通鑑紀事本末北魏、宋を侵す(元魏寇宋)
崔浩が劉裕の器量を見抜いて自重を説いたところから、劉裕の死を機に北魏の拓跋嗣が喪に乗じて南侵し、河南の地を奪うまで。奚斤・叔孫建らが滑台・金墉を落とし、笁夔の東陽は疫病に助けられて持ちこたえたが、毛徳祖の虎牢は二百日の籠城のすえ井戸の水を絶たれて陥ち、司・兖・豫の諸郡は魏のものとなった。晉安帝義熙十三年(417年)から宋景平元年(423年)までの7年間。
晉安帝義熙十三年(417年)
- 夏五月乙未、斉郡太守王懿が魏に降り、上書して「劉裕が洛にいる今、兵を出して帰路を断てば、戦わずして勝てます」と言った。魏主拓跋嗣はこれをよしとした。
- 崔浩が侍講として御前にいたので、嗣は「劉裕の姚泓討伐は本当に成功するか」と問うた。浩は「勝ちます」と答えた。「なぜか」と問うと、「かつて姚興は虚名を好んで実用に乏しく、子の泓は懦弱で病がち、兄弟は仲違いして争っています。裕はその危うきに乗じ、兵は精鋭、将は勇敢。なぜ勝てぬことがありましょう」と答えた。
- 嗣が「裕の才は慕容垂と比べてどうか」と問うと、浩は「勝ります。垂は父兄の遺産を借りて旧業を回復したので、国人が夜の虫が火に集まるように帰服しました。少し支えを加えるだけで功を立てやすかったのです。劉裕は寒微から身を起こし、尺土の地盤もなく桓玄を討ち滅ぼして晉室を興し、北は慕容超を捕らえ、南は盧循を梟首し、向かうところ敵なし。その才が人に勝るのでなければ、こうはできますまい」と答えた。
- 嗣が「裕が関に入って進退できぬところを、われが精騎で直接彭城・寿春を衝いたらどうする」と問うと、浩は答えた。「今、西に屈丐(赫連勃勃)、北に柔然があって国の隙をうかがっています。陛下が自ら六師を率いることができぬ以上、精兵はあっても良将は見当たりません。長孫嵩は治国には長じても用兵には短く、劉裕の敵ではありません。兵を興して遠く攻めても利は見えません。それより静かに構えて待つのがよろしい。裕は秦を破って帰れば必ず主を簒奪します。関中は華と戎が入り交じり、風俗は強悍です。裕が荊・揚の教化を函谷・秦の地に施そうとするのは、衣を解いて火を包み、網を張って虎を捕らえるようなもの。兵を留めて守らせても人情はなじまず、好尚も異なり、かえって敵に利する資となるだけです。陛下は兵を按じ民を休めて変を待たれますよう。秦の地はいずれ国家のものとなり、座して守ることができます」。
- 嗣は笑って「卿の見立ては明察だ」と言った。浩は「臣はかつてひそかに近世の将相を論じたことがあります。王猛の治国は苻堅の管仲、慕容恪の幼主輔佐は慕容暐の霍光、劉裕の禍乱平定は司馬徳宗(安帝)の曹操です」と言った。嗣が「屈丐はどうか」と問うと、浩は「屈丐は国が破れ家が覆り、孤り身で姚氏に身を寄せて食い、封地を受けながら恩に報いようとせず、時に乗じて利を掠め、一方を盗み取り、四隣と怨みを結んでいます。ひねくれた小人で、一時暴を振るえても、いずれ人に呑まれる身です」と答えた。
- 嗣は大いに喜び、話は夜半に及んだ。浩に御縹醪十觚と水晶塩一両を賜り、「朕は卿の言を味わうこと、この塩や酒のごとし。ゆえに卿とその美味を共にしたい」と言った。それでもなお長孫嵩と叔孫建に精兵を選ばせ、裕が西へ過ぎるのを待って成皋から河を渡り、南の彭城・沛を侵すよう、また時機を逸すれば兵を率いて後を追うよう命じた。
