通鑑紀事本末吐谷渾の盛衰(吐谷渾盛衰)
慕容廆の庶兄である吐谷渾が馬の争いを機に西へ徙って建てた国が、西晉末から隋の煬帝の代まで約三百年にわたって興亡した経緯。葉延が祖父の名を国号とし、樹洛干・阿柴の代に方数千里の強国となる一方、西秦・北魏・北周・隋の討伐をたびたび受けては白蘭・于闐へ遁れて復した。夸呂が可汗を称してのち隋に破られ、伏允が敗走して故地を失うまでを述べる。
年表(30件)
- 晉元帝
- 建武元年317年吐谷渾が馬の争いから西へ徙って隴西に拠り、その地で卒する
- 成帝
- 咸和四年329年吐延が羌の姜聡に刺され、子の葉延が祖父の名を国号とする
- 簡文帝
- 咸安元年371年鍾悪地が辟奚の三弟を誅し、辟奚は憂えて卒する
- 孝武帝
- 太元十五年390年視連が卒し、功業を志す視羆が立つ
- 安帝
- 隆安二年398年西秦の乞伏益州に度周川で大敗し、子を質として和を請う
- 四年400年視羆が卒し、弟の烏紇堤が立って念氏が国事を専制する
- 義熙元年405年烏紇堤が敗死し、樹洛干が莫何川で吐谷渾王を自称して国を興す
- 十三年417年樹洛干が卒し、弟の阿柴が立って周辺を併せ強国となる
- 文帝
- 元嘉元年424年阿柴が折箭の喩えで結束を諭して卒し、慕璝が立つ
- 八年431年慕璝が魏に表して赫連定を送ることを請い、西秦王に封ぜられる
- 九年432年赫連定を魏に送り、爵を隴西王に進められる
- 十三年436年慕璝が卒し、弟の慕利延が立つ
- 十六年439年魏の涼州平定に懼れて沙漠を踰えたが、撫諭されて故地に還る
- 二十一年444年緯世を殺したため叱力延が魏へ奔り、魏の晉王伏羅の討伐を招く
- 二十二年445年魏の高涼王那に敗れ、慕利延は流沙を渡って于闐を奪って拠る
- 二十三年446年吐谷渾がまた旧土に還る
- 二十九年452年慕利延が卒し、拾寅が伏羅川に居って宋と魏に命を請う
- 孝武帝
- 大明四年460年魏が南北二道から討ち、拾寅は南山に走って雑畜を奪われる
- 蒼梧王
- 元徽元年473年長孫観に窘められて降を請い、子を入侍させて歳ごとに職貢する
- 斉高帝
- 建元三年481年拾寅が卒し、世子の度易侯が河南王を継ぐ
- 武帝
- 永明八年490年度易侯が卒し、伏連籌が斉の使者丘冠先を崖から墜として殺す
- 大同六年540年夸呂が立って初めて可汗と称し、伏俟城に拠って東魏に聘する
- 元帝
- 承聖二年553年宇文泰が隴を踰えて討ち、夸呂は服を請うがまた斉に通ずる
- 敬帝
- 太平元年556年突厥の木杆と周の史寧が賀真・樹敦の二城を破る
- 十三年581年隋の元諧が豊利山・青海で大破し、王侯三十人が降る
- 隋文帝
- 開皇十一年591年夸呂が卒し、子の世伏が藩と称して入貢する
- 十六年596年隋が光化公主を可汗世伏に妻あわせる
- 十七年597年国人が世伏を殺して弟の伏允を立て、以後朝貢が歳ごとに至る
- 煬帝
- 大業四年608年宇文述に破られて伏允は雪山へ奔り、故地は隋の郡県となる
- 五年609年煬帝が親征して四面から囲み、伏允の子の順を可汗に立てる
晉元帝建武元年(317年)
- 河南王吐谷渾が卒した。吐谷渾は慕容廆の庶兄である。父の慕容渉帰が戸一千七百を分けて隷させた。廆が位を嗣ぐと二部の馬が闘った。廆は使いを遣わして吐谷渾を譲めた。「先公が分け建てられて別があるのに、どうして遠く異にせず、馬に闘い傷つくことをさせるのか」。吐谷渾は怒って言った。「馬は六畜。闘うのは常のこと。どうして怒りが人にまで及ぶのか。遠く別れるのは甚だ容易だ。ただ後に会うのが難しくなろう。今、お前を去ること万里の外へ行こう」。そのまま衆を率いて西へ徙った。
