通鑑紀事本末北周、北斉を伐つ(周斉の宜陽争奪を付す)(周伐齊(周齊爭宜陽附))

北周が突厥と結んで北斉を伐ち、晉陽と洛陽で相次いで敗れたのち、宜陽と汾北をめぐって長く争った9年間。楊忠・達奚武の晉陽攻めは段韶の待ち構えに破れ、宇文護が母閻氏を斉から取り戻したのちに起こした洛陽の役も邙山で大敗し、王雄が斛律光に射殺される。以後は斉の斛律光と周の韋孝寛・斉公憲が宜陽・華谷・定陽で城を築き奪い合う。

年表(6件)
  • 陳文帝
  • 天嘉四年563年周が突厥と結んで楊忠・達奚武を発し、晉陽に迫る
  • 五年564年晉陽・邙山で周軍が大敗し、護は母を得た代わりに功なく退く
  • 六年565年突厥が使いを斉に至らせ、初めて斉と通ずる
  • 陳宣帝
  • 太建元年569年斉公憲らが宜陽を囲み、崇徳など五城を築いて糧道を絶つ
  • 二年570年斛律光が宜陽を救い、汾北に華谷・竜門を築いて韋孝寛と論争する
  • 三年571年斛律光が西境に十三城を築き、段韶が定陽を抜いて汾州を取る

陳文帝天嘉四年(563年)

  • はじめ周人は突厥の木杆可汗と兵を連ねて斉を伐とうとし、その娘を納れて后とすることを許し、御伯大夫楊荐および左武伯である太原の王慶を遣わして結ばせた。斉人は聞いて懼れ、これも使いを遣わして突厥に婚を求め、賂の贈りものは甚だ厚かった。木杆は斉の幣の重いのを貪り、荐らを捕らえて斉に送ろうとした。
  • 荐は知って木杆を責めた。「太祖は昔、可汗と共に隣好を敦くされ、蠕蠕の部落数千が来降したとき、太祖はことごとく可汗の使者に付して可汗の意を快くされました。それがどうして今日、にわかに恩に背き義を忘れようとされるのか。ひとり鬼神に愧じられぬのか」。木杆は慘然として良久しく、「君の言が是だ。わが意は決した。共に東の賊を平らげてから娘を送ろう」と言った。
  • 荐らが復命した。公卿は十万人を発して斉を撃つことを請うたが、柱国楊忠だけは一万騎を得れば足りるとした。戊子、忠を遣わして歩騎一万を将いさせ突厥とともに北道から斉を伐たせ、また大将軍達奚武に歩騎三万を率いさせて南道から平陽に出させ、晉陽で会することを期した。
  • 冬十二月、周の楊忠が斉の二十余城を抜いた。斉人は陘嶺の隘を守ったが、忠は撃ち破った。突厥の木杆・地頭・歩離の三可汗が十万騎で会した。己丑、恒州から三道でともに入った。
  • 当時、大雪が数旬にわたり、南北千余里の平地に数尺積もった。斉主は鄴から倍道して赴き、戊午、晉陽に至った。斛律光が歩騎三万を将いて平陽に屯した。己未、周師と突厥が晉陽に逼った。斉主はその強きを畏れ、戎服して宮人を率いて東へ走って避けようとした。趙郡王叡・河間王孝琬が馬に叩いて諫めた。孝琬は叡に部分を委ねれば必ず厳整を得られると請い、帝は従い、六軍の進止はみな叡の節度を取るよう命じ、并州刺史段韶に総べさせた。

五年(564年)

