通鑑紀事本末高氏、東魏を簒奪する(北斉)(高氏簒東魏(比齊))

東魏の大将軍高澄が孝静帝を凌辱し、帝側の荀済らの誅殺計画を摧いて実権を固めながら、膳の奴の蘭京に弑されるまで。跡を継いだ弟の高洋は徐之才・宋景業・高徳政に勧められ、勲貴の反対を押し切って禅譲の準備を進め、550年に孝静帝から位を受けて斉(北斉)を建てた。翌年には中山王とした孝静帝とその三子を毒殺し、元氏の宗室も次々に手にかけた。高澄の専横から高氏の簒奪完成までの五年間。

年表(4件)
  • 梁武帝
  • 太清元年547年高澄が孝静帝を辱め、荀済らの誅殺の謀が露見して烹殺される
  • 三年549年高澄が禅譲の謀議中に膳の奴の蘭京に弑され、弟の高洋が跡を継ぐ
  • 簡文帝
  • 大宝元年550年高洋が孝静帝の禅譲を受けて即位し、天保と改元する
  • 二年551年斉主が中山王(孝静帝)とその三子を毒殺し、元氏の宗室も誅す

梁武帝太清元年(547年)

  • 東魏の静帝は容儀が美しく、体力は人に勝れ、石の獅子を持ち上げることができ、宮の牆を跳び越え、射れば中らぬことがなかった。文学を好み、ゆったりとして沈着典雅で、当時の人は孝文帝の風烈があると評した。大将軍高澄は深くこれを忌んだ。
  • はじめ献武王(高歓)は自ら君を逐った醜行を病み、静帝に仕えて礼が甚だ恭しく、事は大小を問わず必ず奏聞して可否を旨に聴いた。宴に侍るたび俯し伏して寿を上り、帝が法会を設けて輦に乗って行香すると、歓は香炉を執って歩いて従い、身を屈め息を潜めて顔色をうかがった。ゆえにその配下も帝に奉じてあえて恭しくせぬ者はなかった。
  • ところが澄が国に当たると倨り慢ることがにわかに甚だしくなった。中書黄門郎崔季舒に帝の動静を察させ、大小を問わずみな季舒に知らせるよう命じた。澄は季舒に書を送って「痴人(帝)は近ごろどんな様子か。痴の勢いが少し治まったなら、まだ心を用いて検校するには及ぶまい」と言った。
  • 帝がかつて鄴の東で狩りをし、飛ぶように馳せ逐った。監衛都督烏那羅受工伐が後ろから呼んで「天子よ、馬を走らせられますな。大将軍が怒ります」と言った。
  • 澄はあるとき飲酒に侍り、大きな觴を挙げて帝に注いで「臣澄が陛下に酒を勧めます」と言った。帝は忿りに堪えず「古来、亡びぬ国はない。朕もまたこの生を何に用いようか」と言った。澄は怒って「朕、朕だと。犬の脚の朕めが」と言い、崔季舒に帝を三拳殴らせ、衣を奮って出た。翌日、澄は季舒を入らせて帝を労わせ、帝もまた謝した。季舒に絹百匹を賜った。
  • 帝は憂えと辱めに堪えず、謝霊運の詩を詠じた。「韓が亡びて子房は奮い、秦が帝を称して魯連は恥じた。もとより江海の人、忠義は君子を動かす」。
  • 常侍侍講である潁川の荀済は帝の意を知り、そこで祠部郎中元瑾・長秋卿劉思逸・華山王元大器・淮南王元宣洪・済北王元徽らと澄を誅する謀を巡らせた。大器は元鷙の子である。
  • 帝は偽って済に「いつ講義を開きたいか」と枚を投げて問うふりをし、そのうえで宮中で土山を作ると偽り、地道を開いて北城へ向かった。千秋門に至ったところで門番が地下の響きに気づき、澄に告げた。
  • 澄は兵を勒して宮に入り、帝に会って拝もせず坐して「陛下はどういうつもりで反されるのか。臣の父子の功は社稷に存する。陛下に何を負いましたか。これは必ず左右の妃嬪どもの仕業でしょう」と言い、胡夫人と李嬪を殺そうとした。
  • 帝は色を正して言った。「古来ただ臣が君に反するとは聞いたが、君が臣に反するとは聞かぬ。王が自ら反そうとしておいて、どうして私を責めるのか。私が王を殺せば社稷は安らぎ、殺さねば滅亡は日を経ぬ。わが身すら惜しむ暇がない。まして妃嬪においてをや。どうしても弑逆したいなら、緩急は王次第だ」。澄はそこで牀を下りて叩頭し大いに啼いて謝罪した。そのまま酒宴に耽り、夜が更けてようやく出た。
  • 三日後、帝を含章堂に幽閉した。壬辰、済らを市で烹殺した。
  • はじめ済は若い頃に江東におり、博学で文をよくし、上(梁の武帝)と布衣の旧交があった。上に大志があるのを知りながら、負けん気で服さず、いつも人に「いずれ盾の鼻の上で墨を磨って檄を書いてやる」と言っていた。上は甚だ不快だった。即位して、ある者が済を薦めたとき、上は「人に才があっても、俗を乱し反を好む者は用いられぬ」と言った。済は上書して、上が仏法を崇め信じ塔と寺に奢って費やすのを諫めた。上は激怒して朝廷の衆を集めて斬ろうとし、朱异がひそかに告げて、済は逃げて東魏に亡命した。
  • 澄が中書監となって済を侍読に用いようとすると、献武王は「私は済を愛しており、全うさせたいからこそ用いぬのだ。済が宮に入れば必ず敗れる」と言った。澄が固く請うたので許した。
  • 敗れたとき、侍中楊遵彦が「衰えた老年で、何を苦しんでまたこんな真似を」と言った。済は「壮んな気が残っているだけだ」と言い、そのうえで供述した。「自ら年紀の摧え頽れるのを傷み、功名が立たぬので、天子を挟んで権臣を誅そうとした」。
  • 澄はその死を宥そうとして自ら問うた。「荀公はどういうつもりで反したのか」。済は「詔を奉じて高澄を誅すのだ。何を反と言うか」と答えた。有司は済が老病なので鹿車に載せて東市に赴かせ、あわせて焼いた。
  • 澄は諮議温子昇が瑾らの謀を知っていたと疑ったが、ちょうど献武王の碑を作らせているところだった。できあがってから晉陽の獄で餓えさせ、破れた襦を食って死に、屍を路の隅に棄て、その家口を没収した。太尉長史宋遊道が収めて葬った。澄は遊道に言った。「私は近ごろ京師の諸々の貴顕に書を送って朝士を論じ、卿が朋党に偏るのを一つの病としていた。今こそ卿が真に旧故を重んじ節義を尚ぶ人だと知った。天下の人が卿のために怖れているのは、私の心を知らぬからだ」。
  • 九月辛丑、澄が晉陽に還った。

