通鑑紀事本末北斉の顕祖の狂暴(常山王の簒立を付す)(齊顯祖狂暴(常山王篡立附))

北斉の顕祖高洋が、清河王高岳の毒殺を皮切りに酒色と狂暴に沈み、皇族・重臣・元氏の宗室を次々に虐殺していった有様と、その死後の政変を記す。高洋は永安王浚・上党王渙を地牢で焼き殺し、元氏七百余人を誅して漳水に棄てた。559年に病没すると太子高殷が立つが、輔政の楊愔らは常山王演・長広王湛に尚書省で捕らえられて誅され、演が太皇太后の令で帝位を継いだ(孝昭帝)。演も済南王殷を殺して二年で没し、湛が跡を継いで平秦王帰彦を討ち、564年には楽陵王百年を殺した。555年から564年までの十年間。

年表(9件)
  • 梁敬帝
  • 紹泰元年555年高帰彦が斉主の意を受けて清河王高岳を毒殺する
  • 太平元年556年斉の顕祖が三台を修め広げ、狂暴と酒色を肆にする
  • 陳高祖
  • 永定元年557年諫めた永安王浚と上党王渙が地牢に幽閉される
  • 二年558年常山王演が諫争して殴打され、浚と渙は地牢で焼き殺される
  • 三年559年元氏七百余人を誅した顕祖が殂し、太子高殷が即位する
  • 陳文帝
  • 天嘉元年560年常山王演らが楊愔らを誅し、演が帝位に即いて皇建と改元する
  • 二年561年済南王殷が扼め殺され、孝昭帝も落馬の傷で殂して長広王湛が立つ
  • 三年562年太宰高帰彦が冀州で叛くが破れ、子孫十五人とともに棄市される
  • 五年564年斉主が楽陵王百年を涼風堂で捶ち殺す

梁敬帝紹泰元年(555年)

  • はじめ斉の平秦王高帰彦は幼くして孤となり、高祖は清河昭武王高岳に養わせた。岳の情も礼も甚だ薄く、帰彦は心に銜んだ。顕祖(高洋)が即位すると、帰彦は領軍大将軍となって大いに寵遇された。岳はその徳のおかげと思ってさらに頼りにした。
  • 岳はしばしば兵を将いて功を立て威名があったが、性は豪奢で酒色を好み、城南に邸を起こし、庁事の後ろに巷を開いた。帰彦が帝に譖った。「清河は宮禁を僭って擬え、永巷を制りました。ただ闕がないだけです」。帝はこれで悪んだ。
  • 帝は倡婦の薛氏を後宮に納れた。岳は先にその姉を通じて邸に迎えたことがあった。帝は夜に薛氏の家に遊び、その姉が父のために司徒を乞うた。帝は大いに怒ってその姉を懸けて鋸で殺し、岳を姦の罪で責めた。岳は服さず、帝はいよいよ怒った。
  • 十一月乙亥、帰彦に岳を毒殺させた。岳が自ら無罪を訴えると、帰彦は「飲めば家は全うされる」と言った。飲んで卒し、葬と贈は礼のとおりであった。
  • 薛嬪は帝に寵された。久しくして帝は忽然と彼女が岳と通じたことを思い、故もなく首を斬って懐に蔵し、東山に出て宴飲した。酒が回りはじめたところで、突然その首を探り出して柈の上に投じ、その屍を支解し、その髀を弄んで琵琶とした。一座は大いに驚いた。帝はそこで収め取ってそれに対して涙を流し「佳人は再びは得がたい」と言い、屍を載せて出、髪を被って歩き哭しながら随った。

太平元年(556年)

