通鑑紀事本末王琳、斉に奔る(陳の斉討伐を付す)(王琳犇齊(陳伐齊附))

梁の元帝に抜擢されながら疑われて湘州に遠ざけられた王琳が、部将陸納の叛と江陵陥落を経て長沙で自立し、上流諸将の盟主となるまで。陳霸先が梁を簒うと琳はこれを認めず、沌口で侯安都・周文育を破り、北斉の援けを得て永嘉王蕭荘を帝に立てて建康を窺った。だが560年、蕪湖から東下したところを侯瑱に大破され、琳は北斉へ奔る。斉では寿陽に鎮したが盧潜と隙を生じて鄴に徴され、以後は陳と斉の聘使往来が続いた。552年から565年までの十四年間。

年表(14件)
  • 梁元帝
  • 承聖元年552年王琳が江陵で捕らえられ、部将陸納が湘州に拠って叛く
  • 二年553年王僧弁が陸納を破り、琳の説諭で長沙が降って湘州が平らぐ
  • 三年554年琳が広州刺史に遷され、次いで入援を命じられるが江陵は陥ちる
  • 敬帝
  • 紹泰元年555年琳が長沙で元帝の喪を発し、上流の諸将に盟主と推される
  • 太平元年556年琳が北斉と西魏の双方に款を通じ、魏に長沙郡公とされる
  • 陳高祖
  • 永定元年557年琳が沌口で侯安都・周文育を破って擒える
  • 二年558年琳が北斉の援けで永嘉王荘を帝に立て、天啓と改元する
  • 三年559年陳の高祖が殂し、琳は蕭荘を奉じて濡須口に出る
  • 陳文帝
  • 天嘉元年560年琳が蕪湖の戦いで侯瑱に大敗し、北斉へ奔る
  • 二年561年斉主が琳を揚州刺史として寿陽に鎮させる
  • 三年562年琳が盧潜と隙を生じて鄴に徴され、陳と斉が和親する
  • 四年563年斉主が崔子武を聘に来させる
  • 五年564年斉主が皇甫亮・劉逖を相次いで聘に来させる
  • 六年565年斉主が王季高を聘に来させる

梁元帝承聖元年(552年)

  • 冬十月戊申、湘東王が湘州刺史王琳を殿中で捕らえ、その副将殷宴を殺した。
  • 琳はもと会稽の兵家の出で、その姉妹はみな王宮に入っていたので、琳は若くから王の左右にあった。琳は勇を好み、王は将帥とした。琳は身を傾けて士に下り、得た賞賜は家に入れなかった。麾下一万人は多くが江淮の群盗であった。王僧弁に従って侯景を平らげ、杜龕とともに功は第一であった。建康にあって寵を恃んで暴を縦にし、僧弁は禁じられなかった。僧弁は宮殿が焼けたことで罪を得るのを恐れ、琳をもって責を塞ごうとし、ひそかに王に啓して琳を誅することを請うた。王は琳を湘州とした。
  • 琳は禍が及ぶのを自ら疑い、長史陸納に部曲を率いて湘州へ赴かせ、自身は江陵に詣でて陳謝することにし、納らに「私がもし返らなければ、お前たちはどうする」と言った。みな「死をお請いします」と言い、泣き合って別れた。江陵に至ると、王は琳を吏に下した。
  • 辛酉、王の子の方略を湘州刺史とし、また廷尉黄羅漢を長史とし、太舟卿張載とともに巴陵に至らせて先に琳の軍に拠らせた。載は王に寵されていたが、下を御するのに峻しく刻く、荊州の人は讐のように疾んだ。羅漢らが琳の軍に至ると、陸納および士卒はみな哭して命を受けようとせず、羅漢と載を捕らえた。王が宦者陳旻を遣わして諭させた。納は旻に対して載の腹を刳り腸を抽いて馬の足に繋ぎ、繞って走らせた。腸が尽きて気は絶えた。さらに臠割してその心を出し、それに向かって手を打って舞い、その余りの骨を焼いた。黄羅漢は清く謹しいので免じた。
  • 納は諸将と兵を引いて湘州を襲った。当時、州中に主がなく、納はそのまま拠った。
  • 十一月、湘東王が江陵で皇帝の位に即いた。
  • 陸納が衡州刺史丁道貴を渌口に襲撃して破った。道貴は零陵へ奔り、その衆はことごとく納に降った。上は聞いて使いを遣わし、司徒王僧弁・右衛将軍杜崱・平北将軍裴之横を徴し、宜豊侯蕭循と共に納を討たせた。循は巴陵に軍して待った。

