通鑑紀事本末北魏、斉を侵す(元魏宼齊)
北魏の孝文帝が、蕭鸞(明帝)の簒立と曹虎の降伏の申し出を口実に、三たび南征して斉の沔北を奪うまでの戦い。建武元年(494年)から永元元年(499年)まで。第一次は寿陽・鍾離・義陽を攻めて実を得ず退き、第二次で新野・宛が陥ちて劉思忌は節に死に房伯玉は降り、崔慧景・蕭衍は鄧城に大敗した。明帝の死で兵を引いた孝文帝は陳顕達の反攻を馬圏に破ったのち、帰路の穀塘原で崩じた。
斉明帝建武元年(494年)
- 魏主(孝文帝)は、上(明帝)が海陵王を廃して自立したことを口実に、大挙して侵入する謀を立てた。折しも辺境の将が「雍州刺史である下邳の曹虎が使者を送って魏に降を請うている」と報じた。
- 十二月辛丑朔、魏は行征南将軍薛真度に四将を督させて襄陽へ、大将軍劉昶と平南将軍王粛を義陽へ、徐州刺史拓跋衍を鍾離へ、平南将軍である広平の劉藻を南鄭へ向かわせた。真度は薛安都の従祖の弟である。尚書盧淵を安南将軍・督襄陽前鋒諸軍とした。淵は軍旅に不慣れだと辞退したが許されず、「ただ曹虎が周魴(偽降の故事)になるのを恐れます」と言った。
- 魏主は自ら侵入しようとした。癸卯、中外を戒厳した。戊申、詔で代の民で洛陽に遷った者に租賦を三年免じた。
- 相州刺史高閭が上表して「洛陽は草創のところ。曹虎は人質も送らず、必ず誠心ではありません。軽々しく動くべきではない」と述べたが、魏主は従わなかった。久しくして虎の使者はついに二度と来なかった。
- 魏主は公卿を引いて出征と留守の計を議した。公卿はある者は止めるべきといい、ある者は行くべきという。帝は「衆人が紛々として従いどころがない。どうしても出征と留守の勢いを尽くしたいなら、客と主を立てて互いに論を起こすべきだ。任城(澄)と鎮南(李冲)は留守の議を、朕は出征の論を担う。諸公は座して得失を聴き、優れたほうに従え」と言い、衆はみな「はい」と応じた。
- 鎮南将軍李冲が言った。「臣らはまさに遷都したばかりで人は少しの安らぎを思い、内応者の実情も確かめられておりません。軽々しく動くべきではありません」。帝は「彼の降伏の申し出の虚実はまことにまだ分からぬ。虚なら、朕は淮甸を巡撫して民の疾苦を訪ね、彼らに君徳の在りかを知らせて北を向く心を抱かせる。実なら、時に応じて接しなければ、時に乗ずる機を失い、義に帰する誠を孤立させ、朕の大略を損なう」と言った。
- 任城王澄が言った。「虎は人質もなく、使者も二度と来ない。その詐りは明らかです。今、代都から遷ったばかりの民はみな本を恋う心を抱いております。老を扶け幼を携えてやっと洛邑に来たばかりで、住むには一椽の室もなく、食うには一担の蓄えもない。しかも冬は終わりかけ、春の農作業が始まろうとしています。家々が建築を始め南の畝で農を起こす時に、駆り立てて甲を着け兵を執らせ、泣きながら白刃に当たらせるのでは、歌舞して行く師ではありません。それに諸軍はすでに進んでおり、応接がないわけではない。降伏の申し出が実なら、樊・沔を平らげてから鑾輿が動かれても、何の遅きことがありましょう。今、軽率に挙げて上下が疲労し、空しく行って空しく返れば、天威を挫き、かえって賊の気を増すのを恐れます。策としてよいものではありません」。
- 司空穆亮が行くべしと言い、公卿はみな同調した。澄が亮に言った。「公らは外にいたとき、旗を張り甲を授けるのを見て、みな憂色を浮かべていた。平生の議論でも南征を望まなかった。それがどうして上の前ではこう言えるのか。面と背が同じでなく、事は欺きと諂いに渉る。大臣の義、国士の体でしょうか。万一の傾危は、みな公らの為すところです」。冲は「任城王は社稷に忠なる者と言えよう」と言った。
- 帝は「任城は朕に従う者を諂いとするが、従わぬ者が必ずみな忠か。小忠は大忠の賊というが、そういうことではないか」と言った。澄は「臣は愚かで暗く、小忠に渉るとはいえ、要は誠を尽くして国に謀るまで。大忠なるものが結局何に拠るのかは存じません」と言った。帝は従わなかった。
- 辛亥、洛陽を発ち、北海王元詳を尚書僕射として留台の事を統べさせ、李冲に僕射を兼ねさせて共に洛陽を守らせ、給事黄門侍郎崔休を左丞、趙郡王元幹を都督中外諸軍事とし、始平王元勰に宗子の軍を率いて左右に宿衛させた。休は崔逞の玄孫である。
- 戊辰、魏主が懸瓠に至った。己巳、詔で寿陽・鍾離・馬頭の軍が捕らえた男女をみな南に帰した。
- 曹虎は果たして降らなかった。魏主は盧淵に南陽を攻めさせた。淵は軍中に糧が乏しいとして先に赭陽を攻めて葉の倉を取ることを請い、魏主は許した。そこで征南大将軍城陽王元鸞・安南将軍李佐・荊州刺史韋珍と兵を合わせて赭陽を攻めた。鸞は元長寿の子、佐は李宝の子である。北襄城太守成公期が城を閉じて拒み守った。薛真度は沙堨に陣したが、南陽太守房伯玉と新野太守劉思忌が防いだ。