  • 斉が丁匠三十余万を発して三台の宮殿を修め広げた。
  • 斉の顕祖は初め立ったとき、政術に心を留め、簡素静穏を存することに努め、任用は坦らかで人は力を尽くすことができた。また法をもって下を馭し、違犯があれば勲戚でも容さず、内外は粛然としない者はなかった。軍国の機策に至っては独り懐で決し、行陣に臨むたび親ら矢石に当たり、向かうところ功があった。
  • 数年ののち、次第に功業を自ら矜り、そのまま酒を嗜み淫泆にふけり、狂暴を肆にした。あるいは自ら歌い舞って終日夜を徹し、あるいは髪を散らし胡服を着て錦綵を雑ぜ着、あるいは体を袒し露わにして粉と黛を塗り、あるいは牛・驢・槖駝・白象に乗って鞍も勒も施さず、あるいは崔季舒・劉桃枝に負わせて行かせ、胡鼓を担いで拍った。勲戚の邸に朝夕臨み幸し、市里を遊行して街に坐り巷に宿った。あるいは盛夏の日中に身を曝し、あるいは隆冬に衣を去って馳せ走り、従う者は堪えられなかったが、帝は自若としていた。
  • 三台は木を構えて高さ二十七丈、二つの棟の距たりは二百余尺。工匠は危ぶみ怯えてみな縄を繋いで自ら防いだが、帝は脊に登って疾く走り、少しも怖れず、時にはまた雅やかに舞い、折れ旋る節に中った。傍らで見る者で寒心せぬ者はなかった。
  • かつて道の上で婦人に「天子はどうだ」と問うた。「顛れ顛れ癡れ癡れ。どうして天子を成そうか」と言った。帝は殺した。
  • 婁太后は帝の酒狂を杖で撃って「こんな父がこんな児を生んだ」と言った。帝は「この老母を胡人に嫁がせてやる」と言った。太后は大いに怒り、そのまま口も利かず笑いもしなかった。帝は太后を笑わせようとして、自ら匍って身で牀を挙げ、太后を地に墜として、かなり傷つけた。覚めてから大いに慙じ恨み、柴を積んで火を熾らせてその中に入ろうとした。太后は驚き懼れ、親ら持って挽き、強いて笑って「さっきはお前が酔っていただけだ」と言った。帝はそこで地に席を設け、平秦王帰彦に杖を執らせ、口で自ら責め数え、背を脱いで罰につき、帰彦に「杖で血が出なければお前を斬る」と言った。太后は前に出て自ら抱いた。帝は涙を流して苦しく請い、そこで脚を五十笞たれ、しかるのち衣冠して拝謝し、悲しみに自ら勝えなかった。これに因って酒を戒めること一旬、また元のとおりになった。
  • 帝が李后の家に幸し、鳴鏑で后の母の崔氏を射て罵った。「私は酔ったときは太后さえ識らぬ。老いた婢が何ほどのことか」。馬の鞭で百余度も乱れ撃った。
  • 楊愔を宰相としながら、厠籌を進めさせ、馬の鞭でその背を鞭打ち、血が流れて袍に浹んだ。かつて小刀でその腹を剺ごうとした。崔季舒が俳優のふりをして「老いた小公子は悪ふざけがすぎる」と言い、そのついでに刀を掣り取った。また愔を棺の中に置いて轜車に載せた。
  • また槊を持って馬を走らせ、左丞相斛律金の胸に擬すること三度。金は立って動かなかった。そこで帛千段を賜わった。
  • 高氏の婦女は親疎を問わず多くこれと乱れ、あるいは左右に賜わり、また多方に苦しめ辱めた。彭城王高浟の太妃爾朱氏は魏の敬宗の后であった。帝は蒸そうとして従わなかったので、手ずから刃で殺した。故魏の楽安王元昻は李后の姉の婿で、その妻に色があった。帝はしばしば幸し、納れて昭儀にしようとして昻を召して伏せさせ、鳴鏑で射ること百余度、凝った血は一石ほどにも垂んとし、ついに死に至った。后は啼いて食わず、姉に位を譲ることを乞い、太后もまた言ったので、帝はやめた。
  • また衆中で都督韓哲を召し、罪もないのに斬った。大鑊・長鋸・剉碓の類を作って庭に陳ね、酔うたびに手ずから人を殺して戯れ楽しみとした。殺した者は多くを支解させ、あるいは火で焼き、あるいは水に投じた。楊愔はそこで鄴下の死囚を選んで仗内に置き、供御囚と呼んだ。帝が人を殺そうとすると、すぐ執えて命に応じ、三月殺されなければ宥した。
  • 開府参軍裴謂之が上書して極諫した。帝が楊愔に「この愚か者はどうしてこんなことができる」と言った。愔は「彼は陛下に殺されて後世に名を成そうとしているのです」と答えた。帝は「小人め、私は殺さぬ。お前はどうやって名を得るか」と言った。
  • 帝が左右と飲んで「楽しいな」と言った。都督王紘が「大いなる楽しみがあれば大いなる苦しみもあります」と言った。帝が「どういう意味か」と問うと、「長夜の飲は、国が亡び身が隕ちるのに寤めぬこと。いわゆる大苦です」と答えた。帝は紘を縛って斬ろうとしたが、世宗を救った功があるのを思い、そこで捨てた。
  • 帝が東山で遊宴し、関隴がまだ平らがぬので杯を投じて震怒し、魏収を前に召して立ちどころに詔書を作らせ、遠近に宣示して西へ行こうとした。魏人は震え恐れ、常に隴を渡る計を為したが、実際には行かなかった。
  • ある日、泣いて群臣に「黒獺(宇文泰)は我が命を受けぬ。どうしたものか」と言った。都督劉桃枝が「臣に三千騎をいただければ、長安に赴いて擒えてまいります」と言った。帝は壮として帛千匹を賜わった。趙道徳が進み出て言った。「東西の両国は強弱の力が均しい。彼を擒えて来られるなら、こちらもまた擒えて往かれます。桃枝の妄言は誅されるべきです。陛下はなぜ濫りに賞されるのか」。帝は「道徳の言が是だ」と言い、絹を回して賜わった。
  • 帝が馬に乗って峻しい岸を下り漳水に入ろうとした。道徳が轡を攬んで回した。帝は怒って斬ろうとした。道徳は「臣は死んでも恨みません。地下で先帝に啓し、この児の酣酗顛狂で教訓できぬことを論じましょう」と言った。帝は黙って止めた。別の日、帝は道徳に「私は酒を飲みすぎた。痛く杖打て」と言い、道徳が抶つと帝は走り、道徳は逐って「何者がこんな振る舞いをするか」と言った。
  • 典御丞李集が面と諫めて帝を桀・紂に比した。帝は縛って流れの中に置いて沈没させ、久しくしてまた引き出させて「私は桀・紂と比べてどうか」と言った。集は「先ほどよりいよいよ及びません」と言った。帝はまた沈め、引き出して改めて問い、こうすること四度、集の答えは初めと同じだった。帝は大笑して「天下にこんな癡れ者がいる。竜逢や比干も大した者ではなかったと今分かった」と言い、そのまま釈した。ほどなくまた引き入れられ、何か諫めることがあったらしく、帝は連れ出して要斬させた。斬るか赦すか、誰も測れなかった。
  • 内外は恟々として各々怨毒を懐いた。だが素より黙って識り強く記し、加えて厳しく断ずるので、群下は戦慄してあえて非を為さなかった。また政を楊愔に委ねることができ、愔は機衡を総摂して百度が修まり敕された。ゆえに時人はみな「主は上に昏く、政は下に清い」と言った。
  • 秋八月庚申、斉主が西巡しようとした。百官が紫陌で辞した。帝は矟騎に囲ませて「私が鞭を挙げたらすぐ殺せ」と言った。日が晏くなり、帝は酔って起きられなかった。黄門郎是連子暢が「陛下がこうされては、群臣は怖れに堪えられません」と言った。帝は「大いに怖れているのか。それなら殺すな」と言い、そのまま晉陽へ行った。
  • 冬十二月、斉が西河の総秦戍から長城を築き、東は海に至った。前後に築いたものは東西およそ三千余里であった。

陳高祖永定元年(557年)

