通鑑紀事本末西魏、蜀を取る(西魏取蜀)

益州に十七年鎮して財力と兵馬を蓄えた武陵王蕭紀が、侯景の乱を機に湘東王蕭繹と対立し、552年に成都で帝を称して東下する。追い詰められた繹が西魏に救援を請うと、宇文泰は尉遅迥に一万余の騎を与えて散関から蜀を襲わせた。楊乾運らの内応で剣閣が開き、迥は成都を囲む。紀は峡口で陸法和・任約・謝答仁に阻まれて敗れ、樊猛に斬られ、永豊侯蕭撝も成都を降して蜀は西魏の版図に入った。550年から554年までの五年間。

年表(5件)
  • 梁簡文帝
  • 大宝元年550年武陵王紀が成都を発つが、湘東王繹が書を送って止める
  • 二年551年益州長史劉孝勝らが紀に帝を称するよう勧める
  • 元帝
  • 承聖元年552年武陵王紀が成都で皇帝の位に即き、天正と改元して東下する
  • 二年553年西魏の尉遅迥が蜀を襲い、紀は樊猛に斬られ、永豊侯撝が成都を降す
  • 三年554年尉遅迥が十八州を督し、剣関以南の封拝と黜陟を委ねられる

梁簡文帝大宝元年(550年)

  • 侯景の乱に、太尉・益州刺史の武陵王蕭紀が征鎮に告げを移し、世子の蕭円照に兵三万を率いさせて湘東王の節度を受けさせた。円照の軍が巴水に至ると、繹は信州刺史を授けて白帝に屯させ、東下を許さなかった。
  • 冬十一月、武陵王紀が諸軍を率いて成都を発った。湘東王繹は使いを遣わし書を送って止めた。「蜀人は勇悍で動きやすく安んじがたい。弟はこれを鎮められよ。私が自ら賊を滅ぼす」。また別紙に「地は孫氏・劉氏に擬え、各々境界に安んじよう。情は魯・衛より深く、書信は恒に通じよう」と言った。

二年(551年)

  • 江安侯蕭円正が西陽太守となった。寛やかで和やかで施しを好み、帰り附く者が多く、兵一万があった。湘東王繹はこれを図ろうとして平南将軍に署した。着任すると会わず、南平王恪に飲ませて酔わせ、そのまま内省に囚え、その部曲を分け、人にその罪を告げさせた。荊と益の釁はここから起こった。
  • 冬十一月、益州長史劉孝勝らが武陵王紀に帝を称するよう勧めた。紀は許さなかったが、大いに乗輿と車服を造った。

元帝承聖元年(552年)

  • 益州刺史・太尉の武陵王紀はかなり武略があり、蜀に在ること十七年。南は寧州・越嶲を開き、西は資陵・吐谷渾に通じ、内は耕桑・塩鉄の政を修め、外は商賈・遠方の利を通じた。ゆえにその財用を殖やすことができ、器と甲は殷んに積まれ、馬八千匹があった。
  • 侯景が台城を陥れ湘東王が討とうとしていると聞いて、僚佐に「七官(繹)は文士だ。どうして匡し済えよう」と言った。内寝の柏殿の柱に節を繞って花が生じ、紀は自らの瑞とした。
  • 夏四月乙巳、皇帝の位に即き、天正と改元した。子の円照を皇太子、円正を西陽王、円満を竟陵王、円普を譙王、円粛を宜都王とし、巴西・梓潼二郡太守の永豊侯蕭撝を征西大将軍・益州刺史として秦郡王に封じた。
  • 司馬王僧略と直兵参軍徐怦が固く諫めたが従わなかった。僧略は王僧弁の弟、怦は徐勉の従子である。
  • はじめ台城が囲まれたとき、怦は紀に速やかに入援するよう勧めた。紀は行く意がなく、内心これを銜んでいた。ちょうど蜀人の費合が怦の謀反を告げた。怦には将帥に宛てた書に「事々は往く人が口で具に申す」というのがあった。紀はすぐ反の徴とし、怦に「卿の旧情ゆえ、諸子は無事にしてやろう」と言った。怦は「生んだ児がみな殿下のようなら、留めて何の益がありましょう」と答えた。紀はそこでことごとく誅し、首を市に梟した。王僧略も殺した。
  • 永豊侯撝は歎じて「王事は成るまい。善人は国の基だ。今それを先に殺した。亡びずして何を待とう」と言った。
  • 紀は宜封侯の諮議参軍劉璠を中書侍郎に徴した。使者が八度往復してようやく来た。紀は劉孝勝に深く腹心を布かせたが、璠は苦しく還ることを求めた。中記室韋登がひそかに璠に言った。「殿下は忍んで憾みを畜えられる。足下が留まらねば大禍を招こう。共に大厦を構えて身も名も美しくするに如くはあるまい」。璠は色を正して言った。「卿は私に頬を緩めさせようというのか。私と府侯(宜封侯)とは分義がすでに定まっている。どうして夷険でその心を易えよう。殿下はまさに大義を天下に布かれるところ。終に一夫に志を逞しくはされまい」。紀は必ず自らに用いられぬと知り、厚く礼して遣わした。
  • 秋八月、武陵王紀が兵を挙げ、外水から東下した。永豊侯撝を益州刺史として成都を守らせ、その子の宜都王円粛を副とした。

