通鑑紀事本末魏、東西に分裂する(魏分東西)

北魏が高歓の東魏と宇文泰の西魏に分裂し、両者が抗争を続けた顛末を記す。孝武帝は高歓を疎んじて関中の賀抜岳・宇文泰と結んだが、賀抜岳は侯莫陳悦に殺され、宇文泰がその衆を継いだ。帝は長安へ西奔し、高歓は元善見を立てて鄴に遷都する。以後、小関・沙苑・河橋・邙山の四大会戦を重ね、玉壁では韋孝寛が高歓の五十日の攻めを退けて高歓は病んで没した。中大通四年から太清三年まで、王思政の潁川陥落までの十八年間。

年表(14件)
  • 梁武帝
  • 中大通四年532年高歓が主を裏切った喬寧・張子期を犬馬にも劣ると責めて斬る
  • 五年533年孝武帝が高歓を図って高乾に死を賜い、宇文泰が賀抜岳の下で頭角を現す
  • 六年534年賀抜岳が殺され宇文泰が継ぎ、孝武帝が長安へ西奔して魏が東西に分かれる
  • 大同元年535年西魏の文帝が即位して大統と改元し、東西が互いに罪を数える檄を出す
  • 二年536年高歓が夏州を襲って刺史を擒え、年末に竇泰を潼関へ向かわせる
  • 三年537年宇文泰が小関で竇泰を破り、沙苑で高歓の八万を潰滅させる
  • 四年538年河橋・邙山の戦いで高敖曹が戦死し、長安では趙青雀が反乱を起こす
  • 六年540年侯景が三鵶に出るが李弼・独孤信の出撃で退く
  • 八年542年西魏が六軍を置き、高歓は玉壁を囲むも大雪で囲みを解く
  • 九年543年高仲密の叛を機に邙山で大会戦となり、宇文泰が敗れて関に入る
  • 中大同元年546年韋孝寛が玉壁を五十日守り抜き、高歓は七万を失って病を発する
  • 太清元年547年東魏の勃海献武王高歓が没する
  • 二年548年東魏の高岳らが十万で潁川の王思政を攻める
  • 三年549年高澄が洧水を堰いて潁川を落とし、王思政は降って厚遇される

梁武帝中大通四年(532年)

  • 魏の高歓が爾朱氏を討ったとき、爾朱仲遠は梁に亡命した。仲遠の帳下都督喬寧と張子期は滑台から歓のもとへ来て降った。歓は責めて言った。「お前たちは仲遠に仕えてその栄と利を擅にし、盟約を百重にも結んで生死を共にすると誓った。先に仲遠が徐州から逆をなしたとき、お前たちは戦の首魁だった。今、仲遠が南へ走ると、また叛いた。天子に仕えては不忠、仲遠に仕えては不信。犬馬すら飼い主を知る。お前たちは犬馬にも及ばぬ」。そこで斬った。

五年(533年)

  • 春正月、魏の侍中斛斯椿は喬寧と張子期の死を聞いて内心安んじなかった。南陽王元宝炬・武衛将軍元毗・王思政とひそかに魏主に丞相歓を図るよう勧めた。毗は元遵の玄孫である。舎人元士弼もまた「歓が詔を受けるのに不敬でした」と言い、帝はこれで不快になった。
  • 椿は帝に閤内都督の部曲を置くよう勧め、また武直の人数を増やし、直閤以下それぞれ数百人とし、みな四方の驍勇な者を選んで充てた。帝がたびたび遊幸に出るたび、椿は自ら部署を定めて別に行陣をなした。これで朝政も軍謀も帝はもっぱら椿と決した。
  • 帝は関中大行台賀抜岳が重兵を擁しているので、ひそかに結んだ。また侍中賀抜勝を都督三荊等七州諸軍事・荊州刺史として出し、勝兄弟に頼って歓に敵させようとした。歓はいよいよ不快になった。
  • 侍中・司空高乾は信都にいた頃、父の喪に遭ったが服喪を全うする暇がなかった。孝武帝が即位すると上表して職を解いて喪を行うことを請い、詔で侍中を解くのを聴されたが司空は元のままとされた。乾は退くことを求めたものの、こう急に許されるとは思っていなかった。内侍を去ってからは朝政の多くに与れず、常に不満だった。
  • 帝はすでに歓に二心を抱いており、乾を自分のために用いたいと思った。あるとき華林園の宴が終わってから独り乾を留めて言った。「司空は代々忠良で、今日また格別の効を建てた。互いに君臣とはいえ、義は兄弟と同じだ。共に盟約を立てて情誼を篤くしたい」。懇ろに迫った。乾は「臣は身を国に許しております。どうして二心がありましょう」と答えた。当時は事が急に出たことで、しかも帝に異図があるとは思わなかったので、固く辞退もせず、また歓に啓しもしなかった。
  • 帝が部曲を置くに及んで、乾はひそかに親しい者に言った。「主上は勲功ある賢者を親しまず、群小を招き集めておられる。たびたび元士弼と王思政を関西に往来させ、賀抜岳と計議しておられる。また賀抜勝を荊州に出されたのは、外は疎んじ忌むように見せて、実は党を樹て、その兄弟を近づけ、西方を拠り有たせようというもの。禍難がまさに起ころうとしており、必ず私に及ぶ」。そこでひそかに歓に啓した。
  • 歓が乾を并州に召して面と向かって時事を論じた。乾はそのついでに歓に魏の禅譲を受けるよう勧めた。歓は袖でその口を掩い、「みだりに言うな。今、司空にまた侍中となってもらう。門下の事は一切そなたに委ねる」と言い、たびたび啓し請うたが帝は許さなかった。
  • 乾は変難がまさに起ころうとしていると知り、ひそかに歓に啓して徐州刺史を求めた。二月辛酉、乾を驃騎大将軍・開府儀同三司・徐州刺史とした。
  • 三月、高乾が徐州へ赴こうとした。魏主はその機事の漏泄を聞いて、丞相歓に詔した。「乾邕は朕と私に盟約を交わしたのに、今や二股をかけて反覆している」。歓は乾が帝と盟したと聞いてこれも憎み、すぐに乾が前後に時事を論じた啓を取り、使者に封じて奉らせた。帝が乾を召して歓の使者と対決させて責めた。乾は「陛下が自ら異図を立てられながら、臣を反覆と仰せになる。人主が罪を加えられるのに、辞退できましょうか」と言い、そこで死を賜った。
  • 帝はまたひそかに東徐州刺史潘紹業に敕してその弟の敖曹を殺させようとした。敖曹は先に乾の死を聞き、壮士を路に伏せて紹業を捕らえ、袍の襟から敕書を得た。そこで十余騎を率いて晉陽に奔った。歓はその首を抱いて哭し、「天子が枉げて司空を害した」と言った。敖曹の兄の高仲密は光州刺史だった。帝は青州に敕してその帰路を断たせたが、仲密もまた間道を行って晉陽に奔った。仲密は名は慎、字で通った。
  • 秋七月壬辰、魏が広陵王元欣を大司馬、趙郡王元諶を太師とした。庚戌、前司徒賀抜允を太尉とした。
  • はじめ賀抜岳が行台郎馮景を晉陽に遣わした。丞相歓は岳の使者が来たと聞いて甚だ喜び、「賀抜公はまだ私を憶えていてくれたのか」と言い、景と血をすすって岳と兄弟の契りを結ぶ約をした。景は還って岳に「歓は姦詐に余りがあります。信じられません」と言った。
  • 府司馬宇文泰が自ら晉陽への使いを請い、歓の人となりを観ようとした。歓はその容貌に驚いて「この男の眼差しは尋常でない」と言い、留めようとした。泰は固く復命を求めた。歓は遣わしてから悔い、駅を発して急ぎ追わせたが、関に至って及ばず引き返した。
  • 泰は長安に至って岳に言った。「高歓がまだ簒わぬのは、まさに公の兄弟を憚っているからです。侯莫陳悦の徒は忌むところではありません。公はただひそかに備えを整えられよ。歓を図るのは難しくありません。今、費乜頭は弓を引く騎が一万を下らず、夏州刺史斛抜彌俄突は兵三千余人、霊州刺史曹泥と河西の流民紇豆陵伊利らはそれぞれ部衆を擁して、まだ属するところがありません。公がもし軍を隴の近くに移し、その要害を扼し、威をもって震わせ恵みをもって懐けられれば、その士馬を収めてわが軍の資とできます。西は氐羌を輯め、北は沙塞を撫し、軍を長安に還して魏室を匡輔する。これぞ桓公・文公の功です」。
  • 岳は大いに喜び、あらためて泰を洛陽に遣わして事を請わせ、ひそかにその状を陳べさせた。魏主は喜んで泰に武衛将軍を加え、還って報せさせた。
  • 八月、帝は岳を都督雍華等二十州諸軍事・雍州刺史とし、また心臓の前の血を割いて使者に持たせて賜った。岳はそこで兵を率いて西の平涼に屯し、馬の放牧を名目とした。斛抜彌俄突・紇豆陵伊利および費乜頭・万俟受洛干・鉄勒・斛律沙門らがみな岳に付き、ただ曹泥だけが歓に付いた。秦・南秦・河・渭の四州の刺史が平涼に会同して岳の節度を受けた。
  • 岳は夏州が辺境に接して要地なので、良い刺史を求めて鎮させたいと思った。衆は宇文泰を挙げた。岳は「宇文左丞はわが左右の手だ。どうして手放せようか」と言い、数日沈吟したが、ついに上表して用いた。
  • 冬十二月、魏の丞相歓は賀抜岳と侯莫陳悦の強さを患えた。右丞翟嵩が「嵩なら離間して自ら屠り滅ぼさせられます」と言い、歓は遣わした。歓はまた長史侯景に紇豆陵伊利を招撫させたが、伊利は従わなかった。

六年(534年)

