通鑑紀事本末前燕、段遼を討つ(宇文氏討伐を付す)(燕討叚遼(討宇文附))

慕容皝が叚氏・宇文氏という二つの鮮卑の隣国を平らげ、遼西に覇を確立するまでを扱う。慕容廆の死後、庶兄の慕容翰は叚遼に奔り、弟の慕容仁は遼東に拠って叛くが、皝は海の氷を渡って平郭を襲い慕容仁を滅ぼす。ついで趙の石虎と結んで叚遼を破り、棘城に攻め寄せた趙軍をも撃退して叚遼の衆を収めた。帰参した慕容翰の献策で髙句麗を先に叩き、建元二年(344年)に宇文逸豆歸を滅ぼすが、皝は功臣の慕容翰に死を賜った。太寧三年(325年)から二十年の経緯。

年表(12件)

晉明帝太寧三年(325年)叚遼の簒立

  • 冬十一月、慕容廆が叚氏とまさに睦んでいた頃、叚牙のために謀って遷都させた。叚牙は従い、すぐ令支を去った。国人は喜ばなかった。
  • 叚疾陸眷の孫の叚遼はその位を奪おうとし、遷都を叚牙の罪とした。十二月、国人を帥いて叚牙を攻めて殺し、自ら立った。
  • 叚氏は叚務勿塵以来、日々いよいよ強盛となり、その地は西に漁陽に接し東は遼水を界とし、統べる胡・晉は三万余戸、弦を控えるは四、五万騎であった。

成帝咸和八年(333年)慕容仁の反乱

  • 夏五月甲寅、遼東武宣公慕容廆が死去した。六月、世子の慕容皝が平北將軍・行平州刺史として部内を督摂した。
  • 慕容皝は位を嗣いだ当初、法を用いるのが厳峻で国人の多くが自ら安まらなかった。主簿皇甫眞が切に諫めたが聴かなかった。
  • 慕容皝の庶兄の建威將軍慕容翰、母弟の征虜將軍慕容仁は勇略があって度々戦功を立て士心を得ており、季弟の慕容昭は才芸があり、みな慕容廆に寵されていた。慕容皝はこれを忌んだ。
  • 慕容翰は歎じて、吾は先公に事を受けて敢えて力を尽くさぬことはなかった、幸いに先公の霊に頼って向かうところ功があった、これは天が吾の国を賛けたので人力ではない、それを人は吾の辦じたところとして雄才で制しがたいと言う、吾がどうして坐して禍を待てようかと言い、そこでその子とともに出て叚氏に奔った。叚遼はもとよりその才を聞いており、その用を収めることを冀って甚だ愛重した。
  • 慕容仁が平郭から来て喪に奔り、慕容昭に言った。吾らはもとより驕って嗣君に無礼が多かった。嗣君は剛厳で、罪がなくてもなお畏るべきだ、まして罪があってはどうか、と。
  • 慕容昭は、吾らはみな正嫡を体して国に分がある、兄はもとより士心を得ている、我は内にあってまだ疑われていない、その隙を伺って除くのは難しくない、兄は急ぎ兵を挙げて来られよ、我が内応する、事が成った日には我に遼東を与えられよ、男子が事を挙げて克たなければ死ぬだけだ、建威(慕容翰)のように異域に偷生することはできぬと言った。慕容仁は、善しと言い、そのまま平郭に還った。
  • 閏月、慕容仁が兵を挙げて西した。ある者が慕容仁・慕容昭の謀を慕容皝に告げた。慕容皝はまだ信じず、使を遣わして按じ験べさせた。慕容仁の兵は既に黄水に至っており、事が露れたと知って使者を殺し、還って平郭に拠った。
  • 慕容皝は慕容昭に死を賜い、軍祭酒封弈を遣わして遼東を尉め撫させ、髙詡を廣武將軍として兵五千を将いさせ、庶弟の建武將軍慕容幼・慕容稚・廣威將軍慕容軍・寧遠將軍慕容汗・司馬の遼東人佟壽とともに慕容仁を討たせた。
  • 慕容仁と汶城の北で戦い、慕容皝の兵は大敗し、慕容幼の軍はみな慕容仁に獲られた。佟壽はかつて慕容仁の司馬であったので、そのまま慕容仁に降った。
  • 前大農孫機らが遼東城を挙げて慕容仁に応じ、封弈は入れず慕容汗とともに還った。東夷校尉封抽・護軍の平原人乙逸・遼東相の太原人韓嶠はみな城を棄てて走った。
  • そこで慕容仁は遼東の地をすべて有し、叚遼および鮮卑の諸部はみな慕容仁と遥かに相応え援けた。慕容皝は皇甫眞の言を追い思い、皇甫眞を平州別駕とした。

