通鑑紀事本末蕭鸞の簒弑(蕭鸞簒弑)

斉の高帝の甥である西昌侯蕭鸞が、武帝の没後に幼くして立った鬱林王蕭昭業の淫虐を機に、蕭諶・蕭坦之・王晏・徐孝嗣らを味方につけて鬱林王を弑し、海陵王蕭昭文を立てて実権を握り、鄱陽王鏘・随王子隆・晉安王子懋ら諸王を典籤を使って次々に殺したうえで、みずから即位した経緯。建元二年(480年)から建武元年(494年)まで。諸王の無力さは典籤制の弊として語られる。

年表(4件)
  • 斉高帝
  • 建元二年480年蕭鸞を郢州刺史とする。鸞は高帝の兄の子で帝に養われた
  • 四年482年南郡王蕭長懋を皇太子に立てる
  • 武帝
  • 永明十一年493年武帝が崩じ、王融の擁立の謀が破れて鬱林王が即位する
  • 明帝
  • 建武元年494年鸞が鬱林王を弑して海陵王を立て、諸王を殺してのち即位する

斉高帝建元二年(480年)

  • 春三月丁酉朔、侍中西昌侯蕭鸞を郢州刺史とした。鸞は帝の兄の始安貞王蕭道生の子である。早くに父を失い、帝に養われ、恩は諸子に勝った。

四年(482年)

  • 夏六月甲申朔、南郡王蕭長懋を皇太子に立てた。

武帝永明十一年(493年)

  • 春正月丙子、文恵太子長懋が没した。太子は日ごろ西昌侯鸞を憎み、かつて竟陵王子良に「私はどうにもこの人が好かぬ。その理由は分からぬが、たぶんその福が薄いからだろう」と言った。子良は取りなしていた。鸞が政を得ると、太子の子孫は一人も残らなかった。
  • 夏四月甲午、南郡王蕭昭業を皇太孫に立てた。東宮の文武はみな太孫の官属に改め、太子妃の琅邪の王氏を皇太孫太妃、南郡王妃の何氏を皇太孫妃とした。妃は王戢の娘である。
  • 秋七月戊午、上が病んだ。詔で竟陵王子良に武装のまま延昌殿に入って医薬に侍らせた。子良は蕭衍・范雲らをみな帳内の軍主とした。子良は日夜内におり、太孫は日を置いて参上するだけだった。
  • 戊寅、上の病が急変して一時息が絶えた。太孫はまだ内に入っておらず、内外は恐れ惑い、百僚はみな喪服に着替えた。中書郎王融が詔を偽って子良を立てようとし、詔の草案はすでにできていた。蕭衍が范雲に「道に噂が飛び交い、みな尋常でない挙があると言っている。王元長(融)は世を済う才ではない。その敗れるのを見るがよい」と言った。雲は「国家を憂えているのは王中書だけです」と言った。衍は「国を憂えて周公・召公になろうというのか、豎刁になろうというのか」と言い、雲は答えられなかった。
  • 太孫が来ると、王融は戎服に絳の衫を着て中書省の閤口で東宮の兵仗を遮り進ませなかった。ほどなく上が息を吹き返し、太孫はどこかと問い、東宮の武具をみな入れさせ、朝事を尚書左僕射西昌侯鸞に委ねた。
  • まもなく上が崩じた。融は子良の兵で諸門を禁ずる処置をした。鸞はこれを聞いて急ぎ馳せ、雲竜門に至ったが進めなかった。鸞は「敕があって私を召された」と言って押しのけて入り、太孫を奉じて殿に登らせ、左右に子良を扶け出すよう命じた。指揮と部署を下す声は鐘のように響き、殿中で命に従わぬ者はなかった。融は成らぬと知って喪服を脱いで省に戻り、「公が私を誤らせた」と嘆じた。これで鬱林王は融を深く怨んだ。
  • 遺詔に「太孫は徳を進めること日に盛んで、社稷は託するに足る。子良はよく輔けて治道を弘めることを思え。内外の諸事は大小を問わずすべて鸞と相談して共に意を決せよ」とあった。
  • 鬱林王がまだ立たぬうち、衆はみな子良が立つと疑い、噂が喧しかった。武陵王蕭曄が衆中で大声で「長を立てるなら私であるべきだし、嫡を立てるなら太孫であるべきだ」と言った。これで帝は深く曄を頼りにした。