  • 春正月庚申、斉主が北城に登った。軍容は甚だ整っていた。突厥は周人を咎めた。「お前たちは斉が乱れていると言うから来て伐ったのだ。今、斉人の眼中には鉄がある。どうして当たれようか」。
  • 周人は歩卒を前鋒として西山から下り、城を去ること二里ばかりに至った。諸将はみな迎え撃とうとしたが、段韶は言った。「歩卒の力と勢いには自ずと限りがある。今、積雪はすでに厚く、逆え戦うのは便でない。陣を布いて待つに越したことはない。彼は労し我は逸る。破るのは必定だ」。至って斉はその鋭兵を悉くして鼓譟して出た。突厥は震え駭き、引いて西山に上って戦おうとせず、周師は大敗して還った。
  • 突厥は兵を引いて塞を出、兵を縦して大いに掠め、晉陽から往くこと七百余里、人も畜も遺るものがなかった。段韶は追ったがあえて逼らなかった。突厥は還って陘嶺に至ったが、凍って滑るので氈を鋪いて渡った。胡の馬は寒さで痩せ、膝より下はみな毛がなく、長城に至るころには馬は死んでほぼ尽き、矟を截って杖にして帰った。
  • 達奚武は平陽に至ったがまだ忠の退いたのを知らなかった。斛律光が書を送った。「鴻鵠はすでに寥廓に翔けたのに、羅を張る者はなお沮沢を視ている」。武は書を得てこれも還った。光は逐って周の境に入り、二千余口を獲て還った。
  • 光が晉陽で帝に見えた。帝は新たに大冦に遭ったので、光の頭を抱いて哭した。任城王高湝が進み出て「どうしてここまでされるか」と言い、そこでやめた。
  • はじめ斉の顕祖の世には、周人は常に斉兵が西へ渡るのを懼れ、冬になるたび河を守って氷を椎いた。世祖が即位して嬖幸が事を用い、朝政が次第に紊れると、斉人が氷を椎いて周兵の逼るのに備えるようになった。斛律光は憂えて「国家は常に関隴を呑む志があった。今日ここに至って、それでもただ声色を翫ぶのみか」と言った。
  • はじめ周の太祖が賀抜岳に従って関中にあったとき、人を遣わして晉公護を晉陽から迎えた。護の母の閻氏および周主の姑はみな晉陽に留まり、斉人は中山宮に配した。護が事を用いるようになって間使を斉に入れて求めさせたが、音信を知る者はなかった。
  • 斉が使者を玉璧に至らせて互市を通ずることを求めた。護は母と姑を訪ね求めようとし、司馬下大夫尹公正を玉璧に至らせて語らせた。使者は甚だ悦んだ。勲州刺史韋孝寛は関東の人を獲てまた縦し、そのついでに書を致して西朝の好みを通じようとする意を言わせた。
  • このとき周人は先に晉陽を攻めて志を得なかったので、突厥と再び斉を伐つ謀を巡らせていた。斉主は聞いて大いに懼れ、護の母を西へ帰すことを許し、あわせて通好を求め、先にその姑を帰した。
  • 秋八月、周が柱国楊忠を遣わして兵を将いて突厥と会し斉を伐たせたが、北河に至って還った。
  • 九月、突厥が斉の幽州を冦した。衆十余万で長城に入り、大いに掠めて還った。
  • 周の皇姑が帰るとき、斉主は人を遣わして晉公護の母のために書を作らせた。護の幼い時の数事を言い、また着ていた錦の袍を寄せて信の験しとし、そのうえで言った。「私は千載の運に属い、大斉の徳に逢い、老いを矜れんで恩を開かれ、相い見えることを許された。禽獣草木すら母子は相い依るもの。私に何の罪があってお前と分かれ離れたのか。今また何の福があってお前を還って見られるのか。これを言えば悲しくも喜ばしく、死んで更に蘇る思いだ。世間にある物は求めればみな得られる。母子が国を異にしては、どこに求められよう。仮にお前が貴きを王公に極め富が山海に過ぎようと、八十の年の老母が千里に飄然として死亡が旦夕に迫り、一朝の暫しの対面も得られず、一日の同処も得られず、寒くてもお前の衣を得られず、飢えてもお前の食を得られぬ。お前が栄を窮め盛んを極めて世間に光り耀いても、私に何の益があろう。私の今日より前は、お前が供養を申べられなかったのだから、往いた事は論じまい。今日より後、わが残命はただお前にかかっている。お前は天を戴き地を履んで、その中に鬼神がある。冥く昧いから欺き負いてよいなどと言うな」。
