通鑑紀事本末廃帝の乱(廢帝之亂)

孝武帝の没後に即位した前廃帝劉子業が、戴法興を殺し、太宰劉義恭・柳元景・顔師伯・沈慶之ら重臣を次々に誅して暴虐を極め、寿寂之らに弑されるまでと、そのあと即位した明帝に対して晉安王劉子勛が尋陽で帝を称し、四方がこれに応じた大反乱の顛末。大明二年(458年)から泰始二年(466年)まで。沈攸之・張興世・劉勔らの働きで鄧琬・袁顗・劉胡が敗れ、子勛は斬られ、世祖の二十八子はことごとく絶えた。

年表(4件)
  • 宋武帝
  • 大明二年458年戴法興・戴明宝・蔡閑が舎人として権を握り、賄賂が横行する
  • 八年464年孝武帝が崩じ、太子子業が即位して政は戴法興ら側近に帰する
  • 明帝
  • 泰始元年465年廃帝が戴法興・義恭・柳元景・沈慶之らを誅し、寿寂之に弑される
  • 二年466年晉安王子勛が尋陽で即位し、明帝方が濃湖・銭渓に勝って子勛を斬る

宋武帝大明二年(458年)

  • はじめ上(孝武帝)が江州にいた頃、山陰の戴法興・戴明宝・蔡閑が典籤だった。即位するとみな南台侍御史・兼中書通事舎人とした。この年、三人の典籤はいずれも挙兵当初の密謀に与ったとして県男の爵を賜り、蔡閑はすでに没していたので追贈された。
  • 当時、上は自ら朝政を執って大臣に任せなかったが、腹心と耳目にはどうしても委ねるところがあった。法興はかなり古今に通じて日ごろから親しく待遇され、魯郡の巣尚之は人士の末席にあって文史を渉猟し、上に知られてやはり中書通事舎人となった。およそ選任・昇任・誅罰・恩賞の大きな処置は、上はみな法興・尚之と相談して決め、内外の雑事の多くを明宝に委ねた。三人の権は当時ずば抜けており、法興と明宝は大いに賄賂を受け、推薦することは何でも通った。天下の人が集まり、門外は市をなし、家産はいずれも千金を重ねた。

八年(464年)

  • 夏閏五月庚申、上が玉燭殿で崩じた。この日、太子が即位した(廃帝=前廃帝劉子業)。十六歳。大赦した。吏部尚書蔡興宗が自ら璽綬を奉り、太子はこれを受けたが、傲慢で怠惰、悲しむ様子がなかった。興宗は出て人に告げた。「昔、魯の昭公が哀しまず、叔孫はその終わりを知った。家と国の禍はここにあるか」。
  • 秋七月乙卯、南北二つの馳道を廃し、孝建以来改めた制度をやめて元嘉の旧に戻した。尚書蔡興宗は都座で慨然と顔師伯に言った。「先帝は盛徳の主ではないにせよ、要するに道をもって始め終えられた。三年改めぬのは古典の貴ぶところ。今、殯宮を撤したばかり、山陵もまだ遠くないのに、あらゆる制度と造営を、是非を論ぜず一律に削り取っている。禅代であってもここまではしまい。天下の識者はこれで人を見抜くだろう」。師伯は従わなかった。
  • 太宰義恭は日ごろ戴法興や巣尚之らを畏れ、遺命を受けて輔政しながら身を引いて事を避けたので、政は側近に帰した。法興らが朝権を専断し、威は遠近に行われ、詔勅はみなその手から出、尚書の事は大小を問わずすべてそこで決した。義恭と顔師伯は空名を守るだけだった。
  • 蔡興宗は自ら人事を管する職にあり、朝するたびに義恭に賢者を登用する意見を述べ、また得失を諫め、朝政を広く論じた。義恭は臆病な性で法興に阿り従い、常に意に背くのを恐れていたので、興宗の言を聞くたび震え恐れて答えなかった。興宗が選任の事を奏すると、法興や尚之らがその都度手を入れて差し替え、原案が残ることはほとんどなかった。興宗は朝堂で義恭と師伯に「主上は諒闇中で万機に親しまれず、選挙の機密の事が多く削り改められている。しかも公の筆でもない。いったいどこの天子の意なのか」と言い、たびたび義恭らと選任の事を争って議論を戦わせた。義恭も法興もこれを憎み、興宗を新昌太守に左遷したが、その人望ゆえにまた建康に留めた。
  • 八月、王太后(廃帝の祖母)の病が篤くなり、人を遣わして廃帝を呼ばせた。帝は「病人のいる所には鬼が多い。行けるものか」と言った。太后は怒って侍者に「刀を持って来い。私の腹を裂け。どうしてあんな子が生まれたのか」と言った。己丑、太后が没した。

明帝泰始元年(465年)

  • 廃帝は幼くして狷介で凶暴だった。即位した当初はまだ太后・大臣および戴法興らを憚って恣まにできなかった。太后が没して帝の年が長じ、思うままに振る舞おうとすると、法興がその都度抑え、「陛下がこんなことをなさるのは、營陽王におなりになりたいのですか」と言った。帝は次第に不満を募らせた。
  • 帝が寵愛した宦官の華願児には数えきれぬほど賜与したが、法興はいつも削減したので、願児は恨んだ。帝が願児に市中の噂を聞き集めさせると、願児は帝に言った。「道行く人はみな、宮中に天子が二人いる、法興が真の天子で官家(陛下)は偽の天子だと申しております。それに官家は深宮におられて人と接せられません。法興は太宰・顔・柳と一体をなし、往来する門客は常に数百人、内外の士庶で畏れ服さぬ者はありません。法興は孝武の側近で長く宮中におり、今は他人と一家をなしている。この座席がもはや官家のものでなくなるのを深く恐れます」。
  • 帝はついに詔を発して法興を免官し、田里に帰らせ、さらに遠郡へ流した。八月辛酉、法興に死を賜り、巣尚之の舎人の職も解いた。
  • 員外散騎侍郎である東海の奚顕度もまた世祖に寵せられ、常に土木の役を掌って督励が苛酷で、笞打ちが惨たらしく、人はみな苦しんだ。帝が戯れに「顕度は百姓の患いだ。そろそろ除くべきだな」と言うと、左右がすかさず「はっ」と応じて、そのまま旨として殺した。
  • 尚書右僕射・領衛尉卿・丹陽尹の顔師伯は権を握ること久しく、海内の人が集まり、驕奢淫恣で衣冠の士に憎まれていた。帝が自ら朝政を執ろうとし、庚午、師伯を尚書左僕射として卿と尹を解き、吏部尚書王彧を右僕射としてその権を分けた。師伯はここで初めて恐れた。
  • はじめ世祖は猜疑が多く、王公大臣は足を重ねて息をひそめ、みだりに行き来する勇気がなかった。世祖が崩ずると、太宰義恭らはみな祝い合って「今日ようやく横死を免れた」と言った。山陵を済ませるとすぐ、義恭は柳元景・顔師伯らと音楽と酒に耽り、昼夜を分かたなかった。帝は内心これを快く思わなかった。
  • 戴法興を殺してからは、諸大臣はみな震え恐れ、それぞれ身の置き所がなかった。そこで元景と師伯がひそかに帝を廃して義恭を立てる謀を巡らせ、日夜集まって謀ったが、迷って決断できなかった。元景はその謀を沈慶之に告げた。慶之は義恭と日ごろ親しくなく、また師伯が常に朝事を専断して慶之と相談しなかった。師伯は令史に「沈公は牙や爪にすぎぬ。どうして政事に与れよう」と言ったことがあり、慶之は恨んでいた。そこでその事を暴露した。
  • 癸酉、帝は自ら羽林の兵を率いて義恭を討って殺し、その四子も殺した。義恭の四肢を断ち、腸と胃を裂き、眼球を抉って蜜に漬け、「鬼目粽」と呼んだ。
  • 別に使者を遣わして詔と称して柳元景を召し、兵を随わせた。左右が駆けつけて兵刃が尋常でないと告げた。元景は禍が至ったと知って母のもとに入って別れを告げ、朝服を整えて車に乗り召しに応じた。弟の車騎司馬柳叔仁が戎服で左右の壮士を率いて命を拒もうとしたが、元景は懸命に禁じた。巷を出ると軍士が大挙して至り、元景は車を下りて誅を受けた。顔色は穏やかだった。その八人の子、六人の弟および甥たちも殺された。顔師伯を道で捕らえて殺し、その六人の子も殺した。また廷尉劉徳願も殺した。景和と改元し、文武の位を二等進めた。使者を遣わして湘州刺史江夏世子劉伯禽を誅した。これより公卿以下はみな奴隷のように打たれ引きずられるようになった。
  • はじめ帝が東宮にあった頃、過失が多く、世祖は廃して新安王劉子鸞を立てようとした。侍中袁顗が太子は学を好み日々新たになる美点があると大いに称えたので、世祖は取りやめた。帝はこれを恩に着ていた。諸公を誅してから顗を引き立てて朝政を任せようとし、吏部尚書に遷し、尚書左丞徐爰とともに義恭ら誅殺の功で県子の爵を賜った。
  • 徐爰は如才なく人に仕えるのが巧みで、かなり書伝を渉猟し、元嘉の初めから側近に侍って顧問に与った。附会に長け、また典籍で飾ったので太祖に任せられ、大明の世には委任がとりわけ重かった。当時、殿省の旧人の多くが誅され追われたが、爰だけは迎合が巧みで終始齟齬がなかった。廃帝はいよいよ厚く遇し、群臣の及ぶところではなかった。帝が出かけるときは常に沈慶之と山陰公主を同じ輦に乗せ、爰も加わった。
