通鑑紀事本末魏、仇池を平定する(魏平仇池)
氐族の楊氏が仇池に拠って晉・後秦・宋・北魏の間を渡り歩いた興亡の記。楊定・楊盛・楊玄と続いたのち、楊難当が甥の保宗を廃して立ち、漢中を襲い大秦王を称するに至るが、宋の裴方明に破られて魏へ亡命する。以後、楊保宗・楊文徳が魏と宋の間で立っては倒れ、仇池は魏の鎮となった。晉武帝太元十年(385年)から宋文帝元嘉二十五年(448年)までの64年間。
年表(26件)
- 晉武帝
- 太元十年385年楊定が歴城に拠って仇池公を自称し、晉に藩を称する
- 十九年394年楊定が乞伏乾帰に殺され、楊盛が仇池公を自称する
- 二十一年396年晉が楊盛を鎮南将軍・仇池公とする
- 安帝
- 隆安二年398年楊盛が魏に付き、魏が仇池王とする
- 義熙元年405年姚碩徳に攻められた楊盛が後秦に降る
- 三年407年楊盛が苻宣を漢中に入れ、あわせて晉とも通じる
- 八年412年楊盛が後秦に叛いて祁山を侵し、趙琨の軍を破る
- 十二年416年楊盛が祁山を落とし、後秦の姚嵩を竹嶺で斬る
- 宋高祖
- 永初三年422年宋が仇池公楊盛を武都王に封じる
- 文帝
- 元嘉二年425年楊盛が没し、子の楊玄が立って元嘉の年号を用いる
- 三年426年楊玄の弟楊難当が武興に出るが、宋の龐諮に破られる
- 四年427年魏が公孫軌を遣わして楊玄を南秦王に策命する
- 六年429年楊玄が没し、楊難当が甥の保宗を廃して武都王を自称する
- 七年430年宋が楊難当を冠軍将軍・秦州刺史・武都王とする
- 九年432年楊保宗の襲撃の謀が発覚し、難当が保宗を投獄する
- 十年433年楊難当が梁州を襲って漢中を奪い、甄法護は城を捨てて逃げる
- 十一年434年蕭思話・蕭承之らが氐を破って漢中を回復する
- 十二年435年楊難当が保宗を許して童亭に鎮させる
- 十三年436年楊難当が大秦王を自称するが、魏軍に迫られ上邽を退く
- 十六年439年楊保宗が魏に亡命し、難当が魏の上邽を侵す
- 十七年440年楊難当が大秦王の称を捨てて武都王に戻る
- 十八年441年楊難当が蜀を狙って葭萌を落とし、涪城を囲むが落とせない
- 十九年442年裴方明が仇池を平定し、楊難当は魏へ逃れる
- 二十年443年魏が仇池を奪い返し、楊保宗は殺され、楊文徳が立つ
- 二十四年447年楊文徳が葭蘆城に拠り、武都など五郡の氐が呼応する
- 二十五年448年皮豹子が文徳を破り、文徳は漢中へ逃げて爵を削られる
晉武帝太元十年(385年)
- 冬十月、西燕主慕容沖が尚書令高蓋に五万の兵で後秦を伐たせた。新平の南で戦って蓋は大敗し、後秦に降った。もともと蓋は楊定を子としていたが、蓋が敗れると定は隴右へ逃げ、旧来の衆を集め直した。定は楊佛奴の孫である。
- 十一月、衛将軍楊定が治所を歴城に移し、蓄えを百頃に置いて龍驤将軍・仇池公を自称し、使者を送って晉に藩を称した。詔はその自称した号をそのまま与えた。のちに天水・略陽の地を取り、秦州刺史・隴西王を自称した。
十九年(394年)
- 冬十月、秦主苻崇が梁王乞伏乾帰に追われ、隴西王楊定のもとへ逃げた。定は崇とともに乾帰を攻めたが、乾帰は涼州牧軻弾らを遣わして防ぎ、定の兵を大破して定と崇を殺した。
