通鑑紀事本末六鎮の乱(六鎭之叛)

北魏の北辺六鎮の兵戸が「府戸」として賤しめられた不満から破六韓抜陵の反乱が起こり、胡琛・莫折念生・鮮于脩礼・杜洛周・葛栄と叛乱が次々に連鎖して華北全域が崩れるまでを記す。李崇が鎮を州に改めよと献じた策は容れられず、崔延伯は敗死、蕭宝寅は帝を称して離反した。最後は爾朱栄が七千騎で葛栄を生け捕り、爾朱天光と賀抜岳が万俟醜奴と蕭宝寅を捕らえて関中を平定する。普通四年から中大通二年までの八年、魏の実権は爾朱氏へ移った。

年表(9件)
  • 梁武帝
  • 普通四年523年沃野鎮の破六韓抜陵が反し、諸鎮の華夷が響き応じる
  • 五年524年臨淮王元彧が五原で敗れ、魏主が李崇を北討大都督とする
  • 五年つづき秦州で莫折大提が反し、その子念生が天子を称して天建と改元する
  • 六年525年崔延伯が莫折天生を破るも万俟醜奴に敗れて戦死し、杜洛周が上谷で反する
  • 七年526年鮮于脩礼が定州で反し、葛栄がこれを併せて斉を号する
  • 大通元年527年蕭宝寅が酈道元を殺して斉帝を自称し、葛栄が信都を落とす
  • 二年528年爾朱栄が七千騎で葛栄を生け捕り、河北五州が平定される
  • 中大通元年529年侯淵が韓楼を捕らえて幽州を平定し、邢杲も斬られる
  • 二年530年爾朱天光と賀抜岳が万俟醜奴と蕭宝寅を捕らえ、関中が平定される

梁武帝普通四年(523年)

  • 夏四月甲申、魏が尚書令李崇を遣わして柔然の阿那瓌を撃たせた。崇の長史である鉅鹿の魏蘭根が崇に説いた。「昔、辺境に諸鎮を置いた当初は、地が広く人が少なかったので、中原の強宗の子弟を徴発し、あるいは国の肺腑たる者を爪牙として寄せました。近年、有司はこれを『府戸』と号し、役は下男と同じ、官との婚も歯列も清流から外されております。しかも本来の同族はそれぞれ栄顕の地位にあり、彼此を見比べれば、道理として憤り怨むはずです。鎮を改めて州を立て、郡と県を分け置き、およそ府戸はみな免じて民とし、仕官の序列は一律に旧に準ずべきです。文武を兼ね用い、威と恩を並び施す。この計が行われれば、国家は北を顧みる憂いがほぼなくなりましょう」。崇はこれを奏聞したが、事は握り潰されて答がなかった。
  • はじめ元乂は胡太后を幽閉してから、常に魏主の居殿の側に入って当直し、諂い媚びるのを尽くしたので、帝はこれで寵信した。乂は禁中を出入りするたび、常に勇士に武器を持たせて前後を固めさせた。時に千秋門の外に出て休むときは木の欄と楯を設け、腹心に守らせて不意の襲撃に備え、士民で拝謁を求める者には遠くから応対するだけだった。
  • 執政の初めには情を偽って自らを飾り、謙虚と勤勉で人に接し、時事の得失をかなり気にかけた。だが志を得るとついに驕り剛愎になり、酒を嗜み色を好み、宝と賄賂を貪り吝しみ、与奪を情のままにして、綱紀は壊れ乱れた。父の京兆王元継はことに貪欲放縦で、その妻子とともにそれぞれ賄賂を受け、有司に頼み込んで、あえて違える者はなかった。ついには郡や県の小吏まで公正に選べず、牧・守・令・長はおおむねみな貪汚の人となった。これで百姓は困窮し、人ごとに乱を思うようになった。
  • 武衛将軍于景は于忠の弟である。乂を廃す謀を巡らせ、乂は懐荒鎮将に降した。柔然が侵入したとき、鎮の民が糧を請うたが景は与えようとしなかった。鎮の民は憤りに堪えず、ついに反して景を捕らえて殺した。
  • まもなく沃野鎮の民の破六韓抜陵が衆を集めて反し、鎮将を殺して真王と改元した。諸鎮の華と夷の民がしばしば響き応じた。抜陵は兵を率いて南侵し、別帥の衛可孤を遣わして武川鎮を囲ませ、また懐朔鎮を攻めさせた。
  • 尖山の賀抜度抜とその三子の允・勝・岳はみな才と勇があった。懐朔鎮将楊鈞は度抜を抜擢して統軍とし、三子を軍主として防がせた。

五年(524年)

  • 春三月、魏は臨淮王元彧を都督北討諸軍事として破六韓抜陵を討たせた。
  • 夏四月、高平鎮の民の赫連恩らが反し、敕勒の酋長胡琛を推して高平王とし、高平鎮を攻めて抜陵に応じた。魏将盧祖遷が撃ち破り、琛は北へ走った。
  • 衛可孤が懐朔鎮を攻めて年を越し、外の援けが来なかった。楊鈞は賀抜勝を臨淮王彧のもとへ遣わして急を告げさせた。勝は決死の少年十余騎を募り、夜に隙をうかがって囲みを破って出た。賊の騎が追いつくと、勝は「われは賀抜破胡だ」と言い、賊は迫る勇気がなかった。
  • 勝は雲中で彧に会って説いた。「懐朔は囲まれて旦夕に陥落します。大王は今、兵を止めて進まれぬ。懐朔が陥ちれば武川も危うい。賊の鋭気は百倍し、良(張良)や平(陳平)がいても大王のために計は立てられなくなりましょう」。彧は出師を約した。勝は帰るとまた囲みを突破して入った。鈞はまた勝を出して武川をうかがわせたが、武川はすでに陥ちていた。勝が馳せ帰ると懐朔もまた潰えており、勝は父子ともに可孤の虜となった。
  • 五月、臨淮王彧が破六韓抜陵と五原で戦って敗れ、彧は罪を得て官爵を削除された。安北将軍である隴西の李叔仁もまた白道で敗れ、賊の勢いは日ごとに盛んになった。
  • 魏主は丞相・令・僕・尚書・侍中・黄門を顕陽殿に引いて問うた。「今、敵は恒州・朔州に連なり金陵に迫っている。どんな計があるか」。吏部尚書元脩義が「重臣を遣わして軍を督し、恒・朔に鎮させて敵を防ぐべきです」と請うた。
  • 帝は言った。「昨年、阿那瓌が叛乱して李崇を北征させたが、崇は上表して鎮を州に改めるよう求めた。朕は旧章を革めがたいとしてその請いに従わなかった。思うに崇のこの表が鎮戸に望みを開き、それが叶わなかったので今日の患いを招いたのだ。ただ過ぎたことは追えぬ。いささか論じてみたまでだ。しかし崇は貴戚で名望が重く、器量も識見も英敏だ。改めて崇を遣わしたいと思うが、どうか」。僕射蕭宝寅らはみな「それこそ衆望に適います」と言った。
  • 崇は「臣は六鎮が遥かに僻遠で敵にごく近いので、彼の心を慰め悦ばせようとしたのです。どうしてあえて乱へ導きましょう。臣の罪は死に当たりますが、陛下がお赦しくださった。今また臣を北へ遣わされるのは、まさに恩に報い過ちを改める秋です。ただ臣は年七十、そのうえ疲れ病んで軍旅に堪えません。改めて賢材をお選びください」と言った。帝は許さなかった。脩義は元天賜の子である。

史論(臣光曰)

