通鑑紀事本末劉裕、晋を簒奪する(劉裕篡晉)

京口の寒門に生まれた劉裕が、桓玄を討って晉室を復興したのち、劉毅・諸葛長民・司馬休之ら並び立つ功臣と宗室を次々に除いて権を一手に集め、南燕・後秦を滅ぼした武功を背景に九錫・相国・宋王へと進み、安帝を弑して恭帝を立て、ついに禅譲を受けて宋を建てるまで。晉安帝隆安三年(399年)から宋永初二年(421年)までの23年間。

年表(19件)
  • 晉安帝
  • 隆安三年399年劉牢之が孫恩討伐で劉裕を参軍事に引き上げる
  • 元興三年404年劉裕が京口で兵を挙げ、桓玄は敗死して帝が位に復す
  • 義熙元年405年帝が建康に還り、劉裕は都督中外諸軍事を辞して京口に帰鎮する
  • 二年406年建義の功により劉裕を豫章郡公に封ずるよう奏される
  • 四年408年劉穆之の献策で劉裕が揚州刺史・録尚書事を執る
  • 五年409年劉裕が南燕を伐ち、王鎮悪を中軍参軍に抜擢する
  • 六年410年劉裕を太尉・中書監とし黄鉞を加える
  • 七年411年劉裕が建康に帰り、はじめて太尉・中書監を受ける
  • 八年412年王鎮悪の奇襲で江陵が落ち、劉毅が首を吊って死ぬ
  • 九年413年劉裕が東府で諸葛長民を打ち殺し、その兄弟も誅する
  • 十年414年司馬文思の一件から劉裕が司馬休之を疑い、豫州六郡に備えを置く
  • 十一年415年劉裕が江陵を落とし、司馬休之と魯宗之は秦へ亡命する
  • 十二年416年劉裕が北伐に発ち、九錫を求めて宋公に封ぜられる
  • 十三年417年長安を落として後秦を滅ぼすが、劉穆之の死で東帰を決める
  • 十四年418年劉裕がはじめて相国・九錫を受け、安帝を絞殺して恭帝を立てる
  • 恭帝
  • 元熙元年419年宋公裕が王に進爵し、寿陽に鎮を移して殊礼を加えられる
  • 宋高祖
  • 永初元年420年恭帝が禅位し、劉裕が南郊で即位して宋を建てる
  • 永初元年つづき(宋朝の創業)恭帝を零陵王とし、功臣を封じて宋朝の制を定める
  • 二年421年零陵王が布団を被せられて殺され、帝は朝堂で三日喪に臨む

晉安帝隆安三年(399年)

  • はじめ、彭城の劉裕は生まれたときに母が死んだ。父の劉翹は京口に仮寓しており、家が貧しくて子を捨てようとした。同郡の劉懐敬の母は裕の従母(母の姉妹)で、懐敬を生んで一年も経たぬうちに駆けつけて救い、懐敬の乳を断って裕に乳を与えた。
  • 成長すると勇健で大志を抱いたが、文字はわずかに読める程度で、履を売って生業とし、樗蒲(博打)を好んだので郷里で軽んじられた。劉牢之が孫恩を撃ったとき、裕を参軍事に引き上げた。

元興三年(404年)

  • 桓玄の乱に際し、劉裕が入朝した。玄はその司徒王謐に「裕の風骨は尋常でない。まさに人傑だ」と言った。玄の后の劉氏は鑑識眼があり、玄に「劉裕は竜のように歩き虎のように進み、眼差しが並でない。ついに人の下に立つ者ではないでしょう。早く除くにこしたことはありません」と言った。玄は「私は今、中原を平定しようとしている。裕をおいて用いる者がない。関中と河北が平定されてから改めて考えよう」と答えた。
  • 劉裕は何無忌とひそかに晉室復興を謀った。劉邁の弟の劉毅もまた無忌と桓玄討伐を謀り、こうして互いに合流して兵を挙げた。
  • 劉裕が京口を落とすと、玄は恐れて長江を下って南へ逃げた。裕が建康に入り、王謐は裕を使持節・都督揚徐兖豫青冀幽并八州諸軍事・徐州刺史に推した。
  • 玄は尋陽に至って帝に西上を強い、劉毅らが追った。玄は帝を挟んで江陵に至った。毅らは尋陽から西へ進んで玄と遭遇し、玄の軍は大潰した。玄は帝を挟んで西へ逃げたが、馮遷が撃って斬り、天子は江陵で位に復した。
  • 桓振が江陵を襲って陥れた。

義熙元年(405年)

  • 春正月、劉毅らが桓振の軍を撃ち破り、江陵で帝を迎えた。何無忌が帝を奉じて東に帰った。
  • 三月、帝が建康に至り、劉裕を侍中・車騎将軍・都督中外諸軍事とした。裕は固辞して受けず、たびたび藩に帰りたいと請うた。詔で百官に強く勧めさせ、帝もその邸に行幸したが、裕はまた闕に赴いて請い、ようやく帰藩を許された。
  • 夏四月、劉裕が京口に帰鎮し、都督荊司等十六州諸軍事に改め、兖州刺史を兼ねさせた。
  • 六月、劉裕が使者を送って秦に和を求め、あわせて南郷などの諸郡を求めた。秦王姚興は許したが、群臣はみな不可とした。興は「天下の善は一つである。劉裕は細微な身から起こって桓玄を討ち誅し、晉室を復興し、内は政を整え外は封疆を修めた。数郡を惜しんでその美を成さずにおれようか」と言い、南郷・順陽・新野・舞陰など十二郡を割いて晉に返した。

