通鑑紀事本末魏、北燕を滅ぼす(魏滅北燕)

北魏の使者于什門を抑留したことに始まる魏と北燕の対立が、拓跋燾のたび重なる遠征によって和龍の孤立を招き、北燕を滅ぼすまで。馮跋の死後に弟の馮弘が位を奪い、太子馮翼ら一族を殺して立ったものの、魏の圧迫に耐えかねて高句麗へ亡命し、そこで殺されて北燕は絶えた。晉安帝義熙十年(414年)から宋文帝元嘉十五年(438年)までの25年間。

年表(10件)
  • 晉安帝
  • 義熙十年414年魏の使者于什門が燕王馮跋に拝礼せず抑留される
  • 十四年418年魏の長孫道生らが乙連城を陥れ和龍に迫り民一万余家を掠う
  • 宋文帝
  • 元嘉三年426年燕の太子馮永が没し、次子の馮翼が太子となる
  • 七年430年馮跋の死をめぐる政変で馮弘が天王に即き、太子翼と諸子を殺す
  • 九年432年魏主が親征して和龍を囲み、馮崇が遼西を挙げて魏に降る
  • 十年433年魏が馮崇を遼西王とし、永昌王健が和龍を撃って凡城を得る
  • 十一年434年燕王が藩を称して和を請い、于什門は二十一年ぶりに帰る
  • 十二年435年燕王が宋にも藩を称し、魏の楽平王丕に六千口を掠われる
  • 十三年436年燕王が宮殿を焼き高句麗軍に守られて東へ移る
  • 十五年438年高句麗王が北豊で馮弘とその子孫十余人を殺す

晉安帝義熙十年(414年)

  • 秋八月辛丑、魏主拓跋嗣が謁者の于什門を燕に遣わした。
  • 什門は和龍に至ったが入って謁見しようとせず、「大魏皇帝の詔がある。馮王が出てきて受けるなら入る」と言った。燕王馮跋が人に引き立てて入らせると、什門は跋に拝礼しなかった。跋が人にその首を押さえつけさせると、什門は「馮王が拝して詔を受けるなら、私は賓主の礼で敬意を表す。なぜ無理強いするのか」と言った。跋は怒って什門を留め置き、たびたび衆前で辱めた。左右が殺すよう請うと、跋は「彼はそれぞれの主のために働いているだけだ」と言い、幽閉して降らせようとしたが、什門はついに降らなかった。長い年月で衣冠は破れ果て、虱がわいた。跋が衣冠を贈っても什門は受け取らなかった。

十四年(418年)

  • 以前、和龍で赤気が四方に立ちこめて日を覆い、寅から申の刻まで続いた。燕の太史令張穆が燕王跋に「これは兵気です。今、魏は強盛なのに、その使者を捕らえて修好の道が通じておりません。臣はひそかに恐れます」と言った。跋は「今それを考えているところだ」と答えた。
  • 五月、魏主嗣が東巡して濡源・甘松に至り、征東将軍長孫道生・安東将軍李先・給事黄門侍郎奚観に精騎二万で燕を襲わせ、また驍騎将軍延普と幽州刺史尉諾に幽州から遼西へ兵を進めさせて気勢を添えさせ、自らは突門嶺に屯して待った。
  • 道生らは乙連城を陥れ、和龍に進攻して燕の単于右輔古泥と戦って破り、将の皇甫軌を殺した。燕王跋は城に籠って自守し、魏軍は落とせず、民一万余家を掠って帰った。

宋文帝元嘉三年(426年)

  • 秋八月、燕の太子馮永が没し、次子の馮翼を太子に立てた。

七年(430年)

  • 秋八月、燕の太祖(馮跋)が病臥し、中書監申秀と侍中陽哲を内殿に召して後事を託した。
  • 九月、病が篤くなり、輦で殿前に出て太子翼に国事を摂させ、兵を統べ政を聴いて非常に備えさせた。宋夫人は自分の子の馮受居を立てたく、翼が政を執るのを嫌って、翼に「上のご病気は快方に向かう。なぜ急いで父に代わって天下に臨もうとするのか」と言った。翼は仁弱な性でそのまま東宮に戻り、日に三度見舞いに行くだけになった。
  • 宋夫人は詔と偽って内外を遮断し、宦官に取り次ぎをさせるのみとし、翼も諸子も大臣も面会できなくなった。ただ中給事の胡福だけが出入りを許され、禁衛を専管した。福は宋夫人の企てが成るのを恐れ、司徒・録尚書事の中山公馮弘に告げた。弘は壮士数十人と甲を着けて禁中に入り、宿衛はみな戦わずに散った。宋夫人が東閤を閉じさせると、弘の家僮の庫斗頭は身軽で力があり、閤を越えて入り、皇堂に至って女官一人を射殺した。太祖は驚き恐れて崩じた。
  • 弘はそのまま天王の位に即き、人を遣わして城を巡らせて告げた。「天が凶禍を下し大行(先帝)が崩ぜられたのに、太子は看病もせず、諸公も奔喪しなかった。逆謀の疑いがあり社稷が危うい。私は介弟の親として大位を摂り国家を安んずる」。門を叩いて入った百官は二階級進めた。
  • 太子翼は東宮の兵を率いて出て戦ったが敗れ、兵はみな散った。弘は使者を送って翼に死を賜った。太祖には百余人の子があったが、弘はみな殺した。太祖に文成皇帝と諡し、長谷陵に葬った。

