通鑑紀事本末邢巒、巴西を侵す(邢巒冦巴西)

梁の夏侯道遷が漢中で叛いて魏に降ったのを機に、魏の邢巒が鎮西将軍として出撃し、王足らを用いて晉寿・南安・剣閣を奪い、梁州十四郡を魏の版図に入れるまでを描く。益州では蕭淵藻が鄧元起を殺して人望を失い、邢巒は蜀併呑を再三上表したが魏主は容れず、王足が羊祉への交代を恨んで勝手に兵を引いたため蜀は定まらなかった。天監四年から五年の顛末。

年表(3件)
  • 梁武帝
  • 天監四年505年夏侯道遷が漢中で叛いて魏に降り、邢巒が晉寿を落とす
  • 天監四年つづき王足が涪城を囲み、邢巒が蜀取りを上表するが魏主は許さない
  • 五年506年傅豎眼が武興を落として楊紹先を捕らえ、武興鎮を置く

梁武帝天監四年(505年)

  • はじめ譙国の夏侯道遷は輔国将軍として裴叔業に従って寿陽に鎮し、南譙太守となったが、叔業と隙があって単騎で魏へ逃げた。魏は道遷を驍騎将軍として王粛に従って寿陽に鎮させ、道遷に合肥を守らせた。粛が没すると、道遷は戍を棄てて梁に来降した。梁・秦二州刺史荘丘黒に従って南鄭に鎮し、道遷を長史・領漢中太守とした。黒が没し、詔で都官尚書王珍国を刺史としたが、まだ着任しないうちに、道遷はひそかに軍主である考城の江忱之らと魏に降る謀を巡らせた。
  • これに先立ち、魏の仇池鎮将楊霊珍が魏に叛いて梁に降り、朝廷は征虜将軍とし武都王を仮して漢中の守りを助けさせた。部曲六百余人があり、道遷はこれを憚った。上が側近の呉公之らを南鄭に使者として遣わすと、道遷はその使者を殺して兵を発し、霊珍父子を撃って斬り、あわせて使者の首を魏に送った。
  • 白馬の戍主尹天宝がこれを聞いて兵を率いて道遷を撃ち、その将の龐樹を破って南鄭を囲んだ。道遷は氐王楊紹先・楊集起・楊集義に救援を求めたが、みな応じなかった。集義の弟の楊集朗だけが兵を率いて道遷を救い、天宝を撃って殺した。
  • 魏は道遷を平南将軍・豫州刺史・豊県侯とし、また尚書邢巒を鎮西将軍・都督征梁漢諸軍事として兵を率いて赴かせた。道遷は平南将軍は受けたが豫州刺史は辞退し、あわせて公爵を求めた。魏主は許さなかった。
  • 春二月、魏の邢巒が漢中に至り、諸城の戍を撃って向かうところ摧き破った。晉寿太守王景胤が石亭に拠ると、巒は統軍李義珍を遣わして撃退した。魏は巒を梁・秦二州刺史とした。
  • 巴西太守龐景民が郡に拠って降らなかった。郡民の厳玄思が衆を集めて巴州刺史を自称し、魏に付いて景民を攻めて斬った。
  • 楊集起と集義は魏が漢中を落としたと聞いて恐れ、閏月、群氐を率いて魏に叛き、漢中の糧道を断った。巒はたびたび軍を遣わして撃ち破った。
  • 夏四月、冠軍将軍孔陵らが二万の兵で深坑に戍り、魯方達が南安に、任僧襃らが石同に戍って魏を防いだ。邢巒は統軍王足に兵を率いて撃たせ、行く先々で勝ち、そのまま剣閣に入った。陵らは梓潼に退いて保ったが、足はまた進撃して破った。梁州十四郡の地、東西七百里・南北千里はみな魏に入った。
  • はじめ益州刺史当陽侯鄧元起が母の老いを理由に帰任を乞い、詔で召されて右衛将軍となり、西昌侯蕭淵藻を代わりとした。淵藻は蕭懿の子である。
  • 夏侯道遷が叛いたとき、尹天宝が急使で元起に報せ、魏が晉寿を侵すと王景胤らもそろって急を告げた。衆は元起に急いで救うよう勧めたが、元起は「朝廷は万里の彼方、軍はにわかには来ぬ。敵が侵し広がれば、まさに撲滅せねばならぬ。督する任は私をおいて誰があろう。何を慌てることがあろう」と言った。詔で元起に都督征討諸軍事を仮して漢中を救わせたが、晉寿はすでに陥ちていた。
  • 蕭淵藻が着こうとすると、元起は営に戻って糧の蓄えと器械を残らず取った。淵藻は入城してこれを恨み、また元起の良馬を求めた。元起が「年若い坊ちゃんが馬を何になさる」と言うと、淵藻は怒り、酔いに乗じて殺した。元起の麾下が城を囲んで哭し、理由を問うた。淵藻が「天子の詔である」と言うと、衆は散った。そこで元起を謀反と誣告した。上は疑った。
  • 元起の旧吏である広漢の羅研が闕に赴いて訴えた。上は「果たして私が測ったとおりだった」と言い、使者に淵藻を責めさせた。「元起はお前のために仇を報じた。お前は仇のために仇を報じた。忠孝の道はどうなったのか」。そこで淵藻の号を冠軍将軍に貶し、元起に征西将軍を贈って忠侯と諡した。