  • はじめ西昌侯鸞は太祖に愛された。鸞は倹素な性で、車も服も供回りも素士(無官の士)と同じで、任じられた官では厳明有能と称された。ゆえに世祖も重んじた。世祖の遺詔は竟陵王子良に輔政させ、鸞に尚書の事を知らせるものだったが、子良はもとより仁厚で世務を好まず、そこで改めて鸞を推した。遺詔に「事は大小を問わずすべて鸞と相談せよ」とあるのは、子良の志だったのである。
  • 帝は幼くして子良の妃の袁氏に養われ、慈愛は甚だ篤かった。だが王融の謀があってから、深く子良を忌んだ。大行(先帝の柩)が太極殿を出るとき、子良は中書省にいた。帝は虎賁中郎将潘敞に二百人の兵を率いさせて太極殿の西の階に屯させ、これを防いだ。喪服を着け終えると諸王はみな出た。子良は山陵の礼まで留まりたいと乞うたが許されなかった。
  • 壬午、遺詔と称して武陵王曄を衛将軍とし、征南大将軍陳顕達とともに開府儀同三司を加え、尚書左僕射西昌侯鸞を尚書令、太孫詹事沈文季を護軍とした。癸未、竟陵王子良を太傅とした。
  • 鬱林王は弁が立って聡く、容姿と物腰が美しく、応対に巧みで、哀楽の情の表し方が人に勝っていた。世祖はそれで愛した。だが情を偽り詐りを飾り、ひそかに卑しい心を抱いて、側近の小人と衣食を共にし寝起きを共にした。
  • 南郡王だった頃、竟陵王子良に従って西州にいた。文恵太子はその都度起居を禁じ、費用を切り詰めた。王はひそかに富人から銭を求め、あえて与えぬ者はなかった。別に合鍵を作って夜に西州の後閤を開け、側近と諸営署の中で淫らな宴を張った。師の史仁祖と侍書の胡天翼が語り合った。「もし二宮(世祖と太子)に申し上げれば、事は容易でない。営署で人に殴られたり犬や物に傷つけられたりすれば、罪は一身に止まらず一族に禍が及ぶ」。二人とも年は七十余、命を惜しむに足りぬとして、数日のうちに相次いで自殺した。二宮はこれを知らなかった。
  • 寵愛する側近にはあらかじめ官爵を与え、黄紙に書き出して袋に入れて帯びさせ、南面する日にそのとおり施行すると約した。太子の看病に侍り、また喪に居るときは、憂いの表情と号泣で身を損ない、見る者は咽んだ。だが自室に戻るとたちまち歓笑して酒宴を張った。常に女巫の楊氏に祈らせて速やかに帝位を求めた。太子が没すると楊氏の力によるものと思い、いよいよ敬い信じた。太孫となってから世祖が病むと、また楊氏に祈らせた。
  • 当時、何妃はまだ西州にいた。世祖の病がやや危うくなると、太孫は何妃に手紙を送り、紙の中央に大きな「喜」の字を書き、それを三十六の小さな「喜」の字で囲んだ。世祖の看病に侍っては、言葉を発するたびに涙を流した。世祖は必ず大業を担えると思い、「五年のうちは一切宰相に委ねよ。お前は口を出すな。五年を過ぎたら二度と人に委ねるな。自ら行って成らなくとも、多くを恨むには及ばぬ」と言った。臨終にその手を執って「翁を思い出すなら、よく治めよ」と言い、そのまま崩じた。
  • 大斂が済むや否や、世祖の伎人をみな呼んで諸楽を奏させた。即位して十余日で王融を捕らえて廷尉に下し、中丞孔稚珪に「融は険しく躁がしく軽薄狡猾で、不逞の輩を招き入れ朝政を誹謗した」と奏させた。融は竟陵王子良に助けを求めたが、子良は憂え恐れて救う勇気がなく、ついに獄で死を賜った。

明帝建武元年(494年)

  • 春正月、西昌侯鸞は廃立を謀ろうとして、前の鎮西諮議参軍蕭衍を引き入れて共に謀った。荊州刺史随王蕭子隆は温和な性で文才があった。鸞は召し寄せたかったが従わぬのを恐れた。衍が言った。「随王は美名があっても実は凡庸劣弱です。智謀の士もなく、爪牙はただ司馬垣歴生と武陵太守卞白竜だけ。この二人は利にしか従いません。顕職で釣れば来ぬはずがない。随王は手紙一通で足ります」。鸞は従い、歴生を太子左衛率、白竜を遊撃将軍として召し、二人とも来た。続いて子隆を召して侍中・撫軍将軍とした。