二年(495年)
- 春正月壬申、鎮南将軍王広之に司州、右衛将軍蕭坦之に徐州、尚書右僕射沈文季に豫州の諸軍を督させて魏を防がせた。
- 癸酉、魏は詔で淮北の人を侵掠してはならぬとし、犯す者は死罪とした。
- 乙未、拓跋衍が鍾離を攻めた。徐州刺史蕭恵休は城壁に登って拒み守り、時に出て襲撃して魏兵を破った。恵休は蕭恵明の弟である。
- 劉昶と王粛が義陽を攻め、司州刺史蕭誕が防いだ。粛はたびたび誕の兵を破り、一万余人を招き降した。魏は粛を豫州刺史とした。劉昶は偏狭で躁がしい性で、軍を御するのに厳しく暴虐で、誰も口を挟めなかった。法曹行参軍である北平の陽固が懸命に諫めた。昶は怒って斬ろうとし、攻撃路に当たらせた。固は志が閑雅でありながら敵に臨んで勇敢果断だったので、昶ははじめて非凡と認めた。
- 丁酉、中外を戒厳し、太尉陳顕達を使持節・都督西北討諸軍事として新亭と白下を往来させ、声勢を張った。
- 己亥、魏主が淮を渡った。二月、寿陽に至った。衆は三十万と号し、鉄騎が野に満ちた。甲辰、魏主が八公山に登って詩を賦した。道中でひどい雨に遭い、命じて蓋(傘)を除かせ、病んだ軍士を見ては自ら撫慰した。
- 魏主が使者を送って城中の人を呼んだ。豊城公蕭遥昌は参軍崔慶遠を出して応対させた。慶遠が出師の理由を問うと、魏主は「もとより理由がある。卿は私にはっきり言わせたいのか、それとも恥を含んで曖昧にしてほしいのか」と言った。慶遠は「まだご趣旨を承っておりませんので、含む恥もございません」と答えた。
- 魏主が「斉主はなぜ廃立したのか」と問うと、慶遠は「昏を廃し明を立てるのは古今に一つではありません。何をお疑いか分かりません」と答えた。「武帝の子孫は今みなどこにいる」と問うと、「七王は悪を同じくして管叔・蔡叔の誅に伏しました。その他の二十余王は、あるいは内で清要の職に列し、あるいは外で方牧を司っております」と答えた。
- 魏主が「卿の主がもし忠義を忘れていないなら、なぜ周公が成王を輔けたように近親を立てず、自ら取ったのか」と問うと、慶遠は「成王には亜聖の徳があったから周公が相たり得たのです。今の近親はみな成王に比べられません。ゆえに立てられぬのです。それに霍光もまた武帝の近親を捨てて宣帝を立てました。ただ賢だったからです」と答えた。「霍光はなぜ自ら立たなかったのか」と問うと、「その類ではないからです。主上はまさに宣帝に比すべきで、霍光には比せられません。もしそう言われるなら、武王が紂を伐って微子を立てず自ら輔けなかったのも、天下を貪ったことになりましょうか」と答えた。
- 魏主は大笑して「朕は罪を問いに来たが、卿の言のとおりならすっきり解けた」と言った。慶遠は「可を見て進み、難を知って退くのが聖人の師です」と言った。魏主が「卿は私に和親を望むのか、望まぬのか」と問うと、慶遠は「和親すれば二国は歓を交わし生民は福を蒙り、そうでなければ二国は悪を交わし生民は塗炭に落ちます。和親するか否かは聖慮のご裁断のままに」と答えた。魏主は慶遠に酒と肴と衣服を賜って帰した。
- 戊申、魏主が淮に沿って東へ進んだ。民はみな安堵し、租の輸送が道に連なった。丙辰、鍾離に至った。上は左衛将軍崔慧景と寧朔将軍裴叔業を遣わして鍾離を救わせた。
- 劉昶と王粛の衆は二十万と号し、塹と柵を三重にして力を併せて義陽を攻めた。城中は楯を負って立つ有様だった。王広之が兵を率いて義陽を救い、城から百余里の所まで来たが、魏の強さを畏れて進む勇気がなかった。城中はいよいよ急になった。
- 黄門侍郎蕭衍が先に進むことを請い、広之は麾下の精兵を分け与えた。衍は間道を夜に発ち、太子右率蕭誄らとまっすぐ賢首山に登った。魏軍から数里の所である。魏人は不意を衝かれ、多寡も測れず迫る勇気がなかった。夜明けに城中は援軍の到着を望み見た。蕭誕は長史王伯瑜を出して魏の柵を攻めさせ、風に乗じて火を放った。衍らの衆軍が外から撃ち、魏は支えきれず囲みを解いて去った。己未、誕らが追撃して破った。誄は蕭諶の弟である。
- これに先立ち、上は義陽が危急なので、都督青冀二州諸軍事張沖に詔して魏を攻めさせ、その兵力を分けさせた。沖は軍主桑係祖に魏の建陵・駅馬・厚丘の三城を攻めさせ、また軍主杜僧護に魏の虎阬・馮時・即丘の三城を攻めさせ、いずれも落とした。青冀二州刺史王洪範は軍主崔延に魏の紀城を襲わせて拠らせた。