  • 秋七月、河南・河北に大いに蝗が出た。斉主が魏郡丞崔叔瓉に「なぜ蝗を招いたか」と問うた。「五行志に『土功が時ならざれば蝗虫が災いを為す』とあります。今、外は長城を築き内は三台を興しております。おそらくこれによるのでしょう」と答えた。斉主は大いに怒り、左右に殴らせ、その髪を抜き、厠の汚水をその頭に沃ぎ、足を曳いて出させた。叔瓉は崔季舒の兄である。
  • はじめ斉に「高を亡ぼす者は黒衣」と言う術士があり、ゆえに高祖は出るたび沙門を見たがらなかった。顕祖は晉陽で左右に「何物が最も黒いか」と問うた。「漆に過ぎるものはありません」と答えた。帝は上党王高渙が兄弟の第七であることから(「漆」と「七」を掛けて)、庫直都督破六韓伯昇を鄴に遣わして渙を徴した。渙は紫陌橋に至って伯昇を殺して逃げ、河を浮かんで南へ渡り、済州に至って人に捕らえられ鄴に送られた。
  • 帝が太原公であったとき、永安王高浚と共に世宗に見えた。帝は時に洟を垂らしており、浚は帝の左右を責めて「なぜ二兄の鼻を拭かぬ」と言った。帝は心に銜んだ。
  • 即位して、浚は青州刺史となり、聡明で矜れみ恕し、吏民は悦んだ。浚は帝が酒を嗜むので、ひそかに親近に言った。「二兄は酒によって徳を敗っておられるのに、朝臣であえて諫める者がない。大敵はまだ滅びず、私は甚だ憂えとする。駅に乗って鄴に至り面と諫めたいが、私の言を用いられるかどうか分からぬ」。ある者がひそかに帝に白し、帝はいよいよ銜んだ。
  • 浚が入朝して東山に従い幸したとき、帝は裸になって楽しんだ。浚が進み諫めて「これは人主のなさるべきことではありません」と言った。帝は悦ばなかった。浚はまた物陰で楊愔を石で打ち、諫めぬことを譏った。帝は当時、大臣が諸王と交わり通ずるのを望まなかったので、愔は懼れて奏した。帝は大いに怒って「小人はもとより忍びがたい」と言い、そのまま酒を罷めて宮に還った。
  • 浚はまもなく州に還り、また上書して切に諫めた。詔して浚を徴すと、浚は禍を懼れ、疾を謝して至らなかった。帝は駅を馳せて浚を収めさせた。老幼で泣いて送る者は数千人。鄴に至り、上党王渙とともに鉄の籠に盛んに入れられ、北城の地牢に置かれ、飲食も溲穢もともに一所であった。

二年(558年)

  • 冬十一月、斉の三台が成った。銅爵を金鳳、金虎を聖応、氷井を崇光と名を改めた。甲午、斉主が鄴に至って大赦した。
  • 斉主が三台に遊び、戯れに槊で都督尉子輝を刺し、手に応じて斃れた。
  • 常山王高演は帝が沈湎しているのを憂え憤り、顔色に表した。帝は覚って「ただお前さえいれば、私はなぜ楽しみを縦にせぬわけがあろう」と言った。演はただ啼き泣いて拝伏し、ついに何も言わなかった。帝もまた大いに悲しみ、杯を地に抵って「お前は私がこうであるのを嫌っているようだ。今より、あえて酒を進める者は斬る」と言い、そのまま御用の杯を取ってことごとく壊して棄てた。まもなく沈湎はいよいよ甚だしくなった。
  • あるいは諸々の貴戚の家で力比べをし、批き拉ぎ、貴賤を限らなかった。ただ演が至れば内外は粛然とした。演はまた事の条をひそかに撰んで諫めようとした。その友の王晞は不可とした。演は従わず、隙に乗じて極言し、そのまま大怒に遇った。
  • 演は性がかなり厳しく、尚書郎中に剖断の失があればすぐ捶楚を加え、令史に姦慝があればすぐ考竟した。帝はそこで演を前に立たせ、刀の鐶で脅すまねをし、演に罰せられた者を召して白刃を臨ませ、演の短所を求めた。だがみな陳べるところがなく、そこで釈した。晞は王昕の弟である。
  • 帝は演が晞に辞を借りて諫めたと疑い、殺そうとした。王はひそかに晞に言った。「王博士(晞)、明日ひとつ事を作す。お前を活かしたいのだ。また自らを全うするためでもある。深く体して怪しむな」。そこで衆中で晞を二十杖打った。帝はまもなく怒りを発したが、晞が杖を得たと聞いて、それゆえ殺さず、髠して鞭打ち甲坊に配した。
  • 三年後、演がまた諫争に因って殴打され、口を閉じて食わなくなった。太后は日夜涙を流した。帝はどうしてよいか分からず「もし小児が死んだら、わが老母をどうしよう」と言い、そこでしばしば行って演の疾を問い、「努めて強いて食え。王晞をお前に還してやろう」と言い、そこで晞を釈して演のもとへ詣でさせた。演は晞を抱いて「私は気息が惙えている。もう会えぬかと思っていた」と言った。晞は涙を流して言った。「天道は神明。どうして殿下をこの舎で斃れさせましょう。至尊は親しくは人の兄、尊きは人の主。どうして計り合えましょう。殿下が食わねば太后もまた食われません。殿下は自らを惜しまれずとも、太后を念われぬのですか」。言い終わらぬうちに演は強いて坐って飯した。晞はこれで徒刑を免れ、還って王友となった。
  • 演が録尚書事となり、官に除せられた者はみな演に詣でて謝した。去るとき必ず晞に辞した。晞は演に言った。「爵を天朝に受けながら恩を私第に拝すのは、古来不可とされております。一切を約して絶たれるべきです」。演は従った。
  • 久しくして、演は従容として晞に言った。「主上の起居は恒でない。卿の耳目の具に知るところだろう。私はどうして前に一度の怒りに遇っただけで舌を結べよう。卿は諫めの草稿を撰んでくれ。私は便を伺って極諫する」。晞はそこで十余事を条にして呈し、そのうえで演に言った。「今、朝廷の恃むところはただ殿下のみ。それなのに匹夫の耿介を学び一朝の命を軽んじられるのか。狂薬は人に自覚をなくさせ、刀と箭がどうして親疎を議しましょう。一旦、禍が理外に出れば、殿下の家業をどうされますか。皇太后をどうされますか」。演は歔欷して自ら勝えず、「そこまでか」と言った。翌日、晞に会って「私は長夜久しく思った。今、意を息めた」と言い、すぐ火を命じて晞に対して焚いた。
  • のちまた間に乗じて苦諫した。帝は力士に後ろ手に縛らせ、白刃を抜いて頸に注いで罵った。「小僧、何を知る。誰がお前に教えた」。演は「天下は口を噤んでおります。臣でなくて誰があえて言いましょう」と言った。帝は杖を促して乱れ捶つこと数十度。ちょうど酔って臥したので解けた。
  • 帝の褻れ黷れた遊びは宗戚に遍く、往くところに留連したが、ただ常山の邸に至ると、多くは適することなくして去った。
  • 尚書左僕射崔暹がしばしば諫めた。演は暹に言った。「今、太后さえあえて言葉を致されず、われら兄弟も口を杜ざしている。僕射だけが顔を犯される。内外は深く感じ愧じている」。
  • 太子高殷は幼くして温やかで裕かで開朗、士を礼し学を好み、時政を関覧して甚だ美名があった。帝は常に「太子は漢人の性質を得て私に似ぬ」と嫌い、廃そうとした。帝が金鳳台に登り、太子を召して手ずから囚を刃せさせた。太子は惻然として難色があり、再三しても首を断てなかった。帝は大いに怒って親ら馬の鞭で捶った。太子はこれで気が悸き語が吃り、精神が昏れ擾れた。帝は酣宴に因ってしばしば「太子は性が懦い。社稷の事は重い。終には常山に位を伝えるべきだ」と言った。太子少傅魏収が楊愔に言った。「太子は国の根本、動揺させてはなりません。至尊は三爵ののちいつも常山に位を伝えると言われる。臣下に疑貳を生じさせます。もしそれが実なら決して行われるべきです。この言は戯れになさるべきものではなく、いたずらに国家を不安にするのを恐れます」。愔が収の言を帝に白し、帝はそこでやめた。
  • 帝は残忍で、有司の囚の扱いも厳酷でない者はなかった。あるいは犁の刃を焼いてその上に立たせ、あるいは車の釭を焼いて腕を貫かせ、苦しみに勝えずみな誣いて服するに至った。
  • ただ三公郎中である武強の蘇瓊だけは、中外に職を歴て至るところみな寛平をもって治めとした。当時、趙州および清河でしばしば謀反を告げる者があり、前後みな瓊に付して推し検べさせた。事は多く申べ雪がれた。尚書崔昻が瓊に言った。「もし功名を立てたいなら、さらに他の理を思うべきだ。しばしば反逆を雪ぐとは、身命をなんと軽んじることか」。瓊は色を正して「雪ぐのは冤枉のみ。反逆を縦しはしません」と言った。昻は大いに慙じた。
  • 帝は臨漳令嵇曄・舎人李文師を怒って臣下に賜わって奴とした。中書侍郎である彭城の鄭頥がひそかに祠部尚書王昕を誘って「古来、朝士が奴となった例はない」と言った。昕は「箕子はこれの奴となった」と言った。頥はこれを帝に白して「王元景(昕)は陛下を紂に比しました」と言った。帝は銜んだ。ほどなく帝が朝臣と酣飲し、昕は疾と称して至らなかった。帝は騎を遣わして捕らえさせ、膝を揺すって吟詠しているのを見て、そのまま殿前で斬り、屍を漳水に投じた。
  • 斉主は北に長城を築き、南は蕭荘を助け、士馬の死者は数十万を数えた。重ねて台殿を修築し、賜与に節がなく、府蔵の積みでは供するに足らなかった。そこで百官の禄を減じ、軍人の常廩を撤し、州・郡・県・鎮・戍の職を併せ省いて費用を節した。
  • 十二月、斉主が北城へ行き、ついでに永安簡平王浚・上党剛粛王渙を地牢に視た。帝は穴に臨んで謳歌し、浚らに和させた。浚らは惶れ怖れ、かつ悲しみ、覚えず声が顫えた。帝は愴然としてこれに涙を下し、赦そうとした。長広王高湛はもとより浚と睦まじくなく、進み出て「猛虎をどうして穴から出せましょう」と言った。帝は黙った。浚らは聞いて湛の小字を呼び「歩落稽、皇天がお前を見ているぞ」と言った。
  • 帝もまた浚と渙にみな雄略があって後の害となるのを恐れ、そこで自ら渙を刺し、また壮士劉桃枝に籠に就いて乱れ刺させた。槊が下るたび浚と渙は手で扯り折り、号哭して天を呼んだ。そこで薪と火を乱れ投じて焼き殺し、土石で填め、のちに出したところ、皮も髪もみな尽き、屍の色は炭のようであった。遠近はこれを痛み憤った。