- 廆は悔いて、その長史乙那婁馮を遣わして追い謝らせた。吐谷渾は言った。「先公はかつて卜筮の言を称えて『わが二子はみな強盛となり、祚は後世に流れよう』と言われた。私は孽子である。道理として並び大きくはなれぬ。今、馬に因って別れるのは、おそらく天意であろう」。そのまま還らず、西のかた陰山に傅って居た。
- 永嘉の乱に遭い、そのついでに隴を渡って西へ行き、洮水の西に拠って白蘭にまで極まり、地は方数千里であった。鮮卑は兄を阿干と言う。廆は追い思って「阿干の歌」を作った。
- 吐谷渾に子六十人。長子の吐延が嗣いだ。吐延は長大で勇力があり、羌も胡もみな畏れた。
成帝咸和四年(329年)
- 河南王吐延は雄々しく勇ましかったが猜忌が多く、羌の酋長姜聡が刺した。吐延は剣を抜かず、その将の紇扢埿を召してその子の葉延を輔け白蘭を保たせ、剣を抜いて死んだ。
- 葉延は孝であって学を好み、「礼に、公孫の子は王父の字をもって氏とすることを得る」として、そこで自らその国を吐谷渾と号した。
穆帝永和七年(351年)
- 吐谷渾の葉延が卒し、子の辟奚が立った。
簡文帝咸安元年(371年)
- 吐谷渾王辟奚は楊纂の敗を聞き、五月、使いを遣わして馬千匹・金銀五百斤を秦に献じた。秦は辟奚を安遠将軍・漒川侯とした。辟奚は葉延の子である。
- 辟奚は学を好み仁厚だったが威も断もなかった。三人の弟が専恣で国人は患えとした。長史鍾悪地は西漒の羌の豪族である。司馬乞宿雲に言った。「三弟は縦横で勢いは王の右に出る。ほとんど国は亡びよう。われら二人は位は元輔にある。どうして坐して視ていられよう。明朝は月望で文武がみな会する。私は討とうと思う。王の左右はみなわが羌の子。目を転じて一顧すれば必ず擒えられる」。宿雲はまず王に白すことを請うた。悪地は「王は仁だが断がない。白せば必ず従われぬ。万一、事が漏れれば、われらは類も残るまい。事はすでに口に出た。どうして中途で変えられよう」と言い、そのまま坐で三弟を収めて殺した。
- 辟奚は驚き怖れて自ら牀の下に身を投じた。悪地と宿雲が趨って扶けて言った。「臣は昨夜、先王が臣に『三弟がまさに逆を為そうとしている。討たずにはおれぬ』と敕される夢を見ました。ゆえに誅したまでです」。辟奚はこれで病を発し、恍惚として世子の視連に命じた。「私の禍は同生に及んだ。何をもって地下でまみえられよう。国事は大小ともにお前に任せて治めさせる。私の余年残命は寄食するのみ」。そのまま憂えて卒した。
- 視連は立ってから、酒を飲まず遊猟もせぬこと七年、軍国の事は将佐に委ねた。鍾悪地が「人主は自ら娯しみ楽しみ、威を建て徳を布くべきです」と諫めた。視連は泣いて言った。「孤は先世以来、仁孝忠恕をもって相い承けてきた。先王は友愛の全うせぬことを念い、悲憤して亡くなられた。孤は業を纂いだとはいえ、尸として存えるのみ。声色遊娯がどうして安んじられよう。威徳の建立は将来に付すべきだ」。
孝武帝太元十五年(390年)
- 吐谷渾の視連が使いを遣わして金城王乞伏乾帰に献見した。乾帰は視連を沙州牧・白蘭王に拝した。
- 秋九月、吐谷渾の視連が卒し、子の視羆が立った。視羆は父祖が慈仁で四隣に侵され侮られたので、将士を督し励まして功業を建てようとした。