  • 山陰公主は帝の姉で、駙馬都尉何戢に嫁いだ。戢は何偃の子である。公主はとりわけ淫らで恣まだった。あるとき帝に「妾と陛下は男女の別はあれ、ともに先帝から体を受けた身。陛下は六宮に万を数える女がおられるのに、妾はただ駙馬一人。あまりに不公平です」と言った。帝はそこで公主のために面首(男妾)の側近三十人を置き、爵を進めて会稽郡長公主とし、秩は郡王と同じにした。吏部郎の褚淵は容貌が美しく、公主は帝に願って自分に侍らせた。帝は許した。淵は公主に十日侍り、さんざん迫られたが、死をもって誓ってようやく免れた。淵は褚湛之の子である。
  • 帝は太廟に祖先の像を別に描かせた。廟に入って高祖の像を指し「こいつは大英雄だ。天子を何人も生け捕りにした」と言い、太祖の像を指して「こいつも悪くない。だが末年に息子に首を斬られるのを免れなかった」と言い、世祖の像を指して「こいつは大の酒焼け鼻だ。なぜ鼻が赤くないのか」と言い、その場で画工を召して赤くさせた。
  • 新安王劉子鸞は世祖に寵せられていた。帝はこれを憎み、九月辛丑、使者を遣わして子鸞に死を賜った。またその同母弟の南海王劉子師とその母・妹も殺した。殷貴妃の墓を暴き、さらに景寧陵を掘ろうとしたが、太史が帝に不利だと言ったので取りやめた。
  • 廃帝は即位以来まだ戒厳したことがなかった。民間の流言に乗じて義陽王劉昶が反したとして討ち、昶は魏に亡命した。
  • 吏部尚書袁顗は初め帝に寵任されたが、まもなく意に背き、待遇はにわかに衰え、有司にその罪を糾弾させて白衣で職を領させた。顗は恐れて言を構えて外任を求めた。甲寅、顗を督雍梁等四州諸軍事・雍州刺史とした。
  • 顗の舅の蔡興宗が「襄陽は星が悪い。どうして行けるのか」と言った。顗は「白刃が目の前で交わっているときに流れ矢を救っている場合ではありません。今度の赴任はただ虎口から生きて出たいだけです。それに天道は遥かに遠く、必ずしも当たるとは限りません」と答えた。
  • 当時、臨海王劉子頊が都督荊湘等八州諸軍事・荊州刺史であり、朝廷は興宗を子頊の長史・南郡太守・行府州事としたが、興宗は辞退して行かなかった。顗が興宗に説いた。「朝廷の形勢は誰の目にも明らかです。中央にいる大臣は朝に夕を保てません。舅上が今、峡西に出て八州の行事となり、私が襄・沔にいれば、地は勝れ兵は強く、江陵とは目と鼻の先、水陸が通じています。朝廷に事があれば、共に桓公・文公の功を立てられます。凶狂な者に制せられて測りがたい禍に臨むのと比べられましょうか。今、隙を得て去らねば、後で外任を求めても叶いますまい」。
  • 興宗は答えた。「私は素門の平凡な出世で、主上とは甚だ疎遠、患いを蒙る恐れはない。宮省の内外は誰も身を保てず、いずれ変があろう。もし内の難が収まれば、外の乱は必ずしも測れぬ。お前は外で身を全うしようとし、私は中央にいて禍を免れようとする。それぞれ志を行うのもよいではないか」。
  • 顗はそこで慌ただしく旅立ち、なお追手を憂え、尋陽に至って「これでようやく免れた」と喜んだ。鄧琬が晉安王劉子勛の鎮軍長史・尋陽内史・行江州事だった。顗は琬と度を越して親しく交わり、暇があれば日を尽くし夜を徹して語った。顗と琬は人物も地位も本来隔たっていたので、見る者はその異志を察した。まもなく興宗はまた吏部尚書となった。
  • 帝の舅の東陽太守王藻は世祖の娘の臨川長公主を娶っていた。公主は嫉妬深く、藻を帝に讒言した。冬十月己卯、藻は獄に下されて死んだ。
  • 会稽太守孔霊符は赴任先で政績を挙げたが、近臣に逆らったため讒言され、帝は使者を遣わして霊符を鞭殺し、あわせてその二子を誅した。
  • 寧朔将軍何邁は何瑀の子で、帝の叔母の新蔡長公主を娶っていた。帝は公主を後宮に入れて「謝貴嬪」と呼び、公主が薨じたと偽って宮女を殺して邁の邸に送り、殯葬して喪の礼を行わせた。庚辰、貴嬪を夫人に拝し、鸞輅・竜旗を加え、出入りに警蹕を用いさせた。邁はもとより豪侠で死士を多く養っており、帝の遊幸に乗じて廃し晉安王子勛を立てようと謀ったが、事が漏れた。十一月壬辰、帝が自ら兵を率いて邁を誅した。
  • はじめ沈慶之は顔・柳の謀を暴露してから帝に親しみ、たびたび言を尽くして諫めた。帝は次第に不快になり、慶之は禍を恐れて門を閉じ賓客に会わなくなった。あるとき側近の范羨を吏部尚書蔡興宗のもとへ遣わした。興宗は羨に慶之への伝言を託した。「公が門を閉じ客を絶たれるのは、あてどなく請託に来る者を避けるためでしょう。しかし興宗のように公に何も求めぬ者を、なぜ拒まれるのか」。慶之は羨を遣わして興宗を招き、興宗が行って会うと、こう説いた。
  • 「主上の近ごろの行いは人倫の道を尽くし果てました。徳に率い行いを改める望みはもうありません。今、忌み憚っておられるのは公お一人。百姓が首を伸ばして頼みとするのも公お一人です。公の威名は日ごろから顕れ、天下の服するところ。今、朝廷は挙げて落ち着かず、人は危うさを胸に抱いております。指揮なさる日に、誰が響き応じぬでしょう。もし猶予して断ぜず、座して成敗を観ようとされるなら、旦夕に禍が及ぶだけでなく、四海の重い責めもまた帰するところがありましょう。僕は並々ならぬ厚遇を受けておりますゆえ、あえて言を尽くします。どうか公、よくお考えください」。
  • 慶之は「僕もまことに今日の憂危を知り、もはや身を保てぬ。だが忠を尽くして国に奉じ、始終それを貫くだけだ。天命に委ねよう。それに老いて私門に退き、兵力もにわかに欠いている。やろうとしても事は成るまい」と答えた。
  • 興宗は言った。「今、謀を懐き奮い立とうと思う者は、功賞や富貴を求めているのではありません。ただ朝夕の死から脱したいだけです。殿中の将帥はひたすら外の消息に耳を澄ませており、一人が唱えれば俯仰の間に定まります。まして公は代々戎を統べ、昔の部曲が宮省に散らばり、恩を受けた者が多い。沈攸之らはみな公の家の子弟です。従わぬ心配がありましょうか。それに公の門徒や義に従う者はみな三呉の勇士です。殿中将軍陸攸之は公の同郷で、今、東へ賊を討ちに入りますが、大量の鎧と武具が青渓にあってまだ出ておりません。公がその武具を取って麾下に配り、陸攸之に率いさせて前駆とされよ。僕は尚書の中におり、自ら百僚を率いて前世の故事に従い、改めて賢明な者を選んで社稷に奉ります。天下の事はたちどころに定まりましょう。また朝廷が行うあれこれについて、民間では公がみな与っていると噂しております。公が今決断されねば、公より先に事を起こす者があり、公もまた付き従った禍を免れません。車駕がしばしば公の邸に幸して酔い潰れて長居し、また左右を退けて独り閤内に入られると聞きます。これぞ万世に一度の機、逃してはなりません」。
  • 慶之は「君の至言に感じ入る。しかしこの大事は僕の行えるところではない。事が至れば、もとより忠を抱いて死ぬまでだ」と言った。
  • 青州刺史沈文秀は慶之の弟の子である。任地へ赴こうとして部曲を率いて白下に屯し、やはり慶之に説いた。「主上の狂暴がこのようでは、禍乱は遠くありません。一門がその寵任を受けており、世間はみな同心と思っております。それにあの人は愛憎が定まらず、猜疑と残忍が特にひどい。測りがたい禍は進むも退くも免れがたい。今、この衆力で図れば、掌を返すより易い。機会は得がたく、逃してはなりません」。再三言って涙まで流したが、慶之はついに従わず、文秀は赴任した。
  • 帝が何邁を誅したとき、慶之が必ず諫めに来ると見込み、あらかじめ青渓の諸橋を閉ざして遮った。慶之はこれを聞いて果たして向かったが、進めず引き返した。帝はそこで慶之の従父兄の子である直閤将軍沈攸之に慶之へ薬を賜らせた。慶之が飲もうとしないので、攸之は布団を被せて殺した。時に八十歳。
  • 慶之の子の侍中沈文叔は逃げようとしたが、太宰義恭のように八つ裂きにされるのを恐れ、弟の中書郎沈文季に「私は死ねる。お前は報いよ」と言って、慶之の薬を飲んで死んだ。弟の秘書郎沈昭明も首を吊って死んだ。文季は刀を振るって馬を馳せて去り、追手も迫る勇気がなく、免れた。
  • 帝は慶之が病で薨じたと偽り、侍中・太尉を贈って忠武公と諡し、葬礼は甚だ厚かった。
  • 領軍将軍王玄謨がたびたび涙を流して帝の刑殺が行き過ぎだと諫めた。帝は激怒した。玄謨は宿将で威名があったので、玄謨がすでに誅されたという流言が道に飛んだ。蔡興宗はかつて東陽太守だったので、玄謨の典籤の包法栄の家が東陽にあった縁で、玄謨は法栄を興宗のもとへ遣わした。興宗が「領軍はよほど憂え恐れておられよう」と言うと、法栄は「領軍はこのところほとんど食事も取れず、夜も眠れません。いつも『捕吏がもう門に来ている。ひとときも保てぬ』と申しております」と答えた。興宗は「領軍が憂え恐れておられるなら方策を立てるべきだ。座して禍を待つことがあろうか」と言い、法栄に玄謨へ挙兵を勧めさせた。玄謨は法栄に「これも容易には行えぬ。ただ君の言は漏らすまい」と謝させた。
