通鑑紀事本末魏、夏を滅ぼす(魏滅夏)

赫連勃勃の死後、太子争いで揺れた夏を、北魏の拓跋燾が崔浩の献策に従って西へ攻め、堅城統万を奪い、赫連昌を捕らえて会稽公とするまで。弟の赫連定が平涼で立って抵抗し、宋と結んで魏の挟撃を図ったが、平涼を落とされ、西へ逃れる途中に吐谷渾に捕らえられて魏に送られ殺された。宋文帝元嘉元年(424年)から十一年(434年)までの11年間。

年表(10件)
  • 宋文帝
  • 元嘉元年424年夏の太子争いで赫連璝と赫連倫が死に、赫連昌が太子となる
  • 二年425年夏の武烈帝赫連勃勃が没し、太子昌が即位して承光と改元する
  • 三年426年崔浩の献策で魏主が夏を伐ち、奚斤が長安を、魏主が統万を襲う
  • 四年427年魏主が偽退で夏軍を誘って大破し、統万城を陥れる
  • 五年428年安頡が赫連昌を捕らえ、赫連定が平涼で即位して勝光と改元する
  • 六年429年夏主が統万奪回を図って侯尼城まで進むが引き返す
  • 七年430年魏主が平涼を陥れ、関中はことごとく魏のものとなる
  • 八年431年河西へ渡ろうとした赫連定を吐谷渾の慕璝が捕らえる
  • 九年432年吐谷渾が赫連定を魏に送り、魏が殺す
  • 十一年434年赫連昌が魏に叛いて逃げ、討ち殺され弟たちも誅される

宋文帝元嘉元年(424年)

  • 夏主赫連勃勃が太子赫連璝を廃して末子の酒泉公赫連倫を立てようとした。璝はこれを聞いて七万の兵で北の倫を伐ち、倫は騎三万で防いで高平で戦い、敗れて死んだ。倫の兄の太原公赫連昌が騎一万で璝を襲って殺し、その衆八万五千を併せて統万に帰った。夏主は大いに喜び、昌を太子に立てた。
  • 夏主は誇大を好み、四つの門をそれぞれ東を招魏、南を朝宋、西を服涼、北を平朔と名づけた。

二年(425年)

  • 秋八月、夏の武烈帝(勃勃)が没し、廟号を世祖とした。太子昌が即位して大赦し、承光と改元した。

三年(426年)

