通鑑紀事本末蕭勃、嶺南に拠る(蕭勃據嶺南)

侯景の乱に際し、陳霸先が広州刺史元景仲を除いて曲江侯蕭勃を広州に迎えたところから始まる嶺南の争い。勃は霸先の北上を阻もうとし、江陵陥落後は始興に拠って自立の姿勢を強め、557年に広州で兵を挙げて欧陽頠・傅泰・蕭孜を前軍とし余孝頃も応じた。だが周文育が芉韶に拠って諸軍を分断し頠と泰を擒えると勃は部下の譚世遠らに殺され、欧陽頠が嶺南を平定した。残る余孝頃・熊曇朗らの叛も560年までに討ち平らげられた。549年から560年までの十二年間。

年表(7件)
  • 梁武帝
  • 太清三年549年陳霸先が元景仲を除いて蕭勃を広州に迎え、始興で挙兵を図る
  • 簡文帝
  • 大宝元年550年陳霸先が南野で蔡路養を破って北上の路を開く
  • 元帝
  • 承聖三年554年蕭勃が広州刺史を解かれて晉州刺史とされ、始興に居を遷す
  • 陳高祖
  • 永定元年557年蕭勃が広州で挙兵するが敗れて殺され、欧陽頠が嶺南を平定する
  • 二年558年余孝頃が王琳の兵と南川に出るが、周迪らに敗れて擒えられる
  • 三年559年熊曇朗が周文育を殺して新淦に拠り、侯安都が常衆愛らを破る
  • 陳文帝
  • 天嘉元年560年周迪が熊曇朗の城を抜き、曇朗は村民に斬られて族を滅ぼされる

梁武帝太清三年(549年)

  • 西江督護陳霸先が兵を起こして侯景を討とうとした。景は人を遣わして広州刺史元景仲を誘い、主として奉ずると許した。景仲はこれで景に附き、ひそかに霸先を図った。霸先は知って、成州刺史王懐明らと南海に兵を集め、檄を馳せて景仲を討つとして言った。「元景仲は賊と合従した。朝廷は曲陽侯蕭勃を遣わして刺史とし、軍はすでに朝亭に頓している」。景仲の部下は聞いてみな景仲を棄てて散じた。秋七月甲寅、景仲は閤の下で縊れた。
  • 霸先は定州刺史蕭勃を迎えて広州に鎮させた。前高州刺史蘭裕は蘭欽の弟で、その諸弟と始興など十郡を扇き誘い、監衡州事欧陽頠を攻めた。勃は霸先に救わせ、裕らをことごとく擒えた。勃はそこで霸先に始興郡の事を監させた。
  • 冬十二月、始興太守陳霸先が郡中の豪傑と結んで侯景を討とうとした。郡人の侯安都・張偲らがそれぞれ衆千余人を率いて帰した。霸先は主帥杜僧明に二千人を将いさせて嶺の上に頓させた。広州刺史蕭勃が人を遣わして止めさせた。「侯景は驍雄で天下に敵なし。先の援軍十万は士馬が精強だったのに、なお克てなかった。君は区々の衆をもってどこへ行こうというのか。聞けば嶺北の王侯もみな鼎沸して、親しく干戈を尋ねているという。君のような疎い外の者が、どうして暗投できよう。しばらく始興に留まり、遥かに声勢を張って太山の安きを保つに越したことはない」。霸先は言った。「僕は国恩を荷うている。先に侯景が江を渡ったと聞いてすぐ援けに赴こうとしたが、元景仲と蘭裕に遭って中道を梗げられた。今、京都は覆没した。君は辱められ臣は死ぬ。誰があえて命を愛しもう。君侯は体は皇枝、任は方岳に重い。僕の一軍を遣わされるだけでも、なお何もせぬよりは賢しい。それをかえって止められるのか」。そこで使いを間道から江陵に詣でさせ、湘東王繹の節度を受けた。
  • 当時、南康の土豪蔡路養が兵を起こして郡に拠った。勃はそこで腹心の譚世遠を曲江令とし、路養と結んで共に霸先を遏めた。

簡文帝大宝元年(550年)

  • 春正月、陳霸先が始興を発って大庾嶺に至った。蔡路養は二万人を将いて南野に軍して拒んだ。路養の妻の姪である蘭陵の蕭摩訶は年十三、単騎で出戦し、あえて当たる者はなかった。杜僧明の馬が傷つき、陳霸先が救って自ら乗る馬を授けた。僧明は馬に上って再び戦い、衆軍がこれに乗じ、路養は大敗して身一つで脱れ走った。