二年(406年)

  • 冬十月、尚書が建義の功を論じ、劉裕を豫章郡公に封ずるよう奏した。

四年(408年)

  • 春正月、劉毅らは劉裕が入って輔政するのを望まず、中領軍謝混を揚州刺史にする議を出し、あるいは裕には丹徒で揚州を領させ、内政は孟昶に付そうという案も出た。尚書右丞の皮沈を遣わして二案を裕に諮らせた。
  • 沈はまず裕の記室録事参軍の劉穆之に会い、朝議を詳しく話した。穆之は厠に立つふりをして、ひそかに書きつけて裕に「皮沈の言に従ってはなりません」と告げた。裕は沈に会ったあと、いったん外に出させて穆之を呼んで問うた。
  • 穆之は言った。「晉朝が政を失って久しく、天命はすでに移りました。公は皇祚を復興し、勲は高く位は重い。今日の形勢で、どうして謙譲に居して藩を守る将で終われましょう。劉毅・孟昶らの諸公は公とともに布衣から起こり、共に大義を立てて富貴を得ました。事に前後があったから一時公を推しただけで、心から服して主従の分を定めたわけではありません。力が拮抗し勢いが均しければ、いずれ互いに呑み合うことになります。揚州は根本の懸かるところで、人に貸せるものではありません。先に王謐に授けたのは臨機の処置です。今また他人に授ければ、人に制せられることになります。ひとたび権柄を失えば取り返す道はなく、将来の危難は熟慮すべきです。今の朝議にはこう答えるべきです。『我が引き受ける』とは言いにくいでしょうから、ただ『神州は治世の本、宰輔は最重要の職。事が大きいだけに遠く離れて論ずべきではない。ひとまず入朝して異同を尽くしたい』と言えばよろしい。公が京邑に至れば、彼らは公を越えて他人に授ける勇気はありません。それは明らかです」。
  • 裕はこれに従った。朝廷は裕を召して侍中・車騎将軍・開府儀同三司・揚州刺史・録尚書事とし、徐兖二州刺史は元のままとした。裕は上表して兖州を解き、諸葛長民を青州刺史として丹徒に鎮させ、劉道憐を并州刺史として石頭に戍らせた。

五年(409年)

  • 春二月、劉裕が南燕を伐った。
  • はじめ苻氏が敗れたとき、王猛の孫の王鎮悪が亡命してきて臨澧令となった。鎮悪は謀略があり果断で、軍国の大事を論ずるのを好んだ。ある者が鎮悪を劉裕に薦め、裕は語り合って喜び、そのまま泊まらせた。翌朝、参佐に「将門に将ありと聞くが、鎮悪はまさにそれだ」と言い、ただちに中軍参軍とした。
  • 秋九月、劉裕に太尉を加えたが、裕は固辞した。

六年(410年)

  • 六月、劉裕を太尉・中書監として黄鉞を加えた。裕は黄鉞は受けたが他は固辞した。
  • 司馬国璠とその弟の叔璠・叔道が秦に亡命した。秦王興が「劉裕は桓玄を誅して晉室を輔けているのに、なぜ来たのか」と問うと、「裕は王室を削り弱めており、臣の宗族で身を立てた者は裕が必ず除きます。いずれ国の患いとなること、桓玄よりひどいでしょう」と答えた。

七年(411年)

  • 春正月己未、劉裕が建康に帰った。
  • 三月、劉裕がはじめて太尉・中書監を受けた。

八年(412年)

