通鑑紀事本末王敦、湘・漢を平定する(王敦平湘漢)

荆・湘に流寓した巴蜀の流民が土着の民に苦しめられ、王澄の殺戮と誅殺の風説をきっかけに杜弢を主に推して大乱となる。征討都督の王敦は陶侃・周訪・甘卓を用いて杜弢を数十戦のすえ滅ぼし、湘州を平定する。一方、竟陵で起こった杜曾が第五猗を擁して漢・沔に拠り、陶侃・王廙を破って猛威を振るうが、周訪が沌陽の戦いで大破する。その間、王敦は王澄を殺し、功のあった陶侃を廣州へ左遷して江南六州の都督を握り、次第に驕横になっていく。永嘉五年(311年)から大興二年(319年)の杜曾・第五猗の処刑まで。

年表(10件)

晉懷帝永嘉五年(311年)杜弢の乱

  • 巴蜀の流民が荆・湘の間に布いており、度々土地の民に侵され苦しめられた。蜀人の李驤が衆を聚めて樂鄉に拠って反した。南平太守應詹が醴陵令杜弢とともに撃ち破った。
  • 荆州刺史王澄が成都内史王機を遣わして李驤を討たせた。李驤が降を請い、王澄は偽って許して襲い殺し、その妻子を賞とし、八千余人を江に沈めた。流民はますます怨み忿った。
  • 蜀人の杜疇らが再び反した。湘州参軍馮素は蜀人の汝班と隙があり、刺史荀眺に、巴蜀の流民はみな反そうとしていると言った。荀眺はこれを信じて流民をすべて誅そうとした。流民は大いに懼れ、四、五万家が一時にともに反し、杜弢が州里の重望であることから共に推して主とした。杜弢は自ら梁益二州牧・領湘州刺史と称した。
  • 王敦が揚州刺史となり、ほどなく都督征討諸軍事を加えられた。
  • 夏四月、杜弢が長沙を攻めた。五月、荀眺は城を棄てて廣州に奔ったが、杜弢が追って擒にした。そこで杜弢は南に零陵・桂陽を破り、東に武昌を掠め、二千石・長吏を殺すこと甚だ多かった。

永嘉六年(312年)胡亢・杜曾と王澄の失脚

  • 故新野王司馬歆の牙門將胡亢が衆を竟陵に聚めて自ら楚公と号し、荆の土を冦掠した。司馬歆の南蠻司馬の新野人杜曾を竟陵太守とした。杜曾は勇が三軍に冠たり、甲を被って水中を游げた。
  • 王澄は荆州にあって成都内史王機を悦び、自らに次ぐ者と評して、内は心膂を綜べさせ外は爪牙とした。
  • 王澄は度々杜弢に敗れて望と実がともに損じたが、なお傲然と自得して憂懼の意がなく、ただ王機と日夜、酒を縦にし博弈するばかりであった。これによって上下は離心した。南平太守應詹が度々諫めたが聴かなかった。
  • 王澄が自ら軍を出して杜弢を撃ち、作塘に軍した。故山簡の参軍王冲が衆を擁して應詹を刺史に迎えたが、應詹は王冲が無頼であるとして棄てて南平に還った。王冲はそこで自ら刺史を称した。
  • 王澄は懼れてその將杜㽔に江陵を守らせ、治を孱陵に徙し、ほどなくまた沓中に奔った。別駕郭舒が諫めた。使君は州に臨んで異政はないとはいえ、なお一州の人心が繋がるところである。今、西に華容の兵を収めればこの小醜を擒にするに足る。どうして自ら棄てて急に奔亡するのか、と。王澄は従わず、郭舒を将いて東下しようとした。郭舒は、舒は万里の紀綱であり、正しく厈すことができず使君を奔亡させた、まことに江を渡るに忍びぬと言い、そこで留まって沔口に屯した。
  • 琅邪王司馬睿はこれを聞いて王澄を召して軍諮祭酒とし、軍諮祭酒周顗をこれに代えた。王澄はそこで召に赴いた。
  • 周顗が州に至った当初、建平の流民の傅密らが叛いて杜弢を迎え、杜弢の別將王眞が沔陽を襲い、周顗は狼狽して拠るところを失った。
  • 征討都督王敦が武昌太守陶侃・尋陽太守周訪・歴陽内史甘卓を遣わして共に杜弢を撃たせ、王敦は進んで豫章に屯して諸軍の継援となった。
  • 王澄が王敦を訪ねた際、自ら名声がもとより王敦の上に出ていたことから、なお旧の意で王敦を侮った。王敦は怒って王澄が杜弢と信を通じたと誣り、壮士を遣わして搤り殺した。
  • 王機は王澄の死を聞いて禍を懼れ、父の王毅・兄の王矩がいずれもかつて廣州刺史であったことから、王敦に廣州を求めたが許されなかった。折しも廣州の將温邵らが叛き、刺史郭訥が王機を迎えて刺史とした。王機はそのまま奴客・門生千余人を将いて廣州に入った。郭訥が兵を遣わして拒んだが、將士はみな王機の父兄の時の部曲で、戦わずに迎え降った。郭訥はそこで位を避けて州をこれに授けた。

