通鑑紀事本末隋、高句麗を討つ(隋討高麗)

隋の文帝が高麗王の湯・元に璽書で臣従を責め、遼西侵入を機に漢王諒・王世積の水陸三十万を出したが、長雨と疫病と暴風で十中八九を失って和した経緯から始まる。煬帝は裴矩の説を容れて入朝を迫り、応じない高麗に対して三度の親征を行う。大業八年の第一次遠征は百十三万を動員しながら、降伏の受理を独断させぬ勅と兵糧の不足に阻まれ、乙支文徳の詐降と薩水の潰走で九軍三十万五千が二千七百に減じた。第二次は楊玄感の乱で全軍を捨てて退き、第三次は天下の乱れと高麗の疲弊のなか、来護児の進撃を前に高麗が降を乞うて終わったが、王元はついに入朝しなかった。

年表(7件)

隋文帝開皇十七年(597年)

  • 高麗王の湯(平原王)は陳の滅亡を聞いて大いに恐れ、兵を整え穀を蓄えて防戦の策とした。
  • この年、隋主が湯に璽書を賜って責めた。藩臣と称しながら誠節を尽くしていない。そちらの地は狭く人も少ないが、今もし王を退けても空位にはできず、結局は官属を選んで現地の安撫に当たらせねばならない。王が心を洗って行いを改め、法度に従うなら、それは朕の良臣であり、わざわざ人材を派遣する必要もない。王は遼水の広さを長江と比べてどう思うか。高麗の人数は陳国と比べてどうか。朕が包容の心を持たなければ、王の前非を責めるのに将軍一人を命ずれば足り、多くの力を要しない。懇切に告げるのは、王に自新を許すためである、と。
  • 湯は書を得て恐れ、上表して謝罪しようとしたが、たまたま病没した。子の元(嬰陽王)が立ち、隋主は使者を送って元を上開府儀同三司とし、遼東公の爵を継がせた。元は上表して謝恩し、あわせて王に封ずるよう請い、隋主は許した。

開皇十八年(598年)

  • 春二月、高麗王元が靺鞨の兵一万余を率いて遼西を侵し、営州総管の韋沖が撃退した。隋主は聞いて激怒し、乙巳、漢王諒と王世積をともに行軍元帥とし、水陸三十万で高麗を伐たせ、尚書左僕射の高熲を漢王の長史、周羅睺を水軍総管とした。
  • 夏六月丙寅、詔して高麗王元の官爵を剥奪した。
  • 漢王諒の軍は臨渝関を出たところで長雨に遭い、輸送が続かず軍中は食糧を欠き、加えて疫病に見舞われた。周羅睺は東萊から海路で平壌に向かったが、これも暴風に遭って船の多くが沈んだ。
  • 秋九月己丑、軍が帰還したが、死者は十中八、九に及んだ。高麗王元も恐れて使者を送って謝罪し、「遼東糞土の臣元、上る」と上表した。そこで隋は兵を収め、以前どおりに待遇した。
  • 百済王の昌が使者を送り、上表して軍の道案内を務めたいと請うた。帝は詔で、高麗は罪に服したので朕はすでに赦した、討伐はできぬと諭し、その使者を厚遇して帰らせた。高麗はこのことを知り、兵で百済の領内を侵した。

煬帝大業六年(610年)

  • 帝が啓民の帳に行幸したとき、高麗の使者が啓民のもとにいた。啓民は隠せず、使者を帝に会わせた。
  • 黄門侍郎の裴矩が帝に説いた。高麗はもと箕子の封ぜられた地で、漢晋の時代はいずれも郡県だった。今、臣従せず別の異域となっている。先帝は久しく征したいと思われたが、楊諒が不肖で出師しても功がなかった。陛下の御代にどうしてこれを取らずにおけましょう。冠帯の地を蛮貊の郷とさせておいてよいでしょうか。今、その使者は啓民が国を挙げて教化に従うのを目の当たりにしています。その恐れに乗じて脅し、入朝させるべきです、と。帝は従った。
  • 牛弘に趣旨を宣させた。朕は啓民が誠心をもって国に仕えているので、自ら帳を訪れた。来年は涿郡に行く。お前は帰ったら高麗王に、早く来朝せよ、疑い恐れることはない、存立を保たせる礼は啓民と同じにする、と伝えよ。もし来朝しなければ、啓民を率いてそちらの地を巡ることになろう、と。
  • 高麗王元は恐れて藩臣の礼をかなり欠いた。帝は討とうとして、天下の富人に武用の馬を買わせ、十万匹に達した。武器を検閲し、精良で新しいものを求め、粗悪なものがあれば使者がその場で斬った。

