通鑑紀事本末趙・魏、中原を乱す(冉閔の石氏滅亡を付す)(趙魏亂中原(冉閔滅石氏附))

後趙の石虎が石勒の子孫を滅ぼして位を奪い、暴政と土木・狩猟で中原を疲弊させたすえ、その死後に子らが殺し合い、養孫の石閔(冉閔)が胡羯二十余万を屠って魏を建てるまでを扱う。石虎は太子の石邃・石宣を相次いで惨殺して幼子の石世を立てたが、石遵・石鑒が次々に立っては殺され、冉閔は襄國攻めに敗れ、永和八年(352年)に慕容恪の連環馬に破れて龍城で斬られ、鄴も燕に落ちて魏は滅んだ。乗じて南下した慕容儁は伝国の璽を得たと称して皇帝に即位する。永嘉五年(311年)からの四十年。

年表(24件)

晉懷帝永嘉五年(311年)石虎の登場

  • 石勒が人に掠め売られたとき、その母の王氏と相失った。劉琨がこれを得て、使を遣わしてその從子の石虎とともに石勒に送った。当時、石虎は年十七で、残忍が無度で軍中の患であった。
  • 石勒が母に、この児は凶暴で無頼だ、軍人に殺させれば声名が惜しい、自ら除くに勝らぬと申し上げた。母は、快い牛は犢のとき多く車を破るものだ、お前は少し忍べと言った。
  • 長ずると弓馬に便で勇は当時に冠たった。石勒は征虜將軍とした。城邑を屠るたび遺類の残ることは稀であった。しかし衆を御するのに厳しくして煩わしくなく、敢えて犯す者がなかった。指授して攻め討つに向かうところ前なく、石勒はついに寵任した。

成帝咸和五年(330年)石虎の不満

  • 春二月、後趙王石勒がその子の石宏を大単于とした。中山王石虎は怒り、私に齊王石䆳に言った。主上は襄國に都して以来、端拱して成るを仰ぎ、吾が身で矢石に当たること二十余年、南に劉岳を擒にし北に索頭を走らせ、東に齊魯を平らげ西に秦雍を定め、十有三州を克って大趙の業を成したのは我である。大単于はまさに我に授けるべきなのに、今かえって黄吻の婢児に与えた。これを念うと今、人気が塞がって寝食できぬ。主上の晏駕の後を待って、種を留めるに足らぬ、と。
  • 後趙の皇太子石弘は文を属することを好み、儒素を親しみ敬った。石勒が徐光に、大雅(石弘)は愔々として殊に將家の子に似ぬと言った。徐光は、漢祖は馬上で天下を取り、孝文は玄黙でこれを守った、聖人の後には必ず残を勝ち殺を去る者があるのが天の道だと言った。石勒は甚だ悦んだ。
  • 徐光はそれに因って説いた。皇太子は仁孝温恭、中山王は雄暴で詐りが多い。陛下が一旦不諱あれば、臣は社稷が太子の有するところでなくなることを恐れる。次第に中山王の権を奪い、太子に早く朝政に参わらせるべきだ、と。石勒は心で然りとしたが従えなかった。

咸和七年(332年)程遐・徐光の警告

  • 夏四月、趙の右僕射程遐が趙主石勒に言った。中山王は勇悍で権略があり群臣に及ぶ者がない。その志を観れば陛下以外は蔑ろに視ている。加えて残賊で忍ぶに安んじ、久しく將帥となって威は外内を振るわせ、その諸子は年長でみな兵権を典っている。陛下が在ればもとより他はないが、おそらく少主の臣ではない。早く除いて大計を便ずべきだ、と。
  • 石勒は、今、天下は未だ安まらず大雅は沖幼である、強い輔けを得るべきだ、中山王は骨肉の至親で佐命の功がある、まさに伊尹・霍光の任を委ねるべきなのに、どうしてあなたの言のようになろう、あなたはまさに帝舅の権を擅にできぬことを恐れているだけだ、吾もまたあなたを顧命に参わらせる、憂え過ぎるなと言った。
  • 程遐は泣いて、臣の慮るところは公家である、陛下はかえって私計でこれを拒まれる、忠言は何から入れようかと言った。中山王は皇太后に養われたとはいえ陛下の天属ではない。微功があっても陛下がその父子に酬いた恩栄はもう足りている。それでいてその志願は極まりない。どうして将来に益ある者であろうか。除かねば、臣は宗廟が血食せぬのを見ることになる、と。石勒は聴かなかった。
  • 程遐は退いて徐光に告げた。徐光は、中山王は常に吾ら二人に切歯している、ただ国を危うくするだけでなく、まさに家の禍ともなろうと言った。
  • 後日、徐光が間を承けて石勒に、今、国家に事がないのに陛下の神色に怡ばぬところがあるようなのはなぜかと言った。石勒は、吳蜀が未だ平らがず、吾は後世が吾を受命の王としないことを恐れると言った。
  • 徐光は答えた。魏は漢の運を承けた。劉備が蜀に興ったとはいえ、漢がどうして亡ばなかったと言えよう。孫権が吳にあったのは今の李氏のようなものだ。陛下は二都を苞括し八州を平蕩された。帝王の統が陛下にないなら、また誰にあろう。しかも陛下は腹心の疾を憂えずかえって四支を憂われるのか。中山王は陛下の威略に藉って向かうところそのたび克ち、天下はみなその英武が陛下に亞ぐと言っている。しかもその資性は不仁で利を見て義を忘れ、父子が並んで権位に拠って勢は王室を傾け、それでいて耿々として常に満たぬ心がある。近ごろ東宮の侍宴で皇太子を軽んずる色があった。臣は陛下の万年の後に再び制せられなくなることを恐れる、と。
  • 石勒は黙然として、初めて太子に尚書の奏事の可否を省させ、しかも中常侍嚴震に参綜して可否させ、ただ征伐・断斬の大事だけをこれに呈させた。そこで嚴震の権は主・相を過ぎ、中山王石虎の門には雀の羅を設けられるほどになった。石虎はいよいよ怏々として悦ばなかった。

咸和八年(333年)石勒の死と石虎の専権

  • 夏六月、趙主石勒が病に臥せた。中山王石虎が入って禁中に侍り、詔を矯めて群臣・親戚はみな入れぬこととし、疾の増損は外に知る者がなかった。また詔を矯めて秦王石宏・彭城王石堪を襄國に召し還した。
  • 石勒の疾が少し瘳えて石宏を見て驚き、吾は王に藩鎮に処らせてまさに今日に備えたのだ、王を召した者があるのか、それとも自ら来たのか、召した者があるなら按じて誅すべきだと言った。石虎は懼れて、秦王が思慕して暫く還ったのだ、今遣わすと言い、なお留めて遣わさなかった。
  • 数日して再び問うと、石虎は、詔を受けてすぐ遣わした、今はもう半道だと言った。
  • 廣阿に蝗があった。石虎は密かにその子の冀州刺史石䆳に騎三千を帥いさせて蝗の所に遊ばせた。
  • 秋七月、石勒の疾が篤くなり、遺命して、大雅兄弟はよく相保つべきだ、司馬氏はお前たちの前車である、中山王は深く周公・霍光を思い、将来の口実となるなと述べた。
  • 戊辰、石勒が死去した。中山王石虎は太子石弘を劫して軒に臨ませ、右光禄大夫程遐・中書令徐光を収めて廷尉に下し、石䆳を召して兵を将いて入り宿衛させた。文武はみな奔り散った。
  • 石弘は大いに懼れ、自ら劣弱を陳べて位を石虎に譲った。石虎は、君が終わって太子が立つのは礼の常であると言った。石弘が涕泣して固く譲ると、石虎は怒って、もし重任に堪えぬのなら天下に自ずと大義がある、どうして予め論ずるに足ろうかと言った。
  • 石弘はそこで即位して大赦し、程遐・徐光を殺した。夜に石勒の喪を潜かに山谷に瘞め、その処を知る者はなかった。己卯、儀衛を備えて虚しく髙平陵に葬り、明帝と諡して廟号を髙祖とした。
  • 趙の將石聦および譙郡太守彭彪がそれぞれ使を遣わして来降した。石聦はもと晉人で冒って石氏を姓としていた。朝廷は督護喬球を遣わして兵を将いて救わせたが、着かぬうちに石聦らは石虎に誅された。
  • 秋八月、趙主石弘が中山王石虎を丞相・魏王・大単于として九錫を加え、魏郡など十三郡を国とし、百揆を総摂させた。石虎はその境内を赦し、妻の鄭氏を魏王后に立て、子の石䆳を魏の太子として使持節・侍中・都督中外諸軍事・大將軍・録尚書事を加え、次子の石宣を使持節・車騎大將軍・冀州刺史として河間王に封じ、石韜を前鋒將軍・司隷校尉として樂安王に封じ、石遵を齊王、石鑒を代王、石苞を樂平王に封じ、平原王石斌を徙して章武王とした。
  • 石勒の文武の旧臣はみな散任に補し、石虎の府寮・親党はことごとく台省の要職に署した。鎮軍將軍夔安に領左僕射、尚書郭殷を右僕射とした。太子の宮を改めて崇訓宮と命名し、太后劉氏以下はみなここに徙し居らせた。石勒の宮人および車馬・服玩で美なるものを選んでみな丞相府に入れた。
  • 趙の劉太后が彭城王石堪に言った。先帝がやっと晏駕したばかりで丞相が急に陵ぎ藉ることこの通りである。帝祚の亡はおそらく再び久しくない。王はどうするつもりか、と。
  • 石堪は、先帝の旧臣はみな疎み斥けられ、軍旅は再び人に由らず、宮省の内に為しうる者はない、臣は兖州に奔って南陽王石恢を挟んで盟主とし、廩丘に拠って太后の詔を牧守・征鎮に宣べ、それぞれ兵を挙げて暴逆を誅させたい、どうにか済すところがあろうと答えた。劉氏は、事は急である、速やかにこれを為せと言った。
  • 九月、石堪が微服して軽騎で兖州を襲ったが克てず、南に譙城に奔った。丞相石虎がその將郭太を遣わして追わせ、石堪を城父で獲て襄國に送り、炙って殺した。南陽王石恢を徴して襄國に還した。劉氏の謀が漏れ、石虎は廃して殺した。石弘の母の程氏を皇太后と尊んだ。
  • 石堪はもと田氏の子で度々功があり、趙主石勒が養って子とした。劉氏は胆略があり、石勒は毎度これと軍事を参決した。石勒が功業を建てるのを佐け、呂后の風があったが妬忌なく、さらにこれに過ぎた。
  • 趙の河東王石生が關中を鎮し、石朗が洛陽を鎮していた。冬十月、石生・石朗がみな兵を挙げて丞相石虎を討った。石生は自ら秦州刺史を称して使を遣わして来降した。氐帥の蒲洪は自ら雍州刺史を称して西に張駿に附いた。
  • 石虎は太子石䆳を留めて襄國を守らせ、歩騎七万を将いて石朗を金墉で攻めた。金墉は潰え、石朗を獲て刖して斬った。進んで長安に向かい、梁王石挺を前鋒大都督とした。
  • 石生が將軍郭權に鮮卑の渉璝の衆二万を帥いさせて前鋒として拒がせ、石生は大軍を将いて継ぎ発ち、蒲阪に軍した。郭權が石挺と潼關で戦って大破し、石挺および丞相左長史劉隗はみな死んだ。石虎は還って澠池に奔り、尸を枕すること三百余里であった。
  • 鮮卑が潜かに石虎と通謀して反って石生を撃った。石生は石挺が既に死んだことを知らず、懼れて単騎で長安に奔った。郭權は余衆を収めて退いて渭汭に屯した。石生はそのまま長安を棄てて鷄頭山に匿れた。將軍蔣英が長安に拠って拒み守り、石虎が進兵して蔣英を撃って斬った。石生の麾下が石生を斬って降り、郭權は隴右に奔った。
  • 石虎は襄國に還って大赦した。趙主石弘が石虎に魏臺を建てるよう命じ、一切、魏の武王が漢を輔けた故事のようにした。
  • 十二月、郭權が上邽に拠って使を遣わして来降した。京兆・新平・扶風・馮翊・北地がみなこれに応じた。