宋高祖永初三年(422年)
- もともと魏主は高祖(劉裕)の長安攻略を聞いて大いに恐れ、使者を送って和を請い、以来毎年の交聘が絶えなかった。高祖が没すると、使者として魏にいた殿中将軍沈範らが帰路の黄河に至ったところで、魏主は人を遣わして捕らえさせ、兵を出して洛陽・虎牢・滑台を取る議を出した。
- 崔浩が諫めた。「陛下は劉裕が突然身を起こした者だと軽んじず、その使者と貢を受け入れ、裕も陛下を敬って仕えました。不幸にして今死んだからといって、急に喪に乗じて伐つのは、たとえ得られても美しいことではありません。それに国家は今日、一挙に江南を取ることもできません。それでいたずらに喪を伐つという名だけを負うのは、陛下のために取りません。臣は人を遣わして弔祭し、遺された弱い者を労わり、その凶災を憐れむべきだと思います。そうすれば義の声が天下に広まり、江南は攻めずして服しましょう。まして裕が死んだばかりで党与はまだ離れておらず、兵が境に臨めば必ず連れ立って戦います。功は必ずしも得られません。それより緩めて、強臣が権を争って必ず変難が起こるのを待ち、そのうえで将に命じて出師すれば、兵を疲れさせず座して淮北を収められます」。
- 魏主は「劉裕は姚興の死に乗じて滅ぼした。今、われが裕の喪に乗じて伐って、なぜいけないのか」と言った。浩は「そうではありません。姚興が死んで諸子が争ったから、裕は隙に乗じて伐ったのです。今、江南に隙はなく、同列には論じられません」と答えたが、魏主は従わなかった。
- 司空奚斤に節を仮し、晉兵大将軍・行揚州刺史を加え、宋兵将軍・交州刺史周幾と呉兵将軍・広州刺史公孫表を督して、ともに侵攻させた。
- 冬十月、魏軍が出発しようとするとき、公卿が監国の前に集まって、まず城を攻めるか、まず地を略するかを議した。奚斤は先に城を攻めたいと言った。崔浩は「南人は守城に長じています。苻氏が襄陽を攻めて年を越しても落とせなかったように。今、大兵で小城を腰を据えて攻め、時を逸して落とせなければ軍勢を挫き、敵はゆっくり備えを整えて来ます。こちらは怠け彼は鋭い。危うい道です。むしろ軍を分けて地を略し、淮を限りとして守宰を置き、租穀を収めるべきです。そうすれば洛陽・滑台・虎牢はかえって軍の北に取り残され、南からの救援を絶望して必ず黄河沿いに東へ逃げます。さもなくば囲いの中の獲物です。捕らえられぬ心配がありましょうか」と言った。しかし公孫表が強く攻城を請い、魏主はこれに従った。
- そこで奚斤らが歩騎二万で黄河を渡り、滑台の東に陣した。当時、司州刺史毛徳祖は虎牢に戍っており、東郡太守王景度が徳祖に急を告げた。徳祖は司馬の翟広らに歩騎三千で救援させた。
- これに先立ち、司馬楚之が陳留の境に衆を集めていたが、魏兵の渡河を聞いて使者を送って降った。魏は楚之を征南将軍・荊州刺史として北境を侵擾させた。徳祖は長社令王法政に五百人で邵陵を、将軍劉憐に騎二百で雍丘を戍らせて備えた。楚之が兵を率いて憐を襲ったが落とせなかった。折しも中央から軍資が送られ、憐が出迎えに出たところ、酸棗の民の王玉が馳せて魏に告げた。