愍帝建興元年(313年)陶侃の登用

  • 胡亢は性が猜忌でその驍將数人を殺した。杜曾は懼れて潜かに王冲の兵を引いて胡亢を攻めさせた。胡亢は精兵をことごとく出して拒み、城中は空虚となった。杜曾はそれに因って胡亢を殺してその衆を併せた。
  • 周顗が潯水城に屯して杜弢に困じた。陶侃が明威將軍朱伺を遣わして救わせ、杜弢は退いて泠口を保った。陶侃は、杜弢は必ず歩いて武昌に向かうと言い、そこで自ら径道から郡に還って待った。杜弢は果たして来て攻め、陶侃は朱伺に迎撃させて大破した。杜弢は遁れて長沙に帰った。
  • 周顗は潯水を出て豫章の王敦に投じ、王敦はこれを留めた。陶侃が参軍王貢を遣わして王敦に捷を告げた。王敦は、陶侯がなければ荆州を失っていたと言い、そこで上表して陶侃を荆州刺史として沔江に屯させた。江左の丞相司馬睿は周顗を召して再び軍諮祭酒とした。
  • 王貢が王敦のもとから還って竟陵に至り、陶侃の命を矯めて杜曾を前鋒大都督として王冲を撃たせて斬り、その衆をことごとく降した。陶侃が杜曾を召したが杜曾は至らなかった。王貢は矯命によって罪を獲ることを恐れ、そのまま杜曾と反して陶侃を撃った。
  • 冬十月、陶侃の兵は大敗し、やっと身だけ免れた。王敦は上表して陶侃を白衣で職を領させた。陶侃は再び周訪らを帥いて進んで杜弢を撃ち大破し、王敦はそこで奏して陶侃の官を復した。

建興二年(314年)