- 定に子がなく、叔父の楊佛狗の子の楊盛が先に仇池を守っており、征西将軍・秦州刺史・仇池公を自称し、定に武王と諡した。そのまま使者を送って藩を称した。秦の太子苻宣が盛のもとへ逃げた。
二十一年(396年)
- 冬十二月、楊盛が使者を送って任命を請い、詔により盛を鎮南将軍・仇池公とした。盛は上表して苻宣を平北将軍とした。
安帝隆安二年(398年)
- 楊盛が使者を送って魏に付き、魏は盛を仇池王とした。
義熙元年(405年)
- 夏六月、秦の隴西公姚碩徳が仇池を伐ち、たびたび楊盛の兵を破った。
- 秋七月、楊盛が秦に降伏を請い、秦は盛を都督益寧二州諸軍事・征南大将軍・益州牧とした。
三年(407年)
- 夏四月、氐王楊盛が平北将軍苻宣を梁州督護として兵を率いて漢中に入らせた。秦の梁州別駕呂瑩らが兵を挙げて呼応し、刺史王敏がこれを攻めた。瑩らが盛に救援を求め、盛が軍を濜口に臨ませると、敏は退いて武興に屯した。盛はまた晉と通じ、晉は盛を都督隴右諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司とした。盛はそこで苻宣に梁州刺史を代行させた。
八年(412年)
- 冬十月、仇池公楊盛が秦に叛いて祁山を侵した。秦王姚興は建威将軍趙琨を前鋒とし、立節将軍姚伯寿を続かせ、前将軍姚恢を鷲峡から、秦州刺史姚嵩を羊頭峡から、右衛将軍胡翼度を汧城から出して盛を討たせ、自らも雍から赴いて諸将と隴口で会した。
- 天水太守王松忽が姚嵩に言った。「先帝の神略は測り知れず、徐洛生も英武で創業を輔けましたが、二度も仇池に入って功なく帰りました。楊氏の智勇が全うさせたのではなく、ただ地勢が険固だっただけです。今、趙琨の兵と使君の威をもってしても、先朝に照らせば成功は見込めません。使君は地形の便をよくご存じのはず。なぜ上奏なさらぬのか」。嵩は従わなかった。
- 盛は衆を率いて趙琨と対峙し、姚伯寿は怯えて進まなかった。琨は衆寡敵せず盛に敗れ、興は伯寿を斬って帰った。
十二年(416年)
- 夏六月、氐王楊盛が秦の祁山を攻め落とし、進んで秦州に迫った。秦の後将軍姚平が救援し、盛は兵を引いて退いた。平と上邽の守将姚嵩が追い、嵩は竹嶺で盛と戦って敗死した。
宋高祖永初三年(422年)
- 夏四月乙亥、詔により仇池公楊盛を武都王に封じた。
文帝元嘉二年(425年)
- 夏六月、武都の恵文王楊盛が没した。もともと盛は晉の滅亡を聞いても義熙の年号を改めず、世子の楊玄に「私は老いた。最後まで晉の臣として終わる。お前は宋帝によく仕えよ」と言っていた。盛が没すると、玄は都督隴右諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・秦州刺史・武都王を自称し、使者を送って喪を告げ、はじめて元嘉の年号を用いた。
三年(426年)
- 冬十月、仇池の氐の楊興平が内附を求めた。梁・南秦二州刺史の吉翰が始平太守龐諮を遣わして武興に拠らせた。氐王楊玄は弟の楊難当に兵を率いて諮を防がせたが、諮が撃って走らせた。
四年(427年)
- 秋九月、氐王楊玄が将軍苻白作に赤水で秦の梁州刺史出連輔政を囲ませた。城中の糧が尽き、民が輔政を捕らえて降ったが、輔政は駱谷まで来て逃げ帰った。
- 冬十月、秦は驍騎将軍呉漢を平南将軍・梁州刺史として南漒に鎮させた。