- 丁酉、魏の尚書滑稽が兵を率いて倉垣を襲い、兵も吏も城を越えて逃げた。陳留太守の馮翊の厳稜が奚斤のもとへ来て降った。魏は王玉を陳留太守とし、兵を与えて倉垣を守らせた。
- 奚斤らは滑台を攻めたが落とせず増兵を求めた。魏主は怒って厳しく責め、壬辰、自ら諸国の兵五万余を率いて南へ天関を出て恒嶺を越え、斤らの後詰とした。
- 十一月、魏の太子拓跋燾が兵を率いて塞上に屯し、安定王拓跋弥と安同に留守させた。庚戌、奚斤らが滑台を急攻して陥れ、王景度は逃げた。景度の司馬陽瓉は魏に捕らえられたが降らずに死んだ。魏主は成皋侯苟児を兖州刺史として滑台に鎮させた。
- 斤らは進んで土楼で翟広らを撃って破り、勝ちに乗じて虎牢に迫った。毛徳祖が戦ってたびたび破った。魏主は別に黒矟将軍于栗磾に三千人で河陽に屯させ、金墉を取ろうと謀った。徳祖は振威将軍竇晃らに黄河沿いに防がせた。
- 十二月丙戌、魏主が冀州に至り、楚兵将軍・徐州刺史叔孫建に兵を率いて平原から渡河させ、青・兖を巡らせた。豫州刺史劉粋は治中高道瑾に歩騎五百で項城に拠らせ、徐州刺史王仲徳は兵を率いて湖陸に屯した。于栗磾は渡河して奚斤と力を合わせ竇晃らを攻めて破った。魏主は中領軍の代人娥清と期思侯の柔然の閭大肥に七千の兵を与えて周幾と合流させ、叔孫建は南へ渡河して碻磝に陣した。
- 癸未、兖州刺史徐琰が尹卯を捨てて南へ逃げ、泰山・高平・金郷などの郡はみな魏の手に落ちた。叔孫建らは東の青州に入った。司馬愛之・季之が先に済東で衆を集めていたが、みな魏に降った。
- 戊子、魏兵が虎牢に迫った。青州刺史の東莞の笁夔は東陽城に鎮しており、使者を送って急を告げた。己丑、詔により南兖州刺史檀道済を監征討諸軍事とし、王仲徳とともに救わせた。廬陵王義真は龍驤将軍沈叔狸に三千人を与え、劉粋のもとで頃合いを計って援けに向かわせた。
營陽王景平元年(423年)
- 春正月、魏の于栗磾が金墉を攻めた。癸卯、河南太守王㳙之が城を捨てて逃げた。魏主は栗磾を豫州刺史として洛陽に鎮させた。
- 庚申、檀道済が彭城に陣した。魏の叔孫建が臨淄に入り、向かうところ城邑はみな潰えた。笁夔は民を集めて東陽城に籠り、城に入らぬ者にはそれぞれ山の険に拠らせ、稲を刈り払わせた。魏軍が至っても食べるものが得られなかった。済南太守垣苗が衆を率いて夔に頼った。
- 刁雍が鄴で魏主に会った。魏主は「叔孫建らが青州に入ったが、民はみな隠れ避け、城を攻めても落ちない。あそこの者は日ごろ卿の威信に服している。今、卿を遣わして助けさせよう」と言い、雍を青州刺史として騎兵を与え、兵を募って青州を取らせた。魏兵で渡河して青州へ向かった者は総勢六万騎。刁雍は五千人を募り、土地の民を撫慰し、みな租を送って軍に供した。
- 三月、魏の奚斤・公孫表らが合わせて虎牢を攻め、魏主は鄴から兵を送って助けた。毛徳祖は城内から地下に七丈掘り、六道に分けて魏の囲みの外に出し、決死の士四百人を募って参軍范道基らに率いさせ、穴から出て背後を襲わせた。魏兵は驚き騒ぎ、数百級を斬り、攻城具を焼いて帰った。魏兵は退き散っても、すぐまた集まって攻めがいよいよ急になった。
- 奚斤は虎牢から歩騎三千で許昌の潁川太守李元徳らを攻め、元徳らは敗走した。魏は潁川の人庾龍を潁川太守として許昌に戍らせた。
