史侍郎の虞世基、御史大夫の裴蘊、光禄大夫の郭衍はみな諂諛によって寵を得ていた。宇文述は奉仕が巧みで立ち居振る舞いも如才なく、侍衛の者はみな彼を手本とした。郭衍はかつて帝に五日に一度朝を見ればよいと勧め、「高祖に倣ってむやみに苦労することはありません」と言った。帝はいっそう忠と思い、「郭衍だけが朕と心を同じくする」と言った。
- 帝は朝廷では重々しく構え、発言や詔の辞義は立派だったが、内心は声色にふけっていた。両都にあっても巡遊のときも常に僧尼・道士・女官を随行させ、四道場と呼んだ。
- 梁公の蕭鉅は蕭琮の弟の子、千牛左右の宇文皛は宇文慶の孫で、いずれも帝の寵を得ていた。帝は毎日、苑中の林亭に酒肴を盛大に並べ、燕王倓と蕭鉅・宇文皛および高祖の嬪御を一席、僧尼・道士・女官を一席、帝と寵姫たちを一席とし、ほぼ席を連ねさせた。朝が終わるとそこへ行き、宴飲して勧め合い、酔えば料理も入り乱れ、至らぬことはなかった。これを常とした。楊氏一族の美女がしばしば召し上げられ、宇文皛は宮中に門禁も無視して出入りし、妃嬪や公主にまで醜聞が及んだが、帝は罪としなかった。
- 二月庚申、徴集した周・斉・梁・陳の散楽をすべて太常に配属し、博士と弟子を置いて伝授させた。楽工は三万余人に達した。
- 三月癸亥、帝が江都宮に行幸。
- はじめ帝が汾陽宮を大規模に造営しようとしたとき、御史大夫の張衡に図面を作って奏させた。張衡は折を見て「近年、労役が繁多で百姓は疲弊しています。どうか御心を留めて少し抑えてください」と諫めた。帝は不快に思い、後に張衡を目で追って侍臣に「張衡は自分の計画で私が天下を得たと思っている」と言った。そして張衡が斉王暕に皇甫詡を連れて従駕させたことや、先に涿郡に行幸して恒岳を祀ったとき謁見した父老の衣冠が乱れていたことを取り上げ、監察の任にありながら正さなかったと譴責して楡林太守として出した。
- しばらくして張衡が樓煩城の築造を監督していたとき、帝の巡幸に際して謁見できた。帝は張衡が痩せていないのを見て、罪を悔いていないと判断し、「公はずいぶん肥えて艶がよい。しばらく郡に戻るがよい」と言って楡林に帰した。まもなく江都宮の工事監督を命じた。
- 礼部尚書の楊玄感が江都に使いしたとき、張衡は「薛道衡はまったく無実の死だった」と語り、楊玄感が奏した。江都郡丞の王世充もまた張衡が食事の支度をたびたび減らしたと奏した。帝は怒り、鎖につないで江都の市に引き出して斬ろうとしたが、久しくして釈放し、除名して庶民として郷里に帰した。王世充に江都宮監を兼ねさせた。
- 冬十二月、江南河を掘るよう勅した。京口から余杭まで八百余里、幅十余丈で竜舟が通れるようにし、あわせて駅宮と仮設の宿を置いた。東の会稽を巡ろうとしたのである。
大業七年(611年)
- 春二月己未、帝が釣台に登り揚子津に臨んで百官と大宴した。乙亥、江都から涿郡に行幸し、竜舟で黄河を渡って永済渠に入った。選部・門下・内史・御史の四司の官に前の船で人事の選補をさせ、選を受ける者三千余人は、あるいは徒歩で船に随って三千余里も行きながら処分を得られず、凍え飢えて衰弱し、死ぬ者が十中一、二に及んだ。
- 壬午、詔して高麗を討つこととした。
- 帝は前年から高麗討伐を謀り、山東に軍馬を養う府を置くよう詔していた。また民夫を動員して米を運ばせ、瀘河・懐遠の二鎮に積ませた。牛車で行った者はみな帰らず、士卒の死亡は半ばを越え、耕作の時期を失って田は荒れ、加えて飢饉で穀価が高騰した。東北の辺境はとくにひどく、米一斗が数百銭。運んだ米に粗悪なものがあると、民に買って弁償させた。
- また鹿車の人夫六十余万を動員し、二人で米三石を押させたが、道が険しく遠く、自分たちの食糧にも足りない。鎮に着いても納める物がなく、みな罪を恐れて逃亡した。加えて官吏が貪欲残酷で、それに乗じて搾取した。百姓は困窮して財力を使い果たし、じっとしていれば凍え飢えて死期が迫り、掠奪すればまだ生き延びられる。こうして初めて群がって盗賊となった。
- 鄒平の民の王薄が衆を擁して長白山に拠り、斉・済の郊外を掠奪し「知世郎」と自称した。「世の成り行きは知れている」という意である。また「遼東に行って無駄死にするな」という歌を作って人々を煽り、徴役を逃れる者が多く帰した。
- 平原の東の豆子䴚は海を背に河を帯びて地形が険しく、北斉以来、群盗が多く潜んでいた。劉霸道はその傍らに家があり、代々仕官して資産が豊かで、遊侠を好み食客は常に数百人。群盗が起こると遠近から多く身を寄せ、衆は十余万、「阿舅賊」と号した。
- 漳南の人の竇建徳と同県の孫安祖も無頼の若者を集め、高鶏泊に入って群盗となった。当時、鄃の人の張金称は河曲に、蓨の人の高士達は清河の境内に衆を集めて盗となった。以後、各地に群盗が蜂起して数え切れず、多い者は一万余人、城邑を攻め落とした。
- 甲子、都尉と鷹揚が郡県と連絡して追捕し、捕らえ次第斬るよう勅したが、禁じ得なかった。
大業八年(612年)
- 春三月癸巳、帝が初めて軍を進め、遼水に至った。
- 夏六月己未、帝が遼東城の南に赴いた。
- 秋七月、軍が薩水まで進んだところで高麗が攻撃し、諸軍はいっせいに潰えた。はじめ九軍が遼水を渡ったとき三十万五千だったが、遼東城に戻ったときは二千七百人。物資と器械はことごとく失われた。
- 九月庚寅、車駕が東都に至った。
大業九年(613年)
- 春正月丁丑、詔して天下の兵を徴し涿郡に集めた。己亥、刑部尚書の衛文昇らに代王侑を輔けて西京の留守とさせた。
- 二月、帝が再び高麗征討を議し、左光禄大夫の郭栄が諫めたが聞かなかった。
- 三月丙子、済陰の孟海公が盗として起こり、周橋に拠って衆は数万に達した。丁丑、丁男十万を動員して大興城を築いた。戊寅、帝が遼東に行幸し、民部尚書の樊子蓋らに越王侗を輔けて東都の留守とさせた。
- このころ各地に盗が起こった。斉郡の王薄・孟譲、北海の郭方預、清河の張金称、平原の郝孝徳、河間の格謙、勃海の孫宣雅がそれぞれ衆を集めて攻め掠め、多い者は十余万、少ない者でも数万。山東は苦しんだ。天下は太平が久しく人は戦いに慣れておらず、郡県の吏は賊と戦うたび風を望んで敗れた。
- 夏四月庚午、車駕が遼水を渡った。礼部尚書の楊玄感が黎陽で反した。
- 秋七月癸未、余杭の民の劉元進が楊玄感に呼応して兵を挙げた。劉元進は手が一尺余り、腕は膝を過ぎて垂れ、自ら人相が非凡だとして異心を抱いていた。帝が再び三呉の兵を徴発して高麗を征したとき、三呉の兵はみな「先年、天下が全盛のころですら、我らの父兄で高麗に征った者は大半が帰らなかった。今はすでに疲弊しきっているのに、またこの行軍だ。我らは生き残るまい」と語り合い、多くが逃亡した。郡県の捕縛が厳しかったので、劉元進の挙兵を聞いて亡命者が雲のように集まり、旬月の間に数万となった。