- 冬十月、金城王乾帰が使いを遣わして視羆を沙州牧・白蘭王に拝したが、視羆は受けなかった。
安帝隆安二年(398年)
- 九月、西秦王乾帰が秦州牧乞伏益州・武衛将軍慕兀・冠軍将軍翟瑥を遣わして騎二万を率いて吐谷渾を伐たせた。
- 西秦の乞伏益州が吐谷渾王視羆と度周川で戦った。視羆は大敗して走り白蘭山を保ち、子の宕豈を西秦に人質として和を請うた。西秦王乾帰は宗女を妻あわせた。
四年(400年)
- 夏四月、吐谷渾の視羆が卒した。世子の樹洛干はまだ九歳で、弟の烏紇堤が立ち、樹洛干の母である念氏を妻とした。慕璝・慕延を生んだ。烏紇堤は懦弱で荒れ淫れ、国を治められなかった。念氏が国事を専制した。胆と智があり、国人は畏れ服した。
義熙元年(405年)
- 春正月、乞伏乾帰が吐谷渾の大孩(烏紇堤)を撃って大いに破り、一万余口を俘として還った。大孩は走って胡園で死んだ。
- 視羆の世子樹洛干がその余衆数千家を率いて莫何川へ奔り、車騎大将軍・大単于・吐谷渾王を自称した。樹洛干は徭を軽くし賦を薄くし、賞を信とし罰を必とし、吐谷渾はまた興った。沙・漒の諸戎はみな附いた。
八年(412年)
- 春二月、河南王乾帰が吐谷渾の阿若干を赤水に撃って降した。
九年(413年)
- 夏四月、河南王乞伏熾磐が安北将軍烏地延・冠軍将軍翟紹を遣わして吐谷渾の別統句旁を涇勒川に撃たせ、大いに破った。
- 秋七月、河南王熾磐が吐谷渾の支旁を長柳川に撃ち、旁およびその民五千余戸を虜として還った。
- 九月、河南王熾磐が吐谷渾の別統掘逵を渇渾川に撃って大いに破り、男女二万三千を虜にした。冬十月、掘逵はその余衆を率いて熾磐に降った。
十三年(417年)
- 春二月、西秦の安東将軍木弈干が吐谷渾の樹洛干を撃ち、その弟の阿柴を堯杆川で破り、五千余口を俘として還った。樹洛干は走って白蘭山を保ち、慙じ憤って病を発した。卒しようとして阿柴に「わが子の拾虔は幼弱だ。今、大事をお前に付す」と言った。
- 樹洛干が卒し、阿柴が立って驃騎将軍・沙州刺史を自称し、樹洛干に武王と諡した。阿柴は次第に兵を用いてその傍らの小種を侵し併せ、地は方数千里、ついに強国となった。
宋武帝永初二年(421年)
- 夏四月、吐谷渾王阿柴が使いを遣わして秦に降った。秦王熾磐は阿柴を征西大将軍・開府儀同三司・安州牧・白蘭王とした。
営陽王景平元年(423年)
- 吐谷渾王阿柴が使いを遣わして入貢した。詔して阿柴を督塞表諸軍事・安西将軍・沙州刺史・澆河公とした。
文帝元嘉元年(424年)
- 冬十月、吐谷渾の威王阿柴が卒した。阿柴に子二十人。疾み病んで諸々の子弟を召して言った。「先公車騎(樹洛干)は大業のゆえに、その子の拾虔を舎てて孤に授けられた。孤があえて緯代に私して先君の志を忘れられようか。私が死んだら、お前たちは慕璝を奉じて主とせよ」。緯代は阿柴の長子、慕璝は阿柴の同母弟で叔父烏紇堤の子である。
- 阿柴はまた諸子に各々一本の矢を献じるよう命じ、一本を取ってその弟の慕利延に授けて折らせた。慕利延は折った。また十九本を取って折らせたが、慕利延は折れなかった。阿柴はそこで諭した。「お前たち、これが分かるか。ひとりなら折りやすいが、衆なら摧きがたい。お前たちは力を戮せ心を一つにせよ。しかるのちに国を保ち家を寧んじられる」。言い終わって卒した。