- 毛徳祖が兵を出して公孫表と大いに戦い、朝から日暮れまで戦って魏兵数百を殺したが、折しも奚斤が許昌から戻って合わせて徳祖を撃ち、大破した。甲士千余人を失い、ふたたび城に籠って守った。魏主はさらに一万余人を白沙から渡河させ、濮陽の南に屯させた。
- 宋の朝議は、項城が魏から遠くなく軽装の軍で抗せる場所ではないとして、劉粋に高道瑾を寿陽へ呼び戻させ、沈叔狸がすでに進んでいるならこれも呼び戻すべきだとした。粋は「敵は虎牢を攻めていてまだ南へ向かっていません。急に軍をまとめて項城を捨てれば、淮西の諸郡は拠り所を失います。沈叔狸はすでに肥口に留まっており、急に退くべきではありません」と奏した。当時、李元徳が散った兵二百を率いて項に至り、劉粋は高道瑾を助けて戍らせ、敗走の罪を赦すよう請うた。朝議はいずれも許した。
- 乙巳、魏主が韓陵山で狩りをし、そのまま汲郡に行き枋頭に至った。
- もともと毛徳祖は北にいた頃、公孫表と旧交があった。表には権謀があり、徳祖はこれを患い、そこで音信を通じ、ひそかに人を遣わして奚斤に「表は徳祖と共謀している」と説き、表からの書状に返信するたび多くを添削して返した。表がその書状を斤に見せると、斤は疑って魏主に告げた。
- これに先立ち、表は太史令の王亮と若い頃に同じ営署にいて、亮を軽んじ侮るのを好んでいた。亮は「表が軍を虎牢の東の不利な地に置いたため、賊が時を逸して滅びぬのだ」と奏した。魏主はもともと術数を好んでいたのでこれを信じ、前後の憤りを積み重ね、人を遣わして夜、帳中で表を縊り殺した。
- 乙卯、魏主が霊昌津から渡り、東郡・陳留に行った。叔孫建は騎三万で東陽城に迫った。城中の文武はわずか一千五百人だったが、笁夔と垣苗は力を尽くして固守し、時に奇兵を出して魏を破った。魏の歩騎は城を巡って千余里にわたって陣を敷き、大々的に攻城具を整えた。夔は四重の塹壕を作り、魏人はその三重を埋め、橦車を作って城を攻めた。夔は人を地道から出して大麻の綱で引っ張り、これを折らせた。魏人はさらに長囲を作って攻めをいよいよ急にした。時が経つにつれ城は崩れ、戦士は死傷が多く、残った衆は困憊して朝夕にも陥ちようとしていた。
- 檀道済は彭城に至ったが、司州と青州がともに急である一方、率いる兵が少なく分けて赴くには足りなかった。青州は道が近く笁夔の兵は弱いので、王仲徳とともに強行軍で先に救うことにした。
- 甲子、劉粋が李元徳を遣わして許昌を襲い庾龍を斬った。元徳はそのまま留まって民を安撫し、あわせて租と糧を送った。
- 魏主は盟津に至り、于栗磾が冶阪津に浮橋を架けた。乙丑、魏主は兵を率いて北へ渡り、西の河内に行った。娥清・周幾・閭大肥が地を巡って湖陸に至った。高平の民が屯集して射かけたので、清らは高平の諸県をすべて攻め破り、数千家を滅ぼし、一万余口を掠奪した。兖州刺史鄭順之は湖陸に戍っていたが兵が少なく出撃できなかった。魏主はまた并州刺史伊楼抜を遣わして奚斤の虎牢攻めを助けさせた。毛徳祖はその場その場で抗し、かなり魏兵を殺したが、将士は次第に減っていった。
- 夏四月丁卯、魏主が成皋に行き、虎牢から汲・河への道を絶ち、三日留まって自ら衆を督して城を攻めたが、ついに落とせず、そのまま洛陽に行って石経を観、使者を遣わして嵩高を祀った。