史論(李延壽論曰)

  • 元起の勤めは人を親しませ従わせることにあり、その功は土地を開いたことにあった。その労に報いようともせず、禍の機がまず陥れた。冠軍への貶号は罰として軽すぎる。梁の政と刑はここに失われ、私情と外戚を重んずる端緒はここから開かれた。その世が長く続かなかったのも当然ではないか。

天監四年つづき

  • 益州の民の焦僧護が数万の衆を集めて乱を起こした。蕭淵藻はまだ二十歳前だったが、僚佐を集めて自ら撃つ議をした。ある者が不可を陳べると、淵藻は激怒して階の傍らで斬った。そして平肩の輿に乗って賊の塁を巡った。賊が弓を乱射して矢が雨のように降り、従者が楯を挙げて矢を防いだが、淵藻は退けさせた。これで人心は大いに安んじ、僧護らを撃ってみな平らげた。
  • 秋八月庚戌、秦・梁二州刺史魯方達が魏の王足の統軍紀洪雅・盧祖遷と戦って敗れ、方達ら十五将がみな死んだ。壬子、王景胤らもまた祖遷と戦って敗れ、景胤ら二十四将がみな死んだ。
  • 冬十一月、魏の王足が涪城を囲み、蜀の人は震え恐れた。益州の城と戍で魏に降る者は十のうち二、三、自ら名籍を差し出した民は五万余戸に及んだ。
  • 邢巒が魏主に上表し、勝ちに乗じて蜀を取るよう請うた。 「建康と成都は万里を隔てております。陸行は絶えており、ただ水路に頼るのみ。水軍が西上するには一年かからねば到達できません。益州は外に軍の援けがない。これが図るべき一。 先に劉季連の反乱と鄧元起の攻囲を経て蓄えは空になり、吏民に再び固守する志はありません。図るべき二。 蕭淵藻は袴と履の若造で、まだ政務に通じておりません。かつての名将の多くは囚われ戮されました。今任じられているのはみな側近の若者。図るべき三。 蜀の恃みはただ剣閣にあります。今すでに南安を落とし、その険を奪いました。彼の境内の三分の一をすでに得ております。南安から涪へは車を並べて行けて障りがありません。前軍はたびたび敗れ、後の衆は魂を失っております。図るべき四。 淵藻は蕭衍の骨肉の至親で、必ず死ぬ道理はありません。涪城を落とせば、淵藻がどうして城中に坐して困窮を受けましょう。必ず風を望んで逃げ去ります。もし出て闘っても、庸・蜀の士卒は駑鈍で怯え、弓矢も乏しく弱い。図るべき五。 臣は自ら省みるに文吏で軍旅に慣れておりませんが、将士の力に頼ってしきりに小さな勝ちを得ました。重い険阻を落として民心は服し、涪と益を望み見れば旦夕に屠れます。ただ兵が少なく糧が乏しいので前に出るべきでないだけです。今、取らねば後で図るのは難しくなります。まして益州は殷実で戸口は十万。寿春や義陽に比べれば利は三倍です。朝廷が進取をお望みなら、時は失えません。境を保ち民を寧んじるおつもりなら、臣はここにいて事がありませんゆえ、帰って親を養いたく存じます」。
  • 魏主は詔で「蜀を平らげる挙は改めて後の敕を待て。敵の難がまだ平らがぬのに、どうして親を養うことを口実にできよう」と言った。