- 慕璝もまた才略があり、秦・涼の業を失った民および氐・羌の雑種を撫し納れて五、六百落に至り、部衆はますます盛んになった。
三年(426年)
- 秋九月、吐谷渾の掘逵らが部衆二万余落を率いて秦に叛き、昴州へ奔って吐谷渾王慕璝に附いた。
六年(429年)
- 冬十二月、吐谷渾王慕璝が使いを遣わして入貢した。
七年(430年)
- 春正月癸巳、吐谷渾王慕璝を征西将軍・沙州刺史・隴西公とした。
- 夏四月、吐谷渾王慕璝がその衆一万八千を将いて秦の定連を襲った。秦の輔国大将軍段暉らが撃ち走らせた。
八年(431年)
- 秋八月、吐谷渾王慕璝が侍郎謝太寧を遣わして魏に表を奉り、赫連定を送ることを請うた。己丑、魏は慕璝を大将軍・西秦王とした。
九年(432年)
- 春三月壬申、吐谷渾王慕璝が赫連定を魏に送り、魏人は殺した。慕璝は上表して言った。「臣は僭逆の者を俘え擒え、捷を王府に献じました。爵秩は崇いとはいえ土は増え廓がらず、車旗は飾られたとはいえ財は賞に周りません。願わくは鑒察を垂れられますよう」。魏主は議に下した。公卿は「慕璝の致したのはただ定のみ。塞外の民はみな己の有としながら貪り求めて厭くことがない。許すべきでありません」とした。
- 魏主はそこで詔した。「西秦王の得た金城・枹罕・隴西の地は、朕がそのまま与えたもの。これこそ土を裂いたのだ。何を重ねて廓げる必要があろう。西秦の款が至れば綿と絹は使いの数に随い、その時々に増し益す。一度賜わって止めるものではない」。これより慕璝の貢使で魏に至る者は次第に少なくなった。
- 吐谷渾王慕璝がその司馬趙叙を遣わして入貢し、あわせて捷を告げに来させた。
- 乙未、吐谷渾王慕璝を都督西秦河沙三州諸軍事・征西大将軍・西秦河二州刺史とし、爵を隴西王に進め、そのうえで慕璝に、先に夏に没した南方の将士をことごとく帰すよう命じ、百五十余人を得た。
十三年(436年)
- 冬十二月、吐谷渾の恵王慕璝が卒し、弟の慕利延が立った。
十四年(437年)
- 秋九月丁酉、魏主が使者を遣わして吐谷渾王慕利延を鎮西大将軍・儀同三司に拝し、改めて西平王に封じた。
十五年(438年)
- 春二月丁未、吐谷渾王慕利延を都督西秦河沙二州諸軍事・鎮西大将軍・西秦河二州刺史・隴西王とした。
十六年(439年)
- 夏六月己酉、隴西王吐谷渾慕利延を改封して河南王とした。
- 冬十二月、吐谷渾王慕利延は魏が涼州を克ったと聞いて大いに懼れ、衆を率いて西へ遁れ沙漠を踰えた。魏主はその兄の慕璝に赫連定を擒えた功があるので、使いを遣わして撫し諭した。慕利延はそこで故地に還った。
二十一年(444年)
- 夏六月、吐谷渾王慕利延の兄の子である緯世が魏の使者と魏に降る謀を巡らせた。慕利延は殺した。この月、緯世の弟の叱力延ら八人が魏へ奔り、魏は叱力延を帰義王とした。
- 秋八月、吐谷渾の叱力延らが魏に師を請うて吐谷渾王慕利延を討たせた。魏主は晉王伏羅に諸軍を督させて撃たせた。
- 魏の晉王伏羅が楽都に至り、兵を引いて間道から吐谷渾を襲い、大母橋に至った。吐谷渾王慕利延は大いに驚いて白蘭へ逃げ奔り、慕利延の兄の子の拾寅は河西へ奔った。魏軍は五千余級を斬った。慕利延の従弟の伏念らが一万三千部落を率いて魏に降った。
二十二年(445年)
- 夏四月庚戌、魏主が征西大将軍高涼王那らを遣わして吐谷渾王慕利延を白蘭に撃たせ、秦州刺史である代の人封敕文、安遠将軍乙烏頭に慕利延の兄の子の什帰を枹罕に繋がせた。