咸和九年(334年)柳城の攻防

  • 春二月、慕容仁が司馬翟楷に領東夷校尉、前平州別駕龐鑒に領遼東相とした。
  • 叚遼が兵を遣わして徒河を襲ったが克てず、再びその弟の叚蘭を遣わして慕容翰とともに柳城を攻めさせた。柳城都尉石琮・城大慕輿埿が力を併せて拒み守り、叚蘭らは克てず退いた。
  • 叚遼は怒って叚蘭らを切に責め、必ず抜くよう令した。二旬休息して再び兵を増して攻めに来た。士はみな重ねて鎧を著け楯を蒙り、飛梯を作って四面からともに進み昼夜息まなかった。石琮・慕輿埿は拒み守ることいよいよ固く、千余人を殺傷し、ついに抜けなかった。
  • 慕容皝が慕容汗および司馬封弈らを遣わして共に救わせた。慕容皝は慕容汗を戒めて、賊の気は鋭い、鋒を争うなと言った。慕容汗は性が驍果で、千余騎を前鋒として直進した。封弈が止めたが慕容汗は従わず、叚蘭と牛尾谷で遇い、慕容汗の兵は大敗して死者は太半となった。封弈が陣を整えて力戦したので没せずに済んだ。
  • 叚蘭が勝に乗じて窮追しようとした。慕容翰はついにその国を滅ぼすことを恐れて止め、言った。およそ將となる者は慎重に務め、自らを審らかにし敵を量り、万全でなければ動くべきでない。今、その偏師を挫いたとはいえ、その大勢を屈させられたのではない。慕容皝は権詐が多く潜伏を好む。もし国中の衆をすべて自ら将いて我を拒めば、我は軍を懸けて深入し衆寡は敵わぬ。これは危道である。しかも命を受けた日に、まさにこの捷を求めただけだ。もし命に違って進むことを貪り、万一敗を取れば功名はともに喪われる。何で顔を返せよう、と。
  • 叚蘭は、これは既に成った擒であり余の理はない、あなたはまさにあなたの国を滅ぼすことを慮っているだけだ、今、千年(慕容仁)が東にある、進んで志を得れば吾はこれを迎えて国の嗣とする、ついにあなたに負いて宗廟を祀られなくすることはないと言った。
  • 慕容翰は、吾は身を投じて相依った、再び還る理はない、国の存亡が我に何であろう、ただ大国の計をなし、しかも相ために功名を惜しむだけだと言い、そこで部下に命じて独り還ろうとした。叚蘭はやむなく従った。
  • 夏四月、慕容仁が自ら平州刺史・遼東公を称した。
  • 冬十一月、慕容皝が遼東を討った。甲申、襄平に至り、遼東の人王岌が密かに信を送って降を請うた。師が進んで城に入り、翟楷・龐鑒は単騎で走った。居就・新昌などの県はみな降った。
  • 慕容皝が遼東の民をすべて坑にしようとした。髙詡が諫めて、遼東の叛は実に本図でなく、ただ慕容仁の凶威を畏れて従わざるをえなかったのだ、今、元悪はなお存し、この城を克ったばかりで急に夷滅を加えれば、未だ下らぬ城には善に帰する路がなくなると言い、慕容皝はそこで止めた。
  • 遼東の大姓を分けて棘城に徙し、杜羣を遼東相として遺民を安輯させた。
  • 十二月、慕容仁が兵を遣わして新昌を襲った。督護の新興人王寓が撃ち走らせ、そのまま新昌を襄平に徙した。