三年(559年)

  • 春二月丙戌、斉主が甘露寺で禅居して深く観じ、ただ軍国の大事のみ奏聞させた。尚書右僕射崔暹が卒し、斉主はその邸に幸して哭し、その妻の李氏に「かなり暹を思うか」と言った。「思います」と答えた。帝は「それなら自ら往って省みよ」と言い、そのまま手ずからその妻を斬り、首を牆の外に擲った。
  • 夏閏四月、斉の高徳政は楊愔とともに相となっていた。愔は常に忌んだ。斉主が酣飲すると、徳政はしばしば強く諫めた。斉主は悦ばず、左右に「高徳政はいつも精神で人を凌ぎ逼る」と言った。徳政は懼れて疾と称して自ら退こうとした。帝が楊愔に「私は大いに徳政の病を憂える」と言った。「陛下がもし冀州刺史に用いられれば、病は自ら癒えましょう」と答えた。帝は従った。徳政は除書を見るとすぐ起き上がった。
  • 帝は大いに怒り、徳政を召して「お前が病だと聞いた。お前のために針をしてやろう」と言い、親ら小刀で刺し、血が流れて地を霑した。また曳き下ろしてその足を斬り去らせようとした。劉桃枝は刀を執ってあえて下ろさなかった。帝は桃枝を責めて「お前の頭がすぐ地に堕ちるぞ」と言い、桃枝はそこでその足の三本の指を斬った。帝の怒りは解けず、徳政を門下に囚えた。その夜、氈の輿で家に送り還した。翌朝、徳政の妻が珍宝を出して四つの牀に満たし、人に寄せようとした。帝は突然その宅に至ってこれを見て怒った。「わが内府にすらこんな物はない」。その得たところを詰ると、みな諸々の元氏が賂したものだった。そのまま曳き出して斬った。妻が出て拝すると、これも斬り、あわせてその子の高伯堅も殺した。
  • 五月、斉の太史が「今年は旧を除き新を布くべし」と奏した。斉主が特進彭城公元韶に「漢の光武はなぜ中興できたのか」と問うた。「諸々の劉氏を誅し尽くさなかったからです」と答えた。こうして斉主は諸々の元氏をことごとく殺して厭勝とした。癸未、始平公元世哲ら二十五家を誅し、韶ら十九家を囚えた。韶は地牢に幽され、絶食して衣の袖を噉んで死んだ。
  • 秋七月、斉の顕祖が晉陽へ行こうとして、そこで諸々の元氏をことごとく誅した。あるいは祖父が王であった者、あるいは身が貴顕であった者、みな東市で斬った。その嬰児は空中に投げて矟で受け、前後の死者は七百二十一人。ことごとく屍を漳水に棄てた。魚を剖く者は往々に人の爪甲を得、鄴下ではこれで久しく魚を食わなかった。
  • 元黄頭と諸々の囚に金鳳台から各々紙鳶に乗って飛ばせた。黄頭だけが紫陌まで至って墜ちた。そのうえで御史中丞畢義雲に付して餓死させた。ただ開府儀同三司元蛮・祠部郎中元文遥ら数家が免れ得た。蛮は元継の子で常山王演の妃の父、文遥は元遵の五世の孫である。
  • 定襄令元景安は元虔の玄孫で、姓を高氏に改めることを請おうとした。その従兄の元景皓が「どうして本宗を棄てて人の姓に従うことがあろう。丈夫はむしろ玉として砕けるべきだ。どうして瓦として全うできよう」と言った。景安はその言を帝に白し、帝は景皓を収めて誅し、景安には高氏の姓を賜わった。
  • 斉の顕祖は酒を嗜んで疾を成し、もう食べられなくなった。自ら久しからぬことを知り、李后に「人生には必ず死がある。何を惜しむに足ろう。ただ正道(太子殷)がまだ幼く、人がこれを奪うだろうことが憐れだ」と言い、また常山王演に「奪うのはお前に任す。ただ慎んで殺すな」と言った。
  • 尚書令開封王楊愔・領軍大将軍平秦王高帰彦・侍中である広漢の燕子献・黄門侍郎鄭頥がみな遺詔を受けて政を輔けた。
  • 冬十月甲午、殂した。癸卯、喪を発した。群臣は号哭したが涙を下す者はなく、ただ楊愔だけが涕泗し嗚咽した。太子殷が即位して大赦した。庚戌、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊んだ。
  • 辛未、斉の顕祖の喪が鄴に至った。