- 魏主は南して長江に臨もうとし、辛酉、鍾離を発った。司徒長楽元懿公馮誕は病で従えず、魏主は泣いて訣別した。五十里行ったところで誕の死を聞いた。当時、崔慧景らの軍は魏主の営から百里も離れていなかったが、魏主は軽装で数千人を率いて夜に鍾離へ帰り、屍を撫して夜明けまで哭し、声も涙も絶えなかった。壬戌、諸軍に長江へ臨む行を止めるよう敕し、誕を葬るのに晉の斉献王の故事に依った。誕は帝と同年で、幼くして硯席を同じくし、帝の妹の楽安長公主を娶っていた。学術はなかったが資性が淳篤だったので特に寵された。
- 丁卯、魏主が使者を遣わして江に臨み、上の罪悪を数えさせた。
- 魏は久しく鍾離を攻めて落とせず、士卒に多くの死者が出た。三月戊寅、魏主が邵陽に行き、中洲に城を築き、柵で水路を断ち、両側に二つの城を築いた。蕭坦之が軍主裴叔業を遣わして二城を攻め落とした。
- 魏主は淮南に城を築いて戍を置き、新たに帰付した民を撫そうとし、相州刺史高閭に璽書を賜ってその状況を詳しく論じた。閭が上表した。「兵法に十倍なら囲み、五倍なら攻めるとあります。先には国家はただ降伏を受け入れる計だけで、発した兵は多くありませんでした。東西が遥かに広く、成功しがたいのです。今また淮南に戍を置いて新附を招撫されようとしています。 昔、世祖は山を回らし海を倒すほどの威をもって歩騎数十万で南して瓜歩に臨まれ、諸郡はみな降りましたが、盱眙の小城は攻めても落とせず、凱旋の日には兵は一城も戍らず、土は一廛も開かれませんでした。人がいなかったのではなく、大鎮がまだ平らがぬうちは小城を守れぬからです。そもそも水を塞ぐ者はまずその源を塞ぎ、木を伐る者はまずその根を断ちます。本と源がなお在るのに末流を攻めても益はありません。寿陽・盱眙・淮陰は淮南の本源です。三鎮の一つも落とせずに孤城を留め守っても、自ら全うできぬのは明らかです。敵の大鎮が外から迫り、長い淮が内を隔てる。兵を少なく置けば自ら固めるに足らず、多く置けば糧運が通じ難い。大軍が還れば士心は孤り怯え、夏の水が盛んに漲れば救援も甚だ難しい。新をもって旧を撃ち、労をもって逸を防ぐ。果たしてそうなれば必ず敵に捕らわれます。忠勇を奮い立たせても、終いに何の益がありましょう。 それに土地に安んじ本を恋うのは人の常情です。昔、彭城の役ですでに大鎮を落とし城戍も定まってからも、服さずに叛こうと思う者が数万を超えました。角城のような小さな地でさえ淮北にあって淮陽から十八里、五固の役では長く攻囲してついに落とせませんでした。今を昔に照らせば、事は数倍です。天候は暑さに向かい雨水も降り始めます。願わくは陛下、世祖の成規を踏み、轅を回し旗を返して洛邑を経営し、力を蓄え隙を観、徳を布いて教化を行われますよう。中国が和めば遠人は自ら服します」。
- 尚書令陸叡も上表した。「長江は浩々として彼の巨大な防塁です。また南土は霧が昏く暑気が蒸し、軍勢が夏を越せば必ず疾病が多い。しかも鼎を遷したばかりで諸事は緒に就いたばかり。台省には政を論ずる館もなく、府寺には政を執る所もなく、百僚の居所は道行く旅人と変わりません。長雨と炎陽が自ずと疫病を成します。それに兵役と徭役を並び挙げるのは聖王も難しとしたところ。今、甲冑の士は外で敵と戦い、羸弱の者は内で土木に励み、運搬と供給の費えは日に千金を損ないます。疲れ弊れた兵を駆って堅城の敵を討って、どうして勝てましょう。陛下が昨冬に挙兵されたのは、まさに武を江・漢に耀かせるためでした。今、春からほとんど夏になろうとしています。理として甲を解くべきです。願わくは朝には洛邑へお還りになり、根本を深く固め、聖懐に内を顧みる憂いをなくし、兆民に斤と板の役を休ませられますよう。そのうえで将に命じ師を出せば、服さぬ心配がありましょうか」。魏主はその言を容れた。
- 崔慧景は魏人が邵陽に城を築くのを患えた。張欣泰が「彼らには去る意があります。城を築くのは、外向きに誇大に見せ、我らが後を追うのを恐れているからです。今、双方の願いとして兵を罷めようと説けば、彼らは必ず聴きます」と言い、慧景は従って欣泰を城下に行かせ魏人に語らせた。
- 魏主はそこで還って淮を渡ったが、残る五将がまだ渡れず、斉軍が中洲に拠って渡し場の道を遮った。魏主は中洲の兵を破れる者を募って直閤将軍に任じるとした。軍主である代人の奚康生が応募し、筏を縛って柴を積み、風に乗じて火を放って斉の船艦を焼き、煙に紛れてまっすぐ進み、刀を飛ばして乱れ斬った。中洲の兵はついに潰えた。魏主は康生に直閤将軍を仮した。
