通鑑紀事本末張氏、涼州に拠る(張氏據凉)
安定の張軌が乱世を見越して涼州刺史を求め、盗賊と鮮卑を平らげて河西に拠るところから始まる。張越・曹祛の廃立の企てを退け、洛陽・長安へ貢献と援兵を送って晉室の藩屏となり、關中が乱れるなかで涼州だけが安全を保った。張寔は妖人劉弘の党に殺され、弟の張茂が継いで前趙劉曜の大軍に藩を称し、次いで張駿の代に境内は安定して西域諸国も朝貢する。張駿は三州を分置して假涼王を称し、その子の張重華は謝艾を抜擢して後趙の麻秋・石寧の攻勢を枹罕・神鳥で破る。永寧元年(301年)から永和五年(349年)の索振の諫言まで。
年表(29件)
- 晉惠帝
- 永寧元年張軌の涼州赴任301年河西に拠る志を抱いた張軌が涼州刺史となり、盗賊と鮮卑を討ち破る
- 懷帝
- 永嘉二年張越らの反乱308年張越・張鎮・曹祛の廃立の企てを張寔が討ち平らげ、涼州が定まる
- 永嘉四年310年鎮西將軍・都督隴右諸軍事を加えられ、饑えた京師に馬と布を献ずる
- 永嘉六年長安への出兵312年馬魴の説で關中に檄し、宋配・張寔らを長安に発して裴苞を破る
- 愍帝
- 建興二年張軌の死314年張軌が薨じ、世子の張寔が涼州刺史・西平公を継ぐ
- 建興三年315年軍士が得た「皇帝行璽」を張寔は留めず長安に帰す
- 建興四年隗瑾の諫言316年独断を戒める隗瑾の言を容れ、王該を長安に入援させる
- 元帝
- 建武元年愍帝の詔と東征317年愍帝の詔を受けながら官を辞し、韓璞らを東に発して南安で諸羌を破る
- 大興元年318年蔡忠を建康に遣わすが、江東の年号を用いずなお建興と称する
- 大興三年張寔の暗殺320年妖人劉弘に惑わされた閻涉・趙卬が張寔を殺し、弟の張茂が推されて立つ
- 大興四年321年閻曾が霊鈞臺の造営を諫め、張茂は妖言とせず役を罷める
- 永昌元年322年韓璞に隴西・南安の地を取らせて秦州を置く
- 明帝
- 太寧元年前趙の侵攻323年劉曜の二十八万が河上に迫り、張茂は藩を称して涼王・九錫を受ける
- 太寧二年張茂の死324年張茂が薨じて張駿が継ぎ、劉慶の諫めで辛晏討伐を止める
- 太寧三年325年辛晏が枹罕をもって降り、河南の地を再び収める
- 成帝
- 咸和元年成との通交326年成の李雄に使を送って晉への称藩を勧め、以後聘使が相継ぐ
- 咸和二年河南の喪失327年劉胤が辛巖・韓璞を沃干嶺と洮西で破り、令居も陥ちて河南の地を失う
- 咸和三年328年長安を襲う計を索詢が諫めて止める
- 咸和五年330年前趙の滅亡に乗じて河南の地を収め、後趙の九錫は恥として受けない
- 咸和七年332年涼王を称せよという僚属の勧めを退けるが、境内はみな王と称する
- 咸和八年張淳の建康使行333年張淳が成の李雄の刺客の謀を看破して道を借り、建康に命を致す
- 咸和九年334年耿訪・王豐が印綬を齎し、大將軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事を授けられる
- 咸康元年張駿の治世335年庶政が修まって民は富み、楊宣が西域を伐って焉耆・于窴らが朝貢する
- 咸康五年339年辟雍・明堂を立てて礼を行い、世子の張重華に州事を行わせる
- 咸康六年340年趙への表辞が傲慢で石虎が怒るが、石璞の諫めで使者は斬られずに済む
- 穆帝
- 永和元年三州の分置345年涼・河・沙の三州を分置し、自ら大都督・假涼王と称して百官を置く
