通鑑紀事本末宇文護の反逆(宇文護逆節)

北周の宇文護が太祖の後を承けて政を専らにし、趙貴・独孤信を除き、孝愍帝を廃殺して明帝(世宗)を立て、その明帝も毒して武帝を立てるまでの専権と、武帝が16年の隠忍ののち自ら玉珽で護を撃ち、衛公直に斬らせて一族を誅し親政を始めるまでの16年間。李植・李遠父子の死、庾季才の諫言も語られる。

年表(7件)
  • 陳高祖
  • 永定元年557年宇文護が趙貴を誅し独孤信を自殺させ、孝愍帝を廃殺して明帝を立てる
  • 二年558年周が晉公護を太師とする
  • 三年559年護が表を上って政を帰し、周王が初めて親ら万機に当たる
  • 陳文帝
  • 天嘉元年560年護が世宗を毒し、遺詔により魯公邕が帝位に即く
  • 二年561年保定と改元し、護を都督中外諸軍事として五府を総べさせる
  • 四年563年詔して護の名を諱ませ、護は表を抗げて固辞する
  • 陳宣帝
  • 太建四年572年武帝が酒誥を口実に護を撃ち殺し、その子弟と党与を誅して親政する

陳高祖永定元年(557年)

  • 春二月、周の楚公趙貴・衛公独孤信はもとみな太祖(宇文泰)と対等の身分であった。晉公宇文護が政を専らにすると、みな怏々として服さなかった。貴は護を殺す謀を巡らせ、信が止めた。開府儀同三司宇文盛が告げた。丁亥、貴が入朝したところを護は捕らえて殺し、信の官を免じた。
  • 三月、周の晉公護は趙景公独孤信の名が重いので顕らかに誅すのを望まず、己酉、逼って自殺させた。
  • 夏四月、周の儀同三司斉軌が御正中大夫薛善に「軍国の政は天子に帰すべきだ。どうしてなお権門にあってよいものか」と言った。善は晉公護に告げ、護は殺し、善を中外府司馬とした。
  • 周の孝愍帝は性が剛く果断で、晉公護の専権を悪んだ。司会李植は太祖の時から相府司録として朝政を参掌し、軍司馬孫恒もまた久しく権要に居た。護が政を執ると、植と恒は容れられぬのを恐れ、そこで宮伯乙弗鳳・賀抜提らと共に周王に譖った。
  • 植と恒は言った。「護は趙貴を誅して以来、威権が日に盛んで、謀臣も宿将も争って往き附いております。大小の政はみな護に決します。臣の観るところ、臣節を守りますまい。願わくは陛下、早く図られよ」。王はもっともとした。鳳と提は「先王の明をもってしてすら植と恒に朝政を委ねられました。今、事を二人に付されて、何を成らぬと患えましょう。しかも護は常に自ら周公に比べております。臣の聞くところ、周公の摂政は七年。陛下はどうして七年もこのように邑々としていられましょう」と言った。王はいよいよ信じ、しばしば武士を後園に引いて縛につかせる勢を講習した。
  • 植らはまた宮伯張光洛を引いて同じく謀った。光洛は護に告げた。護はそこで植を出して梁州刺史、恒を潼州刺史とし、その謀を散じようとした。のち王は植らを思い、いつも召そうとした。護は泣いて諫めた。「天下の至親は兄弟に過ぎるものはありません。もし兄弟すら相い疑えば、他人の誰を信じられましょう。太祖は陛下が春秋に富むゆえ臣に後事を属されました。臣の情は家と国を兼ね、実に股肱を竭くすことを願います。もし陛下が親ら万機を覧て威を四海に加えられるなら、臣は死ぬ日も生きる年のごとくです。ただ恐れるのは、臣を除いたのちに姦回が志を得れば、ただ陛下に不利なだけでなく社稷を傾け覆し、臣に九泉で太祖にまみえる面目をなくさせることです。しかも臣はすでに天子の兄となり位は宰相に至った。この上また何を求めましょう。願わくは陛下、讒人の言を信じて骨肉を疎み棄てられますな」。王はそこでやめて召さなかったが、心はなお疑った。
  • 鳳らはいよいよ懼れ、密謀はますます甚だしくなり、日を刻んで群公を宴に召し、そのついでに護を捕らえて誅そうとした。張光洛がまた護に告げた。護はそこで柱国賀蘭祥・領軍尉遅綱らを召して謀った。祥らは護に廃立を勧めた。当時、綱は禁兵を総領していた。綱を宮に入らせ、鳳らを召して事を議させ、着くごとに次々に捕らえて護の邸に送り、そのついでに宿衛の兵を罷め散らした。
  • 王はやっと悟ったが、独り内殿にあって宮人に兵を執らせて自ら守った。護は賀蘭祥を遣わして王に位を遜らせ、旧第に幽した。公卿をことごとく召して会議し、王を廃して略陽公とし、岐州刺史寧都公宇文毓を迎え立てた。公卿はみな「これは公の家事。あえて唯だ命に従わぬことがありましょうか」と言った。そこで鳳らを門の外で斬り、孫恒もまた誅に伏した。
  • 当時、李植の父である柱国大将軍李遠は弘農に鎮していた。護は遠と植を召して還朝させた。遠は変があるのを疑い、沈吟すること久しく、そこで言った。「大丈夫はむしろ忠の鬼となるべきだ。どうして叛臣となれよう」。そのまま徴に就いて長安に至った。
  • 護は遠の功名がもとより重いので、なお全うしようとして引いて相い見え、言った。「公の児はついに異謀があった。護の身を屠戮するに止まらず、宗社を傾け危うくするものだ。叛臣賊子は道理として同じく疾むべきもの。公は早く処されるがよい」。そこで植を遠に付した。遠はもとより植を愛し、植もまた口が達者で自ら「初めからこんな謀はありません」と陳べた。遠は本当だと思い、翌朝、植を連れて護に謁した。護は植がすでに死んだと思っていた。左右が「植も門におります」と言うと、護は大いに怒って「陽平公は私を信じぬのか」と言い、そこで召し入れ、そのうえで遠に同席するよう命じ、略陽公と植を遠の前で相い質させた。植は辞に窮して略陽公に言った。「もともとこの謀は社稷を安んじ至尊を利するためでした。今日ここに至って、何を云々することがありましょう」。遠は聞いて自ら牀に身を投じて「そうならば、まことに万死に値する」と言った。
  • こうして護は植を害し、あわせて遠に逼って自殺させた。植の弟の李叔詣・叔謙・叔譲もまた死に、他の子は幼いので免れ得た。
  • はじめ遠の弟である開府儀同三司李穆は、植が家を保つ主でないと知り、いつも遠に除くよう勧めたが、遠は用いられなかった。遠が刑に臨んで泣いて穆に「私はお前の言を用いず、ここに至った」と言った。穆は連座するはずだったが、以前の言によって免れ、除名されて民となり、その子弟もまた免官された。植の弟の浙州刺史李基は義帰公主を娶っており、連座するはずだった。穆は二子をもって基に代えることを請い、護は命じて両方とも釈した。
  • ひと月余りののち、護は略陽公を弑し、王后の元氏を黜けて尼とした。癸亥、寧都公が岐州から長安に至り、甲子、天王の位に即いて大赦した。

