通鑑紀事本末宋の明帝の北伐(宋明帝北伐)
尋陽の乱を平定した宋の明帝が、降を乞うた薛安都のもとへ張永・沈攸之に大軍を向けさせ、かえって安都を北魏へ走らせて淮北を失うまでの経過。泰始二年(466年)から五年(469年)までを扱い、蔡興宗・蕭道成の諫めは容れられず、呂梁の大敗ののち、魏の尉元・慕容白曜が彭城・下邳・宿豫・歴城を次々に取り、東陽の沈文秀も三年の籠城のすえ陥ちて、青・冀の地はことごとく魏に帰した。
宋明帝泰始二年(466年)
- 晉安王子勛が尋陽で敗れると、徐州刺史薛安都、益州刺史蕭恵開、梁州刺史柳元怙、兖州刺史畢衆敬、豫章太守殷孚、汝南太守常珍奇がみな使者を送って降を乞うた。上は南方がすでに平定されたので淮北に威を示そうとし、冬十月乙亥、鎮軍将軍張永と中領軍沈攸之に甲士十五万を率いて薛安都を迎えに行かせた。
- 蔡興宗が言った。「安都の帰順はまことに虚偽ではありません。使者一人と一通の書で足ります。今、重兵で迎えれば、勢いとして必ず疑い恐れ、あるいは北の敵を招き入れて患いが深くなりましょう。もし叛臣の罪は重く誅さぬわけにいかぬというなら、これまでに誅した者も十分に多い。まして安都は外の大鎮に拠り、辺境にごく近く、地は険しく兵は強い。攻囲しても落としがたい。国の計から考えれば、なおさら手なずけて養うべきです。もし外へ叛けば、朝廷が食事も遅れるほどの憂いとなりましょう」。上は従わなかった。
- 上は征北司馬・行南徐州事の蕭道成に「私は今これに乗じて北を討つ。卿はどう思うか」と問うた。道成は「安都は狡猾に余りある者。今、兵で迫るのは国の利ではないでしょう」と答えた。上は「諸軍は勇猛鋭利、どこへ行っても勝てぬはずがない。卿は多くを言うな」と言った。
- 安都は大兵の北上を聞いて恐れ、使者を送って魏に降を乞うた。常珍奇もまた懸瓠を挙げて魏に降り、いずれも自らを救う兵を請うた。
- 薛安都は子を魏に人質とした。魏は鎮東大将軍である代人の尉元、鎮東将軍である魏郡の孔伯恭らに騎一万を率いて東道から出て彭城を救わせ、鎮西大将軍西河公拓跋石を都督荊豫南雍州諸軍事として西道から出て懸瓠を救わせ、安都を都督徐兖等五州諸軍事・鎮南大将軍・徐州刺史・河東公、常珍奇を平南将軍・豫州刺史・河内公とした。
- 兖州刺史申纂が偽って魏に降ったが、尉元は受け入れつつひそかに備えた。魏軍が無塩に至ると、纂は門を閉じて拒み守った。
- 薛安都が魏兵を招いたとき、畢衆敬は同調せず、使者を送って降を請うた。上は衆敬を兖州刺史とした。だが衆敬の子の畢元賓は建康にいて、先に別の罪で誅されていた。衆敬はこれを聞いて怒り、刀を抜いて柱を斬り「わしは白髪頭でただ一人の子を全うできなかった。独り生きて何になろう」と言った。十一月壬子、魏軍が瑕丘に至り、衆敬は魏に降を請うた。尉元は部将を遣わして先にその城を押さえ、衆敬は悔い恨んで数日食を絶った。元は長駆して進んだ。
- 十二月己未、拓跋石が秅西に陣した。上蔡に至ると常珍奇が文武を率いて出迎えた。石は汝水の北に軍を留めてすぐには城に入るまいとした。中書博士鄭羲が「今、珍奇は来ましたがその意は測れません。まず城に入ってその鍵を奪い、府庫を押さえてその腹心を制するのが、全き策です」と言い、石は馬を進めて入城し、酒宴を開いた。羲が「珍奇の顔色は甚だ穏やかでない。備えぬわけにいきません」と言い、兵を厳しくして備えた。その夕、珍奇は人に府の建物を焼かせて変を起こそうとしたが、石に備えがあったのでやめた。羲は鄭豁の曽孫である。