元帝承聖三年(554年)

  • 広州刺史曲江侯蕭勃は、自ら上の授けたものでないので内心安んじられず、上もまた疑った。勃は入朝を求めることを啓した。五月乙巳、上は王琳を広州刺史、勃を晉州刺史とした。
  • 秋九月、曲江侯勃が始興に居を遷した。

陳高祖永定元年(557年)

  • はじめ梁の世祖が始興郡を東衡州として欧陽頠を刺史とした。久しくして頠を郢州刺史に移したが、蕭勃は頠を留めて遣わさなかった。世祖が王琳を勃に代えて広州刺史とすると、勃はその将の孫盪を遣わして広州を監させ、部下を尽く率いて始興に屯してこれを避けた。頠は別に一城に拠って謁しに行かず、門を閉じて自ら守った。勃は怒って兵を遣わして襲い、その資財と馬・武具をことごとく収めたが、まもなく赦してもとに復させ、盟を結んだ。江陵が陥ちて、頠はそのまま勃に仕えた。
  • 二月庚午、勃が広州で兵を起こし、頠およびその将の傅泰・蕭孜を遣わして前軍とした。孜は勃の従子である。南江州刺史余孝頃が兵をもって会した。詔して平西将軍周文育に諸軍を率いて討たせた。
  • 欧陽頠らが南康を出た。頠は豫章の苦竹灘に屯し、傅泰は蹠口城に拠り、余孝頃はその弟の孝勱を遣わして郡城を守らせ、自ら豫章に出て石頭に拠った。
  • 巴山太守熊曇朗は頠を誘って共に高州刺史黄法氍を襲おうとし、また法氍に語って共に頠を破ることを約し、そのうえ「事が捷ったら私に馬と武具を与えよ」と言った。そのまま軍を出して頠と共に進み、法氍の城下に至って曇朗は偽って敗走した。法氍が乗じ、頠は援けを失って走った。曇朗はその馬と武具を取って巴山へ帰った。
  • 周文育の軍は船が少なく、余孝頃には上牢に船があった。文育は軍主焦僧度を遣わして襲わせ、ことごとく取って帰り、そのうえで豫章に柵を立てた。軍中の食が尽き、諸将は退こうとしたが、文育は許さず、人を間道から行かせて衡州刺史周迪に書を遺し、兄弟となることを約した。迪は書を得て甚だ喜び、糧を饋ることを許した。
  • そこで文育は老弱を分け遣わして古い船に乗せて流れに沿ってともに下らせ、豫章の柵を焼いて、遁れ去るかのように偽った。孝頃は望み見て大いに喜び、二度と備えを設けなかった。文育は間道から兼行して芉韶に拠った。芉韶の上流は欧陽頠と蕭孜、下流は傅泰と余孝頃の営で、文育はその中間に拠って城を築き士に饗した。頠らは大いに駭き、頠は退いて泥渓に入った。文育は厳威将軍周鉄虎らを遣わして頠を襲わせ、癸巳、擒えた。文育は兵甲を盛んに陳ねて頠と舟に乗って宴し、蹠口城の下を巡り、その将の丁法洪に泰を攻めさせて擒えた。孜と孝頃は退き走った。
  • 三月庚子、周文育が欧陽頠・傅泰を建康に送った。丞相霸先は頠と旧交があり、釈して厚く待遇した。
  • 曲江侯勃は南康にあって欧陽頠らの敗を聞き、軍中は忷え懼れた。甲寅、徳州刺史陳法武・前衡州刺史譚世遠が勃を攻めて殺した。
  • 夏四月、故曲江侯勃の主帥蘭敳が譚世遠を襲い殺し、軍主夏侯明徹が敳を殺し、勃の首を持って降った。勃の故記室李宝蔵は懐安侯蕭任を奉じて広州に拠った。
  • 蕭孜と余孝頃はなお石頭に拠って二つの城を為し、各々その一つに居り、多く船艦を設けて水を挟んで陣した。丞相霸先が平南将軍侯安都を遣わして周文育を助けて撃たせた。戊戌、安都は師をひそかに動かして夜にその船艦を焼き、文育が水軍を率い安都が歩騎を率いて進み攻めた。蕭孜は出て降り、孝頃は新呉へ逃げ帰った。文育らは兵を引いて還った。
  • 丞相霸先は欧陽頠の声名が南土に著しいので、また頠を衡州刺史として嶺南を討たせた。まだ着かぬうちに、その子の欧陽紇がすでに始興を克っていた。頠が至ると嶺南の諸郡はみな降り、そのまま広州を克って嶺南はことごとく平らいだ。
  • 五月戊辰、余孝頃が使いを丞相府に詣でさせて降を乞うた。