  • 夏四月、後将軍・豫州刺史の劉毅を衛将軍・都督荊寧秦雍四州諸軍事・荊州刺史とした。毅は左衛将軍劉敬宣に「私は西の任を汚すことになった。卿に長史をお願いしたいが、南蛮校尉として輔けてくれる気はあるか」と言った。敬宣は恐れて太尉裕に告げた。裕は笑って「兄貴が無事でありさえすれば、心配は要らぬ」と言った。
  • 毅は剛愎な性で、建義の功は裕と並ぶと自負して大いに誇り、権勢の上では裕を推していても心では服していなかった。方岳の任に就いてからは常に不満で志を得ず、裕はそのたびに柔らかく従った。毅の驕慢はいよいよ募り、かつて「劉邦・項羽と出会って中原を争えなかったのが恨みだ」と言ったこともある。桑落で敗れて人心が自分から離れたと知ると、いよいよ憤激した。
  • 裕はもともと学がなく、毅はかなり文雅に通じていたので、朝士で清らかな名望のある者の多くが毅に付いた。毅は尚書僕射謝混、丹陽尹郗僧施と深く結び合った。僧施は郗超の従子である。
  • 毅は上流を押さえるとひそかに裕を図る志を抱き、交・広二州の督を兼ねたいと求め、裕は許した。毅はまた郗僧施を南蛮校尉、後軍司馬毛脩之を南郡太守にするよう奏し、裕はこれも許して、劉穆之を僧施に代えて丹陽尹とした。
  • 毅は上表して京口に赴き墓に別れを告げたいと願い、裕は倪塘で会った。寧遠将軍胡藩が裕に「公は劉衛軍(毅)がいつまでも公の下に立つとお考えですか」と言った。裕は長く黙ったのち「卿はどう思う」と問うた。藩は「百万の衆を率いて攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝つ。毅はまさにその点で公に服しています。しかし伝記を渉猟し、一言論じ一詩詠んで自ら雄豪をもって任じており、そのため搢紳や白面の士が集まって帰しています。ついに公の下には立ちますまい。この会に乗じてお取りになるべきです」と言った。裕は「私と毅はともに復興の功がある。その過ちはまだ明らかでない。自ら図るわけにいかぬ」と答えた。
  • 秋九月、劉毅が江陵に至り、守宰を大幅に入れ替え、豫州の文武と江州の兵力一万余人を勝手に割いて自分に随わせた。折しも毅は重病になり、郗僧施らは毅が死ねば一党が危ういと恐れ、従弟の兖州刺史劉藩を副官に請うよう毅に勧めた。太尉裕は偽って許し、藩は広陵から入朝した。
  • 己卯、裕は詔書をもって毅の罪状を挙げ、藩および謝混と謀反を共謀したとして、藩と混を捕らえて死を賜った。庚辰、詔で大赦し、前会稽内史司馬休之を都督荊雍梁秦寧益六州諸軍事・荊州刺史、北徐州刺史劉道憐を兖・青二州刺史として京口に鎮させ、豫州刺史諸葛長民に太尉留府の事を監させた。裕は長民に単独で任せるのは難しいと疑い、劉穆之に建武将軍を加え、佐史を置き資力を与えて監視させた。
  • 壬午、裕は諸軍を率いて建康を発った。参軍王鎮悪が舸(軍船)百艘を先鋒として与えるよう請うた。丙申、姑孰に至り、鎮悪を振武将軍として龍驤将軍蒯恩とともに百艘で先発させた。裕は「賊が撃てるなら撃て。撃てなければその船艦を焼き、水際に留まって私を待て」と戒めた。
  • 鎮悪は昼夜兼行し、「劉兖州(劉藩)が来た」と言い触らした。冬十月己未、鎮悪は豫章口に至った。江陵城まで二十里。船を捨てて陸に上がり、蒯恩の軍を前に、鎮悪をその次にした。舸には一、二人だけ残し、舸ごとに岸の上に旗を六、七本立て、旗の下に鼓を置いて、残る者に「われらが城に着く頃合いを計って鼓を打ち鳴らし、後ろに大軍があるように見せかけよ」と言い含めた。また人を分けて江津の船艦を焼かせた。
  • 鎮悪はまっすぐ進んで城を襲い、前軍の士に「問う者があれば劉兖州が来たとだけ言え」と命じた。津の守備兵も民間も平然として疑わなかった。城まで五、六里のところで、毅の重臣の朱顕之に出会った。顕之は江津へ出ようとして「劉兖州はどこか」と問い、軍士は「後ろにおられる」と答えた。顕之が軍の後ろに行くと藩の姿はなく、軍人が彭排や戦具を担いでおり、江津の船艦はすでに焼かれ、鼓の音が盛んに響いていた。藩ではないと悟った顕之は馬を躍らせて駆け去り、毅に告げた。毅は諸門を閉じよと令を出したが、鎮悪も駆けて進み、門がまだ閉ざされぬうちに軍人が城内に入り込んだ。
  • 衛軍長史の謝純が毅への挨拶に来て、出たところで兵の到来を聞いた。左右は車を引いて帰ろうとしたが、純は叱って「私は臣下の吏だ。逃げてどこへ行く」と言い、駆け戻って府に入った。純は謝安の兄の謝拠の孫である。