  • 右衛将軍劉道隆は帝に寵任されて禁兵を専管していた。興宗はあるとき道隆と共に帝の夜の外出に従った。道隆が興宗の車の後ろを通ったとき、興宗が「劉君、このごろ一度ゆっくり話したいと思っている」と言った。道隆はその意を察し、興宗の手をつねって「蔡公、多くを語られますな」と言った。
  • 帝は諸父(叔父たち)を畏れ忌み、外にいて患いをなすのを恐れて、みな建康に集めて殿内に拘留し、殴り打ち引きずり回して人としての扱いをしなかった。湘東王劉彧・建安王劉休仁・山陽王劉休祐はみな肥って頑丈だったので、帝は竹籠に入れて目方を量り、彧が特に肥っていたので「豬王」と呼び、休仁を「殺王」、休祐を「賊王」と呼んだ。三王が年長なのでとりわけ憎み、常に連れ回して側から離さなかった。東海王劉禕は凡庸劣弱なので「驢王」と呼んだ。桂陽王劉休範と巴陵王劉休若はまだ年若かったので、いずれも比較的無事だった。
  • あるとき木の槽に飯とさまざまな食物を入れて掻き混ぜ、地を掘って穴を作り泥水を満たし、彧を裸にして穴に入れ、口で槽から食わせて笑い興じた。前後に三王を殺そうとしたことが十度を数える。休仁は知恵が回り、いつも談笑と諂いで宥めたので、その都度切り抜けた。
  • 少府劉曚の妾が臨月だった。帝は後宮に迎え入れ、男子が生まれたら太子に立てようとした。彧があるとき帝の意に逆らうと、帝は彧を裸にして手足を縛り、杖を通して人に担がせ、太官に渡して「今日は豬を屠る」と言った。休仁が笑って「豬はまだ死ぬべきではありません」と言った。帝が理由を問うと、休仁は「皇太子がお生まれになるのを待って豬を殺し、その肝と肺を取るのです」と答えた。帝の怒りは解け、「ひとまず廷尉に付けておけ」と言い、一晩で釈放した。
  • 丁未、曚の妾が子を生み、「皇子」と名づけ、そのために大赦して家督を継ぐ者に爵一級を賜った。
  • 帝はまた太祖も世祖も兄弟の中で三番目だったこと、江州刺史晉安王子勛もまた三番目であることから、これを憎み、何邁の謀に託けて、側近の朱景雲に薬を送って子勛に死を賜ろうとした。景雲は湓口に至って留まり進まなかった。子勛の典籤謝道邁、主帥潘欣之、侍書褚霊嗣がこれを聞き、駆けて長史鄧琬に告げ、涙を流して計を請うた。
  • 琬は「わが身は南土の寒士でありながら、先帝の格別の恩を受け、愛子を託された。どうして門戸や一族百人の命を惜しめよう。死をもって報いる覚悟だ。幼主は昏暴で社稷は危うい。天子とはいえ、その実は独夫だ。今すぐ文武を率いてまっすぐ京邑に至り、群公卿士とともに昏を廃して明を立てるまでだ」と言った。
  • 戊申、琬は子勛の教令と称して配下に戒厳させた。子勛は戎服で聴事に出て僚佐を集め、潘欣之に趣旨を口宣させた。四座がまだ答えぬうちに、録事参軍陶亮が真っ先に死を尽くして前駆となることを請い、衆もみな旨を奉じた。そこで亮を諮議参軍・領中兵として軍事を総統させ、功曹張沈を諮議参軍として舟艦の建造を統べさせ、南陽太守沈懐宝、岷山太守薛常宝、彭沢令陳紹宗らをみな将帥とした。
  • はじめ帝が荊州に命じて前軍長史・荊州行事の張悦を送らせ、湓口に至っていた。琬は子勛の命と称してその桎梏を解き、自分の乗る車で迎えて司馬とした。悦は張暢の弟である。琬と悦の二人が内外の事を共に掌り、将軍兪伯奇に五百人を率いて大雷を断たせ、商旅および公私の使者を禁絶し、使者を出して諸郡の民丁を徴し武器を集めた。旬日のうちに甲士五千人を得、大雷に出て屯し、両岸に塁を築いた。また巴東・建平二郡太守孫冲之を諮議参軍・領中兵として陶亮とともに前軍を統べさせ、檄を遠近に移した。
  • 戊午、帝が諸妃・公主を召して前に並ばせ、左右に強いて辱めさせた。南平王鑠の妃の江氏が従わなかった。帝は怒って妃の三子である南平王劉敬猷、廬陵王劉敬先、安南侯劉敬淵を殺し、江妃を百打ちにした。
  • これより先、民間に「湘中に天子が出る」という流言があった。帝は荊・湘二州を南巡してこれを厭勝しようとした。翌朝、まず湘東王彧を誅してから出発するつもりだった。
  • はじめ帝は諸公を殺してから、群下が自分を謀るのを恐れ、直閤将軍宗越・譚金・童太一・沈牧之らが勇力あるのを爪牙として引き入れ、美人と金帛を賜ってその家に満たした。越らは長く殿省にあって衆に畏れ服されており、みな帝のために力を尽くした。帝はこれを恃んでいよいよ憚るところがなく、恣まに不道を行ったので、中外は騒然とし、左右の宿衛の士はみな異志を抱いたが、越らを畏れて発せなかった。
  • 当時、三王は久しく幽閉されてどうしてよいか分からなかった。湘東王彧の主衣である会稽の阮佃夫、内監の呉興の王道隆、学官令である臨淮の李道児が、直閤将軍柳光世および帝の側近の琅邪の淳于文祖らとひそかに帝を弑する謀を巡らせた。帝は后を立てるという名目で諸王に宦官を貸しており、彧の側近の銭藍生も中にいた。彧はひそかに帝の動静をうかがわせた。
  • これより先、帝は華林園の竹林堂に遊び、宮人を裸にして追いかけ合わせ、一人が命に従わなかったので斬った。夜、竹林堂にいる夢を見た。女が罵って「帝は悖虐で不道。来年の実りは見られまい」と言った。帝は宮中でその夢の女に似た者を探し出して斬った。すると殺した者が「私はすでに上帝に訴えた」と罵る夢をまた見た。そこで巫覡が竹林堂に鬼がいると言った。
  • この日の夕方、帝は華林園に出た。建安王休仁・山陽王休祐・会稽公主がみな従った。湘東王彧だけが秘書省にいて召されず、いよいよ憂え恐れた。
  • 帝は日ごろ主衣の呉興の寿寂之を憎み、見るたびに歯噛みしていた。阮佃夫はその謀を寂之および外監典事である東陽の朱幼、細鎧主である南彭城の姜産之、細鎧将である晉陵の王敬則、中書舎人戴明宝に告げた。寂之らは聞いてみな響き応じた。幼はあらかじめ内外を取り決め、銭藍生にひそかに休仁と休祐へ報せさせた。
  • 当時、帝は南巡しようとしており、腹心の宗越らはみな外に出て支度することを許されていた。ただ隊主の樊僧整だけが華林の閤を守っていた。柳光世は僧整と同郷だったのでひそかに誘い、僧整はただちに命を受けた。同謀は十余人。阮佃夫は人手が足りず成らぬのを慮ってさらに人を集めようとしたが、寿寂之は「謀が広がれば漏れるかもしれぬ。多人数は要らぬ」と言った。
  • その夕、帝は侍衛をすべて退け、群巫と采女数百人と竹林堂で鬼を射ていた。事が終わって音楽を奏でようとしたとき、寿寂之が刀を抜いて進み入り、姜産之が次ぎ、淳于文祖らがみなその後に続いた。休仁は足音が甚だ速いのを聞き、休祐に「事が起こったぞ」と言い、連れ立って景陽山へ走った。帝は寂之が来るのを見て弓を引いて射たが当たらず、采女はみな逃げ散り、帝も走って「寂、寂、寂」と三度大声で呼んだ。寂之は追いついて弑した。
  • 宿衛に令を宣べた。「湘東王が太皇太后の令を受けて狂主を除かれた」。今や平定されたものの、殿省の者は惑ってどうしてよいか分からなかった。休仁は秘書省に行って湘東王に会い、その場で臣と称し、引き立てて西堂に登らせ御座に即かせ、諸大臣を召見した。当時、事が急に起こったので、王は履を失って裸足で西堂に至り、なお烏帽を着けたままだった。座が定まると休仁は主衣を呼んで白帽に代えさせ、羽儀を備えさせた。まだ即位はしていなかったが、あらゆる事を令書と称して施行した。太皇太后の令を宣べて廃帝の罪悪を数え、湘東王に皇極を継がせた。
  • 夜が明けると宗越らが初めて入った。湘東王は撫して甚だ厚く遇した。
  • 廃帝の同母弟である司徒・揚州刺史豫章王劉子尚は、頑迷で兄と同じ気風があった。己未、湘東王は太皇太后の令として子尚と会稽公主に死を賜った。建安王休仁らはようやく出て外の舎に住めるようになり、囚われていた謝荘を釈放した。
  • 廃帝の屍はなお太医の閤口に横たわっていた。蔡興宗が尚書右僕射王彧に「これは凶悖な者とはいえ、要するに天下の主であった。喪礼をひととおり足るようになさるべきです。このままでは四海が必ずこれに乗じましょう」と言い、そこで秣陵県の南に葬った。
  • はじめ湘東王の母の沈婕妤が早くに没し、路太后が王を養った。王は太后に甚だ謹んで仕え、太后も王を篤く愛した。王は廃帝を弑してから太后の心を慰めようと、令を下して太后の弟の子の路休之を黄門侍郎、路茂之を中書侍郎とした。
  • 功を論じて賞を行い、寿寂之ら十四人はみな県侯・県子に封じられた。
  • 十二月庚申朔、東海王禕を中書監・太尉、鎮軍将軍・江州刺史晉安王子勛を車騎将軍・開府儀同三司に進めた。癸亥、建安王休仁を司徒・尚書令・揚州刺史、山陽王休祐を荊州刺史、桂陽王休範を南徐州刺史とした。