- 魏主は前将軍楊播に歩卒三千と騎五百で殿軍を務めさせた。当時、春の水が増しており、斉兵が大挙して来て戦艦が川を塞いだ。播は南岸に陣を張って防ぎ、諸軍がすべて渡り終えると、斉兵が四方から集まって播を囲んだ。播は円陣を作って防ぎ、自ら格闘して甚だ多くを殺した。二晩対峙して軍中の食が尽き、囲む兵はいよいよ急になった。魏主は北岸から望んだが、水が盛んで救えなかった。やがて水がやや減ると、播は精騎三百を率いて斉の艦の前を通り、大声で「私は今から渡る。戦える者は来い」と叫び、そのまま衆を擁して渡った。播は楊椿の兄である。
- 魏軍が退くと、邵陽洲の上に残った兵一万人が馬五百匹を差し出して道を借り帰りたいと求めた。崔慧景は道を断って攻めようとしたが、張欣泰が「帰る師は遏むなと古人も畏れました。兵が死地にあるのを軽んじてはなりません。今、勝っても武とするに足らず、勝てねばいたずらに前功を失います。許すにしくはありません」と言い、慧景は従った。
- 蕭坦之は帰って上に「邵陽洲に死にかけの賊が一万人いたのに、慧景と欣泰は放って取らなかった」と言った。これで二人とも賞されなかった。甲申、戒厳を解いた。
- はじめ上は魏主が江で馬に水を飲ませたいと望んだと聞いて恐れ、広陵太守・行南兖州事の蕭穎冑に住民を城に入れるよう敕した。民は驚き恐れて総引き上げして南へ渡ろうとしたが、穎冑は魏の敵がまだ遠いとしてすぐには実行しなかった。魏兵はついに来なかった。穎冑は太祖の従子である。
- 上は尚書右僕射沈文季を遣わして豊城公遥昌の寿陽守備を助けさせた。文季は入城すると遊軍を止めて出させず、城門を大きく開け放ち、守備を厳重にした。魏兵はまもなく退いた。
- 魏が侵入したとき、盧昶らはなお建康にいた。斉人はこれを恨んで蒸した豆を食わせた。昶は怖れてこれを食い、涙と汗を交々流した。謁者張思寧は辞気を屈せず館下で死んだ。帰国すると魏主は昶を責めて「人は誰しも死ぬ。どうして自ら牛馬と同じになり、身を屈して国を辱めるのか。遠く蘇武に恥じずとも、近く思寧に恥じぬのか」と言い、庶民に落とした。
- 魏主が鍾離にいたとき、仇池鎮都大将・梁州刺史拓跋英が州の兵で劉藻と合流して漢中を撃つことを請い、魏主は許した。梁州刺史蕭懿が部将の尹紹祖・梁季群らに二万の兵を与えて険に拠らせ、五つの柵を立てて防がせた。英は「彼らの帥は身分が低く互いに統一されていない。私が精卒を選んで一つの営に集中して攻めれば、彼らは必ず救い合わぬ。一営を落とせば四営はみな逃げる」と言い、兵を率いて一営を急攻して落とした。四営はともに潰え、梁季群を生け捕り、三千余級を斬り、七百余人を捕虜とした。
- 勝ちに乗じて長駆し、南鄭に迫った。懿はまた将の姜脩に英を撃たせたが、英は不意打ちしてことごとく捕らえた。帰ろうとしたとき懿の別軍が続いて至った。将士はみな疲れており、その到来を予期せず大いに恐れて逃げようとした。英はわざと轡を緩めてゆっくり進み、神色は自若として、高い所に登って敵を望み、東西に指揮して処置するかのようにし、そのうえで隊列を整えて前進した。懿の軍は伏兵があると疑い、ぐずぐずして退いた。英は追撃して破り、そのまま南鄭を囲んだ。
- 英は将士に侵し暴くことを禁じ、遠近は喜んで従い、争って租を運んで供した。懿は城に籠って自ら守った。軍主范絜先が三千余人を率いて外にいて南鄭を救おうと帰ってきたが、英は不意打ちしてことごとく捕らえた。城を囲んで数十日、城中は恐れ騒いだ。録事参軍である新野の庾域が空の倉数十に封をして将士に指し示し、「この中の粟はみな満杯で二年は支えられる。ただ努めて堅守せよ」と言い、衆心はようやく安んじた。
- 折しも魏主が英を召し戻した。英は老弱を先に行かせ、自ら精兵を率いて後拒とし、使者を送って懿に別れを告げた。懿は詐りと思い、英が去って一日経ってもなお門を開けず、二日目にようやく将を遣わして追わせた。英は士卒とともに馬を下りて交戦し、懿の兵は迫る勇気がなかった。四日四夜行軍して、懿の兵はようやく返った。
- 英が斜谷に入ると大雨に遭った。士卒は竹を切って米を入れ、馬上で松明を執って炊いた。これに先立ち、懿は人を遣わして仇池の諸氐を誘い説き、兵を起こして英の運搬路と帰路を断たせていた。英は兵を整えて奮撃し、戦いつつ進み、矢が英の頬に当たったが、ついに全軍を保って仇池に帰り、叛いた氐を討って平らげた。英は拓跋楨の子、懿は蕭衍の兄である。