  • 鎮悪は城内の兵と戦いつつ金城を攻めた。食事どきから日の傾く頃まで戦い、城内の者は敗れて散った。鎮悪は金城に穴を開けて入り、詔と赦文および裕の自筆の書状を毅に示させたが、毅はみな焼いて見ようとせず、司馬の毛脩之らと士卒を督して力戦した。城内の者はまだ裕が自ら来たとは信じていなかったが、毅に従って東から来た軍士は台軍(朝廷軍)と親戚の間柄の者が多く、戦いながら言葉を交わし、裕が自ら来たと知って人心は離れ動揺した。夜になると聴事(役所)の前の兵はみな散り、毅の勇将趙蔡が斬られた。毅の左右の兵はなお東西の閤を閉じて防戦していたが、鎮悪は暗闇で味方討ちが起こるのを慮り、軍を引いて金城を囲み、その南面を開けておいた。毅は南に伏兵があるかと疑い、夜半に左右三百人ほどを率いて北門を開けて突出した。
  • 毛脩之は謝純に「君はただ私に付いて来い」と言ったが、純は従わず、人に殺された。
  • 毅は夜、牛牧の仏寺に身を寄せた。かつて桓蔚が敗れたとき、牛牧寺の僧の昌を頼り、昌はかくまった。毅はその昌を殺していた。今、寺の僧は拒んで「昔、亡き師が桓蔚をかくまって劉衛軍に殺されました。今は本当に見知らぬ方をかくまう勇気がありません」と言った。毅は「自分の作った法で自分が斃れるとは、ここまで来たか」と嘆じ、首を吊って死んだ。翌日、住民が告げて市で首を斬られ、子や甥もみな誅された。毅の兄の劉模は襄陽へ逃げたが、魯宗之が斬って送った。
  • もともと毅の季父の劉鎮之は京口で閑居して招聘に応じず、常に毅と藩に「お前たちの才器は志を得るには足りるが、長続きせぬだろう。私はお前たちに財も位も求めぬし、お前たちの罪の累を受けるつもりもない」と言っていた。毅や藩が供を連れて門に来るたび罵り、毅は甚だ敬い畏れて、邸の数百歩手前で儀衛をみな払い、白衣の数人だけを連れて進んだという。毅が死ぬと太尉裕は上奏して鎮之を散騎常侍・光禄大夫として召したが、固辞して赴かなかった。
  • 冬十一月己卯、太尉裕が江陵に至り、郗僧施を殺した。毛脩之は劉毅の僚佐だったが、もとより裕と結んでいたので、裕は特に赦した。王鎮悪に漢寿子の爵を賜った。
  • 裕が毅の府の諮議参軍申永に「今日は何を施せばよいか」と問うと、永は「積年の禍根を除き、恩沢を倍にし、門地の序列を通し、才能ある者を顕彰し抜擢する。それだけです」と答えた。裕はこれを容れ、書を下して租を寛くし調を省き、労役を節し刑を軽減し、礼をもって名士を招いた。荊州の人は喜んだ。
  • 諸葛長民は驕慢で貪欲奢侈、行いの多くが法に外れ、百姓の患いとなっており、常に太尉裕に糾弾されるのを恐れていた。劉毅が誅されると、長民は親しい者に「昔は彭越を醢にし、今年は韓信を殺した。禍が来るな」と言った。そして人払いをして劉穆之に「巷の噂ではみな太尉と私が不和だと言う。どうしてそうなったのか」と問うた。穆之は「公は流れを遡って遠征され、老母と幼子を節下(あなた)に委ねられた。毛ほどの不信もあれば、そんなことをなさいましょうか」と答え、長民はいくらか安心した。
  • 長民の弟の輔国大将軍諸葛黎民が「劉氏の滅亡は諸葛氏にとっての恐れでもある。裕が帰らぬうちに図るべきです」と説いた。長民はためらって決行せず、やがて「貧賤のときは富貴を思うが、富貴になれば必ず危機を踏む。今は丹徒の布衣に戻りたいと思っても、できるものではないな」と嘆じた。
  • そこで冀州刺史劉敬宣に書を送り、「盤龍(劉毅)は狼のように狂暴で専横し、自ら滅びを招いた。異分子は間もなく尽き、世の道はまさに平らかになる。富貴の事はともに分かち合おう」と言った。敬宣は「下官は義熙以来、三州七郡を汚してまいりました。常に福が過ぎて災いを生むのを恐れ、満ちるのを避けて損に居ることを思っております。富貴のお申し出は受けられません」と返し、そのうえで書状を裕に呈した。裕は「阿寿(敬宣)はやはり私を裏切らぬ」と言った。
  • 裕が江陵にいたとき、輔国将軍王誕が先に下りたいと申し出た。裕は「諸葛長民は自ら疑う心があるようだ。卿が行ってよいものか」と言った。誕は「長民は私が公の目をかけていただいていることを知っています。今、身軽に単身で下れば必ず心配ないと思うでしょう。それでこそ少しは彼の心を安んじられます」と答えた。裕は笑って「卿の勇は孟賁・夏育に勝る」と言い、先に帰らせた。
  • 冬十二月、太尉裕に太傅・揚州牧を加えた。