  • 李崇の表こそは禍を未萌に消し、勝ちを無形に制するものだった。魏の粛宗はそれを用いられなかったばかりか、乱が生じた日にも愧じ謝る言葉一つなく、かえって崇の罪とした。あの明らかならざる君と、どうして共に謀れようか。詩に「言を聴けば応ずるが、諫言には酔ったよう。良き者を用いず、かえって我を悖らせる」というのは、まさにこのことである。

五年つづき

  • 夏四月壬申、崇に使持節・開府儀同三司・北討大都督を加え、撫軍将軍崔暹と鎮軍将軍広安王元深にみな崇の節度を受けるよう命じた。深は元嘉の子である。
  • 六月、魏では破六韓抜陵の反以来、二夏(夏州・東夏州)・豳州・涼州で盗賊が蜂のように起こった。秦州刺史李彦は政も刑も残虐で、下の者はみな怨んだ。この月、城内の薛珍らが徒党を集めて州の門に突入し、彦を捕らえて殺し、その一党の莫折大提を帥に推した。大提は秦王を自称した。魏は雍州刺史元志を遣わして討たせた。
  • はじめ南奉州の豪族の楊松柏兄弟がたびたび盗賊を働いた。刺史である博陵の崔遊は誘って降らせ、主簿に引き立てて言葉と顔色で厚遇し、群氐を説き伏せさせた。ところが宴会に乗じてことごとく捕らえて斬った。これで管内は猜疑し恐れぬ者がなくなった。遊は李彦の死を聞いて自ら不安になり、逃げようとしたが果たさなかった。城の民の張長命・韓祖香・孫掩らが遊を攻めて殺し、城を挙げて大提に応じた。
  • 大提はその一党の卜胡を遣わして高平を襲って落とし、鎮将赫連略と行台高元栄を殺した。大提はまもなく没し、子の莫折念生が天子を自称し、百官を置いて天建と改元した。
  • 秋七月甲寅、魏は吏部尚書元脩義に尚書僕射を兼ねさせて西道行台とし、諸将を率いて莫折念生を討たせた。
  • 崔暹が李崇の節度に違い、破六韓抜陵と白道で戦って大敗し、単騎で逃げ帰った。抜陵は力を併せて崇を攻め、崇は力戦したが防ぎきれず、雲中に引き返して対峙した。
  • 広陽王深が上言した。 「先朝が平城に都していたときは北辺を重んじ、親と賢を広く選んで麾を擁して鎮を作り、高門の子弟を配して死をもって防ぎ遏めさせました。仕官を廃されぬどころか、かえって特に課役を免ぜられ、当時の人物は羨んでこれを望みました。 太和年間に僕射李冲が事を用い、涼州の土着の人はみな下男の役を免れましたが、帝郷の旧門はなお辺を防いで戍り、当世に罪を得た者でなければ彼らと同列になろうとしなくなりました。本鎮での使役はただ虞候や白直に留まり、一生かかっても軍主を超えられません。しかも同族で京師に留まった者は上品の通官を得られるのに、鎮にいる者は清途から隔てられる。そこで逃げ出す者が多くなり、辺兵の規定を厳しくし、鎮の人が外を浮かれ歩くのを許さなくなりました。こうして少年は師に就けず、年長者は遊学仕官できず、独り人でない者の扱いを受ける。これを言えば涙が流れます。 伊・洛に鼎を定めてからは辺の任がいよいよ軽くなり、ただ滞った凡才だけが出て鎮将となり、互いに真似合ってもっぱら聚斂を事とし、あるいは諸方の姦吏が罪を犯して辺に配され、その指図をする。政は賄賂で立ち、辺の人で歯噛みせぬ者はありません。 阿那瓌が恩に背いて掠奪を恣にしたとき、命に奔って追った十五万の衆が、砂漠を渡って日ならずして還った。辺の人はこの援軍を見て、ついに自ら中国を軽んずるようになったのです。 尚書令の臣崇が鎮を州に改めるよう求めたのは、まさに先覚でした。朝廷が許さぬうちに高闕の戍主が下を御して和を失い、抜陵がこれを殺し、ついに連れ立って乱をなし、城を攻め地を掠め、通るところ夷滅しました。王師はたびたび敗れ、賊党は日ごとに盛んになっております。今回の挙は平定を期待されたのに、崔暹は車輪一つ返らず、臣崇と臣は路をためらい返して、共に雲中に還り次しました。将士の情は解体せぬ者がありません。 今日憂うべきは西北だけではありません。諸鎮もまもなく同じようになるのを恐れます。天下の事はどうして測れましょう」。書は奏されたが省みられなかった。
  • 詔で崔暹を召して廷尉に繋いだ。暹は女妓と田園を元乂に賄賂し、ついに罪に問われずに済んだ。
  • 丁丑、莫折念生が都督楊伯年らを遣わして仇鳩・河沌の二戍を攻めた。東益州刺史魏子建が将軍伊祥らを遣わして撃ち破り、千余級を斬った。
  • 東益州はもと氐王楊紹先の国である。将佐はみな、城の民が勁勇で、二秦の反者はみなその同族だとして、先にその武器を没収するよう請うた。子建は「城の民はたびたび戦陣を経ている。撫すれば用いるに足りる。急に迫れば腹背の患いとなる」と言い、城の民をすべて召して慰め諭し、やがて次第にその父兄子弟を分けて外の諸郡に戍らせた。内と外が互いに顧み合い、ついに叛く者はなかった。子建は魏蘭根の族兄である。
  • 八月、魏の員外散騎侍郎李苗が上書した。 「およそ食が少なく兵が精なら速戦が利、糧が多く卒が衆いなら持久が宜しい。今、隴の賊は猖狂ですが日ごろの蓄えがあるわけでなく、二城に拠っても本来、徳義はありません。その勢いは疾く攻めるにあり、日ごとに降る者があります。遅ければ人情が離れ沮み、座して崩壊を待つことになります。そもそも飈のように至り風のように挙がるのは、逆らう者が万に一つの功を求めるやり方。高い壁と深い塁こそ王師の万全の策です。 ただ天下が長く泰平で、人は兵を知りません。利に走っては互いに待たず、難を逃れては互いに顧みず、将に法令なく、士は訓練されておりません。長久の計を思わず、それぞれ敵を軽んずる心があります。もし隴東が守れず、汧の軍が敗れ散れば、両秦はいよいよ強くなり、三輔は危うく弱まり、国の右腕はここで廃されます。 大将に堅く壁を守って戦わぬよう命じ、別に偏将に命じて精兵数千を率いて麦積崖に出てその背後を襲わせれば、汧と岐の下の群がる妖しき者どもは自ら散りましょう」。 魏は苗を統軍として別将淳于誕とともに梁・益に出し、魏子建の隷下とした。
  • 着かぬうちに莫折念生が弟の高陽王莫折天生に兵を率いて隴を下らせた。甲午、都督元志が隴口で戦って敗れ、衆を棄てて東の岐州に退いて保った。
  • 東西部の敕勒がみな叛いて破六韓抜陵に付いた。魏主は初めて李崇と広陽王深の言を思い出した。丙申、詔を下し、諸州鎮の軍籍の者で罪あって配隷された者でない場合はみな免じて民とし、鎮を改めて州とした。懐朔鎮を朔州とし、旧の朔州を改めて雲州とし、兼黄門侍郎酈道元を大使として六鎮を撫慰させた。当時、六鎮はすでにことごとく叛いており、道元は行けなかった。
  • これに先立ち、代の人で洛に遷った者の多くは選部に抑えられて仕進できなかった。六鎮が叛くと、元乂は代から来た寒門の人を伝詔に用いて慰め悦ばせた。
  • 戊戌、莫折念生が都督竇双を遣わして魏の盤頭郡を攻めた。東益州刺史魏子建が将軍竇念祖を遣わして撃ち破った。
  • 九月、魏の西道行台元脩義が中風で軍を治められなくなった。壬申、魏は尚書左僕射斉王蕭宝寅を西道行台大都督として諸将を率いて莫折念生を討たせた。
  • 冬十月、胡琛がその将の宿勤明達を遣わして幽・夏・北華の三州を侵した。壬午、魏は都督北海王元顥を遣わして諸将を率いて討たせた。顥は元詳の子である。
  • 魏の広陽王深が上言した。「今、六鎮はことごとく叛き、高車の二部もこれに同じております。この疲れた兵で撃っても勝てる道理がありません。精兵を選び練って恒州の要地を守り、改めて後を図るにしくはありません」。そこで李崇と兵を率いて平城に還った。
  • 崇が諸将に「雲中は白道の要衝、賊の咽喉だ。この地が全うされねば并州・肆州が危うい。一人を留めて鎮させるべきだが、誰がよいか」と問うた。衆は費穆を挙げ、崇はそこで穆を朔州刺史とするよう請うた。
  • 賀抜度抜父子および武川の宇文肱が郷里の豪傑を糾合して衛可孤を襲って殺した。度抜はまもなく鉄勒と戦って死んだ。
  • 莫折天生が進んで魏の岐州を攻めた。十一月戊申、これを陥れ、都督元志と刺史裴芬之を捕らえて莫折念生に送り、殺された。念生はまた卜胡らに涇州を侵させ、光禄大夫薛巒を平涼の東で破った。巒は薛安都の孫である。
  • 高平の人が卜胡を攻め殺し、そろって胡琛を迎えた。
  • 十二月壬辰、魏は京兆王元継を太師・大将軍・都督西道諸軍として莫折念生を討たせた。
  • 魏の魏子建が南秦の諸氐を招き諭し、次第に降り附いて、ついに六郡十二戍を回復し、賊帥韓祖香を斬った。魏は子建に尚書を兼ねさせて行台とし、刺史は元のままとした。梁・巴・二益・二秦の諸州がみなその節度を受けた。
  • 莫折念生が兵を送って涼州を攻め、城の民の趙天安がまた刺史を捕らえて応じた。