三年(549年)

  • 夏四月甲辰、東魏が大将軍勃海王澄の位を相国に進め、斉王に封じ、殊礼を加えた。丁未、澄が鄴に入朝して固辞したが許されなかった。澄は将佐を召してひそかに議した。みな澄に朝命に膺るべきだと勧めたが、散騎常侍陳元康だけが不可とした。澄はこれで嫌った。崔暹はそこで陸元規を大行台郎に薦めて元康の権を分けた。
  • 秋七月、東魏の大将軍澄が鄴に赴いて爵位と殊礼を辞し、あわせて太子を立てることを請うた。澄が済陰王元暉業に「近ごろ何の書を読んでいるか」と問うた。暉業は「しばしば伊尹・霍光の伝を尋ねます。曹氏・司馬氏の書は読みません」と答えた。
  • 八月辛卯、東魏が皇子元長仁を太子に立てた。
  • 勃海文襄王高澄は、弟の太原公高洋が次に年長なので、常に忌んだ。洋は深く自ら晦まし匿し、言葉を口に出さず、常に自ら貶め退き、澄と語るときは順わぬことがなかった。澄は軽んじて、いつも「この者もまた富貴の相か。人相の書もどう解したものか」と言った。
  • 洋がその夫人の趙郡の李氏のために服や装身具を作らせ、少し良い物ができると、澄はその都度奪い取った。夫人があるとき怒って渡さぬと、洋は笑って「これは求めれば手に入る品。兄が要るのに、どうして惜しめよう」と言った。澄があるいは愧じて取らぬときも、洋はそのまま受けて、飾って譲ることもしなかった。
  • 退朝して邸に還るたびに閤を閉じて静坐し、妻子に対しても終日物を言わぬことがあった。あるいは肌をあらわにし裸足で駆け跳んだ。夫人がその理由を問うと、洋は「お前のためのふざけだ」と言ったが、実は労を習おうとしたのである。
  • 澄は衡州刺史蘭欽の子の蘭京を獲て膳の奴とした。欽が贖いを請うても許さなかった。京がたびたび自ら訴えると、澄は杖打って「重ねて訴えれば殺す」と言った。京はその党六人と乱を作す謀を巡らせた。
  • 澄は鄴の北城の東柏堂に居し、琅邪公主を寵して往来に隔てのないようにと、侍衛の者をいつも外に出させていた。辛卯、澄は散騎常侍陳元康・吏部尚書侍中楊愔・黄門侍郎崔季舒と左右を退けて魏の禅譲を受ける謀を巡らせ、百官を擬して署していた。
  • 蘭京が食を進めた。澄は退けて諸人に「昨夜、この奴が私を斬る夢を見た。急ぎ殺すべきだ」と言った。京はこれを聞いて刀を盤の下に置き、食を進めると偽った。澄は怒って「私は食を求めておらぬ。なぜにわかに来た」と言った。京は刀を揮って「お前を殺しに来た」と言った。澄は自ら身を投げて足を傷つけ、牀の下に入った。賊は牀を除けて弑した。
  • 愔は狼狽して走り出て靴を一つ落とし、季舒は厠に匿れた。元康は身をもって澄を庇い、賊と刀を争って傷を負い腸が出た。庫真の王紘は刃を冒して賊を防ぎ、紇奚舎楽は闘って死んだ。
  • 当時、変が急に起こって内外は震え駭いた。太原公洋は城の東の双堂におり、これを聞いて神色を変えず、指揮して部署を定め、入って群賊を討ち、斬って切り刻んだ。ゆっくり出て「奴が反した。大将軍は傷を負われたが大したことはない」と言った。内外は驚き異とせぬ者がなかった。
  • 洋は喪を秘した。陳元康は手ずから書いて母に別れを告げ、口述で功曹参軍祖珽に書を作らせて便宜を陳べ、夜に至って没した。洋は邸内に殯し、偽って「使いに出た」と言い、虚しく元康を中書令に除した。王紘を領左右都督とした。紘は王基の子である。
  • 勲功ある貴顕の重兵はみな并州にあった。洋に早く晉陽へ行くよう勧め、洋は従った。夜に大将軍督護である太原の唐邕を召して将士の部署を定めさせ、四方を鎮遏させた。邕の配分はたちまち終わり、洋はこれで重んじた。
  • 癸巳、洋はそれとなく東魏主に太子を立てて大赦させた。澄の死の噂は次第に露わになった。東魏主はひそかに左右に「大将軍が今死んだのは、どうやら天意のようだ。威権はまた帝室に帰るだろう」と言った。
  • 洋は太尉高岳・太保高隆之・開府儀同三司司馬子如・侍中楊愔を留めて鄴を守らせ、その他の勲貴はみな自ら随わせた。甲午、昭陽殿で東魏主に謁見した。従う甲士は八千人、階に登った者は二百余人、みな袂をまくり刃を叩いて厳しい敵に対するかのようだった。主管者に「臣は家の事で晉陽に赴かねばなりません」と伝奏させ、再拝して出た。東魏主は色を失い、目で送って「この人もまた私を容れぬようだ。朕はいつ死ぬのか分からぬ」と言った。
  • 晉陽の旧臣と宿将は日ごろ洋を軽んじていたが、着いて文武を大々的に会したとき、その神采は英明で伸びやかで、言辞は敏くよく通じ、衆はみな大いに驚いた。澄の政令で不便なものは、洋がみな改めた。

簡文帝大宝元年(550年)