  • 春三月、杜弢の將王眞が休障で陶侃を襲い、陶侃は灄中に奔った。周訪が陶侃を救い、杜弢の兵を撃って破った。

建興三年(315年)杜弢の滅亡

  • 春二月、王敦が陶侃・甘卓らを遣わして杜弢を討たせた。前後数十戦、杜弢の將士は多く死に、そこで丞相司馬睿に降を請ったが、司馬睿は許さなかった。
  • 杜弢は南平太守應詹に書を遺して自ら陳べた。昔、應詹とともに樂郷を討ち、もと休戚を同じくしていた。後に湘中にあって死を懼れ生を求め、そのまま相結び聚まった。もし旧交の情によって枉と直を明らかにし、誠を盟府に輸して義徒に厠列させていただけるなら、あるいは北に中原を清め、あるいは西に李雄を取って前の愆を贖いたい。死の日といえども生の年のごとくである、と。
  • 應詹はその書を啓呈し、しかも杜弢は益州の秀才でもとより清望があり郷人に逼られたのだ、今、悪を悔いて善に帰したのだから、使に命じて撫し納れて江・湘の民を息めるべきと言った。
  • 司馬睿はそこで前南海太守王運に杜弢の降を受けさせ、その反逆の罪を赦し、杜弢を巴東監軍とした。
  • 杜弢が命を受けたのに諸將はなお攻めて已まなかった。杜弢は憤怒に勝てず、ついに王運を殺して再び反した。その將杜弘・張彦を遣わして臨川内史謝摛を殺させ、そのまま豫章を陥した。三月、周訪が張彦を撃って斬り、杜弘は臨賀に奔った。
  • 秋八月、陶侃が杜弢と相攻んだ。杜弢が王貢を出して挑戦させた。陶侃は遥かにこれに、杜弢は益州の小吏で庫の銭を盗用し、父が死んでも喪に奔らなかった、あなたはもと佳い人だ、なぜこれに随うのか、天下に白頭の賊があろうかと言った。
  • 王貢は初め脚を馬上に横たえていたが、陶侃の言を聞くと容を斂めて脚を下ろした。陶侃は動かせると知って再び使を遣わして諭し、髪を截って信とした。王貢はそこで陶侃に降った。杜弢の衆は潰えて遁れ走り、杜弢は道で死んだ。
  • 陶侃は南平太守應詹と進んで長沙を克ち、湘州はことごとく平らいだ。丞相司馬睿は制を承けてその部下を赦し、王敦を鎮東大將軍に進めて都督江楊荆湘交廣六州諸軍事・江州刺史を加えた。王敦は初めて自ら刺史以下を選び置き、次第にいよいよ驕横になった。

建興三年 続き 杜曾と第五猗

  • もともと朝廷は張光の死を聞いて、侍中第五猗を安南將軍・監荆梁益寧四州諸軍事・荆州刺史とし、武關から出させた。杜曾が第五猗を襄陽で迎え、兄の子に第五猗の娘を娶らせ、そのまま兵一万人を聚めて第五猗と漢・沔を分け拠った。
  • 陶侃は杜弢を破ってから勝に乗じて進んで杜曾を撃ち、杜曾を軽んずる志があった。司馬魯恬が諫めて、およそ戦うにはまずその將を料るべきだ、今、使君の諸將に杜曾に及ぶ者はない、易々と逼れぬと言った。
  • 陶侃は従わず、進んで石城で杜曾を囲んだ。杜曾の軍には騎兵が多く、密かに門を開いて陶侃の陣を突き、その後に出て逆に撃った。陶侃の兵の死者は数百人であった。杜曾は順陽に趨ろうとして馬を下りて陶侃を拝し、辞を告げて去った。
  • 当時、荀崧が都督荆州江北諸軍事として宛に屯していた。杜曾が兵を引いて囲んだ。荀崧は兵が少なく食が尽き、故吏の襄陽太守石覽に救を求めようとした。荀崧の小娘の荀灌は年十三で、勇士数十人を帥いて城を踰えて囲みを突き、夜に出て戦いつつ前進し、ついに石覽のもとに達した。また荀崧の書を作って南中郎將周訪に救を求めた。周訪は子の周撫に兵三千を帥いさせて石覽とともに荀崧を救い、杜曾はそこで遁れ去った。
  • 杜曾は改めて荀崧に牋を致し、丹水の賊を討って自ら効することを求めた。荀崧は許した。陶侃が荀崧に書を遺して、杜曾は凶狡で、いわゆる鴟梟が母を食う物である、この人が死なねば州土は寧かならぬ、足下はまさに吾の言を識るべきだと述べた。荀崧は宛中の兵が少なく杜曾を外援に藉ろうとして従わなかった。杜曾は再び流亡二千余人を帥いて襄陽を囲んだが、数日克てず還った。