咸康二年(336年)慕容仁の滅亡

  • 春正月、慕容皝が慕容仁を討とうとした。司馬髙詡が言った。慕容仁は君と親を叛き棄て民と神がともに怒っている。これまで海は凍ったことがなかったが、慕容仁が反して以来、連年凍ることが三度である。しかも慕容仁は専ら陸道に備えている。天はおそらく吾に海の氷に乗じて襲わせようとしているのだ、と。慕容皝は従った。
  • 群僚はみな氷を渉るのは危事だ、陸道に従うに勝らぬと言った。慕容皝は、吾の計は既に決した、敢えて沮む者は斬ると言った。
  • 壬午、慕容皝はその弟の軍師將軍慕容評らを帥いて昌黎から東に氷を踐んで進み、およそ三百余里で歷林口に至り、輜重を捨てて軽兵で平郭に趨り、城を七里去った。
  • 候騎が慕容仁に告げ、慕容仁は狼狽して出戦した。張英が二使を俘にしたとき、慕容仁は窮追しなかったことを恨んでいた。慕容皝が至ると、慕容仁は慕容皝が再び偏師を遣わして軽々しく出て冦抄させたと思い、慕容皝自ら来たとは知らず、左右に、今度は一匹の馬も返させぬと言った。
  • 乙未、慕容仁が衆を尽くして城の西北に陣した。慕容軍が部下を帥いて慕容皝に降り、慕容仁の衆は沮み動いた。慕容皝は従って縦撃して大破し、慕容仁は走ったがその帳下がみな叛き、そのまま擒にした。
  • 慕容皝はまずその帳下の叛いた者を斬ってから慕容仁に死を賜った。丁衡・游毅・孫機らはみな慕容仁の信用したところで、慕容皝は執えて斬った。王冰は自殺した。
  • 慕容幼・慕容稚・佟壽・郭充・翟楷・龐鑒はみな東に走った。慕容幼は中道で還った。慕容皝の兵が追って翟楷・龐鑒に及んで斬った。佟壽・郭充は髙麗に奔った。その余の吏民で慕容仁に詿誤された者は慕容皝はみな赦した。髙詡を汝陽侯に封じた。

咸康二年 叚遼・宇文との攻防

  • 夏六月、叚遼が中軍將軍李詠を遣わして慕容皝を襲わせた。李詠が武興に趨り、都尉張萌が撃って擒にした。
  • 叚遼は別に叚蘭を遣わして歩騎数万を将いさせて柳城の西の回水に屯させ、宇文逸豆歸が安晉を攻めて叚蘭の声援となった。
  • 慕容皝が歩騎五万を帥いて柳城に向かい、叚蘭は戦わずして遁れた。慕容皝は兵を引いて北に安晉に趨り、宇文逸豆歸は輜重を棄てて走った。慕容皝は司馬封弈に軽騎を帥いさせて追撃させ大破した。
  • 慕容皝が諸將に、二虜は功なきを恥じて必ず再び至る、柳城の左右に伏を設けて待つべきだと言い、そこで封弈に騎数千を帥いさせて馬兠山に伏させた。
  • 三月(原文の月次のまま)、叚遼が果たして数千騎を将いて冦抄に来た。封弈が縦撃して大破し、その將榮伯保を斬った。