  • 春正月壬辰、魏の丞相歓が河西で伊利を撃って捕らえ、その部落を河東に移した。魏主は責めて「伊利は侵しも叛きもせず、国の純臣であった。王はにわかにこれを伐った。どうして一人の使者を先に遣わして請わなかったのか」と言った。
  • 魏の賀抜岳が曹泥を討とうとし、都督である武川の趙貴を夏州に遣わして宇文泰と謀らせた。泰は「曹泥は孤城で遠く隔たっており、憂うるに足りません。侯莫陳悦は貪欲で信がない。まず図るべきです」と言った。岳は聴かず、悦を召して高平で会し、共に泥を討とうとした。
  • 悦はすでに翟嵩の言を得ており、そこで岳を取る謀を巡らせた。岳はたびたび悦と宴して語った。長史である武川の雷紹が諫めたが聴かなかった。岳が悦を先行させ、河曲に至った。悦は岳を誘って営に入れ、坐して軍事を論じ、悦は偽って腹痛と称して立ち、その婿の元洪景が刀を抜いて岳を斬った。
  • 岳の左右はみな散り走った。悦は人を遣わして「私は別に旨を受けて一人だけを取った。諸君は怖れるな」と諭させた。衆はそう思ってみな動かなかったが、悦の心は猶予して、すぐには撫し受け入れなかった。そこで隴に還って水洛城に屯した。岳の衆は散じて平涼に還った。趙貴が悦のもとへ赴いて岳の屍を葬ることを請い、悦は許した。
  • 岳が死ぬと、悦の軍中はみな祝い合った。行台郎中薛憕はひそかに親しい者に「悦は才略がもとより乏しいのに、たやすく良将を害した。われらは今、人の虜となろう。何の祝いがあろうか」と言った。憕は薛真度の従孫である。
  • 岳の衆は属するところがなかった。諸将は都督である武川の寇洛が最年長なので推して諸軍を総べさせたが、洛はもとより威略がなく衆を斉えられず、自ら位を避けることを請うた。
  • 趙貴が「宇文夏州は英略が世に冠たり、遠近が心を帰し、賞罰は厳明で、士卒は命を用いる。迎えて奉じれば大事は済せる」と言った。諸将はある者は南に賀抜勝を召そうとし、ある者は東に魏朝に告げようとして、猶予して決まらなかった。都督である盛楽の杜朔周が「遠い水は近い火を救えぬ。今日の事は宇文夏州でなければ済せる者はない。趙将軍の議が正しい。朔周が軽騎で哀を告げ、あわせて迎えに参りたい」と言い、衆はそこで朔周を馳せさせ、夏州に至って泰を召した。
  • 泰は将佐と賓客と去留を議した。前太中大夫である潁川の韓褒が「これは天授です。何を疑われるのですか。侯莫陳悦は井の中の蛙にすぎません。使君が往かれれば必ず擒えられます」と言った。衆は「悦は水洛にあり、平涼から遠くない。もしすでに賀抜公の衆を有していれば、図るのは実に難しい。しばらく留まって変を観られたい」と言った。泰は「悦はすでに元帥を害した以上、勢いに乗じてまっすぐ平涼に拠るべきなのに、退いて水洛に屯している。それで彼が何もできぬと分かる。そもそも得がたく失いやすいのは時だ。早く赴かねば衆心は離れる」と言った。
  • 夏州の筆頭の名望家である都督彌姐元進が、ひそかに悦に応じようと謀った。泰はこれを知り、帳下都督である高平の蔡祐と捕らえる謀を立てた。祐は「元進はいずれ噛みついてきます。殺すにしくはありません」と言った。泰は「お前には大きな決断がある」と言い、そこで元進らを召し入れて事を計ることとした。
  • 泰は「隴の賊が逆乱した。諸人と力を戮せて討つべきだ。諸人には同じくせぬ者があるようだが、なぜか」と言った。祐はすぐに甲を着け刀を持って直入し、目を怒らせて諸将に「朝に謀って夕に異にする。それで人と言えるか。今日、必ず姦人の首を断つ」と言った。座はみな叩頭して「どうか選ばれよ」と言った。祐はそこで元進を叱って斬り、あわせてその党を誅した。そのついでに諸将と同盟して悦を討つこととした。泰は祐に「私は今からお前を子とする。お前は私を父とするか」と言った。
  • 泰は帳下の軽騎とともに平涼に馳せ赴き、杜朔周に衆を率いて先に弾筝峡に拠らせた。当時、民間は恐れて逃げ散る者が多く、軍士は争って掠めようとした。朔周は「宇文公はまさに罪を伐ち民を弔われるところ。どうして賊を助けて虐を行えようか」と言い、撫して遣わした。遠近は喜んで付き、泰は聞いて賞した。朔周はもと赫連姓で、曽祖の庫多汗が難を避けて改めていた。泰は旧姓に復させ、名を達とした。
  • 丞相歓は侯景に岳の衆を招撫させた。泰が安定に至って遇い、「賀抜公は死んだが宇文泰はなお存する。卿は何をしに来た」と言った。景は色を失って「私は矢のようなもの。ただ人が射るままです」と言い、そのまま還った。
  • 泰は平涼に至って岳を哭すること甚だ慟き、将士はみな悲しみ喜んだ。歓はまた侯景と散騎常侍である代郡の張華原、義寧太守である太安の王基を遣わして泰を労わせた。泰は受けず、脅して留めようとして「留まれば共に富貴を享けよう。さもなくば命は今日限りだ」と言った。華原は「明公が使者を死で脅されようとも、それは華原の恐れるところではありません」と言い、泰はそこで遣わした。
  • 基は還って「泰は雄傑です。まだ定まらぬうちに撃ち滅ぼされますよう」と言った。歓は「卿は賀抜と侯莫陳を見なかったか。私は計で拱手して取る」と言った。
  • 魏主は岳の死を聞いて武衛将軍元毗を遣わして岳の軍を慰労させ、洛陽に召し還し、あわせて侯莫陳悦を召した。毗が平涼に至ったとき、軍中はすでに宇文泰を主に奉じていた。悦は丞相歓に付いており、召しに応じなかった。
  • 泰は元毗を通じて上表して臣と称した。「岳が突然、非命に遭い、都督寇洛らが臣に軍事を権りに掌らせております。詔を奉じて岳の軍を京に入れよとのことですが、今、高歓の衆はすでに河東に至り、侯莫陳悦はなお水洛にあります。士卒の多くは西の人で、郷邑を顧み恋うております。もし逼って闕へ赴かせれば、悦がその後を踏み、歓がその前を遮り、国を敗り民を殄す損はさらに甚だしくなるのを恐れます。しばらく猶予を賜り、徐々に誘い導いて次第に東へ引きたく存じます」。魏主はそこで泰を大都督とし、そのまま岳の兵を統べさせた。
  • はじめ岳は東雍州刺史李虎を左廂大都督としていた。岳が死ぬと虎は荊州へ奔り、賀抜勝に岳の衆を収めるよう説いたが、勝は従わなかった。虎は宇文泰が岳に代わって衆を統べたと聞き、荊州から還って赴いたが、閺郷で丞相歓の別将に捕らえられ、洛陽に送られた。魏主はちょうど関中を取る謀を巡らせており、虎を得て甚だ喜び、衛将軍に拝して厚く賜り、泰のもとへ行かせた。虎は李歆の玄孫である。
  • 泰は悦に書を送って責めた。「賀抜公は朝廷に大功があった。君は名も微かで行いも薄かったが、賀抜公が君を隴右行台に薦めた。また高氏が権を専らにしたとき、君は賀抜公とともに密旨を受け、たびたび盟約を結んだ。それを君は国賊に党し附き、共に宗廟を危うくした。口の血もまだ乾かぬうちに匕首が発せられた。今、私と君はともに詔を受けて闕へ還ることになっている。今日の進退はただ君を見て決める。君が隴を下って東へ行くなら、私も北道から同じく帰る。もし首鼠両端なら、私は日を指して相見えよう」。
  • 魏主が泰に秦・隴を安んずる策を問うた。泰は「悦を召して内官を授けるか、瓜州・涼州の一藩に処されるべきです。さもなくばついに後患となります」と上表した。
  • 原州刺史史帰は日ごろ賀抜岳に親任されていたが、河曲の変では反って悦のために守った。悦はその党の王伯和と成次安に二千の兵を与えて帰の原州鎮守を助けさせた。泰は都督侯莫陳崇に軽騎千を率いて襲わせた。崇は夜に十騎を率いてまっすぐ城下に至り、残る衆はみな近くの路に伏せさせた。帰は騎の少ないのを見て備えなかった。崇はすぐ入って城門を占めた。高平令である隴西の李賢とその弟の李遠・李穆が城中で崇の内応となった。こうして中も外も鬨を上げ、伏兵がことごとく起こり、そのまま帰および次安・伯和らを擒えて平涼に帰った。泰は上表して崇に原州の事を行わせた。
  • 三月、泰が兵を率いて悦を撃ち、原州に至って衆軍がみな集まった。
  • 夏四月、魏の南秦州刺史である隴西の李弼が侯莫陳悦に説いた。「賀抜公に罪はないのに公は害され、しかもその衆を撫し受け入れられなかった。今、宇文夏州を奉じて来て、主のために讐を報ずると声を張っております。その勢いは敵しえません。兵を解いて謝られるべきです。さもなくば必ず禍が及びます」。悦は従わなかった。
  • 宇文泰が兵を率いて隴に上り、兄の子の宇文導を都督として原州に鎮させた。泰の軍令は厳粛で秋毫も犯さず、百姓は大いに喜んだ。軍が木狹関を出るとき雪の深さが二尺あったが、泰は道を倍して兼行し、不意を衝いた。悦はこれを聞いて略陽に退いて保ち、一万人を残して水洛を守らせた。泰が水洛に至るとすぐ降った。泰は軽騎数百を略陽へ向かわせ、悦は上邽に退いて保ち、李弼を召して共に泰を防ごうとした。
  • 弼は悦が必ず敗れると知り、ひそかに使者を泰に遣わして内応を請うた。悦が州城を棄てて南の山の険に籠ると、弼は配下に「侯莫陳公は秦州に還ろうとしている。お前たちはなぜ支度せぬのか」と言った。弼の妻は悦の妻の姉妹だったので、衆はみな信じて争って上邽へ向かった。弼は先に城門を占めて安集し、そのまま城を挙げて泰に降った。泰はすぐ弼を秦州刺史とした。
  • その夜、悦が軍を出して戦おうとしたが、軍が自ら驚いて潰えた。悦は猜疑深い性で、敗れてからは左右が近づくのも許さず、二人の弟と子および岳を殺した謀の七、八人と軍を棄てて逃げ散った。数日のうちに行きつ戻りつして、向かうところが分からなかった。左右が霊州へ向かって曹泥に頼るよう勧め、悦は従った。自ら驢馬に乗り、左右をみな歩いて従わせ、山中から霊州へ向かおうとした。
  • 宇文泰は原州都督賀抜穎に追わせた。悦は追騎を望み見て、野で首を吊って死んだ。
  • 泰が上邽に入り、薛憕を引いて記室参軍とした。悦の府庫の財物を収めると山と積まれていたが、泰は秋毫も取らず、みな士卒に賞した。左右がひそかに銀の甕一つを盗んで帰った。泰は知って罪し、その場で割いて将士に賜った。
  • 悦の党の幽州刺史孫定児が州に拠って降らず、数万の衆があった。泰は都督である中山の劉亮を遣わして襲わせた。定児は大軍が遠いと思って備えなかった。亮は先に近くの城の高い嶺に纛を一つ立て、自ら二千騎を率いて城に馳せ入った。定児はちょうど酒を置いていた。衆は突然、亮の到着を見て駭き愕き、どうしてよいか分からなかった。亮は兵に指図して定児を斬り、遥かに城外の纛を指して二騎に「出て大軍を召せ」と命じた。城中はみな懾れ服し、あえて動く者はなかった。
  • これに先立ち、もとの氐王楊紹先が魏の乱に乗じて武興に逃げ帰り、また王を称した。涼州刺史李叔仁がその民に捕らえられ、氐・羌・吐谷渾が至るところで蜂起し、南岐から瓜・鄯まで、州に跨り郡に拠る者は数えきれなかった。
  • 宇文泰は李弼を原州に、夏州刺史抜也悪蚝を南秦州に、渭州刺史可朱渾元を渭州に鎮させ、衛将軍趙貴に秦州の事を行わせ、豳・涇・東秦・岐の四州の粟を徴して軍に給した。楊紹先は恐れて藩を称し、妻子を人質に送った。
  • 夏州長史于謹が泰に言った。「明公は関中の険固の地に拠り、将士は驍勇、土地は膏腴です。今、天子は洛にあって群凶に迫られております。もし明公の懇ろな誠を陳べ、時事の利害を計り、関右に都することを請い、天子を挟んで諸侯に令し、王命を奉じて暴乱を討たれれば、これぞ桓公・文公の業。千載一時です」。泰は善しとした。
  • 丞相歓は泰が秦・隴を定めたと聞き、使者を遣わして甘い言葉と厚い礼で結ぼうとした。泰は受けず、その書を封じ、都督である済北の張軌に魏主へ献じさせた。斛斯椿が軌に「高歓の逆謀は道行く人もみな知っている。人情の恃むところはただ西方にあるが、宇文が賀抜と比べてどうか分からぬ」と問うた。軌は「宇文公は文は国を経るに足り、武は乱を定められます」と答えた。椿は「まことに君の言のとおりなら、真に恃むべきだ」と言った。
  • 魏主は泰に騎二千を発して東雍州に鎮させ、勢援を助けさせ、そのまま泰に次第に軍を東へ引くよう命じた。泰は大都督である武川の梁禦を雍州刺史として歩騎五千で先行させた。
  • これに先立ち、丞相歓はその都督である太安の韓軌に一万の兵で蒲反に拠らせて侯莫陳悦を救おうとし、雍州刺史賈顕度が舟で迎えた。梁禦が顕度に会って泰に従うよう説くと、顕度はすぐ出て禦を迎え、禦は入って長安に拠った。
  • 魏主は泰を侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・関西大都督・略陽県公とし、承制して封拝させた。泰はそこで寇洛を涇州刺史、李弼を秦州刺史、前略陽太守張献を南岐州刺史とした。南岐州刺史盧待伯が交代を受けず、泰は軽騎を遣わして襲って擒えた。
  • 侍中封隆之が丞相歓に「斛斯椿らが今、京師にあります。必ず禍乱を構えましょう」と言った。隆之は僕射孫騰と魏主の妹の平原公主を娶ることを争い、公主は隆之に嫁いだ。騰はその言を椿に漏らし、椿が帝に白した。隆之は恐れて郷里に逃げ帰り、歓が召して晉陽に赴かせた。折しも騰が武器を帯びて省に入り、勝手に御史を殺し、罪を恐れてやはり逃げて歓のもとへ行った。領軍婁昭も病と称して晉陽に帰った。
  • 帝は斛斯椿に領軍を兼ねさせ、都督および河南・関西の諸刺史を改め置いた。華山王元鷙が徐州にいた。歓は大都督邸珍にその鍵を奪わせた。建州刺史韓賢と済州刺史蔡儁はみな歓の党だった。帝は建州を省いて賢を除き、御史に儁の罪を挙げさせ、汝陽王元叔昭を代わりとした。歓は「儁は勲功が重く、解き奪うべきではありません。汝陽は懿徳があり、大藩を受けるべきです。臣の弟の永宝が猥りに定州を任じられておりますが、賢路を避けるべきです」と上言した。帝は聴かなかった。
  • 五月丙子、魏主が勲府庶子を増置して廂ごとに六百人とし、また騎官を廂ごとに二百人増やした。
  • 魏主は晉陽を伐とうとし、辛卯、詔を下して戒厳し、自ら梁を伐つと称した。河南の諸州の兵を発して洛陽の南で大閲した。南は洛水に臨み北は邙山に際した。帝は戎服で斛斯椿とこれを臨み観た。
  • 六月丁巳、魏主がひそかに丞相歓に詔した。「宇文黒獺と賀抜勝にかなり異志がある。ゆえに偽って南伐と称し、ひそかに備えている。王もまた共に形援となるべきだ。読み終えたら焼け」。
  • 歓は上表した。「荊・雍にまさに逆謀があります。臣は今ひそかに兵馬三万を勒して河東から渡ります。また恒州刺史庫狄干らに四万の兵で来違津から渡らせ、領軍将軍婁昭らに五万の兵で荊州を討たせ、冀州刺史尉景らに山東の兵七万と突騎五万で江左を討たせます。みな配下を勒して処分をお聴きします」。
  • 帝は歓がその変を察したと知り、そこで歓の表を出して群臣に議させ、歓の軍を止めようとした。歓もまた并州の僚佐を集めて共に議し、あらためて表を奉じ、そのうえで「臣は寵臣と佞人に隔てられ、陛下は一朝にして疑いを賜りました。臣がもしあえて陛下に負けば、身は天の殃を受け子孫は絶えましょう。陛下がもし赤心を垂れ信じ、干戈を動かさぬようになさるなら、佞臣一、二人を斟量して廃し出されますよう」と言った。
  • 丁卯、帝は大都督源子恭に陽湖を、汝陽王元暹に石済を守らせ、また儀同三司賈顕智を済州刺史として豫州刺史斛斯元寿を率いて東の済州へ向かわせた。元寿は椿の弟である。蔡儁は交代を受けず、帝はいよいよ怒った。