六年(525年)

  • 春正月、莫折天生が黒水に陣し、兵の勢いは甚だ盛んだった。魏は岐州刺史崔延伯を征西将軍・西道都督として五万の衆を率いて討たせた。延伯は行台蕭宝寅と馬嵬に陣した。延伯は日ごろ驍勇で、宝寅が促して戦わせようとした。延伯は「明朝、公のために賊の勇怯を見てまいろう」と言い、精兵数千を選んで西へ黒水を渡り、陣を整えて天生の営に向かった。宝寅は水の東に陣して遠く後援とした。
  • 延伯は天生の営の下までまっすぐ至り、威を示して脅し、おもむろに兵を引いて還った。天生は延伯の衆が少ないのを見て営を開いて争って追った。その衆は延伯の倍あり、延伯を水際に押し詰めた。宝寅は望み見て色を失った。延伯は自ら殿軍となって戦わず、衆を先に渡らせた。部伍は厳しく整い、天生の兵は撃つ勇気がなかった。ほどなく渡り終え、延伯もゆっくり渡った。天生の衆もまた引き返した。宝寅は喜んで「崔君の勇は関羽・張飛も及ばぬ」と言った。延伯は「この賊は老いぼれの敵ではない。明公はただ安坐して老いぼれが破るのを御覧じよ」と言った。
  • 癸亥、延伯が兵を整えて出、宝寅が軍を率いてその後に続いた。天生は全兵力で迎え戦った。延伯は士卒に先んじてその前鋒を陥れ、将士は精鋭を尽くして競い進み、大破した。俘斬は十余万、小隴まで追撃した。岐州・雍州および隴東はみな平定された。ところが将士が留まって掠奪したので、天生は隴の道を塞ぎ、これで諸軍は進めなくなった。
  • 宝寅は宛川を破ってその民を捕らえて奴婢とし、美女十人を岐州刺史魏蘭根に賞として与えた。蘭根は辞退して「この県は強敵に挟まれて自立できず、ゆえに従って死を免れようとしたのです。官軍が至った以上、憐れんで撫すべきです。どうして賊を助けて虐を行い、剪って賤役とするのですか」と言い、みなその父兄を探して帰した。
  • 二月壬辰、莫折念生が都督楊鮓らを遣わして仇池郡を攻めた。行台魏子建が撃ち破った。
  • 夏四月、胡琛が高平に拠り、大将の万俟醜奴・宿勤明達らを遣わして魏の涇州を侵した。将軍盧祖遷と伊甕生が討ったが落とせなかった。
  • 蕭宝寅と崔延伯は莫折天生を破ってから、兵を率いて安定で祖遷らと合流した。甲卒十二万、鉄馬八千、軍威は甚だ盛んだった。醜奴は安定の西北七里に陣し、時に軽騎で挑戦したが、大兵が交わらぬうちにその都度捨てて逃げた。
  • 延伯はその勇を恃み、また新たに功があったので、率先して先駆となって撃つ議を唱えた。別に大きな盾を作り、内に鎖の柱を設け、壮士に負わせて走らせた。これを「排城」と呼び、輜重を中に置き、戦士は外に置いた。
  • 安定から北へ原に沿って北上した。戦おうとしたとき、賊の数百騎が文書を持って「これは降伏者の名簿だ」と偽り、しばらく軍を緩めるよう乞うた。宝寅と延伯がまだ検分せぬうちに、宿勤明達が兵を率いて東北から至り、降ったはずの賊も西から競い下って背後を覆して撃った。延伯は馬に乗って奮撃し、敗走する敵を追ってまっすぐその営に至った。賊はみな軽騎だが延伯の軍は歩卒が混じっており、長く戦って疲れた。賊は隙に乗じて排城の中に入り込み、延伯はついに大敗して死傷は二万近くに及んだ。宝寅は衆を収めて安定に退いて保った。
  • 延伯は自らその敗北を恥じ、甲兵を繕い驍勇を募り、改めて安定から西進して賊から七里の所に営を結んだ。壬辰、宝寅に告げず独り出て賊を襲って大破し、たちまちその数柵を平らげた。ところが賊は軍士が採り掠めて散り乱れているのを見て引き返して撃ち、魏兵は大敗した。延伯は流れ矢に当たって没し、士卒の死者は一万余人に及んだ。
  • 当時、大きな敵がまだ平らがぬうえに驍将を失い、朝野はこれを憂え恐れた。こうして賊の勢いはいよいよ盛んになった。ところが群臣で外から来る者は、太后が問うとみな「賊は弱い」と言って喜ばせ媚びようとした。これで将帥が兵の増派を求めても、しばしば与えられなくなった。
  • 夏六月、破六韓抜陵が魏の広陽王深を五原で囲んだ。軍主賀抜勝が二百人を募って東門を開いて出て戦い、百余級を斬り、賊はやや退いた。深は軍を抜いて朔州へ向かい、勝は常に殿軍を務めた。
  • 雲州刺史費穆は離散した者を招き撫し、四面の敵を防いだ。当時、北境の州鎮はみな陥落し、ただ雲中一城だけが残っていた。久しくして道路は塞がり援軍は来ず、糧も武器も尽きた。穆は城を棄てて南の秀容の爾朱栄のもとへ逃げ、やがて闕に赴いて罪を請うた。詔でこれを赦した。
  • 長流参軍于謹が広陽王深に言った。「今、敵は蜂のように起こっており、たやすく武力だけで勝てるものではありません。謹は大王の威命を奉じ、禍福を諭してまいりたく存じます。うまくすれば少しは離間できましょう」。深は許した。謹は諸国の言葉に通じており、単騎で叛いた胡の営に赴いて酋長に会い、恩と信を示した。こうして西部の鉄勒の酋長乜列河らが三万余戸を率いて南して深のもとへ降った。
  • 深は兵を率いて折敷嶺に至って迎えようとした。謹は「破六韓抜陵の兵の勢いは甚だ盛んです。乜列河らが降ると聞けば必ず兵を率いて遮ります。先に険要を押さえられれば容易には敵せません。乜列河を餌として伏兵で待つにしくはありません。必ず破れます」と言い、深は従った。抜陵は果たして兵を率いて乜列河を遮って撃ち、その衆をすべて捕虜とした。そこへ伏兵が発し、抜陵は大敗した。乜列河の衆をも取り戻して還った。
  • 柔然の頭兵可汗が破六韓抜陵を大破し、その将の孔雀らを斬った。抜陵は柔然を避けて南へ移り、黄河を渡った。将軍李叔仁が抜陵が次第に迫るとして広陵王深に援けを求め、深は衆を率いて赴いた。賊で前後に降り附いた者は二十万人に及んだ。
  • 深は行台元纂とともに、恒州の北に別に郡県を立てて降戸を安置し、適宜に賑わし与えてその乱心を止めるよう上表した。魏朝は従わず、詔で黄門侍郎楊置に彼らを分けて冀・定・瀛の三州に置いて食を得させた。深は纂に「この輩はまた乞活(流民集団)となるだろう」と言った。
  • 秋八月、魏の柔玄鎮の民の杜洛周が上谷で衆を集めて反し、真王と改元して郡県を攻め落とした。高歓・蔡雋・尉景および段栄、安定の彭楽がみなこれに従った。洛周が魏の燕州刺史である博陵の崔秉を囲んだ。
  • 九月丙辰、魏は幽州刺史常景に尚書を兼ねさせて行台とし、幽州都督元譚とともに討たせた。景は常爽の孫である。盧竜塞から軍都関まですべて兵を置いて険を守り、譚は居庸関に屯した。
  • はじめ敕勒の酋長斛律金は懐朔鎮将楊鈞に仕えて軍主となった。兵を用いるのに匈奴の法を用い、塵を望んで馬と歩兵の多寡を知り、地を嗅いで軍の遠近を知った。破六韓抜陵が反すると、金は衆を擁して帰し、抜陵は金を王に任じた。やがて抜陵がついに成すところがないと知り、雲州に赴いて降った。そのまま次第にその衆を率いて南へ黄爪堆に出たが、杜洛周に破られ、身一つで爾朱栄に帰した。栄は別将とした。