- 永和二年張重華と趙の攻防346年張駿が薨じて張重華が継ぎ、張躭の推挙で謝艾が麻秋を破る
- 永和三年枹䍐の攻防と謝艾の活躍347年謝艾が河上と神鳥で麻秋らを大破し、石虎に「彼に人あり」と嘆かせる
- 永和五年索振の諫言349年張重華が丞相・涼王とされ、寵臣への濫賜と博弈を索振に諫められる
晉惠帝永寧元年(301年)張軌の涼州赴任
- 春正月、散騎常侍の安定人張軌を涼州刺史とした。張軌は当時まさに多難であることから、ひそかに河西に保拠する志があり、それゆえ涼州を求めたのである。
- 当時、州境は盗賊が縦横し鮮卑が冦をなしていた。張軌は着任すると宋配・汜瑗を謀主とし、ことごとく討ち破って威は西土に著れた。
懷帝永嘉二年(308年)張越らの反乱
- 春二月、涼州刺史張軌が風の病で口が利けなくなり、その子の張茂に州事を摂らせた。
- 隴西内史の晉昌人張越は涼州の大族で、張軌を逐って代わろうとし、兄の酒泉太守張鎮および西平太守曹祛と謀って使を長安に詣らせ、南陽王司馬模に張軌が廃疾だと称して、秦州刺史賈龕を代わりに立てることを請うた。賈龕は受けようとしたが、その兄が賈龕に、張涼州は一時の名士で威は西州に著れている、あなたが何の徳で代われようかと言い、賈龕はそこで止めた。
- 張鎮・曹祛が上疏して改めて刺史を請い、報せがないうちに、そのまま檄を移して張軌を廃し、軍司杜耽に州事を摂らせ、杜耽から張越を刺史とする表を出させた。
- 張軌は教を下して位を避けて宜陽に老を帰そうとした。長史王融・参軍孟暢が張鎮の檄を蹋み折り、閤を排して入って、晉室に多故があり明公が西夏を撫寧しているのに、張鎮兄弟は敢えて凶逆を肆にしている、鼓を鳴らして誅すべきだと言い、そのまま出て戒厳した。
- 折しも張軌の長子の張寔が京師から還ったので、張寔を中督護として兵を将いて張鎮を討たせ、張鎮の甥の太府主簿令狐亞を先に往かせて張鎮に説き、利害を陳べさせた。張鎮は涕を流して、人が自分を誤らせたと言い、そこで張寔に詣って罪に帰した。張寔は南に曹祛を撃って走らせた。
- 朝廷は張鎮・曹祛の疏を得て、侍中袁瑜を涼州刺史とした。治中楊澹が馳せて長安に詣り、耳を割いて盤に載せて張軌の誣られたことを訴えた。南陽王司馬模が上表して袁瑜を停めることを請い、武威太守張琠もまた上表して張軌を留めることを求めた。詔で司馬模の表するところに依り、あわせて曹袪を誅すよう命じた。
- 張軌はそこで張寔に歩騎三万を帥いて曹袪を討たせて斬った。張越は鄴に奔り、涼州はそこで定まった。
- 五月、詔で張軌を西平郡公に封じたが、張軌は辞して受けなかった。当時、州郡の使で至る者がなかったが、張軌だけは使を遣わして貢献し、歳時に絶えなかった。
永嘉四年(310年)
- 十一月、詔で張軌に鎮西將軍・都督隴右諸軍事を加えた。光禄大夫傅祗・太常摯虞が張軌に書を遺して京師の饑匱を告げた。張軌は参軍杜勲を遣わして馬五百匹・㲜布三万匹を献じた。
永嘉六年(312年)長安への出兵
- 春三月、涼州主簿馬魴が張軌に、將に命じて師を出し帝室を翼戴すべきと説き、張軌は従った。關中に檄を馳せて共に秦王を尊び輔けるよう求め、しかも今、前鋒督護宋配に歩騎二万を帥いさせて直に長安に趨らせ、西中郎將張寔に中軍三万、武威太守張璵に胡騎二万を帥いさせて絡繹して継ぎ発つと述べた。
- 秋九月、秦州刺史裴苞が険に拠って涼州の兵を拒んだ。張寔・宋配らが撃ち破り、裴苞は柔凶塢に奔った。