二年(553年)

  • 春三月、陸納がその将の呉蔵・潘烏黒・李賢明らを下らせて車輪に拠らせた。王僧弁が巴陵に至り、宜豊侯循が都督を僧弁に譲ったが、僧弁は受けなかった。上はそこで僧弁と循を東西の都督とした。
  • 夏四月丙申、僧弁が車輪に軍した。陸納は岸を挟んで城を為して王僧弁を拒んだ。納の士卒はみな百戦の余で、僧弁は憚ってあえて軽々しく進まず、少しずつ連城を作って逼った。納は僧弁を怯えと思って備えを設けなかった。
  • 五月甲子、僧弁は諸軍に水陸から斉しく進んで急に攻めるよう命じ、僧弁は親ら旗と鼓を執り、宜豊侯循は身に矢石を受け、その二城を抜いた。納の衆は大敗し、歩いて走って長沙を保った。
  • 六月、上が使いを遣わして王琳を送り、陸納に説き諭させた。乙未、琳が長沙に至り、僧弁は送って示させた。納の衆はことごとく拝し、かつ泣いた。僧弁に「朝廷がもし王郎を赦されるなら、城に入れることをお聴し願いたい」と言わせた。僧弁は許さず、また江陵に送り返した。
  • 陸法和の救援要請が已まなかった。上は長沙の兵を召そうとしたが、陸納を失うのを恐れ、そこでまた琳を遣わして入城を許した。琳が入ると納はそのまま降り、湘州は平らいだ。上は琳の官爵を復した。
  • 秋八月、湘州刺史王琳を衡州刺史とした。

三年(554年)

  • 夏五月乙巳、王琳を広州刺史とした。上は琳の部衆が強盛で、また衆心を得ているので遠ざけようとしたのである。琳は主書である広漢の李膺と厚く親しく、ひそかに膺に言った。「琳は小人です。官(帝)に抜擢されてここまで来ました。今、天下はまだ定まらぬのに琳を嶺南に遷される。もし不虞のことがあれば、どうして琳の力を得られましょう。ひそかに官の意を揆るに、琳を疑われるにすぎません。琳の分と望みには限りがあります。どうして官と帝位を争いましょう。なぜ琳を雍州刺史として武寧に鎮させられぬのか。琳は自ら兵を放って田を作り、国のために禦ぎ捍ぎましょう」。膺はその言をもっともとしたが、あえて啓さなかった。
  • 冬十一月、魏師が江陵を囲んだ。帝は広州刺史王琳を湘州刺史に徴し、兵を引いて入援させた。王琳の軍が長沙に至り、鎮南府長史裴政が間道から先に江陵に報せようとして魏人に獲られた。台城は陥ち、帝は魏人に殺された。

敬帝紹泰元年(555年)

  • 春正月、梁王蕭詧が江陵で皇帝の位に即き、莫勇を武州刺史、魏永寿を巴州刺史とした。
  • 湘州刺史王琳が兵を将いて小桂から北へ下り、蒸城に至って江陵がすでに陥ちたと聞き、世祖のために喪を発した。三軍は縞素し、別将侯平を遣わして舟師を率いて後梁を攻めさせた。琳は兵を長沙に屯し、檄を州郡に伝えて進取の計を為した。長沙王蕭韶および上流の諸将はみな琳を盟主に推した。
  • 二月、侯平が後梁の巴・武二州を攻めた。故劉棻の主帥趙朗が宋文徹を殺し、邵陵をもって王琳に帰した。
  • 夏五月庚辰、侯平らが莫勇・魏永寿を擒えた。江陵が陥ちたとき、永嘉王蕭荘は生まれて七年であった。尼の法慕が匿していた。王琳は荘を迎えて建康に送った。
  • 秋八月辛巳、王琳が蒸城から長沙に還った。
  • 冬十月、王琳を車騎将軍・開府儀同三司とした。
  • 十二月、陳霸先の従子の曇朗および永嘉王荘を斉に人質とした。