- 秋八月、楊玄感の兵が敗れ、捕らえて行在所に送り、東都の市で屍を磔にした。
- 癸卯、呉郡の朱燮と晋陵の管崇が衆を集めて江左を侵掠した。朱燮はもと還俗した僧で、経史を渉猟して兵法にも通じ、体は小柄で、崑山県の博士として数十人の学生と挙兵した。役に苦しむ民が帰するように駆けつけた。管崇は長身で美貌、志気は豪放で常熟に隠居し、自ら王者の相があると言っていたので、群盗は彼を推し立てた。
- 当時、帝は涿郡におり、虎牙郎将の趙六児に一万の兵で揚子に駐屯させ、五営に分けて南の賊に備えていた。管崇は将の陸顗に長江を渡らせ、夜襲して二営を破り、武器と軍資を奪って去った。衆はますます盛んになり十万に達した。
- 辛酉、帝は大理卿の鄭善果、御史大夫の裴蘊、刑部侍郎の骨儀を留守の樊子蓋とともに楊玄感の一党の取り調べに当たらせた。骨儀はもと天竺の胡人である。帝は裴蘊に「玄感が一声上げただけで従う者が十万。ますます天下の人は多くない方がよいと分かった。多ければ集まって盗となる。ことごとく誅さねば後を懲らしめられぬ」と言った。樊子蓋はもともと残酷で、裴蘊もこの旨を受けたので、厳法で処理し、殺した者は三万余人、みな家を没収した。冤死した者が大半で、流刑は六千余人。楊玄感が東都を囲んだとき倉を開いて百姓に施したが、米を受け取った者はみな都城の南で生き埋めにされた。
- 楊玄感と親しかった文士の会稽の虞綽と琅邪の王胄はともに連坐して辺地に流され、逃亡して捕らえられ誅された。帝は文章に長けており、人が自分の上に出るのを好まなかった。薛道衡が死んだとき、帝は「もう『空梁に燕泥落つ』のような句が作れるか」と言い、王胄が死んだときは、その佳句「庭草人無く随意に緑なり」を口ずさんで「またこんな語が作れるか」と言った。
- 帝は才学を自負して天下の士を見下し、侍臣に「天下はみな朕が余慶を継いで四海を得たと言うが、仮に朕が士大夫と競って選ばれるとしても、やはり天子となったであろう」と言った。また秘書郎の虞世南にくつろいで「私は人に諫められるのが嫌いだ。位が高く名声のある者が名を求めて諫めるのは我慢ならぬ。卑賤の士なら少しは大目に見るが、結局は取り立てぬ。心得ておけ」と語った。虞世南は虞世基の弟である。
- 九月己卯、東海の民の彭孝才が盗として起こり、衆数万を得た。
- 冬十月丁丑、賊帥の呂明星が東郡を囲み、虎賁郎将の費青奴が撃破した。
- 劉元進が衆を率いて長江を渡ろうとしたころ、楊玄感が敗れた。朱燮と管崇はともに劉元進を迎えて主に推し、呉郡に拠って天子と称した。朱燮と管崇はともに尚書僕射となり百官を置いた。毗陵・東陽・会稽・建安の豪傑は多く長史を捕らえてこれに呼応した。帝は左屯衛大将軍の代の人の吐万緒と光禄大夫の下邽の魚倶羅に討たせた。
- 十一月己酉、右侯衛将軍の馮孝慈が清河で張金称を討ったが、敗れて死んだ。
- 十二月、唐県の人の宋子賢は幻術に長け仏の姿に変じることができ、弥勒の出世と自称した。遠近が信じ惑わされ、無遮大会の機に乗じて挙兵し車駕を襲おうと謀ったが、露見して誅され、一党千余家も誅された。扶風の僧の向海明も弥勒の出世と自称し、帰依する者は必ず吉夢を見るとされ、三輔の人々はこぞって奉じた。挙兵して衆は数万に達し、丁亥、皇帝と自称して白烏と改元した。詔で太僕卿の楊義臣が撃破した。
- 劉元進が丹楊を攻めたが、吐万緒が長江を渡って撃破し、劉元進は囲みを解いて去った。吐万緒は曲阿に進駐し、劉元進は柵を結んで対抗し、百余日対峙した。吐万緒が攻めると賊は大潰し、死者は万を数え、劉元進は身一つで夜逃げして塁に籠った。朱燮・管崇らは毗陵に駐屯して営を百余里に連ねていたが、吐万緒が勝ちに乗じて進撃してこれも破った。賊は黄山に退いて守り、吐万緒が包囲した。劉元進と朱燮はかろうじて陣中から逃れ、管崇とその将卒五千余人を斬り、子女三万余口を捕らえた。進んで会稽の囲みを解いた。
- 魚倶羅は吐万緒と同行して連戦連勝したが、百姓が市に行くように乱に加わったので、賊は敗れてもまた集まり、勢いはいっそう盛んになった。劉元進は退いて建安に拠った。帝が吐万緒に進撃を命じたが、吐万緒は士卒の疲弊を理由に春まで休養したいと請い、帝は不快に思った。魚倶羅も賊が短期間に平定できるものではないと考え、洛京にいる子らをひそかに家僕を送って迎えさせた。帝は怒り、有司は意を迎えて吐万緒は臆病、魚倶羅は敗北したと奏した。魚倶羅は斬られ、吐万緒は行在所に召されたが、憂憤のあまり道中で没した。
- 帝は改めて江都丞の王世充に淮南の兵数万を動員して劉元進を討たせた。王世充は長江を渡ってしばしば勝ち、劉元進と朱燮は呉で敗死し、残党は降るか散るかした。王世充は先に降った者を通玄寺の瑞像の前に集め、香を焚いて誓い、降った者は殺さぬと約した。散っていた者は海に入って盗になろうとしていたが、これを聞いて十日ほどでほぼ自首してきた。王世充は彼らをことごとく黄亭澗で穴埋めにし、死者は三万余人。このため残党がまた集まって盗となり、官軍は討伐しきれず、隋の滅亡まで続いた。帝は王世充に将帥の才ありとしてますます寵任した。
- この年、盗となった者はその家を没収するよう詔した。当時、群盗は各地に満ちており、郡県の官はこれに乗じてそれぞれ威福を専らにし、生殺を思うままにした。章丘の杜伏威と臨済の輔公祏はともに亡命して群盗となった。
大業十年(614年)
- 春二月、高麗征討を議した。丁酉、扶風の賊帥の唐弼が李弘芝を天子に立て、衆十万を擁して自ら唐王と称した。
- 三月壬子、帝が涿郡に行幸したが、士卒の道中の逃亡が相次いだ。
- 夏四月、車駕が北平に至った。五月庚申、延安の賊帥の劉迦論が皇王と自称し、大世と建元して衆十万を擁し、稽胡と呼応して侵寇した。詔で左驍衛大将軍の屈突通を関内討捕大使として兵を出させ、上郡で戦って劉迦論と将卒一万余級を斬り、男女数万口を捕らえて帰った。
- 秋七月癸丑、車駕が懐遠鎮に宿営して凱旋。冬十月丁卯、東都に至った。
- 十一月乙卯、離石の胡の劉苗王が反して天子と自称し、衆は数万に達した。将軍の潘長文が討ったが勝てなかった。汲郡の賊帥の王徳仁は数万の衆で林慮山に拠って盗となった。
- 帝が東都に行こうとしたとき、太史令の庾質が「近年、遼を伐って民は実に疲弊しています。陛下は関内を鎮撫し、百姓に農桑に力を尽くさせ、三、五年で四海がやや豊かになってから巡省なさるのがよろしい」と諫めた。帝は不快に思った。庾質は病と称して従わず、帝は怒って獄に下し、庾質は獄中で死んだ。
- 十二月壬申、帝が東都に赴き天下に赦した。戊子、東都に入った。
- 東海の賊帥の彭孝才が沂水一帯を掠め、彭城留守の董純が討って捕らえた。董純はしばしば勝ったが盗賊は日々増え、董純を臆病と讒言する者があり、帝は怒って鎖につないで東都に送り誅した。
