通鑑紀事本末梁と魏、淮水の堰を争う(梁魏爭淮堰)
梁の武帝が降将王足の献策を容れ、淮水を堰き止めて魏の寿陽を水没させようとした浮山堰の大工事と、その顛末を記す。水工の陳承伯・祖暅は不可能と諫めたが容れられず、康絢が二十万の役夫を率いて四年がかりで堰を築いた。その間、魏の李崇・崔亮・李平らは西硤石で趙祖悦を破って抗した。天監十二年から十五年、完成した堰はその年のうちに崩れ、淮沿いの十余万口が流された。
梁武帝天監十二年(513年)
- 夏五月、寿陽で長雨が続いて大水が城に入り、家屋はみな水没した。魏の揚州刺史李崇は兵を整えて城の上に泊まった。水はなお増し続け、船に乗って女牆に寄せ、城で水没していないのは板二枚分だけになった。
- 将佐は崇に寿陽を棄てて北山を保つよう勧めた。崇は「私は忝くも藩岳を守り、徳が薄いために災いを招いた。淮南の万里はわが身に懸かっている。ひとたび足を動かせば百姓は瓦解し、揚州の地はもはや国のものでなくなろう。私がどうして一身を惜しんで王尊に恥じる真似をしようか。ただ、この士民が罪なくして共に死ぬのを憐れむ。筏を組んで高みに随い、めいめい脱出を図るがよい。私は必ずこの城と共に沈む。どうか諸君、それ以上言うな」と言った。
- 揚州治中裴絢が城の南の民数千家を率いて舟を浮かべて南へ走り、水を避けて高原に至った。崇が北へ帰ったと思い、そこで豫州刺史を自称し、別駕鄭祖起らと人質を送って梁に降を請うた。馬僊琕が兵を送って赴かせた。
- 崇は絢の叛を聞いたが虚実が測れず、国侍郎韓方興を小舟一艘で遣わして召した。絢は崇がまだいると聞いて落胆し驚き恨み、「大水で狼狽していたところ衆に推されました。今、大計はこうなった以上、勢いとして追いつけません。民は公の民ではなく、吏は公の吏ではなくなるのを恐れます。公が早く行かれ、将士を犯されませぬよう」と返答した。
- 崇は従弟の寧朔将軍李神らに水軍を率いて討たせた。絢は戦って敗れ、神が追ってその営を抜いた。絢は逃げたが村民に捕らえられ、尉升湖まで戻ったところで「私はどの面下げて李公にまみえられよう」と言い、水に投じて死んだ。絢は裴叔業の兄の孫である。鄭祖起らはみな誅された。
- 崇は上表して水災を理由に州の任を解くよう求めたが、魏主は許さなかった。崇は沈着で寛厚、方略があって士衆の心を得た。寿春にあること十年、常に壮士数千人を養い、敵が来れば摧き破らぬことがなく、隣の敵は「臥虎」と呼んだ。上はたびたび反間を仕掛けて疑わせようとし、また崇に車騎大将軍・開府儀同三司・万戸郡公を授け、諸子をみな県侯にすると持ちかけた。だが魏主は日ごろからその忠篤を知っており、委ね信じて疑わなかった。
十三年(514年)
- 冬十月、魏から降った王足が計を陳べ、淮水を堰き止めて寿陽に灌ぐよう求めた。上はもっともとして、水工の陳承伯と材官将軍祖暅に地形を視察させた。二人はそろって「淮の内は砂土が漂って軽く、堅実でありません。工事は成りません」と言ったが、上は聴かず、徐州・揚州の民を発して二十戸につき五丁を取って築かせ、太子右衛率康絢に都督淮上諸軍事を仮して、あわせて鍾離で堰の工事を監督させた。役夫と戦士は合わせて二十万。南は浮山から起こし、北は巉石に至り、岸に依って土を築き、中流で脊を合わせた。
十四年(515年)
- 春三月、魏の左僕射郭祚が上表した。「蕭衍は狂悖で、川瀆を断つ謀を巡らせております。役は苦しく民は労し、危亡の兆しはすでに現れております。将に命じて師を出し、長駆して撲滅すべきです」。魏は詔で平南将軍楊大眼に諸軍を督して荊山に鎮させた。
- 夏四月、浮山の堰ができたが、また潰えた。ある者が「蛟竜は風雨に乗じて堰を破れる。その性は鉄を悪む」と言い、そこで東西の冶から鉄器数千万斤を運んで沈めたが、それでも合わなかった。そこで木を伐って井桁を作り、巨石を詰め、その上に土を加えた。淮沿いの百里以内の木石は大小を問わずみな尽きた。荷を担ぐ者はみな肩に穴が開いた。夏は疫病が流行して死者が枕を並べ、蠅と虫の音が昼夜途切れなかった。
- 秋九月、左遊撃将軍趙祖悦が魏の西硤石を襲って拠り、寿陽に迫った。さらに外城を築き、淮沿いの民を移して城内を充実させた。将軍田道竜らが散じて諸戍を攻めた。魏の揚州刺史李崇は諸将を分け遣わして防がせた。癸亥、魏は仮鎮南将軍崔亮を遣わして西硤石を攻めさせ、また鎮東将軍蕭宝寅を遣わして淮の堰を決壊させようとした。