七年(526年)

  • 春正月、魏の安州の石離・穴城・斛塩の三戍の兵が反して杜洛周に応じ、衆は合わせて二万となった。洛周は松岍からこれに赴いた。行台常景は別将崔仲哲に軍都関に屯して迎え撃たせた。仲哲は戦死し、元譚の軍は夜に潰えた。魏は別将李琚を譚に代えて都督とした。仲哲は崔秉の子である。
  • 五原の降戸の鮮于脩礼らが北鎮の流民を率いて定州の左城で反し、魯興と改元した。
  • 夏四月、杜洛周が南へ出て薊城を掠めた。魏の常景が統軍梁仲礼を遣わして撃ち破った。
  • 丁未、都督李琚が洛周と薊城の北で戦って敗死した。常景が衆を率いて防ぎ、洛周は上谷に引き返した。
  • 六月、杜洛周が都督の王曹紇真らを遣わして兵を率いて薊の南を掠めさせた。秋七月丙午、行台常景が都督于栄らを遣わして栗園で撃ち、大破して曹紇真および将卒三千余級を斬った。洛周は衆を率いて南の范陽へ向かい、景と栄らがまた破った。
  • 八月癸巳、賊帥元洪業が鮮于脩礼を斬って魏に降を請うた。賊党の葛栄がまた洪業を殺して自立した。
  • 九月、葛栄は杜洛周の衆を得ると北の瀛州へ向かい、天子を自称し、国号を斉、広安と改元した。
  • 甲申、魏の行台常景が杜洛周を破り、その武川王賀抜文興らを斬り、四百人を捕虜とした。
  • 天水の民の呂伯度はもと莫折念生の党だったが、のちに顕親に拠って念生に抗した。やがて勝てずに逃げて胡琛に帰した。琛は大都督・秦王として士馬を与え、念生を撃たせた。伯度はたびたび念生の軍を破って顕親に拠り直したが、そこで琛に叛いて東の魏軍を引き入れた。念生は窮迫して蕭宝寅に降を乞い、宝寅は行台左丞崔士和を復して秦州に拠らせた。魏は伯度を涇州刺史・平秦郡公とした。
  • 大都督元脩義が隴口に軍を止めて長く進まなかったので、念生はまた反して士和を捕らえて胡琛に送り、道中で殺された。久しくして伯度は万俟醜奴に殺され、賊の勢いはいよいよ盛んになった。宝寅は制せられなかった。
  • 胡琛は莫折念生と通じ、破六韓抜陵に仕えるのが次第に慢りになった。抜陵はその臣の費律を高平に遣わし、琛を誘って斬った。醜奴がその衆をことごとく併せた。
  • 冬十一月、杜洛周が范陽を囲んだ。戊戌、民が魏の幽州刺史王延年と行台常景を捕らえて洛周に送り、門を開いて迎え入れた。

大通元年(527年)