太平元年(556年)

  • 春二月、後梁主が侯平を公安に撃った。平は長沙王韶と兵を引いて長沙に還った。王琳は平を遣わして巴州に鎮させた。
  • 夏五月、侯平はしきりに後梁の軍を破ったが、王琳の兵威が接しないので、二度と指揮を受けなかった。琳が将を遣わして討たせると、平は巴州の助防呂旬を殺してその衆を収め、江州へ奔った。侯瑱は平と兄弟の契りを結んだ。琳の軍勢はいよいよ衰えた。
  • 乙丑、使いを遣わして斉に表を奉り、あわせて馴象を献じた。江陵が陥ちたとき、琳の妻の蔡氏と世子の王毅はみな魏に没していた。琳はまた魏に款を献じて妻子を求め、梁にも臣と称した。
  • 秋七月、魏の太師泰が安州長史鉗耳康買を王琳に使いさせた。琳は長史席豁を報聘に遣わし、あわせて世祖および愍懐太子の柩を返すことを請うた。泰は許した。
  • 八月、魏が王琳を大将軍・長沙郡公とした。
  • 九月甲子、王琳が舟師で江夏を襲った。冬十月壬申、豊城侯蕭泰が州をもって降った。
  • 十一月辛丑、豊城侯泰が斉へ奔り、斉は永州刺史とした。詔して王琳を司空に徴したが、琳は辞して至らず、その将の潘純陀を留めて郢州を監させ、自身は長沙に還った。魏人はその妻子を返した。

陳高祖永定元年(557年)

  • 春正月、詔して王琳を司空・驃騎大将軍とした。
  • 三月甲辰、司空王琳を湘・郢二州刺史とした。
  • 夏五月、王琳は徴に就かず、大いに舟艦を治めて陳霸先を攻めようとした。六月戊寅、霸先は開府儀同三司侯安都を西道都督、周文育を南道都督として舟師二万を将いさせ、武昌で会して撃たせた。
  • 秋八月丁卯、周(北周)人が梁の世祖の柩および諸将の家属千余人を王琳に返した。
  • 冬十月、梁の敬帝が陳に禅位した。
  • 侯安都が武昌に至り、王琳の将の樊猛は城を棄てて走った。周文育が豫章から会した。安都は上(霸先)が禅を受けたと聞き、歎じて「私は今度は必ず敗れる。戦うに名がなくなった」と言った。当時、両将がともに行きながら相い統摂せず、部下は争って次第に平らかでなかった。
  • 軍が郢州に至り、琳の将の潘純陀が城中から遥かに官軍を射た。安都は怒って軍を進めて囲んだが、まだ克てぬうちに王琳が弇口に至った。安都はそこで郢州を釈いて衆を悉くして沌口に詣で、沈泰の一軍を留めて漢曲を守らせた。安都は風に遇って進めず、琳は東岸に拠り、安都らは西岸に拠って数日相い持し、そこで合戦した。安都らは大敗し、安都・文育および禆将の徐敬成・周鉄虎・程霊洗はみな琳に擒えられ、沈泰は軍を引いて奔り帰った。
  • 琳が諸将を引見して語った。周鉄虎は辞気が屈しなかったので、琳は鉄虎を殺し、安都らを囚えて、まとめて一つの長い鎖で繋ぎ、琳の坐る䑽の下に置いて、親しむ宦者王子晉に掌り視させた。琳はそこで湘州の軍府を郢城に移し、またその将の樊猛を遣わして江州を襲い拠らせた。

二年(558年)