咸康三年(337年)好城の築造と趙への請師

  • 春三月、慕容皝が乙連城の東に好城を築いて乙連に逼り、折衝將軍蘭勃を留めて守らせた。
  • 夏四月、叚遼が車数千両で乙連に粟を輸した。蘭勃が撃って取った。
  • 六月、叚遼がまたその從弟の楊威將軍屈雲に精騎を将いさせて夜に慕容皝の子の慕容遵を興國城で襲わせた。慕容遵が撃ち破った。
  • もともと北平の陽裕は叚疾陸眷および叚遼の五世に事えていずれも尊礼された。叚遼が度々慕容皝と相攻んだとき、陽裕が諫めた。仁に親しみ隣に善くするのは国の宝である。まして慕容氏と我は代々婚して迭いに甥舅となってきた。慕容皝には才徳があるのに我がこれと怨を構え、戦に虚しい月がない。百姓は彫弊し利は害を補わぬ。臣は社稷の憂いがここから始まることを恐れる。両つながら前の失を追って好を通じ初めのようにして、国を安んじ民を息められたい、と。叚遼は従わず、陽裕を出して北平相とした。
  • 叚遼が度々趙の辺を侵した。燕王慕容皝は揚烈將軍宋回を遣わして趙に藩を称し、師を乞うて叚遼を討ち、自ら国中の衆をすべて帥いてこれに会することを請い、あわせてその弟の寧遠將軍慕容汗を質とした。趙王石虎は大いに悦び、厚く慰答を加え、その質を辞して還し遣わし、密かに明年を期した。

