通鑑紀事本末赫連氏、朔方に拠る(赫連據朔方)
劉衛辰の子の勃勃が後秦の姚興に寵遇されて朔方に鎮したのち、秦と魏の和睦を怒って沒弈干を襲殺し、大夏天王を称して自立するところから始まる。一城に拠らず騎兵で嶺北を荒らす戦法で秦を奔命に疲れさせ、斉難・楊仏嵩らを次々に破り、統万城を築いて赫連氏に改姓する。劉裕が後秦を滅ぼして東帰すると関中を奪い、灞上で帝位に即く。その残虐さを記して結ぶ、407年から419年の記。
年表(12件)
- 晉安帝
- 義熙三年407年勃勃が沒弈干を襲殺し、大夏天王を称して龍升と改元する
- 四年408年河曲に退いて秦の斉難を誘い、木城で捕らえて一万三千人を虜とする
- 五年409年貳城で親征した姚興を破り、敕奇堡など三城を陥れる
- 六年410年定陽を落として四千余人を坑にし、隴右を侵して一万六千戸を移す
- 七年411年姚詳を斬り、青石北原で楊仏嵩を破って四万五千を降す
- 八年412年姚興の危惧どおり楊仏嵩が敗れ、捕らえられて殺される
- 九年413年十万人を徴して統万城を築かせ、姓を赫連氏に改める
- 十一年415年杏城を陥れて二万人を坑にするが、赫連建は龍尾堡で捕らえられる
- 十二年416年姚興の死に乗じて上邽・陰密を落とすが、姚紹に馬鞍阪で破られる
- 十三年417年劉裕の東帰を聞き、赫連璝に騎二万を与えて長安へ向かわせる
- 十四年418年劉義真を青泥に破って長安に入り、灞上で帝位に即いて昌武と改元する
- 恭帝
- 元熙元年419年長安に南台を置いて統万へ帰り、真興と改元する
晉安帝義熙三年(407年)
- はじめ、魏王拓跋珪が劉衛辰を滅ぼすと、その子の勃勃は秦に亡命し、秦の高平公沒弈干が娘を娶らせた。勃勃は体格が大きく風采がよく、弁舌も知恵も鋭かった。秦王姚興は会って非凡と見、軍国の大事を論じ、旧勲の臣を超えて寵遇した。
- 興の弟の姚邕が「勃勃は近づけてはなりません」と諫めると、興は「勃勃には世を済う才がある。ともに天下を平らげようというのに、なぜ疑って忌むのか」と言い、安遠将軍として沒弈干を助けて高平に鎮させ、三城・朔方の雑夷と衛辰の部衆三万を配して魏の隙をうかがわせようとした。邕は強く反対したが、興が「お前はどうしてその人となりが分かるのか」と問うと、邕は「勃勃は上に仕えては傲慢、衆を御しては残忍、貪欲で狡猾で不仁、軽々しく去就を変えます。分に過ぎて寵すれば必ず辺境の患いとなりましょう」と答えた。興はいったんは取りやめた。
- しかし久しくして結局、勃勃を安北将軍・五原公とし、三交五部の鮮卑と雑虜二万余落を配して朔方に鎮させた。
- 魏主珪が捕らえていた秦将唐小方を秦に返し、秦王興は賀狄干の返還を請い、良馬千匹を送って狄伯支を贖おうとした。珪は許した。勃勃は秦が再び魏と通じたのを聞いて怒り、秦に叛こうと謀った。柔然の可汗社崙が秦に馬八十匹を献じ、大城に至ったところを勃勃が奪い取り、三万余の衆を集めて高平川で狩りをすると偽り、その隙に沒弈干を襲殺してその衆を併呑した。
- 勃勃は自ら夏后氏の末裔と称し、六月に大夏天王・大単于を名乗って大赦し、龍升と改元して百官を置いた。
- 以前、魏王珪は北部大人の賀狄干を遣わして馬千匹を献じ秦に婚を求めたが、秦王興は狄干を留め置いて婚を断った。これで秦と魏に隙が生じた。秦王興は尚書右僕射狄伯支らに魏を伐たせたが、魏王珪が自ら大軍で迎え撃ち、狄伯支と趙騎校尉唐小方らを破った。
- 冬十月、夏王勃勃が鮮卑の薛干ら三部を破り、その衆を万を数えるほど降した。さらに秦の三城以北の諸戍を攻め、秦将楊丕・姚石生らを斬った。諸将はみな「陛下が関中を経営なさるには、まず根本を固めて人心の拠り所を作るべきです。高平は山川が険固で土地も肥沃、都を定めるにふさわしい」と言った。勃勃は答えた。「卿らは一を知って二を知らぬ。わが大業は始まったばかりで兵は多くない。姚興も一代の雄で諸将はよく働く。関中はまだ図れぬ。今、一城を固守すれば彼は全力を我に向け、衆で敵うまい。滅亡は目前だ。それより驍騎で風のように駆け、不意を衝いて、前を救えば後ろを撃ち、後ろを救えば前を撃つ。彼を奔命に疲れさせ、我は遊食して悠々としていればよい。十年もせぬうちに嶺北と河東はみなわが物となる。興が死んで嗣子が暗愚になれば、ゆっくり長安を取る。それがわが計だ」。