大業七年(611年)

  • 春二月乙亥、帝が江都から涿郡に行幸。壬午、詔を下して高麗を討つこととし、幽州総管の元弘嗣に東萊の海口で船三百艘を造らせた。官吏の督促が厳しく、工人は昼夜水中に立って休む間もなく、腰から下にことごとく蛆がわき、死者は十中三、四に及んだ。
  • 夏四月庚午、車駕が涿郡の臨朔宮に至り、九品以上の文武の従官にはみな宅を給して住まわせた。
  • これに先立ち、天下の兵を遠近を問わず徴発して涿郡に集めるよう詔していた。また江淮以南の水手一万人、弩手三万人、嶺南の排鑹手三万人を徴発し、四方から流れるように駆けつけた。
  • 五月、河南・淮南・江南に戎車五万乗を造らせて高陽に送り、衣甲や幔幕を積ませ、兵士自身に牽かせた。黄河南北の民夫を徴発して軍需に充てた。
  • 秋七月、江淮以南の民夫と船を徴発し、黎陽および洛口の諸倉の米を涿郡へ運ばせた。船は千余里に連なり、武器や攻城具を積み、往復の道中には常に数十万人がひしめき、昼夜絶えず、死者が折り重なって悪臭が道に満ち、天下は騒然となった。