愍帝建興二年(314年)張軌の死
- 二月壬寅、張軌を太尉・涼州牧として西平郡公に封じた。朝廷は張軌が老病であることから、その子の張寔を副刺史に拝した。
- 夏五月、西平武穆公張軌が病に臥せ、文武の將佐に遺令して、百姓を安んずることに務め、上は国に報いることを思い、下は家を寧んぜよと述べた。己丑、張軌が薨じ、長史張璽らが上表して世子の張寔に父の位を摂らせた。
- 冬十月、張寔を都督涼州諸軍事・涼州刺史・西平公とした。
建興三年(315年)
- 冬十月、涼州の軍士張冰が「皇帝行璽」の文がある璽を得て張寔に献じた。僚属はみな賀したが、張寔は、これは人臣が留めうるものでないと言い、使を遣わして長安に帰した。
建興四年(316年)隗瑾の諫言
- 夏四月、張寔が令を下して、部下の吏民でその過ちを挙げうる者があれば布帛・羊・米を賞するとした。
- 賊曹佐の髙昌人隗瑾が言った。今、明公が政をなすのに、事は大小を問わずみな自ら決している。あるいは師を興し令を発しても府朝が知らぬことがある。万一の違失があっても謗を分かつところがなく、群下は威を畏れて成るを受けるだけである。こうであれば千金を賞しても、ついに敢えて言うまい。少し聡明を損じ、およそ百般の政事はみな群下に延き訪ね、それぞれ懐うところを尽くさせ、その後で採って行うべきだ。そうすれば嘉言は自ずと至る。どうして賞する必要があろうか、と。張寔は悦んで従い、隗瑾の位を三等増した。
- 張寔は將軍王該に歩騎五千を帥いさせて長安に入援させ、あわせて諸郡の貢と計を送った。詔で張寔に都督陝西諸軍事を拝し、張寔の弟の張茂を秦州刺史とした。
元帝建武元年(317年)愍帝の詔と東征
- 春正月、黄門郎史淑・侍御史王沖が長安から涼州に奔り、愍帝が出降する前日に史淑らに詔を齎させて張寔に賜い、張寔に大都督・涼州牧・侍中・司空・承制行事を拝し、しかも朕は既に琅邪王に時に大位を摂るよう詔した、君は琅邪を恊賛して共に多難を済せと述べたと称した。
- 史淑らが姑臧に至り、張寔は大いに臨むこと三日、官を辞して受けなかった。
- もともと張寔の叔父の張肅は西海太守で、長安の危逼を聞いて先鋒となって入援することを請うた。張寔はその老いによって許さなかった。長安が守られなかったと聞いて、張肅は悲憤して死んだ。
- 張寔は太府司馬韓璞・撫戎將軍張閬らに歩騎一万を帥いさせて東に漢を撃たせ、討虜將軍陳安・故太守賈騫・隴西太守吳紹にそれぞれ郡兵を統べさせて前駆とした。
- また相國司馬保に書を遺した。王室に事があれば身を投ずることを忘れない。先に賈騫を遣わして公の挙動を瞻せたが、途中で符命を被って賈騫に還軍するよう敕した。ほどなく冦が長安に逼り、胡崧が進まず、麴允が金五百を持って崧に救を請うたと聞いた。そこで決して賈騫らを遣わして進軍させ嶺を渡らせた。折しも朝廷の傾覆を聞き、忠を遂げられず、憤痛は深く、死んでも余責がある。今、改めて韓璞らを遣わす。ただ公の命に従うのみ、と。
- 韓璞らはついに進めず還り、南安に至って諸羌が路を断ち、相持すること百余日、糧は竭き矢は尽きた。韓璞は車中の牛を殺して士を饗し、泣いて、あなたたちは父母を念うかと言った。念うと答えた。妻子を念うかと言った。念うと答えた。生きて還りたいかと言った。願うと答えた。自分の令に従うかと言った。諾と答えた。そこで鼓を鳴らして騒ぎ進んで戦った。折しも張閬が金城の兵を帥いて続いて至り、挟撃して大破し、数千級を斬った。