  • 丙寅、湘東王が皇帝に即位して大赦・改元した。廃帝の時の昏乱な制と誤った封はみな削除した。
  • 庚午、右衛将軍劉道隆を中護軍とした。道隆は廃帝に親しみ、かつて建安太妃に無礼を働いたことがあった。ここに至って建安王休仁が辞職を求めたので、明帝は道隆に死を賜った。
  • 宗越・譚金・童太一らは上に撫され迎えられながらも内心落ち着かず、上もまた中央に置きたくなかった。さりげなく「卿らは暴虐な朝に遭って長く労してきた。自ら養う地を得るべきだ。兵馬の多い大郡を、卿らの選ぶままに」と言った。越らはもとより自ら疑っていたので、これを聞いてみな顔を見合わせて色を失い、そこで乱を謀った。それを沈攸之に告げたので、攸之が上に報せ、上は越らを捕らえて獄に下し死なせた。攸之はまた直閤に入った。
  • 壬申、尚書右僕射王景文を尚書僕射とした。景文は王彧のことで、上の名を避けて字を用いた。
  • はじめ豫州刺史山陽王休祐が入朝したとき、長史・南梁郡太守である陳郡の殷琰に府州の事を行わせていた。休祐が荊州に徙されると、そのまま琰を督豫司二州諸軍事・豫州刺史とした。
  • 江州の佐吏たちは上が下した令書を得てみな喜び、そろって鄧琬のもとへ来て「暴乱が除かれ、殿下も黄閤(三公の府)を開かれる。実に公私の大慶です」と言った。琬は晉安王子勛が弟の順で三番目であり、また尋陽で事を起こしたのが世祖と符合するとして、令書を取って地に投げ、「殿下は端門を開かれるべきだ。黄閤などわれら輩の事にすぎぬ」と言った。衆はみな驚愕した。琬は改めて陶亮らと武具を整え、四方に兵を徴した。
  • 袁顗は襄陽に着くとすぐ諮議参軍劉胡と兵器を修め士卒を集め、太皇太后の令を受けたと偽って挙兵させ、ただちに牙旗を建てて檄を飛ばし、表を奉って子勛に大位に即くよう勧めた。
  • 辛巳、あらためて山陽王休祐を江州刺史とし、荊州刺史臨海王子頊はそのまま本任に留めた。
  • これに先立ち、廃帝は邵陵王劉子元を湘州刺史とし、中兵参軍沈仲玉を道路行事としていた。鵲頭に至って尋陽の挙兵を聞き、進めなかった。琬は数百人を送って奪い迎えた。
  • 琬は子勛に桑尾で牙旗を建てさせ、建康に檄を伝えて「孤(子勛)は前典に遵い、幽なる者を退け明なる者を昇らせる志である」と称し、また上が「明茂の君を偽って害し、天の宝を簒奪し、わが昭穆を犯し、わが兄弟を寡なくした。まだ幼くして孤となった同母の兄弟が十三人もいる。聖霊に何の罪があって祭祀を絶たれるのか」と言った。
  • 郢州刺史安陸王劉子綏は子勛の最初の檄を受けて廃帝を攻めようとしたが、廃帝がすでに殺されたと聞いて甲を解いて旗標を下ろした。ところがまもなく江州と雍州がなお兵を整えていると聞き、郢府行事の苟卞之は大いに恐れて、諮議・領中兵参軍鄭景玄に軍を率いて急ぎ下らせ、あわせて軍糧を送った。
  • 荊州行事孔道存は刺史臨海王子頊を奉じ、会稽の将佐は太守尋陽王劉子房を奉じて、みな挙兵して子勛に応じた。

二年(466年)

  • 春正月癸巳、会稽太守尋陽王子房を召して撫軍将軍とし、巴陵王休若を代わりとした。甲午、中外を戒厳し、司徒建安王休仁を都督征討諸軍事・車騎将軍・江州刺史とし、王玄謨を副とした。休仁は南州に陣し、沈攸之を尋陽太守として兵を率いて虎檻に屯させた。
  • 当時、玄謨がまだ出発せず、前鋒の十軍が次々に到着した。毎夜それぞれ姓の合言葉を立て、互いに指揮を受けなかった。攸之は諸将に「今、諸軍の合言葉が異なる。もし耕夫や漁父が夜に互いに呼び咎めれば、たちまち騒乱を招く。敗れる道だ。一軍から合言葉を取るべきだ」と言い、衆はみな従った。
  • 鄧琬は符瑞を説き立て、路太后の璽書を受けたと偽り、将佐を率いて晉安王子勛に尊号を奉った。乙未、子勛が尋陽で皇帝に即位し、義嘉と改元した。安陸王子綏を司徒・揚州刺史とし、尋陽王子房と臨海王子頊にともに開府儀同三司を加え、鄧琬を尚書右僕射、張悦を吏部尚書とし、袁顗に尚書左僕射を加え、その他の将佐および諸州郡の官職・爵号もそれぞれ差をつけて与えた。
  • 丙申、征虜司馬申令孫を徐州刺史とした。令孫は申坦の子である。義陽に司州を置き、義陽内史龐孟虯を司州刺史とした。
  • 徐州刺史薛安都と冀州刺史である清河の崔道固がみな挙兵して尋陽に応じた。上が青州刺史沈文秀に兵を徴すると、文秀は将の平原の劉弥之らに兵を率いて建康へ赴かせた。折しも薛安都が使者を送って文秀を誘ったので、文秀は改めて弥之らに安都に応ずるよう命じた。
  • 済陰太守申闡は睢陵に拠って建康に応じた。安都は従子の直閤将軍薛索児と太原太守である清河の傅霊越らに攻めさせた。闡は令孫の弟である。安都の婿の裴祖隆が下邳を守っていた。劉弥之は下邳に至って配下を建康側に転じ、祖隆を襲撃した。祖隆は敗れて征北参軍垣崇祖とともに彭城へ逃げた。崇祖は垣護之の従子である。弥之の族人である北海太守劉懐恭とその従子の劉善明もみな挙兵して弥之に応じた。薛索児はこれを聞いて睢陵の囲みを解いて兵を率いて弥之を撃った。弥之は敗れて北海に退いて守った。申令孫は淮陽に進拠して索児に降伏を請うた。龐孟虯もまた命を受けず挙兵して尋陽に応じた。
  • 帝は尋陽王の長史・行会稽郡事の孔覬を召して太子詹事とし、平西司馬庾業を代わりとした。また都水使者孔璪を東に遣わして慰労させた。璪は覬に、建康は虚弱だから五郡を擁して袁顗・鄧琬に応ずるほうがよいと説き、覬はついに兵を発し檄を飛ばして尋陽を奉じた。呉郡太守顧琛、呉興太守王曇生、義興太守劉延熙、晉陵太守袁標がみな郡に拠って応じた。上はまた庾業を延熙に代えて義興太守としたが、業は長塘湖に至るとすぐ延熙と合流した。
  • 益州刺史蕭恵開は晉安王子勛の挙兵を聞き、将佐を集めて言った。「湘東は太祖の昭、晉安は世祖の穆。帝位に就くのはどちらでも不可はない。ただ景和(廃帝)は昏乱でも本来世祖の嗣で、社稷に堪えぬにせよ、その次にはまだ多くいる。私は世祖の恩顧を受けた身。九江(子勛)を推し奉る」。そこで巴郡太守費欣寿に五千人を与えて東下させた。
  • こうして湘州行事何慧文、広州刺史袁曇遠、梁州刺史柳元怙、山陽太守程天祚がみな子勛に付いた。元怙は柳元景の従兄である。
  • この年、四方の貢と会計はみな尋陽に帰し、朝廷が保つのはただ丹陽・淮南など数郡だけで、その間の諸県にも子勛に応ずる者があった。東の兵はすでに永世に至り、宮省は危懼した。上は群臣を集めて成敗を謀った。
  • 蔡興宗が言った。「今、天下こぞって叛き、人は異志を抱いております。静をもって鎮め、至誠をもって人に接するべきです。叛いた者の親戚は宮省に散らばっております。もし法で縛れば土崩はたちどころに至ります。罪は連座せぬという義を明らかにされよ。人心が定まれば人に戦う気が生じます。六軍は精勇で武具も鋭利、訓練されていない兵に当たるのですから、その勢いは万倍です。陛下、ご心配なさいますな」。上はこれをよしとした。
  • 建武司馬劉順が豫州刺史殷琰に尋陽に応ずるよう説いた。琰は家が建康にあるので承知しなかった。右衛将軍柳光世が省内から出て彭城へ逃げる途中、寿陽を通って建康は必ず守れぬと言った。琰はこれを信じ、また日ごろ部曲がなく、大豪族である前右軍参軍杜叔宝らに抑えられていたので、やむなく従った。琰は叔宝を長史とし、内外の軍事はすべて叔宝が専断した。
  • 上が蔡興宗に「諸処がまだ平らがぬうちに殷琰までまた逆に同じた。近ごろの人情はどうか。事は成るだろうか」と問うた。興宗は「逆と順について臣は判じかねます。ただ今、商旅は絶たれているのに米は甚だ豊かで安く、四方が雲のように集まっているのに人情はかえって安らかです。これで占えば、清め払えるのは確かでしょう。ただ臣の憂えるのはむしろ事の後です。羊祜が『平定の後こそ聖慮を労される』と言ったとおりです」と答えた。上は「まことに卿の言うとおりだ」と言った。
  • 上は琰が尋陽に付いたのが本意でないと知り、改めてその家族を厚く撫して招いた。
  • 汝南・新蔡二郡太守周矜が懸瓠で挙兵して建康に応じた。袁顗が矜の司馬である汝南の常珍奇を誘い、珍奇は矜を捕らえて斬り、代わって太守となった。
  • 上は冗従僕射垣栄祖を徐州に帰らせて薛安都を説かせた。安都は「今、京都には百里の地もない。攻囲して勝ちを取るまでもなく、手を叩いて笑い殺せる。それに私は孝武を裏切りたくない」と言った。栄祖は「孝武の行いは余殃を招くに足ります。今、天下がこぞって同じても、それは死を早めるだけで何もできません」と言ったが、安都は従わず、栄祖を留めて将とした。栄祖は垣崇祖の従父兄である。