- 淮西七郡の民は魏に属するのを望まぬ者が多く、営を連ねて南へ逃げた。魏は建安王陸馛を遣わして新附の民を宣慰させた。民で軍に捕らわれて奴婢とされた者を馛はみな免じ、新民はようやく喜んだ。
- この年、張永と沈攸之が兵を進めて彭城に迫り、下礚に陣し、羽林監王穆之に卒五千を分けて武原で輜重を守らせた。
- 魏の尉元が彭城に至り、薛安都が出迎えた。元は李璨と安都を先に城に入れて鍵を収め、別に孔伯恭に精甲二千を率いさせて内外を安撫させ、そのうえで入城した。その夜、張永が南門を攻めたが落とせず退いた。
- 元が薛安都を礼遇しなかったので、安都は降ったことを悔い、また魏に叛こうと謀った。元がこれを知り、実行できなかった。安都は元らに厚く賄賂を贈り、罪を婿の裴阻隆になすりつけて殺した。元は李璨と安都に彭城を守らせ、自ら兵を率いて張永を撃ち、その糧道を断ち、また武原で王穆之を破った。穆之は残った衆を率いて永のもとに就き、元は進んで攻めた。
三年(467年)
- 春正月、張永らが城を捨てて夜逃げた。折しも大雪が降り、泗水が凍り合わさった。永らは船を捨てて徒歩で走り、士卒で凍死する者が過半、手足を失う者が十のうち七、八に及んだ。尉元がその前を遮り、薛安都が後ろから乗じ、呂梁の東で永らを大破した。死者は万を数え、屍が六十余里に重なり、棄てられた軍資と器械は数えきれなかった。永は足指を落とし、沈攸之とかろうじて身一つで免れた。梁・南秦二州刺史垣恭祖らが魏の捕虜となった。
- 上はこれを聞き、蔡興宗を召して敗報を示した。永は左将軍に降号され、攸之は免官のうえ貞陽公として職を領し、淮陰に還り屯した。これで淮北四州および豫州の淮西の地を失った。
史論(裴子野論曰)
- 昔、斉の桓公が葵丘で驕って九国が叛き、曹操が張松を礼遇せずして天下が分かれた。ひとたび毫釐を失えばその差は遠く隔たる。太宗(明帝)の初め、威令の及ぶところは百里に満たず、ついに離心が生じ、士に固い顔色もなかった。それでも誠心を開き真心を布いたので、恩に感じ徳に服して命を捧げ死を尽くさぬ者はなく、ゆえに西を摧き北を掃って天下は開けた。ところが六軍が勝ちを収め四方が手を束ねると、天子はその余威を売ろうとして、名分なく師を出した。長淮以北はたちまち戎の地となった。惜しいことだ。もし以前の虚心のままに驕らず誇らずにいたなら、三たびの叛乱がどうして起こったろう。高祖は甲冑に虱をわかせて国境を切り開いた。後の子孫が日に百里ずつ縮めた。播いた種を刈り、家業を継ぐのは、どうして容易なことか。
三年つづき
- 魏の尉元は、彭城が兵乱の後で公私ともに困窮しているとして、冀・相・済・兖四州の粟を出し、張永が棄てた船九百艘を取って河沿いに運び新民を賑わすよう請い、魏朝はこれに従った。
- 沈文秀と崔道固が土着の者に攻められ、使者を送って魏に降を乞い、あわせて自らを救う兵を請うた。
- 二月、魏の西河公石が懸瓠から兵を率いて汝陰を攻めたが、太守張超に落とせず、陳・項に退いて屯し、長社へ帰って秋に撃つ議を出した。鄭羲が「張超は蟻の寄せ集めで命は窮まり、糧食はすでに尽きております。降らねば逃げるだけ、足を上げて待てば済むこと。今これを捨てて遠く去れば、超は城を修め濠を浚え、薪を積み穀を蓄える。改めて来ても図りがたくなりましょう」と言ったが、石は従わず長社へ帰った。