  • 豫州刺史崔慧景は高帝・武帝以来の旧将で、鸞はこれを疑い、蕭衍を寧朔将軍として寿陽に戍らせた。慧景は恐れて白服で出迎え、衍は撫して安んじた。
  • 帝は中書舎人綦母珍之・朱隆之、直閤将軍曹道剛・周奉叔、宦者徐竜駒らを寵幸した。珍之が論じ薦めることは通らぬものがなく、内外の要職はみな先に値を論じた。旬月のうちに家は千金を重ね、官の物を勝手に取り、労役も詔旨を待たずに行った。役人どもは互いに「至尊の敕は拒めても、舎人の命には背けぬ」と言い合った。
  • 帝は竜駒を後閤舎人とした。常に含章殿にいて黄の綸帽をかぶり貂裘を着け、南面して机に向かい、帝に代わって敕を書いた。左右に侍り宿直することも帝と変わらなかった。
  • 帝は山陵の礼の後、すぐに側近と微服で市中を遊び歩き、世宗(文恵太子)の崇安陵の隧道の中で泥を投げ合い、跳躍を賭け、さまざまな下品な遊びをするのを好んだ。思うまま賜与し、側近には百数十万に及ぶこともあった。銭を見るたびに「私は昔、お前を一枚欲しくても得られなかった。今日はお前を使ってやる」と言った。世祖が蓄えた銭は上庫に五億万、斎庫にも三億万、金銀と布帛は数えきれなかったが、鬱林王が即位して一年も経たぬうちにほとんど使い尽くした。主衣庫に入り、何后と寵姫にさまざまな宝器を投げ合って壊させ、笑い興じた。世祖の寵姫の霍氏と密通し、その姓を徐と改めさせた。
  • 朝事の大小はすべて西昌侯鸞が決した。鸞がたびたび諫め争っても帝の多くは従わず、心では鸞を忌んで除こうとした。尚書右僕射鄱陽王蕭鏘は世祖に厚遇されていた。帝はひそかに鏘に「公は鸞の法身についてどう聞いているか」と問うた。鏘はもとより温和で謹み深く、「臣が思うに、鸞は宗族の中で最年長、しかも先帝の託を受けております。臣らはみな年少で、朝廷が頼るのは鸞ただ一人。陛下、ご心配なさいますな」と答えた。帝は退いて徐竜駒に「私は公と共に鸞を取る計を立てたかったのに、公が同意せぬ以上、私一人では処理できぬ。しばらく様子を見よう」と言った。
  • 衛尉蕭諶は世祖の族子である。世祖が郢州にいた頃から諶は腹心で、即位してからは常に宿衛を掌り、機密の事で預かり聞かぬものはなかった。征南諮議蕭坦之は諶の族人で、かつて東宮の直閤として世宗に知られていた。帝は二人が祖父の代からの旧人なので甚だ信任した。諶が急ぎの休暇で外に泊まるたび、帝は一晩中眠れず、諶が帰るとようやく落ち着いた。坦之は後宮に出入りでき、帝が馴れ合って遊び宴するときも坦之は常に傍らにいた。帝は酔うといつも裸になり、坦之がその都度扶けて諫め諭した。西昌侯鸞が諫めようとしても、帝が後宮にいて出て来ぬときは、ただ諶と坦之を遣わしてまっすぐ進ませてこそ伝えられた。
  • 何后もまた淫らで、帝の側近の楊珉と密通し、夫婦のように寝起きを共にした。また帝とも仲がよかったので、帝は恣にさせた。后の親戚を宮に迎え入れて耀霊殿に住まわせ、斎閤は夜通し開け放たれ、内外が入り乱れて区別もなくなった。
  • 西昌侯鸞が坦之を遣わして珉の誅殺を奏させた。何后は涙を流して顔を覆い「楊郎はよい年若者で罪もない。どうして枉げて殺せるのか」と言った。坦之は帝の耳に口を寄せて「外では楊珉と皇后のことがみな噂されております。事は遠近に露わです。誅さぬわけにいきません」と言った。帝はやむなく許した。まもなく敕で赦そうとしたが、すでに刑は行われていた。鸞はまた徐竜駒の誅殺を啓し、帝はこれにも背けなかったが、心の中で鸞をいよいよ忌んだ。
  • 蕭諶と蕭坦之は帝の狂縦が日ごとに募り改める気配がないのを見て、禍が我が身に及ぶのを恐れ、心を翻して鸞に付き、廃立を勧め、ひそかに鸞の耳目となった。帝はこれに気づかなかった。