- 孟譲が長白山から諸郡を掠め、盱眙に至って衆十余万で都梁宮に拠り、淮水を要害として固めた。江都丞の王世充が兵を率いて防ぎ、五つの柵で険要を塞ぎ、痩せた姿を見せて弱く装った。孟譲は笑って「王世充は法律を扱う小役人だ。どうして将たり得よう。今に生け捕りにして鼓を鳴らして江都に入ってやる」と言った。当時、民はみな砦を築いて自衛し、野に掠める物がなく、賊は次第に飢えた。そこで少数の兵を残して五柵を囲ませ、他を南方の掠奪に分けた。王世充はその隙を見て兵を出して大破し、孟譲は数十騎で逃れ、首級一万余を挙げた。
- 斉郡の賊帥の左孝友は衆十万で蹲狗山に駐屯した。郡丞の張須陀が営を連ねて迫り、左孝友は窮して降った。張須陀の威名は東方に轟き、功により斉郡通守・河南道十二郡黜陟討捕大使となった。
- 涿郡の賊帥の盧明月は衆十余万で祝阿に陣した。張須陀は一万の兵で迎え撃ち、十余日対峙して糧が尽き、退こうとして将士に「賊は我らの退却を見れば必ず総出で追ってくる。そのとき千人でその営を襲えば大利を得られる。これは危険な仕事だが、行ける者はいるか」と言った。誰も答えぬ中、羅士信と歴城の秦叔宝だけが願い出た。
- そこで張須陀は柵を捨てて退き、二人に千人ずつ率いさせて葦の中に伏せさせた。盧明月が全軍で追うと、羅士信と秦叔宝はその柵に駆けつけた。柵門は閉じていたが、二人は楼に飛び上がって各々数人を殺し、営中は大混乱となった。二人が門を破って外の兵を入れ、火を放って三十余の柵を焼き、煙と炎が天に上った。盧明月が引き返してきたところを張須陀が軍を返して奮撃し、大破した。盧明月は数百騎で逃れ、捕虜と斬首は数え切れなかった。秦叔宝は名を瓊といい、字で通っていた。
大業十一年(615年)
- 帝は戸口の逃亡と盗賊の増加を受け、二月庚午、民をすべて城内に居住させ、田は近くのものを与えるよう詔し、郡県・駅亭・村塢にみな城を築かせた。
- 上谷の賊帥の王須抜は漫天王と自称して国号を燕とし、賊帥の魏刀児は歴山飛と自称した。衆はそれぞれ十余万、北は突厥と連なり南は燕・趙を侵した。
- もと高祖は洪水が都を沈める夢を見て嫌い、大興に遷都した。申明公の李穆が薨じ、高祖は李渾を穆の嗣とし、官は右驍衛大将軍に至り郕公に改封された。帝はその一門の強盛を忌んだ。折しも方士の安伽陀が「李氏が天子となる」と言い、天下の李姓をことごとく誅するよう帝に勧めた。李渾の従子の将作監の李敏は幼名を洪児といい、帝はその名が讖に応ずると疑い、面と向かって告げて自決を促した。虎賁郎将の河東の裴仁基が李渾の謀反を告発し、帝は李渾・李敏および宗族三十二人を捕らえて殺した。
- 三月己酉、帝が太原に行幸し、夏四月、汾陽宮で避暑した。宮城が手狭で、百官と士卒は山谷に散らばり、草を結んで営として住んだ。
- 衛尉少卿の李淵を山西河東撫慰大使とし、制を承けて郡県の文武官の黜陟・選補を行い、河東の兵を発して群盗を討捕させた。李淵は竜門に至って賊帥の毋端児を撃破した。
- 秋八月乙丑、帝が北の塞を巡った。突厥の始畢が数十万騎を率いて車駕を襲おうと謀った。
- 九月丁未、車駕が太原に戻った。蘇威が「今、盗賊は止まず兵馬は疲弊しています。どうか速やかに西京にお帰りになり、根を深く本を固めて社稷のためにお計らいください」と言い、帝は初めは同意した。しかし宇文述が「従官の妻子の多くは東都にいます。近道で洛陽に向かい、潼関から入るのがよいでしょう」と言い、帝は従った。
- 冬十月壬戌、帝が東都に至り、街路を見回して侍臣に「まだずいぶん人がいるな」と言った。先年、楊玄感を平らげたときの殺害がまだ少なかったという意である。
- 楊玄感の乱で竜舟と水殿はみな焼かれたので、詔して江都で新たに数千艘を造らせた。規模はさらに旧より大きかった。
- 壬申、盧明月が衆十万で陳・汝を侵した。
- 東海の李子通が長白山で挙兵して左才相に身を寄せたが、才相に忌まれ、淮水を渡って杜伏威と合流し、将軍と自称した。
- 城父の朱粲はもと県の佐史で、従軍して逃亡し、衆を集めて盗となり「可達寒賊」と称し、自ら迦楼羅王と号した。衆は十余万に達し、兵を率いて荆・沔および山南の郡県を転々と掠め、通った所には生き残る者もなかった。
- 十二月庚寅、民部尚書の樊子蓋に関中の兵数万を発して絳の賊の敬盤陀らを撃たせた。樊子蓋は善悪を分けず、汾水の北の村塢をすべて焼き、降った賊もみな穴埋めにした。百姓は怨み憤ってますます集まって盗となった。詔で李淵を代わらせたところ、降る者を側に置いたので、賊衆の多くが降り、前後で数万人に上った。残党は他郡へ散った。
大業十二年(616年)
- 春正月、朝集の使者が来なかった郡が二十余。初めて使者を十二道に分けて派遣し、兵を出して盗賊を討捕することを議した。
- 詔して毗陵通守の路道徳に十郡の兵数万を集め、郡の東南に宮苑を起こさせた。周囲十二里、内に十六の離宮を置き、おおむね東都の西苑の制に倣いつつ、その華麗さは上回った。さらに会稽にも宮を築こうとしたが、乱に遭って果たさなかった。
- 三月上巳、帝は群臣と西苑の水辺で酒宴し、学士の杜宝に『水飾図経』を撰させ、古の水にまつわる故事七十二を採り、朝散大夫の黄袞に木でこれを作らせた。間に妓航と酒船を配し、人物は生きているように自ら動き、鐘・磬・箏・瑟は曲を奏でることができた。
- 己丑、張金称が平恩を陥し、一朝にして男女一万余口を殺し、さらに武安・鉅鹿・清河の諸県を陥した。張金称は諸賊の中でもとりわけ残暴で、通った所に民は一人も残らなかった。
- 夏四月丁巳、大業殿の西院で火事があった。帝は盗が起きたと思って驚いて西苑に逃げ、草むらに隠れ、火が収まってから戻った。帝は大業八年以後、毎夜、眠りの中でしきりに驚き、賊がいると口走り、数人の婦人に体を揺すって撫でさせてようやく眠れた。
- 癸亥、歴山飛の別将の甄翟児が衆十万で太原を侵し、将軍の潘長文が敗死した。
- 帝が侍臣に盗賊のことを問うと、左翊衛大将軍の宇文述は「次第に少なくなっております」と答えた。帝が「以前と比べてどれほどか」と問うと、「十分の一にもなりません」と答えた。納言の蘇威が身を引いて柱に隠れたので、帝は呼び寄せて問うた。蘇威は「私は担当ではないので多少は存じません。ただ次第に近づいているのが心配です」と答えた。
- 帝が「どういうことか」と問うと、蘇威は「以前は賊は長白山に拠っていましたが、今は近く汜水にいます。しかも往時の租賦や丁役はどこへ行ったのでしょう。その人々がみな盗と化したのではありませんか。近ごろ賊のことの上奏はどれも実情に基づかず、そのため見積もりを誤り、時機を逃して除けずにいます。また先に雁門で遼征を取りやめると仰せられたのに、また徴発なさる。賊がどうして止みましょう」と答えた。帝は不快になって席を罷めた。