- はじめ尋陽が平定されると、帝は沈文秀の弟の沈文炳に詔書を持たせて文秀を諭させ、また輔国将軍劉懐珍に馬歩三千人を率いて文炳と同行させたが、着かぬうちに張永らの敗退に遭い、懐珍は山陽に還り鎮した。
- 文秀が青州刺史明僧暠を攻めたので、帝は懐珍に龍驤将軍王広之と騎五百・歩卒二千を率いさせ、海路で救わせた。東海に至ると僧暠はすでに退いて東萊を保っていた。懐珍は進んで朐城に拠った。衆心は恐れ、ひとまず郁洲を保とうとした。懐珍は「文秀は青州を索虜(魏)に帰そうとしている。斉の士民が衽を左にするのを甘んじて受けようか。今、兵を挙げてまっすぐ進み、威徳を宣べ布けば、諸城は書一通で下せる。なぜここを守って進まず、自ら挫けるのか」と言い、進んで黔陬に至った。文秀が任じた高密・平昌二郡の太守は城を捨てて逃げた。懐珍は文炳を送り届けて朝廷の意を伝えさせたが、文秀はなお降らなかった。百姓は懐珍が来たと聞いてみな喜んだ。
- 文秀が任じた長広太守劉桃根が数千人で不其城に戍っていた。懐珍は洋水に陣した。衆は「まず壁を固めて隙を伺うべきです」と言ったが、懐珍は「今、衆は少なく糧は尽きかけ、孤軍で深入りしている。まさに精兵で速やかに進み、その不備を衝くべきだ」と言い、王広之に百騎で不其城を襲わせて落とした。文秀は諸城がみな敗れたと聞いて使者を送って降を請い、帝はまた青州刺史とした。崔道固もまた降を請い、また冀州刺史とした。懐珍はそこで帰った。
- 沈攸之が彭城から帰るとき、長水校尉王玄載を残して下邳を守らせ、積射将軍沈韶に宿豫を守らせ、睢陵と淮陽にもみな兵を残して戍らせた。玄載は王玄謨の従将である。
- 当時、東平太守申纂が無塩を守り、幽州刺史劉休賓が梁鄒を、并州刺史である清河の房崇吉が升城を、輔国将軍である清河の張讜が団城を守り、また兖州刺史王整、蘭陵太守桓忻、肥城・糜溝・垣苗などの戍がいずれも魏に付いていなかった。休賓は劉乗民の兄の子である。
- 魏は平東将軍長孫陵らに兵を率いて青州へ赴かせ、征南大将軍慕容白曜に騎五万でその後援とした。白曜は燕の太祖(慕容垂)の玄孫である。
- 白曜は無塩に至って攻めようとした。将佐はみな攻城具が整っておらず急ぐべきでないと言った。左司馬である范陽の酈範が「今、軽装の軍で遠く襲い、深く敵境に入っております。どうしてぐずぐずできましょう。それに申纂は必ず我が軍が来るのが速く攻囲の暇がないと思い、備えぬはずです。今、不意を衝けば一鼓で落とせます」と言った。白曜は「司馬の策が正しい」と言い、兵を率いて偽って退いた。申纂はもう備えなくなった。白曜は夜のうちに部署を定め、三月甲寅の朝に城を攻め、朝食どきに落とした。纂は逃げたが追って捕らえ殺した。
- 白曜は無塩の人をすべて軍の賞にしようとした。酈範が「斉は形勝の地で、遠く経略すべきです。今、王師が境に入ったばかりで人心はなじまず、城が連なって互いに望み合い、いずれも拒み守る志を抱いております。徳と信で懐けるのでなければ、容易には平らげられません」と言い、白曜は「よし」と言ってみな免じた。
- 白曜が肥城を攻めようとすると、酈範は「肥城は小さいとはいえ、攻めれば日を費やします。勝っても軍勢を増しはせず、勝てねば軍威を挫くに足ります。彼らは無塩が破れ死傷が地に満ちたのを見て、恐れぬはずがない。書を飛ばして諭せば、たとえ降らなくとも逃げ散るでしょう」と言い、白曜は従った。肥城は果たして潰え、粟三十万斛を得た。白曜は範に「この行軍で卿を得た。三斉は平定するに足らぬ」と言い、そのまま垣苗・糜溝の二戍を取った。一旬のうちに四城を連ね落とし、威は斉の地に震えた。