  • 周奉叔は勇を恃み勢いを笠に着て公卿を踏みにじり、常に単刀二十口を持たせた者を随え、禁中を出入りしても門衛はあえて咎めなかった。いつも人に「周郎の刀は君を知らぬぞ」と言っていた。鸞はこれを忌み、蕭諶と蕭坦之に帝を説かせて、奉叔を外に出して自らの後ろ盾とさせようとした。己巳、奉叔を青州刺史、曹道剛を中軍司馬とした。
  • 奉叔は帝に千戸侯を求め、帝は許した。鸞が不可としたので、曲江県男・食邑三百戸に封じられた。奉叔は激怒して衆中で刀を抜き色を厲しくしたが、鸞が説き諭してようやく受けた。奉叔は辞去して任地へ赴こうとし、部隊はすでに出発していた。鸞は蕭諶と敕と称して奉叔を省中に召し、殴り殺し、「奉叔が朝廷を侮った」と啓した。帝はやむなくその奏を認めた。
  • 溧陽令である銭塘の杜文謙は、かつて南郡王の侍読だった。これに先立ち綦母珍之に説いていた。「天下の事は察しがつく。灰も粉も尽きるのは朝か夕か。早く計を立てねば我らは滅びる」。珍之が「どんな計があるか」と問うと、文謙は「先帝の旧人の多くが斥けられている。今、召して使えば、誰が感奮せぬだろう。近ごろ王洪範が宿衛の将万霊会らと語り、みな袖をまくり床を叩いたと聞く。君はひそかに周奉叔に報せ、万霊会らに蕭諶を殺させれば、宮内の兵はみな我らの用となる。ただちに兵を整えて尚書に入り、蕭令(鸞)を斬るのは、都伯二人の力で足りる。今、大事を挙げても死、挙げなくても死。二つの死は等しい。社稷のために死ぬのは可ではないか。もし遅疑して断ぜねば、数日のうちに君を捕らえ、敕と称して死を賜り、父母が殉じるのを目にすることになる」と言った。珍之は用いなかった。鸞は奉叔を殺したとき、あわせて珍之と文謙を捕らえて殺した。
  • 秋七月、西昌侯鸞が徐竜駒と周奉叔を誅してから、尼や老女で外から入る者がかなり異な話を伝えた。中書令何胤は后の従叔として帝に親しまれ、殿省に当直させられていた。帝は胤と鸞誅殺を謀り、胤に事を受けさせようとしたが、胤は引き受ける勇気がなく、曖昧に諫め説いた。帝の意はまた止まり、そこで鸞を西州に出す謀を立て、中央の敕による政務は鸞に諮らぬこととした。
  • 当時、蕭諶と蕭坦之が兵権を握り、左僕射王晏が尚書の事を総べていた。諶はひそかに諸王の典籤を召して約束させ、諸王が外部の人物と接するのを許さなかった。諶は長く親しく重要な地位にあったので、衆はみな憚って従った。
  • 鸞はその謀を王晏に告げ、晏は聞いて響き応じた。また丹陽尹徐孝嗣に告げ、孝嗣も従った。驃騎録事である南陽の楽豫が孝嗣に「外の噂は喧しく、伊尹・周公の事があるようです。君は武帝の並々ならぬ恩を受け、託付の重きを負っておられる。人と同じことをなさっては、笑われましょう。人は褚公(褚淵)のことを今も歯が冷たくなると言います」と言った。孝嗣は心では然りと思ったが従えなかった。
  • 帝が蕭坦之に「人は鎮軍(鸞)が王晏・蕭諶と共に私を廃そうとしていると言う。虚報ではないようだ。卿の聞くところはどうか」と問うた。坦之は「天下にそんなことがありましょうか。誰が事もないのに天子を廃するのを楽しみましょう。朝廷の貴顕がそんな議を作るはずがない。きっと尼や老女の言でしょう。信じられましょうか。官家がもし事もないのにこの三人を除かれれば、誰が自ら身を保てましょう」と答えた。