大業八年(612年)――第一次遠征

  • 春正月、四方の兵がみな涿郡に集まった。帝は合水令の庾質を召して「高麗の兵は我が一郡にも及ばぬ。今この兵で伐てば勝てると思うか」と問うた。庾質は「伐てば勝てましょう。ただ愚見ながら、陛下御自身の親征は望みません」と答えた。
  • 帝が色をなして「朕が今、全軍を率いてここまで来て、賊も見ぬうちに退けようか」と言うと、庾質は「戦って勝てなければ威霊を損なうことを恐れます。車駕はここに留まり、猛将と精兵に方略を授け、道を倍して急進し不意を突けば必ず勝てます。事の機は速さにあり、緩めば功はありません」と答えた。帝は不快になり「お前が行くのを憚るなら、ここに留まればよい」と言った。
  • 右尚方署監事の耿詢が上書して切に諫めると、帝は激怒して斬れと命じたが、何稠が必死に救って免れた。
  • 壬午、詔して左十二軍は鏤方・長岑・溟海・蓋馬・建安・南蘇・遼東・玄菟・扶余・朝鮮・沃沮・楽浪などの道から、右十二軍は黏蟬・含資・渾弥・臨屯・候城・提奚・蹋頓・粛慎・碣石・東暆・帯方・襄平などの道から出し、次々に進んで平壌に総集結させることとした。総勢百十三万三千八百人、二百万と号し、輸送に当たる者はその倍だった。
  • 南の桑乾水のほとりで社に宜祭し、臨朔宮の南で上帝に類祭し、薊城の北で馬祖を祭った。帝が自ら節度を授けた。各軍に大将・亜将各一人、騎兵四十隊(一隊百人、十隊で一団)、歩卒八十隊を四団に分け、団ごとに偏将一人を置いた。鎧兜・纓・払・旗旛は団ごとに色を変えた。受降使者一人を置き、詔を承けて慰撫に当たり、大将の指揮を受けない。輜重や散兵も四団とし、歩卒に挟ませて進ませた。進退や設営にはすべて順序と儀法があった。
  • 癸未、第一軍が出発し、以後、日に一軍ずつ、四十里の間隔で営を連ねて進み、四十日かけてすべて出発した。首尾が相継ぎ、鼓角が互いに聞こえ、旌旗は九百六十里に亘った。御営内は十二衛・三台・五省・九寺を内外に分属させ、前後左右の六軍がその後に出発し、さらに八十里に亘った。近来これほど盛大な出師はなかった。
  • 二月、段文振を左候衛大将軍として南蘇道から出したが、道中で病が重くなり上表した。遼東の小賊が厳刑に服さず、はるばる六師を降し、万乗を煩わせております。しかし夷狄は詐りが多く、深く警戒が必要です。口先の降伏を安易に受け入れてはなりません。雨季が近づいており、長引かせてはなりません。ただ諸軍を厳しく督励し、星のごとく速やかに発し、水陸ともに進んで不意を突けば、平壌の孤城は抜けましょう。根本を倒せば他の城は自ずと落ちます。時に定まらず秋の長雨に遭えば、きわめて困難になります。兵糧が尽き、前に強敵、後ろに靺鞨が出れば、遅疑逡巡は上策ではありません、と。三月辛卯、段文振が没し、帝は深く惜しんだ。
  • 癸巳、帝が初めて軍を進め、遼水に至った。諸軍が総集結して水に臨んで大陣を布いた。高麗兵は水を隔てて拒み、隋兵は渡れなかった。
  • 左屯衛大将軍の麦鉄杖は人に「男子の性命には行き場所があるものだ。艾で額を灸り、瓜蔕を鼻に吹き入れて黄疸を治しても治らず、女子供の手の中で死ねるものか」と言い、自ら先鋒を願い出て、三人の子に「私は国恩を負い、今日が死ぬ日だ。私がうまく死ねば、お前たちは富貴になれる」と言った。
  • 帝は工部尚書の宇文愷に遼水の西岸で浮橋三道を造らせた。完成して橋を東岸に寄せたが、橋が短く岸まで一丈余り足りなかった。高麗兵が大挙して来襲し、隋の勇敢な兵は争って水に入って接戦したが、高麗兵が高所から撃ったので上陸できず、死者が多かった。麦鉄杖は跳んで岸に上がり、虎賁郎将の銭士雄・孟乂らとともに戦死した。そこで兵を収めて橋を西岸に引き戻した。詔で麦鉄杖に宿公を追贈し、子の孟才に爵を継がせ、次子の仲才・季才をともに正議大夫とした。
  • 改めて少府監の何稠に橋を継がせ、二日で完成した。諸軍が次々に進んで東岸で大戦し、高麗兵は大敗して死者は万を数えた。諸軍は勝ちに乗じて遼東城を包囲した。漢の襄平城である。
  • 車駕は遼水を渡り、曷薩那可汗と高昌王の伯雅を引き連れて戦を見物させ、威を示して恐れさせた。詔して天下に赦し、刑部尚書の衛文昇と尚書右丞の劉士竜に遼左の民を撫でさせ、十年の課役を免じ、郡県を置いて統治させた。
  • 諸将が東下する際、帝は自ら戒めた。今回は民を弔い罪を伐つのであって、功名のためではない。諸将の中には朕の意を解さず、軽兵で襲撃し孤軍で戦って一身の名を立て勲賞を求めようとする者があるかもしれぬが、それは大軍の作法ではない。公らは軍を三道に分けて進め、攻撃するときは必ず三道が連絡し合え。軽々しく単独で進んで損失を招くな。また軍事の進退はすべて奏聞して返答を待て。独断は許さぬ、と。
  • 遼東はしばしば出戦して不利となり、城に籠って固守した。帝は諸軍に攻撃させたが、また諸将に「高麗が降ればすぐに受け入れて撫で、兵を放ってはならぬ」と勅した。
  • 遼東城が陥ちかけるたび城中の者が降伏を申し出た。諸将は勅を奉じて機に乗じることができず、まず早馬で奏上し、返答が届くころには城中の守備も整い、再び出て戦った。これが二度三度繰り返されたが、帝はついに悟らなかった。
  • こうして城は久しく落ちず、六月己未、帝は遼東城の南に赴いて城池の形勢を見、諸将を召して詰責した。公らは官位が高いのと家柄を恃んで、私を暗愚で軟弱と侮っているのか。都にいたころ、公らはみな私が来るのを望まなかった。敗北を見られるのを恐れたからだろう。私が今ここに来たのは、まさに公らの所業を見て、公らを斬るためだ。公らは今、死を恐れて力を尽くさぬが、私が公らを殺せぬとでも思っているのか、と。諸将はみな震えて色を失った。