  • 春正月、魏が定州・相州の二州の四郡を分けて殷州を置き、北道行台である博陵の崔楷を刺史とした。楷は「州は今、新設で、尺の刃も斗の糧もありません。兵と糧をお与えください」と上表した。詔で外に付して量らせたが、ついに何も与えられなかった。
  • ある者が楷に家族を留めて単騎で赴任するよう勧めた。楷は「私は聞く、人の禄を食む者は人の憂いを憂うと。もし私が独りで往けば、将士の誰が志を尽くそうか」と言い、そのまま一家を挙げて赴任した。
  • 葛栄が州城に迫った。ある者が幼弱な者を減らして避けさせるよう勧め、楷は幼子と娘一人を夜に出したが、やがて悔いて「人は私の心が固くなく、忠を欠いて愛を全うしたと言うだろう」と言い、追い戻すよう命じた。
  • 賊が至った。強弱は懸絶し、守禦の備えもなかったが、楷は将士を撫し励まして防いだ。争って奮わぬ者はなく、みな「崔公すら一族百人を惜しまれぬ。我らがどうして一身を愛しもうか」と言った。連戦して息まず、死者が枕を並べたが、ついに叛く志はなかった。辛未、城が陥ち、楷は節を執って屈せず、栄は殺した。そのまま冀州を囲んだ。
  • 魏の蕭宝寅は出兵して年を重ね、将士は疲弊した。秦の賊が撃ち、宝寅は涇州で大敗した。散った兵一万余を収めて逍遥園に屯した。東秦州刺史潘義淵が汧城を挙げて賊に降った。
  • 莫折念生が進んで岐州に迫ると、城の人が刺史魏蘭根を捕らえて応じた。豳州刺史畢祖暉は戦死し、行台羊深は城を棄てて逃げ、北海王顥の軍も敗れた。賊帥胡引祖が北華州に拠り、叱千麒麟が幽州に拠って天生に応じた。関中は大いに騒いだ。
  • 雍州刺史楊椿が兵を募って七千余人を得、率いて防ぎ守った。詔で椿に侍中を加え尚書右僕射を兼ねさせて行台とし、関西の諸将を節度させた。
  • 北地功曹毛鴻賓が賊を引き入れて渭北を掠めさせた。雍州録事参軍楊侃が三千の兵で不意を襲い、鴻賓は恐れて賊を討って身を尽くしたいと請い、そのまま宿勤烏過仁を捕らえて送った。烏過仁とは明達の兄の子である。
  • 莫折天生が勝ちに乗じて雍州を侵した。蕭宝寅の部将羊侃が塹に身を隠して射、弦の音に応じて斃した。その衆はついに潰えた。侃は羊祉の子である。
  • 魏の右民郎である陽平の路思令が上疏した。 「師を出して功があるのは将帥にあります。その人を得れば六合は唾を掌に吐くように清められ、その人を失えば三河もまさに戦地となります。ひそかに思うに、近年の将帥の多くは貴顕の子孫で、杯を銜え馬を躍らせ、志は逸り気は浮つき、眉を上げ腕をまくって攻戦を自ら任じます。だが大敵に臨むや憂えと怖れが胸に交わり、雄図と鋭気は一朝にして尽きる。そこで痩せ弱い者を前に置いて敵に当たらせ、頑強な者を後ろに置いて身を衛らせる。そのうえ器械は精良でなく進退に節度がない。それで険に拠る衆に当たり、数戦を経た敵に敵し、敗れぬことを望んでも、どうして叶いましょう。 ゆえに兵は必ず敗れると知って、集まったばかりでまず逃げ、将帥は敵を畏れて遷延して進まない。国家は官爵がまだ十分でないのかとしきりに寵命を加え、また賞賜が軽いのかと日々金帛を散じる。府庫は空になり民の財は尽き果て、ついに賊徒はいよいよ甚だしく、生民は疲弊した。すべてこのためです。 そもそも徳は義夫を感じさせ、恩は死士を励まします。今もし幽と明を退け昇らせ、善と悪を賞し罰し、士卒を選び練り、器械を修繕し、まず弁士を遣わして禍福を諭し、それでも改めぬなら順をもって逆を討つ。そうすれば蕭斧を励まして朝菌を伐ち、洪炉を鼓して毛髪を焼くのと何の違いがありましょうか」。聴かれなかった。
  • 二月、秦の賊が魏の潼関に拠った。
  • 三月甲子、魏主が詔して西討しようとし、中外を戒厳した。折しも賊が西へ走ったと奏せられ、潼関を取り戻した。戊辰、詔で北討に転じることとしたが、実際はいずれも行われなかった。
  • 葛栄が久しく信都を囲み、魏は金紫光禄大夫源子邕を北討大都督として救わせた。
  • 魏の蕭宝寅が敗れたとき、有司は死刑に処すとしたが、詔で免じて庶人とした。雍州刺史楊椿が病んで解任を求めたので、あらためて宝寅を都督雍涇等四州諸軍事・征西将軍・雍州刺史・開府儀同三司・西討大都督とし、関以西をみなその節度を受けさせた。
  • 椿は郷里に還ることになった。その子の楊昱が洛陽に赴こうとしたとき、椿は言った。「当今、雍州刺史も宝寅に勝る者はない。ただその上佐には朝廷が心腹の重臣を遣わすべきで、どうして本人の推挙に任せられよう。これこそ聖朝の百慮の一失だ。それに宝寅は刺史を栄とする身分ではない。私が見るに、州を得た喜びようが特に甚だしい。賞罰や振る舞いも常の憲に依らぬ。異心があるのを恐れる。お前は今、京師に赴くのだから、私のこの意を二聖に啓し、あわせて宰輔に申し上げ、改めて長史・司馬・防城都督を遣わさせよ。関中を安んじたいなら、まさにこの三人が要る。遣わさねば必ず深い憂いとなる」。昱は面と向かって魏主と太后に啓したが、みな聴かなかった。
  • 秋七月、魏の相州刺史楽安王元鑑が北道都督裴衍とともに信都を救ったが、鑑は魏に事変が多いのを幸いとしてひそかに異志を抱き、ついに鄴に拠って叛き葛栄に降った。
  • 八月、魏は都督源子邕・李神軌・裴衍を遣わして鄴を攻めさせた。子邕が湯陰まで来たとき、楽安王鑑が弟の元斌之を遣わして夜に子邕の営を襲わせたが落とせなかった。子邕は勝ちに乗じて進んで鄴城を囲み、丁未、落として鑑を斬り、首を洛陽に伝え、姓を拓跋氏に改めた。魏はそのまま子邕と裴衍を遣わして葛栄を討たせた。
  • 九月、秦州の城の民の杜粲が莫折念生を殺し、一門をみな殺した。粲は自ら州の事を行い、南秦州の城の民の辛琛もまた自ら州の事を行い、使者を蕭宝寅に遣わして降を請うた。魏はあらためて宝寅を尚書令としてその旧封を還した。