  • 兖州刺史殷孝祖の甥である司法参軍の潁川の葛僧韶が、孝祖を召して入朝させるよう請い、上は遣わした。当時、薛索児が津の道を押さえていたが、僧韶は間道を行って着き、孝祖に説いた。「景和の凶狂は開闢以来なく、朝野は極めて危うく、命は漏刻を数えるばかりでした。主上が凶を除き暴を断ち、改めて天地を造られた。国が乱れ朝が危ういときは年長の君を立てるべきなのに、群れ惑う者が煽り合い、根も葉もないことを構え、幼弱を利として競って望みを抱いております。もし天道が逆を助けて群凶の事が通れば、主は幼く時は難しく、権柄は一つに定まらず、兵難が次々起こって、身の置き所もなくなりましょう。舅上は若い頃から功を立てる志がおありでした。義勇の士を率いて朝廷に帰し奉れば、臣も主も乱を静めるだけでなく、名を竹帛に垂れられます」。
  • 孝祖が朝廷の消息を詳しく問うと、僧韶はその都度応じて説き、あわせて兵甲が精強で、主上が前駆の任を委ねたいと思っておられると陳べた。孝祖はその日のうちに妻子を瑕丘に残し、文武二千人を率いて僧韶とともに建康に帰った。
  • 当時、四方はみな尋陽に付き、朝廷が保つのは丹陽一郡だけで、永世令の孔景宣もまた叛き、義興の兵が延陵に迫ろうとしていた。内外は憂え危ぶみ、みな逃げ散ろうとしていた。そこへ孝祖が突如到着し、兵力も少なくなく、みな傖楚(北方)の壮士だったので、人情は大いに安んじた。甲辰、孝祖の号を撫軍将軍に進め、仮節・督前鋒諸軍事として虎檻へ向かわせ、寵と賜は甚だ厚かった。
  • はじめ上は東平の畢衆敬を兖州に遣わして人を募らせた。彭城に至ると薛安都が利害を説き、上の命と偽って衆敬に兖州の事を行わせ、衆敬は従った。殷孝祖は司馬劉文石に瑕丘を守らせていたが、衆敬が兵を率いて殺した。安都は日ごろ孝祖と隙があったので衆敬に孝祖の子らを殺させた。州境はみな安都に付き、ただ東平太守申纂だけが無塩に拠って従わなかった。纂は申鍾の曽孫である。
  • 丙午、上が自ら兵を総べて中堂に出て陣した。辛亥、山陽王休祐を豫州刺史として、輔国将軍である彭城の劉勔、寧朔将軍である広陵の呂安国ら諸軍を督して西の殷琰を討たせ、巴陵王休若に建威将軍である呉興の沈懐明、尚書張永、輔国将軍蕭道成ら諸軍を督させて東の孔覬を討たせた。
  • 当時、将士の多くは東方の人で、父兄子弟がすでに覬に付いていた。上は軍を送るついでに広く宣示した。「朕はまさに徳を務め刑を簡にし、父子兄弟の罪が及び合わぬようにする。順を助ける者も逆に同じた者も、一律にその従うところで判断する。卿らはこの心をよく汲み、親戚のことを気にかけるな」。衆はこれで大いに喜んだ。およそ叛いた者の親族で建康にいる者は、みな元のまま職に留めた。
  • 孔覬は将の孫曇瓘らを晉陵の九里に陣させ、その勢いは甚だ盛んだった。沈懐明は犇牛に至ったが率いる兵が少なく弱いので、塁を築いて自ら固めた。張永は曲阿に至ったが懐明の安否が分からず、百姓が驚き騒いだ。永は延陵まで退いて巴陵王休若のもとに就いた。諸将帥はみな休若に破岡へ退いて保つよう勧めた。その日は大寒で風雪が甚だ激しく、塘や埭が決壊し、衆に固く守る心がなかった。休若は「あえて退却を言う者は斬る」と令を宣べ、衆はやや落ち着き、そこで塁を築いて甲を休めた。まもなく懐明の書が届き、賊はまだ進んでいなかった。軍主劉亮も到着して兵力が次第に盛んになり、人情はようやく安んじた。亮は劉懐慎の従孫である。
  • 殿中御史呉喜は主書の職から世祖の代に次第に昇って河東太守に至っていた。ここに至って精兵三百を得て東で命を捧げたいと請うた。上は喜に建武将軍を仮し、羽林の勇士を選んで配した。議者は喜が文書の役人にすぎず将となったことがないから遣わすべきでないとしたが、中書舎人巣尚之が「喜は昔、沈慶之に随ってたびたび軍旅を経ております。性は勇敢果断で、また戦陣にも慣れている。任せれば必ず成績を挙げましょう。諸人がやかましく言うのは、才を見分けられぬだけです」と言い、そこで遣わした。
  • 喜は以前たびたび使者として東の呉に赴いており、性は寛厚で、行く先々で人に慕われていた。百姓は「呉河東が来た」と聞くとみな風を望んで降り散じたので、喜は行く先々で勝った。永世の人の徐崇之が孔景宣を攻めて斬り、喜は崇之を県の事を領するよう板授した。
  • 喜は国山に至って東軍に遭遇し、進撃して大破した。国山から進んで呉城に屯した。劉延熙が将の楊玄らを遣わして防ぎ戦わせた。喜の兵力は甚だ弱く玄らの衆は盛んだったが、喜は奮撃して玄を斬り、進んで義興に迫った。延熙は柵で長橋を断ち、郡に籠って自ら守った。喜は塁を築いて対峙した。
  • 庾業は長塘湖の口の両岸に城を築き、七千の衆を擁して延熙と遠く呼応した。沈懐明と張永は晉陵の軍と対峙して長く決着がつかなかった。外監朱幼が司徒参軍・督護の任農夫を挙げた。驍勇で胆力があるので、上は四百人を配して東討を助けさせた。農夫は延陵から長塘へ出た。庾業の築城はまだ完成しておらず、農夫が駆けつけて攻め、力戦して大破した。庾業は城を捨てて義興へ逃げた。農夫はその船と武具を収め、義興へ進んで呉喜を助けた。
  • 二月己未朔、喜は水を渡って郡城を攻め、兵を分けて諸塁を撃ち、高い所に登って指揮し、四面から一斉に進むように見せかけた。義興の人は大いに恐れ、諸塁はみな潰えた。延熙は水に飛び込んで死に、義興を落とした。
  • 沈懐明・張永・蕭道成らが九里の西に陣して東軍と対峙していた。東軍は義興の敗報を聞いてみな震え恐れた。上は積射将軍である済陽の江方興と御史王道隆を晉陵に遣わして東軍の形勢を視察させた。孔覬の将の孫曇瓘・程扞宗らは五つの城を並べて互いに連ねていたが、扞宗の城はまだ固まっていなかった。王道隆が諸将と謀って「扞宗の城がまだ立っていない。これを手土産にすれば、上は聖旨に副い、下は衆の気を高められる」と言った。辛酉、道隆は配下を率いて急攻して落とし、扞宗の首を斬った。永らは勝ちに乗じて曇瓘らを進撃し、壬戌、曇瓘らは敗れて袁標とともに城を捨てて逃げ、晉陵を落とした。
  • 呉喜の軍が義郷に至った。孔璪は呉に屯しており、南亭太守王曇生が璪のもとへ来て軍議をしていたが、台軍がすでに近いと聞いて璪は大いに恐れ、牀から落ちて「懸賞で狙われているのは私だけだ。今すぐ逃げねば人に捕らえられる」と言い、曇生とともに銭唐へ逃げた。喜は呉に入り、任農夫が兵を率いて呉郡へ向かうと、顧琛は郡を捨てて会稽へ逃げた。
  • 上は四郡が平定されたので、呉喜を留めて沈懐明ら諸将を統べて東の会稽を撃たせ、張永らを召して北の彭城を撃たせ、江方興らに南の尋陽を撃たせた。
  • 丁卯、呉喜が銭唐に至り、孔璪と王曇生は浙東へ逃げた。喜は強弩将軍任農夫らに兵を率いて黄山浦へ向かわせた。東軍は岸に拠って寨を結んでいたが、農夫らが撃ち破った。喜は柳浦から渡って西陵を取り、庾業を撃って斬った。
  • 会稽の人は大いに恐れ、将士の多くが逃亡した。孔覬は抑えられなかった。戊寅、上虞令王晏が兵を挙げて郡を攻め、覬は嵴山へ逃げた。車騎従事中郎張綏が府庫を封じて呉喜を待った。己卯、王晏が入城して綏を殺し、尋陽王子房を別の役所に捕らえ、兵を放って大掠奪をしたので、府庫はすべて空になった。孔璪を捕らえて殺した。
  • 庚辰、嵴山の民が孔覬を縛って晏に送った。晏は覬に「この事は孔璪のしたことで、あなたには関わりない。自首の供述を作れば、私が上に取りなしましょう」と言った。覬は「江東の処置はすべて私から出た。罪を人に押しつけて生き延びるのは、君ら輩のやり口だ」と言い、晏は斬った。
  • 顧琛・王曇生・袁標らは呉喜のもとへ来て罪を認め、喜はみな赦した。東軍の主だった者七十六人のうち、陣で十七人を斬り、その他はみな赦した。
  • 薛索児が申闡を攻めて長く落とせず、申令孫を睢陵に入れて闡を説かせた。闡は出て降ったが、索児は闡も令孫も殺した。
  • 山陽王休祐が歴陽にあり、輔国将軍劉勔が小峴に進軍した。殷琰が任じた南汝陰太守裴季が合肥を挙げて降った。
  • 鄧琬は鄙俗で暗愚、貪欲で吝嗇な性だった。大権を握ると父子で官と爵を売り、婢や僕を市に出して商売させ、酒宴と博打に日夜耽った。大いに驕り、賓客が門に来ても十日も会えなかった。内政はすべて褚霊嗣ら三人に委ね、小人どもが横暴に振る舞い、競って威福を売った。こうして士民は憤り怨み、内外は離心した。
  • 琬は孫冲之に龍驤将軍薛常宝・陳紹宗・焦度らの兵一万を率いさせ、前鋒として赭圻に拠らせた。冲之は道中から晉安王子勛に書を送った。「舟楫はすでに整い、武器も整いました。三軍は勇み立ち、人は争って命を捧げております。すぐにも流れに沿って帆を掛け、まっすぐ白下を取りたく存じます。速やかに陶亮の諸軍を遣わし、兼行で合流させ、分かれて新亭と南州を押さえれば、一挙に定まりましょう」。子勛は冲之に左衛将軍を加え、陶亮を右衛将軍として郢・荊・湘・梁・雍五州の兵合わせて二万人を統べさせ、一斉に下らせた。