- 冬十一月、魏主が軍司馬公孫軌に大鴻臚を兼ねさせ、節を持たせて楊玄を都督荊梁等四州諸軍事・梁州刺史・南秦王に策命した。境に至っても玄が出迎えなかったので、軌は責めて策書を持って帰ろうとした。玄は恐れて郊外まで出迎えた。
六年(429年)
- 秋七月、武都の孝昭王楊玄が病み、国を弟の楊難当に授けようとした。難当は固辞し、玄の子の楊保宗を立てて自分が輔けたいと請い、玄は許した。玄が没して保宗が立ったが、難当の妻の姚氏が自立を勧め、難当は保宗を廃して都督雍涼秦三州諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・秦州刺史・武都王を自称した。
七年(430年)
- 夏六月己卯、氐王楊難当を冠軍将軍・秦州刺史・武都王とした。
九年(432年)
- 夏六月、北秦州刺史楊難当に征西将軍を加えた。難当は兄の子の保宗を鎮南将軍として宕昌に鎮させ、子の楊順を秦州刺史として上邽を守らせた。保宗が難当を襲おうと謀ったが発覚し、難当は保宗を投獄した。
十年(433年)
- 夏四月、帝は梁・南秦三州刺史の甄法護が刑政を修めず氐羌との和を失っていると聞き、罪人の中から蕭思話を起用して梁・南秦二州刺史とした。法護は甄法崇の兄である。
- 秋九月戊午、魏主が兼大鴻臚崔𦣱に節を持たせ、氐王楊難当を征南大将軍・開府儀同三司・秦梁二州牧・南秦王に任じた。𦣱は崔逞の子である。
- 楊難当は蕭思話がまだ着任せず甄法護が退こうとしている隙に兵を挙げて梁州を襲い、白馬を破って晉昌太守張範を捕らえ、法護の参軍魯安期らを破り、さらに葭萌を攻めて晉寿太守范延朗を捕らえた。冬十一月丁未、法護は城を捨てて洋川の西城へ逃げ、難当は漢中の地を領有し、司馬の趙温を梁・秦二州刺史とした。
十一年(434年)
- 春正月、楊難当が漢中攻略の勝報を魏に告げ、雍州の流民七千家を長安に送った。蕭思話は襄陽に至り、横野司馬の蕭承之を先鋒として遣わした。承之は道々兵を集めて千人を得、進んで磝頭に拠った。楊難当は漢中を焼き掠めて西へ引き揚げ、趙温を残して梁州を守らせ、魏興太守薛健に黄金山を守らせた。思話は陰平太守蕭坦を遣わして鉄城戍を攻め落とさせた。
- 二月、趙温・薛健とその馮翊太守蒲甲子が合わせて蕭坦の営を攻めたが、坦は撃ち破った。温らは西水に退いて守った。臨川王劉義慶が龍驤将軍裴方明に三千人を与えて承之を助けさせ、黄金戍を陥れて拠った。温は州城を捨てて小城に退き、健と甲子は下桃城に退いて守った。思話が到着して承之とともに趙温らを撃ち、たびたび破った。行参軍王霊済は別に洋川へ出て南城を攻め落とし、守将趙英を捕らえた。南城は空で得るものがなかったので、霊済は兵を引いて承之と合流した。
- 三月、楊難当が子の楊和に兵を率いさせ、蒲甲子らとともに蕭承之を撃った。四十余日対峙し、承之を数十重に囲んだ。短兵が接して弓矢は使えず、氐兵はみな犀の甲を着て戈矛が通らなかった。承之は矟を数尺に切り、大斧で打ち込むと、一本の矟が数人を貫き、氐兵は支えきれず、営を焼いて逃げ大桃に拠った。
- 閏月、承之らが追撃して南城に至り、氐兵は敗走し、斬獲は甚だ多かった。漢中の旧領をすべて回復し、葭萌水に戍を置いた。
- もともと桓希が敗れたのち、氐王楊盛が漢中に拠り、梁州刺史の范元之と傅歆はいずれも魏興を治所とし、魏興・上庸・新城の三郡を得ていただけだった。索邈が刺史となってはじめて南城を治所とした。ここに至って南城は氐に焼かれて固守できなくなり、蕭思話は南鄭に鎮を移した。