二年(558年)

  • 春正月、周が晉公護を太師とした。
  • 夏四月、周が太師護を雍州牧とした。

三年(559年)

  • 春正月己酉、周の太師護が表を上って政を帰した。周王は初めて親ら万機に当たったが、軍旅の事は護がなお総べた。
  • 周の処士韋夐は韋孝寛の兄である。志尚は夷らかで簡やか、魏・周の際に十度徴されて屈しなかった。周の太祖は甚だ重んじてその志を奪わず、世宗は礼敬がとりわけ厚く、逍遥公と号した。晉公護が邸に招いて政事を訪ねた。護は大いに邸舎を修めていた。夐は堂を仰ぎ視て歎じた。「酒に酣り音を嗜み、宇を峻しくし牆を彫る。この一つがあれば亡びぬことはない」。護は悦ばなかった。

陳文帝天嘉元年(560年)

  • 夏四月、周の世宗は明敏で識量があり、晉公護は憚った。膳部中大夫李安に糖の䭔(餅)に毒を置いて進めさせた。帝はかなり気づいた。庚子、大いに危篤となり、口ずから遺詔五百余言を授け、そのうえで言った。「朕の子は年幼く、まだ国に当たるに堪えぬ。魯公は朕の介弟、寛仁大度なることは海内が共に聞いている。わが周家を弘められるのは必ずこの子である」。辛丑、殂した。
  • 魯公は幼くして器質があり、特に世宗に親愛され、朝廷の大事は多く共に参議した。性は深く沈み遠識があり、顧問によるのでなければ終にみだりに言わなかった。世宗はいつも歎じて「そもそも人は言わぬが、言えば必ず中る」と言った。
  • 壬寅、魯公が皇帝の位に即き、大赦した。