  • 護は書を得て悲しみに自ら勝えず、返書した。「区宇は分かれ崩れ、災禍に遭い遇い、膝下を離れて三十五年。形を受け気を稟けて、みな母子を知る。誰が薩保(護の小字)ほど不孝でありましょう。子は公侯となり母は俘隷となる。暑くとも母の暑さを見ず、寒くとも母の寒さを見ず、衣の有無を知らず、食の飢飽を知らず、天地の外のごとく泯えて、暫くも聞くすべがない。冤酷を懐き分けてこの一生を終え、死んでもし知ることがあれば、泉下でお会いすることを兾うのみと思っておりました。思いもよらず斉朝は網を解き、徳音を恵まれ、磨敦(母)と四姑をともに矜れみ放つことを許された。初めてこの旨を聞き、魂も爽も飛び越え、天に号び地に叩いて自ら勝えられませんでした。斉朝の霈然たる恩はすでに霑い洽く、家あり国あるは信義を本とします。伏して度るに来られる期はもう日があるはず。ひとたび慈顔にお会いできれば、永く生涯の願いは畢わります。死を生かし骨に肉づける、どうして今日の恩に過ぎましょう。山を負い岳を戴いても、なお荷うに勝えません」。
  • 斉人は護の母を留め、さらに護に書かせ、護に重ねて報いさせ、往返は再三に及んだ。
  • 当時、段韶は突厥の軍を塞下に拒いでいた。斉主は黄門徐世栄を伝馬で遣わし、周の書を齎して韶に問わせた。韶は言った。「周人は反覆で、もとより信義はありません。近ごろの晉陽の役でその事は知れます。護は外は相と託していますが、その実は主です。母のために和を請いながら一介の使いも遣わさぬ。もし移書に拠ってすぐその母を送れば、弱きを示すことになるのを恐れます。しばらく外向きに許し、和親が堅く定まるのを待ってから遣わしても遅くはありません」。斉主は聴かず、すぐ遣わした。閻氏が周に至ると、朝を挙げて慶を称し、周主はこれがために大赦した。
  • 突厥は幽州から還って塞北に留まり屯し、さらに諸部の兵を集め、使いを遣わして周に告げ、前の約のように共に斉を撃とうとした。閏月乙巳、突厥が斉の幽州を冦した。
  • 晉公護は母を得たばかりで斉を伐つ気がなかったが、突厥の約に背いて改めて辺患を生ずるのを恐れ、やむを得ず二十四軍および左右廂の秦・隴・巴・蜀に散り隷する兵、ならびに羌・胡の内附した者、およそ二十万人を徴した。
  • 冬十月甲子、周主が廟庭で護に斧鉞を授けた。丁卯、親ら沙苑で軍を労った。癸酉、宮に還った。護の軍は潼関に至り、柱国尉遅迥を遣わして精兵十万を率いさせ前鋒として洛陽へ趨らせ、大将軍権景宣に山南の兵を率いさせて懸瓠へ趨らせ、少師楊檦を軹関に出させた。
  • 十一月、周の晉公護が進んで弘農に屯した。甲午、尉遅迥が洛陽を囲み、雍州牧斉公憲・同州刺史達奚武・涇州総管王雄が邙山に軍した。
  • はじめ周の楊檦は邵州刺史として東の境を鎮め捍ぐこと二十余年、しばしば斉と戦って捷たぬことがなかった。これで軽んじていた。軹関を出ると独り兵を引いて深く入り、また備えを設けなかった。甲辰、斉の太尉婁叡が兵を将いてにわかに至り、檦の軍を大いに破った。檦はそのまま斉に降った。
  • 権景宣が懸瓠を囲んだ。十二月、斉の豫州道行台・豫州刺史である太原の王士良、永州刺史蕭世怡がともに城をもって降った。景宣は開府郭彦に豫州を守らせ、謝徹に永州を守らせ、士良・世怡および降卒千人を長安に送った。
  • 周人は土山と地道を為して洛陽を攻めたが、三旬しても克てなかった。晉公護は諸将に塹を掘って河陽の路を断ち、斉の救兵を遏め、しかるのち同じく洛陽を攻めるよう命じた。諸将は斉兵が必ずあえて出まいと思い、ただ斥候を張るのみであった。