  • 辛未、帝はあらためて洛中の文武の議の趣旨を録して歓に答え、あわせて舎人温子昇に敕を作らせて歓に賜った。 「朕は尺の刃も労さず、坐して天子となった。いわゆる『我を生むは父母、我を貴くするは高王』である。今もし事もないのに王に背き、攻め討つようなら、身も子孫も王の誓いのとおりになろう。近ごろ宇文が乱をなし賀抜が応ずるのを慮り、ゆえに戒厳して王と共に声援たらんとした。今その為すところを観るに、格別の跡はない。 東南が服さぬのは日が久しい。今、天下の戸口は半減した。兵を窮め武を極めるべきではない。朕はもとより暗昧で、佞人が誰か分からぬ。近ごろの高乾の死は、どうして朕だけの意であろうか。王は突然、高昂に向かって『兄は枉げて死んだ』と言った。人の耳目をどうして軽んじられよう。 聞けば庫狄干は王に『もともと懦弱な者を主とするつもりだった。事もないのにこんな年長の君を立て、御しがたくなった。今、十五日行軍すれば自ずと廃して他を立てられる』と語ったという。こうした議論はもともと王が勲功ある人を隔てているからで、どうして佞人の口から出ようか。 去年は封隆之が叛き、今年は孫騰が逃げ去った。罪もせず送りもせぬのを、誰が王を怪しまぬだろう。王がもし君に仕えて誠を尽くすなら、なぜ二人の首を斬って送らぬのか。 王は西へ行くと啓されたが、四道から共に進み、あるいは南へ洛陽を渡ろうとし、あるいは東へ江左に臨もうとしている。言う者すら自ら怪しむはず。聞く者がどうして疑わずにおれよう。王がもし安然として北に居られるなら、こちらに百万の衆があっても、ついに彼を図る心はない。王がもし旗を挙げて南を指されるなら、たとえ一頭の馬も一つの車輪もなくとも、なお空拳を奮って死を争おう。 朕はもとより寡徳だが、王がすでに立てられた。百姓は無知で、あるいは本当に可と言うかもしれぬ。もし他人に図られれば朕の悪が顕れる。かりに王に殺され、幽閉され辱められ、粉に砕かれても、まったく遺恨はない。もともと君臣が一体となり、符を合わせるようでありたいと望んだ。今日、これほど疎く隔たろうとは思わなかった」。
  • 中軍将軍王思政が魏主に言った。「高歓の心は明らかに知れます。洛陽は武を用いる地ではありません。宇文泰は心を王室に寄せております。今、往ってそれに就き、旧京に還り復すれば、克てぬ心配がありましょうか」。帝は深く然りとし、散騎侍郎である河東の柳慶を遣わして高平で泰に会わせ、共に時事を論じさせた。泰は輿駕をお迎えしたいと請うた。
  • 慶が復命すると、帝はまたひそかに慶に「朕は荊州へ向かいたいが、どうか」と言った。慶は「関中は形勝の地で、宇文泰の才略は依るに足ります。荊州は要害の地でなく、南は梁の敵に迫られております。臣の愚見では可とは見えません」と答えた。帝はまた閤内都督宇文顕和に問い、顕和もまた西へ幸するよう勧めた。
  • 当時、帝は広く州郡の兵を徴していた。東郡太守である河東の裴俠が配下を率いて洛陽に赴いた。王思政が「今、権臣が命を擅にし、王室は日ごとに卑しくなっている。どうすべきか」と問うた。俠は「宇文泰は三軍に推され、百二の地(関中)に居ります。いわゆる『すでに戈矛を操る者が、どうして人に柄を授けましょう』。身を投じたくとも、湯を避けて火に入るのと変わらぬのを恐れます」と答えた。思政が「ではどうすればよいか」と問うと、俠は「歓を図れば立ちどころに至る憂いがあり、西へ巡れば将来の慮りがある。ひとまず関右に至って徐々にその宜しきを思うべきです」と言った。思政は然りとし、そこで俠を帝に進め、左中郎将を授けた。
  • はじめ丞相歓は洛陽が長く喪乱を経ているとして鄴に遷都しようとした。帝は「高祖が河・洛に鼎を定められたのは万世の基です。王はすでに功が社稷に存する。太和の旧事に遵うべきです」と言い、歓はそこで取りやめた。ここに至ってまた遷都を謀り、三千騎を遣わして建興に鎮させ、河東と済州の兵を増し、諸州の和糴の粟を擁してことごとく鄴城に運び入れた。
  • 帝はまた歓に敕した。 「王がもし人情を厭伏させ、物議を杜絶したいなら、ただ河東の兵を帰し、建興の戍を罷め、相州の粟を送り、済州の軍を追い戻し、蔡儁に交代を受けさせ、邸珍を徐州から出し、戈を止め馬を散じ、それぞれ家業に事えさせるほかない。かりに糧廩が要るなら別に転輸させればよい。そうすれば讒言する人は舌を結び、疑いと悔いは生じぬ。王は太原に枕を高くし、朕は京・洛で拱手していられる。 王がもし馬首を南に向け鼎の軽重を問われるなら、朕は武ではないが社稷宗廟の計のために止めようとしても止められぬ。決するは王にあり、朕の定められることではない。山を為して簣を止めるのは、王のために惜しむ」。
  • 歓は上表して宇文泰と斛斯椿の罪悪を極言した。
  • 帝は広寧太守である広寧の任祥に尚書左僕射を兼ねさせて開府儀同三司を加えたが、祥は官を棄てて走り、黄河を渡って郡に拠り歓を待った。
  • 帝はそこで文武の官で北から来た者に去留を任せる旨を敕し、そのうえで制書を下して歓の咎悪を数え、賀抜勝を行在所へ召した。
  • 勝は太保掾である范陽の盧柔に問うた。柔は「高歓は悖逆です。公が席巻して都に赴き、勝負を決し死生をこれに賭けるのが上策。北は魯陽に阻まれ、南は旧楚を併せ、東は兖・豫に連なり、西は関中を引き、甲兵百万で隙を観て動くのが中策。三荊の地を挙げて身を梁に庇うのは、功も名も去ります。下策です」と言った。勝は笑って応じなかった。
  • 帝は宇文泰に尚書僕射を兼ねさせて関西大行台とし、馮翊長公主を嫁がせることを許し、泰の帳内都督である秦郡の楊荐に「卿は帰って行台に伝えよ。騎を遣わして私を迎えよと」と言い、荐を直閤将軍とした。泰は前秦州刺史駱超を大都督として軽騎千を率いて洛へ赴かせ、また楊荐と長史宇文測を関を出して迎え接するために遣わした。
  • 丞相歓は弟の定州刺史高琛を召して晉陽を守らせ、長史崔暹に補佐させた。暹は崔挺の族孫である。歓は兵を勒して南へ出、その衆に告げた。「孤は爾朱の擅命により海内に大義を建て、主上を奉戴して誠は幽明を貫いた。それを斛斯椿に横ざまに讒構され、忠を逆とされた。今度の南行は椿を誅するだけだ」。高敖曹を前鋒とした。
  • 宇文泰もまた州郡に檄を移して歓の罪悪を数え、自ら大軍を率いて高平を発し、前軍を弘農に屯させた。賀抜勝は汝水に陣した。
  • 秋七月己丑、魏主が自ら兵十余万を勒して河橋に屯し、斛斯椿を前駆として邙山の北に陣した。椿は精騎二千を率いて夜に黄河を渡り、その疲労を掩い襲うことを請うた。帝は初めそれを然りとしたが、黄門侍郎楊寛が説いた。「高歓が臣として君を伐つ以上、何をせぬということがありましょう。今、兵を人に借りれば、他の変を生ずるのを恐れます。椿がもし渡って万一功を立てれば、これは一人の高歓を滅ぼして一人の高歓を生むことになります」。帝はそこで椿に停止を敕した。椿は嘆じて「近ごろ熒惑が南斗に入った。今、上は左右の讒言を信じてわが計を用いられぬ。天道か」と言った。
  • 宇文泰はこれを聞いて左右に言った。「高歓は数日で八、九百里を行った。これは兵家の忌むところで、便に乗じて撃つべきだ。ところが主上は万乗の重い身で黄河を渡って決戦できず、渡し場に沿って守っておられる。それに長い河は万里、防ぎ守るのは難しい。一か所でも渡られれば大事は去る」。そこで大都督趙貴を別道行台として蒲坂から渡らせ并州へ向かわせ、大都督李賢に精騎千を率いて洛陽へ赴かせた。
  • 帝は斛斯椿と行台長孫稚、大都督潁川王元斌之に虎牢を鎮させ、行台長孫子彦に陝を、賈顕智と斛斯元寿に滑台を鎮させた。斌之は元鑑の弟の子、彦は稚の子である。
  • 歓は相州刺史竇泰を滑台へ、建州刺史韓賢を石済へ向かわせた。竇泰と顕智が長寿津で遇い、顕智はひそかに歓に降る約をして軍を退いた。軍司元玄が察知して馳せ還って援軍を請い、帝は大都督侯幾紹を赴かせた。滑台の東で戦い、顕智が軍を挙げて降り、紹は戦死した。
  • 北中郎将田怙が歓の内応となり、歓はひそかに軍を進めて野王に至った。帝はこれを知って怙を斬った。歓は河の北十余里に至り、二度使者を遣わして口頭で誠意を申し述べたが、帝は答えなかった。
  • 丙午、歓が軍を率いて渡河した。魏主が群臣に計を問うた。ある者は梁へ奔ろうと言い、ある者は南して賀抜勝に依ろうと言い、ある者は西して関中に就こうと言い、ある者は洛口を守って死戦しようと言い、計は決まらなかった。
  • 元斌之は斛斯椿と権を争い、椿を棄てて還り、帝を欺いて「高歓の兵がすでに至りました」と言った。丁未、帝は使いを遣わして椿を召し還し、そのまま南陽王宝炬・清河王元亶・広陽王元湛を率い、五千騎で瀍水の西の南陽王の別舎に宿った。沙門の恵臻が璽を負い千牛の刀を持って従った。衆は帝が西へ出るつもりと知り、その夜、逃げる者が過半に及んだ。亶と湛も逃げ帰った。湛は元深の子である。
  • 武衛将軍である雲中の独孤信が単騎で帝を追った。帝は嘆じて「将軍は父母を辞し妻子を捨てて来た。乱世に忠臣を識るとは、虚言ではないな」と言った。
  • 戊申、帝が西して長安に奔った。李賢が崤中で帝に遇った。己酉、歓が洛陽に入り、永寧寺に宿し、領軍婁昭らを遣わして帝を追わせ、東へ還るよう請わせた。長孫子彦は陝を守れず城を棄てて走った。高敖曹が勁騎を率いて帝を追い、陝の西まで至ったが及ばなかった。
  • 帝は馬に鞭打って長く駆け、糗と漿が尽き、二、三日の間、従官はただ澗の水を飲むだけだった。湖城に至ると、王思村の民が麦飯と壺の飲み物を献じた。帝は喜んで、この村をさらに十年課役免除とした。稠桑に至ると、潼関大都督毛鴻賓が迎えて酒食を献じ、従官はようやく飢えと渇きを解いた。
  • 八月甲寅、丞相歓が百官を集めて言った。「臣として主に奉じ、危乱を匡し救うもの。もし在っては諫争せず、出ては陪従せず、緩やかなときは寵を貪り栄を争い、急なときは委ねて逃げ隠れる。臣節はどこにあるのか」。衆は答えられなかった。兼尚書左僕射辛雄が「主上は側近と事を図られ、雄らは預かり聞けませんでした。乗輿が西へ幸されたとき、すぐ追随すれば跡が佞党と同じになるのを恐れ、留まって大王を待てば従わなかったと責めを受ける。雄らは進退どちらも罪を逃れられません」と言った。
  • 歓は「卿らは大臣の位に備わり、身をもって国に報いるべきだ。群佞が事を用いたとき、卿らはかつて一言でも諫め争ったか。国家の事を一朝にしてここまで至らせておいて、罪をどこに帰そうというのか」と言い、そこで雄および開府儀同三司叱列延慶、兼吏部尚書崔孝芬、都官尚書劉廞、兼度支尚書である天水の楊機、散騎常侍元士弼を捕らえてみな殺した。孝芬の子の司徒従事中郎崔猷は間道を行って関に入り、魏主は元の官のまま門下の事を奏させた。
  • 歓は司徒清河王亶を推して大司馬とし、承制して事を決させ、尚書省に居させた。
  • 宇文泰が趙貴と梁禦に甲騎二千を率いて帝を奉迎させた。帝は黄河に沿って西へ行き、禦に「この水は東へ流れるのに朕は西へ上る。もし洛陽をまた見て親しく陵廟に謁せるなら、卿らの功だ」と言った。帝も左右もみな涙を流した。
  • 泰は儀衛を備えて帝を迎え、東陽駅で謁見し、冠を脱いで涙を流して「臣が敵の虐を式め遏められず、乗輿を播遷させました。臣の罪です」と言った。帝は「公の忠節は遐邇に著れている。朕は不徳で分に過ぎた乗り物に乗って敵を招いた。今日相見えて、深く恥じ入る。まさに社稷を公に委ねる。公よ、勉めよ」と言った。将士はみな万歳を呼んだ。
  • そのまま長安に入り、雍州の廨舎を宮とし、大赦した。泰を大将軍・雍州刺史・兼尚書令とし、軍と国の政はみなそこで決した。別に二人の尚書を置いて機事を分け掌らせ、行台尚書毛遐と周恵達をこれに任じた。当時、軍と国は草創で、二人は糧の蓄えを積み器械を治め、士馬を選んだ。魏朝はこれを頼りとした。泰は馮翊長公主を娶り、駙馬都尉を拝した。
  • これに先立ち、熒惑が南斗に入り、去ってまた還り、留まること六旬。上(梁の武帝)は諺に「熒惑が南斗に入れば天子は殿を下りて走る」というので、裸足で殿を下りて禳った。魏主の西奔を聞いて恥じ、「虜もまた天象に応ずるのか」と言った。
  • 辛酉、魏の丞相歓が自ら魏主を追い迎えに出た。戊辰、清河王亶が制を下して大赦した。歓が弘農に至った。
  • 九月乙巳、行台僕射元子思に侍官を率いて帝を迎えさせた。己酉、潼関を攻めて落とし、毛鴻賓を擒え、進んで華陰の長城に屯した。竜門都督薛崇礼が城を挙げて歓に降った。
  • 賀抜勝は長史元穎に荊州の事を行わせて南陽を守らせ、自ら配下を率いて西の関中へ赴いた。淅陽に至って歓がすでに華陰に屯していると聞き、還ろうとした。行台左丞崔謙が「今、帝室は顚覆し、主上は塵を蒙っておられます。公は道を倍して兼行し、行在に朝され、そのうえで宇文行台と心を同じくし力を戮せて大義を唱えられよ。天下の誰が風を望んで響き応じませぬか。今これを捨てて退けば、人々が解体するのを恐れます。ひとたび事機を失えば、後悔しても及びません」と言った。勝は用いず、そのまま還った。
  • 歓は退いて河東に屯し、行台尚書長史薛瑜に潼関を、大都督庫狄温に封陵を守らせ、蒲津の西岸に城を築き、薛紹宗を華州刺史として守らせ、高敖曹に豫州の事を行わせた。
  • 歓は晉陽を発ってからここまで、総計四十回啓したが、魏主はみな答えなかった。歓はそこで東へ還り、行台侯景らを遣わして荊州へ兵を向かわせた。荊州の民の鄧誕らが元穎を捕らえて景に応じた。賀抜勝が至ると景は迎え撃ち、勝は敗れて数百騎を率いて梁に亡命した。
  • 魏主が洛陽にいた頃、ひそかに閤内都督である河南の趙剛を遣わして東荊州刺史馮景昭に兵を率いて援けに入るよう召させた。兵がまだ発せぬうちに魏主が西へ関に入った。景昭は府中の文武を集めて従うべき方を議した。司馬馮道和が州に拠って北方の処分を待つよう請うた。剛は「公は兵を勒して行在所へ赴かれるべきです」と言った。久しくして誰も物を言わなかった。剛は刀を抜いて地に投げ「公がもし忠臣たらんとされるなら、道和を斬られよ。賊に従いたいなら、速やかに私を殺されよ」と言った。景昭は感じ悟り、すぐ衆を率いて関中に赴いた。
  • 侯景が兵を率いて穰城に迫った。東荊州の民の楊祖歓らが兵を挙げて応じ、その衆で景昭を路で遮った。景昭は戦って敗れ、剛は蛮の中に没した。
  • 冬十月、丞相歓が洛陽に至り、また僧の道栄に表を奉じて孝武帝に告げさせた。「陛下がもし遠く一制を賜って京・洛に還ることをお許しくださるなら、臣は文武を率い勒して宮禁を清めます。もし正位に返られる日がないのなら、七廟に主なくあるべきでなく、万国に帰するところがなければなりません。臣は陛下に負くとも社稷には負けません」。帝はやはり答えなかった。
  • 歓はそこで百官と耆老を集めて立てるべき者を議した。当時、清河王亶は出入りにすでに警蹕を称していた。歓はこれを醜いとし、孝昌以来、昭穆の序が失われ、永安には孝文を伯考とし、永熙には孝明を夾室に遷したので、業が喪われ祚が短いのはこれによると託けて、ついに清河の世子の元善見を帝に立てた。亶に「王を立てるより王の子を立てるほうがよい」と言った。亶は身の置き所がなく軽騎で南へ走ったが、歓が追い還した。
  • 丙寅、孝静帝が城の東北で即位した。時に十一歳。大赦して天平と改元した。
  • 魏の宇文泰が軍を進めて潼関を攻め、薛瑜を斬り、その卒七千人を虜として長安に還り、大丞相に位を進めた。東魏の行台薛脩義らが黄河を渡って楊氏壁に拠った。魏の司空参軍である河東の薛端が村民を糾し率いて東魏の兵を撃退し、楊氏壁を取り戻した。丞相泰は南汾州刺史蘇景恕を遣わして鎮させた。
  • 丁卯、信武将軍元慶和を鎮北将軍として衆を率いて東魏を伐たせた。
  • 高盛を司徒、高敖曹を司空とした。盛は高坦の弟である。
  • 丞相歓は洛陽が西は西魏に逼り、南は梁の境に近いとして、鄴への遷都を議した。書が下って三日で実行された。丙子、東魏主が洛陽を発ち、四十万戸が狼狽して道に就いた。百官の馬を収め、尚書の丞・郎以上で陪従せぬ者はみな驢馬に乗らせた。歓は留まって後の処置をし、事が畢わって晉陽に還った。司州を洛州と改め、尚書令元弼を洛州刺史として洛陽に鎮させ、行台尚書司馬子如を尚書左僕射とし、右僕射高隆之・侍中高岳・孫騰とともに鄴に留めて共に朝政を知らせた。詔で遷った民の資産がまだ立たぬとして、粟百三十万石を出して賑わした。
  • 十一月、兖州刺史樊子鵠が瑕丘に拠って東魏を防ぎ、南青州刺史大野抜が衆を率いてこれに就いた。
  • 庚寅、東魏主が鄴に至り、北城の相州の廨に居した。相州刺史を司州牧、魏郡太守を魏尹と改めた。
  • このとき六坊の衆で孝武帝に従って西行した者は一万に及ばず、その他はみな北へ移され、みな常の廩を給され、春秋に帛を賜って衣服に充てさせた。そこで常の調の外に、豊作の地に応じて絹を折って粟を糴い、国用に供した。
  • 十二月、魏の丞相泰が儀同李虎・李弼・趙貴を遣わして霊州の曹泥を撃たせた。
  • 魏の孝武帝がまた丞相泰と隙を生じた。帝は酒を飲んで毒に遇い、崩じた。泰は太宰南陽王宝炬を奉じて立てた。
  • 東魏の高敖曹と侯景の兵が荊州に至り、魏の荊州刺史独孤信は兵が少なく敵しえず、都督楊忠とともに梁に亡命した。