九年(413年)

  • 春二月、太尉裕が江陵から東へ帰り、輜重を次々と先に送り、兼行で下らせた。あらかじめ到着の日を告げておきながら、いつも遅らせて進まなかった。諸葛長民は公卿とともに連日新亭で待ったが、その都度期日が食い違った。乙丑の晦日、裕は軽舟でまっすぐ進み、ひそかに東府に入った。
  • 三月丙寅朔の朝、長民はこれを聞いて驚いて門に駆けつけた。裕は帳の中に壮士の丁旿を伏せておき、長民を招き入れ、人を退けて閑談し、平生語り尽くせなかったことをすべて語った。長民は大いに喜んだ。丁旿が帳の後ろから出て、その席で打ち殺した。屍を車に載せて廷尉に引き渡し、弟の黎民を捕らえた。黎民はもとより驍勇で、格闘して死んだ。末弟の大司馬参軍諸葛幼民と従弟の寧朔将軍諸葛秀之もあわせて殺した。
  • 三月戊寅、裕に豫州刺史を加えた。裕は太傅と州牧を固辞した。
  • 秋九月、あらためて太尉裕を太傅・揚州牧に任じたが、固辞した。

十年(414年)

  • 司馬休之は江陵にあって江漢の民心をかなり得ていた。子の譙王司馬文思は建康におり、凶暴な性で軽薄な侠客と交わるのを好んだので、太尉裕はこれを憎んだ。
  • 三月、有司が文思が勝手に国吏を打ち殺したと奏し、詔でその一党を誅し文思を赦した。休之は上疏して謝罪し、職を解くよう請うたが許されなかった。裕は文思を捕らえて休之に送り、自ら訓戒せよと命じた。本意は休之に殺させることだった。休之はただ上表して文思を廃し、あわせて裕に書を送って謝した。裕はこれで不快になり、江州刺史孟懐玉に豫州六郡の督を兼ねさせて備えた。

十一年(415年)

  • 春正月、太尉裕が司馬休之の次子の司馬文宝と兄の子の司馬文祖を捕らえてともに死を賜り、兵を出して撃った。詔により裕に黄鉞を加え荊州刺史を兼ねさせた。庚午、大赦した。
  • 辛巳、裕は建康を発ち、中軍将軍劉道憐に留府の事を監させ、劉穆之に右僕射を兼ねさせて、事の大小を問わずすべて穆之が決することとした。また高陽内史劉鍾に石頭戍の事を兼ねさせ冶亭に屯させた。休之の府司馬の張裕と南平太守檀範之はこれを聞いてみな建康へ逃げ帰った。張裕は張邵の兄である。
  • 雍州刺史魯宗之は太尉裕に容れられぬと自ら疑い、子の竟陵太守魯軌とともに兵を挙げて休之に応じた。
  • 二月、休之が上表して裕の罪状を挙げ、兵を整えて防いだ。裕はひそかに書状を送って休之の府の録事参軍である南陽の韓延之を招いた。延之は返書を寄こした。 「みずから戎馬を率いて遠く西の畿内を踏まれるとのこと、境内の士庶で恐れ驚かぬ者はありません。お手紙により譙王の先の一件を理由とされると知り、嘆息を深くいたしました。司馬平西(休之)は国を体して忠貞、心を尽くして人に接し、公には匡復の勲があり、家も国もその恩に頼り、徳を推し誠を委ねて事ごとに諮り仰いできました。譙王は以前わずかな事で弾劾されたときすら自ら表を出して位を退こうとしたのです。まして大きな過ちとあれば黙っていましょうか。先に表を奏して廃したので、尽くさなかったのは命だけです。人を推して信じて委ねるとは、まさにこうあるべきものを、いきなり兵を興された。これこそ『罪を加えんと欲すれば、どうして口実がなかろうか』というものです。 劉裕どの、海内の人で足下のこの心を見抜かぬ者がありましょうか。それでまた国士を欺こうとされる。お示しの文に『人に接し物を待つには自ずと由来がある』とありますが、今、人の君を伐ち、人を利で釣っておいて、まことに『自ずと由来がある』と言えましょうか。劉藩は閶闔の門で死に、諸葛は側近の手で斃れました。甘言で方伯を欺き、軽兵で襲いかかる。おかげで席上に真心を尽くす士はなく、境外に自らを恃める諸侯もありません。それを得策とお考えなら、まことに恥ずべきことです。 貴府の将佐も朝廷の賢徳も、命を預けて日を過ごしております。私はまことに鄙劣な者ですが、君子から道を聞いたことはあります。西平(休之)の至徳をもってすれば、命を捧げる臣がいないはずがありましょうか。まして自ら虎口に身を投じ、郗僧施の徒と同じ跡を辿るつもりのないことは明らかです。仮に天が長く喪乱を下し、九流が濁りきるなら、臧洪とともに地下に遊びましょう。もう多くは申しません」。 裕は書を読んで嘆息し、将佐に示して「人に仕えるとはこうあるべきだ」と言った。延之は裕の父の名が翹、字が顕宗であるのを知って、自分の字を顕宗と改め、子を翹と名づけ、劉氏に臣従せぬ意を示した。
  • 太尉裕は参軍檀道済と朱超石に歩騎を率いて襄陽へ出させた。超石は朱齢石の弟である。江夏太守劉虔之が兵を率いて三連に屯し、橋を架け糧を集めて道済らを待ったが、幾日経っても着かず、魯軌が襲って虔之を殺した。
  • 裕は婿の振威将軍である東海の徐逵之に参軍蒯恩・王允之・沈淵子を統べさせて先鋒とし、江夏口に出した。逵之らは破冢で魯軌と戦って敗れ、逵之・允之・淵子はみな死んだ。ただ蒯恩だけが兵を整えて動かず、軌は勝ちに乗じて力攻めしたが落とせず退いた。淵子は沈林子の兄である。
  • 裕は馬頭に陣していたが、逵之の死を聞いて激怒した。三月壬午、諸将を率いて長江を渡った。魯軌と司馬文思は休之の兵四万を率い、切り立った岸に臨んで陣を敷き、軍士は誰も登れなかった。裕は自ら甲を着て登ろうとし、諸将が諫めても従わず、怒りはいよいよ募った。太尉主簿の謝晦が進み出て裕を抱きとめた。裕が剣を抜いて晦を指し「お前を斬るぞ」と言うと、晦は「天下に晦がなくともよいが、公がなくては困ります」と言った。
  • 建武将軍胡藩が遊軍を率いて江津にいた。裕が藩を呼んで登らせようとすると、藩は迷う色を見せた。裕が左右に「連れて来い」と命じて斬ろうとすると、藩は振り返って「まさに賊を撃つところで、ご命令を承れませぬ」と言い、刀の先で岸を穿ち、足指がかろうじて掛かる足場を作って躍り上がった。続く者が次第に増え、岸に登るとまっすぐ前進して力戦した。休之の兵は支えきれず次第に退き、裕の兵はこれに乗じ、休之の兵は大潰した。こうして江陵を落とした。休之と宗之はともに北へ逃げ、軌は石城に留まった。裕は閬中侯の下邳の趙倫之と太尉参軍沈林子に攻めさせ、武陵内史王鎮悪に舟師で休之らを追わせた。
  • 青・冀二州刺史劉敬宣の参軍である司馬道賜は宗室の遠縁だった。太尉裕が司馬休之を攻めると聞き、道賜は同じ府の辟閭道秀、側近の小将王猛子と謀り、敬宣を殺して広固に拠り休之に応じようとした。乙卯、敬宣が道秀を呼んで人払いをして語り、左右がみな戸を出たとき、猛子は最後にぐずぐずと残り、敬宣の護身刀を取って敬宣を殺した。文武の佐吏はただちに道賜らを討ってみな斬った。
  • 夏五月、趙倫之と沈林子が石城で魯軌を破った。司馬休之と魯宗之は救援に間に合わず、軌とともに襄陽へ逃げた。宗之の参軍李応之が門を閉じて入れなかった。甲午、休之・宗之・軌および譙王文思・新蔡王司馬道賜・梁州刺史馬敬・南陽太守魯範がともに秦へ亡命した。宗之は日ごろ士民の心を得ていたので、人々は争って護衛して境まで送った。王鎮悪らは追ったが、境まで行って引き返した。
  • はじめ休之らは秦と魏に救援を求めていた。秦の征虜将軍姚成王と司馬国璠が兵を率いて南陽に至り、魏の長孫嵩が河東に至ったが、休之らの敗北を聞いてみな引き返した。休之が長安に至ると、秦王興は揚州刺史として襄陽を侵擾させた。侍御史唐盛が興に「符讖の文によれば司馬氏はまた河洛を得るとあります。今、休之に外で兵を握らせるのは、魚を淵に放つようなものです。高い爵と厚い礼で京師に留めておくべきです」と言った。興は「昔、文王はついに羑里を免れ、高祖は鴻門で斃れなかった。天命の在るところ、誰が違えられよう。かりに符讖のとおりなら、留めておけばかえって害になるだけだ」と言い、そのまま遣わした。
  • 詔により太尉裕に太傅・揚州牧を加え、剣を帯び履のまま殿に上り、入朝しても小走りせず、儀礼で名を称されぬ特権を与えた。
  • 秋八月甲子、太尉裕が建康に帰り、太傅と州牧は固辞し、その他は受けた。