- これに先立ち長安に、秦川の中は血が腕を没するが、ただ涼州は柱に倚って観るという謡があった。漢兵が關中を覆すと、氐羌が隴右を掠め、雍・秦の民の死者は十のうち八、九であったが、独り涼州だけが安全であった。
大興元年(318年)
- 春三月、張寔が牙門蔡忠を遣わして表を奉じて建康に詣らせた。至った頃には帝は既に即位していた。張寔は江東の年号を用いず、なお建興と称した。
大興三年(320年)張寔の暗殺
- 夏六月、京兆の人劉弘が涼州の天梯山に客居し、妖術で衆を惑わし、道を受ける者は千余人であった。西平元公張寔の左右はみなこれに事えた。帳下の閻涉・牙門趙卬はいずれも劉弘の郷人であった。劉弘が二人に、天が我に神璽を与えた、涼州に王たるべきだと言い、閻涉・趙卬はこれを信じ、密かに張寔の左右十余人と張寔を殺して劉弘を主に奉ずることを謀った。
- 張寔の弟の張茂がその謀を知って劉弘を誅すことを請い、張寔は牙門將史初にこれを収めるよう命じた。着かぬうちに閻涉らが刃を懐にして入り、外の寝所で張寔を殺した。
- 劉弘は史初が至るのを見て、使君は既に死んだ、我を殺して何になるのかと言った。史初は怒ってその舌を截って囚え、姑臧の市で轘した。その党与数百人を誅した。
- 左司馬陰元らは張寔の子の張駿がまだ幼いことから張茂を涼州刺史・西平公に推し、その境内を赦し、張駿を撫軍將軍とした。
- 秋八月、西平公張茂が兄の子の張駿を世子に立てた。
大興四年(321年)
- 春二月、張茂が靈鈞臺を築き、基の高さ九仞となった。武陵の閻曾が夜に府門を叩いて呼び、武公(張軌)が我を遣わして来させた、なぜ民を労して臺を築くのかと言った。有司はこれを妖として殺すことを請った。張茂は、吾はまことに民を労した、閻曾は先君の命を称して吾を規したのだ、何を妖と言うのかと言い、そこでこれのために役を罷めた。
永昌元年(322年)
- 冬十二月、張茂が將軍韓璞に衆を帥いさせて隴西・南安の地を取り、秦州を置いた。
明帝太寧元年(323年)前趙の侵攻
- 八月、趙主劉曜が隴上から西に涼州を撃った。その將劉咸を遣わして冀城の韓璞を攻めさせ、呼延晏に桑壁の寧羌護軍陰鑒を攻めさせた。劉曜自ら戎卒二十八万を将いて河上に軍し、営を列べること百余里、金鼓の声は地を動かし、河水はこれのため沸いた。
- 張茂の河に臨む諸戍はみな望風して奔り潰えた。劉曜は百道からともに渡って直に姑臧に抵ると揚言し、涼州は大いに震えた。
- 参軍馬岌が張茂に自ら出て拒ぎ戦うよう勧めた。長史汜褘が怒ってこれを斬ることを請うた。馬岌は言った。汜公は糟粕の書生で刺挙の小才、家国の大計を思わぬ。明公父子は朝廷のために劉曜を誅そうとして年がある。今、劉曜が自ら至り、遠近の情は共に明公のこの挙を観ている。信勇の験を立てて秦・隴の望に副うべきだ。力は敵わぬとはいえ、勢として出ざるをえない、と。張茂は、善しと言い、そこで出て石頭に屯した。
- 張茂が参軍陳珍に、劉曜が三秦の衆を挙げて勝に乗じ席巻して来た、どうすべきかと言った。
- 陳珍は答えた。劉曜の兵は多いが精卒は至って少なく、大抵はみな氐羌の烏合の衆で恩信が未だ洽らず、しかも山東の虞がある。どうしてその腹心の疾を捨てて日を曠しくし持久して我と河西の地を争えよう。もし二旬たって退かなければ、珍は弊卒数千を得て明公のためにこれを擒にしたい、と。張茂は喜んで陳珍に兵を将いて韓璞を救わせた。