二年(561年)

  • 春正月戊申、周が改元して保定とし、大冢宰護を都督中外諸軍事とし、五府を天官に総べさせた。事は巨細を問わずみな先に断じてのち聞かせた。

四年(563年)

  • 春二月辛酉、周が詔した。「大冢宰晉国公は親しくは懿き昆、任は元輔に当たる。今より詔誥および百司の文書には、ともに公の名を称してはならぬ」。護は表を抗げて固辞した。

陳宣帝太建四年(572年)

  • はじめ周の太祖が魏の相であったとき、左右十二軍を立ててすべて相府に属させた。太祖が殂すと、みな晉公護の処分を受け、およそ徴発するところは護の書でなければ行われなかった。護の邸に屯する兵と侍衛は宮闕より盛んで、諸子と僚属はみな貪り残いで恣に横まし、士民は患えとした。周主は深く自ら晦まし匿し、関わり預るところなく、人はその浅深を測れなかった。
  • 護が稍伯大夫庾季才に「近日の天道はどうか」と問うた。季才は答えた。「恩を荷うこと深く厚い。あえて言を尽くさぬわけにいきません。近ごろ上台に変があります。公は政を天子に帰し、老を私門に請われるべきです。そうすれば期頤の寿を享け、旦(周公)・奭(召公)の美を受け、子孫は常に藩屏となりましょう。そうでなければ、もはや知るところではありません」。護は沈吟すること久しく「私の本志はそのとおりだ。ただ辞しても免れ得ぬだけだ」と言い、「公はすでに王官である。朝の例に依るがよい。別に寡人に参ずる煩いは無用だ」と言った。これより疎んじた。
  • 衛公宇文直は帝の同母弟で、深く護に昵しんでいたが、沌口の敗で連座して免官され、これで護を怨み、帝に誅すよう勧め、その位を得ることを兾った。帝はそこでひそかに直および右宮伯中大夫宇文神挙・内史下大夫である太原の王軌・右侍上士宇文孝伯と謀った。神挙は宇文顕和の子、孝伯は安化公宇文深の子である。
  • 帝は禁中で護に会うたび常に家人の礼を行い、太后が護に坐を賜わると帝は立って傍らに侍した。丙辰、護が同州から長安に還り、帝は文安殿に御して会い、そのついでに護を引いて含仁殿に入って太后に謁させ、そのうえで言った。「太后は春秋が高く、かなり酒を好まれる。しばしば諫めても納れていただけぬ。兄が今、入朝された。どうか改めて啓し請われよ」。そのついでに懐中から酒誥を出して授け「これで太后を諫められよ」と言った。
  • 護は入って帝の戒めたとおりにし、酒誥を読み終わらぬうちに、帝は玉の珽で後ろから撃った。護は地に踣れた。帝は宦者何泉に御刀で斫らせたが、泉は惶れ懼れて斫っても傷つけられなかった。衛公直が戸の内に匿れていて躍り出て斬った。当時、神挙らはみな外にあり、他に知る者はなかった。
  • 帝は宮伯長孫覧らを召して護をすでに誅したと告げ、護の子の柱国譚公宇文会・大将軍莒公宇文至・崇業公宇文静・正平公宇文乾嘉およびその弟の乾基・乾光・乾蔚・乾祖・乾威、あわせて柱国北地の侯竜恩・竜恩の弟の大将軍侯万寿・大将軍劉勇・中外府司録尹公正・袁傑・膳部下大夫李安らを収めて殿中で殺した。覧は長孫稚の孫である。
  • はじめ護が趙貴らを殺して以来、諸将の多くは自ら安んじられなかった。侯竜恩は護に親しまれていた。その従弟である開府儀同三司侯植が竜恩に言った。「主上は春秋すでに富み、安危は数公にかかっております。もし多く誅戮して自ら威権を立てられれば、ただ社稷に累卵の危うきがあるだけでなく、わが宗もこれによって敗れるのを恐れます。兄はどうして知りながら言わぬのか」。竜恩は従えなかった。植はまた間に乗じて護に言った。「公は骨肉の親をもって社稷の寄に当たっておられます。願わくは誠を王室に推し、跡を伊尹・周公に擬えられよ。そうすれば率土は幸甚です」。護は「私は身をもって国に報いると誓っている。卿はまさか私に他志があると言うのか」と言い、またそれ以前に竜恩と語ったことを聞いて、ひそかに忌んだ。植は憂えて卒した。護が敗れて竜恩の兄弟はみな死んだ。高祖は植を忠として、特にその子孫を免じた。