咸康四年(338年)叚遼の敗亡と趙の燕侵攻

  • 春正月、燕王慕容皝が都尉趙槃を趙に遣わして師期を聴かせた。趙王石虎が叚遼を撃とうとして驍勇の者三万人を募り、ことごとく龍騰中郎に拝した。
  • 折しも叚遼が叚屈雲を遣わして趙の幽州を襲わせた。幽州刺史李孟は退いて易京を保った。石虎はそこで桃豹を横海將軍、王華を渡遼將軍として舟師十万を帥いて漂渝津を出し、支雄を龍驤大將軍、姚弋仲を冠軍將軍として歩騎七万を帥いて前鋒として叚遼を伐った。
  • 三月、趙槃が還って棘城に至り、燕王慕容皝が兵を引いて令支以北の諸城を攻掠した。
  • 叚遼が追おうとした。慕容翰が、今、趙兵が南にあり力を併せて防ぐべきなのに、かえって燕と闘うのか、燕王が自ら将いて来ており、その士卒は精鋭である、もし万一利を失えば、何で南の敵を禦げようかと言った。
  • 叚蘭は怒って、吾は前にあなたに誤られて今日の患を成した、吾は再びあなたの計中に堕ちぬと言い、そこで見える衆をすべて将いて追った。慕容皝は伏を設けて待ち、叚蘭の兵を大破して数千級を斬り、五千戸および畜産を万で計って掠めて帰った。
  • 趙王石虎が進んで金臺に屯し、支雄が長駆して薊に入った。叚遼の署した漁陽・上谷・代郡の守・相はみな降り、四十余城を取った。
  • 北平相陽裕がその民数千家を帥いて燕山に登って自ら固めた。諸將はその後患となることを恐れて攻めようとした。石虎は、陽裕は儒生で名節を矜り惜しみ、迎え降ることを恥じているだけだ、為すところはないと言い、そのまま過ぎて徐無に至った。
  • 叚遼は弟の叚蘭が既に敗れたことから再び戦うことを敢えてせず、妻子・宗族・豪大千余家を帥いて令支を棄てて密雲山に奔った。行こうとするとき慕容翰の手を執って泣き、あなたの言を用いず自ら敗亡を取った、我はもとより甘心するが、あなたに所を失わせたことを深く愧じると言った。慕容翰は北に宇文氏に奔った。
  • 叚遼の左右の長史劉群・盧諶・崔恱らが府庫を封じて降を請うた。
  • 石虎が將軍郭太・麻秋に軽騎二万を帥いさせて叚遼を追わせ、密雲山に至ってその母と妻を獲、三千級を斬った。叚遼は単騎で険に走り、その子の叚乞特眞を遣わして表を奉り名馬を趙に献じた。石虎はこれを受けた。
  • 石虎は令支の宮に入り、功を論じて封賞にそれぞれ差があった。叚國の民二万余戸を司・雍・兖・豫の四州に徙し、士大夫で才行ある者はみな擢き叙した。
  • 陽裕が軍門に詣って降った。石虎は譲って、あなたは昔は奴虜となって走り、今は士人となって来た、天命を識知したのか、それとも逃げ匿れる地がないのかと言った。陽裕は答えて、臣は昔、王公(王浚)に事えて匡し済せず、叚氏に逃れてまた全うできなかった、今、陛下の天網は高く張られ四海を籠絡している、幽・冀の豪傑は風から従わぬ者がない、臣のような者は肩を比べており独り愧じるところはない、生死の命はただ陛下の制されるままだと言った。石虎は悦び、すぐ北平太守に拝した。
  • 夏四月、趙王石虎は燕王慕容皝が趙兵と会して叚遼を攻めず自らその利を専らにしたとして伐とうとした。太史令趙攬が諫めて、歳星が燕の分を守っている、師は必ず功なしと言った。石虎は怒って鞭打った。
  • 慕容皝はこれを聞いて兵を厳しくし備えを設け、六卿・納言・常伯・冗騎常侍の官を罷めた。趙の戎卒は数十万で、燕人は震恐した。
  • 慕容皝が内史髙詡に、どうすべきかと言った。髙詡は、趙兵は強いとはいえ憂うるに足らぬ、ただ堅守して拒げば為すところはないと答えた。
  • 石虎が使を四方に遣わして民と夷を招き誘った。燕の成周内史崔燾・居就令游泓・武原令常霸・東夷校尉封抽・護軍宋晃らがみなこれに応じ、およそ三十六城を得た。游泓は游䆳の兄の子である。
  • 冀陽の流寓の士が共に太守宋燭を殺して趙に降った。宋燭は宋晃の從兄である。營丘内史鮮于屈もまた使を遣わして趙に降った。武寧令の廣平人孫興が吏民を曉諭し、共に鮮于屈を収めてその罪を数えて殺し、城を閉じて拒み守った。
  • 朝鮮令の昌黎人孫泳が衆を帥いて趙を拒いだ。大姓の王清らが密かに趙に応ずることを謀り、孫泳が収めて斬った。同謀の数百人が惶り怖れて罪を請い、孫泳はみな釈いてともに拒み守った。