- 趙の諸將が争って河を渡ろうとしたが、趙主劉曜は言った。吾の軍勢は盛んだが、威を畏れて来た者が三分の二を占め、中軍は疲れ困じて実は用いがたい。今はただ甲を按じて動かず、吾の威声で震わすべきだ。もし中旬を出て張茂の表が至らなければ、吾はあなたたちに負くことになろう、と。
- 張茂はほどなく使を遣わして藩を称し、馬・牛・羊・珍宝を献じ、記し尽くせなかった。劉曜は張茂に侍中・都督涼南北秦梁益巴漢隴右西域雜夷匈奴諸軍事・太師・涼州牧を拝し、涼王に封じて九錫を加えた。
- 張茂が姑臧を大城とし靈鈞臺を修めた。別駕吳紹が諫めた。明公が城を修め臺を築くのは、既往の患に懲りたからでしょう。愚かに思うに、苟に恩が人心に洽らなければ、層臺に処っても益するところなく、まさに群下の忠信の志を疑い、士民の繋託の望を失い、怯弱の形を示して鄰敵の謀を啓くだけである。何で天子を佐け諸侯に霸たれようか。急ぎこの役を罷めて労費を息められたい、と。
- 張茂は答えた。亡兄は一旦、身を物に失った。どうして忠臣義士で節を尽くそうとする者がなかったろうか。ただ禍が不意に生じ、智勇があっても施すところがなかっただけだ。王公が険を設け勇夫が重ねて閉ざすのは古の道である。今、国家は未だ靖まらず、太平の理で人を屯邅の世に責めることはできぬ、と。ついにこれを為した。
太寧二年(324年)張茂の死
- 夏五月甲申、張茂が病になり、世子の張駿の手を執って泣いて、吾が家は代々孝友忠順で称せられてきた、今、天下は大乱しているが、あなたが奉承してこれを失ってはならぬと言った。しかも令を下して、吾の官は王命によらず、苟に事を集めたにすぎぬ、どうして敢えてこれを栄とせよう、死の日には白帢で棺に入れ、朝服で歛めるなと述べた。この日、薨じた。
- 愍帝の使者史淑が姑臧にあり、左長史汜褘・右長史馬謨らが史淑に張駿を大將軍・涼州牧・西平公に拝させ、その境内を赦した。嫡母の嚴氏を大王太后、母の馬氏を王太后と尊んだ。
- 前趙主劉曜が使を遣わして張茂に太宰を贈り成烈王と諡し、張駿を上大將軍・涼州牧・涼王に拝した。
- 冬十二月、涼州の將辛晏が抱罕に拠って服さず、張駿が討とうとした。從事劉慶が諫めて、霸王の師は必ず天時と人事が相得てから起こすものだ、辛晏は凶狂で忍ぶに安んじており、その亡は必ずと言える、どうして饑年に大挙し盛寒に城を攻めるのかと言い、張駿はそこで止めた。
- 張駿が参軍王隲を趙に聘せしめた。趙主劉曜が王隲に、貴州は款誠で和好している、あなたはこれを保証できるかと言った。王隲は、できぬと答えた。侍中徐邈が、君は来て好を結びながら保証できぬと言うのはなぜかと言った。
- 王隲は答えた。齊の桓公は貫澤の盟で憂心兢々として、諸侯は召さずして自ら至った。葵丘の会で振るって矜ると、叛いた者は九国であった。趙國の化が常に今日のようなら可である。もし政教が陵遲すれば、なお邇き者の変も察せられぬ。まして鄙州ならばどうか、と。劉曜は、これは涼州の君子だ、使を択ぶのは人を得たと言えると言い、厚く礼して遣わした。
太寧三年(325年)
- 春二月、張駿が元帝の凶問を承けて大いに臨むこと三日。折しも黄龍が嘉泉に見え、汜禕らが改年して休祥を章かにすることを請うたが、張駿は許さなかった。
- 辛晏が枹罕をもって降り、張駿は再び河南の地を収めた。
成帝咸和元年(326年)成との通交
- 張駿は趙人の逼るのを畏れ、この年、隴西・南安の民二千余家を姑臧に徙した。また使を遣わして成と好を修め、書で成主李雄に尊号を去って晉に藩を称するよう勧めた。