  • 夏六月、魏主が公卿に「今、赫連と蠕蠕(柔然)のどちらを先に討つべきか」と諮問した。長孫嵩・長孫翰・奚斤はみな「赫連は定住しており患いにはならぬ。まず蠕蠕を伐つべきです」と言った。太常崔浩は「赫連氏の土地は千里に過ぎず、政も刑も残虐で人にも神にも見放されています。まずこれを伐つべきです」と言った。尚書劉絜と武京侯安原は先に燕を伐つよう請うた。魏主は雲中から西へ巡って五原に至り、陰山で狩りをして東は和兠山まで行き、秋八月に平城へ帰った。
  • 秋九月、魏主は夏の世祖が没して諸子が相争い国人が動揺していると聞き、討とうとした。長孫嵩らは「彼が城に籠って逸をもって労を待ち、そこへ大檀(柔然の可汗)が虚を衝いて侵入すれば危険な道です」と言った。崔浩は「昨年以来、熒惑が二度も羽林・鉤已を守りました。その占は秦(=夏)の滅亡を示します。今年は五星がともに東方に出ており、西を伐つのに利があります。天と人が相応じており、逃してはなりません」と言った。嵩が頑強に反対したので、帝は激怒し、在官中の貪汚を責めて武士に嵩を辱めさせた。
  • そこで司空奚斤に四万五千の兵で蒲阪を襲わせ、宋兵将軍周幾に一万で陝城を襲わせ、河東太守薛謹を道案内とした。謹は薛辯の子である。魏主は中書博士の平棘の李順に前駆の兵を統べさせようとして崔浩に諮った。浩は「順にはたしかに知略がありますが、私は彼と縁戚で人となりをよく知っています。去就を決めるのが果断すぎ、専任はできません」と言い、帝は取りやめた。
  • 冬十月丁巳、魏主が平城を発った。君子津に至ったとき、折しも急に寒くなって河が結氷した。
  • 十一月戊寅、魏主は軽騎二万で河を渡り統万を襲った。壬午は冬至で、夏主はちょうど群臣と宴を張っていたところへ魏軍が突然現れ、上下が驚き騒いだ。魏主は城から三十余里の黒水に陣した。夏主は出て戦って敗れ、退いて城に入ったが門を閉じる間もなく、門三郎の豆代田が衆を率いて勝ちに乗じて西宮に入り西門を焼いた。宮門が閉じられると、代田は宮の垣を越えて出た。魏主は代田を勇武将軍に任じた。
  • 魏軍は城北で夜を明かした。癸未、兵を分けて四方を掠め、数万を殺し捕らえ、牛馬十余万を得た。魏主は諸将に「統万はまだ取れぬ。いずれ卿らと取ろう」と言い、その民一万余家を移して帰った。
  • 夏の弘農太守曹達は周幾の接近を聞いて戦わずに逃げ、魏軍は勝ちに乗じて長駆し三輔に入った。周幾は雲中で没した。
  • 蒲阪の守将軍平公乙斗は奚斤の接近を聞いて統万に使者を送って急を告げた。使者が統万に着いたときには魏軍がすでに城を囲んでいたので、戻って「統万はもう敗れました」と報告した。乙斗は恐れて城を捨てて西の長安へ逃げた。斤は蒲阪を陥れた。夏主の弟の赫連助興が先に長安を守っていたが、乙斗が着くと助興とともに長安を捨てて西の安定へ逃げた。
  • 十二月、奚斤が長安に入った。

四年(427年)