- 英が南鄭を攻めたとき、魏主は雍・涇・岐の三州に詔して兵六千人を発し南鄭に戍らせ、城を落としたら遣わすこととした。侍中兼左僕射李冲が上表して諫めた。「秦川は険阨で、地は羌夷に接しております。西へ出師してからは糧の輸送と援軍が連続し、そのうえ氐や胡が叛逆して至るところ命に奔走し、糧を運び甲を着ける労が今なお止みません。今また戍卒をあらかじめ差し出し、山外に懸けて置くとなれば、優遇や免除を加えても、なお驚かせるのを恐れます。かりに最後まで攻め落とせなければ、いたずらに民情を動かし、胡と夷を結ばせ、事は測りがたくなります。ゆえに旨に依ってひそかに刺史に下し、軍が鄭城を落としてから差し遣わすこととしました。 臣の愚見では、それでもなお足りぬと思います。なぜか。西の道は険阨で、細い一本道が千里続きます。今、境の外に深く戍り、群れなす賊の中に孤り拠ろうとするなら、敵が攻めても急には援けられず、食が尽きても糧を運べません。古人に『鞭は長くとも馬の腹には及ばぬ』という言葉があります。南鄭は国にとって実に馬の腹です。 それに魏の境が掩うところは九州のうち八を過ぎ、民として臣とするところは十のうち九、まだ民とせぬのは漠北と江外だけです。これを近く繋ぎ止めるのに、どうして今日を急がねばなりませんか。疆宇が広がり糧食が足りてから、邦を置き将を樹て、呑併の挙を為すべきです。今、鍾離と寿陽はごく近いのにまだ落とせず、赭城と新野もわずかの距離なのに降りません。東の道すら近い力で守れぬのに、西の藩をどうして遠い兵で固められましょう。もし本当に置かれるなら、臣は結局それが敵を利するだけになるのを恐れます。 また都を土中に建て、地は敵の地に接しております。まさに大いに決死の士を集め、江会を平らげ蕩わねばならぬときです。もし軽々しく寡兵を遣わして棄て置き陥落させれば、後日に挙兵する日、衆は留守を恐れ、死力を尽くさせようとしても容易には得られますまい。これを推して論ずれば、戍らぬのが上策です」。魏主は従った。
- 魏の城陽王鸞らが赭陽を攻めたが、諸将は統一されず、囲み守ること百余日に及んだ。諸将は兵を按じて戦わず敵を疲れさせようとしたが、李佐だけが昼夜攻撃し、士卒の死者が甚だ多かった。帝は太子右衛率垣歴生を遣わして救わせた。諸将は衆寡敵せぬとして退こうとしたが、佐だけが騎二千を率いて迎え撃って敗れた。盧淵らが引き揚げ、歴生が追撃して大破した。歴生は垣栄祖の従弟である。
- 南陽太守房伯玉らもまた沙堨で薛真度を破った。
- 鸞らが瑕丘で魏主に会うと、魏主は責めて「卿らは威霊を沮み辱めた。罪は死に当たる。朕は洛邑に遷ったばかりゆえ、特に寛典に従う」と言った。五月己巳、鸞を定襄県王に降封して食邑五百戸を削り、盧淵・李佐・韋珍はみな官爵を削って民とし、佐はそのうえ瀛州に移した。薛真度は従兄の安都とともに徐方を開いた功があったので、その爵と荊州刺史の職を存し、その他はみな削奪した。そして「進んでは功を明らかにし、退いては罪を彰らかにするに足る」と言った。
- 癸未、魏主が洛陽に帰り、太廟に告げた。甲申、冗官の禄を減らして軍国の用に充てた。乙酉、飲至の礼を行い、差をつけて賞を頒った。
三年(496年)
- 冬閏十月、魏主が侵入を謀り、公卿を清徽堂に引見して言った。「朕は土中に宅を卜し、綱条もひととおり挙がった。ただ南の敵が平らがぬだけだ。どうして近世の天子のように深宮の中で帳を下ろしていられようか。朕は今、南征を決めた。ただ早いか遅いかの時期をまだ決めていない。近ごろ術者はみな今行けば必ず勝つと言う。これは国の大事だ。君臣それぞれ見るところを尽くせ。朕が先に言ったからといって、前では曖昧にしておいて後で異を唱えるな」。
- 李冲が答えた。「およそ用兵の法は、まず人事を論じ、そののち天道を察するべきです。今、卜筮は吉でも人事が備わっておりません。遷都はまだ新しく、秋の穀も実っておらず、師旅を興すべきではありません。臣の見るところ、来秋を待つべきです」。帝は「去る十七年、朕は兵二十万を擁した。これぞ人事の盛。だが天時が不利だった。今、天時はすでに従っているのに、また人事が備わらぬという。僕射の言のとおりなら、ついに征伐の期はない。敵はごく近くにあり、いずれ社稷の憂いとなる。朕がどうして自ら安んじていられよう。もし秋の行が勝たねば、諸君はみな司寇に付されるべきだ。思うところを尽くさぬわけにいかぬ」と言った。
四年(497年)
- 六月壬戌、魏は冀・定・瀛・相・済の五州の兵二十万を発し、侵入しようとした。
- 八月丙辰、魏は詔で中外を戒厳した。甲戌、魏は華林園で講武した。庚辰、軍が洛陽を発した。吏部尚書任城王澄に留守させ、御史中尉李彪に度支尚書を兼ねさせて僕射李冲とともに留台の事を治めさせた。彭城王勰に中軍大将軍を仮した。勰は「親と疎を並び用いるのが古の道です。臣は何者にして頻りに寵授を蒙るのですか。昔、陳思王(曹植)は求めても許されなかった。愚臣は請わずして得た。何と否と泰の隔たりの大きいことか」と辞退した。魏主は大笑して勰の手を執り「二曹(曹丕と曹植)は才名で相忌んだ。私とお前は道徳で相親しむのだ」と言った。