咸和九年(334年)石弘の廃位

  • 春三月、趙の丞相石虎がその將郭敖および章武王石斌に歩騎四万を帥いさせて西に郭權を撃たせ、華陰に軍した。
  • 夏四月、上邽の豪族が郭權を殺して降り、石虎は秦州の三万余戸を青・并の二州に徙した。
  • 長安の人陳良夫が黒羌に奔り、北羌王薄句大らと北地・馮翊を侵擾した。章武王石斌・樂安王石韜が合撃して破り、薄句大は馬蘭山に奔った。郭敖が勝に乗じて北を逐い、羌に敗れて死者は十のうち七、八となった。石斌らは軍を収めて三城に還った。石虎は使を遣わして郭敖を誅した。秦王石宏に怨言があり、石虎は幽した。
  • 冬十月、趙主石弘が自ら璽綬を齎して魏宮に詣り、丞相石虎に位を禅ることを請うた。石虎は、帝王の大業は天下が自ずと議するものだ、どうして自ら論ずるのかと言った。石弘は涕を流して宮に還り、太后程氏に、先帝の種は真に再び遺るものがなくなったと言った。
  • そこで尚書が奏し、魏臺が唐虞禅譲の故事に依ることを請うた。石虎は、石弘は愚暗で喪に居って無礼である、万国に君たれぬ、そのまま廃すべきだ、何の禅譲かと言った。
  • 十一月、石虎が郭殷に節を持たせて宮に入らせ、石弘を廃して海陽王とした。石弘は安らかに歩いて車に就き、容色は自若として群臣に、庸昧で大統を纂承するに堪えぬ、また何を言おうかと言った。群臣は涕を流さぬ者なく、宮人は慟哭した。
  • 群臣が魏臺に詣って進むよう勧めた。石虎は、皇帝は盛徳の号である、敢えて当たるところでない、しばらく居摂趙天王と称してよいと言った。
  • 石弘および太后程氏・秦王石宏・南陽王石恢を崇訓宮に幽し、ほどなくみな殺した。
  • 西羌大都督姚弋仲は疾と称して賀さなかった。石虎が累ねて召してようやく至り、正色して石虎に、弋仲は常に大王を命世の英雄と思ってきた、どうして臂を把られて託を受けながら、かえってこれを奪うのかと言った。石虎は、吾がどうしてこれを楽しむものか、ただ海陽が年少で家事を了えられぬことを恐れて代わっただけだと言った。心は平らかでなかったが、その誠実を察してこれを罪しなかった。
  • 石虎は夔安を侍中・太尉・守尚書令、郭殷を司空、韓晞を尚書左僕射、魏郡の申鍾を侍中、郎闓を光禄大夫、王波を中書令とし、文武の封拝はそれぞれ差があった。石虎は信都に行き、再び襄國に還った。

咸康元年(335年)

  • 秋九月、趙王石虎が都を鄴に遷して大赦した。
  • 天竺の僧佛圖澄を奉じた。

咸康二年(336年)土木の濫費

  • 冬十一月、趙王石虎が太武殿を襄國に作り、東西の宮を鄴に作った。十二月、みな成った。
  • 太武殿の基は高さ二丈八尺、縦六十五歩、広七十五歩、文石で甃み、下に伏室を穿って衛士五百人を置いた。漆で瓦を灌ぎ、金の璫・銀の楹・珠の簾・玉の璧で、工巧を窮め極めた。殿上に白玉の牀と流蘇の帳を施し、金の蓮華を作って帳の頂に冠せた。
  • また九殿を顯陽殿の後に作り、士民の女を選んでこれに実たし、珠玉を服し綺縠を被る者は一万余人であった。宮人に星気の占い、馬歩の射を教え、女太史および雑伎・工巧を置き、みな外と同じくした。女騎千人を鹵簿とし、みな紫の綸巾・熟錦の袴・金銀鏤の帯・五文織成の鞾を著け、羽儀を執り鼓を鳴らして吹かせ、遊宴に自ら随わせた。
  • そこで趙は大旱となり、金一斤が粟二斗に相当した。百姓は嗷然としたが、石虎は用兵を息めず百役を並び興した。
  • 牙門將張彌に洛陽の鍾虡・九龍・翁仲・銅駝・飛廉を鄴に徙させた。四輪の纒輞の車に載せ、車轍は広さ四尺・深さ二尺、一つの鍾が河に没した。浮沈できる者三百人を募って河に入らせ竹の絙で繋ぎ、牛百頭と鹿櫨で引いてようやく出した。万斛の舟を造ってこれを済した。鄴に至ると石虎は大いに悦び、これのために二歳の刑を赦し、百官に穀と帛を賚い、民に爵一級を賜った。
  • また尚方令解飛の言を用い、鄴の南で石を河に投じて飛橋を作った。功費は数千万億、橋はついに成らず、役夫の飢が甚だしくなってようやく止めた。
  • 令長に民を帥いて山澤に入り橡および魚を採らせて食を佐けさせたが、また権豪に奪われて民は得るところがなかった。

咸康三年(337年)大趙天王と太子邃の誅

  • 春正月庚辰、趙の太保夔安ら文武五百余人が入って尊号を上った。庭の燎の油が下の盤に灌いで死者は二十余人であった。趙王石虎はこれを憎み、成公叚を腰斬した。
  • 辛巳、石虎が殷周の制に依って大趙天王を称し、南郊で即位して大赦した。その后鄭氏を天王皇后、太子石䆳を天王皇太子に立て、諸子で王であった者はみな降して郡公とし、宗室で王であった者は降して県侯とした。百官の封署はそれぞれ差があった。
  • 趙の太子石邃はもとより驍勇で、趙王石虎は愛して常に群臣に、司馬氏は父子兄弟が自ら相残滅した、それゆえ朕をここに至らせた、朕に阿鐵(石邃)を殺す理があろうかと言っていた。
  • やがて石䆳は驕淫残忍となり、美姫を粧飾してその首を斬り、血を洗って盤上に置いて賓客に伝え観させることを好み、またその肉を烹て共に食べた。
  • 河間公石宣・樂安公石韜はみな石虎に寵され、石䆳はこれを疾むこと讎のようであった。
  • 石虎は酒色に荒れ耽り喜怒に常なく、石䆳に尚書の事の可否を省させたが、関白するところがあるたび石虎は恚って、これは小事だ、どうして申し上げるに足ろうかと言った。時に聞かせぬこともあり、また恚って、なぜ申し上げぬのかと言った。誚責・笞捶は月に再三に至った。
  • 石䆳は私に中庶子李顔らに、官家は称いがたい、吾は冒頓の事を行いたい、あなたたちは我に従うかと言った。李顔らは伏して敢えて答えなかった。
  • 秋七月、石䆳は疾と称して事を視ず、潜かに宮臣・文武五百余騎を帥いて李顔の別舍で飲み、それに因って李顔らに、我は冀州に至って河間公を殺したい、従わぬ者は斬ると言った。数里行って騎はみな逃げ散り、李顔が叩頭して固く諫め、石䆳も昏酔して帰った。
  • その母の鄭氏がこれを聞いて私に中人を遣わして石䆳を誚め讓めた。石䆳は怒って殺した。
  • 佛圖澄が石虎に、陛下は度々東宮に往くべきでないと言った。石虎は石䆳の疾を視ようとして佛圖澄の言を思って還ったが、やがて目を瞋らせて大言し、我は天下の主だ、父子が相信じられぬのかと言い、そこで親信の女尚書に往って察させた。石䆳は呼んで前に来させて語り、それに因って剣を抽いて撃った。
  • 石虎は怒って李顔らを収めて詰問し、李顔が具にその状を言った。李顔ら三十余人を殺し、石䆳を東宮に幽した。やがて赦し、太武東堂に引見した。石䆳は朝したが謝さず、俄頃してすぐ出た。石虎が人に、太子は中宮に朝すべきだ、どうして急に去れるのかと言わせた。石䆳は直に出て顧みなかった。
  • 石虎は大いに怒って石䆳を廃して庶人とし、その夜、石䆳およびその妃張氏ならびに男女二十六人を殺し、同じく一つの棺に埋め、その宮臣・支党二百余人を誅した。鄭后を廃して東海太妃とし、その子の石宣を天王皇太子に立て、石宣の母の杜昭儀を天王皇后とした。

咸康五年(339年)

  • 秋七月、趙王石虎が太子石宣を大単于として天子の旌旗を建てさせた。

咸康六年(340年)二政分権

  • 春三月、趙王石虎が秦公石韜を太尉として太子石宣と日を迭えて尚書の奏事を省可させ、賞刑を専決させて再び啓白させなかった。
  • 司徒申鍾が諫めた。賞刑は人君の大柄で人に仮すべきでない。それで微を防ぎ漸を杜ぎ、逆乱を未然に消すのだ。太子の職は膳を視ることにあり政に与るべきでない。庶人石邃は政に与って敗を致した。覆車は遠くない。しかも二政が権を分ければ禍に階らぬことは稀である。愛するのに道によらねば、まさに害することになる、と。石虎は聴かなかった。
  • 中謁者令申扁は慧悟で辯給があって石虎に寵され、石宣も昵んで機密を典らせた。石虎は既に事を省ず、石宣・石韜はみな酣飲・畋猟を好んだので、これによって除拜・生殺はみな申扁に決せられ、九卿以下はおおむねみな塵を望んで拝した。
  • 太子詹事孫珍が目を病んで侍中崔約に方を求めた。崔約は戯れて、溺(小便)の中に浸せば癒えると言った。孫珍が、目をどうして溺せるのかと言うと、崔約は、あなたの目は睕々としてまさに溺の中に耐えると言った。孫珍はこれを恨んで石宣に申し上げた。石宣は兄弟のなかで最も胡の状で目が深く、これを聞いて怒り、崔約父子を誅した。そこで公卿以下は孫珍を畏れて側目した。