  • 春正月乙酉、魏主が平城に帰還した。統万から移された民は道中で多く死に、平城に着けたのは十のうち六、七だった。己亥、魏主が幽州に行幸した。
  • 夏主が平原公赫連定に二万の兵を与えて長安へ向かわせた。魏主はこれを聞いて陰山で木を伐って大量の攻城具を造り、あらためて夏討伐を謀った。
  • 二月、魏主が平城に帰った。
  • 三月丙子、魏主は高涼王拓跋礼を長安に鎮させた。礼は奚斤の孫である。また執金吾桓貸に君子津に橋を架けさせた。
  • 夏四月、魏の奚斤と夏の平原公定が長安で対峙した。魏主は虚を衝いて統万を伐とうと、兵を選んで訓練し諸将を配置した。司徒長孫翰らに騎三万で先鋒を、常山王拓跋素らに歩兵三万で後続を、南陽王拓跋伏真らに歩兵三万で攻城具の輸送を、将軍賀多羅に精騎三千で斥候を担わせた。素は拓跋遵の子である。
  • 五月、魏主が平城を発ち、龍驤将軍の代人陸俟に諸軍を督させて大磧に鎮させ柔然に備えた。辛巳、君子津を渡った。
  • 魏主は拔鄰山に至って城を築き、輜重を置いて軽騎三万で日を倍して先行した。群臣はみな「統万は城が堅く、朝夕に落とせるものではありません。今、軽装の軍で討てば、進んでも勝てず退いても頼るものがない。歩兵と攻城具とともに行くべきです」と諫めた。帝は答えた。「用兵の術で攻城は最下策、やむを得ぬときにのみ用いる。今、歩兵と攻城具をともに進めれば彼は恐れて堅守する。時を逃さず落とせねば糧は尽き兵は疲れ、外に掠めるものもなく、進退の余地がなくなる。それより軽騎で直接その城に迫れば、歩兵が来ていないのを見て気を緩めるはず。こちらが弱く見せて誘えば、出て戦って捕らえられよう。そのわけは、わが軍士は家を離れること二千余里、しかも大河に隔てられている。いわゆる死地に置いてこそ生きるというやつだ。だから攻城には足りぬが、決戦には余りある」。そのまま進んだ。
  • 六月、魏主が統万に至り、軍を分けて深い谷に伏せ、少数で城下に至った。夏の将狄子玉が魏に降って言うには、夏主は魏軍の来襲を聞いて使者で平原公定を召したが、定は「統万は堅固で容易には落ちません。私が奚斤を捕らえてからゆっくり向かい、内外から挟撃すれば必ず成功します」と答え、そのため夏主は堅守して待っているという。
  • 魏主はこれを憂え、軍を退いて弱みを見せ、娥清と永昌王拓跋健に騎五千で西の住民を掠めさせた。魏の軍士で罪を得て夏に亡命した者が「魏軍は糧が尽き士卒は菜を食っている。輜重は後方で歩兵はまだ着いていない。急ぎ撃つべきです」と言った。夏主はこれに従い、甲辰、歩騎三万を率いて城を出た。
  • 長孫翰らは「夏兵の歩兵の陣は破りにくい。鋒を避けるべきです」と言ったが、魏主は「われは遠来して賊を求め、出て来ぬことだけを恐れていた。今すでに出てきたのに避けて撃たぬのでは、彼は奮い立ちこちらは弱る。よい計ではない」と言い、兵を収めて偽って退き、敵を引き回して疲れさせた。夏兵は両翼に分かれ鬨を上げて追い、五、六里進んだところで東南から風雨が来て砂を巻き上げ暗くなった。