- 房崇吉が升城を守ったが、戦える兵は七百人に過ぎなかった。慕容白曜は長囲を築いて攻め、二月から夏四月に至ってようやく落とした。白曜は降らなかったのを憤り、城中の人をみな坑にしようとした。参軍事である昌黎の韓麒麟が諫めた。「今、強敵が前にあるのにその民を坑にすれば、これより東の諸城の人はそれぞれ自ら守り、落とせなくなります。軍は疲れ糧は尽き、外の敵がこれに乗ずる。危うい道です」。白曜はそこで民を慰撫し、それぞれ生業に復させた。崇吉は身一つで逃げた。
- 崔道固が門を閉じて魏を拒み、沈文秀は使者を送って魏に降を申し出て、兵の援護を請うた。白曜が兵を送ろうとすると、酈範が言った。「文秀は家族も墳墓も江南にあり、兵数万を擁して城は固く甲は堅い。強ければ戦い、屈すれば逃げるだけ。わが軍はまだその城に迫っておらず、朝夕の急もない。何を畏れ憚って急に援軍を求めるのか。それにその使者を見ると、目を伏せて顔に恥じらいがあり、言葉は多いが志は怯えている。これは必ず詐りを挟んで我らを誘うもの。従ってはなりません。まず歴城を取り、盤陽を落とし、梁鄒を下し、楽陵を平らげ、そののち兵を按じてゆっくり進めば、服さぬ心配はありません」。
- 白曜は「崔道固らは兵力が弱く出て戦う勇気がない。私は行く手を遮られることなくまっすぐ東陽に至る。彼は必ず亡ぶと自ら知って、風を望んで服を求めているのだ。何を疑おう」と言った。範は「歴城は兵も多く糧も足り、朝夕に落とせるものではありません。文秀は座して東陽に拠り諸城の根本となっております。今、多くの兵を送れば歴城を攻められず、少なく送れば東陽を制するに足りません。進めば文秀に拒まれ、退けば諸城に遮られ、腹背に敵を受けて無事でいられる道理がありません。改めてよくお考えください。賊の罠に落ちませぬよう」と言い、白曜は取りやめた。文秀は果たして降らなかった。
- 魏の尉元が上表した。「彭城は賊の要藩です。重兵と蓄えた粟がなければ固守できません。もし物資と蓄えが豊かなら、劉彧が全兵力を挙げても淮北の地をうかがう勇気はありません」。また「賊が彭城に向かうには必ず清水・泗水を経て宿豫を過ぎ下邳を歴ます。青州へ向かうにもやはり下邳から沂水を経て東安を通ります。これらはみな賊の用兵の要です。今、先に下邳を定め、宿豫を平らげ、淮陽を鎮し、東安を戍れば、青・冀の諸鎮は攻めずして落とせます。もしこの四城が服さねば、青・冀を落としても百姓は狼のように振り返り、なお僥倖の心を抱きます。臣の愚見では、青・冀の軍を解いて先に東南の地を定め、劉彧の北を顧みる意を断ち、愚民の南を望む心を絶つべきです。夏は樹木が盛んでも渡る道がなく、冬は道が通じても固められる高城がない。こうすれば淮北は自ずと挙がり、しばらくの労で永く逸せます。兵は神速を貴び、長引けば変を生じます。もし天から雨が降れば、彼らは水路で糧を運び衆を増して進取を図るかもしれません。淮に近い民が翻然と心を改め、青・冀二州がにわかには落とせなくなるのを恐れます」。
- 五月、沈攸之が自ら運米を下邳に送った。魏人は清水・泗水のあたりの者を使って攸之に「薛安都が降りたがっており、軍に迎えに来てほしいと求めている」と偽らせた。軍副の呉喜は千人を送るよう請うたが、攸之は許さなかった。やがて来る者がいよいよ増え、喜が固く請んでやまないので、攸之は来た者を集めて告げた。「君ら諸人にまことに誠心があり、薛徐州の子弟と共に来られるなら、みなその場で本籍の郷や県を与えよう。望むままだ。そうでなければ、無駄に往還を労するだけのこと」。これ以来、一度去った者は返らなかった。攸之は軍主である彭城の陳顕達に千人を与えて下邳の守りを助けさせて帰った。