- 叔孫建が東陽を攻め、城の北三十歩ほどを崩した。刁雍が速やかに突入するよう請うたが建は許さず、ついに落とせなかった。檀道済らの接近を聞くと、雍はまた建に「賊は官軍の突騎を畏れ、鎖で車を連ねて函陣を作っています。大峴以南は至るところ狭隘で車は並んで通れません。私が募った兵五千で険に拠って迎え撃たせてください。必ず破れます」と言った。当時は暑く魏軍には疫病が多かった。建は「兵の半ば以上が疫病だ。対峙をやめずにいれば兵は自ら死に絶える。あらためて戦う必要があろうか。今、軍を全うして帰るのが上策だ」と言った。
- 己巳、道済が臨朐に陣した。壬申、建らは営と器械を焼いて逃げた。道済は東陽に至ったが糧が尽きて追えなかった。笁夔は東陽城が壊れて守れないので不其城に鎮を移した。
- 叔孫建は東陽から滑台へ向かった。道済は王仲徳を分遣して尹卯へ向かわせ、自身は湖陸に留まった。仲徳が着かぬうちに、尹卯は魏兵がすでに遠ざかったと聞いて道済のもとへ戻った。刁雍はそのまま尹卯に留まって鎮し、譙・梁・彭・沛の民五千余家を招集し、二十七の営を置いて統べた。
- 閏四月丁未、魏主が河内に行き、太行に登って高都に至った。叔孫建は滑台から西へ奚斤のもとへ行き、ともに虎牢を攻めた。虎牢は囲まれること二百日、戦わぬ日はなく、精兵はほぼ戦死し尽くしたのに、魏はますます兵を増した。魏人が外城を毀すと、毛徳祖はその内側にさらに三重の城を築いて防いだ。魏人がまたその二重を毀し、徳祖は一城だけを保った。昼夜相拒み、将士の目はみな爛れたが、徳祖が恩をもって撫したので、離反する心を持つ者はいなかった。
- 当時、檀道済は湖陸に、劉粋は項城に、沈叔狸は高橋に陣していたが、みな魏兵の強さを恐れて進まなかった。
- 丁巳、魏人が地道を作って虎牢城中の井戸の水を抜いた。井戸の深さは四十丈、山勢は峻険で防ぎようがなかった。城中の人馬は渇き、傷を負っても血が出ないほどになり、そのうえ飢えと疫病が重なった。魏はなお急攻し、己未、城が陥落した。将士が徳祖を助けて逃がそうとしたが、徳祖は「私はこの城と運命を共にすると誓った。城が亡んで身が生き残るのは義に反する」と言った。魏主は将士に、徳祖を捕らえた者は必ず生かして連れて来いと命じており、将軍の代人豆代田が徳祖を捕らえて献じた。城中にいた将佐はみな魏に捕らえられ、ただ参軍范道基だけが二百人を率いて包囲を突破して南へ帰った。魏の士卒も疫病で死んだ者が十のうち二、三に及んだ。
- 奚斤らは司・兖・豫の諸郡県をすべて平定し、守宰を置いて撫した。魏主は周幾に河南を鎮させ、河南の人は安堵した。徐羨之・傅亮・謝晦は領土を失ったとして上表して自らを弾劾したが、詔は不問とした。
- 五月、魏主が平城に帰った。
- 秋九月乙亥、魏主が宮に帰り、奚斤を平城に召し戻し、兵を留めて虎牢を守らせ、娥清と周幾に枋頭を鎮させ、司馬楚之が率いていた戸口で汝南・南陽・南頓・新の四郡を置いて豫州に加えた。
- 冬十一月、魏の周幾が許昌を侵し、許昌は潰えて潁川太守李元徳は項へ逃げた。戊辰、魏人が汝陽を囲み、太守王公度もまた項へ逃げた。劉粋は将の姚聳夫らに兵を与えて項城の守りを助けさせた。魏人は許昌城を平らげ、鍾城を毀して封疆を定めて帰った。