  • 樂浪太守鞠彭は境内がみな叛いたので、郷里の壮士二百余人を選んで共に棘城に還った。
  • 戊子、趙兵が進んで棘城に逼った。燕王慕容皝が出て亡げようとした。帳下將慕輿根が諫めた。趙は強く我は弱い。大王が一度足を挙げれば趙の気勢はついに成り、趙人に国民を収め略させ、兵は強く穀は足りて再び敵しえなくなる。ひそかに思うに趙人はまさに大王がこうすることを欲しているだけだ。どうしてその計中に入られようか。今、堅城を固守すればその勢は百倍する。急攻を縦されてもなお枝え持つに足る。形を観て変を察し、間から出て利を求める。もし事が済せなければ走るのを失わぬ。どうして望風して委て去り必亡の理をなされるのか、と。
  • 慕容皝はそこで止めたが、なお懼れが色に形れた。玄菟太守の河間人劉佩が、今、強冦は外にあり衆心は恟懼している、事の安危は一人に繋がる、大王はこの際に推し委ねるところがない、自ら強いて將士を厲ますべきで弱を示すべきでない、事は急だ、臣が出て撃つことを請う、たとえ大捷がなくても衆を安んずるに足ると言った。そこで敢死の数百騎を将いて出て趙兵を衝き、向かうところ披靡し、斬獲して還った。そこで士気は自ずと倍した。
  • 慕容皝が封弈に計を問うと、答えて、石虎の凶虐は既に甚だしく民神ともに疾んでいる、禍敗の至るのに何の日があろう、今、国を空しくして遠く来ており攻守は勢を異にする、戎馬は強いとはいえ患をなせぬ、兵を頓めて日を積めば釁隙が自ずと生ずる、ただ堅守して待つだけだと言った。慕容皝の意はそこで安んじた。
  • ある者が慕容皝に降を説いた。慕容皝は、孤はまさに天下を取ろうとしている、何を降と言うのかと言った。
  • 趙兵が四面から蟻のように附いて城に縁った。慕輿根らが昼夜力戦することおよそ十余日、趙兵は克てなかった。壬辰、引き退いた。慕容皝はその子の慕容恪に二千騎を帥いさせて追撃させ、趙兵は大敗して三万余級を斬獲した。趙の諸軍はみな甲を棄てて逃げ潰え、ただ游擊將軍石閔の一軍だけが全うされた。
  • 趙が棘城を攻めたとき、燕の右司馬李洪の弟の李普は棘城が必ず敗れると考え、李洪に出て禍を避けるよう勧めた。李洪は、天道は幽遠で人事は知りがたい、しばらく委任して軽々しく動いて悔いを取るなと言った。李普が固く請って已まなかった。李洪は、あなたの意見が明審なら自ら行うべきだ、吾は慕容氏の大恩を受けた、義として去就なく、ここで死を効すだけだと言い、李普と涕を流して訣れた。李普はそのまま趙に降り、趙軍に従って南に帰し、喪乱に死んだ。李洪はこれによって忠篤で名を著した。
  • 趙王石虎が渡遼將軍曹伏に青州の衆を将いさせて海島を戍らせ、穀三百万斛を運んで給した。また船三百艘で穀三十万斛を髙句麗に運び、典農中郎將王典に衆一万余を帥いさせて海濱に屯田させた。また青州に船千艘を造らせて燕を撃つことを謀った。
  • 十二月、叚遼が密雲山から使を遣わして趙に迎えを求めた。やがて中途で悔いて改めて使を遣わして燕に迎えを求めた。
  • 趙王石虎が征東將軍麻秋に衆三万を帥いさせて迎えさせ、麻秋に敕して、降を受けるのは敵を受けるようにせよ、軽んずべきでないと言った。尚書左丞陽裕を叚遼の故臣であるとして麻秋の司馬とした。
  • 燕王慕容皝が自ら諸軍を帥いて叚遼を迎えた。叚遼は密かに燕と趙軍を覆すことを謀り、慕容皝は慕容恪を遣わして精騎七千を密雲山に伏せさせ、麻秋を三藏口で大敗させ、死者は十のうち六、七となった。麻秋は歩いて走って免れた。陽裕は燕に執えられた。
  • 趙の將軍の范陽人鮮于亮が馬を失い歩いて山に縁って進めず、そこで止まって端坐した。燕兵が環らんで叱して起たせようとした。鮮于亮は、身は貴人である、義として小人に屈さぬ、汝らが殺せるなら急ぎ殺せ、できなければ去れと言った。鮮于亮の儀観は豊偉で声気は雄厲であり、燕兵は憚って敢えて殺さず、慕容皝に申し上げた。慕容皝は馬でこれを迎え、語って大いに悦び、用いて左常侍とし、崔毖の娘を妻せた。
  • 慕容皝は叚遼の衆をことごとく得、叚遼を上賓の礼で待し、陽裕を郎中令とした。