  • 斉は蘭陵王高長恭・大将軍斛律光を遣わして洛陽を救わせたが、周兵の強きを畏れてあえて進まなかった。斉主が并州刺史段韶を召して言った。「洛陽は危急だ。今、王を遣わして救わせたいが、突厥が北にあってまた鎮め禦がねばならぬ。どうか」。韶は答えた。「北虜の辺を侵すのは疥癬に等しい事。今、西の隣が闚い逼るのは腹心の病です。詔を奉じて南行することをお請いします」。斉主は「朕の意もまたそうだ」と言い、そこで韶に精騎一千を督させて晉陽を発たせた。丁巳、斉主もまた晉陽から洛陽へ赴いた。
  • 段韶は晉陽から行くこと五日で河を済った。ちょうど連日、陰って霧が立ちこめていた。壬戌、韶は洛陽に至り、帳下の三百騎を率いて諸将と邙の坂に登って周軍の形勢を観、大和谷に至って周軍に遇った。韶はすぐ馳せて諸営に告げ、騎士を追い集めて陣を結んで待った。韶が左軍、蘭陵王長恭が中軍、斛律光が右軍。
  • 周人はその至るのを思いもよらず、みな忷え懼れた。韶は遥かに周人に言った。「お前たちの宇文護はやっと母を得たのに、にわかに来て冦するのはなぜだ」。周人は「天が我を遣わした。何を問うことがあろう」と言った。韶は「天道は善を賞し悪を罰す。お前を送って死なせに来させたのだ」と言った。
  • 周人は歩兵を前にして山に上って逆え戦った。韶は戦いつつ却いて誘い、その力の弊れるのを待ってから馬を下りて撃った。周師は大敗し、一時に瓦解し、溪谷に投げ墜ちて死ぬ者が甚だ多かった。
  • 蘭陵王長恭は五百騎で周軍に突き入り、そのまま金墉城の下に至った。城上の人は識らなかったが、長恭が胄を免いで面を示すと、下りて弩手が救った。周師で城の下にいた者も囲みを解いて遁れ去った。営幕を委ね棄て、邙山から穀水まで三十里の間、軍資と器械は川と沢に満ちた。
  • ただ斉公憲・達奚武および庸忠公王雄だけが後ろにあって兵を勒して拒み戦った。王雄が馬を馳せて斛律光の陣に衝き、光は退き走った。雄は追い、光の左右はみな散じて、ただ一奴と一矢だけが残った。雄は矟を按じて光まで一丈余りのところで言った。「私はお前を惜しんで殺さぬ。生きたまま連れて天子に見えさせよう」。光は雄を射て額に中てた。雄は馬を抱いて走り、営に至って卒した。軍中はいよいよ懼れた。斉公憲が拊し循え督し励まして、衆心はやや安んじた。
  • 夜に至って軍を収めた。憲は明日を待って改めて戦おうとしたが、達奚武は言った。「洛陽の軍は散じ、人情は震え駭いている。もし夜に因って速やかに還らねば、明日は帰ろうとしても帰れぬ。武は軍に在ること久しく、形勢を具に見ている。公は少年でまだ事を経ておられぬ。どうして数営の士卒を虎口に委ねられよう」。そこで還った。権景宣もまた豫州を棄てて走った。
  • 丁卯、斉主が洛陽に至った。己巳、段韶を太宰、斛律光を太尉、蘭陵王長恭を尚書令とした。壬申、斉主が虎牢へ行き、そのまま滑台から黎陽へ行き、丙子、鄴に至った。
  • 楊忠が兵を引いて沃野を出て突厥に応接したが、軍糧が給されず、諸軍は憂えて計の出るところがなかった。忠はそこで稽胡の酋長を招き誘い、みな坐に在るところで、詐って河州刺史王傑に兵を勒して鼓を鳴らして至らせ、「大冢宰はすでに洛陽を平らげ、突厥と共に服さぬ稽胡を討とうとされている」と言わせた。坐る者はみな懼れた。忠は慰め諭して遣わした。こうして諸胡は相い率いて軍糧を饋り輸し、填め積まれた。ちょうど周師が罷めて帰ったので忠も還った。
  • 晉公護はもとより将略がなく、この行はまた本心でなかったので功がなかった。諸将と稽首して罪を謝した。周主は慰労して罷めさせた。