大同元年(535年)

  • 春正月戊申朔、魏の文帝が城の西で即位し、大赦して大統と改元した。
  • 魏の渭州刺史可朱渾道元は先に侯莫陳悦に付いていた。悦が死ぬと丞相泰が攻めたが落とせず、盟を結んで罷めた。道元は代々懐朔に住み、東魏の丞相歓と親しく、また母と兄がみな鄴にいたので、常に歓と通じていた。泰が撃とうとすると、道元は配下三千戸を率いて西北へ烏蘭津を渡って霊州に至った。霊州刺史曹泥が雲州まで送り届けた。歓はこれを聞いて糧を送って迎え、車騎大将軍を拝させた。
  • 道元が晉陽に至って、歓は初めて孝武帝の喪を聞き、哀を挙げ服を着けることを啓し請うた。東魏主が群臣に議させた。太学博士潘崇和は「君が臣を礼で遇さねば服喪の返礼はありません。ゆえに湯の民は哭さず、周の武の臣は紂に服しませんでした」とした。国子博士衛既隆と李同軌は「高后は永熙年間に離絶がまだ明らかでなかった。服すべきです」とし、東魏は従った。
  • 李虎らが霊州を攻めること四旬、曹泥が降を請うた。
  • 己酉、魏が丞相略陽公泰を都督中外諸軍・録尚書事・大行台に進め、安定王に封じた。泰は王の爵と録尚書を固辞し、そこで安定公に封じた。尚書令斛斯椿を太保、広平王元賛を司徒とした。
  • 己巳、東魏が丞相歓を相国とし、仮黄鉞と殊礼を与えたが、固辞した。
  • 東魏の大行台尚書司馬子如が大都督竇泰・太州刺史韓軌らを率いて潼関を攻めた。魏の丞相泰は霸上に陣した。子如は軌とともに軍を返し、蒲津から夜に渡って華州刺史王羆を攻め、合戦して破られ、子如らはそのまま引き揚げた。
  • 夏四月、元慶和が東魏の城父を攻めた。丞相歓は高敖曹に三万人を率いて項へ、竇泰に三万人で城父へ、侯景に三万人で彭城へ向かわせ、任祥を東南道行台僕射として諸軍を節度させた。
  • 秋七月、魏が詔を下して高歓の二十の罪を数え、あわせて「朕はまさに自ら六軍を総べ、丞相とともに凶醜を掃除する」と言った。歓もまた魏に檄を移し、宇文黒獺と斛斯椿を逆徒とし、あわせて「今、諸将に命じて兵百万を領させ、期を刻んで西討する」と言った。

二年(536年)

  • 春正月甲子、東魏の丞相歓が自ら一万騎を率いて魏の夏州を襲った。身は四日間火食せず到着し、矟を縛って梯子とし、夜に城に入って刺史斛抜俄彌突を擒え、そのまま用いた。都督張瓊に兵を率いて鎮守させ、その部落五千戸を遷して帰った。
  • 魏の霊州刺史曹泥がまた叛いて東魏に降った。
  • 秋七月、魏に降っていた賀抜勝らが北へ還った。
  • 冬十二月丁丑、東魏の丞相歓が諸軍を督して魏を伐ち、司徒高敖曹を上洛へ、大都督竇泰を潼関へ向かわせた。

三年(537年)