- こうして嶺北を侵掠したので、嶺北の諸城は昼も門を開けなくなった。興は「黄児(勃勃)についての邕の言を用いなかったせいでこうなった」と嘆じた。
- 十一月、勃勃はまた青石原で秦将張仏生を破り、五千余人を捕らえ斬った。
四年(408年)
- 夏五月、秦王興が左僕射斉難に騎二万で勃勃を討たせた。
- 秋七月、勃勃は秦兵の接近を聞いて河曲に退いて守った。斉難は勃勃が遠くへ去ったと思い、兵を放って野で掠奪させた。勃勃はひそかに軍を進めて襲い、七千余人を捕らえ斬った。難が兵を引いて逃げると、勃勃は木城まで追って捕らえ、その将士一万三千人を捕虜とした。これで嶺北の夷夏で勃勃に付く者が万を数え、勃勃はみな守宰を置いて撫した。
五年(409年)
- 春正月、秦王興が弟の平北将軍姚沖と征虜将軍狄伯支らに騎四万で勃勃を撃たせた。沖は嶺北に至って長安を襲い返そうと謀ったが、伯支が従わないので取りやめ、口を封じるため伯支を毒殺した。
- 夏四月、勃勃が騎二万で秦を攻め、平涼の雑胡七千余戸を奪い取り、依力川に進み屯した。
- 秋九月、秦王興が自ら勃勃を撃ちに出て貳城に至り、安遠将軍姚詳らに租税の輸送を分担して督させた。勃勃は虚を衝いて突如襲来した。興は恐れて軽騎で姚詳らのもとへ逃れようとしたが、右僕射韋華が「もし御駕が動けば衆心は驚き恐れ、戦わずして必ず潰えます。詳の営にたどり着けるとも限りません」と止めた。興が勃勃と戦って秦兵は大敗し、将軍姚楡生が捕らえられた。左将軍姚文宗らが力戦して勃勃はようやく退き、興は長安に帰った。
- 勃勃はさらに秦の敕奇堡・黄石固・我羅城を攻めてすべて陥れ、七千余家を大城に移し、丞相の右地代に幽州牧を兼ねさせて鎮させた。
六年(410年)
- 春三月、勃勃が尚書胡金纂に平涼を攻めさせた。秦王興が平涼を救い、金纂を撃ち殺した。勃勃はまた兄の子の左将軍羅提に定陽を攻略させ、将士四千余人を坑にした。秦将の曹熾・曹雲・王肆仏らはそれぞれ数千戸を率いて内地へ移り、興は湟山と陳倉に置いた。
- 勃勃は隴右を侵して白崖堡を破り、清水へ向かった。略陽太守姚寿都は城を捨てて逃げ、勃勃はその民一万六千戸を大城に移した。興は安定から追ったが、寿渠川まで行って追いつかず引き返した。
七年(411年)
- 春正月、秦の姚詳が杏城に屯していたが勃勃に迫られ、南の大蘇へ逃げた。勃勃は平東将軍鹿弈干に追わせて斬り、その衆をことごとく捕らえた。勃勃は南に安定を攻め、青石北原で尚書楊仏嵩を破って四万五千の衆を降し、進んで東郷を落とし、三千余戸を貳城に移した。
- 秦の鎮北参軍王買徳が夏に亡命した。勃勃が秦を滅ぼす策を問うと、買徳は「秦の徳は衰えていますが藩鎮はなお固い。今しばらく力を蓄えて待つべきです」と答えた。勃勃は買徳を軍師中郎将とした。
- 秦王興は衛大将軍常山公姚顕に姚詳を迎えに行かせたが間に合わず、そのまま杏城に屯した。
八年(412年)
- 冬十月、秦王興が楊仏嵩を雍州刺史とし、嶺北の手持ちの兵を率いて夏を撃たせた。数日行軍したところで興は群臣に「仏嵩は敵を見ると勇み立って自制できぬ。私はいつも兵を五千以下に抑えていた。今は率いる兵が多いから、敵に遭えば必ず敗れる。すでに遠く行って追いつけぬ。どうしたものか」と言った。果たして仏嵩は勃勃と戦って敗れ、捕らえられて首を絞められて死んだ。
九年(413年)
- 春三月、勃勃が大赦して鳳翔と改元し、叱干阿利に将作大匠を兼ねさせ、嶺北の夷夏十万人を徴発して朔方水の北、黒水の南に都城を築かせた。勃勃は「朕はまさに天下を統一し万邦に君臨する。新城は統万と名づけよ」と言った。