- 上は軍主直閤将軍胡松を遣わして北襄城太守成公期の赭陽守備を助けさせ、軍主鮑挙に西汝南・北義陽二郡太守黄瑶起の舞陰守備を助けさせた。
- はじめ魏が洛陽に遷ったとき、荊州刺史薛真度は魏主にまず樊・鄧を取るよう勧めた。真度が兵を率いて侵入すると、南陽太守房伯玉が撃ち破った。魏主は怒り、南陽は小郡なのにと、必ず滅ぼそうと志して襄陽へ兵を向けた。彭城王勰ら三十六軍が前後に相次ぎ、衆は百万と号し、唇を吹き鳴らす音が地を沸かせた。
- 九月辛丑、魏主は諸将を留めて赭陽を攻めさせ、自ら兵を率いて南下した。癸卯、宛に至り、夜にその外郭を襲って落とした。房伯玉は内城に籠って拒み守った。
- 魏主は中書舎人孫延景を遣わして伯玉に告げさせた。「われは今、六合を掃き平らげ統一しようとしている。以前のように冬に来て春に去るのとは違う。落とすべきものを落とさぬかぎり、ついに北へは還らぬ。卿のこの城はわが六竜の首に当たる。まず攻め取らぬわけにいかぬ。遠くて一年、近ければ一月。侯に封ずるか首を梟すかは俯仰の間だ。よく考えよ。それに卿には三つの罪がある。今、卿に知らせよう。卿は先に武帝に仕えて並々ならぬ寵を蒙りながら、忠を建て命を致さず、その仇のために節を尽くしている。これが罪の一。先年、薛真度が来たとき、卿はわが偏師を傷つけた。罪の二。今、鑾輅が自ら臨んでいるのに、麾下に面縛して降らぬ。罪の三」。
- 伯玉は軍副の楽稚柔に応対させた。「攻囲して必ず落とすとお望みの由。卑微の常人が大威に抗するのは、まことに死に場所を得たと申せましょう。外臣は武帝に抜擢されました。どうして恩を忘れましょう。ただ嗣君が徳を失い、主上が大宗を光り輝かしく継がれました。それは億兆の深い望みに副うだけでなく、あわせて武帝の遺敕にも適うもの。ゆえに区々ながら節を尽くし、あえて失墜させぬのです。先に北の師が深く入って辺民を侵し騒がせたので、将士を励まして職を修めさせただけのこと。わが身に返って言えば、責めを受けるいわれはありません」。
- 宛城の東南隅の溝の上に橋があった。魏主が兵を率いて渡ったとき、伯玉は勇士数人にまだら模様の衣を着せ虎の頭の帽をかぶらせて穴の下に伏せさせ、突然出て撃たせた。魏主は人も馬も驚いたが、弓の巧みな原霊度を召して射させ、弦の音に応じて斃れたので免れた。
- 丁未、魏主が南陽を発ち、太尉咸陽王元禧らを留めて攻めさせた。己酉、魏主が新野に至った。新野太守劉思忌が拒み守った。冬十月丁巳、魏軍が攻めたが落とせず、長囲を築いて守った。人を遣わして城中に「房伯玉はすでに降った。お前たちだけがなぜ砕け散るのを選ぶのか」と告げさせた。思忌は人を遣わして「城中には兵も食もまだ多い。お前たち小虜の言葉に付き合っている暇はない」と答えさせた。
- 魏の右軍府長史韓顕宗が別軍を率いて赭陽に屯していた。成公期が胡松に蛮の兵を率いさせてその営を攻めさせたが、顕宗は力戦して破り、その裨将高法援を斬った。顕宗が新野に至ると、魏主は「卿が賊を破って将を斬ったのは軍勢を大いに益した。朕がまさに堅城を攻めているのに、なぜ露布(戦勝報告)を作らぬのか」と言った。顕宗は「近ごろ鎮南将軍王粛が賊二、三人と驢馬数匹を獲ただけで露布を作ったと聞き、臣は東観にあってひそかに笑っておりました。近ごろ威霊に仰ぎ拠って醜虜を摧いたとはいえ、兵は寡なく力は弱く、擒斬も多くありません。それを高く長い縑を掲げて功烈を虚しく張るのは、咎めながら真似ることで、その罪はいよいよ大きい。ゆえにあえて作らず、上申するにとどめたのです」と答えた。魏主はいよいよ賢者と認めた。
- 上は徐州刺史裴叔業に詔して兵を率いて雍州を救わせた。叔業は「北の人は遠くへ行くのを喜ばず、ただ掠奪を喜びます。もし虜の境を侵せば、司州・雍州の敵は自然に分かれましょう」と啓した。上は従った。叔業は兵を率いて虹城を攻め、男女四千余人を獲た。
- 甲戌、太子中庶子蕭衍と右軍司馬張稷を遣わして雍州を救わせた。十一月甲午、前軍将軍韓秀方ら十五将が魏に降った。丁酉、魏が沔北で斉兵を破り、将軍王伏保らが魏に捕らえられた。
- 新野の人張䐗が一万余家を率いて柵に拠り魏を防いだ。十二月庚申、魏人が攻め落とした。
- 雍州刺史曹虎は房伯玉と折り合わず、そのため救援を遅らせて樊城に軍を止めた。丁丑、詔で度支尚書崔慧景を遣わして雍州を救わせ、慧景に節を仮して衆二万・騎千匹を率いて襄陽へ向かわせ、雍州の衆軍をみなその節度を受けさせた。
- 庚午、魏主が南して沔水に臨み、戊寅、新野に還った。