二年(553年)

  • 春二月、上は武陵王紀が東下すると聞き、方士に版に紀の像を画かせ、親らその支体に釘を打って厭勝とした。また侯景の俘を斬って紀に報せた。
  • はじめ紀の挙兵はみな太子円照の謀であった。円照は当時、巴東に鎮しており、使者を捕らえ留めて紀に啓した。「侯景はまだ平らいでおりません。急ぎ進んで討たれるべきです。すでに荊鎮が景に破られたと聞きます」。紀は信じ、兵を促して東下した。
  • 上は甚だ懼れ、魏に書を送って「子糾は親である。請う、君これを討たれよ」と言った。太師泰は「蜀を取って梁を制するは、この一挙にある」と言った。諸将はみな難しいとしたが、大将軍である代の人尉遅迥は泰の甥で、独り克てるとした。泰が方略を問うと、迥は言った。「蜀は中国と隔絶して百有余年。その険と遠さを恃んで我が至るとは思っておりません。もし鉄騎で兼行して襲えば、克てぬことはありません」。泰はそこで迥に開府儀同三司原珍ら六軍、甲士一万二千・騎一万匹を督させ、散関から蜀を伐たせた。
  • 夏五月、武陵王紀が巴郡に至り、魏兵があると聞いて、前梁州刺史である巴西の譙淹を軍に還して蜀を救わせた。
  • はじめ楊乾運が梁州刺史を求めたが、紀は潼州とし、楊法琛が黎州刺史を求めたが沙州とした。二人はともに悦ばなかった。乾運の兄の子の楊略が乾運に説いた。「今、侯景が平らいだばかり。心を同じくし力を戮せて国を保ち民を寧んずべきなのに、兄弟が戈を尋ねている。これは自ら亡ぶ道です。そもそも朽ちた木は雕れず、衰えた世は佐けがたい。関中に款を送り、功名を両つながら全うするに越したことはありません」。乾運はもっともとし、略に二千人を将いさせて剣閣に鎮させ、また婿の楽広を安州に鎮させ、法琛とともにひそかに魏に通じた。魏の太師泰はひそかに乾運に鉄券を賜わり、驃騎大将軍・開府儀同三司・梁州刺史を授けた。
  • 尉遅迥は開府儀同三司侯呂陵始を前軍として剣閣に至らせた。略は退いて楽広のもとへ就き、城を翻して始に応じ、始は入って安州に拠った。
  • 甲戌、迥が涪水に至り、乾運は州をもって降った。迥は軍を分けて守らせ、進んで成都を襲った。当時、成都の現在兵は一万に満たず、倉庫は空竭していた。永豊侯撝は城に籠って自ら守り、迥は囲んだ。譙淹が江州刺史景欣・幽州刺史趙抜扈を遣わして成都を援けさせたが、迥は原珍らに撃ち走らせた。
  • 武陵王紀は巴東に至って侯景がすでに平らいだと知り、そこで自ら悔い、太子円照を召して責めた。円照は「侯景は平らいだとはいえ、江陵はまだ服しておりません」と答えた。紀もまた尊号を称した以上また人の下にはなれぬと考え、そのまま東進しようとした。将卒は日夜、帰ることを思った。その江州刺史王開業は還って根本を救い改めて後図を思うべきだとし、諸将もみなもっともとしたが、円照と劉孝勝が固く不可を言い、紀は従い、衆に「あえて諫める者は死」と宣言した。
  • 己丑、紀が西陵に至った。軍勢は甚だ盛んで、舳艫は川を翳した。護軍陸法和が峡口の両岸に二つの城を築き、石を運んで江を填め、鉄鎖で断った。帝は任約を獄から赦して晉安王司馬とし、法和を助けて紀を拒ませた。約に「汝の罪は誅しても足りぬ。私が汝を殺さなかったのは、もともと今日のためだ」と言い、そのうえで禁兵を撤して配し、そのうえ廬陵王蕭続の娘を妻に与えると許し、宣猛将軍劉棻を同行させた。
  • 夏六月壬辰、武陵王紀が連城を築いて攻め、鉄鎖を絶った。陸法和の急を告げる知らせが相次いだ。上は謝答仁を歩兵校尉として兵を配し、法和を助けさせた。