  • 陶亮はもとより才略がなく、建安王休仁が自ら上ってきて殷孝祖も到着したと聞いて、進む勇気がなく鵲洲に軍を屯した。
  • 殷孝祖はその忠節を恃んで諸将を見下した。台軍には南に父子兄弟のいる者があり、孝祖はみな取り調べようとしたので、人情は離れ、進んで用いられようとする者がなかった。寧朔将軍沈攸之が内は将士を撫し外は諸将と和したので、衆はみなこれを頼った。
  • 孝祖は戦うたびに常に鼓と蓋を随えていた。軍中の人は「殷統軍はまさに死ぬべき将だ。今、賊と鋒を交えているのに羽儀で自らを目立たせている。射の巧みな者が十人がかりで射れば、斃れずにいられようか」と言い合った。
  • 三月庚寅、諸軍が水陸から赭圻を攻めようとし、陶亮らが兵を率いて救った。孝祖は陣中で流れ矢に当たって死んだ。軍主范潜が五百人を率いて亮に降り、人情は震え驚き、みな沈攸之が孝祖に代わって統べるべきだと言った。
  • 当時、建安王休仁は虎檻に屯しており、寧朔将軍江方興と龍驤将軍である襄陽の劉霊遺にそれぞれ三千人を率いて赭圻に赴かせた。攸之は、孝祖が死んで亮らに勝ちに乗ずる心がある以上、翌日また攻めなければ弱みを見せることになると考え、また方興は名も位も自分と並び、必ず自分の下には立つまい、軍政が一つにならぬのは敗因だと考えた。そこで諸軍主を率いて方興のもとへ行って言った。「今、四方がこぞって反し、国家の保つ所はもはや百里の地もない。ただ殷孝祖だけが朝廷の頼みとするところでしたが、鋒鏑を交えたとたんに屍を車に載せて帰り、文武は気を落とし、朝野は危ぶんでおります。事の成否はただ明朝の一戦にかかっている。戦って勝てねば大事は去ります。明朝の事について、ある人は私が統べるべきだと言いますが、自ら思うに私は懦弱で、幹略は卿に及ばない。今、卿を推して統帥とします。ただ共に力を尽くしましょう」。方興は甚だ喜んで承諾した。
  • 攸之が出ると諸軍主はみな咎めた。攸之は「私はもともと国を救い家を活かすためにやっている。この昇り降りを計算しようか。それに私が彼にへりくだれば、彼は必ず私にへりくだれぬ。共に艱難を済うのに、自ら異同を作ってよいものか」と言った。
  • 孫冲之が陶亮に「孝祖は梟将だったが、一戦で死んだ。天下の事は定まった。もう戦うまでもなく、まっすぐ京都を取るべきだ」と言ったが、亮は従わなかった。
  • 辛卯、方興が諸軍を率いて進み戦った。建安王休仁はまた軍主郭季之、歩兵校尉杜幼文、屯騎校尉垣恭祖、龍驤将軍である済陰の頓生、京兆の段仏栄ら三万人を送って合戦させ、寅から午まで戦って大破し、姥山まで追撃して帰った。幼文は杜驥の子である。
  • 孫冲之は湖の白口に二城を築いたが、軍主である竟陵の張興世が攻め落とした。
  • 壬辰、詔で沈攸之を輔国将軍・仮節とし、殷孝祖に代えて督前鋒諸軍事とした。
  • 陶亮は湖白の二城が守れなかったと聞いて大いに恐れ、急ぎ孫冲之を鵲尾に呼び戻し、薛常宝らを残して赭圻を守らせた。先に姥山や諸岡に分けて立てていた営寨もすべて散らして帰らせ、みな濃湖に籠らせた。
  • 当時、軍旅が大々的に起こって国用が足りず、民を募って銭穀を献じた者には荒廃した県や郡、あるいは五品から三品までの散官をそれぞれ差をつけて賜った。軍中は食が少なかったが、建安王休仁は将士を撫し、豊倹を均しくし、死者を弔い傷者を見舞い、自ら親しく労ったので、十万の衆に離れる心を抱く者がなかった。
  • 鄧琬はその豫州刺史劉胡に三万の衆と鉄騎三千を率いさせて東の鵲尾に屯させた。旧来の兵と合わせて十余万。胡は宿将で勇健、権謀に富み、たびたび戦功があり、将士に畏れられていた。司徒中兵参軍・冠軍の蔡那は子弟が襄陽におり、胡は戦うたびに彼らを城外に吊るした。那は顧みずに進み戦った。
  • 呉喜は三呉を平定してから配下五千人を率い、あわせて物資を運んで赭圻に至った。
  • 薛索児が馬歩一万余人を率いて睢陵から淮を渡り、青冀二州刺史張永の営に迫った。丙申、詔で南徐州刺史桂陽王休範に北討諸軍事を統べさせて広陵に進拠させ、また蕭道成に兵を率いて永を救わせた。
  • 戊戌、尋陽王子房が建康に至り、上は赦して爵を松滋侯に貶した。
  • 上は寧朔将軍劉懐珍に龍驤将軍王敬則ら歩騎五千を率いさせ、劉勔の寿陽討伐を助けさせ、廬江太守劉道蔚を斬った。懐珍は劉善明の従子である。
  • 中書舎人戴明宝が上に啓し、軍主である竟陵の黄回を遣わして兵を募らせ、尋陽の任じた馬頭太守王広元を撃って斬らせた。
  • 前奉朝請である寿陽の鄭黒が淮上で挙兵して建康に応じ、東は殷琰を防ぎ西は常珍奇を拒んだ。乙巳、黒を司州刺史とした。
  • 殷琰の将の劉順・柳倫・皇甫道烈・龐天生らが馬歩八千人で東の宛唐に拠った。劉勔が諸軍を並び進ませ、順から数里の所に営を立てた。当時、琰の遣わした諸軍はみな順の節度を受けることになっていたが、皇甫道烈は土地の豪族、柳倫は朝廷から遣わされた者で、順はもともと身分が卑しかったので、この二軍だけは統督させていなかった。勔が着いたばかりで塹も塁もまだ立たぬうちに順が撃とうとしたが、道烈と倫が同意せず、順は単独では進めず取りやめた。勔の営が立ってしまうともう攻められず、そのまま対峙した。
  • 沈攸之が諸軍を率いて赭圻を囲んだ。薛常宝らは糧が尽きて劉胡に救いを求めた。胡は袋に米を詰めて流木や船腹に結び、船を覆したように見せかけて風に順って流し送った。沈攸之は不審に思って人に船と流木を取らせ、大量の袋入りの米を得た。
  • 丙辰、劉胡が歩卒一万を率いて夜に山を切り開いて道を作り、布袋で米を運んで赭圻に送った。夜明けに城下に至ったが、なお小さな塹に隔てられて入れなかった。沈攸之が諸軍を率いて迎え撃ち、決死の戦いとなった。胡の衆は大敗し、糧を捨て甲を棄てて山伝いに逃げ、斬獲は甚だ多かった。胡は傷を負ってかろうじて営に帰った。
  • 常宝らは恐懼し、夏四月辛酉、城を開いて囲みを突破して胡の軍に逃げ帰った。攸之は赭圻城を落とし、その寧朔将軍沈懐宝らを斬り、数千人の降を受け入れた。陳紹宗は小舟一艘で鵲尾へ逃げた。
  • 建安王休仁が虎檻から赭圻に進み屯した。劉胡らの兵はなお盛んだった。上は人情を宥め慰めようと、吏部尚書褚淵を虎檻に遣わして将士を選任させた。当時、軍功で官に除される者が多く、板が足りず、初めて黄紙を用いた。
  • 鄧琬は晉安王子勛の命として袁顗を尋陽に召し下した。顗は雍州の衆をことごとく率いて馳せ下った。琬は黄門侍郎劉道憲に荊州の事を、侍中孔道存に雍州の事を行わせた。上庸太守柳世隆が虚に乗じて襄陽を襲ったが落とせなかった。世隆は柳元景の弟の子である。
  • 散騎侍郎明僧暠が挙兵して沈文秀を攻め、建康に応じた。壬午、僧暠を青州刺史とした。平原・楽安二郡太守王玄黙が琅邪に拠り、清河・広川二郡太守王玄邈が盤陽城に拠り、高陽・勃海二郡太守劉乗民が臨済城に拠って、みな挙兵して建康に応じた。玄邈は王玄謨の従弟、乗民は劉弥之の従子である。
  • 沈文秀が軍主解彦士に北海を攻めさせて落とし、劉弥之を殺した。乗民の従弟の劉伯宗が郷党を糾合して北海を取り返し、そのまま兵を率いて青州の治所の東陽城へ向かった。文秀が防ぎ、伯宗は戦死した。僧暠・玄黙・玄邈・乗民が兵を合わせて東陽城を攻めたが、戦うたびに文秀に破られ、離れてはまた合すること十余度、ついに落とせなかった。
  • 杜叔宝は台軍が歴陽に留まって急には進めまいと思っていた。ところが劉勔らが到着し、上下は震え恐れた。劉順らは出発時に一か月分の糧しか携えておらず、勔と長く対峙して糧が尽きた。叔宝は車千五百乗を出して米を積み順に送ることとし、自ら精兵五千でこれを護送した。
  • 呂安国がこれを聞いて劉勔に言った。「劉順の精甲は八千、わが衆はその半分にも足りません。対峙が長引き、強弱の勢いに差がある以上、さらに時を延ばせば立ち行かなくなります。頼みとするのは、彼の糧がまさに尽き、わが食に余裕があることだけ。もし叔宝の米が届けば、もう図りようがないばかりか、我らも長くは持ちません。今はただ間道からその米車を襲い、不意を衝くしかない。それができれば、彼らは戦わずして逃げましょう」。
  • 勔はもっともと思い、疲れた弱兵に営を守らせ、精兵千人を選んで安国と龍驤将軍黄回に配し、間道から順の背後に出て横塘で襲わせた。安国は出発時に二日分の煮炊きした食を携えた。食が尽きても叔宝が来ないので、将士は帰ろうとした。安国は「卿らは朝すでに一食した。今晩、米車が来ぬはずがない。もし来なければ、夜に去っても遅くない」と言った。叔宝は果たして到着した。米車を函箱の陣に組み、叔宝は外側で遊軍となった。幢主の楊仲懐が五百人で前に出たが、安国と回が撃ち斬り、その士卒もみな殺した。