六年(565年)

  • 五月、突厥が使いを斉に至らせ、初めて斉と通じた。

陳宣帝太建元年(569年)

  • 秋八月庚辰、盗が周の孔城防主を殺し、その地を斉に入れた。
  • 九月辛卯、周が斉公憲と柱国李穆を遣わして兵を将いて宜陽へ趨らせ、崇徳など五城を築かせた。
  • 冬十二月、周の斉公憲らが斉の宜陽を囲み、その糧道を絶った。

二年(570年)

  • 春正月、斉の太傅斛律光が歩騎三万を将いて宜陽を救い、しばしば周軍を破り、統関・豊化の二城を築いて宜陽の糧道を通じて還った。周軍が追い、光は縦って撃ってまた破り、その開府儀同三司宇文英・梁景興を獲た。
  • 二月己巳、斉が斛律光を右丞相・并州刺史とし、また任城王湝を太師、賀抜仁を録尚書事とした。
  • 周と斉が宜陽を争って久しく決しなかった。勲州刺史韋孝寛がその下に言った。「宜陽は一城の地。損益するに足りぬのに、両国が争って師を労すること年を彌る。彼にどうして智謀の士がなかろう。もし崤東を棄てて汾北を図りに来れば、我は必ず地を失う。今は速やかに華谷および長秋に城を築いてその意を杜ぐべきだ。もし彼が先に図れば、実に難しくなる」。そこで地形を画いて具にその状を陳べた。晉公護は使者に言った。「韋公の子孫は多いとはいえ、数は百に満たぬ。汾北に城を築いて誰を遣わして守らせるのか」。事はそのまま行われなかった。
  • 斉の斛律光は果たして晉州道に出て汾北に華谷・竜門の二城を築いた。光は汾東に至って孝寛と相い見えた。光は「宜陽の小城で久しく争戦に労した。今すでにそちらを舎てて汾北で償いを取ろうとしている。どうか怪しまれるな」と言った。孝寛は言った。「宜陽は彼の要衝、汾北は我が棄てたところ。我が棄てたものを彼が取るのに、その償いはどこにあるのか。君は幼主を輔翼し位望は隆重でありながら、百姓を撫し循えず、武を極め兵を窮め、いやしくも尋常の地を貪り、疲れ弊れた民を塗炭にする。ひそかに君のために取らぬところだ」。
  • 光は進んで定陽を囲み、南汾城を築いて逼った。周人は宜陽の囲みを釈いて汾北を救った。晉公護が斉公憲に計を問うた。憲は「兄は暫く同州に出て声勢を為されるべきです。憲は精兵をもって前に居り、機に随って攻め取ることをお請いします」と言った。護は従った。

三年(571年)

  • 春正月、斉の斛律光が西の境に十三城を築いた。馬上で鞭を指し画いて成し、地を拓くこと五百里。それでもかつて功を伐らなかった。また周の韋孝寛と汾北で戦って破った。斉公憲は諸将を督して東のかた斉師を拒いだ。
  • 三月、周の斉公憲が竜門から河を渡り、斛律光は退いて華谷を保った。憲はその新たに築いた五城を攻め抜いた。斉の太宰段韶・蘭陵王長恭が兵を将いて周師を禦ぎ、柏谷城を攻めて抜いて還った。
  • 夏四月、周の陳公宇文純らが斉の宜陽など九城を取った。斉の斛律光は歩騎五万を将いて赴いた。
  • 五月、周の晉公護が中外府参軍郭栄に姚襄城の南、定陽城の西に城を築かせた。斉の段韶が兵を引いて周師を襲い破った。
  • 六月、韶が定陽城を囲んだ。周の汾州刺史楊敷は固く守って下らなかった。韶は急に攻めてその外城を屠った。当時、韶は病に臥していたが、蘭陵王長恭に言った。「この城は三面が重なる澗で、いずれも走る路がない。ただ東南の一道を慮るのみ。賊は必ずここから出よう。精兵を選んで専ら守らせるべきだ。必ず擒えられる」。長恭はそこで壮士千余人を東南の澗口に伏せさせた。
  • 城中の糧が尽き、斉公憲が兵を総べて救おうとしたが、韶を憚ってあえて進まなかった。敷は手勢を率いて囲みを突いて夜に走り、伏兵が撃って擒え、その衆をことごとく俘とした。乙巳、斉が周の汾州および姚襄城を取り、ただ郭栄の築いた城だけが残った。敷は楊愔の族子である。
  • 斉の斛律光が周師と宜陽城下で戦い、周の建安など四戍を取り、千余人を捕虜として還った。軍がまだ鄴に至らぬうちに斉主が敕使を出して兵を散じさせた。光は軍士に功のある者が多く、まだ慰労を得ていないので、ひそかに表を通じて使いを遣わして旨を宣べることを請い、軍はなおも進んだ。斉朝は使いを発したが遅れ留まった。軍は還って紫陌に至ろうとし、光はそこで営を駐めて使いを待った。帝は光の軍がすでに逼っていると聞いて心に甚だ悪み、急ぎ舎人に光を召し入れて見えさせ、しかるのち慰労して兵を散じさせた。