- 薛安都の子の薛伯令が梁・雍の間に亡命して党類数千人を集め、郡県を攻め落とした。秋七月、雍州刺史巴陵王休若が南陽太守張敬児らを遣わして撃ち斬らせた。
- 上はまた中領軍沈攸之らに彭城を撃たせようとした。攸之は清水・泗水がまさに涸れて糧運が続かぬとして、固く不可を主張し、使者が七度往復した。上は怒って強いて遣わした。八月壬寅、攸之を行南兖州刺史として兵を率いさせ、出発するまで行徐州事の蕭道成に千人で淮陰を鎮させた。
- 魏が彭城に入ったとき、垣崇祖は部曲を率いて朐山に逃げて拠り、使者を送って降ってきた。蕭道成は朐山戍主とした。朐山は海に臨んで孤立しており人情が落ち着かなかったので、崇祖は水際に舟を浮かべ、急があれば海へ逃げるつもりでいた。
- 魏の東徐州刺史成固公が圂城に戍っていた。崇祖の部将で罪を得た者が魏に亡命し、成固公は歩騎二万を送って朐山を襲わせた。城まで二十里の所まで来たとき、崇祖はちょうど客を送りに出ており、城中の人は驚き恐れてみな船に下りて去ろうとした。崇祖は戻って腹心に言った。「敵に前もっての謀があるわけではない。叛いた者の言に乗じて来ただけだ。欺きやすい。今、百余人でも得られれば事は成る。ただ人情がひとたび驚くと集められぬ。卿らは急いでここから二里ほど外へ出て、大声を上げながら来て『艾塘の義人がすでに敵を破った。戍の軍に速やかに助けに来てほしいと言っている』と言え」。舟中の人は果たして喜んで争って岸に上がり、崇祖は引き入れて城に拠り、弱い者を島に入らせ、松明を二本ずつ持たせて山に登り鬨を上げさせた。魏の斥候の騎は軍備が甚だ盛んと思って退いた。上は崇祖を北琅邪・蘭陵二郡太守とした。
- 垣栄祖もまた彭城から朐山へ逃げたが、使者の任を果たせなかったので罪を恐れて出られず、淮陰の蕭道成のもとに身を寄せた。
- 魏の尉元は孔伯恭に歩騎一万を率いて沈攸之を防がせ、また攸之が先の敗戦で失った士卒のうち凍傷で膝で這う者をみな攸之のもとへ返して、その気を沮ませた。上はまもなく攸之を遣わしたのを悔い、改めて召し戻した。攸之は焦墟に至った。下邳から五十余里である。陳顕達が兵を率いて攸之を迎え、㫿清口に至ったところで伯恭が撃ち破った。攸之が兵を引いて退くと伯恭が追撃し、攸之は大敗して、龍驤将軍姜彦之らが戦死した。攸之は重傷を負って顕達の営に入って保ったが、丁酉の夜に衆が潰え、攸之は軽騎で南へ逃げた。棄てられた軍資と器械は万を数えた。淮陰に還り屯した。
- 尉元が書で徐州刺史王玄載を諭し、玄載は下邳を捨てて逃げた。魏は隴西の辛紹先を下邳太守とした。紹先は苛察を尚ばず、大綱を挙げることに努め、民に生業を治めさせ敵を防ぐだけだったので、下邳は安らいだ。
- 孔伯恭が進んで宿豫を攻め、宿豫の戍将魯僧遵も城を捨てて逃げた。魏の将の孔太恒らが千騎で南へ淮陽を攻め、淮陽太守崔武仲は城を焼いて逃げた。慕容白曜は瑕丘に進み屯した。