陳文帝天嘉元年(560年)

  • 斉の高陽王高湜は滑稽で便辟なので顕祖に寵され、常に左右にあって杖を執って諸王を撻った。太皇太后は深く銜んでいた。顕祖が殂して湜に罪があり、太皇太后は百余度杖打った。正月癸亥、卒した。
  • 斉主が晉陽から還って鄴に至った。
  • 二月己亥、斉が常山王演を太師・録尚書事とし、長広王湛を大司馬・并省録尚書事とした。
  • 斉の顕祖の喪に、常山王演は禁中に居って喪事を護った。婁太后は立てようとしたが果たさなかった。太子が即位すると、演はそのまま朝列に就いた。天子が諒陰にあるので、詔して演を東館に居らせ、奏そうとする事はみな先に咨って決めた。楊愔らは演と長広王湛が位も地位も親しく逼っており、嗣主に不利なのを恐れ、心に忌んだ。しばらくして演は出て邸に帰り、これより詔敕は多く関与しなくなった。
  • ある者が演に言った。「鷙鳥が巣を離れれば必ず卵を探られる患いがある。今日、王がどうしてしばしば出るべきでしょう」。中山太守楊休之が演に詣でたが、演は会わなかった。休之は王友の王晞に言った。「昔、周公は朝に百篇の書を読み、夕に七十士に会い、なおまだ足りぬと恐れた。王は何を嫌い疑って、こうも賓客を拒み絶たれるのか」。
  • これより先、顕祖の世には群臣は人々自ら保てなかった。済南王(殷)が立つと、演は王晞に「一人が垂拱すれば、われらもまた優閑を保てる」と言い、そのうえで朝廷は寛仁でまことに文を守る良主だと言った。王晞は言った。「先帝の時、東宮は一人の胡人に傅くことを委ねられました。今は春秋がまだ富み、にわかに万機を覧ておられます。殿下は朝夕に先後して親しく音旨を承けられるべきです。他姓に詔命を出納させれば、大権は必ず帰するところがありましょう。殿下は藩を守ろうとされても、それが得られましょうか。仮に沖退を遂げられたとして、家祚が霊長を保てるかどうか、自ら審らかに考えられよ」。演は黙すること久しく「私をどうすればよいか」と言った。晞は「周公は成王を抱いて摂政すること七年、しかるのち子に明辟を復されました。ただ殿下、これを慮られよ」と言った。演は「私がどうして自ら周公に比べられよう」と言った。晞は「殿下の今日の地望では、周公にならずにいられましょうか」と言った。演は応えなかった。顕祖は常に胡人の康虎児に太子を保護させていたので、晞の言はそれに及んだのである。
  • 斉主が晉陽を発とうとしたとき、時議では常山王が必ず留守して根本の地を守ると考えられた。執政は常山王を帝に従わせて鄴へ行かせ、長広王を留めて晉陽を鎮させようとしたが、まもなくまた疑い、そこで二王ともに従うよう敕した。鄴に至って外朝は聞いて駭き愕かぬ者はなかった。また王晞を并州長史とするよう敕した。演が出発するとき、晞は郊に出て送った。演は覘い察する者があるのを恐れ、晞に城へ還るよう命じ、晞の手を執って「努めて自ら慎め」と言い、そのまま馬を躍らせて去った。
  • 平秦王帰彦は禁衛を総べ知っていた。楊愔は敕を宣べて従駕の兵五千を西中に留め、ひそかに非常に備えた。鄴に至って数日、帰彦はようやくこれを知り、これで愔を怨んだ。
  • 領軍大将軍可朱渾天和は可朱渾道元の子で、帝の姑の東平公主を娶っていた。いつも「二王を誅さねば少主に自ら安んずる理はない」と言った。燕子献は太皇太后を北宮に処し、政を皇太后に帰させる謀を巡らせた。
  • また天保八年以来、爵と賞は多く濫らであった。楊愔は澄し汰たうことを加えようとし、そこでまず自ら表して開府を解き、開封王および恩栄を叨り竊んだ者はみな黜免に従わせた。これで嬖寵を失職した徒はことごとく心を二叔(演・湛)に帰した。
  • 平秦王帰彦は初め楊・燕と心を同じくしていたが、まもなく中途で変じ、疎み忌む跡をことごとく二王に告げた。
  • 侍中宋欽道は宋弁の孫である。顕祖が東宮に在らせて太子に吏事を教えさせていた。欽道は面と奏して二叔の威権がすでに重いので速やかに除くべきだと称した。帝は許さず「令公と共にこの事を詳らかにせよ」と言った。愔らは二王を出して刺史とすることを議したが、帝が慈仁なので不可とされるのを恐れ、奏したものを通して皇太后にも啓し、具に安危を述べた。
  • 宮人の李昌儀は高仲密の妻であった。李太后は同姓なので甚だ昵しみ愛し、啓を示した。昌儀はひそかに太皇太后に啓した。
  • 愔らはまた二王をともに出させるべきでないと議し、そこで長広王湛を晉陽に鎮させ、常山王演を録尚書事とするよう奏した。二王が職を拝すると、乙巳、尚書省で百僚を大いに会した。愔らが赴こうとすると、散騎常侍兼中書侍郎鄭頥が止めた。「事はまだ量りがたい。軽々しく脱がれますな」。愔は「われらは至誠で国を体している。どうして常山の職を拝するのに赴かぬ理があろう」と言った。
  • 長広王湛は朝に家僮数十人を録尚書の後室に伏せ、そのうえで席上の勲貴である賀抜仁・斛律金ら数人と示し合わせて約した。「酒を行って愔らに至ったら、私が各々に双杯を勧める。彼は必ず辞を致すだろう。私が一度『酒を執れ』、二度『酒を執れ』、三度『なぜ執らぬ』と言ったら、お前たちはすぐ捕らえよ」。宴に及んでそのとおりにした。
  • 愔は大声で言った。「諸王は反逆して忠良を殺そうというのか。天子を尊び諸侯を削るのは赤心をもって国に奉ずるもの。何の罪があろう」。常山王演は緩めようとしたが、湛は「不可」と言った。こうして拳と杖で乱れ殴り、愔および天和・欽道はみな頭も面も血が流れ、それぞれ十人が押さえた。燕子献は力が強く頭に髪も少なく、狼狽して衆を排して門を走り出た。斛律光が逐って擒えた。子献は歎じて「丈夫の計が遅く、ついにここに至ったか」と言った。太子太保薛孤延らに頥を尚薬局で捕らえさせた。頥は「智者の言を用いなかった。ここに至ったのも命ではないか」と言った。
  • 二王は平秦王帰彦・賀抜仁・斛律金と愔らを擁して雲竜門に唐突に入った。都督叱利騒を見て招いたが進まなかったので、騎に殺させた。開府儀同三司成休寧が刃を抽いて演を呵した。演は帰彦に諭させた。休寧は声を厲しくして従わなかった。帰彦は久しく領軍であり、素より軍士に服されていたので、みな仗を弛め、休寧はそこで歎息して罷めた。
  • 演は入って昭陽殿に至り、湛と帰彦は朱華門の外にあった。帝と太皇太后がともに出た。太皇太后は殿上に坐り、皇太后と帝は側に立った。演は塼で叩頭して進言した。「臣と陛下とは骨肉の至親です。楊遵彦(愔)らは独り朝権を擅にし威福を自らのものにしようとし、王公以下みな足を重ね気を屏め、共に唇歯となって乱の階を成しました。もし早く図らねば必ず宗社の害となります。臣と湛は国事を重しとし、賀抜仁・斛律金は献武皇帝の業を惜しみ、共に遵彦らを執えて宮に入りました。まだあえて刑戮しておりません。専輒の罪は、まことに万死に当たります」。