  • 宦者の趙倪は方術に通じており、魏主に「今、風雨は賊の方から来ています。我らは向かい、彼は背にしている。天が人を助けておりません。しかも将士は飢え渇いています。陛下は騎を収めて避け、後日を待たれますよう」と言った。崔浩が叱った。「何を言うか。千里の遠征で勝ちを制するのは一日の事、変えられるものか。賊は貪って進み止まらず、後軍はすでに切れている。軍を隠して分け、不意を衝いて撃つべきだ。風向きは人次第、常なるものがあろうか」。魏主は「よし」と言い、騎を左右の隊に分けて挟み撃ちにした。
  • 魏主の馬がつまずいて落馬し、危うく夏兵に捕らえられるところを拓跋斉が身を挺して庇い、決死の力戦をしたので夏兵は退いた。魏主は馬に飛び乗り、夏の尚書斛黎文を刺し殺し、さらに騎兵十余人を殺した。自身も流れ矢に当たったが奮撃をやめず、夏軍は大潰した。斉は拓跋翳槐の玄孫である。
  • 魏軍は勝ちに乗じて夏主を城北まで追い、夏主の弟の河南公赫連満と兄の子の赫連蒙遜を殺し、死者は一万余に及んだ。夏主は城に入れず上邽へ逃げた。
  • 魏主は微服して逃げる者を追って城内に入った。拓跋斉が強く諫めても聞かなかった。夏人が気づいて諸門をみな閉じたので、魏主は斉らと宮中に入り、婦人の裙を得て槊に結び、それを伝って登り、ようやく脱出できた。折しも日が暮れ、夏の尚書僕射の問至が夏主の母を奉じて逃げ出した。長孫翰が騎八千で夏主を高平まで追ったが追いつかず引き返した。
  • 乙巳、魏主が入城し、夏の王公・卿・校尉および諸母・后妃・姉妹・宮人を万を数えるほど捕らえ、馬三十余万匹、牛羊数千万頭、府庫の珍宝・車旗・器物は数えきれぬほど得て、差をつけて将士に分け与えた。
  • もともと夏の世祖は豪奢な性で、統万城は高さ十仞、基部の厚さ三十歩、上の幅十歩、宮牆の高さ五仞で、その堅さは刀や斧を研げるほどだった。台榭は壮大で、みな彫刻や絵で飾り、綺繍で覆い、文様の粋を尽くしていた。魏主は左右を顧みて「小さな国のくせに民をこう使えば、滅びずにおれようか」と言った。
  • 夏の太史令張淵と徐辯を得て、そのまま太史令とした。もと晉の将の毛脩之と秦の将軍庫洛千を得た。庫洛于は秦に帰した。毛脩之は料理が上手なので太官令に用いた。
  • 魏主は夏の著作郎である天水の趙逸の書いた文が夏主を過度に讃美しているのを見て怒り、「この小僧は無道なのに、どうしてこう書けるのか。誰の筆か。速やかに調べよ」と言った。崔浩が「文士の褒貶は実際より過ぎるもの。やむを得ぬことで罪には当たりません」と言い、取りやめた。魏主は夏の世祖の三人の娘を貴人とした。
  • 奚斤と夏の平原公定はなお長安で対峙していた。魏主は宗正の娥清と太僕の丘堆に騎五千で関右を略取させた。定は統万陥落を聞いて上邽へ逃げ、斤は雍まで追ったが追いつかず引き返した。清と堆は夏の貳城を攻め落とした。
  • 魏主は斤らに凱旋を命じたが、斤は上疏して「赫連昌は上邽に逃れて残党を集めていますが、まだ拠点とする力はありません。今その危うきに乗じて滅ぼすのは容易です。鎧と馬を増していただき、昌を平らげてから帰りたい」と請うた。魏主は許さず、斤が固く請うたのでようやく許し、斤に兵一万を与え、将軍劉拔に馬三千匹を送らせ、娥清と丘堆を留めてともに夏を撃たせた。
  • 辛酉、魏主は統万から東へ帰り、常山王素を征南大将軍・仮節とし、執金吾桓貸・莫雲とともに統万に留めて鎮させた。雲は莫題の弟である。