建興三年 続き 陶侃の廣州転出

  • 王敦の嬖人の吳興人錢鳯が陶侃の功を疾んで度々毀った。陶侃が江陵に還ろうとして王敦に詣って自ら陳べようとした。朱伺および安定の皇甫方回が、公は入れば必ず出られぬと諫めたが、陶侃は従わなかった。
  • 着くと王敦は陶侃を留めて遣わさず、廣州刺史に左転し、その從弟の丞相軍諮祭酒王廙を荆州刺史とした。
  • 荆州の將吏の鄭攀・馬儁らが王敦に詣って上書して陶侃を留めることを請うたが、王敦は怒って許さなかった。鄭攀らは陶侃が大賊を滅ぼしたばかりでかえって黜けられたことに衆情が憤り惋み、また王廙が忌戻で事えがたいことから、そのままその徒三千人を帥いて溳口に屯し、西に杜曾を迎えた。
  • 王廙は鄭攀らに襲われて江安に奔った。杜曾は鄭攀らと北に第五猗を迎えて王廙を拒いだ。王廙が諸軍を督して杜曾を討ったが、再び杜曾に敗れた。
  • 王敦は鄭攀が陶侃の風旨を承けたと思い、甲を被り矛を持って陶侃を殺そうとし、出てまた還ることが数四であった。陶侃は正色して、使君は雄断で天下を裁するべきだ、なぜこれを決しないのかと言い、それに因って起って厠に行った。
  • 諮議参軍梅陶・長史陳頒が王敦に、周訪と陶侃は親姻で左右の手のようだ、どうして人の左手を断って右手が応じぬことがあろうかと言った。王敦の意は解け、そこで盛饌を設けて餞した。陶侃はそのまま夜に発った。王敦はその子の陶瞻を引いて参軍とした。
  • もともと交州刺史顧祕が死に、州人は顧祕の子の顧壽に州事を領させた。帳下督梁碩が兵を起こして顧壽を攻めて殺し、梁碩はそこで交州を専制した。
  • 王機は自ら廣州を盗み拠ったので王敦が討つことを恐れ、改めて交州を求めた。折しも杜弘が王機に詣って降ったので、王敦は王機に因って梁碩を討たせようとし、そこで杜弘を降したのを王機の功として交州刺史に転じた。
  • 王機は鬱林に至り、梁碩が前刺史脩則の子の脩湛を迎えて州事を行わせ拒んだので、王機は進めなかった。そこで改めて杜弘および廣州の將温邵・交州秀才劉沈と謀って還って廣州に拠ろうとした。
  • 陶侃が始興に至ると、州人はみな形勢を観察すべきで軽々しく進めぬと言った。陶侃は聴かず、直に廣州に至った。諸郡県はみな既に王機を迎えていた。
  • 杜弘が使を遣わして偽降した。陶侃はその謀を知って進撃して杜弘を破り、そのまま劉沈を小桂で執え、督護許高を遣わして王機を討たせて走らせた。王機は道で病死し、許高はその尸を掘って斬った。
  • 諸將がみな勝に乗じて温邵を撃つことを請うと、陶侃は笑って、吾の威名は既に著しい、どうして兵を遣わす必要があろう、ただ一函の紙で自ずと定まるだけだと言い、そこで書を下して諭した。温邵は懼れて走り、始興で追い獲られた。
  • 杜弘は王敦に詣って降り、廣州はそこで平らいだ。王敦は杜弘を將として寵任した。