- まもなく五月五日、百官の多くが珍玩を贈ったが、蘇威だけは『尚書』を献じた。ある者が「『尚書』には「五子之歌」があります。蘇威の心底ははなはだ不遜です」と讒言し、帝はさらに怒った。
- しばらくして帝が蘇威に高麗征討のことを問うた。蘇威は帝に天下の盗の多さを知らせようとして「今回の遠征では兵を発さず、ただ群盗を赦されれば、自ずと数十万を得られます。これを東征に遣わせば、彼らは罪を免れたことを喜んで争って功を立てようとし、高麗は滅ぼせます」と答えた。帝は不快で、蘇威が退出すると御史大夫の裴蘊が「これは大変な不遜です。天下のどこにそんなに賊がおりましょう」と奏した。帝は「あの老いぼれは狡猾だ。賊をもって私を脅すのだ。その口を叩き潰してやりたいが、まあしばらく我慢しよう」と言った。
- 裴蘊は帝の意を察し、河南の無位の張行本に、蘇威がかつて高陽で人事を掌ったとき濫りに官を授けたこと、突厥を恐れて都に帰ることを請うたことを奏させた。帝は取り調べさせて罪を成立させ、詔で罪状を数え上げて除名し庶民とした。
- 一月余りのち、蘇威が突厥とひそかに不軌を図っているという上奏があり、裴蘊に取り調べさせた。裴蘊は蘇威を死罪としたが、蘇威は弁明のしようもなくただ謝るばかりだった。帝は憐れんで釈放し「すぐに殺すには忍びない」と言い、子孫三代までみな除名とした。
- 秋七月、江都で新造の竜舟が完成し東都に送られた。宇文述が江都行幸を勧め、帝は従った。右候衛大将軍の酒泉の趙才が「今、百姓は疲労し、国庫は空になり、盗賊は蜂起し、禁令も行われません。どうか京師に帰って万民をお安めください」と諫めた。帝は激怒して趙才を吏に付したが、十日ほどで怒りが解けて釈放した。
- 朝臣はみな行幸を望まなかったが、帝の意志は固く、誰も諫めようとしなかった。建節尉の任宗が上書して極諫すると、その日のうちに朝堂で杖殺された。
- 甲子、帝が江都に行幸。越王侗と光禄大夫の段達、太府卿の元文郁、検校民部尚書の韋津、右武衛将軍の皇甫無逸、右司郎の盧楚らに留守の事を総括させた。韋津は韋孝寛の子である。
- 帝は宮人に詩を残して別れた。「我は夢む江都の好きを、遼を征せしも亦た偶然」と。
- 奉信郎の崔民象が盗賊が満ちていることを理由に建国門で上表して諫めると、帝は激怒して、まず顎を外させたうえで斬った。
- 戊辰、馮翊の孫華が挙兵して盗となった。虞世基が盗賊の充満を理由に兵を出して洛口倉に駐屯させるよう請うと、帝は「卿は書生だから、やはり臆病だな」と言った。
- 戊辰、車駕が鞏に至り、有司に箕山公・路の二府を倉内に移させ、あわせて城を築いて不慮に備えさせた。汜水に至ると奉信郎の王愛仁がまた上表して西京への帰還を請い、帝は斬って進んだ。梁郡に至ると郡人が車駕を遮って「陛下がこのまま江都に行幸されるなら、天下は陛下のものではなくなります」と上書し、これも斬った。
- このとき李子通は海陵に拠り、左才相は淮北を掠め、杜伏威は六合に駐屯し、衆はそれぞれ数万。帝は光禄大夫の陳稜に宿衛の精兵八千を率いて討たせ、しばしば勝った。
- 八月乙巳、賊帥の趙万海が衆数十万で恒山から高陽を侵した。
- 冬十月己丑、許恭公の宇文述が没した。もと宇文述の子の化及と智及はいずれも無頼で、化及は東宮で帝に仕えて寵愛され、即位後は太僕少卿となった。帝が楡林に行幸したとき、化及と智及は禁を犯して突厥と交易し、帝は怒って斬ろうとし、衣を脱がせて髪を編ませたが、やがて釈放して宇文述に奴として賜った。智及の弟の士及は公主を娶っていたので常に智及を軽んじ、化及だけが親しくしていた。宇文述が没すると、帝は改めて化及を右屯衛将軍、智及を将作少監とした。
- 韋城の翟譲が亡命して瓦崗で群盗となり、同郡の単雄信が身を寄せ、徒党は一万余に達した。当時ほかに外黄の王当仁、済南の王伯当、韋城の周文挙、雍丘の李公逸らがみな衆を擁して盗となっていた。李密は亡命して諸首領の間を往来し、天下を取る策を説いた。
- 鄱陽の賊帥の操師乞は元興王と自称し始興と建元して豫章郡を陥し、同郷の林士弘を大将軍とした。詔で治書侍御史の劉子翊に討たせたが、操師乞が流れ矢に当たって死に、林士弘が代わってその衆を統べた。彭蠡湖で劉子翊と戦って劉子翊は敗死し、林士弘の兵勢は大いに振るって十余万に達した。
- 十二月壬辰、林士弘が皇帝と自称し、国号を楚、太平と建元し、九江・臨川・南康・宜春などの郡を取った。豪傑は競って隋の守令を殺して郡県ごと呼応し、その領域は北は九江から南は番禺までに及んだ。
- 詔して右驍衛将軍の唐公李淵を太原留守とし、虎賁郎将の王威と虎牙郎将の高君雅を副とした。兵を率いて甄翟児を討ち、雀鼠谷で遭遇した。李淵の衆はわずか数千で、賊が幾重にも囲んだが、李世民が精兵を率いて救い、万衆の中から李淵を救い出した。歩兵が到着して合撃し、大破した。
- 張金称・郝孝徳・孫宣雅・高士達・楊公卿らが河北を掠め、郡県を屠り陥し、隋の将帥は相次いで敗死した。ただ虎賁郎将の王辯と清河郡丞の楊善会だけがしばしば功を立てた。帝は太僕の楊義臣に張金称を討たせ、張金称は側近と清河の東に逃げたが、楊善会が討って捕らえた。残る衆はみな竇建徳に帰した。
- 内史侍郎の虞世基は、帝が盗賊のことを聞くのを嫌ったので、諸将や郡県から敗戦を報じ救援を求める上表があっても、みな表の内容を削り、実情を報告しなかった。ただ「鼠や犬のこそ泥です。郡県が追捕しており、まもなく殲滅されましょう。どうかお気に留められませぬよう」とだけ言った。帝はまことにそうと思い、時にはその使者を杖打って妄言と決めつけた。こうして盗賊が国中に満ち郡県が陥落しても、帝はまったく知らなかった。
- 楊義臣が河北の賊数十万を破って降し、状を列記して奏聞すると、帝は嘆いて「私は賊がこれほどとは初めて聞いた。楊義臣が降した賊はなんと多いことか」と言った。虞世基は「こそ泥は多くても憂うるに足りません。楊義臣がこれを破って、少なからぬ兵を擁して長く国外にいるのが、最もよろしくないのです」と答えた。帝は「卿の言うとおりだ」と言い、ただちに楊義臣を召し返して兵を解散させた。賊はこのため再び盛んになった。
- 治書侍御史の韋雲起が虞世基と御史大夫の裴蘊を弾劾して奏した。二人は枢要の職を典り内外を維持しながら、四方の変事を奏聞せず、賊の数が実際は多いのに減らして少なく言う。陛下は賊が少ないと聞いて発する兵も少なく、衆寡が懸絶して勝てず、そのため官軍は不利となり賊党は日々増えている。有司に付して罪を正されたい、と。大理卿の鄭善果は、韋雲起は名臣を誹謗し、言うところは事実でなく、朝政を毀って妄りに威権を振るっていると奏し、韋雲起は大理司直に左遷された。
- 帝が江都に至ると、江淮の郡官で謁見する者には専ら贈り物の多寡を問い、多ければ丞や守に抜擢し、少なければおおむね免職とした。江東郡丞の王世充は銅鏡の屏風を献じて通守に、歴陽郡丞の趙元楷は珍味を献じて江都郡丞に昇った。こうして郡県は競って搾取して貢献に充てた。
