通鑑紀事本末諸国の来聘(來聘)

北斉から陳への聘使往来の記事に始まり、573年の陳の大挙北伐に至る篇。宣帝は徐陵の推挙で呉明徹を都督とし、裴忌を監軍として十万を発した。呂梁で蕭摩訶が斉の胡人の射手と大力の兵を斃して斉軍を破ると、淮南の城戍は次々に降り、明徹は肥水を堰いて寿陽を陥れ、斉に仕えていた王琳を擒えて斬った。斉主は穆提婆・韓長鸞らの佞言に安んじて憂えなかった。566年から573年までの八年間。

年表(6件)

陳天康元年(566年)

  • 夏六月、斉が兼散騎常侍韋道儒を聘に来させた。

臨海王光大元年(567年)

  • 夏四月癸丑、斉が散騎常侍司馬幼之を聘に来させた。

二年(568年)

  • 春正月癸亥、斉主が兼散騎常侍鄭大護を聘に来させた。

宣帝太建二年(570年)

  • 春正月戊申、斉が兼散騎常侍裴讞之を聘に来させた。
  • 冬十月、斉が梁の永嘉王蕭荘を開府儀同三司とした。梁王(荘)は興復を許されていたが、ついに果たさず、斉が亡ぶに及んで、荘は憤り悒えて鄴で卒した。

三年(571年)

  • 春正月丁巳、斉が兼散騎常侍劉環儁を聘に来させた。
  • 夏四月、斉が使いを遣わして聘に来させた。

五年(573年)