  • 当時、庭中および両廡の衛士二千余人はみな甲を被て詔を待っていた。武衛の娥永楽は武力が絶倫で、素より顕祖に厚遇されていた。刀を叩いて仰ぎ視たが、帝はこれを睨みもしなかった。帝はもとより吃で訥く、倉猝には言うところを知らなかった。太皇太后が仗を却けるよう令しても退かず、また声を厲しくして「奴輩、今すぐ頭を落とすぞ」と言うと退いた。永楽は刀を納めて泣いた。
  • 太皇太后がそこで「楊郎はどこか」と問うた。賀抜仁が「片目はもう出ました」と言った。太皇太后は愴然として「楊郎に何ができよう。留めておけばよかったではないか」と言った。そこで帝を譲めて「彼らは逆を懐いてわが二子を殺そうとし、次には私に及ぶだろう。お前はなぜ縦にする」と言った。帝はなお物が言えなかった。太皇太后は怒りかつ悲しんで「どうしてわが母子を漢の老婆に斟酌させられよう」と言った。太后は拝謝した。太皇太后はまた太后のために誓って言った。「演に異志はない。ただ逼りを去ろうとしただけだ」。演は叩頭して止まなかった。太后が帝に「なぜお前の叔父を安慰せぬ」と言った。帝はそこで言った。「天子とてあえて叔父のために惜しみはせぬ。まして、この漢人どもをや。ただ児の命を乞う。児は自ら殿を下る。この者どもは叔父のご処分に任せる」。そのままみな斬った。
  • 長広王湛は鄭頥が昔、自分を讒ったので、まずその舌を抜き、その手を截って殺した。
  • 演は平秦王帰彦に侍衛の士を引いて華林園へ向かわせ、京畿の軍士に門閤を入り守らせ、娥永楽を園で斬った。
  • 太皇太后は愔の喪に臨んで哭した。「楊郎は忠であって罪を得た」。御用の金でその片目を作らせ、親ら内れて「もってわが意を表す」と言った。演もまた殺したことを悔いた。こうして詔を下して愔らの罪状を挙げ、そのうえで「罪は一身に止め、家属は問わぬ」と言った。ほどなくまた五家を簿録した。王晞が固く諫め、そこで各々一房を没するに止めたが、孩や幼児はみな死に、兄弟はみな除名された。
  • 中書令趙彦深を楊愔に代えて機務を総べさせた。鴻臚少卿楊休之がひそかに人に言った。「千里を渉ろうというのに騏驎を殺して蹇驢に策うつ。悲しむべきの甚だしきかな」。
  • 戊申、演を大丞相・都督中外諸軍・録尚書事、湛を太傅・京畿大都督、段韶を大将軍、平陽王高淹を太尉、平秦王帰彦を司徒、彭城王高浟を尚書令とした。
  • 斉の大丞相演が晉陽に入った。着くと王晞に「卿の言を用いず、あやうく傾き覆るところだった。今、君の側は清まったが、終には私をどう処すべきか」と言った。晞は「殿下の往時の位と地位ならなお名教で出処を決められましたが、今日の事勢はついに天の時に関わり、もはや人の理の及ぶところではありません」と言った。演は趙郡王高叡を左長史、王晞を司馬とするよう奏した。
  • 三月甲寅、詔して軍国の政はみな晉陽に申べ、大丞相の規算を稟けさせた。
  • 秋七月、斉の丞相演は、王晞が儒緩で武将の意に允わぬのを恐れ、いつも夜に載せて入れ、昼は語らなかった。かつて晞を密室に進ませて言った。「近ごろ王侯の諸貴がいつも敦め迫って『私が天に違うのは不祥だ』と言う。あるいは変が起こるかもしれぬ。私は法をもって縄そうと思うが、どうか」。晞は言った。「朝廷は近ごろ親戚を疎遠にしました。殿下の倉猝に行われたことは、もはや人臣の事ではありません。芒が背に刺さり、上下が相い疑っております。どうして久しくいられましょう。殿下は謙り退いて神器を粃糠のごとくされようとも、実は上玄の意に違い先帝の基を墜とすのを恐れます」。演は「卿はどうしてこんな言葉を発するのか。卿を法に致さねばならぬ」と言った。晞は「天の時も人の事も異なる謀はありません。それゆえあえて斧鉞を冒すのです。またこれも神明の賛けるところでしょう」と言った。演は「難を拯い時を匡すのは、まさに聖哲を俟つもの。私がどうしてあえて私議しよう。願わくは多くを言われるな」と言った。
  • 丞相従事中郎陸杳が使いに出ようとして晞の手を握り、勧進させようとした。晞が杳の言を演に告げると、演は「もし内外みなこの意があるのなら、趙彦深は朝夕左右にありながら、なぜ初めから一言もないのか」と言った。晞はそこで事の隙にひそかに彦深に問うた。彦深は言った。「私も近ごろこの声論に驚いている。陳べ聞かせようとするたび、口は噤み心は悸く。弟が既に端を発した以上、私も昧死して肝胆を披こう」。そこでともに演に勧めた。
  • 演はそこで太皇太后に言った。趙道徳が「相王は周公に倣って成王を輔けず、骨肉相い奪おうとされる。後世に簒と言われるのを畏れられぬのか」と言った。太皇太后は「道徳の言が是である」と言った。
  • まもなく演がまた啓した。「天下の人心はまだ定まっておりません。にわかに変が生じるのを恐れます。早く名位を定めねばなりません」。太皇太后はそこで従った。
  • 八月壬午、太皇太后が令を下して斉主を廃して済南王とし、出て別宮に居らせ、常山王演を入れて大統を纂がせた。そのうえ戒めて「済南に他のことがあらぬようにせよ」と言った。
  • 粛宗(高演)が晉陽で皇帝の位に即き、大赦して改元し皇建とした。太皇太后は還って皇太后と称し、皇太后は文宣皇后と称し、宮を昭信と言った。
  • 乙酉、詔して功臣の封を紹がせ、耆老に礼して賜わり、直言を延き訪ね、死事を褒め賞し、名徳を追贈した。
  • 帝は王晞に言った。「卿はなぜ自ら外客と同じくして、まったく会えぬようにするのか。今より、たとえ局司でなくとも、懐うところがあれば宜しきに随って一牒を作り、少しの隙を俟ってそのまま直接進めよ」。そこで尚書楊休之・鴻臚卿崔劼ら三人に敕して、毎日の職務が罷んだら共に東廊に入り、歴代の礼楽・職官および田市の徴税で、あるいは時に便でないのに相い承けて施し用いているもの、あるいは古来利であったのに今は廃れ墜ちているもの、あるいは道徳が高く儁れながら久しく沈淪している者、あるいは巧言で俗を眩まし妖邪で政を害する者を挙げ録し、ことごとく詳らかに思って次第に条奏させた。朝と晡に御食を給し、日が畢わって還るのを聴した。
  • 帝は識度が沈着で敏く、若くして台閣に居って吏事に明るく習い、即位してとりわけ自ら勤め励み、大いに顕祖の弊を革めた。時人はその明を服したが、その細かさを譏った。群臣が進言すれば、帝はみな従容として受け納れた。
  • 戊子、長広王湛を右丞相、平陽王淹を太傅、彭城王浟を大司馬とした。
  • 冬十一月辛亥、世子高百年を太子に立てた。百年は当時わずか五歳。