  • 直閤将軍曹道剛は外に異変があると疑い、ひそかに処置を進めた。謀はまだ発せられずにいた。当時、始興内史蕭季敞と南陽太守蕭穎基がいずれも中央に転じることになっており、諶は二人の到着を待ってその勢力を借りて事を挙げようとしていた。鸞は事が変わるのを慮り、坦之に告げた。坦之は馳せて諶に言った。「天子を廃するのは古来の大事。近ごろ曹道剛・朱隆之らがすでに猜疑を強めていると聞く。衛尉が明日事に就かねば、もう間に合わぬ。弟には百歳の母がおられる。座して禍と敗を待てましょうか。別の計を立てるほかない」。諶は恐れ慌てて従った。
  • 壬辰、鸞は蕭諶に先に入らせた。諶は曹道剛と中書舎人朱隆之に出会い、みな殺した。直後の徐僧亮が激怒して衆中で「われらは恩を受けた身。今日こそ死をもって報いるべきだ」と大言し、これも殺した。
  • 鸞は兵を率いて尚書から雲竜門に入った。戎服の上に朱衣を着けており、門に入るまでに三度も履を落とした。王晏・徐孝嗣・蕭坦之・陳顕達・王広之・沈文季がみな後に従った。
  • 帝は寿昌殿にいて、外に変があると聞き、なおひそかに手ずから敕を書いて蕭諶を呼び、また内殿の諸房と閤を閉じさせた。ほどなく諶が兵を率いて寿昌閤に入った。帝は徐姫の部屋へ走って剣を抜いて自ら刺したが刺さらず、帛で首を纏かれ、輿に載せられて延徳殿へ連れ出された。
  • 諶が初めて殿に入ったとき、宿衛の将士はみな弓と楯を執って防ぎ戦おうとした。諶が「取るべき相手は決まっている。卿らは動くに及ばぬ」と言うと、宿衛は日ごろ諶に服していたのでみな信じた。帝が連れ出されるのを見てそれぞれ奮い立とうとしたが、帝はついに一言も発しなかった。西弄に至って殺した。屍を輿で運び出し、徐竜駒の宅に殯し、王の礼で葬った。徐姫および寵臣どもはみな誅された。
  • 鸞は帝を弑してから太后の令を作ろうとした。徐孝嗣が袖の中から取り出して進め、鸞は大いに喜んだ。
  • 癸巳、太后の令で帝を追って鬱林王に廃し、また何后を廃して王妃とし、新安王蕭昭文を迎え立てた。丁酉、新安王が即位した。時に十五歳。西昌侯鸞を驃騎大将軍・録尚書事・揚州刺史・宣城郡公とし、大赦して延興と改元した。
  • 八月、始安王蕭遥光を南郡太守としたが赴任させなかった。遥光は鸞の兄の子である。鸞に異志があり、遥光はこれに賛成し、およそ大きな誅罰と賞与に与らぬものはなかった。戊申、中書郎蕭遥欣を兖州刺史とした。遥欣は遥光の弟である。鸞は親党を配置しようとしたので用いたのである。
  • 鬱林王が廃されたとき、鄱陽王鏘は初め謀を知らなかった。宣城公鸞の勢いがいよいよ重くなり、中外はみな不臣の志を蓄えていると知った。鏘が鸞のもとを訪ねるたび、鸞はいつも履を引きずって車の後ろまで迎えに出、家と国のことに話が及ぶと言葉と涙を共に流した。鏘はそれで信じた。
  • 宮と台の内はみな鏘に心を寄せ、宮に入って兵を発し輔政するよう勧めた。制局監の謝粲が鏘と随王子隆に説いた。「二王はただ油璧の車で宮に入り、天子を出して朝堂に置き、左右から輔けて号令を下されればよい。粲らが城門を閉じて武装すれば、誰があえて同じませぬか。東城の人はきっと共に蕭令を縛って送ってきますよ」。子隆は計を定めようとしたが、鏘は上台の兵力がすでにすべて東府に渡っており、また事が成らぬのを慮って、甚だためらった。
  • 馬隊主の劉巨は世祖の時の旧人で、鏘のもとへ来て人払いを請い、叩頭して事を起こすよう勧めた。鏘は車を出させて入ろうとしたが、また内に戻って母の陸太妃に別れを告げ、日が暮れて行けなくなった。典籤がその謀を知って告げた。
  • 九月癸酉、鸞は兵二千人を送って鏘の邸を囲み、鏘を殺し、そのまま子隆および謝粲らを殺した。当時、太祖の諸子のうち子隆が最も壮大で才能があったので、鸞は特に忌んだのである。