- 吐谷渾の什帰は魏軍が至ろうとしていると聞き、城を棄てて夜に遁れた。八月丁亥、封敕文が枹罕に入り、その民千家を分け徙して上邽に還り、乙烏頭を留めて枹罕を守らせた。
- 万度帰が敦煌に至り、輜重を留めて軽騎五千で流沙を渡って鄯善を襲った。壬辰、鄯善王真達が面縛して出降した。度帰は軍を留めて屯し守らせ、真達と平城に詣でた。西域はまた通じた。
- 壬寅、魏の高涼王那の軍が寧頭城に至った。吐谷渾王慕利延はその部落を擁して西のかた流沙を渡った。吐谷渾の慕璝の子である被囊が迎え戦い、那は撃ち破った。被囊は遁れ走り、中山公杜豊が精騎を率いて追い、三危を渡って雪山に至り、被囊および吐谷渾の什帰、乞伏熾磐の子の成竜を生け捕り、みな平城に送った。
- 慕利延はそのまま西のかた于闐に入り、その王を殺してその地に拠った。死者は数万人。
二十三年(446年)
- 吐谷渾がまた旧土に還った。
二十七年(450年)
- 吐谷渾王慕利延が魏に逼られ、上表して越嶲に入って保つことを求めた。上は許したが、慕利延はついに至らなかった。
二十九年(452年)
- 秋九月、吐谷渾王慕利延が卒し、樹洛干の子の拾寅が立ち、初めて伏羅川に居って使いを遣わして魏に命を請うた。丁亥、拾寅を安西将軍・西秦河沙三州刺史・河南王とした。魏は拾寅を鎮西大将軍・沙州刺史・西平王とした。
孝武帝大明四年(460年)
- 吐谷渾王拾寅は宋と魏の両方から爵命を受け、居止も出入りも王者に擬えた。魏人はこれを忿った。定陽侯曹安が表した。「拾寅は今、白蘭を保っております。もし軍を分けてその左右に出せば、必ず走って南山を保ちましょう。十日を過ぎず、人も畜も食に乏しくなります。一挙に定められます」。
- 六月甲午、魏が征西大将軍陽平王新成らを遣わして統万・高平の諸軍を督して南道から出させ、南郡公である中山の李恵らに涼州の諸軍を督させて北道から出させ、吐谷渾を撃たせた。
- 秋七月、魏軍が西平に至り、吐谷渾王拾寅は走って南山を保った。九月、魏軍は河を済って追ったが、ちょうど疾疫があって引き還した。雑畜二十余万を獲た。
明帝泰始六年(470年)
- 春二月、魏主が征西大将軍上党王長孫観を遣わして吐谷渾を撃たせた。
- 夏四月戊申、魏の長孫観が吐谷渾王拾寅と曼頭山で戦い、拾寅は敗走して別駕康盤竜を入貢させた。魏主は囚えた。
蒼梧王元徽元年(473年)
- 吐谷渾王拾寅が魏の澆河を冦した。夏四月戊申、魏が司空長孫観を大都督として兵を発して討たせた。
- 秋八月庚申、魏の長孫観が吐谷渾の境に入ってその秋の稼を芻った。吐谷渾王拾寅は窘り急って降を請い、子の斤を遣わして入侍させた。これより歳ごとに職貢を修めた。
斉高帝建元三年(481年)
- 吐谷渾王拾寅が卒し、世子の度易侯が立った。冬十月戊子朔、度易侯を西秦河二州刺史・河南王とした。
武帝永明八年(490年)
- 秋八月、河南王度易侯が卒した。乙酉、その世子の伏連籌を秦河二州刺史とし、振武将軍丘冠先を遣わして拝授させ、あわせて弔わせた。伏連籌は冠先に逼って拝させようとしたが、冠先は従わなかった。伏連籌は冠先を推して崖から墜として死なせた。上は厚くその子の丘雄に賜わり、「喪を絶域に委ねたのは二度と尋ねようがない。仕進に嫌いはない」と敕した。
九年(491年)
- はじめ魏主が吐谷渾王伏連籌を召して入朝させようとした。伏連籌は疾を辞して至らず、みだりに洮陽・泥和の二城を修めて戍兵を置いた。二月乙亥、魏の枹罕鎮将長孫百年が二戍を撃つことを請い、魏主は許した。