五年(428年)

  • 春二月、魏の平北将軍尉眷が上邽の夏主を攻め、夏主は平涼に退いて屯した。奚斤は安定に進軍して丘堆・娥清の軍と合流した。斤の軍は馬が疫病で多く死に、士卒は糧に乏しかったので、塁を深くして守りを固め、丘堆に民間からの徴租を督させた。士卒は暴掠して警戒を怠り、夏主が襲って堆は敗れ、数百騎で城に帰った。夏主は勝ちに乗じて日々城下に来て掠奪し、魏軍は馬草も刈れなくなり、諸将は困り果てた。
  • 監軍侍御史の安頡が言った。「詔を受けて賊を滅ぼしに来たのに、逆に賊に苦しめられ、退いて孤城に籠っている。賊に殺されずとも法によって誅されよう。進退どちらも生きる道はないのに、王公たちは平然として何の計も立てぬのか」。斤は「今、軍士に馬がない。歩兵で騎兵を撃っても勝てる道理がない。京師の救援の騎兵が来るのを待って挟撃すべきだ」と言った。頡は「今、猛烈な敵が外を自在に動き回り、わが兵は疲れ糧は尽きている。一戦を決せねば死は目前だ。救援の騎兵など待てるものか。どうせ死ぬなら、死力を尽くして戦うほうがよいではないか」と言った。斤がまた馬の少なさを理由にすると、頡は「諸将の乗馬を集めれば二百匹は得られます。決死の士を募って出撃させてください。敵を破れずとも鋭気を挫けます。それに赫連昌は狷介で謀がなく、勇を好んで軽率です。いつも自ら出て挑戦するので誰もが顔を知っています。伏兵で不意を襲えば昌を捕らえられます」と言った。
  • 斤はなお渋ったので、頡はひそかに尉眷らと謀って騎を選んで待った。ほどなく夏主が城を攻めに来て、頡が出て応戦した。夏主は自ら陣前に出て格闘し、軍士は顔を知っていたので争ってそこへ殺到した。折しも大風が吹いて砂塵が舞い上がり昼なお暗くなった。夏主は敗走し、頡が追うと夏主の馬がつまずいて落馬し、捕らえられた。頡は安同の子である。
  • 夏の大将軍・領司徒の平原王赫連定は残った数万の衆を収めて平涼へ逃げ帰り、皇帝に即位して大赦し、勝光と改元した。
  • 三月辛巳、赫連昌が平城に至った。魏主は西宮の門内に住まわせ、器物はすべて乗輿に準ずるものを与え、さらに妹の始平公主を娶らせ、常忠将軍の号を仮し、会稽公の爵を賜った。安頡を建節将軍として西平公の爵を、尉眷を寧北将軍として漁陽公に進爵させた。
  • 魏主は常に赫連昌を側近くに侍らせ、単騎でともに鹿を追って深い山谷に入った。昌は日ごろから勇名があったので諸将はみな危ういと言ったが、魏主は「天命というものがある。何を恐れよう」と言い、以前と変わらず親しく遇した。
  • 奚斤は自分が元帥でありながら昌を副将(安頡)に捕らえられたのを深く恥じ、輜重を捨てて三日分の糧だけ持ち、平涼まで夏主(赫連定)を追った。娥清は川沿いに行こうとしたが斤は従わず、北道から敵の逃げ道を塞ぎ、馬髦嶺に至った。夏軍は逃げようとしていたが、折しも魏の下級の将が罪を得て夏に亡命し、魏軍が食糧少なく水もないと告げた。夏主は兵を分けて斤を待ち伏せ、前後から挟撃した。魏兵は大潰し、斤と娥清・劉拔はみな夏に捕らえられ、士卒の死者は六、七千に及んだ。
  • 丘堆は輜重を守って安定にいたが、斤の敗報を聞いて輜重を捨てて長安へ逃げ、高涼王礼とともに蒲阪へ逃げた。夏人は再び長安を取った。魏主は激怒し、安頡に丘堆を斬らせ、その衆を代わりに率いて蒲阪に鎮させ防がせた。
  • 夏四月、夏主が魏に和を請うた。魏主は詔を下して降伏を諭した。

六年(429年)

  • 春正月、夏の酒泉公赫連雋が平涼から魏に亡命した。
  • 夏五月、夏主が統万を取り返そうと兵を率いて東の侯尼城に至ったが、進む勇気がなく引き返した。
  • 夏主は若い頃から凶暴無頼で世祖に認められていなかった。十月、陰槃で狩りをして苛藍山に登り、統万城を望んで泣き、「先帝が朕に大業を継がせておられたら、今日のようなことがあっただろうか」と言った。

七年(430年)