- 崔道固がまだ降らなかった頃、綏辺将軍房法寿が王玄邈の司馬としてたびたび道固の軍を破り、歴城の人は法寿を畏れていた。道固が降ってからはみな兵を解いた。道固は法寿が百姓を煽動するのを恐れ、迫って建康へ帰らせようとした。折しも従弟の房崇吉が升城から来て、母と妻が魏に捕らわれたので法寿に相談した。法寿はもとより南へ行きたくなく、道固に迫られたのを怨んでいた。当時、道固は兼治中の房霊賓に清河・広川二郡の事を督させて磐陽に戍らせていた。法寿は崇吉と謀って磐陽を襲って拠り、慕容白曜に降って崇吉の母と妻を贖おうとした。道固が兵を送って攻めたが、白曜は瑕丘から将軍長孫観を遣わして磐陽を救い、道固の兵は退いた。白曜は上表して冠軍将軍韓麒麟と法寿を並べて冀州刺史とし、法寿の従弟の房霊民・思順・霊悦・伯憐・伯玉・叔玉・思安・幼安ら八人をみな郡守とした。
- 白曜は瑕丘から兵を率いて歴城の崔道固を攻め、平東将軍長孫陵らを遣わして東陽の沈文秀を攻めさせた。道固は拒み守って降らず、白曜は長囲を築いて守った。陵らが東陽に至ると文秀は降を請うたが、陵らはその西郭に入るなり士卒に暴掠させた。文秀は悔い怒って城を閉じて拒み守り、陵らを撃ち破った。陵らは清水の西に退いて屯し、たびたび城を攻めたが落とせなかった。
- 冬十一月乙卯、徐州を分けて東徐州を置き、輔国将軍張讜を刺史とした。十二月庚戌、幽州刺史劉休賓を兖州刺史とした。
- 休賓の妻は崔邪利の娘である。生んだ子の劉文曄と邪利はいずれも魏の手に落ちていた。慕容白曜はその妻子を梁鄒城下に連れて来て示した。休賓はひそかに主簿の尹文達を歴城に遣わして白曜に会わせ、あわせて妻子を見させた。休賓は降ろうとしたが、兄の子の劉聞慰が不可とした。白曜が人を城下に遣わして「劉休賓はたびたび人を寄こして僕射(白曜)に会い、降ると約したのに、なぜ期日に違えて来ぬのか」と呼ばわらせた。これで城中の者はみな知り、そろって休賓を止めたので降れなかった。魏兵はこれを囲んだ。
- 魏の西河公石がまた汝陰を攻めたが、汝陰に備えがあり、功なく帰った。
- 常珍奇は魏に降ったものの実は二心を抱いていた。劉勔がまた書で招いた。折しも西河公石が汝陰を攻めていたので、珍奇は虚に乗じて懸瓠を焼き掠め、上蔡・安成・平輿の三県の民を駆り立てて灌水に屯した。
四年(468年)
- 春正月、魏の汝陽司馬趙懐仁が衆を率いて武津を侵した。豫州刺史劉勔は龍驤将軍申元徳を遣わして撃ち破らせ、また魏の于都公閼于抜を汝陽台の東で斬り、運搬車千三百乗を獲た。魏がまた義陽を侵すと、勔は司徒参軍孫台瓘に撃ち破らせた。
- 淮西の民の賈元友が上書して、魏を伐って陳・蔡を取る策を陳べた。上はその書を劉勔に示した。勔が上言した。「元友は『虜の主は幼弱で内外に難が多く、天が亡ぼす時期が来ている』と申します。臣が思いますに、虜は昨冬以来わが土を踏みにじり数郡に拠り、百姓は損なわれ亡んでおります。今春以来、城を連ねて包囲し迫っており、国家はまだ領土を回復できておりません。どこに虜を滅ぼす暇がありましょう。元友の陳べるところはおおむね誇大な狂謀で、みな事実ではありません。言うのは甚だ易く、行うのは甚だ難しい。臣がひそかに元嘉以来を尋ねますに、北方の辺境の遠人が多く国の議に口を出し、荷を担いで闕に帰っては、みな虜討伐を勧めました。従来これを信じ容れて、みな後悔を残しております。境上の人はただ強弱を見るだけ。王師が至れば必ず壺の飲み物を持って道で待ちますが、退軍を見たとたん、たちまち掠め遮ることが蜂の起こるごとくです。これは前後に見た明らかな証で、一度や二度ではありません」。上はそこで取りやめた。