  • 巒はまた上表した。 「昔、鄧艾と鍾会は十八万の衆を率い、中国の蓄えを傾けて、やっと蜀を平らげました。実力で闘ったからです。まして臣の才は古人に及ばぬのに、どうして二万の衆で蜀を平らげようと望みましょう。あえてそうするのは、まさに要害の険を押さえ、士民が義を慕っているからです。こちらから行けば易く、あちらから来れば難しい。力に任せて行えば、道理として落とせます。 今、王足はすでに涪城に迫っております。かりに涪を得れば、益州は捕らえた獲物も同然。ただ得るのに早いか遅いかの違いだけです。それに梓潼はすでに附いて民戸は数万。朝廷がどうして守らずにおれましょう。また剣閣は天険です。得て棄てるのは、まことに惜しむべきこと。 臣はまことに戦伐が危うい事で容易ならぬと知っております。軍が剣閣を越えて以来、鬢と髪に白いものが混じり、日夜、戦い懼れております。どうしていい加減にできましょう。それでも努めているのは、この地を得ておきながら自ら退いて守らねば、陛下の爵禄に負くことになるからです。 それに臣の思惑は、まず涪城を取り、次第に進もうというもの。涪城を得れば益州の地を中分し、水陸の要衝を断つことになります。彼は外に援軍なく孤城で自ら守るのみ。どうしてまた長く持ちこたえられましょう。臣は今、軍と軍を次々に連ね、声と勢いを接続させ、まず万全の計を立ててから功を図りたく存じます。得れば大利、得られずとも自ら全うできます。 また巴西と南鄭は千四百里を隔て、州から遥かに遠く、常に騒動が多い。昔、南朝の時代には統べるのが難しいとして巴州を立て、夷や獠を鎮め静めました。梁州は利を得ようとしてそのまま廃止を上表しました。かの土地の名望家である厳・蒲・何・楊は一族だけではありません。山谷に住んでいるとはいえ豪族は甚だ多く、文学と風流の士も少なくありません。ただ州から遠く離れて仕進の道が得られず、州の綱紀に列する手立てもない。それゆえ鬱屈して異心を生じることが多いのです。先に道遷が義を建てた初め、厳玄思は自ら巴州刺史を号し、城を落として以来そのまま事を行わせております。巴西は広さ千里、戸は四万余。そこに州を立てて華と獠を鎮め摂すれば、大いに民情を安んじられます。墊江以西は征伐を労せず自ずと国のものとなりましょう」。魏主は従わなかった。
  • これに先立ち、魏主は王足に益州刺史を行わせていた。上は天門太守張斉に兵を率いて益州を救わせたが、着かぬうちに魏主が改めて梁州軍司である泰山の羊祉を益州刺史とした。王足はこれを聞いて不快になり、勝手に兵を引いて還り、ついに蜀を定められなかった。久しくして足は魏から梁へ亡命した。
  • 邢巒は梁州にあって、豪族には礼をもって接し、小民は恵みをもって撫したので、州の人は喜んだ。
  • 巒が巴西を落としたとき、軍主李仲遷に守らせた。仲遷は酒色に溺れ、兵の蓄えを浪費し、公事の相談にも姿を見せなかった。巒は怒って歯噛みした。仲遷は恐れて叛こうと謀り、城の人がその首を斬って城を挙げて梁に降った。

五年(506年)

  • 春正月、楊集義が魏の関城を囲んだ。邢巒は建武将軍傅豎眼を遣わして討たせた。集義が迎え撃ったが撃ち破られ、勝ちに乗じて追撃した。壬申、武興を落として楊紹先を捕らえ、洛陽に送った。楊集起と楊集義は逃げ、そのままその国を滅ぼして武興鎮とし、さらに東益州と改めた。
  • 楊集起兄弟が連れ立って魏に降った。