- 五月、魏の長孫百年が洮陽・泥和の二戍を攻めて克ち、三千余人を俘とした。
十年(492年)
- 魏の文明太后の喪に人を遣わして吐谷渾に告げた。吐谷渾王伏連籌は命を拝すのに恭しくなかった。群臣が討つことを請うたが魏主は許さず、また貢物を返すことを請うた。帝は言った。「貢物は人臣の礼。今それを受けねば、これは棄て絶つことだ。彼が自ら新たにしようとしても、その路がなくなる」。そのついでに洮陽・泥和の俘を帰すよう命じた。
- 秋七月庚申、吐谷渾がその世子の賀虜頭を魏に入朝させた。詔して伏連籌を都督西垂諸軍事・西海公・吐谷渾王とした。兼員外散騎常侍張礼を吐谷渾に使いさせた。伏連籌が礼に言った。「先ごろ宕昌は常に名を称して私を大王と呼んでいたのに、今にわかに僕と称し、また使人を拘え執えた。偏師を遣わして問いに往かせようと思うが、どうか」。礼は言った。「君と宕昌はみな魏の藩です。近ごろみだりに兵を興して攻められたのは、はなはだ臣節に違います。京師を離れる日、宰輔の言に『君が自らその過ちを知れば藩業は保てる。もし悛めねば禍難がまさに至ろう』とありました」。伏連籌は黙した。
東昏侯永元二年(500年)
- 吐谷渾王伏連籌は魏に仕えて礼を尽くしたが、その国に居っては百官を置くのがみな天子の制のごとくで、その隣国に対して制を称した。魏主は使いを遣わして責め、そのうえで宥した。
梁武帝天監三年(504年)
- 秋九月、吐谷渾王伏連籌を西秦河二州刺史・河南王とした。
大同六年(540年)
- 冬十一月、吐谷渾は莫折念生の乱以来、魏に通じていなかった。伏連籌の子の夸呂が立って初めて可汗と称し、伏俟城に居った。その地は東西三千里、南北千余里。官には王・僕射・尚書・郎中・将軍の号があった。この年、初めて使いを遣わして柔然に道を借りて東魏に聘した。
元帝承聖二年(553年)
- 夏四月、吐谷渾の可汗夸呂は魏に使いを通じながら冦し抄うのを息めなかった。宇文泰が騎三万を将いて隴を踰えて姑臧に至り討った。夸呂は懼れて服を請うたが、まもなくまた斉に使いを通じた。涼州刺史史寧はその還るのを覘い知り、赤泉で襲ってその僕射乞伏触状を獲た。
敬帝太平元年(556年)
- 秋九月、突厥の木杆可汗が涼州に道を借りて吐谷渾を襲おうとした。魏の太師泰は涼州刺史史寧に騎を率いて随わせた。番禾に至って吐谷渾は覚り、南山へ奔った。木杆は兵を分けて追おうとした。寧は「樹敦・賀真の二城は吐谷渾の巣穴です。その本根を抜けば余衆は自ら散じます」と言い、木杆は従った。
- 木杆は北道から賀真へ趨り、寧は南道から樹敦へ趨った。吐谷渾の可汗夸呂は賀真におり、その征南王に数千人を将いさせて樹敦を守らせていた。木杆は賀真を破って夸呂の妻子を獲、寧は樹敦を破って征南王を虜にし、還って木杆と青海で会した。木杆は寧の勇決を歎じ、贈遺は甚だ厚かった。
陳武帝永定元年(557年)
- 春正月、吐谷渾が周を冦し、涼・鄯・河の三州を攻めた。秦州都督が渭州刺史于翼を遣わして援けに赴かせようとしたが、翼は従わなかった。僚属がみな言った。翼は言った。「攻め取る術は夷の俗の長ずるところではない。この冦の来るのは辺の牧を抄い掠めるにすぎぬ。掠めても獲るものがなければ、勢いは自ら走ろう。師を労して往っても必ず及ぶまい。翼はすでに揣り了えた。願わくは重ねて言われるな」。数日して報せが至り、果たして翼の策のとおりであった。