- 将軍王曇紛が一万余人で魏の南青州の黄郭戍を攻めたが、魏の戍主崔僧淵が破り、全軍が全滅した。
- 将軍魯康祚と趙公政が一万の兵で魏の太倉口を侵した。魏の豫州刺史王粛は長史である清河の傅永に甲士三千を与えて撃たせた。康祚らは淮の南に、永は淮の北に陣し、十余里を隔てた。永は「南人は夜襲を好む。必ず淮を渡る所に火を置いて浅瀬の目印とする」と言い、夜のうちに兵を二手に分けて営外に伏せ、また瓠に火を入れ、ひそかに人に淮の南岸へ渡らせて深い所に置き、「火が起こったらこちらも同じく点けよ」と戒めた。
- この夜、康祚らは果たして兵を率いて永の営に斬り込んだが、伏兵が挟み撃ちにした。康祚らは淮水へ逃げようとしたが、火が競って上がってどこが浅瀬か分からず、溺死した者と斬られた首が数千級、公政を生け捕り、康祚の屍を獲て帰った。
- 豫州刺史裴叔業が魏の楚王戍を侵した。粛はまた永に撃たせた。永は腹心一人を連れて楚王戍へ馳せ、外の塹を埋めさせ、夜に戦士千人を城外に伏せた。夜明けに叔業らが城の東に至り、部署を分けて長囲を築こうとした。永の伏兵がその後軍を撃って破った。叔業は将佐を留めて営を守らせ、自ら精兵数千を率いて救いに向かった。永は門楼に登って叔業が南へ数里行くのを望み見、すぐ門を開いて奮撃して大破し、叔業の傘・扇・鼓・幕と甲一万余を獲た。叔業は進退の拠り所を失って逃げた。左右が追おうとしたが、永は「わが弱兵は三千に満たず、彼の精甲はなお盛んだ。力が屈して敗れたのではなく、自らわが計に落ちただけのこと。我らの虚実を測れぬのだから、胆を潰させるには足りる。これだけ捕らえれば十分だ。なぜさらに追うのか」と言った。
- 魏主は謁者を遣わしてその場で永を安遠将軍・汝南太守に任じ、貝丘県男に封じた。永は勇力があり学を好み文もよくした。魏主はいつも嘆じて「馬に乗っては賊を撃ち、馬を下りては露板を作る。ただ傅脩期(永)だけだ」と言った。
永泰元年(498年)
- 春正月、魏の統軍李佐が新野を攻めた。丁亥、これを落とし、劉思忌を縛って「今、降る気になったか」と問うた。思忌は「南の鬼となろうとも、北の臣にはならぬ」と言い、そこで殺した。こうして沔北は大いに震えた。
- 戊子、湖陽の戍主蔡道福、辛卯、都陽の戍主成公期、壬辰、舞陰の戍主黄瑶起と南郷太守席謙が相次いで南へ逃げた。瑶起は魏に捕らえられ、魏主は王粛に与えた。粛は切り刻んで食った。
- 乙巳、太尉陳顕達に雍州を救うよう命じた。
- 庚戌、魏主が南陽に行った。二月癸丑、詔で左衛将軍蕭恵休に寿陽を救わせた。甲子、魏人が宛の北城を落とし、房伯玉は面縛して出て降った。伯玉の従父の弟の房思安は魏の中統軍で、たびたび伯玉のために泣いて請うたので、魏主は赦した。
- 庚午、魏主が新野に行った。辛巳、彭城王勰を使持節・都督南征諸軍事・中軍大将軍・開府儀同三司とした。
- 三月壬午朔、崔慧景と蕭衍が鄧城で大敗した。当時、慧景が襄陽に至ったとき五郡はすでに陥落していた。慧景は衍および軍主劉山陽・傅法憲らと五千余人を率いて鄧城へ進んだ。魏の数万騎が突如至り、諸軍は城に登って拒み守った。当時、将士は寝床で食事を済ませて軽装で行軍しており、みな飢えと恐れの色があった。衍が出て戦おうとしたが、慧景は「虜は夜に人の城を囲まぬ。日が暮れれば自ずと去る」と言った。
- やがて魏の衆がさらに至った。慧景は南門から軍を引いて去ったが、諸軍は互いに知らず、相次いでみな逃げた。魏兵が北門から入った。劉山陽は部曲数百人と殿軍となり決死で戦い、戦いつつ退いた。慧景が閙溝を渡ると、軍人が踏み合い、橋はみな折れ壊れた。魏兵が道の両側から射かけ、傅法憲を殺した。士卒で溝に落ちて死ぬ者が枕を並べた。山陽は襖や武具を取って溝を埋め、それを踏んで免れた。
- 魏主が大兵を率いて追い、日暮れどきに沔に至った。山陽は城に拠って苦戦し、暮れになって魏兵はようやく退いた。諸軍は恐れ、この夕にみな船に下って襄陽へ帰った。
- 庚寅、魏兵が十万の衆を率い、羽儀と華蓋を掲げて樊城を囲んだ。曹虎は門を閉じて自ら守った。魏主は沔水に臨んで襄陽の岸を望み、そののち去って湖陽に行った。辛亥、懸瓠に行った。
- 魏の鎮南将軍王粛が義陽を攻めた。裴叔業は五万の兵で渦陽を囲んで義陽を救おうとした。魏の南兖州刺史である済北の孟表が渦陽を守り、糧が尽きて草木の皮や葉を食っていた。叔業は殺した魏人の屍を高さ五丈に積んで城内に示した。別に軍主蕭璝らに竜亢を攻めさせた。魏の広陵王元羽が救援したが、叔業が兵を率いて撃って大破し、追ってその節を獲た。