咸康五年(339年)

  • 夏四月、叚遼が燕で謀反した。燕人は叚遼およびその党与数十人を殺し、叚遼の首を趙に送った。
  • 冬、燕王慕容皝が長史劉翔・参軍鞠運を遣わして捷を献じ功を論じさせた。
  • 燕王慕容皝がその子の慕容恪・慕容霸に宇文の別部を撃たせた。慕容霸は年十三で勇は三軍に冠たった。

咸康六年(340年)慕容翰の帰還

  • 宇文逸豆歸は慕容翰の才名を忌んだ。慕容翰はそこで狂を装って酣飲し、あるいは臥して自ら便利し、あるいは髪を被って歌い呼び、拝跪して食を乞うた。宇文は国を挙げてこれを賤しみ再び省み録さず、それゆえ行き来できるようになり、山川の形便をみな黙して記した。
  • 燕王慕容皝は慕容翰がもともと叛乱でなく猜嫌によって出奔し、他国にあっても常に潜かに燕のために計っていることから、そこで商人の王車を遣わして宇文部に通市させて慕容翰を窺わせた。慕容翰は王車を見て言葉なく、膺を撫して頷いただけであった。慕容皝は、慕容翰は来ようとしているのだと言い、再び王車に迎えさせた。
  • 慕容翰は弓を三石余りに彎き、矢はとくに長大であった。慕容皝はこれのために手に合う弓と矢を造り、王車に道の傍らに埋めさせて密かに告げた。
  • 二月、慕容翰が宇文逸豆歸の名馬を竊み、二子を携えて過ぎるところで弓矢を取って逃げ帰った。宇文逸豆歸が驍騎百余に追わせた。
  • 慕容翰は、吾は久しく客となって帰ることを思っていた、既に馬に上ったのだから再び還る理はない、吾は先日、愚を装って汝らを誑かしたが、吾の故の芸はなお在る、相逼って自ら死を取るなと言った。追騎はこれを軽んじ、直に突いて前進した。
  • 慕容翰は、吾は汝の国に久しく居った、恨み恨みして汝らを殺したくはない、汝は我を百歩去って汝の刀を立てよ、吾がこれを射て一発で中れば汝は還ってよい、中らなければ来て前んでよいと言った。追騎が刀を解いて立て、一発でまさにその環に中った。追騎は散り走った。
  • 慕容皝は慕容翰が至ったと聞いて大いに喜び、恩遇は甚だ厚かった。

咸康八年(342年)

  • 冬十月、建威將軍慕容翰が慕容皝に言った。宇文は強盛が日久しく度々国の患となってきた。今、宇文逸豆歸は簒竊して国を得たので群情は附かず、加えて性識は庸闇、將帥は才でなく、国に防衛なく軍に部伍がない。臣は久しくその国にあってその地形を悉く知る。遠く強羯に附いているとはいえ声勢は接せず救援の益はない。今、これを撃てば百挙百克である。
  • 慕容翰は続けて、しかし髙句麗は国を去ること密邇で常に窺覬の志がある、宇文が既に亡んで禍が自らに及ぶと知れば必ず虚に乗じて深入し吾の不備を掩う、兵を少し留めれば守るに足らず、多く留めれば行くに足らぬ、これが心腹の患である、先に除くべきだと述べた。その勢力を観れば一挙で克てる。宇文は自守の虜で必ず遠く来て利を争えぬ。既に髙句麗を取ってから還って宇文を取るのは手を返すようなものだ。二国が既に平らげば利は東海に尽き、国は富み兵は強く、返り顧みる憂いがなくなる。その後で中原を図れる、と。
  • 慕容皝は善しとして兵を将いて髙句麗を撃ち、その城を毀って還った。

康帝建元元年(343年)

  • 春二月、宇文逸豆歸がその相の莫淺渾を遣わして兵を将いて燕を撃たせた。諸將は争って撃とうとしたが、燕王慕容皝は許さなかった。莫淺渾は慕容皝が畏れていると思い、酣飲し猟を縦にして再び備えを設けなかった。慕容皝が慕容翰を出して撃たせ、莫淺渾は大敗してやっと身だけ免れ、その衆はことごとく俘にされた。