- 民は外は盗賊に掠められ、内は郡県に取り立てられ、生計は残らなかった。加えて飢饉で食がなく、民は樹の皮や葉を採り、藁を搗いて粉にし、土を煮て食べた。それも尽きると互いに食い合ったが、官の食糧はなお満ちあふれていた。吏はみな法を恐れて救おうとしなかった。王世充はひそかに帝のために江淮の民間の美女を選んで献じ、ますます寵を得た。
- 河間の賊帥の格謙は十余万の衆で豆子䴚に拠り、燕王と自称した。帝は王世充に討たせて斬った。格謙の将の勃海の高開道が残衆を収めて燕の地を掠め、軍勢は再び振るった。
恭帝義寧元年(617年)
- 春正月、右禦衛将軍の陳稜が杜伏威を討ったが、杜伏威は奮撃して大破した。杜伏威は勝ちに乗じて高郵を破り、兵を率いて歴陽に拠って総管と自称し、輔公祏を長史とし、諸将を分遣して属県を従えた。行く先々で降り、江淮の小盗は競って身を寄せた。
- 丙辰、竇建徳が長楽王と自称した。
- 辛巳、魯郡の賊帥の徐円朗が東平を攻め陥し、兵を分けて地を略し、琅邪の西から北は東平までをすべて領有し、兵は二万余となった。
- 盧明月が河南から淮北まで掠め、衆は四十万と号し、無上王と自称した。帝は江都通守の王世充に討たせ、南陽で戦って大破し、盧明月を斬った。残衆はみな散った。
- 二月壬午、朔方の鷹揚郎将の梁師都が郡丞の唐世宗を殺して郡に拠り、大丞相と自称して北は突厥と結んだ。馬邑の人の劉武周が太守の王仁恭を殺して太守と自称した。李密と翟譲が興洛倉を襲って破り、翟譲は李密を主に推し、李密は魏公と号して即位し元年と称した。
- 三月、梁師都が雕陰・弘化・延安などの郡を略定し、皇帝の位に即いて国号を梁、永隆と改元した。
- 左翊衛の蒲城の郭子和は罪に連坐して楡林に流されていたが、郡中が大飢饉になると、ひそかに決死の二十八人を結んで郡門を攻め、郡丞の王才を捕らえて百姓を憐れまぬ罪を数えて斬り、倉を開いて施した。永楽王と自称して丑平と改元し、父を太公と尊び、弟の子政を尚書令、子端・子升を左右僕射とした。二千余騎を有し、南は梁師都と連なり北は突厥に付き、それぞれ子を人質に出して身を固めた。始畢は劉武周を定楊天子、梁師都を解事天子、郭子和を平楊天子としたが、郭子和は固辞して受けず、屋利設とされた。
- 夏四月、汾陰の薛挙が金城令の郝瑗を脅して兵を発し、西秦霸王と自称した。
- 李密が衆を率いて回洛倉に拠り東都に迫った。越王侗は太常丞の元善達を賊中を忍んで江都に遣わし、「李密は百万の衆で東都を包囲し、洛口倉に拠っています。城内に食糧はありません。陛下が速やかにお帰りになれば烏合の衆は必ず散りましょう。さもなくば東都は必ず陥ちます」と奏させ、すすり泣いた。帝は顔色を変えた。
- 虞世基が進み出て「越王は年少ゆえ、この者たちに騙されているのです。もしその言のとおりなら、元善達がどうしてここまで来られましょう」と言った。帝は怒って「元善達は小人のくせに、よくも朝廷で私を辱めたな」と言い、賊中を通って東陽に運送を催促に行かせた。元善達はついに群盗に殺された。以後、誰もが口を閉ざして賊のことを奏さなくなった。
- 虞世基は容貌が落ち着いており、言うことが帝の意に合ったので、とりわけ親愛され、朝臣に並ぶ者がなかった。一族はこれを頼んで官を売り裁判を売り、賄賂が公然と行われ、門前は市のようで、朝野はこぞって憎み恨んだ。
- 内史舎人の封徳彝は虞世基に取り入り、虞世基が実務に疎いのでひそかに差配し、詔命を宣行して帝の意に諂順し、群臣の上表で旨に逆らうものはすべて握りつぶして奏さなかった。裁判では厳しい法文で深く追及し、功を論じて賞するときは削って薄くした。虞世基の寵が日に隆んになる一方で隋の政治がますます壊れたのは、みな封徳彝の仕業である。
- 五月甲子、唐公李淵が晋陽で挙兵した。
- 秋七月、李淵が晋陽を発し、郡県に檄を回して代王を尊立する意を諭した。
- 北周の武威鷹揚府司馬の李軌が河西大梁王と自称し、官属を置いたが、いずれも開皇の故事に倣った。薛挙は秦帝と自称し、子の仁杲を太子に立てた。
- 江都にあって帝に従っていた驍果の多くが逃亡し、帝は憂えて裴矩に問うた。裴矩は「人情として伴侶がなければ長く落ち着けません。軍士にここで妻を娶らせてはいかがでしょう」と答え、帝は従った。九月、江都の領内の寡婦と処女をことごとく召して宮下に集め、将士に思うままに取らせ、先に姦通していた者は自首すればそのまま配した。
- 戊午、李淵が諸軍を率いて河東を囲んだが、屈突通が城に籠って守った。李淵は諸将を残して河東を囲ませ、自ら兵を率いて長安に向かった。庚申、諸軍が黄河を渡り、甲子、朝邑に至って長春宮に宿営した。冬十月、李淵が長安に至った。
- 羅川令の蕭銑が梁王と自称した。
- 十一月、李淵が代王を迎えて即位させ、遠く煬帝を太上皇と尊び、李淵は唐王に進封された。
唐高祖武徳元年(618年)――江都の弑逆
- 隋の煬帝は江都に至ってからいっそう荒淫になった。宮中に百余の部屋を作り、それぞれ調度を整えて美人を置き、日ごとに一室を主人とした。江都郡丞の趙元楷が酒饌の供給を掌り、帝は蕭后や寵姫とともに次々に宴飲して回り、酒杯を口から離さず、従う姫十余人も常に酔っていた。
- しかし帝は天下の危乱を見て内心も乱れ落ち着かず、朝が退けると幅巾に短衣で杖をついて歩き回り、台や館を巡り、夜でなければやめなかった。せわしなく影を顧み、なお足りぬかのようだった。
- 帝は自ら占候と人相を解し、呉語を好んだ。ある夜、酒を置いて天文を仰ぎ見、蕭后に「外では大勢が儂を狙っている。だが儂は長城公(陳叔宝)くらいにはなれる。卿も沈后くらいにはなれよう。まあ一緒に楽しく飲もう」と言い、杯を満たして酔い潰れた。またあるとき鏡を見て蕭后を顧み「よい首だ。誰が斬ることになるかな」と言った。后が驚いて理由を問うと、帝は笑って「貴賤も苦楽も入れ替わるものだ。何ということもない」と答えた。
- 帝は中原がすでに乱れたのを見て北に帰る気をなくし、丹楊に都して江東に拠ろうとし、群臣に廷議させた。内史侍郎の虞世基らはみな賛成した。右候衛大将軍の李才は強く不可を述べ、車駕の長安帰還を請い、虞世基と激しく争って退出した。門下録事の衡水の李桐客は「江東は低湿で土地は険しく狭い。内に万乗を養い外に三軍を給すれば、民は堪えられず、やはり散り乱れることになりましょう」と言った。御史が李桐客を朝政誹謗として弾劾した。
- そこで公卿はみな意に阿って「江東の民が行幸を待ち望んで久しゅうございます。陛下が長江を渡って撫し臨まれるのは大禹の事業です」と言った。そこで丹楊宮を修めさせ、遷都しようとした。