  • 春正月、東魏の丞相歓が蒲坂に陣し、三つの浮橋を造って黄河を渡ろうとした。魏の丞相泰は広陽に陣して諸将に言った。「賊はわが三面を掎え、浮橋を作って必ず渡ると見せている。これはわが軍を繋ぎ止め、竇泰を西へ入らせようというもの。歓は挙兵以来、竇泰を常に前鋒としてきた。その配下には鋭卒が多く、しばしば勝って驕っている。今これを襲えば必ず克てる。泰に克てば歓は戦わずして自ら走る」。諸将はみな「賊は近くにあります。それを捨てて遠くを襲い、万一躓けば悔いても及びません。兵を分けて防ぐにしくはありません」と言った。
  • 丞相泰は「歓は二度潼関を攻めたが、わが軍は灞上を出なかった。今、大挙して来て、われもまた自ら守るだろうと思い、われを軽んずる心がある。これに乗じて襲えば、克てぬ心配があろうか。賊は浮橋を作っても、すぐには渡れぬ。五日を過ぎずして私は竇泰を取ってみせる」と言った。行台左丞蘇綽と中兵参軍である代人の達奚武もそう思った。
  • 庚戌、丞相泰が長安に還った。諸将の意はなお分かれていた。丞相泰はその計を隠して、族子の直事郎中宇文深に問うた。深は言った。「竇泰は歓の驍将です。今、大軍が蒲坂を攻めれば、歓は拒み守り泰が救う。われは表裏に敵を受けます。危うい道です。軽鋭を選んでひそかに小関に出るにしくはありません。竇泰は躁急で必ず来て決戦します。歓は慎重ですぐには救いません。急ぎ泰を撃てば必ず擒えられます。泰を擒えれば歓の勢いは自ずと沮み、軍を回して撃てば勝ちを決せられます」。丞相泰は喜んで「これぞわが心だ」と言った。
  • そこで隴右を保つと言い触らし、辛亥、魏主に謁してひそかに軍を東へ出した。癸丑の朝、小関に至った。竇泰は突然、軍の到来を聞いて風陵から渡った。丞相泰は馬抜沢に出て竇泰を撃って大破し、士衆はみな尽き、竇泰は自殺した。首を長安に伝えた。
  • 丞相歓は河の氷が薄くて救援に赴けず、浮橋を撤して退いた。儀同である代人の薛孤延が殿軍を務め、一日のうちに十五本の刀を斫り折ってようやく免れた。丞相泰もまた軍を引いて還った。
  • 高敖曹は商山から転戦して進み、向かうところ敵なく、そのまま上洛を攻めた。郡人の泉岳とその弟の泉猛略が順陽の人の杜窋らと城を翻して応ずる謀を巡らせた。洛州刺史泉企はこれを知って岳と猛略を殺し、杜窋は敖曹のもとへ逃げ帰った。敖曹は窋を郷導として攻めた。敖曹は流れ矢に三度貫かれて長く気を失ったが、また馬に乗り兜を脱いで城を巡った。企は固守し、二人の子の泉元礼と泉仲遵が力戦して防いだが、仲遵は目を傷つけてもう戦えず、城はついに陥ちた。企は敖曹に会って「わが力が屈しただけで、心が服したのではない」と言った。敖曹は杜窋を洛州刺史とした。
  • 敖曹は傷が甚だしく、「季式が刺史になるのを見られぬのが恨みだ」と言った。丞相歓はこれを聞いてすぐ高季式を済州刺史とした。
  • 敖曹は藍田関に入ろうとしたが、歓が人を遣わして「竇泰の軍が全滅し、人心が動揺するのを恐れる。速やかに還れ。路は険しく賊は盛んだ。身を抜けば足りる」と告げさせた。敖曹は衆を棄てるに忍びず、力戦して全軍で還り、泉企と泉元礼を随行させた。泉仲遵は傷が重くて行けなかった。企はひそかに二子を戒めて「わが余生は幾ばくもない。お前たちの才器は功を立てるに足る。私が東にいるからといって臣節を欠くな」と言った。元礼は路上から逃げ帰り、魏は元礼に洛州刺史を世襲させた。
  • 夏五月、魏が賀抜勝を太師とした。
  • 秋七月、独孤信が北へ還り、楊忠とともに長安に至った。
  • 魏の宇文深が丞相泰に恒農を取るよう勧めた。八月丁丑、泰が李弼ら十二将を率いて東魏を伐ち、北雍州刺史于謹を前鋒として盤豆を攻め落とした。戊子、恒農に至り、庚寅、これを落として東魏の陝州刺史李徽伯を擒え、その戦士八千を俘とした。
  • 当時、河北の諸城の多くが東魏に付いていた。左丞楊㯹は自ら「父の楊猛がかつて邵郡の白水令となり、その豪傑を知っております。往って説き、邵郡を取りたく存じます」と言い、泰は許した。㯹はそこで土豪の王覆憐らと兵を挙げ、邵郡守の程保および県令四人を捕らえて斬り、覆憐を郡守に推挙し、諜者を遣わして東魏の城堡を説き諭させた。旬月の間に帰附する者が甚だ多かった。
  • 閏九月、東魏の丞相歓が二十万の兵を率いて壺口から蒲津へ向かい、高敖曹に三万の兵で河南へ出させた。当時、関中は飢饉で、魏の丞相泰の率いる将士は一万に満たず、恒農で穀を食むこと五十余日だった。歓が黄河を渡ろうとしていると聞き、そこで兵を引いて関に入った。高敖曹はそのまま恒農を囲んだ。
  • 歓の右長史薛琡が歓に言った。「西の賊は連年の飢饉ゆえ、死を冒して陝州に入り、倉の粟を取ろうとしたのです。今、敖曹がすでに陝城を囲み、粟は出せません。ただ諸道に兵を置いて野戦せずにおけば、麦秋の頃にはその民は自ずと餓死しましょう。宝炬と黒獺が降らぬ心配がありましょうか。どうか渡河なさいますな」。
  • 侯景は「今回の挙兵は形勢が極めて大きい。万一勝てねば、にわかには収拾しがたい。二軍に分けて相次いで進むにしくはありません。前軍が勝てば後軍は全力を出し、前軍が敗れれば後軍が受け継ぎます」と言った。歓は従わず、蒲津から渡河した。
  • 丞相泰が使者を遣わして華州刺史王羆を戒めさせた。羆は使者に「老いた羆が道に横たわっている。貉の子がどうして通れようか」と言った。歓が馮翊城の下に至って羆に「なぜ早く降らぬのか」と言うと、羆は大声で「この城は王羆の墓だ。生死はここにある。死にたい者は来い」と叫んだ。歓は攻められぬと知り、そこで洛水を渡って許原の西に陣した。
  • 泰が渭南に至った。諸州の兵はまだ集まっていなかったが、進んで歓を撃とうとした。諸将は衆寡が敵せぬとして、歓がさらに西へ来るのを待ってその勢いを観るよう請うた。泰は「歓が長安に至れば人情は大いに擾れる。今、遠来して着いたばかりのうちに撃つべきだ」と言い、すぐ渭に浮橋を造り、軍士に三日分の糧を持たせて軽騎で渭を渡らせ、輜重は渭の南から渭を挟んで西へ行かせた。
  • 冬十月壬辰、泰が沙苑に至った。東魏軍から六十里。諸将はみな恐れた。宇文深だけが泰を祝った。理由を問うと、「歓は河北を鎮撫して甚だ衆心を得ております。それで自ら守れば図りがたい。今、孤軍を懸けて渡河したのは衆の望むところではありません。ただ歓だけが竇泰を失った恥を思い、諫めに逆らって来たのです。いわゆる忿りの兵、一戦で擒えられます。事理は明らか。何を祝わぬことがありましょう。どうか深に一節を仮し、王羆の兵を発してその走路を遮り、生き残りを出さぬようにさせてください」と答えた。
  • 泰は須昌県公達奚武を遣わして歓の軍をうかがわせた。武は三騎を従え、みな歓の将士の服を着け、日暮れに営から数百歩の所で馬を下りてひそかに聴き、その軍の合言葉を得た。そこで馬に乗って営を歴巡し、夜の警備の者のように振る舞い、法に合わぬ者があればしばしば鞭打った。敵の情状をすべて知って還った。
  • 歓は泰の到着を聞き、癸巳、兵を率いて向かった。斥候が歓の兵がまもなく至ると告げた。泰は諸将を召して謀った。開府儀同三司李弼が「彼は衆く我は寡ない。平地に陣を布くべきではありません。ここから東十里に渭曲があります。先に拠って待つべきです」と言い、泰は従った。
  • 水を背にして東西に陣し、李弼を右拒、趙貴を左拒とし、将士にみな葦の中に戈を伏せさせ、鼓の音を聞いて起つよう約した。
  • 日暮れどきに東魏の兵が渭曲に至った。都督である太安の斛律羌挙が「黒獺は国を挙げて来て、一死を決しようとしております。譬えれば狂犬が人を噛むようなもの。それに渭曲は葦が深く土がぬかるみ、力の用いようがありません。緩やかに対峙し、ひそかに精鋭を分けてまっすぐ長安の巣穴を掩うにしくはありません。巣穴が傾けば黒獺は戦わずして擒えられます」と言った。歓は「火を放って焼いてはどうか」と言った。侯景は「黒獺を生け捕って百姓に示すべきです。もし衆の中で焼け死ねば、誰がまた信じましょう」と言った。彭楽は意気盛んに戦いを請い、「わが衆は多く賊は寡ない。百人で一人を擒えるのに、何を克てぬ心配がありましょう」と言った。歓は従った。
  • 東魏の兵は魏兵の少ないのを望み見て、争って進撃し、隊列もなくなった。兵が交わろうとしたとき、丞相泰が鼓を鳴らし、士はみな奮い起った。于謹ら六軍が合戦し、李弼らが鉄騎を率いて横から撃った。東魏の兵は中を断たれて二つになり、ついに大破された。
  • 李弼の弟の李檦は身が小さくて勇があり、馬を躍らせて陣を陥れるたび身を鞍と甲の中に隠した。敵は見てみな「この小僧を避けよ」と言った。泰は嘆じて「胆と決断がこれほどなら、何も八尺の体は要らぬ」と言った。
  • 征虜将軍である武川の耿令貴は殺傷が多く、甲の裾がすべて赤く染まった。泰は「その甲の裾を見れば令貴の勇は分かる。何も首級を数えるには及ばぬ」と言った。
  • 彭楽は酔いに乗じて魏の陣に深入りした。魏人が刺して腸が出たが、押し込んでまた戦った。
  • 丞相歓は兵を収めて改めて戦おうとし、張華原に帳簿を持って営を歴巡して点呼させた。還って歓に「衆はみな去り、営はみな空です」と白した。歓はなお去ろうとしなかった。阜城侯斛律金が「衆心は離散し、もう用いられません。急ぎ河東へ向かわれるべきです」と言った。歓は鞍に拠って動かず、金が鞭で馬を払い、ようやく馳せ去った。
  • 夜に黄河を渡ったが、船が岸から遠く、歓は橐駝に跨って船に乗ってようやく渡れた。甲士八万人を喪い、棄てた鎧と武器は十八万に及んだ。
  • 丞相泰は歓を追って黄河のほとりに至り、甲士二万余人を選んで留め、残りはみな放って帰した。都督李穆が「高歓は胆を潰しております。速やかに追えば獲られます」と言ったが、泰は聴かず、軍を還して渭南に還った。徴した兵がようやく至った。そこで戦った場所に人ごとに柳を一株植えて武功を旌した。
  • 侯景が歓に「黒獺は勝ったばかりで驕っており、必ず備えておりません。精騎二万を得てまっすぐ往って取りたく存じます」と言った。歓は婁妃に告げた。妃は「かりに言うとおりだとして、景がどうして還る道理がありましょう。黒獺を得て景を失って、何の利がありますか」と言い、歓はそこで取りやめた。
  • 魏が丞相泰に柱国大将軍を加え、李弼ら十二将にみな爵を進め邑を増すことそれぞれ差があった。
  • 高敖曹は歓の敗北を聞いて恒農の囲みを解き、洛陽に退いて保った。
  • 己酉、魏の行台宮景寿らが洛陽へ向かった。東魏の洛州大都督韓賢が撃退した。州の民の韓木蘭が乱をなし、賢が撃ち破った。一人の賊が屍の間に隠れていた。賢が自ら検分して鎧と武器を収めていたところ、賊が突然起きて斬りかかり、脛を断たれて没した。
  • 魏はまた行台馮翊王元季海と独孤信に歩騎二万で洛陽へ向かわせ、洛州刺史李顕に三荊へ向かわせ、賀抜勝と李弼に蒲坂を囲ませた。
  • 東魏の丞相歓が西伐したとき、蒲坂の民の敬珍がその従祖の兄の敬祥に言った。「高歓が乗輿を迫り逐い、天下の忠義の士はみなその腹に刃を突き立てたいと思っております。今また兵を称して西上した。私は兄と兵を起こしてその帰路を断ちたい。これぞ千載一時です」。祥は従い、郷里を糾合して数日で一万余の衆を得た。折しも歓が沙苑から敗れ帰り、祥と珍が衆を率いて遮り、斬獲は甚だ多かった。賀抜勝と李弼が河東に至ると、祥と珍は猗氏など六県十余万戸を率いて帰した。丞相泰は珍を平陽太守、祥を行台郎中とした。
  • 東魏の秦州刺史薛崇礼が蒲坂を守っていた。別駕薛善は崇礼の族弟である。崇礼に言った。「高歓には君を逐った罪があります。善は兄とともに忝くも衣冠の家の末裔として代々国恩を蒙ってまいりました。今、大軍がすでに臨んでいるのに、なお高氏のために固守し、ひとたび城が陥ちて首を函に入れて長安に送られ、逆賊と署されれば、死んでもなお愧じが余ります。今のうちに帰順するほうがまだましです」。崇礼は猶予して決めなかった。善は族人と関を斬り破って魏軍を入れた。崇礼は逃げ出したが追って捕らえられた。
  • 丞相泰は軍を蒲坂に進め、汾・絳を略定した。およそ薛氏で開城の謀に与った者にはみな五等の爵を賜った。善は「逆に背き順に帰するのは臣子の常の節分です。どうして一門の大小がこぞって封邑を叨れましょう」と言い、弟の薛慎とともに固辞して受けなかった。
  • 東魏の行晉州事封祖業が城を棄てて逃げた。儀同三司薛脩義が洪洞まで追い、祖業に還って守るよう説いたが従わなかった。脩義は還って晉州に拠り、安集して固守した。魏の儀同三司長孫子彦が兵を率いて城下に至った。脩義は府を開いて甲兵を伏せて待った。子彦は虚実が測れず、そのまま退き走った。丞相歓は脩義を晉州刺史とした。
  • 独孤信が新安に至り、高敖曹は兵を率いて北へ黄河を渡った。信が洛陽に迫り、洛州刺史広陽王元湛は城を棄てて鄴に帰り、信はそのまま金墉城に拠った。
  • 孝武帝が西へ遷ったとき、散騎常侍である河東の裴寛が諸弟に「天子がすでに西へ行かれた。私は東して高氏に付くわけにいかぬ」と言い、家属を率いて大石嶺に逃げた。独孤信が洛に入って初めて出て会った。
  • 当時、洛陽は荒れ廃れ、人士は流散し、ただ河東の柳虬が陽城に、裴諏之が潁川にいた。信はともに徴し、虬を行台郎中、諏之を開府属とした。
  • 東魏の潁州長史賀若統が刺史田迄を捕らえて城を挙げて魏に降り、魏の都督梁迴が入って城に拠った。前通直散騎侍郎鄭偉が陳留で兵を挙げて東魏の梁州を攻め、刺史鹿永吉を捕らえた。前大司馬従事中郎崔彦穆が滎陽を攻めて太守蘇淑を捕らえ、広州長史劉志とともに魏に降った。偉は鄭先護の子である。丞相泰は偉を北徐州刺史、彦穆を滎陽太守とした。
  • 十一月、東魏の行台任祥が督将の堯雄・趙育・是云宝を率いて潁川を攻めた。丞相泰は大都督宇文貴と楽陵公である遼西の怡峰に歩騎二千で救わせた。軍が陽翟に至ったとき、雄らの軍はすでに潁川から三十里の所にあり、祥は四万の衆を率いてその後に続いていた。
  • 諸将はみな「彼は衆く我は寡ない。鋒を争えません」と言った。貴は「雄らはわが兵が少ないから必ず進む勇気はあるまいと思っている。彼が任祥と兵を合わせて潁川を攻めれば城は必ず危うい。もし賀若統が陥没すれば、われらはここに坐して何になろう。今、進んで潁川に拠れば守れる城があり、しかも不意を衝ける。破るのは必定だ」と言い、そのまま急ぎ潁川に拠り、城を背にして陣して雄らを待った。
  • 至って合戦し、大破した。雄は逃げ、趙育は降を請うた。その士卒一万余を俘としたが、ことごとく放って遣わした。任祥は雄の敗北を聞いて進む勇気がなかった。貴と怡峰が勝ちに乗じて迫り、祥は宛陵に退いて保った。貴が追いついて撃ち、祥の軍は大敗した。
  • 是云宝がその陽州刺史那椿を殺して州を挙げて魏に降った。魏は貴を開府儀同三司、是云宝と趙育を車騎大将軍とした。
  • 都督である杜陵の韋孝寛が東魏の豫州を攻めて落とし、その行台馮邕を捕らえた。孝寛は名は叔裕、字で通った。
  • 丙子、東魏が驃騎大将軍・儀同三司万俟普を太尉とした。
  • 十二月、魏の行台楊白駒が東魏の陽州刺史段粲と蓼塢で戦い、魏軍が敗れた。
  • 魏の荊州刺史郭鸞が東魏の東荊州刺史である清都の慕容儼を攻めた。儼は昼夜拒み戦うこと二百余日、隙に乗じて出撃し、鸞を大破した。当時、河南の諸州の多くが守りを失う中、東荊だけが全うされた。
  • 河間の邢磨納、范陽の盧仲礼、仲礼の従弟の盧仲裕らがみな海のほとりで兵を挙げて魏に応じた。
  • 東魏の済州刺史高季式には部曲千余人、馬八百匹があり、鎧も武器もみな備わっていた。濮陽の民の杜霊椿らが盗をなして一万近い衆を集め、城を攻め野を掠めた。季式は騎三百を遣わして一戦で擒えた。また陽平の賊の路文徒らを撃ってことごとく平らげた。こうして遠近は粛清された。
  • ある者が季式に「濮陽と陽平は畿内の郡です。詔命を奉じたわけでもなく、また境を侵されたわけでもない。何を急いで私の軍を遠く戦わせるのか。万一失利すれば罪を得るのではありませんか」と言った。季式は「君はなぜそんな不忠なことを言うのか。私は国家と安を同じくし危を共にする身。どうして賊を見て討たずにおれよう。それに賊は台軍がにわかには来られぬと知り、また外州に兵があるとは疑っていない。撃てばその無備に乗じて破るのは必定だ。これで罪を得ても、私に恨みはない」と言った。