  • 春正月、王琳が兵を引いて下り、湓城に至って白水浦に屯した。帯甲は十万。琳は北江州刺史魯悉達を鎮北将軍とし、上もまた悉達を征西将軍とし、それぞれ鼓吹と女楽を送った。悉達は両方を受け、遷延して顧み望み、どちらにも就かなかった。上は安西将軍沈泰を遣わして襲わせたが克てなかった。琳は軍を引いて東下しようとしたが、悉達がその中流を制した。琳は使いを遣わして説き誘ったが、終に従わなかった。
  • 己亥、琳は記室宗虩を遣わして斉に援けを求め、あわせて梁の永嘉王荘を納れて梁の祀を主らせることを請うた。
  • 三月、斉が兵を発して梁の永嘉王荘を江南に援け送り、王琳を冊拝して梁の丞相・都督中外諸軍・録尚書事とした。琳は兄の子の王叔宝に部下の十州刺史の子弟を率いさせて鄴に赴かせた。琳は荘を奉じて皇帝の位に即かせ、天啓と改元し、建安公淵明に閔皇帝と追諡した。荘は琳を侍中・大将軍・中書監とし、その他は斉朝の命に依った。
  • 夏六月己巳、詔して司空侯瑱・領軍将軍徐度に舟師を率いさせて前軍とし、王琳を討たせた。
  • 秋七月戊戌、上が石頭に幸して侯瑱らを送った。
  • 甲辰、上が吏部尚書謝哲を遣わして王琳に諭させた。哲は謝朏の孫である。
  • 八月、謝哲が復命した。王琳が湘州に還ることを請うたので、詔して衆軍を追い還した。癸未、衆軍が大雷から至った。
  • 冬十二月、後梁主がその大将軍王操に兵を将いさせ、王琳の長沙・武陵・南平などの郡を略取させた。

三年(559年)

  • 春正月、王琳が桂州刺史淳于量を召した。量は琳と合しながらひそかに陳に通じた。二月辛酉、量を開府儀同三司とした。
  • 三月、梁の永嘉王荘が郢州に至り、使いを遣わして斉に入貢した。王琳がその将の雷文策を遣わして後梁の監利太守蔡大有を襲い殺した。
  • 夏六月丁酉、上が不予となり、丙午に殂した。
  • 冬十月、王琳は高祖の殂を聞き、そこで少府卿である呉郡の孫瑒を郢州刺史として留任を総べさせ、梁の永嘉王荘を奉じて出て濡須口に屯した。斉の揚州道行台慕容儼が衆を率いて江に臨み声援とした。
  • 十一月乙卯、琳が大雷を冦した。詔して侯瑱・侯安都および儀同徐度に兵を将いて禦がせた。安州刺史呉明徹が夜に湓城を襲った。琳は巴陵太守任忠を遣わして明徹を撃たせ、大いに破った。明徹はかろうじて身を免れた。琳はこれに因って兵を引いて東下した。

陳文帝天嘉元年(560年)