- 夏四月、甄法護は鎮を捨てた罪で獄中に死を賜った。楊難当は使者を送って表を奉り謝罪し、帝は詔を下して赦した。
十二年(435年)
- 楊難当が楊保宗の囚を解き、童亭に鎮させた。
十三年(436年)
- 春三月、氐王楊難当が大秦王を自称し、建義と改元し、妻を王后、世子を太子に立て、百官を置くことすべて天子の制に倣った。それでも宋と魏への貢献は絶やさなかった。
- 赫連定が西へ移ると、楊難当はそのまま上邽に拠った。秋七月、魏主は驃騎大将軍楽平王丕と尚書令劉絜に河西・高平の諸軍を督させて討たせ、先に平東将軍崔賾に詔書を持たせて難当を諭した。
- 九月庚戌、魏の楽平王丕らが略陽に至った。楊難当は恐れて詔を奉じ、上邽の守兵を引き揚げて仇池に帰りたいと請うた。魏の諸将は「その豪帥を誅さねば、軍が帰ったあと必ず集まって乱を起こす。それに大軍が遠く出たのに掠めるものがなければ、軍の蓄えを満たし将士に賞を与えられない」と議し、丕は従おうとした。中書侍郎の高允が丕の軍事に参与しており、「諸将の謀のとおりにすれば、帰順しようとする心を傷つけます。大軍が帰れば必ず速やかに乱が起こりましょう」と諫めた。丕は取りやめ、新たに帰順した者を撫慰して秋毫も犯さず、秦・隴は安らいだ。難当は子の順を雍州刺史として下弁を守らせた。
十六年(439年)
- 春三月、楊保宗が兄の楊保顕とともに童亭から魏へ亡命した。庚寅、魏主は保宗を都督隴西諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・秦州牧・武都王として上邽に鎮させ、公主を娶らせ、保顕を鎮西将軍・晉寿公とした。
- 冬十二月、氐王楊難当が数万の兵で魏の上邽を侵し、秦州の人の多くが呼応した。東平の呂羅漢が鎮将拓跋意頭に「難当の勢いは盛んです。今、出て戦わずに弱みを見せれば、衆心は離れて守れなくなります」と説いた。意頭は羅漢に精騎千余を与えて出撃させ、難当の陣を衝いた。向かうところ敵なく、難当の左右の騎八人を殺したので、難当は大いに驚いた。折しも魏主が璽書で難当を責めたため、難当は仇池へ引き揚げた。
十七年(440年)
- 大秦王楊難当が武都王の称に戻した。
十八年(441年)
- 冬十一月、氐王楊難当が国を挙げて侵入し、蜀の地を占めようと謀った。建忠将軍苻沖を東洛に出して梁州の兵を防がせたが、梁・秦二州刺史の劉真道が沖を撃って斬った。真道は劉懐敬の子である。
- 難当は葭萌を攻め落として晉寿太守申坦を捕らえ、涪城を囲んだ。巴西・梓潼二郡太守の劉道錫が城に籠って固守し、難当は十余日攻めても落とせず引き揚げた。道錫は劉道産の弟である。
- 十二月癸亥、詔により龍驤将軍裴方明らに甲士三千を率いさせ、さらに荊・雍二州の兵を発して難当を討たせ、みな劉真道の指揮を受けさせた。
十九年(442年)
- 夏五月、裴方明らが漢中に至り、劉真道と兵を分けて武興・下弁・白水を攻め、いずれも取った。楊難当は建節将軍苻弘祖に蘭皋を守らせ、子の撫軍大将軍楊和に重兵を率いて後詰とさせた。方明は濁水で弘祖と戦って大破し、弘祖を斬った。和は退き、赤亭まで追ってまた破った。難当は上邽へ逃げ、難当の兄の子の建節将軍楊保熾が捕らえられた。