咸康八年(342年)役役の極み

  • 冬十二月、趙王石虎が臺観四十余所を鄴に作り、また長安・洛陽の二宮を営み、作る者は四十余万人であった。また鄴から閣道を起こして襄國に至らせようとした。
  • 河南の四州に南伐の備えを治めさせ、并・朔・秦・雍に西討の資を厳しくさせ、青・冀・幽州を東征の計とし、みな三五の割で卒を発した。諸州の軍で甲を造る者は五十余万人、船夫十七万人、水に没し虎狼に食われた者は三分の一を占めた。加えて公侯・牧宰が競って私利を営み、百姓は業を失って愁い困じた。
  • 貝丘の人李弘が衆心の怨に因って、自ら姓名が讖に応ずると言い、党与を連結して百寮を署置した。事が発いて誅され、連坐した者は数千家であった。
  • 石虎は畋猟が無度で、晨に出て夜に帰り、また多く微行して躬ら作役を察した。侍中の京兆人韋謏が諫めて、陛下は天下の重きを忽せにして軽々しく斤斧の間を行かれる、突如狂夫の変があれば、智勇があってもどこに施せよう、また役を興すのに時なく民の耘り穫るのを廃させ、吁嗟が路に盈ちている、おそらく仁聖の忍んで為すところではあるまいと言った。石虎は韋謏に穀と帛を賜ったが、興繕はいよいよ繁く、遊察は自若としていた。
  • 秦公石韜が石虎に寵され、太子石宣はこれを憎んだ。右僕射張離が領五兵尚書となり、石宣に媚びることを求めようとして説き、今、諸侯の吏兵は限を過ぎている、次第に裁め省いて本根を壮んにすべきだと言った。石宣は張離に奏を作らせ、秦・燕・義陽・樂平の四公は吏一百九十七人・帳下兵二百人を置くことを聴し、これ以下は三分して一を置き、余った兵五万をことごとく東宮に配した。そこで諸公はみな怨み、嫌釁はいよいよ深くなった。
  • 青州が上言して、濟南平陵城の北の石虎が一夕で城の東に移り、南に狼狐千余の迹がこれに随い、迹はみな蹊を成したと述べた。石虎は喜んで、石虎は朕である、西北から徙って東南したのは、天意が朕に江南を平蕩させようとするものだと言った。諸州の兵に明年ことごとく集まるよう敕し、朕がまさに親しく六師を董して天命を奉ずると述べた。群臣はみな賀し、皇徳の頌を上る者は一百七人であった。
  • 征士五人が車一乗・牛二頭・米十五斛・絹十匹を出す制とし、調を辦じられぬ者は斬った。民は子を鬻いで軍須に供するに至ってもなお給せられず、道の樹で自ら経れる者が相望んだ。

康帝建元二年(344年)

  • もともと趙の領軍王朗が趙王石虎に、盛冬で雪は寒いのに皇太子が人に宮の材を伐らせて漳水に引かせ、役者は数万で吁嗟が道に満ちている、陛下は出遊に因って罷めるべきだと言い、石虎は従った。太子石宣は怒った。
  • 折しも熒惑が房を守った。石宣は太史令趙攬に石虎へ、房は天王である、今、熒惑がこれを守った、その殃は細くない、貴臣で王姓の者にこれに当たらせるべきだと言わせた。石虎が誰がよいかと問うと、趙攬は、王領軍より貴い者はないと答えた。石虎は意で王朗を惜しみ、趙攬に改めてその次を言わせた。趙攬は答えるところなく、それに因って、その次はただ中書監王波だけだと言った。石虎はそこで詔を下して王波の前の楛矢の議の罪を追い、腰斬してその四子とともに尸を漳水に投じた。やがてその罪なきを愍み、追って司空を贈り、その孫を侯に封じた。
  • 石虎が橋を靈昌津に作り、功を五百余万用いたが成らず、匠を斬って罷めた。

穆帝永和元年(345年)暴政の極致

  • 春正月、趙王石虎が樂平公石苞を代えて長安を鎮させ、雍・洛・秦・并州の十六万人を発して長安の未央宮を治した。
  • 石虎は猟を好み、晩歳は体が重くて馬に跨がれなくなり、そこで猟車千乗を造り、期を刻して校猟した。靈昌津の南から滎陽に至り東は陽都を極めるまでを猟場とし、御史に監察させた。その中の禽獸に犯すところがあれば罪は大辟に至った。民に美女や佳い牛馬があれば御史が求めて得られぬと、みな獸を犯したと誣り、死を論ぜられた者は百余人であった。
  • 諸州の二十六万人を発して洛陽宮を修め、百姓の牛二万頭を発して朔州の牧官に配した。女官を二十四等に増置し、東宮は十二等、公侯七十余国はみな九等とし、大いに民の女三万余人を発して料って三等とし配した。太子と諸公が私に采発を令した者もまた一万人ほどであった。郡県は美色を務め求め、多く人の妻を強奪し、その夫を殺し、および夫が自殺した者は三千余人であった。
  • 鄴に至って石虎は軒に臨んで簡第し、使者で能ある者として侯に封じた者は十二人であった。荆・楚・揚・徐の民は流れ叛いてほぼ尽き、守令で綏懷できなかったことに坐して獄に下され誅された者は五十余人であった。
  • 金紫光禄大夫逯明が侍るに因って切に諫めた。石虎は大いに怒って龍騰に拉き殺させた。

永和二年(346年)蒲洪の諫言

  • 夏五月、趙の中黄門嚴生が尚書朱軌を憎んだ。折しも久雨があり、嚴生は朱軌が道路を修めず、また朝政を謗訕したと譛した。趙王石虎はこれを囚えた。
  • 蒲洪が諫めた。陛下は既に襄國・鄴の宮があり、また長安・洛陽の宮殿を修めている。何に用いようというのか。猟車千乗を作り数千里を環らせて禽獸を養い、人の妻女十万余口を奪って後宮を実たしている。聖帝明王の為すところがもとよりこの通りであろうか。今また道路が修まらぬとして尚書を殺そうとされる。陛下が徳政を修めぬので天が淫雨を降し、七旬でようやく霽れた。霽れてまだ二日である。鬼兵百万があってもなお道路の塗潦を去れぬ。まして人はどうか。政と刑がこの通りで、四海をどうするのか、後代をどうするのか。作徒を止め苑囿を罷め宮女を出し朱軌を赦して衆望に副われたい、と。
  • 石虎は悦ばなかったがこれを罪せず、これのために長安・洛陽の作役を罷めた。しかしついに朱軌を誅した。
  • また私に朝政を論ずる法を立て、吏がその君を告げ奴がその主を告げることを聴した。公卿以下は朝覲で目で相顧みるだけで、敢えて再び相過ぎ從って談語しなかった。

永和三年(347年)華林苑と石宣の狩猟

  • 趙王石虎は十州の地に拠り、金帛および外国の献じた珍異を聚め斂め、府庫の財物は記し尽くせなかった。それでもなお自ら足らずとして、前代の陵墓をことごとく発いてその金宝を取った。
  • 沙門の吳進が石虎に、胡の運はまさに衰え晉がまさに復興しようとしている、晉人を苦役してその気を厭させるべきと言った。石虎は尚書張羣に近郡の男女十六万人・車十万乗を発して土を運ばせ、華林苑および長い牆を鄴の北に築かせた。広袤は数十里であった。
  • 申鍾・石璞・趙攬らが上疏して天文の錯乱と百姓の彫弊を陳べた。石虎は大いに怒って、苑の牆を朝に成らせられれば吾は夕に没しても恨みはないと言い、張羣を促して燭を然して夜に作らせた。暴風大雨で死者は数万人であった。
  • 郡国が前後に蒼麟十六・白鹿七を送った。石虎は司虞張曷柱に命じてこれを調え、芝蓋を駕させ、大朝会で殿庭に列べさせた。
  • 九月、太子石宣に出て福を山川に祈らせ、それに因って遊猟させた。石宣は大輅に乗り羽葆・華蓋、天子の旌旗を建て、十六軍の戎卒十八万を金明門から出した。石虎はその後宮に從って陵霄観に升って望み見、笑って、我が家の父子はこの通りだ、天が崩れ地が陥ちるのでなければまた何を愁えよう、ただ子を抱き孫を弄んで日々楽しむだけだと言った。
  • 石宣は舎るところそのたび人を列べて長い囲みとし、四面各百里で禽獸を駆り、暮れになるとみなその所に集め、文武を跪き立たせ重ねて行らせて囲み守らせ、炬火は昼のようであった。勁騎百余に命じてその中を馳せ射させ、石宣は姫妾と輦に乗って臨み観、獸が尽きて止めた。獸が迸り逸れることがあれば、囲みを守る当番の者に爵があれば馬を奪って歩いて駆らせ、一日爵がなければ鞭百とした。士卒で飢え凍え死んだ者は一万有余人であった。過ぎた三州十五郡の資儲はみな孑遺がなかった。
  • 石虎は再び秦公石韜に命じて継いで并州から出て秦・雍に至らせ、これもまた同じくした。石宣はそれが自分と鈞しく敵することを怒り、いよいよこれを嫉んだ。宦者趙生が石宣に幸され石韜に寵がなく、微かに石宣に除くよう勧めた。そこで初めて石韜を殺す謀が生じた。