  • 武陵王紀が将軍侯叡に衆七千を将いさせて塁を築かせ、陸法和と拒み合った。上は使いを遣わして紀に書を送り、蜀に還って一方を専制することを許した。紀は従わず、返書は家人の礼のようであった。上はまた紀に書を送った。「私は年において一日の長があり、たまたま乱を平らげる功があった。この楽推に膺り、事は当璧に帰した。もし使いを遣わされるなら、まことに待つところだ。そうでないと言うなら、ここで筆を投じよう。友于の兄弟、形を分かち気を共にし、兄が肥えれば弟が痩せるとも、もう相い見える期はない。棗を譲り梨を推す、永く歓愉の日は罷む。心に愛おしむ。書は言を尽くさぬ」。
  • 紀は兵を頓めること日久しく、しきりに戦って利あらず、また魏冦が深く入って成都が孤り危ういと聞いて、憂い懣え、なすところを知らなかった。そこでその度支尚書楽奉業を江陵に詣でさせて和を求め、前の旨に依って蜀に還ることを請わせた。奉業は紀が必ず敗れると知り、上に啓した。「蜀軍は糧に乏しく、士卒は多く死んでおります。危亡は待つべし」。上はそこでその和を許さなかった。
  • 紀は黄金一斤を餅とし、餅百を一篋として百篋にも至り、銀は金の五倍、錦・罽・繒・綵もこれに見合った。戦うたびに将士に懸けて示したが賞には与えなかった。寧州刺史陳智祖が散じて勇士を募ることを請うたが聴かず、智祖は哭して死んだ。事を請う者があっても紀は疾を辞して会わず、これで将卒は解体した。
  • 秋七月辛未、巴東の民である符昇らが峡口城主公孫晃を斬って王琳に降った。謝答仁と任約が進んで侯叡を攻め破り、その三塁を抜いた。こうして両岸の十四城がともに降った。
  • 紀は退けず、流れに順って東下した。遊撃将軍である南陽の樊猛が追撃し、紀の衆は大いに潰え、水に赴いて死ぬ者は八千余人。猛は囲んで守った。上はひそかに猛に敕した。「生かして還れば功を成したことにはならぬ」。猛が兵を引いて紀のところに至ると、紀は舟の中で牀を繞って走り、金の嚢を猛に擲って言った。「これで卿を雇う。私を送って七官に一目会わせてくれ」。猛は「天子にどうして会えましょう。足下を殺せば金はどこへ行くというのか」と言い、そのまま紀およびその幼子の円満を斬った。
  • 陸法和が太子円照ら兄弟三人を収めて江陵に送った。上は紀の属籍を絶ち、饕餮氏の姓を賜わった。劉孝勝を獄に下したが、まもなく釈した。
  • 三たび使いを遣わして江安侯円正に「西軍はすでに敗れた。汝の父は存亡が分からぬ」と言わせた。自ら裁させようという意である。円正は聞いて号哭し、「世子」と称して声を絶やさなかった。上はしきりに人に覗わせ、死ねぬと知って廷尉の獄に移し送った。円照に会って「兄はどうして人の骨肉を乱し、こんな痛酷なことをさせたのか」と言った。円照はただ「計を誤った」と言うのみ。上はともに獄で絶食させるよう命じ、腕を齧って食うに至り、十二日で死んだ。遠近は聞いて悲しんだ。
  • 魏の尉遅迥が成都を囲むこと五旬。永豊侯撝はしばしば出戦したがみな敗れ、そこで降を請うた。諸将は許すまいとしたが、迥は「降せば将士は全うされ遠人は悦ぶ。攻めれば将士は傷つき遠人は懼れる」と言い、そのまま受けた。
  • 八月戊戌、撝が宜都王円粛と文武を率いて軍門に詣でて降った。迥は礼をもって接し、益州城の北で盟った。吏と民はみなその業に復し、ただ奴婢と儲積のみを収めて将士に賞し、軍に私するところはなかった。魏は撝および円粛をともに開府儀同三司とし、迥を大都督益潼等十二州諸軍事・益州刺史とした。

三年(554年)

  • 魏は益州刺史尉遅迥に六州の督を加え、前と合わせて十八州とし、剣関以南は制を承けて封拝および黜陟することを得させた。迥は賞罰を明らかにし威と恩を布き、新たな民を綏め輯め、まだ附かぬ者を経略した。華も夷もこれに懐いた。