文帝天康元年(566年)
- 夏五月、吐谷渾の竜涸王莫昌が部落を率いて周に附いた。その地を扶州とした。
宣帝太建八年(576年)
- 春二月辛酉、周主が太子に西土を巡撫し、そのついでに吐谷渾を伐つよう命じた。
- 秋八月、周の太子が吐谷渾を伐ち、伏俟城に至って還った。
十三年(581年)
- 秋八月、吐谷渾が涼州を冦した。隋主は行軍元帥楽安公元諧らを遣わし、歩騎数万で撃たせた。諧は吐谷渾を豊利山で撃ち破り、またその太子可博汗を青海で敗り、俘と斬は万を数えた。吐谷渾は震え駭き、その王侯三十人がそれぞれ部下を率いて来降した。吐谷渾の可汗夸呂は親兵を率いて遠く遁れた。隋主はその高寧王移兹裒を河南王として降った衆を統べさせ、元諧を寧州刺史とし、行軍総管賀婁子幹を留めて涼州に鎮させた。
長城公至徳元年(583年)
- 夏四月庚午、吐谷渾が隋の洮州を冦した。洮州刺史皮子信が出戦して敗死し、汶州総管梁遠が撃ち走らせた。また廓州を冦したが、州兵が撃ち走らせた。
- 夏六月庚辰、隋の行軍総管梁遠が吐谷渾を爾汗山で破った。
二年(584年)
- 夏四月、隋の上大将軍賀婁子幹が五州の兵を発して吐谷渾を撃ち、男女一万余口を殺し、二旬で還った。
- 帝は隴西がしきりに冦掠を被りながら俗として村塢を設けぬので、子幹に民を勒して堡を作らせ、そのうえで田を営み穀を積ませようとした。子幹は上書した。「隴西と河右は土が曠く民が稀で、辺境はまだ寧からず、広く佃を営むことはできません。近ごろ屯田の所を見るに、獲るものは少なく費えは多く、いたずらに人の功を役し、にわかに踏み暴かれます。屯田の疎く遠いものはみな廃し省くことをお請いします。ただ隴右の民は畜牧を事としております。もし更に屯め聚めれば、いよいよ自ら安んじられません。ただ鎮と戍を連ね接し、烽と堠を相い望ませれば、民は散り居っても必ず慮りなしと言いましょう」。帝は従った。子幹が辺事に暁く習っているので、丁巳、榆関総管とした。
四年(586年)
- 吐谷渾の可汗夸呂は在位百年、しばしば喜怒に因って太子を廃し殺した。のちの太子は懼れて夸呂を捕らえて降る謀を巡らせ、隋に兵を請うた。辺吏の秦州総管河間王楊弘が兵をもって応ずることを請うたが、隋主は許さなかった。太子の謀は漏れて夸呂に殺された。また少子の嵬王訶を太子に立てた。畳州刺史杜粲がその釁に因って討つことを請うたが、隋主はまた許さなかった。
- この年、嵬王訶がまた誅を懼れ、部落一万五千戸を率いて隋に降る謀を巡らせ、使いを闕に詣でさせて迎えの兵を請うた。隋主は言った。「渾の賊は風俗が特に異なり、人倫において父はすでに慈でなく子もまた孝でない。朕は徳をもって人を訓える。どうしてその悪逆を成させることがあろう」。そこで使者に言った。「父に過失があれば子は諫め争うべきだ。どうしてひそかに非法を謀り不孝の名を受けられよう。溥天の下はみな朕の臣妾。各々善事を為せば、それが朕の心に称う。嵬王がすでに朕に帰そうとするなら、朕はただ嵬王に臣子の法を教えるのみ。遠く兵馬を遣わして悪事を為すのを助けることはできぬ」。嵬王訶はそこでやめた。
禎明二年(588年)