  • 蕭宝寅が涇州で敗れたとき、ある者は洛陽に帰って罪に服すよう勧め、ある者は関中に留まって功を立てて身を尽くすほうがよいと言った。行台都令史である河間の馮景は「兵を擁して還らねば、この罪はいよいよ大きくなります」と言ったが、宝寅は従わなかった。
  • 宝寅は自ら、出師して年を重ね、費えは計り知れず、一朝にして覆敗したことを思い、内心安んじなかった。魏朝もまた疑った。
  • 中尉酈道元は日ごろ厳猛で名があった。司州牧汝南王元悦の寵臣の丘念が権を弄び恣まに振る舞っていた。道元は念を捕らえて獄に付した。悦が胡太后に請い、太后が敕で赦したが、道元は殺し、あわせて悦を弾劾した。当時、宝寅の反状はすでに露わになっており、悦はそこで道元を関右大使とするよう奏した。
  • 宝寅はこれを聞いて自分を取るためだと思い、甚だ恐れた。長安の軽薄な子弟がまた挙兵を勧めた。宝寅は河東の柳楷に問うた。楷は「大王は斉の明帝の子、天下の心が属するところ。今日の挙はまことに人望に適います。それに謡に『鸞が十子を生み、九子は孵らず、一子は孵る。関中乱れ、乱るるは治まるなり』とあります。大王こそ関中を治めるべきです。何をお疑いか」と言った。
  • 道元が陰盤の駅に至ると、宝寅は将の郭子恢を遣わして攻め殺し、その屍を収めて殯し、「白賊に害された」と上表した。また上表して自ら弁じ、楊椿父子に讒言されたのだと称した。
  • 宝寅の行台郎中である武功の蘇湛は病で家に臥していた。宝寅は湛の従母の弟である開府属の天水の姜倹に湛を説かせた。「元略が蕭衍の旨を受けて私を勦滅しようとしている。道元の来訪も事は測りがたい。私は坐して死亡を受けるわけにいかぬ。今、身の計を立てねばならぬ。もう魏の臣ではない。死生も栄辱も卿と共にしよう」。
  • 湛は聞いて声を挙げて大哭した。倹が急いで止めて「どうしてそこまで」と言うと、湛は「わが一族百人が今、屠り滅ぼされるのだ。どうして哭かずにおれよう」と言い、数十声哭してから、おもむろに倹に言った。 「私のために斉王に申し上げよ。王はもと窮鳥として人に身を投じ、朝廷の助けで羽翼を仮り、栄寵はここまで至った。国歩に憂いが多いのに忠を竭くして徳に報いようとせず、かえって人の隙に乗じ、道行く無識の者の言に惑わされ、疲れ敗れた兵で関を守り鼎の軽重を問おうとしている。今、魏の徳は衰えたとはいえ天命はまだ改まっておらず、しかも王の恩義は民に洽っておりません。その敗れるのが見えるだけで、成るのは見えません。蘇湛は一族百人を王のために族滅させるわけにいきません」。
  • 宝寅はまた人を遣わして「私は死を免れるためにこうせざるを得ぬのだ。先に相談しなかったのは、わが計を沮まれるのを恐れたからだ」と言わせた。湛は「およそ大事を謀るには天下の奇才を得て共に事に従うべきです。今、ただ長安の博打打ちと謀っている。これで成る道理がありましょうか。湛は必ず斎閣に荊棘が生えるのを恐れます。どうか骸骨を賜って郷里に還らせ、病死して地下で先人にまみえさせてください」と言った。宝寅は日ごろ湛を重んじ、また自分のために働かぬと知って、武功に還るのを許した。
  • 冬十月甲寅、宝寅が斉帝を自称し、隆緒と改元して管内を赦し、百官を置いた。都督長史毛遐は毛鴻賓の兄である。鴻賓とともに氐羌を率いて馬祇柵で兵を挙げ、宝寅を防いだ。宝寅は大将軍盧祖遷を遣わして撃たせたが、遐に殺された。
  • 宝寅はちょうど南郊を祀って即位の礼を行っていたが、終わらぬうちに敗報を聞いて顔色を変え、部伍を整える暇もなく狼狽して帰った。姜倹を尚書左丞として心腹を委ねた。文安の周恵達は宝寅の使者として洛陽におり、有司が捕らえようとしたが、恵達は逃げて長安に帰り、宝寅は光禄勲とした。
  • 丹陽王蕭賛は宝寅の反を聞いて恐れて逃げ出し、白鹿山へ向かい、河橋で人に捕らえられた。魏主は謀に与っていないと知り、釈放して慰めた。
  • 行台郎封偉伯らが関中の豪傑と兵を挙げて宝寅を誅する謀を巡らせたが、事が漏れて死んだ。
  • 魏は尚書僕射長孫稚を行台として宝寅を討たせた。正平の民の薛鳳賢およびその宗人の薛脩義もまた河東で衆を集め、塩池を分け拠り、蒲阪を攻め囲み、東西で連結して宝寅に応じた。詔で都督宗正珍孫に討たせた。
  • 十一月、葛栄が魏の信都を囲んだ。春から冬に至るまで、冀州刺史元孚は将士を率い励まして昼夜守った。糧の蓄えは尽き、外に救援はなかった。己丑、城が陥ち、栄は孚を捕らえ、居民を追い出した。凍死する者が十のうち六、七に及んだ。
  • 孚の兄の元祐は防城都督だった。栄は将士を大いに集めてその生死を議した。孚兄弟はそれぞれ自ら咎を引き、争って身代わりに死のうとした。都督潘紹ら数百人がみな叩頭して「使君を活かすため、我らが法に就きたい」と請うた。栄は「これはみな魏の忠臣義士だ」と言い、そこで同じく囚われていた五百人がみな免れた。
  • 魏は源子邕を冀州刺史として兵を率いて栄を討たせた。裴衍が上表して同行を請い、詔で許された。子邕が上言した。「衍が行くなら臣は留まりたく、臣が行くなら衍を留めていただきたい。もし強いて同行させられれば、敗北は旦夕にあります」。許されなかった。十二月戊申、陽平の東北の漳水の曲がりまで来たとき、栄が十万の衆を率いて撃ち、子邕と衍はともに敗死した。
  • 相州の吏民は冀州がすでに陥ち、子邕らも敗れたと聞き、人は身を保てなくなった。相州刺史である恒農の李神は志気自若として将士を撫し励まし、大小の者が力を致した。葛栄は精鋭を尽くして攻めたが、ついに落とせなかった。