  • 春三月壬寅、魏が赫連昌を秦王に封じた。
  • 秋九月己丑、夏主が弟の赫連謂以代に魏の鄜城を伐たせた。魏の平西将軍始平公隗帰らが撃って一万余人を殺し、謂以代は逃げた。夏主は自ら数万人を率いて鄜城の東で隗帰を迎え撃つことにし、弟の上谷公赫連社干と広陽公赫連度洛孤を残して平涼を守らせた。あわせて宋に使者を送って和を求め、兵を合わせて魏を滅ぼし、遠く河北を分けて恒山以東を宋、以西を夏とすることを約した。
  • 魏主はこれを聞いて兵を整え夏を伐とうとした。群臣はみな「劉義隆の兵はなお河中にあります。これを捨てて西へ行き、前の敵を必ず破れるとは限らぬのに、義隆が虚に乗じて河を渡れば山東を失います」と言った。魏主が崔浩に問うと、「義隆と赫連定は遠く呼び合い、虚声で唱和して大国をうかがっています。義隆は定の進撃を望み、定は義隆の前進を待ち、どちらも先に入る勇気がない。譬えれば繋がれた鶏がともに飛べぬようなもので、害をなす力はありません。赫連定は残った根で摧きやすく、押せば必ず倒れます。定を破ってから東に潼関を出て席巻して進めば、威は南の果てまで震え、江淮以北には草一本立たなくなりましょう。聖策は独り発せられたもので、愚かで浅い者の及ぶところではありません。陛下、お疑いなさいますな」と答えた。
  • 甲辰、魏主は統万に行き、そのまま平涼を襲うこととし、衛兵将軍王斤を蒲阪に鎮させた。
  • 冬十一月乙酉、魏主が平涼に至った。夏の上谷公社干らは城に籠って固守した。魏主は赫連昌に招かせたが降らないので、安西将軍古弼らに兵を率いて安定へ向かわせた。夏主は鄜城から安定に帰り、歩騎二万で北の平涼を救おうとして弼と遭遇した。弼が偽って退いて誘い、夏主が追うと、魏主は高車の兵に駆けさせて撃たせた。夏兵は大敗し、数千級を斬られた。夏主は逃げ帰って鶉觚原に登り、方陣を組んで自ら固めた。魏兵は取り囲んだ。
  • 魏軍が夏主を数日囲んで水と草を断ったので、人も馬も飢え渇いた。丁酉、夏主が衆を率いて鶉觚原を下ると、魏の武衛将軍丘眷が撃って夏軍は大潰し、死者一万余。夏主は重傷を負い単騎で逃げ、残った衆を収め、民五万を駆り立てて西の上邽に籠った。魏人は夏主の弟の丹楊公赫連烏視抜と武陵公赫連禿骨および公侯以下百余人を捕らえた。
  • この日、魏兵は勝ちに乗じて安定を攻めた。夏の東平公乙斗は城を捨てて長安へ逃げ、数千家を駆り立てて西の上邽へ逃げた。
  • 己亥、魏主は安定に行幸した。庚子、平涼に戻って臨み、塹壕を掘って囲み、新たに帰順した者を慰め、秦・雍の民を赦して七年の課役を免除した。夏の隴西の守将が魏に降った。
  • 十二月丁卯、夏の上谷公社干と広陽公度洛孤が降り、魏は平涼を陥れた。関中侯豆代田が奚斤・娥清らを見つけて魏主に献じた。魏主は夏主の后を代田に賜り、奚斤に膝行して酒を執り代田に奉らせ、「お前の命を全うさせたのは代田だ」と言った。代田に井陘侯の爵を賜り、散騎常侍・右衛将軍・領内都幢将を加えた。
  • 夏の長安・臨晉・武功の守将はみな逃げ、関中はことごとく魏のものとなった。魏主は巴東公延普を安定に鎮させ、鎮西将軍王斤を長安に鎮させた。壬申、魏主は東に帰り、奚斤を宰士(賄い役)として酒食を背負って従わせた。
  • 王斤は驕慢で法に従わず、左右の者を信任して百姓を徴役し、民は堪えられず、南の漢川へ逃げる者が数千家に及んだ。魏主が調べて事実を掴み、斤を斬って晒した。

八年(431年)

  • 夏六月、夏主は魏に迫られるのを恐れ、秦の民十余万口を率いて治城から黄河を渡り、河西王沮渠蒙遜を撃ってその地を奪おうとした。吐谷渾王慕璝は益州刺史慕利延と寧州刺史拾虔に騎三万を与え、半ば渡ったところを迎え撃たせ、夏主赫連定を捕らえて帰った。
  • 秋八月、吐谷渾王慕璝が侍郎謝太寧を魏に遣わして表を奉り、赫連定を送りたいと請うた。

九年(432年)

  • 春三月壬申、吐谷渾王慕璝が赫連定を魏に送り、魏人はこれを殺した。

十一年(434年)

  • 春閏三月甲戌、赫連昌が魏に叛いて西へ逃げた。丙子、河西の侯将が討ち殺し、魏人はその弟たちもみな誅した。