四年(538年)

  • 春二月、東魏の大都督である善無の賀抜仁が魏の南汾州を攻め、刺史韋子粲が降った。丞相泰は子粲の一族を滅ぼした。
  • 東魏の大行台侯景らが虎牢で兵を治め、河南の諸州を回復しようとした。魏の梁迴・韋孝寛・趙継宗はみな城を棄てて西へ帰った。
  • 侯景が広州を攻めること数旬、まだ落ちぬうちに魏の救援が来ると聞き、諸将を集めて議した。行洛州事盧勇が進んで形勢を観ることを請い、そこで百騎を率いて大隗山に至り、魏軍に遇った。日はすでに暮れていた。勇は樹の頂に幡と旗を多く置き、夜半に騎を十隊に分け、角を鳴らしてまっすぐ進み、魏の儀同三司程華を擒え、儀同三司王征蛮を斬って還った。広州の守将駱超はそこで城を挙げて降った。東魏の丞相歓は勇に広州の事を行わせた。勇は盧辯の従弟である。こうして南汾・潁・豫・広の四州がまた東魏に入った。
  • 三月辛酉、東魏の丞相歓が沙苑の敗北により大丞相の解任を請い、詔で許された。ほどなく元に復した。
  • 秋七月、東魏の侯景・高敖曹らが金墉の魏の独孤信を囲み、太師歓が大軍を率いて続いた。景は洛陽の内外の官寺と民居をことごとく焼き、残ったのは十のうち二、三だった。
  • 魏主は洛陽に行って園陵に拝そうとしていたところ、折しも信らが急を告げたので、そのまま丞相泰とともに東へ向かい、尚書左僕射周恵達に太子元欽を輔けて長安を守らせ、開府儀同三司李弼と車騎大将軍達奚武に千騎を率いて前駆とさせた。
  • 八月庚寅、丞相泰が穀城に至った。侯景らは陣を整えてその到着を待とうとした。儀同三司である太安の莫多婁貸文が配下を率いてその前鋒を撃つことを請うたが、景らは固く止めた。貸文は勇にして専断で、命を受けず、可朱渾道元と千騎で前進した。夜に孝水で李弼と達奚武に遇った。弼は軍士に鼓を鳴らし柴を曳いて塵を揚げさせ、貸文は逃げ、弼が追って斬った。道元は単騎で免れ、その衆はことごとく俘として恒農に送られた。
  • 泰は瀍水の東に軍を進め、侯景らは夜に囲みを解いて去った。辛卯、泰は軽騎を率いて景を追い、黄河のほとりに至った。景は陣を作り、北は河橋に拠り南は邙山に属して、泰と合戦した。
  • 泰の馬が流れ矢に当たって驚き逸し、ついに行方が知れなくなった。泰は落馬し、東魏の兵が追いついた。左右はみな散った。都督李穆が馬を下り、鞭で泰の背を打って罵り「籠東(間抜け)の軍士め、お前の主はどこにいる。なぜ独りここに留まっているのか」と言った。追う者はその貴人であることを疑わず、捨てて通り過ぎた。穆は馬を泰に授け、ともに逸した。
  • 魏の兵はまた振るい、東魏の兵を撃って大破した。東魏の兵は北へ走った。
  • 京兆忠武公高敖曹は泰を軽んじ、旗と蓋を立てて陣を陵いだ。魏人は鋭を尽くして攻め、一軍はみな全滅した。敖曹は単騎で河陽の南城へ逃げ込んだ。守将の北豫州刺史高永楽は歓の従祖の兄の子で、敖曹と怨みがあり、門を閉じて受け入れなかった。敖曹は仰いで呼んで縄を求めたが得られず、刀を抜いて扉を穿ったがまだ貫かぬうちに追兵が至った。敖曹は橋の下に伏せた。追う者はその従僕が金の帯を持っているのを見て敖曹の所在を問い、奴が指し示した。敖曹は免れぬと知り、頭を奮って「来い、お前に開国公を開いてやる」と言った。追う者はその首を斬って去った。
  • 高歓はこれを聞いて肝胆を喪ったようになり、高永楽を二百打ち、敖曹に太師・大司馬・太尉を贈った。泰は敖曹を殺した者に布と絹一万段を賞したが、毎年少しずつ与え、周が亡ぶまでなお足りなかった。
  • 魏はまた東魏の西兖州刺史宋顕らを殺し、甲士一万五千人を虜とした。黄河に赴いて死んだ者は万を数えた。
  • はじめ歓は万俟普が尊く老いているとして特に礼遇し、かつて自ら扶けて馬に乗せた。その子の万俟洛は冠を脱いで稽首し、「死力を出して深恩に報いたい」と願った。邙山の戦いで諸軍が北へ橋を渡ったとき、洛だけが兵を勒して動かず、魏人に「万俟受洛干はここにいる。来られるなら来い」と言った。魏人は畏れて去った。歓はその陣した地を名づけて「回洛」とした。
  • この日、東西の魏は陣を布くこと甚だ大きく、首尾が遠く隔たった。朝から未の刻まで数十合戦い、霧気が四方に塞がって互いに知れなかった。魏の独孤信と李遠は右に、趙貴と怡峰は左におり、戦って共に利あらず、また魏主と丞相泰の所在が分からず、みな卒を棄てて先に帰った。開府儀同三司李虎と念賢らは後軍にあり、信らの退却を見てすぐ共に去った。泰はそこで営を焼いて帰り、儀同三司長孫子彦を留めて金墉を守らせた。
  • 王思政は馬を下りて長い矟を挙げ、左右に横に撃ち、一撃で数人を倒した。陣に陥ること深く、従う者はみな死に、思政は重傷を負って気を失った。折しも日が暮れて敵も兵を収めた。思政は戦うたびに常に破れた衣と弊れた甲を着けていたので、敵は将帥と知らず、ゆえに免れた。帳下督雷五安が戦場で哭して思政を探し、たまたま蘇生したところに出会い、衣を割いて傷を裹み、思政を扶けて馬に乗せ、夜が深まってようやく営に還れた。
  • 平東将軍蔡祐が馬を下りて歩戦した。左右が万一に備えて馬に乗るよう勧めた。祐は怒って「丞相は私を子のように愛される。今日どうして生を惜しもうか」と言い、左右十余人を率いて声を合わせて大呼し、東魏の兵を撃って殺傷は甚だ多かった。東魏人が十余重に囲んだ。祐は弓を彎いて満に持ち、四面に拒んだ。東魏人が厚い甲と長い刀の者を募ってまっすぐ進んで取ろうとした。祐から三十歩ほどの所で、左右が射るよう勧めた。祐は「われらの命はこの一矢にある。どうして虚しく放てようか」と言った。十歩に至って祐が射ると、弦に応じて倒れた。東魏の兵はやや退き、祐はゆっくり引き還した。
  • 魏主が恒農に至ると、守将はすでに城を棄てて走っており、俘とした降卒で恒農にいた者が共に門を閉じて拒み守った。丞相泰が攻め落とし、その魁首数百人を誅した。
  • 蔡祐が恒農で泰に追いつき、夜に泰に会った。泰は「承先(祐の字)、そなたが来た。私に憂いはない」と言った。泰は驚いて眠れず、祐の股を枕にしてようやく安んじた。祐は泰に従って戦うたび常に士卒に先んじたが、戦いから還ると諸将はみな功を争う中、祐はついに何も言わなかった。泰はいつも嘆じて「承先は口に勲を言わぬ。私が代わってその論叙をせねば」と言った。
  • 泰は王思政を留めて恒農に鎮させ、侍中・東道行台に除した。
  • 魏が東伐したとき、関中の留守の兵は少なく、前後に俘とした東魏の士卒が民間に散っていた。魏兵の敗北を聞いて乱を作す謀を巡らせた。李虎らが長安に至って計の立てようがなく、太尉王盟・僕射周恵達らと太子欽を奉じて出て渭北に屯した。百姓は互いに剽掠し、関中は大いに擾れた。
  • こうして沙苑で俘とした東魏の都督趙青雀と雍州の民の于伏徳らがついに反した。青雀は長安の子城に拠り、伏徳は咸陽を保ち、咸陽太守慕容思慶とそれぞれ降卒を収めて還る兵を防いだ。長安の大城の民は連れ立って青雀を拒み、日々戦った。大都督侯莫陳順が賊を撃ってたびたび破り、賊は出る勇気がなくなった。順は侯莫陳崇の兄である。
  • 扶風公王羆が河東に鎮していた。城門を大きく開いて軍士をことごとく召して言った。「今、大軍が失利し、青雀が乱を作したと聞く。諸人に固い志はあるまい。王羆はここで委任を受けた。死をもって恩に報いる。心を同じくできる者は共に固守しよう。城が陥ちるのを恐れるなら、勝手に城を出るがよい」。衆はその言に感じ、みな異志はなかった。
  • 魏主は閺郷に留まった。丞相泰は士馬が疲弊して速やかには進めず、また青雀らは烏合で患いとならぬと思い、「私が長安に至って軽騎で臨めば、必ず面縛しよう」と言った。通直散騎常侍である呉郡の陸通が諫めた。「賊の逆謀は定まって久しく、必ず善に遷る心はありません。蜂や蠍にも毒があります。どうして軽んじられましょう。それに賊は偽って東の敵がまもなく来ると言い触らしております。今もし軽騎で臨まれれば、百姓はそれを事実と思い、いよいよ驚き擾れましょう。今、軍は疲弊しているとはいえ精鋭はなお多い。明公の威で大軍を総べて臨まれれば、克てぬ心配がありましょうか」。泰は従い、兵を率いて西へ入った。父老は泰の到着を見て悲しみ喜ばぬ者はなく、士女は互いに祝った。
  • 華州刺史宇文導が兵を率いて咸陽を襲い、思慶を斬り伏徳を擒え、南して渭を渡って泰と会し、青雀を攻めて破った。太保梁景睿は病で長安に留まっていたが青雀と通謀し、泰は殺した。
  • 東魏の太師歓は晉陽から七千騎を率いて孟津に至り、まだ渡らぬうちに魏軍がすでに遁げたと聞き、そのまま渡河した。別将を遣わして魏軍を崤まで追わせたが及ばずに還った。歓は金墉を攻め、長孫子彦は城を棄てて走った。城中の室屋をことごとく焼き、歓は金墉を毀して還った。
  • 東魏が鄴に遷ったとき、主客郎中裴譲之が洛陽に留まっていた。独孤信が敗れると、譲之の弟の裴諏之は丞相泰に随って関に入り、大行台倉曹郎中となった。歓は譲之兄弟五人を囚えた。譲之は「昔、諸葛亮の兄弟は呉と蜀に仕え、それぞれその心を尽くしました。まして譲之の老母はここにおります。不忠不孝は必ずいたしません。明公が誠を推して物に接せられれば、物もまた心を帰します。もし猜忌をお用いになれば、覇業から遠ざかります」と言った。歓はみな釈放した。
  • 九月、魏主が長安に入り、丞相泰は華州に還って屯した。
  • 冬十月、魏が高敖曹・竇泰・莫多婁貸文の首を東魏に返した。
  • 十二月、魏の是云宝が洛陽を襲い、東魏の洛州刺史王元軌は城を棄てて走った。都督趙剛が広州を襲って落とした。こうして襄・広以西の城と鎮はまた魏のものとなった。
  • はじめ魏の伊川の土豪李長寿は防蛮都督となり、功を積んで北華州刺史に至った。孝武帝が西へ遷ると、長寿は徒を率いて東魏を拒み、魏は長寿を広州刺史とした。侯景がその壁を攻め落として殺した。その子の李延孫が改めて父の兵を集めて東魏を拒んだ。魏の貴臣である広陵王元欣、録尚書長孫稚らがみな家を携えて頼り、延孫は資を出して護送し関中に達させた。東魏の高歓はこれを患え、たびたび兵を遣わして延孫を攻めたが落とせなかった。
  • 魏は延孫を京南行台・節度河南諸軍事・広州刺史とした。延孫は伊・洛を澄清することを己の任とした。魏は延孫の兵が少ないので、あらためて長寿の婿である京兆の韋法保を東洛州刺史とし、兵数百を配して助けさせた。法保は名は祐、字で通った。着くと延孫と兵を連ね、伏流に柵を置いた。
  • 独孤信が洛陽に入ったとき、宮室を修繕しようとして外兵郎中である天水の権景宣に徒兵三千を率いて材木の採取と運搬に出させた。折しも東魏の兵が至り、河南はみな叛いた。景宣は間道から西へ走り、李延孫と会して孔城を攻め落とし、洛陽以南もまもなく西に附いた。丞相泰はそのまま景宣を留めて張白塢を守らせ、東南の諸軍で関西に応ずる者を節度させた。
  • この年、延孫はその長史楊伯蘭に殺された。韋法保はすぐ兵を率いて延孫の柵に拠った。
  • 東魏の将の段琛らが宜陽に拠り、陽州刺史牛道恒を遣わして魏の辺民を誘った。魏の南兖州刺史韋孝寛はこれを患え、そこで偽って道恒が孝寛に送った帰順の意を論ずる書を作り、諜者に琛の営に落とさせた。琛は果たして道恒を疑った。孝寛はその猜疑と隔たりに乗じて兵を出して襲い、道恒と琛を擒えた。崤・澠はこれで清まった。
  • 東道行台王思政が玉壁の険要なるを理由に、城を築いて恒農から移り鎮することを請うた。詔で都督汾晉并州諸軍事・并州刺史を加え、行台は元のままとした。