二年(561年)

  • 斉主が楊・燕を誅する謀を巡らせたとき、長広王湛を太弟とすると許していた。ところが太子百年を立てたので、湛は心に平らかでなかった。
  • 帝は晉陽にあり、湛は鄴に居守した。散騎常侍高元海は高祖の従孫で、留まって機密を典った。帝は領軍である代の人庫狄伏連を幽州刺史とし、斛律光の弟の斛律羨を領軍として湛の権を分けた。湛は伏連を留めて羨に事を視させなかった。
  • これより先、済南閔悼王(殷)は常に鄴にあり、望気者が「鄴中に天子の気がある」と言った。平秦王帰彦は済南王が再び立って自らに不利となるのを恐れ、帝に除くよう勧めた。帝はそこで帰彦を鄴に至らせて済南王を晉陽に徴した。
  • 湛は内心自ら安んじられず、高元海に計を問うた。元海は「皇太后は万福、至尊は孝友が異常です。殿下は異慮を要されません」と言った。湛は「それが私の誠を推す意であろうか」と言った。元海は省に還って一夜思うことを乞うた。湛はすぐ元海を後堂に留めた。元海は明け方まで眠らず、ただ牀を繞って徐ろに歩いた。夜の漏がまだ尽きぬうちに湛はにわかに出て「神算はどうか」と言った。
  • 元海は言った。「三つの策がありますが、用いるに堪えぬのを恐れます。殿下は梁の孝王の故事のように数騎で晉陽に入り、まず太后に見えて哀を求め、のち主上に見えて兵権を去ることを請い、死を限りとして朝政に干せぬとされれば、必ず太山の安きを保てます。これが上策。そうでなければ、具に表して『威権が太だ盛んで衆口の謗りを取るのを恐れます』と言い、青・斉二州の刺史を請うて沈み静まって自ら居られれば、必ず物議を招きません。これが中策です」。さらに下策を問うと、「発言すればすぐ族誅を恐れます」と言った。固く逼ると、元海は言った。「済南は世嫡です。主上は太后の令を仮ってこれを奪われました。今、文武を集めて済南を徴す敕を示し、斛律豊楽(羨)を執え高帰彦を斬り、済南を尊び立てて天下に号令し、順をもって逆を討つ。これぞ万世の一時です」。
  • 湛は大いに悦んだが、性が怯えで狐疑し、用いることができなかった。術士鄭道謙らに卜させると、みな「事を挙げるのは不利、静かにすれば吉」と言った。林慮令の潘子密は占候に暁く、ひそかに湛に「宮車はまさに晏駕されましょう。殿下が天下の主となられます」と言った。湛は内に拘えて待った。また巫覡に卜させると、多くは「兵を挙げる必要はない。自ら大慶がある」と言った。
  • 湛はそこで詔を奉じ、数百騎に済南王を晉陽に送らせた。九月、帝は人を遣わして毒を盛った。済南王が従わなかったので、扼め殺した。帝はまもなくこれを悔いた。
  • 冬十月、斉の粛宗が畋に出た。兎があって馬を驚かせ、地に墜ちて肋を絶った。婁太后が疾を視、済南のありかを問うこと三度。斉主は答えなかった。太后は怒って「殺したのか。わが言を用いなかった。死ぬのも当然だ」と言い、そのまま去って顧みなかった。
  • 十一月甲辰、詔して「嗣子は冲く眇い」として、尚書右僕射趙郡王叡を遣わして旨を諭し、長広王湛を徴してこの大宝を統べさせた。また湛に書を与えた。「百年に罪はない。お前は良い処に置いてやってくれ。前の人(済南王を殺した自分)に倣うな」。この日、晉陽宮で殂した。臨終に、太后の山陵を見られぬのが恨みだと言った。