  • 叔宝が着くと、回は勝ちに乗じて撃とうとしたが、安国は「彼は自ら逃げる。改めて撃つまでもない」と言い、三十里退いて宿った。夜に騎を出して様子を探らせると、叔宝は果たして米車を捨てて逃げていた。安国はまた夜に行って米車を焼き、牛二千余頭を追って帰った。
  • 五月丁亥朔の夜、劉順の衆は潰え、順は淮西へ逃げて常珍奇のもとに身を寄せた。こうして劉勔は鼓を鳴らして寿陽へ進んだ。叔宝は住民と散った兵を収めて城に籠って自ら守り、勔は諸軍とともに城外に営を分けた。
  • 山陽王休祐が殷琰に書を送って利害を陳べ、上もまた御史王道隆に詔を持たせて琰の罪を赦した。勔も琰に書を送り、あわせて琰の兄の殷瑗の子の殷邈の書も添えた。琰も叔宝らもみな降る意があったが、衆心が一致せず、また城に籠って固守した。
  • 弋陽の西山の蛮の田益之が挙兵して建康に応じた。詔で益之を輔国将軍・督弋陽四山事とした。
  • 壬辰、輔国将軍沈攸之を雍州刺史とした。丁未、尚書左僕射王景文を中軍将軍とした。庚戌、寧朔将軍劉乗民を冀州刺史とした。
  • 張永・蕭道成らが薛索児と戦って大破した。索児は石梁に退いて守ったが、糧が尽きて潰え、楽平へ逃げる途中、申令孫の子の申孝叔に斬られた。薛安都の子の薛道智は合肥へ逃げて裴季のもとへ行って降った。傅霊越は淮西まで逃げ、武衛将軍である沛郡の王広之が生け捕りにして劉勔のもとへ送った。勔がその叛逆を詰ると、霊越は「九州が義を唱えたのだ。私だけのことか。薛公が智勇の者に専任せず子や甥に任せた。それが敗因だ。人生は一つの死に帰する。まことに生を求める顔もない」と言った。勔が建康に送り、上は赦そうとしたが、霊越の言葉はついに変わらず、殺した。
  • 鄧琬は劉胡が沈攸之らと長く対峙して決着せぬので、袁顗に督征討諸軍事を加えた。六月甲戌、顗は楼船千艘と戦士二万を率いて鵲尾に入った。顗はもとより将としての略がなく、性も臆病だった。軍中にあって一度も戎服を着けず、話は戦陣に及ばず、ただ詩を賦し義を談ずるだけで、諸将を撫し接することもしなかった。劉胡が事を論じても応対は甚だ素っ気なく、これで大いに人情を失った。胡は常に歯噛みして恨んだ。
  • 胡は南からの運米が届かず軍士が困窮したので、顗に襄陽の物資を借りようとした。顗は許さず「都の二つの邸宅がまだ完成しておらず、これから手当てせねばならぬ」と言った。また往来の者の言を信じ、「建康は米が高く、一斗が数百銭に至る」と言い、いずれ攻めずとも自ら潰えるだろうと、甲を擁して待った。
  • 田益之が蛮の衆一万余を率いて義陽を囲んだ。鄧琬が司州刺史龐孟虯に精兵五千で救わせ、益之は戦わずに潰え去った。
  • 安成太守劉襲、始安内史王識之、建安内史趙道生がみな郡を挙げて降った。襲は劉道憐の孫である。
  • 蕭道成の世子の蕭賾が南康の贛令だったが、鄧琬が使者を送って捕らえ繋いだ。門客である蘭陵の桓康が賾の妻の裴氏とその子の蕭長懋・蕭子良を担いで山中に逃れ、賾の族人の蕭欣祖らと客を集めて百余人を得、郡を攻めて獄を破り賾を出した。南康相の沈粛之が将吏を率いて賾を追ったが、賾は戦って捕らえた。賾は寧朔将軍を自称し、郡に拠って挙兵し、劉襲らと呼応した。琬は中護軍殷孚を豫章太守として上流の五郡を督させ、襲らに備えた。
  • 衡陽内史王応之が挙兵して建康に応じ、長沙で襄州行事何慧文を襲撃した。応之と慧文はともに軍を離れて自ら戦い、応之は慧文に八か所の傷を負わせ、慧文は応之の足を斬り落として殺した。
  • 始興の人劉嗣祖らが郡に拠って挙兵し建康に応じた。広州刺史袁曇遠が将の李万周らを遣わして討たせたが、嗣祖は万周を欺いて「尋陽はすでに平らいだ」と言った。万周は引き返して番禺を襲い、曇遠を捕らえて斬った。上は万周に広州の事を行わせた。
  • 諸軍が袁顗と濃湖で対峙して長く決着しなかった。龍驤将軍張興世が建議した。「賊は上流に拠って兵は強く地は勝れており、我らは持ちこたえるには余りあっても制するには足りません。もし奇兵数千でひそかにその上流に出て、険に拠って壁を築き、利を見て動けば、彼らは首尾に慌てて進退に迷います。中流が塞がれば糧運は自ずと困難になる。これぞ賊を制する奇策です。銭渓は江岸が最も狭く、大軍から遠くなく、下に逆巻く淵を臨んでおり、船が下るときは必ず岸沿いに来ます。また横浦があって船を隠せます。千人が険を守れば万人でも通れません。要衝の地としてここに勝るものはありません」。沈攸之と呉喜がともにその策に賛成した。
  • 折しも龐孟虯が兵を率いて殷琰を助けに来て、劉勔が使者を送って救援を甚だ急に求めた。建安王休仁は興世を救援に送ろうとしたが、沈攸之は「孟虯は蟻が集まったようなもので何もできません。別将に馬歩数千を与えれば制するに足ります。興世の作戦は安危の大機で、決して中止できません」と言った。そこで段仏栄に兵を率いて勔を救わせ、戦士七千と軽舸二百を選んで興世に配した。
  • 興世はその衆を率いて流れを遡って西へ上り、まもなく退いて帰った。これを幾日も繰り返した。劉胡はこれを聞いて笑い「私ですら彼らを越えて下り揚州を取る勇気がないのに、張興世は何者だ。軽々しく私の上流に拠ろうというのか」と言い、備えをしなかった。
  • ある夜の四更、順風に乗って興世は帆を挙げてまっすぐ進み、湖白を過ぎ鵲尾を過ぎた。胡は気づいて将の胡霊秀に兵を率いて東岸から並走させた。戊戌の夕、興世は景洪浦に宿り、霊秀もそこに留まった。興世はひそかに将の黄道標に七十艘を率いてまっすぐ銭渓へ向かわせ、営寨を立てさせた。己亥、興世が兵を率いて進拠し、霊秀は阻めなかった。
  • 庚子、劉胡が自ら水歩の二十六軍を率いて銭渓を攻めた。将士が迎え撃とうとすると、興世は禁じて「賊はまだ遠い。気は盛んで矢を頻りに射るが、頻りに射れば矢は尽きやすく、盛んな気も衰えやすい。待つにしくはない」と言い、将士に城の普請を続けさせた。ほどなく胡が近づき、船が逆巻く淵に入った。興世は寿寂之と任農夫に壮士数百を率いて撃たせ、諸軍が相次いで進んだ。胡は敗走し、数百人が斬られた。胡は兵を収めて下った。
  • 当時、興世の城寨はまだ固まっておらず、建安王休仁は袁顗が力を合わせてさらに銭渓を攻めるのを慮り、その勢力を分けようと、辛丑、沈攸之と呉喜らに皮艦で濃湖を攻めさせ、斬獲は千を数えた。
  • この日、劉胡が歩卒二万と鉄馬一千を率いて改めて興世を攻めようとしたが、銭渓まで数十里の所で、袁顗が濃湖の急を告げて急ぎ呼び戻した。銭渓の城はこれで立てられた。
  • 胡は人を遣わして「銭渓はすでに平らげた」と触れ回らせ、衆はみな恐れた。沈攸之は「そうではない。もし銭渓が本当に敗れたなら、一万人の中に一人くらいは逃げ帰る者があるはず。あれは彼らが戦いに敗れ、空しい声を触れて衆を惑わしているのだ」と言い、軍中にみだりに動くなと令した。まもなく銭渓の勝報が届いた。攸之は銭渓から送られてきた胡の軍兵の耳と鼻を濃湖に示し、袁顗は驚き恐れた。攸之は日暮れに兵を引いて帰った。
  • 龍驤将軍劉道符が山陽を攻め、程天祚が降を請うた。
  • 龐孟虯が弋陽に進むと、劉勔は呂安国らを遣わして蓼潭で迎え撃たせ、大破した。孟虯は義陽へ逃げたが、王玄謨の子の王曇善が挙兵して義陽に拠り建康に応じており、孟虯は蛮の中へ逃げて死んだ。
  • 劉胡が輔国将軍薛道標を遣わして合肥を襲い、汝陰太守裴季を殺した。劉勔は輔国将軍垣閎に撃たせた。閎は垣閬の弟、道標は薛安都の子である。
  • 淮西の人鄭叔挙が挙兵して常珍奇を撃ち、鄭黒に応じた。辛亥、叔挙を北豫州刺史とした。
  • 八月、皇甫道烈らが龐孟虯の敗北を聞いて、みな門を開いて出て降った。
  • 張興世が銭渓を押さえてから、濃湖の軍は食に乏しくなった。鄧琬が大量の物資と糧を送ったが、興世を畏れて進めなかった。劉胡が軽舸四百を率いて鵲頭の内側の水路から銭渓を攻めようとしたが、やがて長史王念叔に言った。「私は若い頃から歩戦に慣れているが水戦は不慣れだ。歩戦なら常に数万人の中にいるが、水戦は一艘の上にいて、艘ごとに進んで互いに関われず、わずか三十人の中にいるだけだ。これは万全の計ではない。私はやらぬ」。そこで瘧疾に託けて鵲頭に留まって進まず、龍驤将軍陳慶に三百艘で銭渓へ向かわせ、「戦うには及ばぬ。張興世は私がよく知っている。自ら逃げるだけだ」と戒めた。