  • 春三月、帝が斉を伐つ謀を巡らせた。公卿にはそれぞれ異同があり、ただ鎮前将軍呉明徹だけが策を決して行くことを請うた。帝は公卿に「朕の意はすでに決した。卿らは共に元帥を挙げよ」と言った。衆議は中権将軍淳于量の位が重いとしてともに署して推した。尚書左僕射徐陵だけが「呉明徹は家が淮左にあり、彼の地の風俗に通じております。将略と人才は今もこれに過ぎる者はありません」と言った。都官尚書である河東の裴忌が「臣は徐僕射に同じます」と言った。陵は声に応じて「明徹が良将であるばかりでなく、裴忌こそ良い副です」と言った。
  • 壬午、衆軍に分け命じ、明徹を都督征討諸軍事、忌を監軍事として衆十万を統べさせ斉を伐たせた。明徹は秦郡に出、都督黄法氍は歴陽に出た。
  • 夏四月、斉人は秦郡に秦州を置いた。州の前の江浦が涂水に通じ、斉人は大木で水中に柵を為していた。辛亥、呉明徹が豫章内史程文季に驍勇を将いさせてその柵を抜き、克った。文季は程霊洗の子である。
  • 斉人が陳師を禦ぐことを議した。開府儀同三司王紘が言った。「官軍は近ごろしばしば利を失い、人情は騒ぎ動いております。もしまた出て江淮に頓すれば、北狄(突厥)と西冦(周)が弊に乗じて来るのを恐れます。そうなれば世の事は去りましょう。賦を薄くし徭を省き、民を息ませ士を養い、朝廷を協い睦ませ遐邇の心を帰せしめるに越したことはありません。天下はみな肅清されましょう。ただ陳氏だけのことではありません」。従わなかった。
  • 軍を遣わして歴陽を救わせたが、庚申、黄法氍が撃ち破った。また開府儀同三司尉破胡・長孫洪略を遣わして秦州を救わせた。趙彦深がひそかに秘書監源文宗に計を問うた。「呉の賊が侏張してついにここに至った。弟は先に秦・涇の刺史となって江淮の間の情事を悉く知っている。今、どんな術で禦げばよいか」。文宗は言った。「朝廷は精兵を必ずしも多く諸将に付けようとしません。数千以下では呉人の餌となるに足るのみ。尉破胡の人品は王のご存じのとおり。敗績の事は朝でなければ夕でしょう。国家は淮南の待遇において、失うことを蒿の矢と同じに見ています。文宗の計とするところは、ただ専ら王琳に委ねて淮南で三、四万人を招募させることに尽きます。風俗が相い通じ、死力を得られます。あわせて旧将に兵を将いさせて淮北に屯させれば、固く守るに足ります。しかも琳が頊(陳の宣帝)に対して必ず北面して仕えぬのは明らかです。ひそかにこれを上策と思います。もし琳に赤心を推さず、他の人を遣わして掣肘させれば、また速やかな禍を成し、いよいよなすすべがなくなりましょう」。彦深は歎じて「弟のこの策はまことに千里に勝を制するに足る。しかし口舌で争うこと十日、すでに聴かれなかった。時事がここに至っては、どうして言を尽くせよう」と言い、そこで相い顧みて涙を流した。文宗は名を彪といい字で通った。源子恭の子である。
  • 文宗の子の源師は左外兵郎中で祠部を摂していた。かつて高阿那肱に「竜が見えました。雩を行うべきです」と白した。阿那肱は驚いて「どこに竜が見えた。その色はどうだ」と言った。師は「竜星が初めて見えたのです。礼として雩祭すべきで、真の竜ではありません」と言った。阿那肱は怒って「漢児は事が多い。強いて星宿を知りたがる」と言い、そのまま祭らなかった。師は出てひそかに歎じた。「礼はすでに廃れた。斉は久しくいられようか」。
  • 斉師は長大で膂力ある者を選んで前隊とし、蒼頭・犀角・大力と号した。その鋒は甚だ鋭かった。また西域の胡人で射を善くする者があり、弦に虚しく発することがなく、衆軍はとりわけ憚った。