- 当時、江都の糧は尽き、従駕の驍果の多くは関中の人で、長く客地にあって郷里を思っていた。帝に西へ向かう意がないのを見て、多くが叛いて帰ることを謀った。郎将の竇賢が部下を率いて西へ走り、帝は騎兵を送って追い斬らせたが、逃亡は止まなかった。帝は憂えた。
- 虎賁郎将の扶風の司馬徳戡は日ごろ帝に寵愛され、驍果を率いて東城に駐屯していた。司馬徳戡は親しい虎賁郎将の元礼、直閤の裴虔通と謀った。今、驍果は誰もが逃げようとしている。私がこれを言上すれば、事が起こる前に誅されよう。言わなければ、後に事が発覚したときやはり族滅を免れぬ。どうしたものか。また関内が陥落したと聞くし、李孝常が華陰で叛いたので上はその弟二人を囚えて殺そうとしている。我らの家族はみな西にいる。同じ心配がないはずがあろうか、と。
- 二人も恐れて「そのとおりだ。どうすればよい」と言い、司馬徳戡は「驍果が逃げるなら、いっそ一緒に行こう」と答え、二人は同意した。こうして次々に人を誘い、内史舎人の元敏、虎牙郎将の趙行枢、鷹揚郎将の孟秉、符璽郎の李覆・牛方裕、直長の許弘仁・薛世良、城門郎の唐奉義、医正の張愷、勲侍の楊士覧らがみな同謀となり、日夜結束し、大勢の前で公然と叛計を論じてはばからなかった。
- 宮人が蕭后に「外では誰もが謀反しようとしています」と告げた。后は「お前が奏上するがよい」と言い、宮人が帝に言うと、帝は激怒して「言うべきことではない」として斬った。その後また宮人が后に告げると、后は「天下の事は一朝にしてここまで来た。救いようがない。言っても何になる。帝を憂えさせるだけだ」と言い、以後、誰も言わなくなった。
- 趙行枢は将作少監の宇文智及と旧知で、楊士覧は智及の甥だった。二人が謀を智及に告げると、智及は大いに喜んだ。司馬徳戡らは三月十五日を期して一党とともに西へ逃げるつもりだったが、智及は「主上は無道でも威令はなお行われている。卿らが逃げても竇賢のように死ぬだけだ。今や天は実に隋を滅ぼし、英雄が並び起こっている。心を同じくして叛く者はすでに数万。これに乗じて大事を行えば帝王の業となる」と言い、司馬徳戡らも同意した。趙行枢と薛世良は、智及の兄で右屯衛将軍の許公宇文化及を主に立てることを請うた。
- 約が定まってから宇文化及に告げると、化及は臆病な性質で、聞いて色を変え汗を流したが、やがて従った。
- 司馬徳戡は許弘仁と張愷を備身府に入れ、顔見知りに「陛下は驍果が叛こうとしていると聞いて毒酒を多く醸させ、宴の席で毒殺し、南方の人だけを連れてここに留まろうとしている」と言わせた。驍果はみな恐れて言い触らし、謀反の動きはいっそう急になった。
- 乙卯、司馬徳戡は驍果の軍吏をことごとく召して計画を告げ、みな「将軍の命に従います」と言った。この日は砂塵で昼も暗かった。夕刻、司馬徳戡は御厩の馬を盗み、ひそかに刃を研いだ。その夜、元礼と裴虔通は直閤の下で殿内を専ら管掌し、唐奉義は城門の閉鎖を掌っていたので裴虔通と示し合わせて諸門にみな鍵をかけなかった。
- 三更、司馬徳戡が東城に兵を集めて数万を得、火を挙げて城外と呼応した。帝は火を見、外の騒ぎを聞いて何事かと問うた。裴虔通は「草の置き場が火事になり、外の者が消火しているだけです」と答えた。当時、内外は隔絶していたので帝は信じた。
- 智及と孟秉は城外で千余人を集め、候衛虎賁の馮普楽を捕らえ、兵を配して街路を守らせた。燕王倓は異変に気づき、夜に芳林門の脇の水路の穴から入り、玄武門に至って「にわかに中風になって命が旦夕に迫っております。直接お別れを申し上げたい」と偽って奏したが、裴虔通らは取り次がず捕らえて囚えた。
- 丙辰、まだ明けぬうちに、司馬徳戡が裴虔通に兵を授けて諸門の衛士と交代させた。裴虔通は門から数百騎を率いて成象殿に至り、宿衛の者が「賊だ」と叫び伝えた。裴虔通は引き返して諸門を閉じ、東門だけを開けて殿内の宿衛の者を追い出すと、みな武器を投げて逃げた。
- 右屯衛将軍の独孤盛が裴虔通に「何の兵だ。形勢が尋常でない」と言うと、裴虔通は「事はすでにこうなった。将軍には関わりない。動かないでいただきたい」と答えた。独孤盛は大声で罵り「老いぼれ賊め、何を言うか」と言い、甲を着ける間もなく側近十余人と防戦して乱兵に殺された。独孤盛は独孤楷の弟である。
- 千牛の独孤開遠が殿内の兵数百人を率いて玄覧門に至り、扉を叩いて「武器はまだそろっており、賊を破れます。陛下が出て戦いに臨まれれば人心は自ずと定まります。さもなくば禍はただちに至ります」と請うたが、応ずる者はなく、軍士も次第に散った。賊は独孤開遠を捕らえたが、その義を認めて釈放した。
- これより先、帝は屈強な官奴数百人を選んで玄武門に置き「給使」と呼んで非常に備え、優遇して宮人まで与えていた。司宮の魏氏は帝に信任されていたが、化及らが結んで内応させた。この日、魏氏は詔と偽って給使をすべて外出させ、急変のとき一人も残っていなかった。
- 司馬徳戡らが玄武門から兵を入れた。帝は乱を聞いて服を替え西閣に逃げた。裴虔通と元礼が兵を進めて左閤を押し開こうとすると魏氏が開き、そのまま永巷に入って「陛下はどこだ」と問うた。ある美人が出て指し示し、校尉の令狐行達が刀を抜いて進んだ。帝は窓の戸に身を寄せて「私を殺すつもりか」と言い、令狐行達は「そんな畏れ多いことはいたしません。ただ陛下を奉じて西に還りたいだけです」と答え、帝を抱えて閣から下ろした。
- 裴虔通はもと帝が晋王だったころの親信の側近だった。帝はこれを見て「卿は私の旧知ではないか。何を恨んで反したのか」と言った。裴虔通は「私は反したのではありません。ただ将士が帰郷を望み、陛下を奉じて京師に還りたいだけです」と答えた。帝は「朕もちょうど帰ろうとしていた。上江の米船が来ないだけだ。今、お前たちと帰ろう」と言い、裴虔通は兵を配して見張らせた。
- 夜明け、孟秉が甲騎で宇文化及を迎えた。化及は震えて口も利けず、挨拶に来る者があってもただ首を垂れて鞍にもたれ「申し訳ない」と言うばかりだった。化及が城門に至ると司馬徳戡が迎えて朝堂に導き入れ、丞相と号した。
- 裴虔通は帝に「百官がみな朝堂におります。陛下は自ら出て慰労なさるべきです」と言い、従者の馬を進めて無理に乗せようとした。帝は鞍と手綱が古びているのを嫌い、新しいものに替えさせてから乗った。裴虔通が轡を執り、刀を挟んで宮門を出た。賊徒は喜んで地を揺るがすほど騒ぎ、化及は「こんな物を出して何になる。早く戻して始末しろ」と言い放った。
- 帝が虞世基はどこかと問うと、賊党の馬文挙が「すでに梟首しました」と答えた。そこで帝を引いて寝殿に戻し、裴虔通・司馬徳戡らが白刃を抜いて侍立した。
- 帝が「私に何の罪があってここまで」と嘆くと、馬文挙は言った。陛下は宗廟を捨てて巡遊をやめず、外は征討に励み内は奢淫を極め、壮丁は矢と刃に尽き、女子供は溝や谷に埋まり、四民は生業を失い、盗賊が蜂起した。佞人ばかりを用い、非を飾って諫めを拒んだ。どうして罪がないと言えましょう、と。