九年(432年)

  • 春正月、慕容后の子の馮王仁を太子に立てた。
  • 夏五月、魏主が南郊で兵を整え、燕討伐を謀った。
  • 六月庚寅、魏主が燕を伐ち、太子拓跋晃に録尚書事を命じた。当時、晃はわずか五歳だった。
  • 秋七月己未、魏主が濡水に至った。庚申、安東将軍奚斤に幽州の民と密雲の丁零一万余人を徴発させ、攻城具を運んで南道から出て和龍で合流させた。魏主が遼西に至ると、燕王は侍御史の崔聘を遣わし牛と酒を贈って軍を犒った。己巳、魏主が和龍に到着した。
  • 燕の石城太守李崇ら十郡が魏に降った。魏はその民三万を徴発して包囲の塹壕を掘らせ和龍を囲んだ。崇は李績の子である。
  • 八月、燕王が数万人を出して戦わせたが、魏の昌黎公丘らが撃ち破り、死者一万余。燕の尚書高紹が一万余家を率いて羌胡固に籠った。辛巳、魏主が紹を攻めて斬った。平東将軍賀多羅が帯方を、撫軍大将軍永昌王拓跋健が建徳を、驃騎大将軍楽平王拓跋丕が冀陽を攻め、いずれも陥れた。
  • 九月乙卯、魏主が兵を率いて西へ還り、営丘・成周・遼東・楽浪・帯方・玄菟の六郡の民三万家を幽州に移した。燕の尚書郭淵が、燕王に魏へ降伏の意を通じ娘を献じて附庸となるよう勧めたが、燕王は「罪過は先にあり、恨みはすでに深い。降っても死を取るだけだ。志を守ってさらに図るほうがよい」と言った。
  • 魏主が和龍を囲んだとき、宿衛の士の多くが戦陣にあって行宮の人が少なかった。雲中鎮将の朱脩之は南人と謀って魏主を襲殺し、和龍に入って海路で南へ帰ろうと計り、冠軍将軍毛脩之に告げたが、毛脩之が従わないので取りやめた。ほどなく事が漏れ、朱脩之は燕に亡命した。魏がたびたび燕を伐ったので、燕王は脩之を南に帰らせて救援を求めさせた。脩之は海を渡って東萊に着き、そのまま建康に帰って黄門侍郎を拝した。
  • はじめ、燕王の嫡妃王氏が長楽公馮崇を生み、崇は兄弟の中で最年長だった。しかし即位すると慕容氏が王后に立てられ、王氏は立てられず、崇も退けられて肥如に鎮した。崇の同母弟の広平公馮朗と楽陵公馮邈は「今、国が滅びようとしているのは愚者も智者も知っている。王はまた慕容后の讒言を受け入れており、われら兄弟の死ぬ日は近い」と語り合い、ともに遼西へ亡命して崇に魏へ降るよう説いた。崇はこれに従った。折しも魏主が給事郎の王徳を遣わして崇を招いた。
  • 十二月己丑、崇は馮邈を魏に遣わして郡ごと降ることを請うた。燕王はこれを聞いて将の封羽に遼西の崇を囲ませた。

十年(433年)

  • 春正月乙卯、魏主が永昌王健に諸軍を督させて遼西を救わせた。
  • 二月庚午、魏主は馮崇を都督幽平東夷諸軍事・車騎大将軍・幽平二州牧とし、遼西王に封じ、その国の尚書事を録させ、遼西十郡を食邑とし、承制して尚書・刺史・征虜以下の官を任命する権を与えた。
  • 夏六月、魏の永昌王健と左僕射安原が諸軍を督して和龍を撃ち、将軍楼勃が別に騎五千で凡城を囲んだ。燕の守将封羽が凡城を挙げて降り、三千余家を収めて帰った。
  • 秋八月、馮崇が上表して父を説得して降らせたいと請うたが、魏主は許さなかった。

十一年(434年)

  • 春正月戊戌、燕王が使者を送って魏に和を請うたが、魏主は許さなかった。
  • 閏三月辛巳、燕王が尚書高顒を遣わして上表し、藩を称して罪を謝し、末娘を後宮に入れたいと請うた。魏主はようやく許し、太子馮王仁を入朝させるよう求めた。燕王は魏の使者于什門を平城に送り返した。什門は燕にあること二十一年、節を屈しなかった。魏主は詔を下して蘇武になぞらえて褒め称え、治書御史に任じた。
  • 夏六月、燕王は太子を人質に送らなかった。魏の散騎常侍劉滋が「昔、劉禅は重なる山の険があり、孫皓は長江の阻みがありましたが、いずれも晉に捕らえられました。強弱の勢いが違ったからです。今、我らは呉・蜀より弱く、魏は晉より強い。相手の望みに従わねば危亡の禍があります。速やかに太子を遣わし、そのうえで政事を修め、百姓を撫し、離散した者を集め、飢えた者を賑わし、農桑を勧め、賦役を省けば、社稷はまだ保てましょう」と諫めたが、燕王は怒って殺した。
  • 辛亥、魏主が撫軍大将軍永昌王健らを遣わして燕を伐ち、その稲を刈り取り民を移して帰った。