  • 春正月戊辰、東魏が太原公高洋の位を丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台・斉郡王に進めた。
  • 三月庚申、東魏が丞相洋の爵を斉王に進めた。
  • 東魏の斉王洋が開府だった頃、勃海の高徳政が管記となり、これで親しみ、言って尽くさぬことがなかった。金帯光禄大夫である丹陽の徐之才、北平太守である広宗の宋景業はみな図讖に長け、「太歳が午にあり、まさに革命がある」として、徳政を通じて洋に白し、禅譲を受けるよう勧めた。
  • 洋が婁太妃に告げた。太妃は「お前の父は竜のごとく、兄は虎のごとくであったが、それでも天位はみだりに拠れぬとして終身北面した。お前は何者で、舜・禹の事を行おうというのか」と言った。洋が之才に告げると、之才は「まさに父兄に及ばぬからこそ、早く尊位に登られるべきです」と言った。
  • 洋が像を鋳て卜すと成った。そこで開府儀同三司段韶に肆州刺史斛律金へ問わせた。金は来て洋に会い、固く不可を言い、宋景業が真っ先に符命を陳べたとして殺すよう請うた。
  • 洋が諸々の貴顕と太妃の前で議した。太妃は「わが子は懦弱で正直だ。必ずこんな心はない。高徳政が禍を楽しんで教えたのだ」と言った。
  • 洋は人心が一致せぬので、高徳政を鄴に遣わして公卿の意を察させた。まだ還らぬうちに洋は兵を擁して東へ行き、平都城に至って諸々の勲貴を召して議した。あえて答える者はなかった。長史杜弼が「関西は国の強敵です。もし魏の禅を受ければ、彼が天子を挟んで義兵と自称し東へ向かうのを恐れます。王は何をもって当たられるのですか」と言った。徐之才は「今、王と天下を争う者もまた王のなさろうとすることをしたいのです。たとえ彼が屈強でも、我らに随って帝を称するに過ぎません」と言い、弼は応えられなかった。
  • 高徳政が鄴に至って公卿にそれとなく告げたが、応ずる者はなかった。司馬子如が遼陽で洋を迎え、固く「まだ可でありません」と言った。洋は還ろうとした。倉丞李集が「王は何のために来られたのに、今また還られるのですか」と言った。洋は偽って東門へ使いに出して殺し、別に絹十匹を賜わせ、そのまま還った。これより常に不快だった。
  • 徐之才・宋景業らが日々陰陽と雑占を陳べて「早く命を受けられるべきです」と言い、高徳政もまた懇ろに勧めて止まなかった。洋は術士の李密に卜させた。「大横」を得た。密は「漢の文帝の卦です」と言った。また宋景業に筮わせると「乾の鼎に之く」を得た。景業は「乾は君です。鼎は五月の卦。仲夏に禅を受けられるべきです」と言った。ある者が「五月に官に入るのはよくない。犯せばその位で終わる」と言った。景業は「王が天子となれば、もう下る期はありません。どうしてその位で終わらぬことがありましょう」と言い、洋は大いに喜んだ。
  • そこで晉陽を発った。高徳政が鄴での諸事を録して条を洋に進め、洋は左右の陳山提に駅を馳せさせて事の条とひそかな書を楊愔に届けさせた。この月、山提が鄴に至り、楊愔はすぐ太常卿邢邵らを召して儀注の撰述を議させ、秘書監魏収が九錫・禅譲・勧進の諸文を草した。魏の宗室の諸王を北宮に引き入れ、康斎に留めた。