  • 陳慶は銭渓に至って梅根に陣した。胡は別将の王起に百艘で興世を攻めさせたが、興世は起を撃って大破した。胡は残った艘を率いて馳せ帰り、顗に言った。「興世の営寨はもう立っており、にわかには攻められません。昨日の小戦は損害というほどではない。陳慶がすでに南陵・大雷の諸軍と共にその上流を遮り、大軍がここにおり、鵲頭の諸将もその下流を断っている。彼はすでに囲みの中に落ちており、案ずるには及びません」。
  • 顗は胡が戦わぬのを怒って「糧運が塞がれている。これをどうする」と言った。胡は「彼が流れを遡って我らを越えて上れたのに、この運送がなぜ流れに沿って彼を越えて下れぬのか」と言い、安北府司馬沈仲玉に千人を率いて歩いて南陵へ行き糧を迎えさせた。仲玉は南陵に至って米三十万斛と銭・布数十艘分を積み、榜を立てて城のようにし、突破しようと計った。だが貴口まで来て進む勇気がなく、使いを送って胡に報せ、重兵の援護を求めた。張興世は寿寂之と任農夫らに三千人で貴口へ行かせて撃ち、仲玉は顗の営へ逃げ帰り、その物資はすべて奪われた。胡の衆は驚き恐れ、胡の将の張喜が降ってきた。
  • 鎮東中兵参軍劉亮が兵を進めて胡の営に迫り、胡は制せなかった。袁顗は恐れて「賊は人の肝や脾の中まで入り込む。どうして生きられよう」と言った。
  • 胡はひそかに逃げる謀を巡らせ、己卯、顗を欺いて「改めて歩騎二万を率いて上って銭渓を取り、あわせて大雷の残りの糧を下ろしたい」と言い、顗に馬をすべて選んで配させた。その日、胡は顗を捨てて去り、まっすぐ梅根へ向かい、先に薛常宝に船を用意させ、南陵の諸軍をすべて引き揚げさせ、大雷の諸城を焼いて逃げた。
  • 夜になって顗は初めて知り、激怒して罵った。「今年は小僧に誤らされた」。常用の名馬「飛燕」を呼び取り、衆に「私は自ら出て追う」と言って、そのまま逃げた。
  • 庚辰、建安王休仁が兵を整えて顗の営に入り、降卒十万を受け入れ、沈攸之らに顗を追わせた。顗は鵲頭まで逃げ、戍主の薛伯珍および率いる数千人と共に去り、尋陽へ向かおうとした。夜、山間に留まり、馬を殺して将士を労った。振り返って伯珍に「私は死ねぬのではない。ただ一度尋陽に至って主上に謝罪し、そののち自刎したいのだ」と言い、慷慨して左右に節を持って来いと叱ったが、もう応える者はいなかった。
  • 夜が明けると、伯珍が人を退けて話したいと請い、そのまま顗の首を斬って銭渓へ赴いた。馬軍主である襄陽の兪湛之が、そこで伯珍を斬り、あわせてその首を送って自分の功とした。
  • 劉胡は二万人を率いて尋陽へ向かい、晉安王子勛を欺いて「袁顗はすでに降り、軍はみな散った。ただ私だけが配下を率いて帰った。速やかに処置して一戦の資とすべきです。湓城に留まり拠って、死を誓って二心ありません」と言い、そのうえで長江の外を夜のうちに沔口へ向かった。
  • 鄧琬は胡が去ったと聞いて憂え恐れ計もなく、中書舎人褚霊嗣らを呼んで謀ったが、みなどうしてよいか分からなかった。張悦は病と偽って琬を呼んで軍議をすると言い、左右に甲士を帳の後ろに伏せさせ、「酒を求める声を聞いたら出よ」と戒めた。琬が来ると悦は「卿がこの謀を唱えた。今、事は急だ。どんな計がある」と言った。琬は「まさに晉安王を斬り、府庫を封じて謝罪するまでだ」と答えた。悦は「今日、殿下を売って生き延びようというのか」と言い、そこで酒を求めた。子の張洵が刀を提げて出て琬を斬った。
  • 中書舎人潘欣之が琬の死を聞いて兵を整えて来た。悦は人を遣わして「鄧琬は謀反した。すでに梟首した」と伝えさせ、欣之は帰った。琬の子も捕らえてみな殺した。悦はそのまま小舟一艘に琬の首を載せて馳せ下り、建安王休仁のもとへ赴いて降った。
  • 尋陽は乱れた。蔡那の子の蔡道淵は尋陽で繋がれて作業場にいたが、鎖を外して城に入り、子勛を捕らえて囚えた。沈攸之ら諸軍が尋陽に至り、晉安王子勛を斬り、首を建康に送った。時に十一歳。
  • はじめ鄧琬は臨川内史張淹を鄱陽の嶠道から三呉に入らせ、上饒に陣させていた。劉胡の敗北を聞いて、軍副の鄱陽太守費曅が淹を斬って降った。淹は張暢の子である。
  • 廃帝の世に、衣冠の士は禍を恐れてみな遠くへ出たがった。ここに至って外の難に流離し、百人に一人も残らなかった。衆はここでようやく蔡興宗の先見に服した。
  • 九月壬辰、山陽王休祐を荊州刺史とした。癸巳、戒厳を解いて大赦した。庚子、司徒休仁が尋陽に至り、呉喜と張興世を荊州へ、沈懐明を郢州へ、劉亮と寧朔将軍である南陽の張敬児を雍州へ、孫超之を湘州へ、沈思仁と任農夫を豫章へ向かわせ、残る敵を平定させた。
  • 劉胡は石城まで逃げたが捕らえられて斬られた。郢州行事張沈は姿を変えて沙門となりひそかに逃げたが、追捕されて殺された。荊州行事劉道憲は濃湖の平定を聞いて兵を解散させ、使者を送って罪に服そうとしたが、荊州治中の宗景らが兵を整えて城に入り道憲を殺し、臨海王子頊を捕らえて降った。孔道存は尋陽がすでに平らいだと知って使者を送って降を請うたが、まもなく柳世隆と劉亮が来ると聞いて衆はみな逃げ潰え、道存とその三子はみな自殺した。
  • 上は何慧文が将としても吏としても才があるので、呉喜に旨を宣べて赦させた。慧文は「すでに逆節に陥り、手ずから忠義の者を害した。どの面下げて天下の士にまみえられよう」と言い、自殺した。
  • 安陸王子綏、臨海王子頊、邵陵王子元にはみな死を賜った。劉順および荊州にいた残党もみな誅された。詔で節に死んだ臣に追贈し、功ある者を封賞することそれぞれ差があった。
  • 上は晉安王子勛らを誅してからも、世祖の諸子を平常どおりに遇していた。司徒休仁が尋陽から帰って上に「松滋侯(子房)兄弟がなお健在なのは、将来のために社稷の計ではありません。早く処置なさるべきです」と言った。冬十月乙卯、松滋侯子房、永嘉王子仁、始安王子真、淮南王子孟、南平王子産、廬陵王子輿、子趨、子期、東平王子嗣、子悦にみな死を賜り、あわせて鎮北諮議参軍路休之、司徒従事中郎路茂之、兖州刺史劉祗、中書舎人厳竜がみな連座して誅された。世祖の二十八人の子はこれで尽きた。
  • 劉勔が寿陽を囲み、垣閎が合肥を攻めたが、ともに落ちなかった。勔は憂えて諸将を集めて議した。馬隊主の王広之が「将軍のお乗りの馬をいただければ、必ず合肥を平らげてみせます」と言った。幢主の皇甫粛が怒って「広之は節下の馬を奪うつもりか。斬るべきです」と言った。勔は笑って「その意気を見れば必ず功を立てる」と言い、その場で鞍を押して馬を下り、与えた。広之は合肥を攻めに行き、三日で落とした。薛道標は囲みを破って淮西へ逃げ、常珍奇のもとに帰した。勔は広之を軍主に抜擢した。広之は粛に「節下が卿の言に従っていたら、どうやって賊を平らげたか。卿は才を賞さぬこと、ここに至るとは」と言った。粛には学術があり、勔が没してからは改めて広之に頼った。
  • 徐州刺史薛安都らが使者を送って降を乞うた。
  • 冬十二月、劉勔が寿陽を囲んで春の初めから冬の終わりまで、内は攻め外は防ぎ、戦って勝たぬことはなかった。寛厚で将士の心を得た。
  • 尋陽が平定されると、上は中書に詔を作らせて殷琰を諭そうとした。蔡興宗が「天下が定まった今こそ、琰が過ちを思う時です。陛下は自筆の詔を数行賜って慰め引き寄せるべきです。今、そのまま中書に詔を作らせれば、彼は必ず本物でないと疑い、地方の難を速やかに清める道になりません」と言ったが、従わなかった。琰は詔を得て劉勔が偽作したものと思い、降る勇気がなかった。杜叔宝は尋陽の敗報を遮断し、伝える者があればすぐ殺したので、守備はいよいよ固くなった。
  • およそ降る者があると、上はその都度寿陽の城下に送って城中の人と語らせた。これで衆情は離れ沮んだ。琰は魏に降を請おうとしたが、主簿である譙郡の夏侯詳が説いた。「今日の挙は本来、忠節を尽くすためでした。社稷に奉ずべき君があるなら、身を朝廷に帰すべきです。どうして北面して衽を左にできましょう。それに今、魏軍は淮のほとりに近づいており、官軍は我らの去就を測りかねております。使者を送って帰順を申し出れば必ず手厚く受け入れられ、罪を免れるどころではありません」。
  • 琰はそこで詳を出して劉勔に会わせた。詳は勔に説いた。「今、城中の士民は苦境を知りながらなお固守しているのは、将軍の誅を恐れ、みな魏に身を寄せようとしているからです。将軍が寛くして赦されるなら、連れ立って帰らぬ者はありますまい」。勔は承諾し、詳に城下で城中の人を呼んで勔の意を諭させた。
  • 丙寅、琰が将佐を率いて面縛して降った。勔はみな慰撫して一人も殺さず、入城して将士を戒め、士民の資財は秋毫も失われなかった。寿陽の人は大いに喜んだ。魏兵は師水まで来て寿陽を救おうとしたが、琰がすでに降ったと聞いて義陽の数千人を掠めて去った。久しくして琰はまた仕えて少府に至って没した。