十二年(416年)

  • 春正月、太尉裕に兖州刺史・都督南秦州を加え、都督する州は総計二十二州となった。
  • 三月、太尉裕に中外大都督を加えた。裕は戒厳して秦を伐とうとし、司・豫二州刺史を兼ねさせた。
  • 夏五月癸巳、太尉に北雍州刺史を兼ねさせた。
  • 秋八月、太尉裕は世子の劉義符を中軍将軍・監太尉留府事とし、劉穆之を左僕射・領監軍中軍二府軍司として東府に入居させ、内外を総攬させた。丁巳、建康を発った。
  • 冬十一月、太尉裕は左長史王弘を建康に帰し、それとなく朝廷に九錫を求めさせた。当時、劉穆之が留守を掌っていたのに、その意向が北から来たので、穆之はこれを恥じ恐れて病を発した。弘は王珣の子である。
  • 十二月壬申、詔により裕を相国・総百揆・揚州牧とし、十郡を封じて宋公とし、九錫の礼を備え、位は諸侯の上に置き、征西将軍と司・豫・北徐・雍四州刺史は元のままとした。裕は辞退して受けなかった。

十三年(417年)

  • 春正月、太尉裕が水軍を率いて彭城を発った。
  • 三月、太尉裕は水軍を淮・泗から清河に入れ、黄河を遡って西へ向かおうとし、先に使者を送って魏に道を借りた。魏人が数千騎で裕の軍に沿って西へ進んだので、裕は兵を出して撃ち、魏軍は潰走した。
  • 秋八月、太尉裕が潼関に至った。王鎮悪が渭橋で秦兵を大破し、姚泓は妻子と群臣を連れて鎮悪のもとへ降った。九月、裕が長安に至り、秦の金玉・繒帛を将士に分け与え、姚泓を建康に送って斬った。
  • 癸酉、司馬休之・司馬文思・司馬国璠・司馬道賜・魯軌・韓延之らがみな魏に降った。休之はまもなく没した。魏は国璠に淮南公、道賜に池陽子、魯軌に襄陽公の爵を賜った。
  • 冬十月、詔により宋公の爵を王に進め、十郡を加封したが、辞退して受けなかった。
  • 十一月辛未、劉穆之が没した。太尉裕は本拠を託す者がなく、東帰を決意した。
  • 十二月、太尉裕が長安を発った。