二年(528年)

  • 春正月、魏の北道行台楊津が定州城を守った。城は鮮于脩礼と杜洛周の間に位置し、代わる代わる攻め囲まれた。津は薪と糧を蓄え器械を修め、機に応じて防ぎ撃ち、賊は落とせなかった。
  • 津はひそかに人を遣わして鉄券で賊の党を説いた。賊の党で津に応ずる者があり、津に書を送って「賊が城を囲むのは、まさに北の人を取るためです。城中の北人はみな殺すべきです。さもなくば必ず患いとなります」と言った。津は北人をことごとく収めて子城の中に入れたが殺さなかった。衆はその仁に感じぬ者がなかった。
  • 葛栄が脩礼に代わって衆を統べると、人を遣わして津を説き、司徒にすると約した。津はその使者を斬って固守した。
  • 三年、杜洛周が囲んだ。魏は救えず、津は子の楊遁を遣わして囲みを破って出させ、柔然の頭兵可汗に救援を求めさせた。遁は日夜泣いて請い、頭兵はその従祖の吐豆発を遣わして精騎一万で南へ出したが、前鋒が広昌に至ったところで賊が隘口を塞ぎ、柔然はそのまま還った。
  • 己丑、津の長史李裔が賊を引き入れて津を捕らえた。烹殺しようとしたが、やがて赦した。瀛州刺史元寧が城を挙げて洛周に降った。
  • 蕭宝寅が馮翊を囲んでまだ落とせずにいた。長孫稚の軍が恒農に至った。行台左丞楊侃が稚に言った。 「昔、魏武が韓遂・馬超と潼関に拠って対峙しました。遂や超の才は魏武の敵ではありませんが、勝負が長く決しなかったのは、彼らが険要を扼していたからです。今、賊の守禦はすでに固く、魏武が生き返ってもその智勇を施しようがありません。北へ蒲阪を取り、黄河を渡って西へ入りその腹心に迫り、兵を死地に置くにしくはありません。そうすれば華州の囲みは戦わずして自ずと解け、潼関の守りも必ず内を顧みて逃げます。手足の節がほどければ、長安は坐して取れます。愚計をお用いくださるなら、明公の前駆となりたく存じます」。
  • 稚は「子の計はよい。しかし今、薛脩義が河東を囲み、薛鳳賢が安邑に拠り、宗正珍孫が虞坂を守って進めずにいる。どうして往けようか」と言った。
  • 侃は言った。「珍孫は行陣の一兵卒で、縁故で将になった者。人に使われることはできても、どうして人を使えましょう。河東の治所は蒲阪にあり、西は河のほとりに逼っております。封疆の多くは郡の東にあります。脩義は士民を駆り率いて西の郡城を囲んでおりますが、その父母妻子はみな旧の村に留めてあります。ひとたび官軍が至ったと聞けば、みな内を顧みる心を抱き、必ず風を望んで自ら潰えましょう」。
  • 稚はそこで子の長孫彦と侃に騎兵を率いさせ、恒農から北へ渡って右錐壁に拠らせた。侃は「今はここに留まって歩兵を待つ」と言い触らし、あわせて民情の向背を観、降伏の名を送ってきた者にはそれぞれ村に帰らせ、「台軍が三つの烽を挙げたら、そちらも烽を挙げて応じよ。応ぜぬ者は賊党とみなして進撃して屠り、獲たものを軍の賞とする」と命じた。
  • こうして村民は互いに告げ合い、実際にはまだ降っていない者まで偽って烽を挙げた。一晩のうちに火の光が数百里に行き渡った。城を囲んでいた賊はその理由が測れず、それぞれ散り帰った。脩義もまた逃げ帰り、鳳賢とともに降を請うた。丙子、稚は潼関を落とし、そのまま河東に入った。
  • 蕭宝寅は将の侯終徳を遣わして毛遐を撃たせた。折しも郭子恢らがたびたび魏軍に敗れており、終徳はその勢いの挫けたのに乗じ、軍を返して宝寅を襲った。白門に至ってようやく宝寅は気づいた。丁丑、終徳と戦って敗れ、妻の南陽公主と末子を連れ、麾下百余騎を率いて後門から出て万俟醜奴のもとへ逃げた。醜奴は宝寅を太傅とした。
  • 二月、葛栄が杜洛周を撃って殺し、その衆を併せた。
  • 三月癸未、葛栄が魏の滄州を陥れ、刺史薛慶之を捕らえた。居民の死者は十のうち八、九に及んだ。
  • 夏六月、葛栄の軍が食に乏しくなり、僕射任褒に兵を率いて南を掠めさせ、沁水に至った。魏は元天穆を大都督東北道諸軍事として宗正珍孫らを率いて討たせた。
  • 前幽州平北府主簿である河間の邢杲が河北の流民十万余戸を率いて青州の北海で反し、漢王を自称して天統と改元した。戊申、魏は征東将軍李叔仁を車騎大将軍・儀同三司として衆を率いて討たせた。
  • 辛亥、魏主が詔した。「朕は自ら六戎を御して燕・代を掃き静める。大将軍爾朱栄を左軍、上党王天穆を前軍、司徒楊椿を右軍、司空穆紹を後軍とする」。葛栄は退いて相州の北に屯した。
  • 秋七月、万俟醜奴が天子を自称して百官を置いた。折しも波斯国が獅子を魏に献じ、醜奴はこれを留め、神獣と改元した。
  • 八月、葛栄が兵を率いて鄴を囲んだ。衆は百万と号し、遊軍はすでに汲郡を過ぎ、行く先々で残虐に掠めた。爾朱栄が上啓して討伐を求めた。
  • 九月、爾朱栄は従子の肆州刺史爾朱天光を召して晉陽の鎮に留め、「私の身が至れぬ所は、お前でなければわが心に称う者がない」と言った。自ら精騎七千を率い、馬にはみな替え馬を付け、道を倍して兼行し、東へ滏口に出、侯景を前駆とした。
  • 葛栄は盗をなして日が久しく、河北を横行していた。爾朱栄の衆寡は敵ではなく、議者は勝てる道理がないと言った。葛栄はこれを聞いて喜色を浮かべ、その衆に「これは与しやすい。諸人はみな長い縄を用意せよ。至ったら縛って取れ」と令した。鄴から北へ数十里にわたって陣を並べ、箕のように張って進んだ。
  • 爾朱栄はひそかに軍を山谷に伏せて奇兵とし、督将以上を三人ずつ一組に分け、それぞれの所に数百騎を置き、至るところで塵を揚げ鼓を鳴らして、賊に多寡を測らせなかった。また人と馬が接して戦うときは刀より棒が優ると考え、軍士に袖に入る棒を一本ずつ携えて馬の側に置かせ、戦のときに追撃を妨げるのを慮って、首級を斬らず棒で打つだけにするよう命じた。
  • 壮勇を分けて命じ、向かうところ衝き突かせた。号令は厳明で戦士は同じく奮った。爾朱栄は自ら陣に突入して賊の背後に出、表裏から挟撃して大破し、陣中で葛栄を生け捕った。残る衆はことごとく降った。
  • 賊徒が多いので、すぐに分割すれば疑い恐れて改めて結集するかもしれぬと考え、令を下してそれぞれ好むところに従い、親族相随って住みたい所に住まわせた。こうして群情は大いに喜び、たちまち四散した。百里の外に出るのを待ってから、初めて道を分けて押領し、便に随って安置したので、みなその宜しきを得た。その頭領を抜擢し、才を量って任を授けたので、新たに附いた者もみな安んじた。当時の人はその処置の機敏迅速なのに服した。檻車で葛栄を洛に送り、冀・定・滄・瀛・殷の五州はみな平定された。
  • 当時、上党王天穆は朝歌の南に陣し、穆紹と楊椿はまだ出発していなかったが、葛栄がすでに滅んだので、みな兵を罷めた。
  • 乙亥、魏が大赦して永安と改元した。
  • 辛巳、爾朱栄を大丞相・都督河北畿外諸軍事とし、楊椿を太保、城陽王元徽を司徒とした。
  • 冬十月丁亥、葛栄が洛に至った。魏主が閶闔門に御して引見し、都の市で斬った。
  • 十二月、葛栄の余党の韓楼がまた幽州に拠って反し、北辺はその患いを蒙った。爾朱栄は撫軍将軍賀抜勝を大都督として中山に鎮させた。楼は勝の威名を畏れ、南へ出る勇気がなかった。

中大通元年(529年)

  • 三月壬戌、魏は詔で上党王天穆に邢杲を討たせた。
  • 夏四月辛丑、済南で邢杲を破り、杲は降ったが、洛陽に送って斬った。
  • 秋九月、爾朱栄が大都督である尖山の侯淵に薊で韓楼を討たせた。配した卒は甚だ少なく、騎はわずか七百だった。ある者がこれを言うと、栄は「侯淵は機に臨んで変を設けるのが長所だ。大衆を総べさせても必ずしも用いきれぬ。今、この衆でこの賊を撃たせれば、必ず取れる」と言った。
  • 淵はそこで広く軍の声を張り、供応の具を多く設け、自ら数百騎を率いて楼の境に深く入った。薊から百余里の所で賊帥陳周の馬歩一万余に出会った。淵はひそかに伏せてその背に乗じ、大破して卒五千余人を捕虜とした。まもなくその馬と武具を返し、放って城に入らせた。左右が諫めて「賊の衆を獲ながら、なぜまた資を与えて遣わすのですか」と言った。淵は「わが兵は少なく、力で戦えぬ。奇計で離間してこそ克てるのだ」と言った。
  • 淵は彼らが着いた頃を見計らって騎を率いて夜に進み、夜明けにその城門を叩いた。韓楼は果たして降卒が淵の内応だと疑い、そのまま逃げた。追って捕らえ、幽州は平定された。淵を平州刺史として范陽に鎮させた。
  • これに先立ち、魏は征東将軍劉霊助に尚書左僕射を兼ねさせ、幽州の流民を濮陽と頓丘で慰労させていた。そのまま流民を率いて北へ帰り、侯淵とともに韓楼を滅ぼした。そこで霊助に幽州の事を行わせ、車騎将軍を加え、また幽・平・営・安四州の行台とした。
  • 万俟醜奴が魏の東秦州を攻めて落とし、刺史高子朗を殺した。

二年(530年)