永和四年(348年)石宣の誅と石世の立太子

  • 趙の秦公石韜が趙王石虎に寵され、これを立てようとしたが、太子石宣が長であることから猶豫して決しなかった。石宣がかつて旨に忤らったとき、石虎は怒って、石韜を立てなかったことを悔いると言った。石韜はこれによっていよいよ驕り、堂を太尉府に造って宣光殿と号し、梁の長さは九丈であった。石宣は見て大いに怒り、匠を斬り梁を截って去った。石韜は怒って増して十丈に至らせた。
  • 石宣はこれを聞いて幸するところの楊柸・牟成・趙生に、凶豎が傲愎で敢えてこうした、汝らがこれを殺せるなら、吾が西宮に入って石韜の国邑をことごとく分けて汝らに封じよう、石韜が死ねば主上は必ず喪に臨む、吾はそれに因って大事を行う、済せぬことはないと言った。楊柸らは許諾した。
  • 秋八月、石韜が夜に僚属と東明観で宴し、それに因って佛精舎に宿した。石宣は楊柸らに獼猴梯に縁って入らせて石韜を殺し、その刀と箭を置いて去らせた。
  • 翌日、石宣がこれを奏した。石虎は哀しみ驚いて気が絶え、久しくしてようやく蘇り、出てその喪に臨もうとした。司空李農が諫めて、秦公を害した者はまだ何人か知れぬ、賊は京師にある、鑾輿は軽々しく出るべきでないと言い、石虎はそこで止め、兵を厳しくして太武殿で哀を発した。
  • 石宣は往って石韜の喪に臨んだが哭さず、ただ「呵呵」と言い、衾を挙げさせて尸を観、大笑して去った。大將軍記室参軍鄭靖・尹武らを収め、罪を委ねようとした。
  • 石虎は石宣が石韜を殺したと疑って召そうとしたが、入らぬことを恐れ、そこでその母の杜后が哀が過ぎて危惙だと偽り言った。石宣は疑われているとは思わず、入朝して中宮に至り、それに因って留められた。
  • 建興の人史科がその謀を知って告げた。石虎は楊柸・牟成を収めさせたがみな亡げ去った。趙生を獲て詰ると具に服した。石虎の悲しみと怒りはいよいよ甚だしく、石宣を席庫に囚え、鉄環でその頷を穿って鏁し、石韜を殺した刀と箭を取ってその血を舐り、哀号は宮殿を震動させた。
  • 佛圖澄が、石宣・石韜はみな陛下の子である、今、石韜のために石宣を殺すのは禍を重ねることだ、陛下がもし慈恕を加えられれば福祚はなお長い、必ず誅されるなら石宣はまさに彗星となって下って鄴の宮を掃うだろうと言った。石虎は従わなかった。
  • 柴を鄴の北に積み、標をその上に樹て、標の末に鹿盧を置いて縄を穿ち、梯を柴の積みに倚せて石宣を送り、その下で石韜の幸した宦者の郝稚・劉霸にその髪を抜きその舌を抽き、牽いて梯に登らせた。郝稚が縄でその頷を貫き鹿盧で絞り上げ、劉霸がその手足を断ち眼を斫り膓を潰し、石韜の傷のようにした。四面から火を縦け、煙炎は天に際った。石虎は昭儀以下数千人と中臺に登ってこれを観た。
  • 火が滅えると灰を取って諸門の交道の中に分け置き、その妻子九人を殺した。石宣の小子はわずか数歳で、石虎はもとより愛しており、抱いて泣いて赦そうとしたが、その大臣が聴かず、抱の中から取って殺した。児は石虎の衣を挽いて大いに叫び、帯が絶えるに至った。石虎はこれによって発病した。
  • また石宣の后杜氏を廃して庶人とし、その四率以下三百人・宦者五十人を誅し、みな車裂・節解して漳水に棄て、その東宮を洿して豬牛を養い、東宮の衛士十余万人はみな謫して涼州を戍らせた。
  • これに先立ち散騎常侍趙攬が石虎に、宮中にまさに変があろう、備えるべきと言っていた。石宣が石韜を殺すと、石虎はその知って告げなかったことを疑い、これも誅した。
  • 秋九月、趙王石虎が太子を立てることを議した。太尉張舉が、燕公石斌は武略があり彭城公石遵は文徳がある、ただ陛下の択ばれるところにと言った。石虎は、あなたの言はまさに吾の意を起こすと言った。
  • 戎昭將軍張豺が、燕公の母は賤しく、また過ちがあった、彭城公の母は前に太子の事で廃された、今これを立てれば臣は微恨なきをえぬことを恐れる、陛下は審らかに思われたいと言った。
  • もともと石虎が上邽を抜いたとき、張豺は前趙主劉曜の幼女の安定公主を獲た。殊なる色があり石虎に納れ、石虎は嬖して齊公石世を生んだ。張豺は石虎が老病であることから石世を嗣に立てようとし、劉氏が太后となれば自分が輔政を得られることを冀い、そこで石虎に説き、陛下は再び太子を立てられたが、その母はみな倡賤から出た、それゆえ禍乱が相尋いだ、今は母が貴く子が孝な者を択んで立てるべきだと言った。石虎は、あなたは言うな、吾は太子の処を知ったと言った。
  • 石虎は再び群臣と東堂で議した。石虎は、吾は純灰三斛で自らその膓を滌ぎたい、なぜ専ら悪しき子を生むのか、年が二十を踰えるとそのたび父を殺そうとする、今、石世はまさに十歳、その二十に比べれば吾は既に老いていると言った。
  • そこで張舉・李農と議を定め、公卿に上書して石世を太子に立てることを請わせた。大司農曹莫が署名を肯じなかった。石虎が張豺にその故を問わせると、曹莫は頓首して、天下の重器は少を立てるべきでない、それゆえ敢えて署さぬと言った。石虎は、曹莫は忠臣である、しかし朕の意に達していない、張舉・李農は朕の意を知っている、諭させてよいと言った。ついに石世を太子に立て、劉昭儀を后とした。

永和五年(349年)石虎の死と後継争い

  • 春正月、趙王石虎が皇帝の位に即き、大赦して太寧と改元し、諸子はみな爵を進めて王とした。
  • 冠軍大將軍姚弋仲が鄴に至って石虎に会見を求めた。石虎は病であった。姚弋仲は石虎を讓めて、児が死んだから愁えるのか、なぜ病むのか、児が幼い時に善人を択んで教えず、逆をなす座に坐らせ、既に逆をなしてこれを誅した、また何を愁えるのか、しかも汝は久しく病んで立てた児は幼い、汝がもし癒えなければ天下は必ず乱れる、まずこれを憂うべきで、賊を憂えるなと言った。
  • 夏四月乙卯、趙主石虎の病が甚だしくなり、彭城王石遵を大將軍として關右を鎮させ、燕王石斌を丞相・録尚書事、張豺を鎮衛大將軍・領軍將軍・吏部尚書とし、並んで遺詔を受けて輔政させた。
  • 劉后は石斌の輔政を憎み、太子に不利となることを恐れ、張豺と除くことを謀った。石斌は当時襄國にあり、使を遣わして偽って石斌に、主上の疾は既に次第に癒えた、王は猟を須るなら少し停まってよいと言わせた。石斌はもとより猟を好み酒を嗜んだので、そのまま留まって猟し、しかも酒を縦にした。劉氏と張豺はそれに因って詔を矯めて、石斌に忠孝の心がないとして官を免じ第に帰らせ、張豺の弟の張雄に龍騰五百人を帥いて守らせた。
  • 乙丑、石遵が幽州から鄴に至った。朝堂で拝を受けるよう敕し、禁兵三万を配して遣わした。石遵は涕泣して去った。
  • この日、石虎の疾が少し瘳え、石遵は至ったかと問うた。左右は、去ってもう久しいと答えた。石虎は、見られなかったのが恨みだと言った。
  • 石虎が西閤に臨むと、龍騰中郎二百余人が前に列び拝した。石虎が何を求めるのかと問うと、みな、聖体が安からぬので燕王を入れて宿衛させ兵馬を典らせるべきだと言い、あるいは皇太子とすることを乞うと言った。石虎は、燕王は内にいないのかと言い、召して来させようとした。左右が、王は酒の病で入れぬと言った。石虎は、急ぎ輦を持って迎えよ、璽綬を付すべきだと言った。しかしついに行く者はなかった。ほどなく惛眩して入った。
  • 張豺が張雄に詔を矯めて石斌を殺させた。
  • 戊辰、劉氏が再び詔を矯めて張豺を太保・都督中外諸軍・録尚書事とし、霍光の故事のようにした。侍中徐統が歎じて、乱がまさに起こるだろう、吾はこれに与わることを為さぬと言い、薬を仰いで死んだ。
  • 己巳、石虎が死去し、太子石世が即位した。劉氏を皇太后と尊び、劉氏が朝に臨んで制を称した。張豺を丞相としたが、張豺は辞して受けず、彭城王石遵・義陽王石鑒を左右の丞相とすることを請ってその心を慰めた。劉氏は従った。
  • 張豺は太尉張舉と司空李農を誅すことを謀った。張舉はもとより李農と善く、密かにこれを告げた。李農は廣宗に奔り、乞活数万家を帥いて上白に堡した。劉氏は張舉に宿衛の諸軍を統べて囲ませた。張豺は張離を鎮軍大將軍・監中外諸軍事として自らの副とした。
  • 彭城王石遵が河内に至って喪を聞いた。姚弋仲・蒲洪・劉寧および征虜將軍石閔・武衛將軍王鸞らが共に石遵に説いた。殿下は長でしかも賢である。先帝もまた殿下を嗣とする意があった。まさに末年に惛惑して張豺に誤られただけである。今、女主が朝に臨み姦臣が事を用い、上白で相持して未だ下らず、京師の宿衛は空虚である。殿下がもし張豺の罪を声にして鼓を鳴らして討たれれば、誰が門を開き戈を倒して殿下を迎えぬだろう、と。石遵は従った。
  • 五月、石遵が李城から兵を挙げて還って鄴に趨った。洛州刺史劉國が洛陽の衆を帥いて往って会した。
  • 檄が鄴に至り、張豺は大いに懼れ、馳せて上白の軍を召した。丙戌、石遵が蕩陰に軍し、戎卒九万、石閔を前鋒とした。
  • 張豺が出て拒もうとしたが、耆旧の羯士はみな、彭城王は喪に奔って来たのだ、吾らは出て迎えるべきで、張豺のために城を守れぬと言い、城を踰えて出た。張豺は斬ったが止められなかった。張離もまた龍騰二千を帥いて關を斬って石遵を迎えた。
  • 劉氏は懼れて張豺を召し、対して悲哭し、先帝の梓宮が未だ殯されぬのに禍難がここに至った、今、嗣子は沖幼でこれを將軍に託した、將軍はどうするつもりか、石遵に重位を加えればこれを弭められるかと言った。張豺は惶怖して出るところを知らず、ただ「唯々」と言うだけであった。
  • そこで詔を下して石遵を丞相・領大司馬・大都督・督中外諸軍・録尚書事とし、黄鉞と九錫を加えた。
  • 己丑、石遵が安陽亭に至り、張豺は懼れて出迎えた。石遵は執えるよう命じた。庚寅、石遵が甲を擐き兵を曜かせて鳳陽門から入り、太武前殿に升って擗踊して哀を尽くし、退いて東閤に赴き、張豺を平樂市で斬ってその三族を滅ぼした。
  • 劉氏の令を仮って、嗣子は幼沖で先帝の私恩で授けられたもの、皇業は至って重く克ち堪えるところでない、石遵に位を嗣がせるとした。そこで石遵が即位して大赦し、上白の囲みを罷めた。
  • 辛卯、石世を譙王に封じ、劉氏を廃して太妃とし、ほどなくみな殺した。李農が来て罪に帰し、その位を復させた。母の鄭氏を皇太后と尊び、妃の張氏を皇后に立て、故燕王石斌の子の石衍を皇太子とした。義陽王石鑒を侍中・太傅、沛王石沖を太保、樂平王石苞を大司馬、汝陰王石琨を大將軍、武興公石閔を都督中外諸軍事・輔國大將軍とした。
  • 甲午、鄴中で暴風が樹を抜き、震雷と雨雹があって雹は盂のように大きかった。太武・暉華殿に火が升り、諸々の門・観・閣に及んで蕩然として余りがなく、乗輿・服御で焼けたものは太半となり、金石もみな尽きた。火は一月余りしてようやく滅えた。
  • 当時、沛王石沖は薊を鎮しており、石遵が石世を殺して自ら立ったと聞いてその僚佐に、石世は先帝の命を受けた、石遵はそのまま廃して殺した、罪はこれより大なるものはない、内外に戒厳を敕せ、孤はまさに親しくこれを討つと言った。
  • そこで寧北將軍沐堅を留めて幽州を戍らせ、衆五万を帥いて薊から南下し、燕・趙に檄を伝えると在るところで雲のように集まり、常山に至る頃には衆十余万で、苑郷に軍した。
  • 石遵の赦書に遇い、石沖は、みな吾の弟である、死んだ者は再び追えぬ、どうして再び相残せようか、吾はまさに帰ろうと言った。その將陳暹が、彭城は篡弑して自ら尊んだ、罪は大きい、王が北に旆いても臣は南に轅する、京師を平らげ彭城を擒にするのを俟ってから大駕を奉迎すべきだと言った。石沖はそこで再び進んだ。
  • 石遵が馳せて王擢を遣わして書で石沖を喩したが、石沖は聴かなかった。石遵は武興公石閔および李農らに精卒十万を帥いさせて討たせた。平棘で戦って石沖の兵は大敗し、石沖を元氏で獲て死を賜い、その士卒三万余人を坑にした。