建元二年(344年)宇文部の滅亡と慕容翰の死

  • 春正月、燕王慕容皝が左司馬髙詡と宇文逸豆歸を伐つことを謀った。髙詡は、宇文は強盛で今取らねば必ず国の患となる、伐てば必ず克つ、しかし將に不利であると言い、出て人に、吾は往けば必ず返らぬ、しかし忠臣は避けぬと告げた。
  • そこで慕容皝は自ら将いて宇文逸豆歸を伐ち、慕容翰を前鋒將軍、劉佩を副とし、慕容軍・慕容恪・慕容霸および折衝將軍慕輿根に兵を将いさせて三道から並進するよう分け命じた。髙詡は発とうとしてその妻に会わず、人に家事を語らせて行った。
  • 宇文逸豆歸が南羅大の渉夜干を遣わして精兵を将いて迎え撃たせた。慕容皝が人を馳せて慕容翰に、渉夜干は勇が三軍に冠たる、少し避けるべきだと言わせた。
  • 慕容翰は、宇文逸豆歸はその国内の精兵を掃って渉夜干に属した。渉夜干はもとより勇名があり一国の頼るところである。今、我がこれに克てばその国は攻めずして自ら潰える。しかも吾は渉夜干の人となりをよく知る。虚名はあるが実は与しやすい。避けて吾の兵気を挫くべきでないと言い、そのまま進んで戦った。
  • 慕容翰が自ら出て陣を衝き、渉夜干が出て応じた。慕容霸が傍らから邀え撃ち、ついに渉夜干を斬った。宇文の士卒は渉夜干の死を見て戦わずに潰えた。燕兵は勝に乗じて逐い、ついにその都城を克った。宇文逸豆歸は走って漠北で死に、宇文氏はこれによって散亡した。
  • 慕容皝はその畜産・資貨をことごとく収め、その部衆五千余落を昌黎に徙し、地を千余里闢いた。渉夜干の居った城を改めて威徳城と命名し、弟の慕容彪に戍らせて還った。
  • 髙詡・劉佩はみな流矢に中って死んだ。髙詡は天文を善くした。慕容皝がかつて、あなたに佳い書があって与えられぬのは、何で忠を尽くしたと言えるかと言った。髙詡は、臣が聞くところ人君は要を執り人臣は職を執る、要を執る者は逸で職を執る者は労する、それゆえ后稷が種を播いても堯は与らなかった、天文を占い候うのは晨夜甚だ苦しく、至尊が親しむべきところでない、殿下はどうしてこれを用いられるのかと言った。慕容皝は黙然とした。
  • もともと宇文逸豆歸は趙に事えること甚だ謹み、貢献は路に属いた。燕人が宇文逸豆歸を伐つと、趙王石虎は右將軍白勝・并州刺吏王霸に甘松から出て救わせた。着く頃には宇文氏は既に亡んでいた。それに因って威徳城を攻めたが克てず還り、慕容彪が追撃して破った。
  • 慕容翰が宇文氏と戦ったとき流矢に中り、臥病して時を積み外に出なかった。後に次第に差えてその家で試みに馬を騁せた。ある者が、慕容翰は病と称して私に騎乗を習っている、変をなそうとしているのかと疑いを告げた。
  • 燕王慕容皝は慕容翰の勇略に藉ったとはいえ、中心はついにこれを忌んでおり、そこで慕容翰に死を賜った。慕容翰は、吾は罪を負って出奔し、やがてまた還った、今日の死は既に晩い、しかし羯賊が中原を跨ぎ拠っている、吾は自ら量らず国家のために区夏を蕩き壹にしたいと思っていた、この志が遂げられず没するのは遺恨がある、命であろうよと言い、薬を飲んで死んだ。