- 吐谷渾の禆王拓抜木彌が千余家をもって隋に降ることを請うた。隋主は言った。「溥天の下はみな朕の臣。朕の撫育はともに仁孝に存する。渾の賊は惛れ狂い、妻子は怖れを懐き、ともに帰化を思って自ら危亡を救おうとしている。しかし夫に叛き父に背く者は収め納れられぬ。またその本意はまさに自ら死を避けるためだ。今もし違え拒めば、これも仁でない。もしさらに音信があれば、ただ慰め撫して自ら抜け出るに任せるべきで、兵を出して応接する必要はない。その妹の夫および甥が来ようとするのも、その意に任せよ。勧め誘うには及ばぬ」。
隋文帝開皇十一年(591年)
- 春二月戊午、吐谷渾が使いを遣わして入貢した。吐谷渾の可汗夸呂は陳の亡んだのを聞いて大いに懼れ、遁れ逃れて険を保ち、あえて冦を為さなかった。
- 夸呂が卒して子の世伏が立ち、その兄の子の無素に表を奉らせて藩と称し、あわせて方物を献じ、娘を後庭に備えることを請うた。上は無素に言った。「もし来請に依れば、他国が聞いて必ず相い倣おう。何をもって拒めようか。朕の情は安養に存し、各々性を遂げさせるにある。どうして子女を聚め斂めて後宮を実たせられよう」。ついに許さなかった。
十六年(596年)
- 冬十一月、帝が光化公主を吐谷渾の可汗世伏に妻あわせた。世伏が上表して公主を天后と称することを請うたが、上は許さなかった。
十七年(597年)
- 吐谷渾が大いに乱れ、国人が世伏を殺してその弟の伏允を立てて主とし、使いを遣わして廃立の事を陳べ、あわせて専命の罪を謝し、そのうえで俗に依って主を尚ぐことを請うた。上は従った。これより朝貢は歳ごとに至った。
煬帝大業四年(608年)
- 秋七月、裴矩が鉄勒の使いに説いて吐谷渾を撃たせ、大いに破った。吐谷渾の可汗伏允は東へ走って西平の境内に入り、使いを遣わして降を請い救いを求めた。
- 帝は安徳王楊雄を澆河に、許公宇文述を西平に出して迎えさせた。述が臨羌城に至ると、吐谷渾は述の兵の盛んなのを畏れてあえて降らず、衆を率いて西へ遁れた。述は兵を引いて追い、曼頭・赤水の二城を抜き、三千余級を斬り、その王公以下二百人を獲、男女四千口を虜にして還った。
- 伏允は南のかた雪山へ奔り、その故地はみな空となった。東西四千里、南北二千里はみな隋の有となり、郡・県・鎮・戍を置き、天下の軽罪の者を徙して居らせた。
五年(609年)
- 夏四月癸亥、上が臨津関に出て黄河を渡り、西平に至って兵を陳ね武を講じ、吐谷渾を撃とうとした。
- 五月、吐谷渾の可汗伏允が衆を率いて覆袁川を保った。帝は分け命じて内史元寿を南のかた金山に屯させ、兵部尚書段文振を北のかた雪山に屯させ、太僕卿楊義臣を東のかた琵琶峡に屯させ、将軍張寿を西のかた泥嶺に屯させ、四面から囲んだ。伏允は数十騎で遁れ出、その名王を遣わして伏允と詐り称し、車我真山を保たせた。
- 壬辰、詔して右屯衛大将軍張定和を往って捕らえさせた。定和はその衆の少ないのを軽んじ、甲も被ずに身を挺して山に登った。吐谷渾の伏兵が射殺した。その亜将柳武建が吐谷渾を撃って破った。
- 甲午、吐谷渾の仙頭王が窮まり蹙まって男女十余万口を率いて来降した。
- 六月丁酉、左光禄大夫梁黙らを遣わして伏允を追討させたが、兵は敗れ、伏允に殺された。衛尉卿である彭城の劉権が伊吾道に出て吐谷渾を撃ち、青海に至って千余口を虜獲し、勝ちに乗じて敗走を追い、伏俟城に至った。
- はじめ吐谷渾の伏允はその子の順を来朝させ、帝は順を留めて遣わさなかった。伏允は敗走して自ら資するものがなく、数千騎を率いて党項に客となった。帝は順を立てて可汗とし、玉門まで送ってその余衆を統べさせ、その大宝王尼洛周を輔とした。西平に至ってその部下が洛周を殺し、順は入るを果たさず還った。