十四年(418年)

  • 春正月、太尉裕が彭城に至って戒厳を解いた。
  • 夏六月、太尉裕がはじめて相国・九錫の命を受け、国中の死罪以下を赦した。継母の蘭陵の蕭氏を太妃として崇め、太尉軍諮祭酒の孔靖を宋国尚書令、左長史王弘を僕射・領選、従事中郎の傅亮と蔡廓をともに侍中、謝晦を右衛将軍、右長史鄭鮮之を奉常、行参軍殷景仁を秘書郎とし、その他の百官もすべて天子の朝廷の制に倣った。靖は辞退して受けなかった。亮は傅咸の孫、廓は蔡謨の曽孫、鮮之は鄭渾の玄孫、景仁は殷融の曽孫である。景仁は学があっても文章を作らず、聡敏で思慮が行き届き、口では義理を論じないが道理の本質に深く通じ、国典・朝儀・旧章・記注に至るまで撰録せぬものがなかった。識者は彼に当代を担う志があると知った。
  • 冬十二月、彗星が天津に出て太微に入り、北斗を経て紫微を巡り、八十余日で消えた。魏主嗣はまた諸儒と術士を召して「今、四海は分裂している。災いの応は果たしてどの国にあるのか。朕は甚だ恐れる。卿らは言葉を尽くし隠すな」と問うた。衆は崔浩を推して答えさせた。浩は「災異が起こるのはみな人事を象るもの。人に隙がなければ何を恐れましょう。昔、王莽が漢を簒奪しようとしたとき、彗星の出入りはまさに今と同じでした。国家は主が尊く臣は卑しく、民に異心はありません。晉室は衰えて危亡は遠くない。彗星の異変は、劉裕が簒奪する応でありましょう」と答えた。誰もその言を覆せなかった。
  • 宋公裕は「昌明(孝武帝)ののちなお二帝あり」という讖を意識し、中書侍郎王韶之と帝の側近にひそかに謀らせて帝を毒殺し、琅邪王司馬徳文を立てようとした。徳文は常に帝の側にいて、飲食も寝起きもしばらくも離れなかった。韶之はうかがっても長らく隙を得られなかったが、たまたま徳文が病んで外に移った。戊寅、韶之は綿入れの衣で帝を東堂で絞め殺した。韶之は王廙の曽孫である。裕は遺詔と称して徳文を奉じて即位させ、大赦した。

恭帝元熙元年(419年)

  • 春正月甲午、宋公裕を召して入朝させ、爵を王に進めたが、裕は辞退した。
  • はじめ司馬楚之は父の司馬栄期の喪を奉じて建康に帰ったが、折しも宋公裕が宗室で才望のある者を誅し尽くしており、楚之の叔父の司馬宣期と兄の司馬貞之がみな死んだ。楚之は竟陵の蛮の中に逃げ隠れた。従祖の休之が江陵から秦へ逃げると、楚之は汝・潁のあたりに逃れ、衆を集めて仇を報いようと謀った。
  • 楚之は若い頃から英気があり、身を低くして士に接することができ、一万余の衆を得て長社に拠った。裕は刺客の沐謙を送って刺させようとした。楚之が謙を甚だ厚く遇したので、謙は決行しようとしても隙が得られず、夜、病と称した。楚之が必ず見舞いに来ると見込み、そこを刺すつもりだった。楚之は果たして自ら湯薬を携えて見舞い、情のこもった篤い態度だった。謙は決行するに忍びず、席の下から匕首を取り出して事情を告げ、「将軍は劉裕にひどく忌まれておられる。軽率になさらず身をお守りください」と言い、そのまま身を委ねて仕え、警護に当たった。
  • 当時、宗室の多くが河南に逃れていた。司馬文栄という者は乞活(流民集団)千余戸を率いて金墉城の南に屯し、司馬道恭は東垣から三千人を率いて城の西に屯し、司馬順明は五千人を率いて陵雲台に屯し、司馬楚之は柏谷塢に屯した。みな魏に降った。
  • 秋七月、宋公裕がはじめて進爵の命を受けた。八月、寿陽に鎮を移し、度支尚書劉懐慎を督淮北諸軍事・徐州刺史として彭城に鎮させた。
  • 九月、宋王裕が自ら揚州牧を解いた。
  • 冬十二月辛卯、宋王裕に殊礼を加え、王太妃を太后に、世子を太子に進めた。

宋高祖永初元年(420年)