- 帝は「私はまことに百姓に負い目がある。だがお前たちに対しては栄禄を極めさせてやった。なぜこうするのか。今日のことの首謀は誰だ」と言い、司馬徳戡は「天下こぞって怨んでいます。一人ではありません」と答えた。
- 化及がまた封徳彝に帝の罪を数えさせた。帝は「卿は士人であろう。なぜお前までそうするのか」と言い、封徳彝は赤面して退いた。
- 帝の愛子の趙王杲は十二歳で帝の側におり、号泣してやまなかった。裴虔通が斬り、血が帝の衣に飛び散った。
- 賊が帝を弑そうとすると、帝は「天子の死には法がある。刃を加えてよいものか。鴆酒を持ってこい」と言ったが、馬文挙らは許さず、令狐行達に帝を押さえて座らせた。帝は自ら練の巾を解いて令狐行達に渡し、縊り殺された。
- もと帝は必ず難に遭うと知っており、常に甕に毒薬を貯えて携え、寵姫たちに「賊が来たらお前たちが先に飲め。その後で私が飲む」と言っていた。乱のとき薬を探させたが、側近はみな逃げ散っており、ついに得られなかった。蕭后と宮人が漆塗りの寝台の板を外して小さな棺を作り、趙王杲とともに西院の流珠堂に殯した。
- 帝は巡幸のたび蜀王秀を随行させ、驍果の営に囚えていた。化及は帝を弑してから秀を立てようとしたが、衆議が不可としたので、秀とその七人の子を殺した。また斉王暕とその二子、および燕王倓を殺した。隋の宗室・外戚は老幼を問わずみな死んだ。ただ秦王浩だけは日ごろ智及と往来があり、計らってもらって助かった。
- 斉王暕は日ごろ帝の愛を失い、常に互いに猜疑していた。帝は乱を聞いて蕭后を顧み「阿孩(暕)ではないか」と言った。化及が人を邸に遣わして暕を誅そうとすると、暕は帝の使者が捕らえに来たと思い「詔使よ、少し待たれよ。私は国家に背いてはおらぬ」と言った。賊は街路に引きずり出して斬った。暕はついに殺したのが誰か知らぬまま、父子は死ぬまで互いに誤解を解けなかった。
- また内史侍郎の虞世基、御史大夫の裴蘊、左翊衛大将軍の来護児、秘書監の袁充、右翊衛将軍の宇文協、千牛の宇文皛、梁公の蕭鉅らとその子を殺した。蕭鉅は蕭琮の弟の子である。
- 乱が起ころうとするとき、江陽長の張恵紹が馳せて裴蘊に告げた。裴蘊は張恵紹と、詔を偽って城下の兵を動員し化及らを捕らえ、門を叩いて帝を救う計画を立てた。議が定まって虞世基に知らせたが、虞世基は謀反の通報が事実でないと疑って抑え、許さなかった。まもなく乱が起こり、裴蘊は「播郎(虞世基)などに謀ったのが、結局は事を誤らせた」と嘆いた。
- 虞世基の一族の虞伋が、世基の子で符璽郎の虞熙に「事勢はもうこうなった。私はお前を南へ逃がしてやろう。一緒に死んで何になる」と言った。虞熙は「父を捨て君に背いて、どこに生を求めましょう。お心には感謝しますが、ここでお別れです」と答えた。虞世基の弟の虞世南は世基を抱いて号泣し、身代わりを請うたが、化及は許さなかった。
- 黄門侍郎の裴矩は必ず乱があると察し、下働きにまで厚く接し、また驍果に妻を娶らせる策を建てていた。乱が起こると賊はみな「裴黄門の罪ではない」と言った。やがて化及が来ると、裴矩は馬の前に出て迎え拝したので免れた。
- 化及は蘇威が朝政に与っていなかったので免じた。蘇威は名望が重く、化及のもとに出向くと、化及は衆を集めて会い、格別の礼を尽くした。
- 百官がこぞって朝堂に賀に赴いたが、給事郎の許善心だけは行かなかった。許弘仁が駆けつけて「天子はすでに崩じ、宇文将軍が政を摂している。全朝の文武はみな集まった。天道も人事も代替わりするもの。あなたに何の関わりがあって、こう躊躇されるのか」と告げたが、許善心は怒って行こうとしなかった。許弘仁は走って馬に乗り、泣きながら去った。
- 化及は人を家に遣わして許善心を朝堂に引き出し、やがて釈放した。許善心が舞踏の礼をせずに退出したので、化及は怒って「この男はひどく我を張る」と言い、また捕らえて殺した。母の范氏は九十二歳で、棺を撫でて哭かず「国難に死ねたのだから、私には子があったというものだ」と言い、臥して食を断ち、十余日で没した。
- 唐王が関に入ったとき、張季珣の弟の張仲琰は上洛令として吏民を率いて拒み守ったが、部下に殺されて降った。宇文化及の乱では、仲琰の弟の張琮が千牛左右で化及に殺された。兄弟三人がみな国難に死に、時の人は恥じ入った。
- 化及は大丞相と自称して百官を統べ、皇后の令をもって秦王浩を帝に立て、別宮に置き、詔を発し勅書に署名させるだけにして、兵に監視させた。弟の智及を左僕射、士及を内史令、裴矩を右僕射とした。
- 戊辰、隋の恭帝が詔して唐王を相国とし百官を統べさせた。
- 宇文化及は左武衛将軍の陳稜を江都太守として留守の事を統べさせた。壬申、内外に戒厳を命じ、長安に還ると称した。皇后と六宮はみな旧式のとおり御営とし、営の前に別に帳を立てて化及がそこで政務を執った。武装と部隊編成はすべて天子に擬した。江都の人の舟を奪い、彭城経由の水路で西に帰ろうとした。
- 折衝郎将の沈光は驍勇なので給使を率いさせ、禁中に営を置かせた。顕福宮まで来たとき、虎賁郎将の麦孟才と虎牙郎の銭傑が沈光と謀り「我らは先帝の厚恩を受けながら、今は首を垂れて仇に仕え、その指図を受けている。どの面下げて世に息をしていられよう。私は必ずこれを殺す。死んでも悔いはない」と言った。沈光は泣いて「まさに将軍にそれを望んでおりました」と言った。
- 麦孟才は恩顧を受けた旧臣を糾合し、率いる数千人で、朝、出発しようとするときに化及を襲う手はずを決めた。しかし話が漏れ、化及は夜のうちに腹心と営外に逃げ出し、人を残して司馬徳戡らに告げて討たせた。沈光は営内の騒ぎを聞いて発覚を知り、ただちに化及の営を襲ったが空で何も得られず、内史侍郎の元敏に出くわして罪を数えて斬った。司馬徳戡が兵を率いて包囲し沈光を殺した。麾下の数百人はみな戦って死に、一人も降らなかった。麦孟才も死んだ。麦孟才は麦鉄杖の子である。
- 宇文化及は十余万の衆を擁し六宮を占め、自らの生活はすべて煬帝と同じにした。いつも帳中で南面して座り、事を申し出る者があっても黙って答えず、退いてから書状を取り、唐奉義・牛方裕・薛世良・張愷らと合議して決めた。幼主の浩は尚書省に預け、衛士十余人に守らせ、令史を遣って署名した勅を取ってこさせ、百官はもはや朝参しなかった。
- 彭城に至ると水路が通じず、また民の車と牛を奪って二千両を得、宮人と珍宝を載せた。武器や甲は軍士に背負わせた。道は遠く疲れ果て、軍士は不満を抱き始めた。
- 司馬徳戡はひそかに趙行枢に「君は私をひどく誤らせた。今、乱を収めるには必ず英賢に頼らねばならぬ。化及は凡庸暗愚で、小人ばかりが側にいる。事は必ず失敗する。どうしたものか」と言った。趙行枢は「我らの手中にある。廃するのに何の難しいことがあろう」と答えた。