  • 帝は城の西数里に留まって六合城に居した。高麗の諸城はそれぞれ堅く守って落ちなかった。
  • 右翊衛大将軍の来護児は江淮の水軍を率い、船が数百里に連なって海を渡って先に進み、浿水から入って平壌の六十里手前で高麗と遭遇し、進撃して大破した。来護児は勝ちに乗じて城に迫ろうとし、副総管の周法尚が諸軍の到着を待って共に進むべきだと止めたが、聞かずに精鋭四万を選んで城下に迫った。
  • 高麗は羅郭内の空寺に伏兵を置き、兵を出して来護児と戦って偽って敗れた。来護児が追って城に入り、兵を放って掠奪させて隊列が乱れたところで伏兵が起こり、来護児は大敗してかろうじて逃れ、帰還した士卒は数千に過ぎなかった。高麗が船まで追ってきたが、周法尚が陣を整えて待ち構えたので退いた。来護児は兵を引いて海浦に駐屯し、以後は諸軍と連携する余裕を持てなかった。
  • 左翊衛大将軍の宇文述は扶余道、右翊衛大将軍の于仲文は楽浪道、左驍衛大将軍の荆元恒は遼東道、右翊衛将軍の薛世雄は沃沮道、右屯衛将軍の辛世雄は玄菟道、右禦衛将軍の張瑾は襄平道、右武候将軍の趙孝才は碣石道、涿郡太守検校左武衛将軍の崔弘昇は遂城道、検校右禦衛虎賁郎将の衛文昇は増地道から出て、みな鴨緑水の西に集結した。
  • 宇文述らの兵は瀘河・懐遠の二鎮から人馬に百日分の糧を給され、加えて排甲・槍矟・衣類・武具・火幕を給された。一人あたり三石以上となり、重くて担ぎきれない。そこで軍中に「米粟を捨てた者は斬る」と令したので、士卒はみな幕の下に穴を掘って埋めた。中途に至るころには糧はほぼ尽きていた。
  • 高麗は大臣の乙支文徳をその陣営に送って偽って降らせ、実は虚実を探らせた。于仲文はあらかじめ密勅を受けており、高元や乙支文徳が来たら必ず捕らえよと命じられていた。于仲文が捕らえようとしたが、尚書右丞で慰撫使の劉士竜が固く止めたので、于仲文は乙支文徳を帰した。
  • 于仲文はすぐ後悔し、人をやって「まだ話がある。もう一度来られよ」と偽ったが、乙支文徳は振り返らず鴨緑水を渡って去った。
  • 乙支文徳を逃した于仲文と宇文述は内心落ち着かなかった。宇文述は糧が尽きたので帰還しようとしたが、于仲文は精鋭で乙支文徳を追えば功を立てられると主張した。宇文述が強く止めると、于仲文は怒って「将軍は十万の兵を擁しながら小賊を破れぬ。どの面下げて帝にまみえるのか。しかも私はこの遠征に功がないと初めから分かっている。なぜなら、古の良将が功を成し得たのは、軍中の事の決定が一人にあったからだ。今は人それぞれに心があり、どうして敵に勝てようか」と言った。当時、帝は于仲文に計画性があるとして諸軍にその節度を仰がせていたので、こう言ったのである。
  • そこで宇文述らはやむを得ず従い、諸将とともに水を渡って乙支文徳を追った。乙支文徳は宇文述の兵に飢えの色があるのを見て疲れさせようとし、戦うたびに逃げた。宇文述は一日に七度戦っていずれも勝ったので、連勝を恃み、また衆議にも押されて、ついに東に薩水を渡り、平壌城まで三十里の地点で山に拠って営を構えた。
  • 乙支文徳がまた使者を送って偽って降り、宇文述に「もし軍を返されるなら、高元を奉じて行在所に朝させましょう」と請うた。宇文述は士卒が疲弊して再戦できず、平壌城も険固で急には落とせぬと判断し、その詐りに乗じて帰還した。
  • 宇文述らは方陣を組んで進んだが、高麗が四面から襲い、戦いながら進んだ。秋七月壬寅、薩水に至り、軍が半ば渡ったところで高麗が後方から後軍を撃ち、右屯衛将軍の辛世雄が戦死した。そこで諸軍がいっせいに潰えて止めようもなく、将士は一日一夜で鴨緑水まで四百五十里を逃げ帰った。将軍の天水の王仁恭が殿を務めて高麗を撃退した。来護児も宇文述らの敗報を聞いて引き揚げ、ただ衛文昇の一軍だけが無傷だった。
  • はじめ九軍が遼水を渡ったとき三十万五千だったが、遼東城に戻ったときはわずか二千七百人。物資や器械は巨万を数えたが、ことごとく失われた。帝は激怒して宇文述らを鎖につないだ。癸卯、軍を返した。
  • はじめ百済王の璋(武王)が使者を送って高麗討伐を請い、帝は高麗の動静を偵察させた。璋は内心で高麗と通じており、隋軍が出ようとするとき、臣の国智牟を送って期日を尋ねた。帝は大いに喜んで厚く賞賜し、尚書起部郎の席律を百済に遣わして期日を告げた。隋軍が遼水を渡ると百済も国境に兵を並べ、隋を助けると称したが、実は二股をかけていた。
  • この遠征で得たものは、遼水の西で高麗の武厲邏を抜いて遼東郡と通定鎮を置いただけだった。
  • 八月、黎陽・洛口・太原などの倉の穀を望海頓に運ぶよう勅し、民部尚書の廬江の樊子蓋を涿郡の留守とした。九月庚寅、車駕が東郡に至った。
  • 宇文述は日ごろ帝に寵愛され、その子の士及は帝の娘の南陽公主を娶っていたので、帝は誅するに忍びなかった。甲申、于仲文らとともに除名して庶民とし、劉士竜を斬って天下に謝した。
  • 薩水の敗戦の際、高麗は薛世雄を白石山に追い詰めて包囲したが、薛世雄は奮戦して破ったので、彼だけが免官を免れた。衛文昇を金紫光禄大夫とした。
  • 諸将はみな罪を于仲文に押しつけた。帝は諸将を釈放したが于仲文だけは繋いだままにした。于仲文は憂憤から発病して危篤となったので釈放され、家で没した。