  • 甲寅、東魏が洋の位を相国・総百揆とし、九錫を備えた。洋は前亭まで来たところで乗った馬が突然倒れ、意に甚だ悪んだ。平都城に至って二度と進もうとしなかった。高徳政と徐之才が苦しく請うて「山提が先に行っております。漏泄するのを恐れます」と言い、すぐ司馬子如と杜弼に駅を馳せさせて続けて入らせ、物情を観察させた。子如らが鄴に至ると、衆人は事勢がすでに決まったとしてあえて異を言う者はなかった。
  • 洋が鄴に至り、人夫に築造の道具を持たせて城の南に集めさせた。高隆之が「これを何にお使いになるのですか」と請うた。洋は色をなして「私に自ら事がある。君はなぜ問うのか。族滅されたいのか」と言った。隆之は謝して退いた。こうして円丘を作り法物を備えた。
  • 丙辰、司空潘楽・侍中張亮・黄門郎趙彦深らが入って事を啓すことを求めた。東魏の孝静帝は昭陽殿で会った。亮は「五行は代わる代わる運び、始めがあり終わりがあります。斉王の聖徳は欽明で、万方が仰ぎ帰しております。願わくは陛下、遠く堯舜に法られますよう」と言った。帝は容を斂めて「この事は推し譲る心づもりが久しい。謹んで遜り避けよう」と言い、また「そうならば制書を作らねばならぬ」と言った。中書郎崔劼と裴譲之が「制はすでに作り終えております」と言い、侍中楊愔に進めさせた。
  • 東魏主は署名してから「朕はどこに居るのか」と問うた。愔は「北城に別に館宇があります」と答えた。そこで御座を下りて歩いて東の廊へ向かい、范蔚宗(范曄)の後漢書の賛を詠じた。「献(帝)は時を得ずに生まれ、身は播き国は屯み、われらの四百年を終え、永く虞の賓となる」。
  • 主管者が出発を請うた。帝は「古人は落とした簪や弊れた履をも念った。朕は六宮と別れを告げたい。よいか」と言った。高隆之が「今日、天下はなお陛下の天下です。まして六宮においてをや」と言った。帝は歩み入って妃嬪以下と別れた。宮を挙げてみな哭した。趙国の李嬪が陳思王の詩を誦した。「王よ、玉体を愛しみ、ともに黄髪の期を享けられんことを」。
  • 直長趙道徳が古い犢車一乗で東閤に待った。帝が車に登ると、道徳が飛び乗って抱いた。帝は叱って「朕は自ら天を畏れ人に順ったのだ。何者の奴が、あえて人をこう逼るのか」と言った。道徳はそれでも下りなかった。雲竜門を出ると王公と百僚が拝辞し、高隆之は涙を灑いだ。そのまま北城に入り、司馬子如の南の宅に居した。太尉彭城王元韶らを遣わして璽綬を奉じて斉に禅位した。
  • 戊午、斉王が南郊で即位して大赦し、天保と改元した。魏の敬宗以来、百官の禄は絶えていたが、ここに至って初めてまた給された。
  • 己未、東魏主を中山王に封じ、臣とせぬ礼で待遇した。斉の献武王を献武皇帝と追尊して廟号を太祖とし(のち高祖と改めた)、文襄王を文襄皇帝として廟号を世宗とした。
  • 辛酉、王太后の婁氏を皇太后と尊んだ。乙丑、魏朝の封爵を差をつけて降したが、覇朝に力を宣べた者および西南から投化した者は降す限りに入れなかった。
  • 夏六月、斉主が宗室の高岳ら十人、功臣の庫狄干ら七人をみな王に封じた。癸未、弟の高浚を永安王、高淹を平陽王、高浟を彭城王、高演を常山王、高渙を上党王、高淯を襄城王、高湛を長広王、高湝を任城王、高湜を高陽王、高済を博陵王、高凝を新平王、高潤を馮翊王、高洽を漢陽王に封じた。