- 阿利は巧妙だが残忍な性で、土を蒸して城を築き、錐が一寸でも入れば築いた者を殺してその屍ごと築き込んだ。勃勃は忠実と見て任せきりにした。兵器を造って献ずるときも必ず職人が死んだ。矢を放って甲を貫かなければ弓職人を斬り、貫けば甲職人を斬った。また銅を鋳て大鼓・飛廉・翁仲・銅駝・龍虎の像を造り、黄金で飾って宮殿の前に並べた。殺された工匠は数千人に及び、そのため器物はみな精巧で鋭利だった。
- 勃勃は、祖父が母方の姓に従って劉を名乗ったのは礼に外れると考え、古人の氏族は一定ではないとして赫連氏に改姓した。帝王は天に係わって子となるもの、その輝きは天に連なるという意である。嫡流でない者はみな鉄伐氏とし、鉄のように鋭く人を伐つに堪えるという意とした。
十一年(415年)
- 春三月、勃勃が秦の杏城を攻め落とし、守将姚逵を捕らえ、士卒二万人を坑にした。秦王興は北地に行幸し、広平公姚弼と輔国将軍斂曼嵬を新平へ向かわせ、自らは長安に帰った。
- 秋九月、夏の赫連建が秦を撃って平涼太守姚周都を捕らえ、新平に入った。広平公弼が龍尾堡で戦ってこれを捕らえた。
十二年(416年)
- 春正月、秦王興が没し、太子姚泓が即位して大赦し、永和と改元した。
- 夏六月、勃勃が騎四万で上邽を襲った。到着前に楊嵩が楊盛と竹嶺で戦って敗死した。勃勃は上邽を二十日攻めて陥れ、秦州刺史姚軍都と将士五千余人を殺し、城を毀した。進んで陰密を攻め、秦将姚良子と将士一万余人を殺し、子の赫連昌を雍州刺史として陰密に鎮させた。
- 征北将軍姚恢は安定を捨てて長安へ逃げ帰った。安定の人胡儼らが五万戸を率いて城に拠り夏に降った。勃勃は鎮東将軍羊苟児に鮮卑五千を与えて安定に鎮させ、雍城の秦の鎮西将軍姚諶を攻めた。諶は鎮を捨てて長安へ逃げ、勃勃は雍に拠って郿城を掠めた。
- 秦の東平公姚紹と征虜将軍尹昭らが歩騎五万で撃ち、勃勃は安定へ退こうとしたが、胡儼が門を閉じて拒み、羊苟児と率いていた鮮卑を殺して、再び安定を挙げて秦に降った。紹は馬鞍阪で勃勃を撃って破り、朝那まで追ったが追いつかず引き返した。勃勃は杏城に帰った。
- 楊盛がまた兄の子の楊倦に秦を撃たせて陳倉に至ったが、秦の斂曼嵬が撃退した。勃勃はまた兄の子の赫連提に南の泄陽を侵させたが、秦の車騎将軍姚裕らが撃退した。
十三年(417年)
- 勃勃は太尉劉裕の秦討伐を聞いて安定に進拠し、秦の嶺北の郡県・鎮戍はみな降った。
- 裕は秦を滅ぼして東に帰り、次子の桂陽公劉義真を都督として残した。
- 勃勃は裕の東帰を聞き、子の撫軍大将軍赫連璝を都督前鋒諸軍事として騎二万で長安へ向かわせた。
十四年(418年)
- 夏の赫連璝が渭に至り、龍驤将軍沈田子が兵を率いて防いだ。田子は王鎮悪を殺し、王脩が田子を捕らえて斬り、冠軍将軍毛脩之を鎮悪に代えた。傅弘之が赫連璝を大破し、夏兵は退いた。
- 劉義真が外の軍を長安に呼び入れると、関中の郡県はことごとく夏に降った。夏王勃勃は咸陽に進拠した。宋公裕は義真を東に召し戻し、相国右司馬朱齢石を代わりに長安に鎮させた。義真の将士は大掠奪をして東へ向かい、赫連璝が追撃した。傅弘之らが力戦したが晉兵は大敗した。夏兵が深追いしなかったので義真は免れた。長安の百姓が朱齢石を追い出し、齢石は潼関へ逃げ、勃勃は長安に入った。
- 勃勃は灞上に壇を築いて皇帝に即位し、昌武と改元した。
恭帝元熙元年(419年)
- 春二月、夏の群臣が長安を都とするよう請うた。勃勃は答えた。「朕とて長安が代々の帝王の都で、肥沃で険固なことは知らぬではない。だが晉人は遠く離れており、ついにわが患いとはならぬ。魏は我らと風俗がほぼ同じで土地も隣接し、統万から魏の境まで百余里しかない。朕が長安にいれば統万は必ず危うい。統万にいれば魏は黄河を渡って西へ来る勇気はあるまい。卿らはそこに気づかぬだけだ」。群臣はみな「及びもつきません」と言った。
- そこで長安に南台を置き、赫連璝に大将軍・雍州牧・録南台尚書事を兼ねさせた。勃勃は統万に帰って大赦し、真興と改元した。
- 勃勃は驕慢残虐な性で民を草芥のように見た。常に城上にいて弓と剣を傍らに置き、気に入らぬ者があれば自ら手を下して殺した。群臣で目を合わせた者は目をえぐり、笑った者は唇を裂き、諫めた者はまず舌を切ってから斬った。