大業九年(613年)――第二次遠征

  • 春正月丁丑、詔して天下の兵を徴発して涿郡に集め、初めて民を募って驍果とし、遼東の古城を修めて軍糧を貯えた。
  • 二月壬午、詔して、宇文述は兵糧が続かず王師を陥れたが、それは軍吏の見積もりの失敗であって宇文述の罪ではないとして官爵を復し、まもなく開府儀同三司を加えた。
  • 帝は侍臣に「高麗の小賊が上国を侮っている。今、海を抜き山を移すことすら成し遂げられると思うのに、まして此奴らはどうか」と言い、再び高麗征討を議した。左光禄大夫の郭栄が「戎狄が礼を失うのは臣下が処理する事です。千鈞の弩は鼷鼠のために機を発しません。どうして万乗の身を辱めて小敵に当たられるのですか」と諫めたが、帝は聞かなかった。
  • 夏四月庚午、車駕が遼水を渡った。壬申、宇文述と上大将軍の楊義臣を平壌に向かわせ、左光禄大夫の王仁恭を扶余道から出した。王仁恭が新城まで進むと高麗兵数万が防いだが、精騎千で撃破した。高麗は城に籠って固守した。
  • 帝は諸将に遼東を攻めさせ、便宜に従って処置することを許した。飛楼・衝車・雲梯・地道を四面から進めて昼夜休まず攻めたが、高麗が臨機応変に防ぎ、二十余日たっても落ちず、双方の死者が多かった。
  • 衝梯の竿は長さ十五丈、驍果の呉興の沈光がその先端に登り、城に迫って高麗と短兵で戦い十数人を殺した。高麗が競って撃ち、沈光は落下したが、地に着く前にちょうど垂れていた綱に手が届き、つかんでまた登った。帝は望み見てその壮を賞し、ただちに朝散大夫に任じ、常に側に置いた。
  • 遼東城が久しく落ちないので、帝は布袋百余万枚を造らせて土を詰め、幅三十歩、高さが城と等しい魚梁大道を積み上げ、戦士を登らせて攻めさせようとした。また八輪の楼車を作って城より高く上げ、魚梁道を挟んで城内を見下ろして射させようとした。攻撃の期日が決まり、城内は危機に瀕した。
  • そのとき楊玄感謀反の報が届き、帝は大いに恐れた。兵部侍郎の斛斯政は日ごろ楊玄感と親しく、玄感の反乱に加担して謀を通じており、玄感の弟の玄縦らが逃亡して帰るのをひそかに手引きしていた。帝が玄縦らの一党を徹底追及しようとしたので、斛斯政は内心穏やかでなく、戊辰、逃げて高麗に亡命した。
  • 庚午の夜二更、帝はひそかに諸将を召して軍を返させた。軍資・器械・攻具は丘のように積まれ、営塁や幕舎も手つかずのまま、すべて捨てて去った。人心は恐れ乱れ、隊伍も保てず各道に散った。
  • 高麗はすぐ気づいたが、あえて出ず、城内で鼓を鳴らして騒ぐだけだった。翌日の午の刻になってようやく少し外に出て四方を偵察したが、隋軍の詐略かと疑った。二日経ってやっと数千の兵を出して追ったが、隋軍の多さを恐れて迫らず、常に八、九十里の距離を保った。遼水近くまで来て御営がすべて渡り終えたと知ってようやく後軍に迫った。当時、後軍はなお数万いた。高麗は追いながら襲い、最後尾の弱兵数千人が殺され捕らえられた。
  • はじめ帝が再度の高麗征討にあたって太史令の庾質に「今回はどうか」と問うと、「私は愚かで迷っておりますが、なお前と同じ意見です。陛下が万乗を親しく動かされれば、労費は実に多くなります」と答えた。帝は怒って「私自身が行っても勝てぬのに、ただ人を遣ってどうして功があろうか」と言った。帰還後、帝は庾質に「卿が前に私の出征を望まなかったのは、このためだったのだな」と言った。