二年(551年)

  • 斉主は出入りのたび常に中山王を随わせ、王の妃の太原公主が常にそのために飲食を看護した。
  • 冬十二月、斉主は公主に酒を飲ませ、人に毒を盛らせて中山王を殺し、あわせてその三子を殺した。王に魏の孝静皇帝と諡し、鄴の西、漳水の北に葬った。のち斉主は突然その陵を掘り、梓宮を漳水に投じた。
  • 斉主が初め禅を受けたとき、魏の神主はことごとく七帝寺に寄せられていたが、ここに至ってこれも取って焼いた。
  • 彭城公元韶は高氏の婿として諸々の元氏と異なる寵遇を受けた。開府儀同三司美陽公元暉業は位も望みも隆く重く、また志気が並でなかったので、特に斉主に忌まれた。斉主に従って晉陽にいたとき、暉業が宮門の外で韶を罵った。「お前は老婆一人にも及ばぬ。璽を負って人に与えた。なぜ砕かなかったのか。私はこう言えばすぐ死ぬと分かっている。お前とてどれほど生きられるものか」。斉主は聞いて殺した。臨淮公元孝友とともに汾水の氷を鑿ってその屍を沈めた。孝友は元彧の弟である。
  • 斉主はかつて元韶の鬢と鬚を剃り、白粉と黛を加えて自ら随わせ、「私は彭城を嬪御としている」と言った。その懦弱なこと婦人のようだという意である。