  • 春正月、宋王は禅譲を受けたかったが、言い出しにくかった。そこで朝臣を集めて宴を開き、さりげなく言った。「桓玄が位を簒奪して鼎の命はすでに移っていた。私が真っ先に大義を唱えて帝室を復興し、南征北伐して四海を平定した。功は成り業は顕れ、そこで九錫を戴いた。だが今や年も衰え、極みまで崇められている。物は満ちるを忌むもので、長く安んじられまい。今、爵位をお返しして京師で老いを送りたいと思う」。群臣はただ功徳を盛んに讃えるばかりで、誰もその真意を悟らなかった。
  • 日が暮れて座が散じ、中書令傅亮は外に出てからようやく悟ったが、宮門はすでに閉ざされていた。亮が扉を叩いて拝謁を請うと、王はただちに門を開いて会った。亮は入ると「臣はしばらく都に戻るべきかと」とだけ言った。王はその意を解し、他に何も言わず、ただ「見送りに何人要る」と言った。亮が「数十人で足ります」と答えると、その場で辞去した。亮が出るともう夜で、長い星が空を横切るのを見て、腿を打って「私は常々天文を信じなかったが、今こそ験があった」と嘆じた。亮は建康に着いた。
  • 夏四月、王を召して入朝させた。王は子の劉義康を都督豫司雍并四州諸軍事・豫州刺史として寿陽に鎮させた。義康はまだ幼かったので、相国参軍である南陽の劉湛を長史として府と州の事を決させた。湛は若い頃から天下を宰する志があり、常に自ら管仲・諸葛亮になぞらえ、書史を広く渉猟したが文章を作らず、談論も好まなかった。王はこれを甚だ重んじた。
  • 夏六月壬戌、王が建康に至った。傅亮がそれとなく晉の恭帝に宋への禅位を促し、詔の草案を用意して帝に清書させた。帝は快く筆を執り、左右に「桓玄のとき晉氏はすでに天下を失っていた。劉公に二十年近く延ばしてもらったのだ。今日のことは本より甘んじて受ける」と言い、赤紙に詔を書いた。
  • 甲子、帝は琅邪王の邸に退き、百官が拝礼して別れを告げた。秘書監徐広は涙を流して哀しみ慟哭した。
  • 丁卯、王は南郊に壇を築いて皇帝に即位した。礼が終わると石頭から法駕を備えて建康宮に入った。徐広はまた感じ入って涙を流した。侍中謝晦が「徐公はいささか度が過ぎませんか」と言うと、広は「君は宋朝の佐命の臣、私は晉室の遺老です。悲しみと喜びはもとより同じにはできません」と答えた。広は徐邈之の弟である。
  • 帝は太極殿に臨んで大赦し、改元した。郷論・清議に触れて処分された者はすべて洗い流して新たにやり直させた。

史論(裴子野論曰)

  • 昔、舜が位を受けたとき四凶を流放し、武王が殷に勝ったとき頑迷な民を洛に移した。天下の悪を憎む心は一つである。郷論・清議による処分まで取り除いたのは行き過ぎである。

永初元年つづき(宋朝の創業)

  • 晉の恭帝を零陵王として奉じ、その優遇の礼はすべて晉初の故事に倣い、旧秣陵県に宮を置き、冠軍将軍劉遵考に兵を率いて警護させた。褚后を降して王妃とした。
  • 皇考(父)を孝穆皇帝、皇妣趙氏を孝穆皇后と追尊し、王太后蕭氏を皇太后とした。帝は蕭太后に仕えて日ごろから謹み深く、即位したときすでに高齢だったが、毎朝の参上に一度も時刻を違えなかった。
  • 詔で晉氏の封爵は世の移り変わりに従って改めるとし、ただ始興・廬陵・始安・長沙・康楽の五公だけを残して、爵を県公・県侯に降して王導・謝安・温嶠・陶侃・謝玄の祀りを継がせた。義熙年間に力を尽くし艱難を共にした者は、みな元の秩をそのままとした。
  • 庚午、司空劉道憐を太尉として長沙王に封じ、司徒劉道規を臨川王に追封し、道憐の子の劉義慶にその爵を継がせた。その他の功臣の徐羨之らも位を増し爵を進めることそれぞれ差があった。劉穆之を南康郡公、王鎮悪を龍陽県侯に追封した。
  • 上(帝)は常に穆之を嘆き偲んで「穆之が死ななければ私の天下統治を助けてくれただろう。まさに『人が亡んで国が疲弊する』とはこのことだ」と言い、また「穆之が死んで人は私を軽んじるようになった」とも言った。
  • 皇子の桂陽公劉義真を廬陵王、彭城公劉義隆を宜都王、劉義康を彭城王とした。己卯、泰始暦を永初暦と改めた。
  • 秋八月辛未、妃の臧氏に敬皇后と追諡し、王太子劉義符を皇太子に立てた。

二年(421年)

  • はじめ帝は毒酒一甕を前の琅邪郎中令張偉に授け、零陵王を毒殺させようとした。偉は「君を毒殺して生きながらえるより、死ぬほうがましだ」と嘆じ、道中で自ら飲んで死んだ。偉は張邵の兄である。
  • 太常褚秀之と侍中褚淡之はいずれも王の妃の兄だった。王に男子が生まれるたび、帝は秀之兄弟に折を見て殺させた。王は位を退いてから深く禍が及ぶのを慮り、嬪妃とともに一室に籠り、自ら床の前で煮炊きをした。飲食の資はすべて褚妃から出ていたので、宋人は隙をうかがえなかった。
  • 九月、帝は淡之とその兄の右衛将軍褚叔度に妃を訪ねさせた。妃が別室に出て会っている間に、兵が垣を越えて入り、王に薬を進めた。王は飲もうとせず「仏教では自殺した者は二度と人の身を得られぬ」と言った。兵は布団を被せて殺した。帝は百官を率いて朝堂で三日、喪に臨んだ。