  • 春二月、王琳が湘口に至った。侯瑱は諸軍を督して出て蕪湖に屯し、相い持すること百余日。東関の春の水が次第に長り、舟艦が通れるようになった。琳は合肥・漅湖の衆を引き、舳艫が相次いで下り、軍勢は甚だ盛んであった。瑱は軍を虎檻洲に進めた。琳もまた船を出して江の西に列ね、洲を隔てて泊まった。
  • 翌日合戦し、琳の軍は少し却いて西岸に退き保った。夕になって東北の風が大いに起こり、その舟艦を吹いてみな壊れて沙の中に没した。浪が大きくて浦に還れなかった。朝になって風が静まり、琳は浦に入って船を治めた。瑱らもまた軍を引いて蕪湖に退き入った。
  • 周(北周)人は琳が東下したと聞き、都督荊襄等五十二州諸軍事・荊州刺史史寧に兵数万を将いさせ、虚に乗じて郢州を襲わせた。孫瑒は城に籠って自ら守った。琳は聞いてその衆が潰えるのを恐れ、そこで舟師を率いて東下し、蕪湖を去ること十里で泊まった。柝を撃つ音は陳軍にまで聞こえた。
  • 斉の儀同三司劉伯球が兵一万余人を将いて琳の水戦を助け、行台慕容恃徳の子の慕容子会が鉄騎二千を将いて蕪湖の西岸に屯して声勢とした。
  • 丙申、瑱は軍中に朝に炊いで蓐で食い待つよう令した。当時、西南の風が急だった。琳は自ら天の助けを得たと思い、兵を引いて直ちに建業へ趨った。瑱らは徐ろに蕪湖を出てその後ろを躡んだ。西南の風は翻って瑱の用となった。琳が火炬を擲って陳の船を焼こうとすると、みな反って自らの船を焼いた。瑱は拍(投石機)を発して琳の艦を撃ち、また牛皮を蒙衝の小船に冒せてその艦に触れさせ、あわせて鉄を鎔かして灑いだ。
  • 琳の軍は大敗し、軍士で溺死する者は十のうち二、三。残りはみな船を棄てて岸に登って走り、陳軍に殺されてほぼ尽きた。西岸にいた斉の歩騎は自ら相い蹂み践み、みな蘆荻と泥淖の中に陥り、騎はみな馬を棄てて脱れ走り、免れ得た者は十のうち二、三。劉伯球と慕容子会を擒え、斬獲は万を数え、梁と斉の軍資・器械をことごとく収めた。
  • 琳は舴艋に乗り、陳を冒して走って湓城に至り、離散した者を収め合わせようとしたが、衆に附く者はなく、そこで妻妾・左右十余人と斉へ奔った。
  • これより先、琳は侍中袁泌・御史中丞劉仲威に永嘉王荘を侍衛させていた。敗れると左右はみな散じた。泌は軽舟で荘を送って斉の境に達し、拝辞して還り、そのまま来降した。仲威は荘を奉じて斉へ奔った。泌は袁昂の子である。樊猛およびその兄の樊毅が部曲を率いて来降した。
  • 周軍が初め郢州に至ったとき、孫瑒の士卒はみな死に物狂いで戦い、周人は克てなかった。まもなく王琳が敗れ陳兵が至ろうとしていると聞いて、囲みを解いて去った。瑒は使いを遣わして中流の地を挙げて来降した。

二年(561年)

  • 春正月、斉主が王琳を合肥に出して傖楚の民を召し募らせ、改めて進取を図らせた。合州刺史裴景徽は琳の兄の王珉の婿で、私属をもって郷導となることを請うた。斉主は琳と行台左丞盧潜に兵を将いさせて赴かせた。琳は沈吟して決せず、景徽は事の漏れるのを恐れて身一つで斉へ奔った。斉主は琳を驃騎大将軍・開府儀同三司・揚州刺史として寿陽に鎮させた。

三年(562年)

  • 春閏二月、斉の揚州刺史・行台の王琳はしばしば南を侵そうとしたが、尚書盧潜は時事がまだ可でないとした。上が書を寿陽に移して斉と和親しようとした。潜はその書を斉朝に奏し、そのうえで啓を上って兵を息めることを請うた。斉主は許し、散騎常侍崔瞻を聘に来させ、あわせて南康愍王曇朗の喪を返した。琳はこれで潜と隙を生じ、互いに表を上げて列ねた。斉主は琳を徴して鄴に赴かせ、潜を揚州刺史・領行台尚書とした。瞻は崔㥄の子である。
  • 秋七月、上が使いを遣わして斉に聘した。
  • 冬十一月丁丑、斉が兼散騎常侍封孝琰を聘に来させた。

四年(563年)

  • 夏六月乙卯、斉主が兼散騎常侍崔子武を聘に来させた。

五年(564年)

  • 夏四月辛卯、斉主が兼散騎常侍皇甫亮を聘に来させた。
  • 冬十一月戊戌、斉主が兼散騎常侍劉逖を(聘に来させた)。

六年(565年)

  • 夏六月己巳、斉主が兼散騎常侍王季高を(聘に来させた)。