六年(540年)

  • 春二月、東魏の大行台侯景が三鵶に出て荊州を回復しようとした。魏の丞相泰は李弼と独孤信にそれぞれ五千騎で武関を出させ、景はそこで還った。
  • 夏五月乙酉、魏の行台宮延和と陝州刺史宮延慶が東魏に降った。東魏は河北の馬場を義州としてここに置いた。

八年(542年)

  • 春三月、魏が初めて六軍を置いた。
  • 秋八月、東魏の丞相歓が魏を撃ち、汾・絳から入って営を連ねること四十里。丞相泰は王思政に玉壁を守らせてその道を断たせた。歓は書で思政を招いて「降れば并州を与えよう」と言った。思政は「可朱渾道元が降ったのに、どうして得られなかったのか」と返書した。
  • 冬十月己亥、歓が玉壁を囲んだ。総計九日、大雪に遭って士卒は飢え凍え、死ぬ者が多く、そのまま囲みを解いて去った。魏は太子欽を遣わして蒲坂に鎮させ、丞相泰は軍を蒲坂に出して皂莢に至ったが、歓の退却を聞いて汾を渡って追い、及ばなかった。
  • 十一月、東魏が可朱渾道元を并州刺史とした。

九年(543年)

  • 春二月壬申、東魏の御史中尉高仲密が虎牢を挙げて叛いて魏に降った。魏は仲密を侍中・司徒とした。
  • 歓は仲密の叛が崔暹によるとして殺そうとした。高澄は暹を匿してそのために固く請うた。歓は「私はその命を乞われて助けるが、手厳しく懲らさねばならぬ」と言った。澄は暹を出して大行台都官郎陳元康に「卿は崔暹に杖を受けさせるつもりなら、二度と私に会うな」と言った。元康は歓に言った。「大王はまさに天下を大将軍に付されようとしております。大将軍が崔暹一人ですらその杖を免じられぬとなれば、父子ですらこうなのだから、まして他人においてをや」。歓はそこで釈放した。
  • 高季式は永安の戍にいた。仲密が使いを遣わして報せたが、季式は走って歓に告げ、歓は以前どおりに遇した。
  • 魏の丞相泰が諸軍を率いて仲密に応じ、太子少傅李遠を前駆として洛陽に至り、開府儀同三司于謹を遣わして柏谷を攻め落とした。三月壬申、河橋の南城を囲んだ。
  • 東魏の丞相歓が十万の兵で河北に至った。泰は瀍水のほとりに軍を退き、上流から火船を放って河橋を焼こうとした。斛律金は行台郎中張亮に小艇百余に長い鎖を載せて火船を待たせ、来たところで釘で釘付けにし、鎖を引いて岸へ寄せた。橋はこうして全うされた。
  • 歓が渡河して邙山に拠って陣し、数日進まなかった。泰は輜重を瀍水の曲がりに留め、夜に邙山に登って歓を襲おうとした。斥候が歓に「賊はここから四十余里の所で、朝食に乾飯を食べて来ます」と白した。歓は「自ずと渇き死ぬだろう」と言い、陣を正して待った。
  • 戊申の夜明け、泰の軍が歓の軍と遭遇した。東魏の彭楽が数千騎で右の一翼となって魏軍の北の端を衝き、向かうところ潰走させ、そのまま魏の営に馳せ入った。人が「彭楽が叛いた」と歓に告げ、歓は甚だ怒った。ほどなく西北に塵が起こり、楽が使いを寄こして勝報を告げた。魏の侍中・開府儀同三司・大都督臨洮王元柬、蜀郡王元栄宗、江夏王元昇、鉅鹿王元闡、譙郡王元亮、詹事趙善および督将と僚佐四十八人を虜とした。諸将は勝ちに乗じて魏を撃ち、大破して三万余級を斬った。
  • 歓は彭楽に泰を追わせた。泰は追い詰められて楽に「お前は彭楽ではないか。痴れ男めが、今日われがいなければ、明日どうしてお前がおれよう。なぜ急いで営に還って自分の金と宝を収めぬのか」と言った。楽はその言に従い、泰の金の帯一袋を獲て帰り、歓に「黒獺は刃を漏れましたが、胆を潰しております」と言った。
  • 歓はその勝ちを喜びながらも泰を取り逃がしたのを怒り、地に伏せさせて自らその頭を掴んで続けざまに打ちつけ、あわせて沙苑の敗を数え、刃を挙げて振り下ろそうとすること三度、歯噛みして長く堪えた。楽は「五千騎をいただき、改めて王のために取ってまいります」と言った。歓は「お前が放しておいて、どういうつもりで改めて取るなどと言うのか」と言い、絹三千匹を取って楽の背に積ませ、そのまま賜った。
  • 翌日また戦った。泰が中軍、中山公趙貴が左軍、領軍若干恵らが右軍となった。中軍と右軍が合わせ撃って東魏を大破し、その歩卒をことごとく俘とした。歓は馬を失い、赫連陽順が馬を下りて授けた。歓は馬に乗って走り、従う者は歩騎七人。追兵が至った。親信の都督尉興慶が「王は速やかにお去りください。興慶の腰には矢が百本あり、百人を殺すに足ります」と言った。歓は「事が済んだらお前を懐州刺史とする。死ねばお前の子を用いよう」と言った。興慶は「児は小さい。兄を用いていただきたい」と言い、歓は許した。興慶は拒み戦って矢が尽きて死んだ。
  • 東魏の軍士で魏に逃げた者が歓の所在を告げた。泰は勇敢な三千人を募り、みな短兵を執らせて大都督賀抜勝に配して攻めさせた。勝は行間で歓を見分け、槊を執って十三騎と追った。数里馳せて槊の刃がまさに及ぼうとしたとき、そのまま字を呼んで「賀六渾、賀抜破胡が必ずお前を殺す」と言った。歓の気は絶えかけた。河州刺史劉洪徽が傍らから射て勝の二騎を中て、武衛将軍段韶が勝の馬を射て斃した。替え馬が着いたときには歓はすでに逸し去っていた。勝は嘆じて「今日、弓矢を執らなかったのは天だ」と言った。
  • 魏の南郢州刺史耿令貴が大呼して独り敵中に入った。鋒と刃が乱れ下り、人はみな死んだと思ったが、ほどなく刀を奮って還った。こういうことが四度もあり、令貴の前に立つ者は死傷が相継いだ。そこで左右に言った。「私がどうして人を殺すのを楽しもうか。壮士が賊を除くのに、こうせざるを得ぬのだ。もし賊を殺せず、また賊に傷つけられもせぬなら、席に坐したままの者と何が違おうか」。
  • 左軍の趙貴ら五将は戦って利あらず、東魏の兵はまた振るった。泰が戦ってまた利あらず、折しも日が暮れて魏兵はそのまま遁げた。東魏の兵が追い、独孤信と于謹が散った卒を収めて後ろから撃った。追兵は驚き擾れ、魏の諸軍はこれで全うされた。
  • 若干恵が夜に引き揚げた。東魏の兵が追った。恵はゆっくり馬を下り、振り返って厨人に食事の支度を命じ、食べ終わって左右に「長安で死ぬのとここで死ぬのと、違いがあろうか」と言い、そこで旗を建て角を鳴らして散った卒を収め、ゆっくり還った。追騎は伏兵があるかと疑い、あえて迫らなかった。
  • 泰はそのまま関に入って渭上に屯した。歓は陝まで進み、泰は開府儀同三司達奚武らを遣わして防がせた。
  • 行台郎中封子絵が歓に言った。「東西を混一するのは、まさに今日にあります。昔、魏の太祖が漢中を平らげたとき、勝ちに乗じて巴蜀を取らず、遅疑を失として後悔しても及びませんでした。どうか大王、お疑いなさいますな」。歓は深く然りとし、諸将を集めて進止を議した。みな「野に青草もなく、人も馬も疲れ痩せております。遠く追えません」と言った。
  • 陳元康が「両雄が争って歳月はすでに久しい。今、幸いに大捷を得たのは天が授けたもの。時を失えません。まさに勝ちに乗じて追うべきです」と言った。歓は「もし伏兵に遇えば、孤はどうして済せようか」と言った。元康は「王は先に沙苑で失利されましたが、彼はなお伏兵を置きませんでした。今、これほど奔り敗れて、どうして遠謀ができましょう。もし捨てて追わねば、必ず後患となります」と言った。歓は従わず、劉豊生に数千騎で泰を追わせ、そのまま東へ帰った。
  • 泰は王思政を玉壁から召し、虎牢に鎮させようとした。着かぬうちに泰が敗れたので、恒農を守らせた。思政は入城して門を開かせ、衣を解いて臥し、将士を慰め励まし、恐れるに足らぬことを示した。数日後、劉豊生が城下に至ったが、憚って進む勇気がなく軍を引いて還った。思政はそこで城郭を修め、楼櫓を起こし、農田を営み、芻と粟を積んだ。これで恒農に初めて守禦の備えができた。
  • 丞相泰は自ら貶されることを求めたが、魏主は許さなかった。この役では魏の諸将はみな功がなく、ただ耿令貴と太子武衛率王胡仁、都督王文達だけが力戦して功が多かった。泰は雍・岐・北雍の三州を授けようとしたが、州に優劣があるので籤を引いて取らせた。そのまま胡仁に「勇」、令貴に「豪」、文達に「傑」の名を賜り、その功を彰らかにした。こうして広く関・隴の豪族を募って軍旅を増した。
  • 高仲密が叛こうとしたとき、ひそかに人を遣わして冀州の豪傑を扇動し、内応させようとした。東魏は高隆之を駅で馳せさせて慰撫させ、これで安んじた。高澄はひそかに隆之に書を送った。「仲密の枝党で共に西へ行った者は、みなその家属を収めて将来を懲らすべきです」。隆之は「恩旨がすでに行われた以上、道理として追い改められません。もしまた収め治めれば、民に不信を示すことになります。かりに驚き擾れさせれば、損なうところは小さくありません」と考え、そこで丞相歓に啓して取りやめた。
  • 夏四月、丞相泰が諜者をひそかに虎牢に入れて守将魏光に固守を命じた。侯景がこれを捕らえ、その書を「速やかに去るべし」と改め、諜者を放って城に入れた。光は夜逃げした。景は高仲密の妻子を獲て鄴に送り、北豫・洛の二州がまた東魏に入った。
  • 五月壬辰、東魏が虎牢回復により死罪以下の囚を減じたが、高仲密の家だけは赦さなかった。丞相歓は、高乾に義勲があり高昂が王事に死に、季式は先に自ら告げたことから、みなのために免除を請うた。
  • 乙未、侯景を司空とした。