- 魏の尉元が使者を送って東徐州刺史張讜を説き、讜は団城を挙げて魏に降った。魏は中書侍郎高閭を讜と並べて東徐州刺史とし、李璨を畢衆敬と並べて東兖州刺史とした。元はまた兖州刺史王整と蘭陵太守桓忻を説き、整も忻も魏に降った。魏は元を開府儀同三司・都督徐南北兖三州諸軍事・徐州刺史として彭城に鎮させ、薛安都と畢衆敬を召して入朝させた。平城に至ると魏は上客として遇し、一族はみな侯に封じられ、邸宅を賜り、給付は甚だ厚かった。
- 慕容白曜が歴城を囲んで一年を経た。二月庚寅、その東郭を落とした。癸巳、崔道固が面縛して降った。白曜は道固の子の崔景業を劉文曄とともに梁鄒に遣わし、劉休賓もまた出て降った。白曜は道固・休賓およびその僚属を平城に送った。
- 辛丑、前龍驤将軍常珍奇を都督司北豫二州諸軍事・司州刺史とした。魏の西河公石が攻め、珍奇は単騎で寿陽へ逃げた。
- 三月、魏の慕容白曜が進んで東陽を囲んだ。上は崔道固の兄の子の崔僧祐を輔国将軍として数千の兵で海路から歴城を救わせたが、不其に至って歴城がすでに陥ちたと聞き、そのまま魏に降った。
- 夏四月、劉勔が許昌で魏兵を破った。
- 秋七月、上は沈文秀の弟の征北中兵参軍沈文静を輔国将軍として高密など五郡の軍事を統べさせ、海路から東陽を救わせた。不其城に至って魏に遮られ、城に拠って自ら固めた。魏人が攻めたが落とせなかった。辛卯、青州を分けて東青州を置き、文静を刺史とした。
- 冬十月、諸州の兵を発して北伐した。十二月、魏人が不其城を落として沈文静を殺し、東陽の西郭に入った。
五年(469年)
- 沈文秀が東陽を守り、魏人が囲むこと三年。外の救援はなく、士卒は昼夜防ぎ戦い、甲冑に虱がわいたが離叛する志はなかった。春正月乙丑、魏人が東陽を落とした。文秀は戎服を解き衣冠を正し、持していた節を取って斎の内に坐した。魏兵が入り交じって至り「沈文秀はどこだ」と問うた。文秀は声を張って「わしがそれだ」と言った。魏人は捕らえてその衣を剥ぎ、縛って慕容白曜のもとへ送り、拝礼させようとした。文秀は「互いに両国の大臣。どうして拝することがあろう」と言った。白曜はその衣を返し、饗応の膳を設け、鎖につないで平城に送った。魏主はその罪を数えたうえで赦し、下客として遇して粗末な衣と食を与えたが、まもなくその不屈を重んじて次第に礼遇を厚くし、外都下大夫に任じた。こうして青・冀の地はことごとく魏に帰した。
- 二月己卯、魏は慕容白曜を都督青斉東徐三州諸軍事・征南大将軍・開府儀同三司・青州刺史とし、爵を済南王に進めた。白曜の撫御には方があり、東の人は安んじた。
- 魏は天安以来、毎年旱魃と飢饉が続き、そのうえ青・徐で兵を用いたので、山東の民は賦役に疲れていた。顕祖は民の貧富に応じて三等に分けて租を納める法を命じた。三品に分け、上の品は平城に納め、中は他州に、下は本州に納めさせた。また魏の旧制では常の賦の外に雑調が十五種あったが、ここに至ってすべて廃した。これで民は次第に潤った。
- 夏五月、魏は青・斉の民を平城に移し、升城と歴城の民のうち名望ある者を桑乾に置き、平斉郡を立てて住まわせ、その他はみな奴婢として百官に分け賜った。
- 魏の沙門統である曇曜が、平斉の戸および諸民のうち毎年穀六十斛を僧曹に納められる者を僧祇戸とし、その粟を僧祇粟として、凶年には飢民に賑給することを奏し、また民で重罪を犯した者および官奴を仏図戸として諸寺の掃除に供することを請うた。魏主はいずれも許した。こうして僧祇戸の粟と寺戸は州や鎮のすみずみにまで行き渡った。