  • 辛酉、呂梁で戦った。戦う前、呉明徹が巴山太守蕭摩訶に言った。「もしこの胡人を殪せば彼の軍は気を奪われる。君の才は関羽に減らぬ」。摩訶は「その姿をお示しください。公のために取ってまいります」と言った。明徹はそこで降人でその胡人を知る者を召して指し示させ、自ら酒を酌んで摩訶に飲ませた。摩訶は飲み終えると馬を馳せて斉軍に衝き入った。胡人は身を挺して陣の前十余歩に出、弓を彀めてまだ発たぬうちに、摩訶が遥かに銑鋧を擲ってその額に正しく中て、手に応じて仆れた。斉軍の大力十余人が出て戦い、摩訶はまたこれを斬った。こうして斉軍は大敗し、尉破胡は走り、長孫洪略は戦死した。
  • 破胡が師を出したとき、斉人は侍中王琳を同行させていた。琳は破胡に「呉兵は甚だ鋭い。長い策で制すべきです。くれぐれも軽々しく闘われますな」と言ったが、破胡は従わずに敗れた。琳は単騎でかろうじて免れ、還って彭城に至った。斉人はすぐ寿陽に赴かせて召募し陳師を拒ませ、また盧潜を揚州道行台尚書とした。
  • 甲子、南譙太守徐槾が石梁城を克った。
  • 五月己巳、瓦梁城が降った。癸酉、陽平郡が降った。甲戌、徐槾が廬江城を克った。歴陽は窮まり蹙まって降を乞うた。黄法氍が緩めると、また拒み守った。法氍は怒って卒を率いて急に攻め、丙子、克って戍卒をことごとく殺した。軍を合肥に進めると、合肥は旗を望んで降を請うた。法氍は侵し掠めることを禁じ、戍卒を撫し労い、盟って縦した。
  • 己卯、斉の北高唐郡が降った。辛巳、詔して南豫州刺史黄法氍を歴陽に鎮を移させた。
  • 乙酉、南斉昌太守黄詠が斉昌の外城を克った。丙戌、廬陵内史任忠が東関に軍してその東西二城を克ち、進んで蘄城を克った。戊子、また譙郡城を克ち、秦州城が降った。癸巳、瓜歩・胡墅の二城が降った。
  • 六月庚子、郢州刺史李綜が灄口城を克った。乙巳、任忠が合州の外城を克った。庚戌、淮陽・沐陽の郡がともに城を棄てて走った。
  • 癸丑、程文季が斉の涇州を攻めて抜いた。乙卯、宣毅司馬湛陀が新蔡城を克った。
  • 癸亥、黄法氍が合州を克った。呉明徹が進んで仁州を攻め、甲子、克った。
  • 秋七月戊辰、斉が尚書左丞陸騫に兵二万を将いさせて斉昌を救わせ、巴・蘄から出させた。西陽太守である汝南の周炅に遇った。炅は羸弱を留めて疑兵を設けて当たらせ、自身は精鋭を率いて間道からその後ろを邀え、大いに破った。
  • 己巳、征北大将軍呉明徹の軍が峡口に至ってその北岸の城を克ち、南岸の守る者は城を棄てて走った。周炅が巴州を克った。淮北の絳城および穀陽の士民はともにその戍主を殺し、城をもって降った。
  • 斉の巴陵王王琳が揚州刺史王貴顕と寿陽の外郭を保った。呉明徹は琳が入ったばかりで衆心がまだ固まっていないので、丙戌、夜に乗じて攻め、城は潰えた。斉兵は退いて相国城および金城に拠った。
  • 八月乙未、山陽城が降った。壬寅、盱眙城が降った。壬子、戎昭将軍徐敬弁が海安城を克ち、青州の東海城が降った。戊午、平固侯陳敬泰らが晉州を克った。
  • 九月甲子、陽平城が降った。壬申、高陽太守沈善慶が馬頭城を克った。甲戌、斉安城が降った。丙子、左衛将軍樊毅が広陵の楚子城を克った。
  • 冬十月、呉明徹が寿陽を攻め、肥水を堰いて城に灌いだ。城中は腫れと下痢を病む者が多く、死者は十のうち六、七。斉の行台右僕射である琅邪の皮景和らが寿陽を救おうとしたが、尉破胡が敗れたばかりなので怯え懦んであえて前へ進まず、淮口に屯した。敕使がしばしば促し、それでようやく淮を渡った。衆は数十万。寿陽を去ること三十里で軍を頓めて進まなかった。
  • 諸将はみな懼れて「堅城はまだ抜けず、大援が近くにあります。どうなさいますか」と言った。明徹は「兵は神速を貴ぶ。彼は営を結んで進まず、自らその鋒を挫いている。私は彼があえて戦わぬと知っている。明らかだ」と言った。乙巳、身に甲冑を擐して四面から疾く攻め、一鼓して抜き、王琳・王貴顕・盧潜および扶風王可朱渾道裕・尚書左丞李騊駼を生け捕って建康に送った。景和は北へ遁れ、その駝馬と輜重をことごとく収めた。