永和五年 燕の南進の議

  • 燕の平狄將軍慕容霸が燕王慕容儁に上書した。石虎は凶を窮め暴を極め天の棄てるところ、余燼がわずかに存して自ら相魚肉している。今、中国は倒懸して仁恤を企み望んでいる。もし大軍が一度振るえば、勢は必ず戈を投じる、と。北平太守孫興もまた表して、石氏は大乱している、時に進んで中原を取るべきと述べた。慕容儁は新たに大喪に遭ったとして許さなかった。
  • 慕容霸が馳せて龍城に詣り慕容儁に言った。得がたく失いやすいのは時である。万一、石氏が衰えて再び興り、あるいは英雄がその成った資に拠れば、ただこの大利を失うだけでなく、また後患となることを恐れる、と。
  • 慕容儁は、鄴中は乱れているとはいえ鄧恒が安樂に拠って兵は強く糧は足りている、今、趙を伐つなら東道は由れぬ、盧龍から由るべきだが、盧龍の山径は険狭で虜が高きに乗じて要を断てば首尾が患となる、どうすべきかと言った。
  • 慕容霸は、鄧恒は石氏のために拒み守ろうとしても、その將士は家を顧み人は帰る志を懐いている、大軍が臨めば自然に瓦解する、臣は殿下の前駆となって東に徒何を出、潜かに令支に趨って不意に出たい、彼はこれを聞けば勢として必ず震駭し、上は門を閉じて自守するに過ぎず、下は城を棄てて逃げ潰えるを免れぬ、どこに我を禦ぐ暇があろう、そうなれば殿下は安らかに歩んで前進でき再び留難はないと言った。
  • 慕容儁は猶豫して決せず、五材將軍封弈に問うた。封弈は答えた。用兵の道は、敵が強ければ智を用い敵が弱ければ勢を用いる。それゆえ大が小を呑むのは狼が豚を食うようなもの、治で乱に易えるのは日が雪を消すようなものだ。大王は上世以来、徳を積み仁を累ね、兵は強く士は練れている。石虎は残暴を極め、死んでまだ目を瞑らぬのに子孫が国を争って上下は乖き乱れ、中国の民は塗炭に墜ち、頸を延ばし踵を企てて振り抜かれることを待っている。大王がもし兵を揚げて南に邁み、まず薊城を取り次に鄴都を指し、威徳を宣耀して遺民を懷け撫されれば、彼らの誰が老を扶け幼を提げて大王を迎えぬだろう。凶党は旗を望んで氷のように碎ける。どうして害をなせようか、と。
  • 從事中郎黄泓が、今、太白が天を経り歳星が畢の北に集まった、天下は主を易え陰国が命を受ける、これは必然の験である、速やかに師を出して天意を承けるべきだと言った。
  • 折衝將軍慕輿根が、中国の民は石氏の乱に困じ、みな主を易えて湯火の急を救うことを思っている、これは千載の一時で失うべきでない、武宣王以来、賢を招き民を養い農に務め兵を訓えてきたのは、まさに今日を俟ったのだ、今、時が至って取らずさらに顧慮するのは、天意が未だ海内を平定させようとしないのか、それとも大王が天下を取ろうとされぬのかと言った。
  • 慕容儁は笑って従い、慕容恪を輔國將軍、慕容評を輔弼將軍、左長史陽騖を輔義將軍として三輔と呼び、慕容霸を前鋒都督・建鋒將軍とし、精兵二十余万を選んで武を講じ戒厳して進取の計とした。

永和五年 石閔の台頭と石鑒の立位

  • もともと趙主石遵が李城を発ったとき、武興公石閔に、努めよ、事が成ればお前を太子とすると言った。やがて太子に石衍を立て、石閔は功を恃んで朝政を専らにしようとしたが石遵は聴かなかった。
  • 石閔はもとより驍勇で度々戦功を立て、夷夏の宿將はみなこれを憚った。既に都督となって内外の兵権を総べると、そこで殿中の將士を撫循し、みな殿中員外將軍・爵關外侯とするよう奏した。石遵はこれを疑わなかったが、改めて名を題して善悪をつけて挫き抑えた。衆はみな怨み怒った。
  • 中書令孟準・左衛將軍王鸞が石遵に次第に石閔の兵権を奪うよう勧め、石閔はいよいよ恨み望んだ。孟準らはみな誅すよう勧めた。
  • 十一月、石遵が義陽王石鑒・樂平王石苞・汝陰王石琨・淮南王石昭らを召して鄭太后の前で議し、石閔の不臣の迹が次第に著れている、今これを誅そうと思うがどうかと言った。石鑒らはみな、そうすべきと言った。
  • 鄭氏は、李城で兵を還したとき棘奴(石閔)がなければどうして今日があったか、少し驕縦するとはいえ、どうして急に殺せようかと言った。
  • 石鑒は出て宦者楊環を遣わして馳せて石閔に告げた。石閔はそこで李農および右衛將軍王基を劫して密かに石遵を廃することを謀り、將軍蘇彦・周成に甲士三千人を帥いさせて石遵を南臺で執えさせた。
  • 石遵はまさに婦人と碁を弾いていた。周成に、反した者は誰かと問うた。周成は、義陽王石鑒が立つべきだと答えた。石遵は、我でさえこうなのだ、石鑒がいくばくの時を保てようかと言った。そのまま琨華殿で殺し、あわせて鄭太后・張后・太子石衍・孟準・王鸞および上光禄張斐を殺した。
  • 石鑒が即位して大赦し、武興公石閔を大將軍として武徳王に封じ、司空李農を大司馬とし、並んで録尚書事とし、郎闓を司空、秦州刺史劉羣を尚書左僕射、侍中盧諶を中書監とした。
  • 趙主石鑒が樂平王石苞・中書令李松・殿中將軍張才に夜に石閔・李農を琨華殿で攻めさせたが克てず、禁中は擾乱した。石鑒は懼れて知らぬふりをし、夜に李松・張才を西中華門で斬り、あわせて石苞を殺した。
  • 新興王石祗は石虎の子で、当時襄國を鎮しており、姚弋仲・蒲洪らと兵を連ね中外に檄を移して共に石閔・李農を誅そうとした。石閔・李農は汝陰王石琨を大都督とし、張舉および侍中呼延盛に歩騎七万を帥いさせて分けて石祗らを討たせた。
  • 中領軍石成・侍中石啓・前河東太守石暉が石閔・李農を誅すことを謀り、石閔・李農はみな殺した。
  • 龍驤將軍孫伏都・劉銖らが羯士三千を結んで胡天に伏せ、これも石閔・李農を誅そうとした。石鑒は中臺にあった。孫伏都が三千余人を帥いて臺に升って石鑒を挟んで攻めようとした。石鑒は孫伏都が閣道を毀っているのを見て、臨んでその故を問うた。孫伏都は、李農らが反して既に東掖門にある、臣は衛士を帥いて討ちたい、謹んでまず啓知すると言った。石鑒は、あなたは功臣である、よく官のために力を陳べよ、朕は臺の上から観る、報のないことを慮るなと言った。
  • そこで孫伏都・劉銖が衆を帥いて石閔・李農を攻めたが克てず、鳳陽門に屯した。石閔・李農が衆数千を帥いて金明門を毀って入った。石鑒は石閔が自分を殺すことを懼れ、馳せて石閔・李農を招いて門を開いて納れ、孫伏都が反した、あなたは速やかに討つべきだと言った。
  • 石閔・李農は孫伏都らを攻めて斬った。鳳陽から琨華まで横たわる尸が相枕し、流血は渠を成した。
  • 内外に令を宣べ、六夷で敢えて兵仗を称する者は斬るとした。胡人であるいは關を斬りあるいは城を踰えて出た者は数え尽くせなかった。
  • 石閔は尚書王簡・少府王鬰に衆数千を帥いさせて石鑒を御龍観で守らせ、食を懸けて給した。
  • 城中に令を下して、近日、孫伏都・劉銖が逆を構えて支党は誅に伏したが良善は一切与わらぬ、今日以後、官と心を同じくする者は留まれ、同じくせぬ者はそれぞれ行くところに任せると述べ、城門に再び相禁じぬよう敕した。
  • そこで趙人は百里内がことごとく城に入り、胡・羯で去る者は門を填めた。
  • 石閔は胡が自分に用いられぬと知り、内外に班令して、趙人で胡の首一つを斬って鳳陽門に送る者は、文官は位を三等進め武官はことごとく牙門に拝すとした。一日のうちに斬首は数万であった。
  • 石閔は親しく趙人を帥いて胡・羯を誅し、貴賤・男女・少長を問わずみな斬り、死者は二十余万、尸を諸城の外に置いてことごとく野犬・豺狼に食われた。四方に屯戍する者は、石閔はみな書で趙人で將帥となっている者に命じて誅させた。鼻が高く須の多い者で濫りに死んだ者は半ばに及んだ。