  • 江州刺史晉安王蕭子懋は鄱陽王・随王の死を聞いて挙兵しようとし、防閤である呉郡の陸超之に「事が成れば宗廟が安んじ、成らずとも義の鬼となる」と言った。防閤である丹陽の董僧慧は「この州は小さいが、宋の孝武はかつてここを用いた。もし兵を挙げて闕に向かい、鬱林の罪を問えば、誰が防げましょう」と言った。
  • 子懋の母の阮氏は建康にいた。ひそかに書を送って迎えようとした。阮氏はその同母兄の于瑶之に計を告げ、瑶之は馳せて宣威公鸞に告げた。
  • 乙亥、鸞に黄鉞を仮し、内外を戒厳し、中護軍王玄邈を遣わして子懋を討たせ、また軍主裴叔業と于瑶之を先に尋陽へ襲わせ、「郢府の司馬として赴く」と称させた。子懋はこれを察して三百人に湓城を守らせた。叔業は流れを遡ってまっすぐ上り、夜に引き返して湓城を襲った。城局参軍の楽賁が門を開いて入れた。
  • 子懋はこれを聞き、府と州の兵力を率いて城に拠って自ら守った。子懋の部曲の多くは雍州の人で、みな勇み立って奮い戦いたがった。叔業はこれを畏れ、于瑶之を遣わして子懋に「今、都に帰れば必ず憂いはない。散官にはなるが、富貴を失いはしない」と説かせた。子懋が兵を出して叔業を攻めなかったので、衆情は次第に沮んだ。
  • 中兵参軍の于琳之は瑶之の兄である。子懋に「叔業に厚く賄賂すれば禍を免れられます」と説いた。子懋は琳之を行かせたが、琳之はそれに乗じて叔業に子懋を取るよう説いた。叔業は軍主徐玄慶に四百人を率いさせて琳之に従って州城に入らせた。僚佐はみな逃げ散った。琳之は二百人を従えて白刃を抜いて斎に入った。子懋は罵って「小人めが、よくもこんなことができるな」と言った。琳之は袖で顔を覆い、人に殺させた。
  • 王玄邈が董僧慧を捕らえて殺そうとした。僧慧は「晉安が義兵を挙げ、僕はまことにその謀に与った。主人のために死ねるなら恨みはない。ただ大斂が済むまで待ち、そののち鼎鑊に就きたい」と言った。玄邈は義とし、詳しく鸞に報告して死を免じ、東冶に配した。子懋の子の蕭昭基は九歳で、二寸四方の絹に手紙を書いてその安否を尋ね、あわせて銭五百を贈った。金を使ってようやく届いた。僧慧はこれを見て「若君の手蹟だ」と言い、悲しみ慟哭して没した。
  • 于琳之が陸超之に逃亡を勧めた。超之は「人はみな死ぬ。恐れるに足らぬ。私が逃亡すれば、晉安のご恩顧に背くばかりか、田横の客に笑われるのも恐ろしい」と言った。玄邈らが囚えて都に還そうとすると、超之は端座して命を待った。超之の門生は超之を殺せば賞を得られると思い、ひそかに背後から斬った。首が落ちても身は倒れなかった。玄邈は手厚く殯斂した。門生も棺を担ぐのを手伝ったが、棺が落ちてその頭を圧し、首を折って死んだ。
  • 鸞は平西将軍王広之を遣わして南兖州刺史安陸王蕭子敬を襲わせた。広之は歐陽に至り、部将である済陰の陳伯之を先駆とした。伯之は城が開いているのに乗じて独り入り、子敬を斬った。
  • 鸞はまた徐玄慶を西上させて諸王を害させた。臨海王蕭昭秀が荊州刺史で、西中郎長史何昌㝢が州の事を行っていた。玄慶が江陵に至って便宜に従って処理しようとすると、昌㝢は「僕は朝廷の意を受けて外藩を輔翼している。殿下にはまだ落ち度がない。君が一介の使者として来たからといって、どうしてすぐお渡しできよう。もし朝廷が必ず殿下を求められるなら、自ら啓上して改めて後の旨を待つべきだ」と言った。昭秀はこれで建康に帰れた。昌㝢は何尚之の弟の子である。
  • 鸞は呉興太守孔琇之に郢州の事を行わせ、晉熙王蕭銶を殺させようとした。琇之は辞退したが許されず、ついに食を絶って死んだ。琇之は孔靖之の孫である。
  • 裴叔業は尋陽からそのまま湘州へ進み、湘州刺史南平王蕭鋭を殺そうとした。防閤の周伯玉が衆中で大言した。「これは天子の意ではない。今、叔業を斬って兵を挙げ社稷を匡せば、誰があえて従わぬだろう」。鋭の典籤が左右に叱って斬らせた。乙酉、鋭を殺し、また郢州刺史晉熙王銶、南豫州刺史宜都王蕭鏗を殺した。