  • 春正月、万俟醜奴が関中を侵擾した。魏の爾朱栄は武衛将軍賀抜岳を遣わして討たせた。岳はひそかに兄の勝に言った。「醜奴は強敵だ。今、攻めて勝てねばもとより罪、勝てば讒言と嫉みが生じる」。勝が「ではどうする」と言うと、岳は「爾朱氏の一人を帥として自分がそれを佐けたい」と言った。勝が栄に言うと、栄は喜んで、爾朱天光を使持節・都督二雍二岐諸軍事・驃騎大将軍・雍州刺史とし、岳を左大都督、また征西将軍である代郡の侯莫陳悦を右大都督として、ともに天光の副として討たせた。
  • 天光は出発の当初、軍士千人を配されただけだった。洛陽から西へ発ち、道々の民の馬を徴して補った。当時、赤水の蜀の賊が路を断っていた。詔で侍中楊侃を先に行かせて慰諭し、あわせてその馬を徴させたが、蜀は疑って降らなかった。軍が潼関に至ると、天光は進む勇気がなかった。岳は「蜀の賊は鼠の盗みです。公がなお遅疑されるなら、大敵に遇ってどうやって戦うのですか」と言った。天光は「今日の事は、すべてそなたに委ねる」と言った。
  • 岳はそこで進んで渭北で蜀を撃って破り、馬二千匹を獲た。その壮健な者を選んで軍士に充て、また民の馬を徴して合わせて一万余匹を得た。軍士がなお少ないとして留まって進まずにいた。栄は怒り、騎兵参軍劉貴を駅で軍中に至らせて天光を責め、百杖を打ち、軍士二千人を助けに与えた。
  • 三月、醜奴が自らその衆を率いて岐州を囲み、大行台尉遅菩薩と僕射万俟仵を武功から南へ渭を渡らせて趣柵を攻め囲ませた。天光は賀抜岳に千騎で救わせたが、菩薩らはすでに柵を落として還っていた。
  • 岳はわざとその吏民を殺し掠めて挑発した。菩薩は歩騎二万を率いて渭北に至った。岳は軽騎数十で渭南から菩薩と水を隔てて語り、国の威を称揚した。菩薩が省事に言葉を伝えさせると、岳は怒って「私は菩薩と語っているのだ。卿は何者か」と言って射殺した。
  • 翌日、また百余騎を率いて水を隔てて賊と語り、次第に東へ引いて水の浅く渡れる所まで来た。岳はすぐさま馬を馳せて東へ出た。賊は逃げると思い、歩兵を棄てて軽騎で南へ渭を渡って岳を追った。岳は横岡に依って伏兵を設けて待った。賊が半ば岡の東に渡ったところで岳が兵を返して撃ち、賊は敗走した。
  • 岳は「賊で馬を下りた者は殺すな」と令した。賊はことごとく馬を投げ出し、たちまち三千人を獲、馬も一頭残らず得た。そのまま菩薩を捕らえ、渭北に渡って歩卒一万余を降し、あわせてその輜重を収めた。醜奴はこれを聞いて岐州を棄てて北の安定へ走り、平亭に柵を置いた。
  • 天光はちょうど雍から岐に至り、岳と合流した。夏四月、天光は汧と渭の間に至って軍を止めて馬を放牧し、「天候がまさに暑くなる。行軍すべきでない。秋の涼しくなるのを待って改めて進止を図る」と言い触らした。醜奴の斥候を捕らえて放って帰した。醜奴は信じ、衆を散じて細川で耕作させ、太尉侯伏侯元進に五千の兵で険に拠って柵を立てさせ、その他に千人以下で柵を作る者も甚だ多かった。
  • 天光はその勢いが分かれたと知り、日暮れどきにひそかに諸軍を厳戒させ、相次いで一斉に発した。夜明けに元進の大柵を囲んで落とし、得た俘虜はすべて放って遣わした。諸柵はこれを聞いてみな降った。
  • 天光は昼夜まっすぐ進んで安定城下に至った。賊の涇州刺史侯幾長貴が城を挙げて降った。醜奴は平亭を棄てて逃げ、高平へ向かおうとした。天光は賀抜岳に軽騎で追わせた。丁卯、平涼で追いついた。賊がまだ列を成さぬうちに、直閤である代郡の侯莫陳崇が単騎で賊中に入り、馬上で醜奴を生け捕り、そのまま大声を上げた。衆はみな靡いて当たる者がなかった。後の騎がいよいよ集まり、賊の衆は崩壊し、ついに大破した。天光は進んで高平に迫り、城中は蕭宝寅を捕らえて送って降った。
  • 甲戌、魏は関中平定により大赦した。万俟醜奴と蕭宝寅が洛陽に至り、閶闔門の外の大通りの真ん中に置かれ、士女が集まって見物すること三日に及んだ。
  • 丹陽王蕭賛が上表して宝寅の助命を請うた。吏部尚書李神雋と黄門侍郎高道穆は日ごろ宝寅と親しく、取りなそうとして魏主に「宝寅の叛逆は前朝の事です」と言った。折しも応詔の王道習が外から至った。帝が道習に外で聞いたところを問うと、「ただ李尚書と高黄門が蕭宝寅と親交があり、ともに物を言える地位にあるので、必ず助命しようとしていると聞きます。それに二人は宝寅の叛逆が前朝の事と申しますが、宝寅が醜奴の太傅となったのは、陛下の御代のことではありませんか。賊臣を剪らねば、法をどこに施すのですか」と答えた。帝はそこで宝寅に駝牛署で死を賜り、醜奴を都の市で斬った。
  • 夏六月、万俟醜奴が敗れてから、涇州・豳州以西、霊州に至るまで賊党はみな魏に降ったが、ただ醜奴が任じた行台の万俟道洛だけが六千の衆を率いて山中に逃げ込んで降らなかった。
  • 当時、高平は大旱魃で、爾朱天光は馬の草が乏しいので城の東五十里に退いて屯し、都督長孫邪利に二百人を率いて原州の事を行わせて鎮させた。道洛はひそかに城の民と通謀して不意に襲い、邪利とその配下をみな殺した。天光は諸軍を率いて赴き、道洛は出て戦って敗れ、その衆を率いて西の牽屯山に入り、険に拠って自ら守った。
  • 爾朱栄は天光が邪利を失い道洛を獲られなかったとして、また使者を遣わして百杖を打たせ、詔書で天光を撫軍将軍・雍州刺史に降し、爵を侯に降した。
  • 天光が牽屯で道洛を追撃し、道洛は敗走して隴に入り、略陽の賊帥王慶雲に帰した。道洛は驍勇で並ぶ者がなく、慶雲は得て甚だ喜び、大事は成ると思い、そのまま水洛城で帝を称し、百官を置いて道洛を大将軍とした。
  • 秋七月、天光が諸軍を率いて隴に入り、水洛城に至った。慶雲と道洛が出て戦い、天光が道洛を射て腕に中てた。弓を失って逃げ帰り、天光はその東城を落とした。賊は兵を併せて西城へ向かった。城中に水がなく、衆は渇いて困った。降る者があって「慶雲と道洛は突破して逃げようとしている」と言った。
  • 天光は取り逃がすのを恐れ、人を遣わして慶雲を招き諭し、早く降るよう言わせた。「もし自ら決められぬなら、諸人に聴くがよい。今夜みなで議し、明朝早く報せよ」。慶雲らは少しでも猶予を得て、夜を待って突破しようと思い、「明日までお待ちを」と答えた。天光はそこで「水が要るのは分かっている。今、そなたのために少し退こう。思うまま澗の水を汲んで飲め」と言わせた。賊の衆は喜び、もう逃げる心がなくなった。
  • 天光はひそかに軍士に木の槍を多く作らせ、それぞれ長さ七尺とし、日暮れ後に城を巡って要路に厚く並べ、また槍の中に人を伏せてその突破に備え、あわせてひそかに長い梯子を城の北に縛り付けさせた。
  • その夜、慶雲と道洛は果たして馬を馳せて突出したが、槍に遇って馬も人も傷ついて倒れ、伏兵が起こってその場で捕らえた。軍士が梯子を伝って城に入り、残る衆はみな城の南に出たが、槍に遇って止まり、窮まって降を乞うた。
  • 丙子、天光はその武具をすべて収めて坑にした。死者は一万七千人。その家口を分けた。こうして三秦・河・渭・瓜・涼・鄯州がみな降った。天光は略陽に軍を止めた。詔で天光の官爵を復し、まもなく侍中・儀同三司を加えた。賀抜岳を涇州刺史、侯莫陳悦を渭州刺史とした。
  • 秦州の城の民が刺史駱超を殺そうと謀り、南秦州の城の民が刺史辛顕を殺そうと謀った。超も顕も察知して天光のもとへ逃げ帰り、天光が兵を遣わして討ち平らげた。
  • 歩兵校尉宇文泰は賀抜岳に従って関に入り、功により征西将軍・行原州事に遷った。当時、関・隴は疲弊していたが、泰は恩と信で撫したので、民はみな感じ喜んで「早く宇文使君に遇っていたら、我らがどうして乱に従ったろう」と言った。