中大同元年(546年)

  • 秋八月、魏が并州刺史王思政を荊州刺史に徙し、諸将の中から玉壁の鎮守に代われる者を挙げさせた。思政は晉州刺史韋孝寛を挙げ、丞相泰は従った。
  • 東魏の丞相歓は山東の衆をことごとく挙げて魏を伐とうとした。癸巳、鄴から晉陽で兵を会し、九月、玉壁に至って囲み、西の師を誘い出そうとしたが、西の師は出なかった。
  • 冬十月、東魏の丞相歓が玉壁を攻め、昼夜息まなかった。魏の韋孝寛は機に随って防いだ。城中に水がなく汾で汲んでいた。歓が汾の流れを移させ、一晩で終わった。
  • 歓が城の南に土山を起こし、それに乗って入城しようとした。城上にはもと二つの楼があった。孝寛は木を縛って継ぎ足し、常に土山より高くして防いだ。歓は告げさせた。「そなたが楼を天まで縛り継いでも、私は地を穿ってそなたを取る」。そこで地道十本を鑿ち、また術士李業興の孤虚の法を用いて北に攻めを集めた。北は天険だからである。
  • 孝寛は長い塹を掘ってその地道を遮り、戦士を選んで塹の上に屯させ、掘り進んで塹に至るたびに戦士がその都度擒え殺した。また塹の外に柴を積んで火を貯え、敵が地道内にいるときは柴を塞いで火を投じ、皮の鞴で吹いた。ひと吹きするだけでみな焼け爛れた。
  • 敵が攻車で城を撞いた。車の当たるところ摧け毀たれぬものはなく、防ぎようがなかった。孝寛は布を縫って幔とし、その向かうところに随って張った。布が空中に懸かって車は壊せなかった。敵はまた松と麻を竿に縛り、油を注いで火を加え、布を焼き、あわせて楼を焚こうとした。孝寛は長い鉤を作ってその刃を鋭くし、火の竿が来ようとするところで遠くから鉤で割き、松も麻もみな落ちた。
  • 敵はまた城の四面に地を穿って二十本の道とし、その中に梁と柱を施して火を放って焼いた。柱が折れて城が崩れた。孝寛は崩れた所に随って木の柵を立てて防ぎ、敵は入れなかった。城外は攻撃の術を尽くしたが、城中の守禦には余りがあった。孝寛はまたその土山を奪い拠った。
  • 歓はどうしようもなく、そこで倉曹参軍祖珽に説かせた。「君は独り孤城を守り、西方に救援がない。ついに全うできまい。なぜ降らぬのか」。孝寛は答えた。「わが城池は厳固で兵も食も余りがある。攻める者は自ら労し、守る者は常に逸する。どうして旬日や一朔のうちに救援が要ろうか。かえって心配なのは、そちらの衆に帰れぬ危うさがあることだ。孝寛は関西の男子。必ず降将軍とはならぬ」。
  • 珽はまた城中の人に言った。「韋城主は彼の栄禄を受けている。それもよかろう。だがその外の軍民は、何のために従って湯火の中に入るのか」。そこで募集の格を城中に射込んだ。「城主を斬って降る者は太尉に拝し、開国郡公に封じ、帛一万匹を賞す」。孝寛は手ずからその書の裏に題して城外に射返した。「高歓を斬れる者は、これに準ずる」。珽は邢邵の子である。
  • 東魏は苦しく攻めること総計五十日、士卒で戦死および病死した者は七万人。共に一つの塚とした。歓は智も力も尽き、そのため病を発した。星が歓の営中に堕ち、士卒は驚き恐れた。十一月庚子、囲みを解いて去った。
  • これに先立ち、歓は別に侯景に兵を率いて斉子嶺へ向かわせた。魏の建州刺史楊檦は車箱に鎮しており、邵郡を侵されるのを恐れて騎を率いて防いだ。景は檦の到来を聞いて木を斫って路を断つこと六十余里、それでも驚いて安んじられず、そのまま河陽に還った。
  • 庚戌、歓は段韶に太原公高洋に従って鄴に鎮させた。辛亥、世子高澄を晉陽に召して会した。
  • 魏は韋孝寛を驃騎大将軍・開府儀同三司として建忠公に爵を進めた。当時の人は王思政を人を知る者とした。
  • 十二月己卯、歓が無功を理由に都督中外諸軍の解任を上表し、東魏主は許した。
  • 歓が玉壁から帰るとき、軍中に「韋孝寛が定功の弩で丞相を射殺した」という流言が立った。魏人はこれを聞き、そこで令を下して「勁弩が一たび発して凶身は自ら殞んだ」と言った。歓はこれを聞いて努めて起き、諸貴顕に会い、斛律金に敕勒の歌を作らせ、自ら和して哀しみに感じて涙を流した。

太清元年(547年)

  • 春正月丙午、東魏の勃海献武王歓が没した。

二年(548年)

  • 夏四月甲戌、東魏が太尉高岳・行台慕容紹宗・大都督劉豊生らを遣わし、歩騎十万で潁川の魏の王思政を攻めさせた。思政は鼓を伏せ旗を偃せて人のいないかのように命じた。岳はその衆を恃んで四面から城を陵いだ。思政は驍勇を選んで門を開いて出て戦い、岳の兵は敗走した。岳はあらためて土山を築いて昼夜攻めた。思政は方向に随って拒み守り、その土山を奪い、楼と堞を置いて防守を助けた。

三年(549年)

  • 夏四月、東魏の高岳らが魏の潁川を攻めたが克てず、大将軍澄が兵を増して助けた。道路には往来が相継ぎ、年を越えてもなお落ちなかった。山鹿忠武公劉豊生が策を建て、洧水を堰き止めて灌いだ。城は多く崩れ頽れ、岳は全兵力を休息と交替に分けて次々と攻めた。王思政は身に矢石を当て、士卒と労苦を共にした。城中に泉が湧き、釜を懸けて炊いた。
  • 太師泰が大将軍趙貴に東南の諸州の兵を督して救わせたが、長社以北はみな沼沢となっており、兵は穣に至って前に進めなかった。
  • 東魏人は射の巧みな者を大きな艦に乗せて城に臨んで射させ、城は陥ちかけた。燕郡景恵公慕容紹宗が劉豊生と堰に臨んで視ていたところ、東北に塵が起こるのを見て、ともに艦に入って坐して避けた。ほどなく暴風が至り、遠近は暗くなり、纜が切れて船が漂い、まっすぐ城へ向かった。城上の人が長い鉤で船を牽き、弓弩を乱れ放った。紹宗は水に赴いて溺死し、豊生は泳いで土山へ向かったが、城上の人が射殺した。
  • 五月、東魏の高岳は慕容紹宗らを失って志気が沮喪し、二度と長社城に迫る勇気がなかった。陳元康が大将軍澄に言った。「王は輔政以来まだ格別の功がありません。侯景を破ったとはいえ、もともと外の賊ではない。今、潁川が陥ちかけております。王が自らこれを功とされますよう」。澄は従い、戊寅、自ら歩騎十万を率いて長社を攻め、自ら堰の造成に臨んだ。堰が三たび決壊し、澄は怒って土を負う者を袋ごと押し込んで塞がせた。
  • 六月、長社城中は塩がなく、人は攣れ腫れる病で死ぬ者が十のうち八、九に及んだ。大風が西北から起こり、水を吹いて城に入れ、城が壊れた。
  • 東魏の大将軍澄が城中に令した。「王大将軍を生きたまま致せる者は侯に封ずる。もし大将軍の身に損傷があれば、その近くの左右はみな斬る」。
  • 王思政は衆を率いて土山に拠り、告げた。「わが力は屈し計は窮まった。ただ死をもって国に謝すのみ」。そのまま天を仰いで大哭し、西に向かって再拝して自刎しようとした。都督駱訓が「公はいつも訓らに『お前たちは私の頭を持って出て降れ。富貴を得るだけでなく、一城の人を全うできる』と語られました。今、高相にこの令がある以上、公は独り士卒の死を哀れまれぬのですか」と言い、衆でこれを執えて、自決させなかった。
  • 澄は通直散騎趙彦深を土山に遣わし、白羽の扇を贈り、手を執って意を申し述べ、牽いて下ろした。澄は拝させず、迎え入れて礼遇した。思政が初めて潁川に入ったときの将士は八千人、城が陥ちたときはわずか三千人。しかもついに叛く者はなかった。澄はその将卒をことごとく遠方に分け配し、潁川を鄭州と改め、思政を甚だ重く礼遇した。
  • 西閤祭酒盧潜が「思政は節に死ねなかった。どうして重んずるに足りましょう」と言った。澄は左右に「私に盧潜がいるのは、もう一人の王思政を得たようなものだ」と言った。潜は盧度世の曽孫である。
  • はじめ思政は襄陽に屯していた頃、長社を行台の治所にしたいと思い、使者の魏仲を遣わして太師泰に陳べさせ、あわせて淅州刺史崔猷に書を送った。猷は返書した。「襄城は京・洛を控え帯び、実に当今の要地です。動きがあっても応接しやすい。潁川はすでに敵の境に隣し、しかも山川の固めもない。賊がひそかに来ればまっすぐ城下に至ります。襄城に兵を頓め行台の所とし、潁川には州を置いて良将を鎮守させるにしくはありません。そうすれば表裏が膠のように固まり、人心も安んじやすい。たとえ不慮のことがあっても、どうして患いとなりましょう」。
  • 仲が泰に会って詳しく啓した。泰は猷の策に依るよう命じたが、思政は固く請い、あわせて「賊が水で攻めれば一年、陸で攻めれば三年、その間、朝廷に救援を煩わせません」と約した。泰はそこで許した。長社が守れなくなって、泰は深く悔いた。猷は崔孝芬の子である。
  • 侯景が南へ叛いたとき、丞相泰は東魏が景の部下の地を取り返すのを恐れ、諸将に分けて諸城を守らせていた。潁川が陥ちると、泰は諸城への道路が阻絶したとして、みな軍を抜いて還らせた。