- 冬十二月己酉、魏の崔亮が硤石に至った。趙祖悦は迎え撃って敗れ、城を閉じて自ら守った。亮は進んで囲んだ。
- この冬は甚だ寒く、淮と泗が全面凍結し、浮山の堰の士卒で死ぬ者は十のうち七、八に及んだ。
十五年(516年)
- 春正月、魏の崔亮が硤石を攻めたが落ちなかった。李崇と水陸から並び進む約をしたが、崇はたびたび期日に違って来なかった。胡太后は諸将が一致せぬので、吏部尚書李平を使持節・鎮軍大将軍・兼尚書右僕射として歩騎二千を率いて寿陽に赴かせ、別に行台として諸軍を節度させ、違背する者があれば軍法で処するよう命じた。
- 蕭宝寅が軽車将軍劉智文らを遣わして淮を渡り三つの塁を攻め破らせた。二月乙巳、また淮北で将軍垣孟孫らを破った。
- 李平が硤石に至り、李崇・崔亮らを督して日を定めて水陸から進攻させ、あえて食い違わせぬようにした。戦ってたびたび功があった。
- 上は左衛将軍昌義之に兵を率いて浮山を救わせたが、着かぬうちに康絢が魏兵を撃退した。上は義之と直閤王神念に淮を遡って硤石を救わせた。崔亮は将軍である博陵の崔延伯に下蔡を守らせた。延伯は別将伊甕生と淮を挟んで営を作った。延伯は車輪を取って輞(外枠)を外し、輻を鋭く削って二つずつ突き合わせ、竹を揉んで綱にして貫き連ね、十余道並べて水を横切って橋とし、両端に大きな轆轤を設けて自在に上げ下げできるようにした。焼くことも斫ることもできず、趙祖悦の逃げ道を断ったうえ、戦艦も通れなくした。義之と神念は梁城に屯して進めなかった。
- 李平は水陸に部署を分けて硤石を攻め、その外城を落とした。乙丑、祖悦が出て降り、斬られ、その衆はことごとく捕虜となった。
- 胡太后が崔亮に書を賜り、勝ちに乗じて深入りするよう命じた。平は諸将を部署して水陸から並び進み、浮山の堰を攻めようとした。亮は平の節度に違い、病と称して帰還を請い、上表するや勝手に出発した。平は亮を死刑に処するよう奏した。太后は令を下した。「亮が去留を自ら擅にし、わが経略に違ったのは、小さな勝ちがあったとはいえ大きな咎を免れぬ。しかし吾は万機を摂して御しており、殺すのを憎む。特に功で過を補うことを聴す」。魏軍はそのまま還った。
- 三月、魏が西硤石の功を論じた。辛未、李崇を驃騎将軍として儀同三司を加え、李平を尚書右僕射、崔亮の号を鎮北将軍に進めた。亮は平と禁中で功を争い、太后は亮を殿中尚書とした。
- 魏の蕭宝寅は淮の堰の上で自筆の書を作って誘い、彭城を襲わせようとし、その国の廟と家族、諸々の従者を北へ送ると約した。宝寅はその書を魏朝に上表して差し出した。
- 夏四月、淮の堰が完成した。長さ九里、下の幅百四十丈、上の幅四十五丈、高さ二十丈。杞と柳を植え、軍の塁を並べてその上に置いた。
- ある者が康絢に「四瀆は天がその気を調節し発散させるためのもの。長く塞ぐことはできぬ。もし溝を鑿って東へ注げば、遊ぶ波は緩やかになって堰は壊れずに済む」と言った。絢はそこで溝を開いて東へ注ぎ、また魏に反間を放って「梁人が恐れるのは溝を開かれることだ。野戦は畏れぬ」と言わせた。蕭宝寅は信じ、山を鑿ること深さ五丈、溝を開いて北へ注いだ。水は日夜分かれて流れたが、それでも減らなかった。魏軍はついに罷めて帰った。
- 水の及ぶ範囲は淮を挟んで数百里四方に及んだ。李崇は硤石の戍の間に浮橋を作り、また八公山の東南に魏昌城を築いて寿陽の陥落に備えた。住民は散じて岡や隴に移った。その水は清く澄み、俯いて見ると家屋や墓が水底にはっきり見えた。
- はじめ堰は徐州の境内から起こされた。刺史張豹子は自分が必ずその事を掌ると言い触らしていた。ところが康絢が他官として監督に来たので、豹子は甚だ恥じた。ほどなく豹子は絢の節度を受けるよう敕され、豹子はついに「絢は魏と通じている」と讒言した。上は容れなかったが、それでも工事が終わったとして絢を召し還した。
- 秋八月、康絢が還ると、張豹子はもう淮の堰を修めなかった。九月丁丑、淮水が急に漲って堰が壊れた。その音は雷のようで三百里先まで聞こえ、淮沿いの城・戍・村落の十余万口がみな海へ流された。
- はじめ魏人は淮の堰を患え、任城王元澄を上将軍・大都督南討諸軍事として十万の衆を整え、徐州から出て堰を攻めさせようとした。尚書右僕射李平は「兵力を借りずとも、いずれ自ら壊れる」と考えていた。壊れたと聞いて太后は大いに喜び、平を甚だ厚く賞し、澄はついに行かなかった。