十二年(435年)

  • 春正月、燕王はたびたび魏に攻められたので、建康に使者を送って藩を称し貢を奉った。癸酉、詔して燕王に封じた。江南ではこれを黄龍国と呼んだ。
  • 三月癸亥、燕王が大将湯燭を魏に入貢させ、太子王仁は病のためまだ遣わせないと弁解した。
  • 夏六月戊申、魏主が驃騎大将軍楽平王丕と鎮東大将軍徒河の屈垣らに騎四万で燕を伐たせた。
  • 秋七月己卯、魏の楽平王丕らが和龍に至った。燕王は牛と酒で軍を犒い、甲三千を献じた。屈垣は人質を送らぬことを責め、男女六千口を掠って帰った。
  • 冬十一月、魏がたびたび燕を伐ったので燕は日ごとに追い詰められ、上下は憂え恐れた。太常の楊㟭が重ねて太子を速やかに入侍させるよう勧めたが、燕王は「まだそうする気になれぬ。事が急なら東の高句麗に頼って後の挙を図る」と言った。㟭は「魏は天下を挙げて一隅を撃つのですから、勝てぬ道理はありません。高句麗は信がなく、初めは親しくとも終わりには変を生じましょう」と言ったが、燕王は聞かず、ひそかに尚書陽伊を遣わして高句麗に迎えを請うた。

十三年(436年)

  • 春二月戊子、燕王が使者を魏に遣わして入貢し、人質を送ると申し出たが、魏主は許さず討伐しようとした。壬辰、十余組の使者を東方の高句麗など諸国に遣わして告げ諭した。
  • 三月辛未、魏の平東将軍娥清と安西将軍古弼が精騎一万で燕を伐ち、平州刺史拓跋嬰が遼西の諸軍を率いて合流した。
  • 夏四月、娥清と古弼が燕の白狼城を攻め落とした。高句麗は将の葛盧・孟光に数万の衆を与え、陽伊に従って和龍に至り燕王を迎えさせた。高句麗軍は臨川に屯した。燕の尚書令郭生は、民が遷都を嫌がっているのに乗じて城門を開いて魏兵を入れようとしたが、魏人は疑って入らなかった。生はそのまま兵を整えて燕王を攻めた。王は高句麗兵を東門から引き入れ、生と闕下で戦い、生は流れ矢に当たって死んだ。葛盧と孟光は入城すると軍士に破れた衣を脱がせ、燕の武庫の精良な武具を取って与え、城中を大いに掠奪した。
  • 五月乙卯、燕王は龍城の在住の戸を率いて東へ移り、宮殿を焼いた。火は十日たっても消えなかった。婦人に甲を着けさせて中に置き、陽伊らが精兵で外を固め、葛盧・孟光が騎兵で殿軍を務め、車を並べて進む列は前後八十余里に及んだ。古弼の部将高苟子が騎兵で追おうとしたが、弼は酔って刀を抜いて止めた。そのため燕王は逃れることができた。魏主はこれを聞いて怒り、古弼と娥清を檻車で平城に召し、いずれも門番に落とした。
  • 戊午、魏主が散騎常侍封撥を高句麗に遣わし、燕王を送るよう命じた。
  • 秋九月、高句麗は燕王を魏に送らず、使者を遣わして表を奉り、馮弘とともに王化を奉ずると称した。魏主は高句麗が詔に背いたとして討伐を議し、隴右の騎卒を徴発しようとした。劉絜は「秦・隴の新附の民はしばらく優遇して免除し、豊かになるのを待って用いるべきです」と言い、楽平王丕は「和龍は平定されたばかりです。広く農桑を修めて軍の蓄えを豊かにし、そのうえで進めば、高句麗は一挙に滅ぼせましょう」と言った。魏主は取りやめた。

十五年(438年)

  • 先に燕王弘が遼東に着いたとき、高句麗王高璉が使者を送って「龍城王の馮君よ、野宿の旅、士馬はお疲れか」と労った。弘は恥じ怒って、なお天子の制を称して責めた。高句麗は弘を平郭に置き、まもなく北豊に移した。弘は日ごろから高句麗を侮り、政令・刑罰・賞罰を自国にいたときのまま行ったので、高句麗は弘の侍人を奪い、太子王仁を取って人質とした。
  • 弘は高句麗を怨み、使者を送って上表し迎えを求めた。宋帝は使者の王白駒らを遣わして迎えさせ、あわせて高句麗に資を出して送り出すよう命じた。高句麗王は弘を南へ行かせたくなかったので、将の孫潄・高仇らを遣わして北豊で弘とその子孫十余人を殺した。弘に昭成皇帝と諡した。