  • 冬十月、宣城公鸞を太傅・領大将軍・揚州牧・都督中外諸軍事とし、殊礼を加え、爵を進めて王とした。
  • 宣城王が大統を継ごうと謀り、朝廷の名士を多く引き入れて策を練らせた。侍中謝朏は心では望まず、外任を求めて呉興太守となった。郡に至ると酒数斛を弟の吏部尚書謝瀹に贈り、書を添えて「努めてこれを飲め。人の事に与かるな」と言った。

史論(臣光曰)

  • 臣は聞く、人の衣を着る者は人の憂いを懐き、人の食を食う者は人の事に死ぬと。二人の謝氏の兄弟は肩を並べて貴く帝に近く、安んじては栄禄を享けながら、危うきときには関わろうとしなかった。臣たる者がこれでは、忠と言えようか。
  • 宣城王は国政を専らにしても、人情はまだ服さなかった。王の肩甲の上には赤い痣があった。驃騎諮議参軍である考城の江祐が王に人に示すよう勧めた。王が晉寿太守王洪範に示して「人はこれを日月の相と言う。卿、決して漏らすな」と言うと、洪範は「公の身に日月がある以上、どうして隠せましょう。かえって言い広めるべきです」と言った。王の母は江祏の姑である。
  • 戊戌、桂陽王蕭鑠、衡陽王蕭鈞、江夏王蕭鋒、建安王蕭子真、巴陵王蕭子倫を殺した。鑠は鄱陽王鏘と名を並べ、鏘は文章を好み鑠は名理(哲理)を好み、当時の人は「鄱・桂」と称えた。鏘が死ぬと鑠は身の置き所がなく、東府に行って宣城王に会って帰り、左右に「先ほど録公(鸞)の応接は懇ろで、名残を惜しんで止まなかったが、顔には恥じる色があった。これは必ず私を殺すつもりだ」と言った。この夕、害された。
  • 宣城王が諸王を殺すたび、いつも夜に兵を送ってその邸を囲み、関を破り垣を越え、鬨を上げて入り、家財はみな封じて没収した。
  • 江夏王鋒には才行があった。宣城王がかつて鋒に「遥光は才力があって委ねられる」と語った。鋒は「遥光の殿下に対する関係は、殿下の高皇に対する関係と同じです。宗廟を衛り社稷を安んずるのに、実に託すべきものがあります」と言った。宣城王は色を失った。諸王を殺すに及んで、鋒は宣城王に書を送って責め詰った。宣城王は深く憚り、邸で鋒を捕らえる勇気がなく、祠官を兼ねさせて太廟に行かせ、夜に兵を廟中に遣わして捕らえた。鋒は出て車に登り、兵が車に乗ろうとすると、鋒は力があって手で数人を殴って地に倒し、そののち死んだ。
  • 宣城王は典籤の柯令孫を遣わして建安王子真を殺させた。子真は寝台の下に逃げ込み、令孫が手ずから引き出した。叩頭して奴にしてほしいと乞うたが許されず死んだ。
  • また中書舎人茹法亮を遣わして巴陵王子倫を殺させた。子倫は英邁で果断な性で、当時、南蘭陵太守として琅邪城に鎮しており、守兵がいた。宣城王は素直に死に就くまいと恐れ、典籤の華伯茂に問うた。伯茂は「公がもし兵で取られるなら、すぐには処理できますまい。伯茂に委ねてくだされば、一人の力で足ります」と言い、そこで手ずから毒を執って迫った。
  • 子倫は衣冠を正して出て詔を受け、法亮に「先朝は昔、劉氏を滅ぼした。今日の事は道理として当然のこと。君はわが家の旧人だが、今この使いを銜えているのは、事がやむを得ぬからだ。この酒は勧め酬いる盃ではない」と言い、仰いで飲んで死んだ。時に十六歳。法亮も左右もみな涙を流した。
  • はじめ諸王が出鎮するとき、みな典籤と主帥を置き、一方の事をすべて委ねた。彼らは時々入って奏事し、一年に数度往復した。時の主はその都度私に語り、州の事を尋ねた。刺史の善し悪しはもっぱらその口に懸かり、刺史以下は節を折って仕え、常に及ばぬのを恐れた。こうして威は州部に行われ、大いに姦利を貪った。