永和六年(350年)冉閔の即位と魏の建国

  • 春正月、趙の大將軍石閔が石氏の迹を滅ぼし去ろうとし、讖文に「趙を継ぐは李」とあることに託して国号を衛と改め、姓を李氏に易え、大赦して青龍と改元した。
  • 太宰趙庶・太尉張舉・中軍將軍張春・光禄大夫石岳・撫軍石寧・武衛將軍張季および公侯・卿校・龍騰ら一万余人が出て襄國に奔り、汝陰王石琨は冀州に奔った。
  • 撫軍將軍張沈は滏口に拠り、張賀度は石瀆に拠り、建義將軍叚勤は黎陽に拠り、寧南將軍楊羣は桑壁に拠り、劉國は陽城に拠り、叚龕は陳留に拠り、姚弋仲は灄頭に拠り、蒲洪は枋頭に拠り、衆はそれぞれ数万で、みな石閔に附かなかった。叚勤は叚末柸の子、叚龕は叚蘭の子である。
  • 王朗・麻秋が長安から洛陽に赴いた。麻秋が石閔の書を承けて王朗の部下の胡千余人を誅し、王朗は襄國に奔った。麻秋は衆を帥いて鄴に帰した。蒲洪はその子の龍驤將軍蒲雄に迎え撃たせて獲、軍師將軍とした。
  • 汝陰王石琨および張舉・王朗が衆七万を帥いて鄴を伐った。大將軍石閔が騎千余を帥いて城北で戦った。石閔は両刃の矛を操り馬を馳せて撃ち、向かうところ摧き陥し、三千級を斬った。石琨らは大敗して去った。
  • 石閔が李農と騎三万を帥いて張賀度を石瀆で討った。
  • 閏月、衛主石鑒が密かに宦者に書を齎させて張沈らを召し、虚に乗じて鄴を襲わせようとした。宦者がこれを石閔・李農に告げ、石閔・李農は馳せ還って石鑒を廃して殺し、あわせて趙主石虎の三十八人の孫を殺して石氏をことごとく滅ぼした。
  • 姚弋仲の子の曜武將軍姚益・武衛將軍姚若が禁兵数千を帥いて關を斬って灄頭に奔った。姚弋仲は衆を帥いて石閔を討ち、混橋に軍した。
  • 司徒申鍾らが石閔に尊号を上った。石閔は李農に譲り、李農は固辞した。石閔は、吾らはもと晉人である、今、晉室はなお存する、諸君と州郡を分割してそれぞれ牧守・公侯を称し、表を奉じて晉の天子を迎えて洛陽に還都させるのはどうかと言った。
  • 尚書胡睦が進んで、陛下の聖徳は天に応ずる、大位に登るべきだ、晉氏は衰微して遠く江表に竄れた、どうして英雄を総べ馭し四海を混壹できようかと言った。石閔は、胡尚書の言は機を識り命を知ると言えると言い、そこで皇帝の位に即き、大赦して永興と改元し、国号を大魏とした。

永和六年 燕の南進

  • 二月、燕王慕容儁が慕容霸に兵二万を将いさせて東道から徒河を出し、慕輿于を西道から蠮螉塞を出し、慕容儁自ら中道から盧龍塞を出して趙を伐った。慕容恪・鮮于亮を前駆とし、慕輿埿に山を槎って道を通させ、世子の慕容曄を留めて龍城を守らせ、内史劉斌を大司農として典書令皇甫眞とともに留まって後事を統べさせた。
  • 慕容霸の軍が三陘に至った。趙の征東將軍鄧恒は惶怖して倉庫を焼き安樂を棄てて遁れ去り、幽州刺史王午とともに薊を保った。徒河南部都尉孫泳が急ぎ安樂に入って余火を撲滅し、その穀と帛を籍した。慕容霸は安樂・北平の兵と糧を収め、慕容儁と臨渠で会した。
  • 三月、燕兵が無終に至った。王午はその將王佗に数千人で薊を守らせ、鄧恒とともに走って魯口を保った。
  • 乙巳、慕容儁が薊を抜き、王佗を執えて斬った。慕容儁はその士卒千余人をことごとく坑にしようとした。慕容霸が諫めて、趙が暴虐であるとして王が師を興して伐ったのは、民を塗炭から拯い中州を撫し有するためである、今、薊を得たばかりでその士卒を坑にすれば、王師の先声とできぬことを恐れると言い、そこで釈いた。
  • 慕容儁は入って薊に都した。中州の士女で降る者は相継いだ。
  • 燕兵が范陽に至った。范陽太守李産は石氏のために燕を拒もうとしたが衆は用いられず、そこで八城の令長を帥いて出降した。慕容儁は再び李産を太守とした。
  • 李産の子の李績は幽州別駕で、その家を棄てて王午に從って魯口にあった。鄧恒が王午に、李績の郷里は北にあり父は既に燕に降った、今ここにあってもついに相保ちがたい、徒に人の累となるだけだ、去らせるに勝らぬと言った。
  • 王午は、これは何を言うのか、今の喪乱にあって李績は義を立てて家を捐てえた、情節の重きは古の烈士でも過ぎるものがない、それを猜嫌で害しようとするのか、燕・趙の士が聞けば我らは直に相聚まって賊となり、まったく意識がないと言うだろう、衆情が一度散れば再び集められぬ、これは坐して自ら屠り潰えることだと言った。鄧恒はそこで止めた。
  • 王午はなお諸將が自分と心を同じくせず非意を致すことを慮り、そこで李績を帰らせた。李績は初め王午に辞して往って燕王慕容儁に会った。慕容儁は譲って、あなたは天命を識らず父を棄てて名を邀えた、今日ようやく来たのかと言った。李績は、臣は旧主を眷恋し志は微節を存することにあった、官身の在るところ何事も君でないことはない、殿下はまさに義で天下を取ろうとしておられる、臣は見えるのが晩かったとは思わぬと答えた。慕容儁は悦んで善く待した。
  • 慕容儁は弟の慕容宜を代郡城郎、孫泳を廣寧太守とし、幽州の郡県の守宰をことごとく置いた。
  • 甲子、慕容儁が中部俟釐の慕輿句に薊中の留事を督させ、自ら鄧恒を魯口で撃った。軍が清梁に至り、鄧恒の將鹿勃早が数千人を将いて夜に燕の営を襲い、半ばが既に入って先に前鋒都督慕容霸を犯し、幕下に突入した。慕容霸は起って奮撃し、手ずから十余人を殺し、鹿勃早は進めなかった。これによって燕軍は厳しくすることができた。
  • 慕容儁が慕輿根に、賊の鋒は甚だ鋭い、しばらく避けるべきだと言った。慕輿根は正色して、我は衆く彼は寡く力は相敵しない、それゆえ夜に乗じて戦いに来て万一の利を獲ることを冀っているのだ、今、賊を求めて賊を得たのだからまさに撃つべきだ、また何を疑うのか、王はただ安らかに臥されよ、臣らが自ら王のためにこれを破ると言った。
  • 慕容儁が自ら安まらず、内史李洪が慕容儁に從って営外に出て高い冢の上に屯した。慕輿根が左右の精勇数百人を帥いて中牙から直前して鹿勃早を撃ち、李洪が徐々に騎隊を整えて還って助けた。鹿勃早はそこで退き走り、衆軍が追撃すること四十余里、鹿勃早はやっと身だけ免れ、從った士卒の死亡はほぼ尽きた。慕容儁は兵を引いて薊に還った。

永和六年 冉閔の魏

  • 魏主石閔が姓を冉氏に復した。もともと石閔の父の石瞻は内黄の人で本の姓は冉であった。趙主石勒が陣を破って冉瞻を獲、石虎に養って子とさせた。冉閔は驍勇で戦を善くし策略が多く、石虎は愛して諸孫に比べた。
  • 母の王氏を皇太后と尊び、妻の董氏を皇后に立て、子の冉智を皇太子、冉胤・冉明・冉裕をみな王とし、李農を太宰・領太尉・録尚書事として齊王に封じ、その子はみな県公に封じた。使者に節を持たせて諸軍の屯を赦させたが、みな従わなかった。
  • 趙の新興王石祗が皇帝の位に襄國で即き、永寧と改元し、汝陰王石琨を相國とした。六夷で州都に拠り兵を擁する者はみなこれに応じた。石祗は姚弋仲を右丞相・親趙王として殊礼で待した。
  • 夏四月、趙主石祗が汝陰王石琨に兵十万を将いさせて魏を伐たせた。
  • 魏主冉閔が李農およびその三子ならびに尚書令王謨・侍中王衍・中常侍嚴震・趙昇を殺した。
  • 冉閔が使を遣わして江に臨んで晉に告げ、逆胡が中原を乱した、今、既にこれを誅した、共に討てる者は軍を遣わして来られよと言った。朝廷は応じなかった。
  • 六月、趙の汝陰王石琨が進んで邯鄲に拠り、鎮南將軍劉國が繁陽から会した。魏の衛將軍王泰が石琨を撃って大破し、死者は一万余人であった。劉國は繁陽に還った。
  • 冬十一月、魏主冉閔が歩騎十万を帥いて襄國を攻めた。その子の太原王冉胤を大単于・驃騎大將軍に署し、降った胡一千をこれに配して麾下とした。
  • 光禄大夫韋謏が諫めて、胡・羯はみな我の仇敵である、今、来て帰附したのは苟に性命を全うするためだけだ、万一変をなせば悔いても及ばぬ、降った胡を誅し屏め単于の号を去って微を防ぎ漸を杜ぐことを請うと言った。冉閔はまさに群胡を撫し納れようとしており、大いに怒って韋謏およびその子の韋伯陽を誅した。