元帝建武元年(317年)杜曾との戦い

  • 鄭攀らが相与に王廙を拒いだが衆心は一つでなく、散じて還って横桑口に至り、杜曾に入ろうとした。王敦は武昌太守趙誘・襄陽太守朱軌を遣わして撃たせ、鄭攀らは懼れて降を請うた。杜曾もまた第五猗を襄陽で撃って自ら贖うことを請うた。
  • 王廙は荆州に赴こうとして長史劉浚を留めて揚口の塁を鎮させた。竟陵内史朱伺が王廙に、杜曾は猾賊である、外には屈服を示して官軍を誘って西させ、その後で道を兼ねて揚口を襲おうとしているだけだ、大いに部を分けるべきで、すぐ西すべきでないと言った。
  • 王廙は性が矜厲で自ら用い、朱伺を老怯として、そのまま西行した。杜曾らは果たして還って揚口に趨った。王廙はそこで朱伺を帰らせたが、塁に至ったばかりで杜曾に囲まれた。劉浚が自ら北門を守り、朱伺に南門を守らせた。
  • 馬儁が杜曾に従って塁を攻めた。馬儁の妻子は先に塁中にあり、ある者がその面の皮を剝いで示そうとした。朱伺は、その妻子を殺しても囲みを解けぬ、ただその怒りを増すだけだと言って止めた。
  • 杜曾が北門を攻め陥し、朱伺は傷を被って退いて船に入り、船底を開いて出、沈んで五十歩行ってようやく免れた。
  • 杜曾が人を遣わして朱伺に説き、馬儁はあなたの徳でその妻子を全うされた、今、あなたの家の内外百口をすべて馬儁に付した、馬儁は既に心を尽くして収め視ている、あなたは来られよと言った。朱伺は報せて、吾は年六十余、再びあなたと賊をなせぬ、吾は死んでもまさに南に帰るべきだ、妻子はあなたに付す、裁するがよいと言った。そこで甑山の王廙のもとに就き、創を病んで死んだ。
  • 戊寅、趙誘・朱軌および陵江將軍黄峻が杜曾と女観湖で戦い、趙誘らはみな敗死した。杜曾は勝に乗じて直に沔口に造り、威は江・沔を震わせた。
  • 晉王が豫章太守周訪に撃たせた。周訪は衆八千を有し、進んで沌陽に至った。杜曾の鋭気は甚だ盛んであった。周訪は將軍李恒に左甄を督させ許朝に右甄を督させ、自ら中軍を領した。
  • 杜曾がまず左右の甄を攻めた。周訪は陣の後で雉を射て衆心を安んじ、その衆に、一甄が敗れれば鼓を三度鳴らし、両甄が敗れれば鼓を六度鳴らすと令した。
  • 趙誘の子の趙㣧が父の余兵を将いて左甄に属し、力戦して敗れてまた合し、馬を馳せて周訪に告げた。周訪は怒って叱して改めて進ませた。趙㣧は号哭して還り戦った。
  • 旦から申まで、両甄はみな敗れた。周訪は精鋭八百人を選び、自ら酒を行って飲ませ、妄りに動くな、鼓の音を聞いてから進めと敕した。杜曾の兵が三十歩に至らぬところで、周訪は自ら鼓を鳴らし、將士はみな騰躍して奔り赴いた。杜曾はついに大いに潰え、千余人を殺した。
  • 周訪が夜に追おうとすると、諸將は明日を待つことを請うた。周訪は、杜曾は驍勇でよく戦う、先ほどは彼が労し我が逸だったので克てた、その衰えるに及んで乗ずれば滅ぼせると言い、そこで鼓を鳴らして進み、ついに漢・沔を定めた。杜曾は走って武當を保ち、王廙は初めて荆州に至ることができた。周訪は功で梁州刺史に遷り襄陽に屯した。

大興元年(318年)

  • 冬十一月、詔で王敦を荆州牧とし、陶侃に都督交州諸軍事を加えた。王敦は固く州牧を辞し、そこで刺史となることを聴された。

大興二年(319年)杜曾の滅亡

  • 夏四月、周訪が杜曾を撃って大破した。馬儁らが杜曾を執えて降り、周訪は斬った。あわせて第五猗を獲て武昌に送った。
  • 周訪は第五猗がもと中朝の署したところであり加えて時望があるとして、王敦に殺すべきでないと申し上げたが、王敦は聴かず斬った。