  • 大司馬兼小冢宰・雍州牧の斉公宇文憲はもとより護に親任され、賞罰の際にみな参預し、権勢はかなり盛んであった。護が陳べようとすることは多く憲に聞奏させ、その間、可否のあることもあった。憲は主と相の嫌隙を慮り、いつも曲げて暢べた。帝もまたその心を察していた。護が死んで憲を召すと、憲は冠を免じて拝謝した。帝は慰め勉め、護の邸に詣でて兵符および諸々の文籍を収めさせた。衛公直はもとより憲を忌み、固く誅すことを請うたが、帝は許さなかった。
  • 護の世子宇文訓は蒲州刺史であった。この夜、帝は柱国越公宇文盛を伝馬で遣わして訓を徴し、同州に至って死を賜わった。昌城公宇文深は突厥に使いしてまだ還っていなかったので、開府儀同三司宇文徳に璽書を齎させて就いて殺した。護の長史である代郡の叱羅協、司録である弘農の馮遷および親任された者はみな除名した。
  • 丁巳、大赦して改元し、宇文孝伯を車騎大将軍とし、王軌とともに開府儀同三司を加えた。
  • はじめ孝伯は帝と同じ日に生まれ、太祖が愛して邸中で養い、幼くして帝と同じく学んだ。即位して左右に引き致そうとし、「孝伯と旧経を講習したい」と託して言った。ゆえに護は疑わなかった。右侍上士として臥内を出入りさせ、機務に預り聞かせた。孝伯は人となり沈着で正しく忠実で諒であり、朝政の得失、外間の細事に至るまで、帝に聞かせぬものはなかった。
  • 帝が護の書記を閲すると、符命に仮託して妄りに異謀を造った者があり、みな連座して誅された。ただ庾季才の書二紙だけは、緯候と災祥を盛んに言い、政を返し権を帰すべきだと述べていた。帝は季才に粟三百石・帛二百段を賜わり、太中大夫に遷した。
  • 癸亥、尉遅迥を太師、柱国竇熾を太傅、李穆を太保、斉公憲を大冢宰、衛公直を大司徒、陸通を大司馬、柱国辛威を大司寇、趙公宇文招を大司空とした。
  • 当時、帝は初めて親ら朝政を覧て、かなり威刑を事とし、骨肉であっても寛く借すところがなかった。斉公憲は冢宰に遷ったとはいえ実はその権を奪われた。また帝は憲の侍読裴文挙に言った。「昔、魏の末に綱が乱れ、太祖が政を輔けた。周室が命を受けるに及んで晉公がまた大権を執った。積習は常を生じ、愚か者は法とはこうあるべきものだと言う。どうして年三十の天子が人に制せられてよいものか。詩に『夙夜懈らず、もって一人に事う』とある。一人とは天子のことだ。卿は斉公に陪り侍るとはいえ、すぐさま同じく臣となるわけにはいかぬ。事える相手のために死のうと思うなら、まさに正道をもって輔け義方をもって勧め、わが君臣を輯め睦ませ、わが兄弟を協い和ませ、自ら嫌疑を致さぬようにさせよ」。文挙はすべて憲に白した。憲は心を指し几を撫でて言った。「わが夙心を公はご存じないはずがない。ただ忠を尽くし節を竭くすのみ。この上また何を言おう」。
  • 衛公直は性が浮ついて詭く、貪り很く、大冢宰を望んでいた。得られぬと、はなはだ怏々として、改めて大司馬となることを請い、兵権に拠ろうとした。帝はその意を揣り知って「お前たち兄弟には長幼の序がある。どうして返って下の列に居られようか」と言い、これで大司徒に用いた。
  • 夏四月庚寅、周が略陽公を孝閔皇帝と追尊した。