史論(顔之推論曰)

  • 孝昭(高演)は天性が至って孝でありながら忌諱を知らず、ついにここに至った。まことに学ばなかった所為である。

(承前)

  • 趙郡王叡は先に黄門侍郎王松年を馳せて鄴に至らせ、粛宗の遺命を宣べさせた。湛はなおその詐りを疑い、親しい者にまず殯所に詣でさせ、発いて視させた。使者が復命し、湛は喜んで晉陽に馳せ赴き、河南王高孝瑜を先に宮に入らせて禁衛を改め易えさせた。
  • 癸丑、世祖(高湛)が南宮で皇帝の位に即き、大赦して改元し太寧とし、太子百年を楽陵王とした。

三年(562年)

  • 春正月乙亥、斉主が鄴に至った。辛巳、南郊に祀った。壬午、太廟に享した。丙戌、妃の胡氏を皇后、子の高緯を皇太子に立てた。后は後魏の兖州刺史である安定の胡延之の女である。戊子、斉が大赦した。己亥、馮翊王高潤を尚書左僕射とした。
  • 閏二月丁未、斉が太宰平陽王淹を青州刺史、太傅平秦王帰彦を太宰・冀州刺史とした。
  • 帰彦は粛宗に厚遇され、勢いを恃んで驕り盈ち、貴戚を陵ぎ侮った。世祖が即位すると、侍中開府儀同三司高元海・御史中丞畢義雲・黄門郎高乾和がしばしばその短を言い、そのうえ「帰彦の威権は主を震わし、必ず禍乱を為します」と言った。帝もまたその反覆の跡を尋ね、次第に忌んだ。帰彦が家に還るのを伺い、魏収を帝の前に召して詔草を作らせて帰彦を冀州に除し、乾和に繕写させ画目させ、そのうえで門司に敕して帰彦がみだりに宮に入るのを聴さないこととした。
  • 当時、帰彦は酒を縦にして楽しみ、一夜を経ても知らなかった。夜が明けて参ろうとして門に至って知り、大いに驚いて退いた。名を通じて謝すと、敕して早く発つよう令し、別に銭帛などの物を賜わること甚だ厚く、また督将にことごとく清陽宮まで送るよう敕した。拝辞して退いたが、あえて語る者はなかった。ただ趙郡王叡だけが久しく語ったが、当時それを聞いた者はなかった。
  • 秋七月、斉の平秦王帰彦が冀州に至った。内心自ら安んじられず、斉主が晉陽へ行くのを待って虚に乗じて鄴に入ろうとした。その郎中令呂思礼が告げた。詔して大司馬段韶・司空婁叡に討たせた。
  • 帰彦は南境に私の駅を置いており、大軍が至ろうとしていると聞いてすぐ城を閉じて拒み守った。長史宇文仲鸞らが従わなかったので、みな殺した。帰彦は大丞相を自称し、衆は四万。
  • 斉主は都官尚書封子絵が冀州の人で、祖父が代々本州の刺史で人心を得ていたので、伝馬で信都に至らせ、城を巡って禍福を諭させた。吏民で降る者は相次ぎ、城中の動静は大小みな知れた。帰彦は城に登って大呼した。「孝昭皇帝が初め崩じたとき、六軍百万はことごとくわが手にあった。身を投じて鄴へ向かい陛下を奉迎した。あの時に反さなかった私が、今日どうして反そうか。ただ高元海・畢義雲・高乾和が聖上を誑かし惑わし、忠良を疾み忌むのが恨みだ。この三人を殺してくれさえすれば、すぐ城に臨んで自刎する」。
  • まもなく城は破れ、単騎で北へ走り、交津で獲られ、鎖して鄴に送られた。乙未、露車に載せ、木を銜ませて面を縛り、劉桃枝が刃を臨ませ、鼓を撃って随い、あわせてその子孫十五人をみな棄市した。封子絵に冀州の事を行わせた。
  • 斉主は帰彦が先に清河王岳を譖ったことを知り、帰彦の家の良賤百口を岳の家に賜わり、岳に太師を贈った。
  • 丁酉、段韶を太傅、婁叡を司徒、平陽王淹を太宰、斛律光を司空、趙郡王叡を尚書令、河間王高孝琬を左僕射とした。

五年(564年)

  • 夏六月、斉主が楽陵王百年を殺した。当時、白い虹が日を囲むこと再重、また横ざまに貫いて達せず、赤い星が見えた。斉主は百年をもってこれを厭勝しようとした。
  • ちょうど博陵の人賈徳胄が百年に書を教え、百年はかつて「敕」の字をいくつか作った。徳胄は封じて奏した。帝は怒りを発して百年を召させた。百年は自ら免れぬと知り、帯の玦を割いて残してその妃の斛律氏に与えた。
  • 涼風堂で帝に見えた。百年に「敕」の字を書かせて験べると、徳胄の奏したものと似ていた。左右に乱れ捶たせ、また曳いて堂を繞って行かせ、かつ捶った。過ぎたところは血が遍く地に及んだ。気息が尽きようとしてから斬り、池に棄てた。池の水はことごとく赤くなった。
  • 妃は玦を把って哀号し、食わず、月余りしてこれも卒した。玦はなお手にあり、拳は開けなかった。その父の斛律光が自ら擘いて、ようやく開いた。