永和七年(351年)襄國の敗

  • 春二月、魏主冉閔が襄國を攻め囲むこと百余日、趙主石祗は危急となり、そこで皇帝の号を去って趙王を称した。
  • 太尉張舉を遣わして燕に師を乞い、伝国の璽を送ることを許した。中軍將軍張春を姚弋仲に遣わして師を乞うた。姚弋仲はその子の姚襄に騎二万八千を帥いさせて趙を救わせ、誡めて、冉閔は仁を棄て義に背いて石氏を屠滅した、我は人の厚遇を受けたのだから讎に復すべきだ、老病で自ら行けぬ、お前の才は冉閔の十倍である、梟して擒にして来ぬなら再び我に見えるに及ばぬと言った。
  • 姚弋仲もまた使を遣わして燕に告げた。燕王慕容儁は禦難將軍恱綰を遣わして兵三万を将いて往って会させた。
  • 冉閔は慕容儁が趙を救おうとしていると聞き、大司馬從事中郎の廣寧人常煒を燕に使わせた。慕容儁は封裕に詰らせ、冉閔は石氏の養息でありながら恩に負いて逆をなした、どうして敢えて大号を称するのかと言わせた。
  • 常煒は、湯が桀を放ち武王が紂を伐って商・周の業を興した、曹孟德は宦官に養われて出るところ知られなかったが、ついに魏氏の基を立てた、苟に天命でなければどうして功を成せよう、これを推して言えば何を必ず問うのかと答えた。
  • 封裕は、人が言うには冉閔が立った当初、金を鋳て己の像を作って成敗を卜ったが像が成らなかったという、まことかと言った。常煒は、聞かぬと答えた。封裕が、南から来た者はみなその通りと言う、なぜ隠すのかと言うと、常煒は、姦偽の人が天命を矯めて人を惑わそうとする者は、符瑞に仮り蓍龜に託して自ら重くする、魏主は符璽を握り中州に拠って命を受けた、何を疑って、かえって真を偽として金の像に決を取ろうかと答えた。
  • 封裕が、伝国の璽は果たしてどこにあるのかと言うと、常煒は、鄴にあると答えた。封裕は、張舉は襄國にあると言うと言った。常煒は、胡を殺した日、鄴にいた者はほぼ孑遺がなかった、当時、迸り漏れた者があってもみな潜かに溝瀆の中に伏していただけだ、彼らがどうして璽の在るところを知ろう、彼らの求救は妄誕の辞で不可なきものはない、まして一つの璽ならと答えた。
  • 慕容儁はなお張舉の言を信とし、そこで柴をその傍らに積み、封裕にその私で誘って、君は改めてよく思え、徒に灰滅を取るなと言わせた。
  • 常煒は正色して言った。石氏は貪暴で、親しく大兵を帥いて燕の国都を攻めた。克たずして返ったとはいえ、志は必ず取ることにあった。それゆえ資糧を運び器械を東北に聚めたのは、相資けるためでなく相滅ぼそうとしたのだ。魏主が石氏を誅し翦ったのは燕のためでないとはいえ、臣子の心として仇讎の滅んだのを聞けば義としてどうあるべきか。それをかえって彼が我を責める、異ではないか。吾が聞くところ、死者は骨肉が土に下り精魂が天に升る。君の恵を蒙って速やかに薪を益して火を縦け、僕が上って帝に訴えられるようにされれば足りる、と。
  • 左右が殺すことを請った。慕容儁は、彼は身を殺すことを憚らずその主に徇う、忠臣である、しかも冉閔に罪があっても使臣に何の与わるところがあろうと言い、出て館に就かせた。
  • 夜にその郷人の趙瞻を往って労わせ、しかも、君はなぜ実を言わぬのか、王は怒って君を遼碣の表に処そうとしている、どうするのかと言わせた。常煒は、吾は結髪以来、なお布衣を欺かなかった、まして人主はどうか、意を曲げて苟合するのは性の能くせぬところである、直情で言を尽くし、たとえ東海に沈められても敢えて避けぬと言い、そのまま壁に向かって臥して再び趙瞻と言わなかった。趙瞻が具に慕容儁に申し上げ、慕容儁はそこで常煒を龍城に囚えた。
  • 三月、姚襄および趙の汝陰王石琨がそれぞれ兵を引いて襄國を救った。冉閔は車騎將軍胡睦を遣わして姚襄を長蘆で拒がせ、將軍孫威を石琨を黄丘で拒がせたが、みな敗れ還り士卒はほぼ尽きた。
  • 冉閔は自ら出て撃とうとした。衛將軍王泰が諫めて、今、襄國は未だ下らず外の救は雲のように集まっている、もし我が出戦すれば必ず背を覆されて敵を受ける、これは危道である、塁を固めてその鋭を挫き、徐々にその釁を観て撃つに勝らぬ、しかも陛下が親しく行陣に臨まれ、もし万全を失えば大事は去ると言った。
  • 冉閔が止めようとしたところ、道士の法饒が進んで、陛下は襄國を囲んで年を経ても尺寸の功がない、今、賊が至ってまた避けて撃たなければ、何で將士を使えよう、しかも太白が昴に入った、まさに胡王を殺すべきだ、百戦百克である、失うべきでないと言った。
  • 冉閔は袂を攘げて大言し、吾は戦うと決した、敢えて衆を沮む者は斬ると言い、そこで衆を尽くして出て姚襄・石琨と戦った。恱綰がちょうど燕兵で至り、魏兵から数里去って騎卒を疎らに布き柴を曵いて塵を揚げた。魏人は望み見て恟懼した。姚襄・石琨・恱綰が三面から撃ち、趙王石祗が後から衝いて魏兵は大敗した。
  • 冉閔は十余騎とともに走って鄴に還った。降った胡の栗特康らが大単于冉胤および左僕射劉琦を執えて趙に降り、趙王石祗は殺した。胡睦および司空石璞・尚書令徐機・中書監盧諶らならびに將士の死者はおよそ十余万人であった。
  • 冉閔が潜かに還ったのを知る者はなく、鄴中は震恐して、冉閔は既に没したという訛言が立った。射聲校尉張艾が冉閔に親しく郊して衆心を安んずることを請い、冉閔は従い、訛言はそこで息んだ。冉閔は法饒父子を支解し、韋謏に大司徒を贈った。
  • 姚襄が灄頭に還ると、姚弋仲はその冉閔を擒にしなかったことを怒って杖百打った。
  • もともと冉閔が趙の相であったとき、倉庫をことごとく散じて私恩を樹て、羌胡と相攻んで戦わぬ月がなかった。趙が徙した青・雍・幽・荆の四州の民および氐・羌・胡・蠻の数百万口は、趙の法禁が行われなくなるとそれぞれ本土に還り、道路は交錯して互いに殺し掠め、達しえた者は十のうち二、三であった。中原は大乱し、それに因って饑と疫があり、人は相食い、再び耕す者がなくなった。
  • 趙王石祗がその將劉顯に衆七万を帥いさせて鄴を攻めさせ、明光宮に軍して鄴を二十三里去った。魏主冉閔は恐れて王泰を召してともに謀ろうとした。王泰は前の言が従われなかったことを恚り、瘡が甚だしいと辞した。冉閔が親しく臨んで問うと、王泰は固く疾が篤いと称した。冉閔は怒って宮に還り、左右に、巴奴め、乃公がどうしてお前を假って命とするものか、まず群胡を滅ぼしてから王泰を斬るべきだと言い、そこで衆を尽くして出戦し、劉顯の軍を大破した。追奔して陽平に至り、三万余級を斬った。劉顯は懼れて密かに使を遣わして降を請い、石祗を殺して自ら効することを求めた。冉閔はそこで引き帰った。
  • 折しも王泰が叛いて秦に入ろうとしていると告げる者があり、冉閔は殺してその三族を滅ぼした。
  • 夏四月、渤海の人逢約が趙の乱に因って衆数千家を擁して魏に附いた。魏は逢約を渤海太守とした。故太守劉準は劉隗の兄の子であり、土豪の封放は封弈の從弟であり、別に衆を聚めて自守した。冉閔は劉準を幽州刺史として逢約と渤海を中分させた。
  • 燕王慕容儁は封弈を遣わして逢約を討たせ、昌黎太守髙開を遣わして劉準を討たせた。封放・髙開は髙瞻の子である。
  • 封弈が兵を引いて直に逢約の塁に抵り、人を遣わして逢約に、相与に郷里であるが隔絶して日久しい、会い遇うのは甚だ難しく、時事の利害は人それぞれに心があって論ずるところではない、単独で出て一度相見えて佇え結ぶ情を写したいと言わせた。
  • 逢約はもとより封弈を信じ重んじており、すぐ出て門外で封弈に会い、それぞれ騎卒を屏け単馬で語を交わした。封弈は平生を論じ叙べ終えてから、それに因って説いた。君と累世同郷で情は相愛重している。まことに君に祚を享けて無窮であってほしい。今、既に展べ奉ることを獲たのだから、懐うところをすべて言わぬわけにいかぬ。冉閔は石氏の乱に乗じてたちまち成った資を有した。天下がその強に服するのは当然である。しかし禍乱はまさに始まった。もとより天命が力で争えぬことを知る。燕王は代々徳を載せ義を奉じて乱を討ち、征するところ敵なし。今、既に薊に都して南に趙・魏に臨み、遠近の民は襁で負って帰している。民は荼毒に厭き、みな有道を思っている。冉閔の亡は朝でなければ夕である。成敗の形は昭然として見やすい。しかも燕王は肇めて王業を開いて心を虚しくして賢儁を求めている。君が翻然と図を改められれば、功は絳侯・灌嬰に参わり慶は苗裔に流れる。亡国の將となって孤城を守り必至の禍を待つのとどちらがよいか、と。
  • 逢約はこれを聞いて悵然として言わなかった。封弈の給使の張安に勇力があり、封弈は予め戒めていた。逢約の気が下がるのを俟って張安が突前してその馬の鞚を持ち、それに因って挟んで馳せて営に至った。封弈はともに坐って、君の計は自ら決せられぬ、それゆえ相ために決した、君を取って功を邀えようとするのではなく、君を全うして民を安んじようとするのだと言った。
  • 髙開が渤海に至ると、劉準・封放が迎え降った。慕容儁は封放を渤海太守、劉準を右司馬、逢約を参軍事とし、逢約が人に誘われて獲られたことから、その名を逢釣と改めた。
  • 劉顯が趙王石祗およびその丞相樂安王石炳・太宰趙庶ら十余人を弑し、首を鄴に伝えた。驃騎將軍石寧は柏人に奔った。魏主冉閔は石祗の首を通衢で焼き、劉顯を上大將軍・大単于・冀州牧に拝した。
  • 秋七月、劉顯が再び兵を引いて鄴を攻めた。魏主冉閔が撃ち敗り、劉顯は還って襄國で帝を称した。
  • 八月、燕王慕容儁が慕容恪を遣わして中山を攻めさせ、慕容評を遣わして王午を魯口で攻めさせた。魏の中山太守の上谷人侯龕が城を閉じて拒み守った。慕容恪は南に常山を徇え、九門に軍した。魏の趙郡太守の遼西人李邽が郡を挙げて降り、慕容恪は厚く撫し、李邽を将いて還って中山を囲み、侯龕はそこで降った。
  • 慕容恪が中山に入り、その將帥・土豪数十家を薊に遷し、余はみな安堵させた。軍令は厳明で秋毫も犯さなかった。
  • 慕容評が南安に至り、王午がその將鄭生を遣わして拒み戦ったが、慕容評が撃って斬った。
  • 恱綰が襄國から還り、慕容儁はそこで張舉の妄を知って殺した。
  • 常煒に四男二女が中山にあった。慕容儁は常煒の囚を釈き、諸子に就いて会わせた。常煒が上疏して恩を謝すと、慕容儁は自筆の令で答え、あなたはもとより生計を為さなかった、孤は州里のよしみで存しただけである、今、大乱の中で諸子がすべて至ったのは天の意ではないか、天がなおあなたを念う、まして孤はどうかと述べ、妾一人・穀三百斛を賜って凡城に居らせた。
  • 北平太守孫興を中山太守とした。孫興は綏撫を善くし、中山はついに安んじた。
  • 冬十一月、逢釣が亡げて勃海に帰し、旧衆を招集して燕に叛いた。樂陵太守賈堅が人を遣わして郷人を告げ諭し、成敗を示した。逢釣の部衆は次第に散り、そこで来奔した。