大業十年(614年)――第三次遠征

  • 春二月辛未、詔して百官に高麗討伐を議させたが、数日誰も発言しなかった。戊子、詔して再び天下の兵を徴発し、百道から進むこととした。
  • 三月壬子、帝が涿郡に行幸。士卒は道中で相次いで逃亡した。癸亥、臨渝宮に至り、黄帝を禡祭し、脱走兵を斬って軍鼓に血を塗ったが、逃亡は止まなかった。
  • 夏四月甲午、車駕が北平に至った。
  • 秋七月癸丑、車駕が懐遠鎮に宿営。当時すでに天下は乱れ、徴発した兵の多くが期日に至らなかった。高麗もまた疲弊していた。
  • 来護児が卑奢城に至ると高麗が兵を挙げて迎撃したが、来護児が撃破し、平壌に向かおうとした。高麗王元は恐れ、甲子、使者を送って降伏を乞い、斛斯政を檻送してきた。帝は大いに喜び、使者に節を持たせて来護児を召還した。
  • 来護児は衆を集めて言った。大軍は三度出て賊を平定できなかった。今回帰れば二度と来られまい。労して功なきは、私にとって恥である。今、高麗は実に疲弊しており、この兵で撃てば日を経ずして勝てる。私は兵を進めてまっすぐ平壌を囲み、高元を捕らえて凱旋の報を献じたい。よいではないか、と。そして上表して進軍を請い、詔を奉じようとしなかった。
  • 長史の崔君粛が強く争ったが、来護児は「賊の勢いは破れている。私一人に任せてもらえば十分に片づく。私は国境の外にあり、事は専断すべきである。高元が帰ったところで譴責を受け、この成功を捨てるなど、できることではない」と言った。
  • 崔君粛は衆に「元帥に従って詔書を拒めば、必ず奏聞され、みな罪を得ることになる」と告げた。諸将は恐れてそろって帰還を請い、来護児はようやく詔を奉じた。
  • 八月己巳、帝が懐遠鎮から凱旋。邯鄲の賊帥の楊公卿がその一党八千人を率いて車駕の後方第八隊を襲い、飛黄の上厩馬四十二匹を奪って去った。
  • 冬十月丁卯、帝が東都に至り、己丑、西京に帰った。高麗の使者と斛斯政を太廟に告げ、あわせて高麗王元に入朝を求めたが、元はついに来なかった。将帥に厳しく装備を整えて再挙を図るよう勅したが、結局実行されなかった。
  • はじめ開皇の末、国家は殷盛で朝野はみな高麗を意識していたが、劉炫ひとりが不可とし、「撫夷論」を著してこれを諷刺した。このとき初めてその言が的中した。
  • 十一月丙申、斛斯政を金光門外で殺した。