  • 琳は体貌が閑雅で喜怒を色に形さず、記憶が強く内に敏く、軍府の佐吏千数の姓名をみな識ることができた。刑罰は濫らでなく、財を軽んじ士を愛して将卒の心を得ていた。地を失って鄴に流寓しても、斉人はみなその忠義を重んじた。擒えられると、旧麾下の将卒の多くが明徹の軍中にあり、見る者はみな歔欷して仰ぎ視ることができず、争って命乞いをし資給を致した。明徹は変を為すのを恐れ、使いを遣わして追って寿陽の東二十里で斬らせた。哭する声は雷のようであった。ある老人が酒と脯を持って来て祭り、哀を尽くして哭し、その血を収めて去った。田夫野老、知る者も知らぬ者も、聞いて涙を流さぬ者はなかった。
  • 斉の穆提婆と韓長鸞は寿陽の陥落を聞いても槊(すごろく)を握って止めず、「もともと彼らの物だ。取らせておけ」と言った。斉主は聞いてかなり憂えとした。提婆らは「たとえ国家が黄河以南をすべて失っても、なお一つの亀茲国は作れます。それにおいたわしいことに、人生は寄せもののようなもの。ただ行楽すべきで、何を愁えられましょう」と言った。左右の嬖臣もこぞって賛同し、帝はすぐ大喜して酣飲し鼓舞し、そのうえ黎陽で河に臨んで城と戍を築かせた。
  • 丁未、斉が兵一万人を潁口に遣わし、樊毅が撃ち走らせた。辛亥、兵を遣わして蒼陵を援け、これも破った。斉主は皮景和が全軍で還ったのを賞して尚書令に除した。
  • 丙辰、詔して寿陽を再び豫州とし、黄城を司州とし、明徹を都督豫合等六州諸軍事・車騎大将軍・豫州刺史とした。謁者蕭淳風を寿陽に遣わして冊命させた。城の南に壇を設け、士卒二十万が旗鼓と戈甲を陳ねた。明徹は壇に登って拝受し、礼を成して退いた。将卒はこれを栄とした。上は酒を置いて杯を挙げて徐陵に属して「卿の知人を賞す」と言った。陵は席を避けて「策を定められたのは聖衷。臣の力ではありません」と言った。
  • 黄法氍を征西大将軍・合州刺史とした。戊午、湛陀が斉昌城を克った。
  • 十一月甲戌、淮陰城が降った。庚辰、威虜将軍劉桃枝が朐山城を克った。辛巳、樊毅が済陰城を克った。己丑、魯広達が済南・徐州を攻めて克った。広達を北徐州刺史としてその地に鎮させた。
  • 斉の北徐州の民の多くが兵を起こして陳に応じ、その州城に逼った。祖珽は城門を閉じず、人が出るのを禁じ、街路は城中も寂然としていた。反した者はその故を測れず、人が走って城が空になったのかと疑い、備えを設けなかった。珽は突然、鼓譟して天を震わすよう令した。反した者はみな驚き走った。まもなくまた陣を結んで城に向かった。珽は録事参軍王君植に兵を将いて拒ませ、自ら馬に乗って陣に臨み、左右に射させた。反した者は先にその盲目であることを聞いて必ず出て来られまいと思っていたので、突然これを見て大いに驚いた。穆提婆は城を陥れさせようとして援兵を遣わさなかったが、珽は戦いつつ守ること十余日、反した者はついに散り走った。
  • 詔して王琳の首を建康の市に懸けた。故吏である梁の驃騎倉曹参軍朱瑒が徐陵に書を致してその首を求めた。「ひそかに思うに、典午(晉)がまさに滅びるとき徐広は晉家の遺老となり、当塗(魏)がすでに謝したとき馬孚は魏室の忠臣と称されました。梁の故建寧公琳は、離乱の辰に当たって方伯の任を総べ、天が梁の徳を厭うても、なお匡し継ぐことを思いました。いたずらに包胥の志を蘊しながら、ついに萇弘の眚に遘い、身を九泉に没し、頭を千里に行かせることになりました。伏して惟みるに聖恩は博く厚く、明詔が発せられ、王経の哭を赦し田横の葬を許され、寿春の城下にただ葛(諸葛)に報いる人のみを伝えさせず、滄洲の島上に悲田の客のみを在らせぬようにしていただきたい」。陵は上に啓した。
  • 十二月壬辰朔、詔して琳の首をみなその親属に返した。瑒は琳を八公山の側に瘞めた。義故で会葬した者は数千人。瑒は間道から斉へ奔って別に迎え葬ることを議した。まもなく寿陽の人茅智勝ら五人がひそかにその柩を鄴に送った。斉は琳に開府儀同三司・録尚書事を贈り、忠武と諡し、輼輬車を給して葬った。