  • 武陵王曄が江州にいた頃、烈しく直な性で犯しがたかった。典籤の趙渥之は人に「今度、都へ出れば刺史を替えてやる」と言い、世祖に会うと大いに曄をそしり、曄はついに免ぜられて帰った。
  • 南海王蕭子罕が琅邪に戍っていたとき、しばらく東堂に遊びたいと思ったが典籤の姜秀が許さなかった。子罕は帰って泣いて母に「私は五歩動きたくても動けぬ。囚人と何が違いましょう」と言った。
  • 邵陵王蕭子貞がかつて熊の脂身を求めたとき、厨人は「典籤がおりませんので、差し上げられません」と答えた。
  • 永明年間、巴東王蕭子響が劉寅らを殺した。世祖はこれを聞いて群臣に「子響はついに反した」と言った。戴僧静が大言した。「諸王はみな当然反すべきです。巴東だけではありません」。上が理由を問うと、「天王が罪もないのに一様に囚われております。蓮の茎一本、飲み物一杯を取るのにも籤帥に諮り、籤帥がいなければ一日中渇きを堪える。諸州は籤帥がいるとしか聞かず、刺史がいるとは聞きません。どうして反さずにおれましょう」と答えた。
  • 竟陵王子良がかつて衆に「士大夫はどういうつもりで籤帥のもとへ挨拶に行くのか」と問うた。参軍范雲が「長史以下のところへ行っても何の益もありませんが、籤帥のところへ行けばたちまち元の倍の値が付きます。行かずにいられましょうか」と答え、子良は恥じる色を浮かべた。
  • 宣城王が諸王を誅すとき、みな典籤に殺させた。ついに一人も抗拒できる者がなかった。孔珪はこれを聞いて涙を流し「斉では衡陽(鈞)と江夏(鋒)が最も志があったのに、それも害された。もし籤帥を置いていなければ、ここまでは至らなかったろう」と言った。
  • 宣城王もまた典籤の弊を深く知り、詔して「今後、諸州に急事があればひそかに奏聞せよ。二度と典籤を都に入れるな」とした。これより典籤の任は次第に軽くなった。

史論(蕭子顕論曰)

  • 帝王の子は富厚の中に生まれ育ち、朝に閨門を出れば暮れには一方の岳を司る。驕りを防ぎ逸を剪るのは代々の常典である。ゆえに上佐を輔けとして帝の心から自ら選び、労のある旧来の側近を主帥に用いた。飲食も遊居も動くたびに報告され、地位は重くとも自ら行うことができず、威は身になく恩は下に及ばない。ひとたび艱難が一挙に至って、位を捨てて危うきを扶けよと望んでも、できるものではない。これは宋氏の余風であり、斉室に至っていよいよ弊害となった。
  • 海陵王(昭文)は在位中、起居も飲食もすべて宣城王に諮ってから行った。あるとき蒸した魚菜を食べたいと思ったが、太官令は「録公の命がありません」と答え、ついに与えなかった。
  • 辛亥、皇太后の令が下った。「嗣主は幼く庶政に暗いところが多い。しかも早くから病弱で担いきれぬ。太傅宣城王は宣皇の血を継ぎ太祖の慈しみを受けた者。入って宝命を承けるべきである。帝は海陵王に降封してよい。吾は別館で老いを送ろう」。あわせて宣城王を太祖の第三子とした。
  • 癸亥、高宗が即位して大赦・改元した。太尉王敬則を大司馬、司空陳顕達を太尉、尚書令王晏に驃騎大将軍を加え、左僕射徐孝嗣に中軍大将軍を加え、中領軍蕭諶を領軍将軍とした。
  • 度支尚書虞悰が病と称して陪席しなかった。帝は悰が旧人なので佐命に加えたいと思い、王晏に廃立の経緯を持たせて悰に示させた。悰は「主上は聖明で公卿は力を尽くしております。どうして朽ちた老いぼれを借りて新政を彩る必要がありましょう。ご命令は承れません」と言い、慟哭した。朝議は糾弾しようとしたが、徐孝嗣が「これも古の遺直というものだ」と言って取りやめた。
  • 十一月、上は海陵恭王が病んだと偽り、たびたび御医を遣わして診させ、それに乗じて死なせた。葬礼はすべて漢の東海恭王の故事に依った。