永和八年(352年)冉閔の敗死と魏の滅亡

  • 春正月、劉顯が常山を攻めた。魏主冉閔は大將軍蔣幹を留めて太子冉智を輔けて鄴を守らせ、自ら八千騎を将いて救った。劉顯の大司馬清河王石寧が棗強をもって魏に降った。冉閔が劉顯を撃って敗り、追奔して襄國に至った。劉顯の大將軍曹伏駒が門を開いて冉閔を納れ、冉閔は劉顯およびその公卿以下百余人を殺し、襄國の宮室を焼いてその民を鄴に遷した。
  • 趙の汝陰王石琨がその妻妾とともに来奔し、建康の市で斬られた。石氏はついに絶えた。
  • 魏主冉閔は襄國を克ってから、それに因って常山・中山の諸郡に遊食した。
  • 趙の立義將軍叚勤が胡・羯一万余人を聚めて繹幕を保拠し、自ら趙帝を称した。
  • 夏四月甲子、燕王慕容儁が慕容恪らを遣わして魏を撃たせ、慕容霸らに叚勤を撃たせた。
  • 魏主冉閔がまさに燕と戦おうとした。大將軍董閏・車騎將軍張温が諫めて、鮮卑は勝に乗じて鋒は鋭い、しかも彼は衆く我は寡い、しばらく避け、その驕り堕るのを俟ってから兵を益して撃つことを請うと言った。冉閔は怒って、吾はこの衆で幽州を平らげ慕容儁を斬りたいと思っている、今、慕容恪に遇って避ければ人は我を何と言うかと言った。
  • 司徒劉茂・特進郎闓が相語って、吾が君のこの行は必ず還らぬ、吾らはどうして坐して戮辱を待とうかと言い、みな自殺した。
  • 冉閔が安喜に軍し、慕容恪が兵を引いて從った。冉閔が常山に趨り、慕容恪が追った。丙子、魏昌の廉臺で及んだ。冉閔は燕兵と十度戦い、燕兵はみな勝てなかった。
  • 冉閔はもとより勇名があり、将いる兵は精鋭で、燕人はこれを憚った。慕容恪が陣を巡って將士に諭し、冉閔は勇だが謀がなく一夫の敵にすぎぬ、その士卒は飢え疲れ、甲兵は精とはいえ実は用いがたい、破るに足らぬと言った。
  • 冉閔は将いるものが多く歩卒であり燕はみな騎兵であることから、兵を引いて林中に趨ろうとした。慕容恪の参軍髙開が、吾の騎兵は平地に利がある、もし冉閔が林に入れば再び制せられぬ、急ぎ軽騎を遣わして邀え、合してから偽って走って平地に誘い致し、その後で撃つべきだと言った。慕容恪は従い、魏兵は還って平地に就いた。
  • 慕容恪は軍を三部に分けて諸將に、冉閔の性は軽鋭で、また自ら衆が少ないことから必ず我に死を致す、我は厚く中軍の陣を集めて待つ、その合戦を俟ってあなたたちが旁から撃てば克たぬことはないと言った。
  • そこで鮮卑で射を善くする者五千人を択び、鉄鎖でその馬を連ねて方陣として前進した。
  • 冉閔の乗る駿馬は朱龍といい、日に千里を行った。冉閔は左に双刃の矛を操り右に鉤戟を執って燕兵を撃ち、三百余級を斬った。大幢を望み見てそれが中軍と知り、直にこれを衝いた。燕の両軍が旁から挟撃して大破し、冉閔を数重に囲んだ。冉閔は囲みを潰して東に走ること二十余里、朱龍が忽然と斃れ、燕兵に執えられた。
  • 燕人は魏の僕射羣を殺し、董閔・張温および冉閔を執えてみな薊に送った。冉閔の子の冉操は魯口に奔った。髙開は創を被って死んだ。
  • 慕容恪は進んで常山に屯した。慕容儁は慕容恪に中山を鎮するよう命じた。
  • 己卯、冉閔が薊に至った。慕容儁は大赦し、冉閔を立たせて責め、お前は奴僕の下才である、どうして妄りに帝を称したのかと言った。冉閔は、天下は大乱した、お前たちは夷狄・禽獸の類でもなお帝を称する、まして我は中土の英雄である、どうして帝を称せぬのかと言った。慕容儁は怒って鞭三百打ち、龍城に送った。
  • 慕容霸の軍が繹幕に至り、叚勤が弟の叚思・叚聦とともに城を挙げて降った。
  • 甲申、慕容儁が慕容評および中尉侯龕を遣わして精騎一万人を帥いて鄴を攻めさせた。癸巳、鄴に至り、魏の蔣幹および太子冉智は城を閉じて拒み守り、城外はみな燕に降った。劉寧および弟の劉崇が胡騎三千を帥いて晉陽に奔った。
  • 五月、鄴中は大饑で人が相食い、故の趙の時の宮人はほぼ食われ尽くした。蔣幹が侍中繆嵩・詹事劉猗を遣わして表を奉じて降を請い、しかも謝尚に救を求めた。
  • 庚寅、燕王慕容儁が廣威將軍慕容軍・殿中將軍慕輿根・右司馬皇甫眞らに歩騎二万を帥いさせて慕容評を助けて鄴を攻めさせた。
  • 辛卯、燕人が冉閔を龍城で斬った。折しも大旱と蝗があり、燕王慕容儁は冉閔を崇として使を遣わして祀り、悼武天王と諡した。
  • もともと謝尚が戴施に枋頭を拠らせていた。戴施は蔣幹の求救を聞いて倉垣から棘津に屯を徙し、蔣幹の使者を止めて伝国の璽を求めた。劉猗は繆嵩を鄴に還して蔣幹に申し上げさせた。蔣幹は謝尚が救えぬことを疑い、沈吟して決しなかった。
  • 六月、戴施が壮士百余人を帥いて鄴に入って三臺を守るのを助け、紿かせて、今、燕の冦が外にあって道路は通じない、璽はまだ敢えて送れぬ、あなたはしばらく出して我に付されよ、我が馳せて天子に申し上げる、天子が璽が吾の所にあると聞けばあなたの至誠を信じ、必ず多く兵糧を発して相救い餉すると言った。蔣幹は然りとし、璽を出して付した。
  • 戴施は督護何融に糧を迎えさせると宣言し、陰かに璽を懐にして枋頭に送らせた。
  • 甲子、蔣幹が鋭卒五千および晉兵を帥いて出戦した。慕容評が大破して四千級を斬り、蔣幹は脱れ走って城に入った。
  • 秋七月、王午が魏の敗を聞いた。当時、鄧恒は既に死んでおり、王午は自ら安國王を称した。
  • 八月戊辰、燕王慕容儁が慕容恪・封弈・陽騖を遣わして攻めた。王午は城を閉じて自守し、冉操を燕軍に送った。燕人はその禾稼を掠めて還った。
  • 庚午、魏の長水校尉馬願らが鄴城を開いて燕兵を納れた。戴施・蔣幹は懸縋して下り倉垣に奔った。慕容評は魏の后董氏・太子冉智・太尉申鍾・司空条攸らおよび乗輿・服御を薊に送った。尚書令王簡・左僕射張乾・右僕射郎肅はみな自殺した。
  • 燕王慕容儁は詐って董氏が伝国の璽を得て献じたと言い、奉璽君の号を賜い、冉智に海賔侯の爵を賜い、申鍾を大將軍右長史とし、慕容評に鄴を鎮するよう命じた。
  • 謝尚が枋頭から伝国の璽を迎えて建康に至り、百僚は畢く賀した。
  • 冬十月、故趙の將で兵を擁して州郡に拠る者がそれぞれ使を遣わして燕に降った。燕王慕容儁は王擢を益州刺史、夔逸を秦州刺史、張平を并州刺史、李歷を兖州刺史、髙昌を安西將軍、劉寧を車騎將軍とした。
  • 慕容恪が安平に屯して糧を積み攻めを治め、あわせて王午を討とうとした。
  • 丙戌、中山の蘇林が兵を無極で起こして自ら天子を称した。慕容恪は魯口から還って蘇林を討った。閏月戊子、燕王慕容儁が廣威將軍慕輿根を遣わして慕容恪を助けて蘇林を攻めさせ、斬った。
  • 王午がその將秦興に殺され、呂護が秦興を殺して再び自ら安國王を称した。
  • 燕の群僚が共に燕王慕容儁に尊号を上り、慕容儁は許した。十一月丁卯、初めて百官を置き、國相封弈を太尉、左長史陽騖を尚書令、右司馬皇甫眞を尚書左僕射、尚書令張悕を右僕射とし、その余の文武の拝授に差があった。
  • 戊辰、慕容儁が皇帝の位に即き、大赦した。自ら伝国の璽を獲たと言って元璽と改元した。武宣王を髙祖武宣皇帝、文明王を太祖文明皇帝と追尊した。
  • 当時、晉の使がちょうど燕に至っており、慕容儁はこれに、汝は還ってあなたの天子に申せ、我は人の乏を承けて中国に推され、既に帝となったと言った。
  • 司州を中州と改め、留台を龍都に建て、玄菟太守乙逸を尚書として専ら留務を委ねた。