二年(558年)

  • 王琳が兵を引いて東下したとき、衡州刺史周迪は自ら南川に拠ろうとして、部下八郡の守宰をすべて召し、盟を結んで一斉に入り赴くと言った。上はその変を為すのを恐れ、厚く慰め撫した。
  • 新呉の洞主余孝頃が沙門道林を遣わして琳に説かせた。「周迪と黄法氍はみな金陵に依り附き、ひそかに間隙を窺っております。大軍がもし下れば必ず後患となりましょう。まず南川を定めてのち東下されるに越したことはありません。孝頃は部下を席巻して下吏に従うことをお請いします」。琳はそこで軽車将軍樊猛・平南将軍李孝欽・平東将軍劉広徳に兵八千を将いさせて赴かせ、孝頃に三将を総督させて臨川の故郡に屯させ、迪に兵と糧を徴してその為すところを観た。
  • 夏五月癸巳、余孝頃らが二万近くで工塘に軍し、八城を連ねて周迪に逼った。迪は懼れて和を請い、あわせて兵と糧を送った。樊猛らは盟を受けて還ろうとしたが、孝頃はその利を貪って許さず、柵を樹てて囲んだ。これで猛らは孝頃と協わなくなった。
  • 秋七月、高州刺史黄法氍・呉興太守沈恪・寧州刺史周敷が兵を合わせて周迪を救った。敷は臨川の故郡から江口を断ち、兵を分けて余孝頃の別城を攻めた。樊猛らは救わずして没し、劉広徳は流れに乗じて先に下ったので全うされた。孝頃らはみな舟を棄てて兵を引いて歩いて走り、迪が追撃してことごとく擒えた。孝頃および李孝欽を建康に送り、樊猛は王琳に帰した。
  • 九月、余孝頃の弟の孝勱および子の公颺がなお旧柵に拠って下らなかった。庚午、詔して開府儀同三司周文育に衆軍を都督させ、豫章に出て討たせた。

三年(559年)

  • 夏五月、周文育・周迪・黄法氍が共に余公颺を討った。豫章内史熊曇朗が兵を引いて会し、衆は一万近くになった。文育は金口に軍した。公颺は降ると詐って文育を捕らえる謀を巡らせた。文育は覚って囚え、建康に送った。
  • 文育は進んで三陂に屯した。王琳がその将の曹慶に二千人を率いさせて余孝勱を救わせた。慶は主帥常衆愛を分け遣わして文育と拒み合わせ、自らその衆を率いて周迪および安南将軍呉明徹を攻め、迪らは敗れた。文育は退いて金口に拠った。
  • 熊曇朗はその失利に因って文育を殺して衆愛に応ずる謀を巡らせた。監軍孫白象がその謀を聞いて文育に先手を取るよう勧めたが、文育は従わなかった。当時、周迪は船を棄てて走り所在が分からなかった。乙酉、文育が迪の書を得て自ら齎して曇朗に示すと、曇朗は座で殺してその衆を併せ、そのまま新淦城に拠った。曇朗は兵一万を将いて周敷を襲ったが、敷は撃ち破り、曇朗は単騎で巴山へ奔った。
  • 六月、周文育が余孝勱を討ったとき、帝は南豫州刺史侯安都に継がせていた。文育が死に、安都は還って王琳の将である周炅・周協の南へ帰るところに遇い、戦って擒えた。孝勱の弟の孝猷は部下四千家を率いて安都に詣でて降った。安都は軍を左里まで進めて曹慶・常衆愛を撃ち破った。衆愛は廬山へ奔り、庚寅、廬山の民が斬って首を伝えた。

陳文帝天嘉元年(560年)

  • 王琳が東下したとき、帝は南川の兵を徴した。江州刺史周迪・高州刺史黄法氍が舟師を率いて赴こうとしたが、熊曇朗が城に拠り艦を列ねてその中路を塞いだ。迪らは周敷と共に囲んだ。琳が敗れ、曇朗の部衆は心を離した。迪は攻めてその城を抜き、男女一万余口を虜にした。曇朗は村の中へ走り入り、村民が斬って首を建康に伝えた。その族をことごとく滅ぼした。