- 難当は子の楊虎を益州刺史として陰平を守らせていたが、難当の敗走を聞いて兵を引いて下弁まで来た。方明は子の裴粛之に迎撃させて虎を捕らえ、建康に送って斬った。仇池は平定され、輔国司馬の胡崇之を北秦州刺史としてこの地に鎮させ、楊保熾を楊玄の後嗣として立てて仇池を守らせた。魏は中山王拓跋辰を遣わして楊難当を平城に迎えた。
- 秋七月、劉真道を雍州刺史、裴方明を梁・南秦二州刺史としたが、方明は辞退して受けなかった。丙寅、魏主は安西将軍古弼に隴右の諸軍と殿中虎賁を督させ、武都王楊保宗とともに祁山から南へ入らせ、征西将軍の漁陽の皮豹子と琅邪王司馬楚之に関中の諸軍を督させて散関から西へ入らせ、ともに仇池で合流させた。また譙王司馬文思に洛・豫の諸軍を督させて南の襄陽へ向かわせ、征南将軍刁雍を東の広陵へ向かわせ、徐州に文書を送って「楊難当のために仇を報ずる」と称した。
二十年(443年)
- 春正月、魏の皮豹子らが進撃し、楽郷の将軍王奐之らが敗死した。魏軍は下弁に進み、将軍彊玄明らが敗死した。
- 二月、胡崇之が濁水で魏と戦って捕らえられ、残兵は漢中へ逃げ帰った。将軍姜道祖は敗れて魏に降り、魏は仇池を取り、楊保熾は逃げた。
- 魏の河間公拓跋斉と武都王楊保宗が雒谷で相対して鎮していた。保宗の弟の楊文徳が保宗に、険に拠って固め魏に叛くよう説いた。ある者がこれを斉に告げ、夏四月、斉は保宗を誘い出して捕らえ、平城に送って殺した。
- 前鎮東司馬の苻達と征西従事中郎の任朏らが兵を挙げて楊文徳を主に立て、白崖に拠り、兵を分けて諸戎を取り、進んで仇池を囲み、征西将軍・秦河梁二州牧・仇池公を自称した。
- 夏五月、魏の古弼が上邽・高平・岍城の諸軍を発して楊文徳を撃ち、文徳は退いて逃げた。皮豹子は関中の諸軍を督して下弁に至ったが、仇池の囲みが解けたと聞いて帰ろうとした。弼は人を遣わして豹子に「宋人は敗北を恥じて必ずまた来るはず。軍が帰ったあとで再挙するのは難しい。兵を練り力を蓄えて待つほうがよい。秋冬のうちに宋軍は必ず来る。逸をもって労を待てば勝てぬはずがない」と伝え、豹子はこれに従った。魏は豹子を仇池鎮将とした。
- 楊文徳が使者を送って救援を求めた。秋七月癸丑、詔により文徳を都督北秦雍二州諸軍事・征西大将軍・北秦州刺史・武都王とした。文徳は葭蘆城に屯し、任朏を左司馬とした。武都・陰平の氐の多くが帰属した。
- 甲子、前雍州刺史劉真道と梁・南秦州刺史裴方明が、仇池攻略の際に金宝と良馬を隠匿した罪で獄に下されて死んだ。
- 冬十一月、将軍姜道盛が楊文徳と二万の兵を合わせて魏の濁水城を攻めた。魏の皮豹子と河間公斉が救援し、道盛は敗死した。
二十四年(447年)
- 冬十二月、楊文徳が葭蘆城に拠って氐羌を招き誘い、武都など五郡の氐がみな呼応した。
二十五年(448年)
- 春正月、魏の仇池鎮将皮豹子が諸軍を率いて撃ち、文徳は敗れて城を捨て漢中へ逃げた。豹子はその妻子・僚属・軍資、および楊保宗が娶っていた魏の公主を収めて帰った。
- もともと保宗が叛こうとしたとき、公主が勧めたのである。ある者が「なぜ父母の国に叛くのか」と言うと、公主は「事が成れば一国の母となる。小県の公主に比べられようか」と答えた。魏主は公主に死を賜った。楊文徳は守りを失った罪で免官され、爵と領土を削られた。