- はじめ化及は権を握ると司馬徳戡に温国公の爵を賜り光禄大夫を加えたが、驍果を専ら統べていることを内心忌んだ。数日後、化及は諸将を任命して士卒を分配し、司馬徳戡を礼部尚書とした。表向きは栄転だが実は兵権の剥奪である。司馬徳戡は憤って、得た賞賜をすべて智及に贈った。智及が取りなして、後軍一万余人を率いて従うことになった。
- そこで司馬徳戡と趙行枢は諸将の李本・尹正卿・宇文導師らと謀り、後軍で化及を襲って殺し、司馬徳戡を主に立てることとし、人を孟海公に遣わして外の助けを頼んだ。孟海公の返答を待って引き延ばしているうちに、許弘仁と張愷がこれを知って化及に告げた。
- 化及は宇文士及を遊猟に見せかけて後軍に遣わした。司馬徳戡は露見を知らず、営を出て迎え拝したところを捕らえられた。化及は責めて「公と力を合わせて海内を定め、万死を出でて今ようやく事が成り、ともに富貴を守ろうというのに、公はまた反するのか」と言った。司馬徳戡は「もともと昏君を殺したのはその淫虐に苦しんだからで、足下を推し立てたのに、いっそうひどい。人心に迫られてやむを得なかったのだ」と答えた。化及は縊り殺し、その一党十余人も殺した。
- 孟海公は化及の強さを恐れ、衆を率いて牛と酒を用意して迎えた。
- 蕭銑が皇帝の位に即き、梁室の故事に準じて百官を置いた。
- 煬帝の凶報が長安に届き、五月戊午、隋の恭帝が唐に禅位した。甲子、唐王が皇帝の位に即いた。
- 戊辰、東都の留守の官が越王を奉じて皇帝の位に即かせ、大赦して皇泰と改元した。乙酉、唐が隋帝を酅国公とした。
- 宇文化及は輜重を滑台に留め、王軌を刑部尚書として守らせ、兵を率いて黎陽に向かった。李密の将の徐世勣は黎陽に拠っていたが、その軍鋒を恐れて西の倉城に退いて守った。化及は黄河を渡って黎陽を確保し、兵を分けて徐世勣を囲んだ。李密は歩騎二万を率いて清淇に塁を築き、徐世勣と烽火で連絡し、堀を深く塁を高くして化及と戦わなかった。化及が倉城を攻めるたび、李密は兵を出してその背後を牽制した。
- 李密が化及と水を隔てて話し、罪を数えて言った。卿はもと匈奴の下僕、破野頭にすぎぬ。父兄子弟がそろって隋の恩を受け、代々富貴を極め、朝廷に並ぶ者もなかった。主上が徳を失っても諫死できず、かえって弑逆を行って簒奪を企む。諸葛瞻の忠誠に倣わず、霍禹の悪逆をなした。天地の容れぬところ、どこへ行こうというのか。速やかに私に帰順すれば、まだ後嗣を全うできよう、と。
- 化及は黙って俯き、長らくして目を怒らせて大声で「お前と殺し合いの話をしているのに、なぜ書物の文句など並べるのか」と言った。李密は従者に「化及は凡庸愚劣でこの程度だ。それで帝王になろうとしている。私は杖を折って追い立ててやるまでだ」と言った。
- 化及は攻城具を整えて倉城に迫った。徐世勣は城外に深い溝を掘って固守し、化及は塹壕に阻まれて城下に至れなかった。徐世勣は塹壕の中に地道を掘って兵を出して撃ち、化及は大敗して攻城具を焼いた。
- このとき李密が降伏を請い、皇泰主は先に化及を平らげよと詔書を賜った。李密は詔を受けて東に化及を撃ち、王軌が李密に降った。化及は大いに恐れ、以北の諸郡を取ろうとしたが、将の陳智略らはみな降り、化及は魏県に向かった。
- 秋八月、隋の江都太守の陳稜が煬帝の柩を探し出し、天子の儀衛を備えて江都宮の西の呉公台の下に改葬した。王公以下もみな帝の墓の側に並べて埋葬した。
- 九月辛未、隋の太上皇に煬帝と諡を追贈した。
- 宇文化及が魏県に至ると、張愷らが離反を謀り、露見して化及に殺された。腹心は次第に尽き、兵勢は日に窮したが、兄弟には他に策もなく、集まって酒宴し女楽を奏させるばかりだった。
- 化及は酔って智及を責めた。私は初め知らなかったのに、お前の計画で無理に私を立てた。今は何をしても成らず、士馬は日々散り、君を弑した汚名を負って天下に容れられぬ。今、族滅されるのは、お前のせいではないか、と。そして二人の子を抱いて泣いた。智及は怒って「事が成ったときは咎めもせず、敗れかけたら罪を着せるのか。いっそ私を殺して竇建徳に降ればよい」と言った。しばしば言い争い、言葉に長幼の別もなく、醒めればまた飲む有様が続き、その衆の多くが逃亡した。
- 化及は敗北を悟り「人はどうせ死ぬものだ。せめて一日でも帝になれぬものか」と嘆き、秦王浩を毒殺して魏県で皇帝の位に即き、国号を許、天寿と改元して百官を置いた。
- 冬十月丙戌、皇泰主が王世充を太尉とした。
武徳二年(619年)
- 春正月戊午、淮安王神通が魏県で宇文化及を撃った。化及は抗しきれず東の聊城へ走った。神通は魏県を抜き、兵を率いて化及を追って聊城に至り、包囲した。
- 閏二月、宇文化及は珍貨で海沿いの諸賊を誘い、賊帥の王薄が衆を率いて従い、ともに聊城を守った。
- 竇建徳は配下に「私は隋の民であり、隋は私の君であった。今、宇文化及は弑逆を犯した。私の仇である。討たぬわけにはいかぬ」と言い、兵を率いて聊城に向かった。
- 淮安王神通が聊城を攻め、化及は糧が尽きて降伏を請うたが、神通は許さなかった。安撫副使の崔世幹が許すよう勧めると、神通は「軍士は久しく野営し、賊は食が尽きて策も尽きた。陥落は旦夕にある。私は攻め取って国威を示し、その玉帛を分けて戦士を労いたい。降伏を受け入れたら、何を軍の賞にするのか」と言った。
- 崔世幹は「今、竇建徳が来つつあります。化及を平らげぬうちに内外から敵を受ければ、我が軍は必ず敗れます。攻めずに下すのは功として容易なのに、なぜ玉帛を貪って受けないのですか」と言い、神通は怒って軍中に囚えた。
- まもなく宇文士及が済北から糧を送り、化及の軍はやや持ち直して再び抗戦した。神通が兵を督して攻め、貝州刺史の趙君徳が城壁をよじ登って先に上ったが、神通はその功を妬んで兵を収めて戦わず、趙君徳は大いに罵って下り、ついに落とせなかった。
- 竇建徳の軍が迫ると神通は兵を引いて退いた。竇建徳は化及と連戦して大破し、化及は再び聊城に籠った。竇建徳が四面から急攻すると、王薄が門を開いて迎え入れた。竇建徳は入城して化及を生け捕った。
- 竇建徳はまず隋の蕭皇后に謁して言葉はすべて臣と称し、素服で煬帝を哭して哀を尽くし、伝国の璽と鹵簿・儀仗を収め、隋の百官を慰撫した。そのうえで逆党の宇文智及・楊士覧・元武達・許弘仁・孟景を捕らえ、隋の旧官を集めて斬り、軍門の外に梟首した。化及と二子の承基・承趾は檻車に載せて襄国に送り、斬った。
- 夏四月癸卯、王世充が皇泰主の命と称して鄭に禅位させ、兄の世惲に皇泰主を含涼殿に幽閉させた。戊申、世充は皇泰主を潞国公とした。乙巳、王世充が皇帝の位に即いた。
- 五月、王世充は兄の子の唐王仁則と家奴の梁百年を遣わして皇泰主に毒を盛り、縊り殺した。諡を恭皇帝という。