- 魏主は安遠将軍傅永、征虜将軍劉藻、仮輔国将軍高聡らを遣わして渦陽を救わせ、みな王粛の節度を受けさせた。叔業が進撃して大破し、聡は懸瓠へ逃げ、永は散った卒を収めてゆっくり退いた。叔業は二度の戦いで総計一万級を斬り、二千余人を捕虜とし、獲た器械・家畜・財物は千万を数えた。
- 魏主は三将を鎖で繋いで懸瓠に出頭させ、劉藻と高聡は死を免じて平州に移し、傅永は官爵を奪い、王粛を平南将軍に降した。粛は上表して改めて軍を送って渦陽を救うよう請うた。魏主は「卿の意を見るに、必ず藻らが敗れたばかりなので改めて行くのを難しく思っているのだろう。朕が今、兵を少し分ければ敵を制するに足らず、多く分ければ禁旅が欠ける。卿がよく図れ。義陽は止まるべきなら止まり、下るべきなら下れ。もし渦陽を失えば、卿の過ちである」と答えた。
- 粛はそこで義陽の囲みを解き、統軍楊大眼・奚康生らと歩騎十余万で渦陽を救った。叔業は魏兵の盛んなのを見て夜に兵を引いて退き、翌日、士衆は潰走した。魏人が追い、殺傷は数えきれなかった。叔業は義陽に退いて保った。
- 夏四月庚午、魏が州郡の兵二十万を発し、八月中旬に懸瓠に集まることとした。
- 秋七月己酉、上が正福殿で崩じ、太子(東昏侯)が即位した。
- 九月己亥、魏主は高宗(明帝)の崩御を聞き、詔を下して「礼として喪を伐たず」として兵を引いて還った。
- 魏主は病を得て甚だ篤くなった。丙午、懸瓠を発ち、汝水のほとりに宿った。冬十一月辛巳、魏主が鄴に行った。
東昏侯永元元年(499年)
- 春正月、太尉陳顕達が平北将軍崔慧景らの軍四万を督して魏を撃ち、雍州の諸郡を回復しようとした。癸未、魏は前将軍元英を遣わして防がせた。
- 乙酉、魏主が鄴を発った。
- 二月、陳顕達が魏の元英と戦ってたびたび破り、馬圏城を四十日攻めた。城中は食が尽き、死人の肉と樹皮を食った。癸酉、魏人が囲みを破って逃げ、斬獲は千を数えた。顕達が入城すると、将士は競って城中の絹を取り、ついに徹底追撃しなかった。顕達はまた軍主荘丘黒を進撃させて南郷を落とした。
- 魏主が任城王澄に「顕達が侵し騒がせている。朕が自ら行かねば制せられぬ」と言った。三月庚辰、魏主が洛陽を発ち、于烈に留守を命じ、右衛将軍宋弁に祠部尚書を兼ねさせ七兵の事を摂して補佐させた。弁は吏務に精勤で、恩遇は李冲に次いだ。
- 癸未、魏主が梁城に至った。崔慧景が魏の順陽を攻めたが、順陽太守である清河の張烈が固守した。甲申、魏主は振威将軍慕容平城に騎五千で救わせた。
- 丁酉、魏主が馬圏に至り、荊州刺史広陽王元嘉に均口を断って斉兵の帰路を遮らせた。嘉は元建の子である。
- 陳顕達は兵を率いて水を渡り西の鷹子山に拠って城を築いた。人心は沮み恐れ、魏と戦ってたびたび敗れた。魏の武衛将軍元嵩が兜を脱いで陣に突入し、将士が続いて、斉兵は大敗した。嵩は元澄の弟である。
- 戊戌の夜、軍主崔恭祖と胡松が黒い布の幔で顕達ら数人を包んで担ぎ、間道から分磧山を経て均水口を出て南へ逃げた。己亥、魏は顕達の軍資を億単位で収め、将士に分け賜い、漢水まで追撃して還った。左軍将軍張千が戦死し、士卒の死者は三万余人に及んだ。
- 顕達の北伐で軍が汮・均口に入ったとき、広平の馮道根が顕達に説いた。「汮と均は水の流れが速く、進みやすく退きにくい。魏がもし隘路を守れば首尾ともに窮します。船をすべて鄼城に棄て、陸路を歩いて進み、営を並べて次々に連ね、鼓を鳴らして進めば、破るのは必定です」。顕達は従わなかった。道根は私の従者として従軍していた。顕達が夜に逃げたとき、軍人は山道を知らなかったが、道根が険要に至るたびに馬を止めて指し示したので、衆はそれで助かった。詔で道根を汮・均口の戍副とした。
- 顕達は日ごろから威名があったが、これで大いに損なった。御史中丞范岫が顕達の免官を奏し、顕達も自ら上表して職を解くよう求めたが、いずれも許されず、改めて顕達を江州刺史とした。崔慧景も順陽を棄てて逃げ帰った。
- 庚子、魏主の病が甚だしくなり、北へ還った。夏四月丙午、穀塘原で崩じた。彭城王勰は任城王澄と、陳顕達が去ってまだ遠くなく、引き返して襲い迫るのを恐れ、喪を秘して寝台の輿に遺体を移した。ただ二王と左右数人だけが知っていた。勰の出入りする神色に変わりはなく、膳を奉り薬を進め、外からの奏に裁可を下すこと、すべて平日どおりだった。数日で宛城に至り、夜に寝台の輿を郡の聴事に入れ、棺に納めて改めて寝台の輿に載せた。内外に知る者はなかった。
- 中書舎人張儒を遣わして詔を奉じて太子を召し、ひそかに凶報を留守の于烈に告げた。烈は出発と留守を処置し、挙止に変わりがなかった。太子が魯陽に至って梓宮に出会い、そこで喪を発した。