- 李雄は返書して、吾は過ぎて士大夫に推されたが、もともと帝王に心はない。晉室の元功の臣となって氛埃を掃除することを思っていたが、晉室は陵遲し徳声は振るわぬ。領を引いて東を望むこと年月がある。折しも来貺を獲た。情は闇に至っている。何の已巳があろうかと述べた。これより聘使が相継いだ。
咸和二年(327年)河南の喪失
- 夏五月、張駿は趙の兵が後趙に敗れたと聞き、そこで趙の官爵を去って再び晉の大將軍・涼州牧を称し、武威太守竇濤・金城太守張閬・武興太守辛巖・楊烈將軍宋輯らに衆数万を帥いさせて東に韓璞と会し、趙の秦州の諸郡を攻掠させた。
- 趙の南陽王劉胤が兵を将いて撃ち、狄道に屯した。枹罕護軍辛晏が急を告げ、秋、張駿は韓璞・辛巖に救わせた。
- 韓璞は進んで沃干嶺を渡った。辛巖が速戦しようとしたが、韓璞は、夏の末以来、日と星に度々変がある、軽々しく動くべきでない、しかも劉曜と石勒は相攻めており、劉胤は必ず久しく我と相守れぬと言い、劉胤と洮を挟んで相持すること七十余日となった。
- 冬十月、韓璞が辛巖を遣わして金城で運を督させた。劉胤はこれを聞いて、韓璞の衆は吾の十倍だが吾の糧は多くなく持久しがたい、今、虜が兵を分けて糧を運ぶのは天が我に授けたのだ、辛巖を敗れば韓璞らは自ら潰えると言い、そこで騎三千を帥いて沃干嶺で辛巖を襲って敗り、そのまま前進して韓璞の営に逼った。韓璞の衆は大いに潰えた。
- 劉胤は勝に乗じて追奔し、河を渡って令居を攻め抜き、二万級を斬り、進んで振武に拠った。河西は大いに駭え、張閬・辛晏はその衆数万を帥いて趙に降った。張駿はそこで河南の地を失った。
咸和三年(328年)
- 張駿が兵を治めて虚に乗じて長安を襲おうとした。理曹郎中索詢が諫めて、劉曜は東征しているが、その子の劉胤が長安を守っており、易々と軽んじられぬ、仮に少し獲るところがあっても、彼が東方の図を釈いて還って我と校べれば、禍難の期は量りがたいと言い、張駿はそこで止めた。
咸和五年(330年)
- 夏五月、張駿は前趙の亡に因って再び河南の地を収め、狄道に至って五つの屯護軍を置き、趙と境を分けた。
- 六月、趙が鴻臚孟毅を遣わして張駿に征西大將軍・涼州牧を拝し九錫を加えた。張駿はその臣となることを恥じて受けず、孟毅を留めて遣わさなかった。
咸和七年(332年)
- 涼州の僚属が張駿に涼王を称して秦・涼二州牧を領し、公卿・百官を置くことを、魏の武帝・晉の文帝の故事のようにするよう勧めた。張駿は、これは人臣が言うべきことでない、敢えてこれを言う者は罪を赦さぬと言った。しかし境内はみなこれを王と称した。
- 張駿は次子の張重華を世子に立てた。
咸和八年(333年)張淳の建康使行
- 張駿が成に道を借りて建康に表を通じようとしたが、成主李雄は許さなかった。張駿はそこで治中從事張淳を遣わして成に藩を称して道を借りることを求めた。李雄は偽って許したが、盗に諸々の東峽で覆させようとした。蜀人の橋賛が密かに張淳に告げた。
- 張淳は李雄に言った。寡君が小臣を遣わして迹なき地を行き、万里に建康へ誠を通じさせたのは、陛下が忠義を嘉み尚び人の美を成しうるからである。もし臣を殺そうとされるなら、都市で斬って衆目に宣示し、涼州は旧徳を忘れず琅邪に使を通じた、主は聖にして臣は明、発覚してこれを殺したと言われたい。そうすれば義声は遠く播き天下は威を畏れる。今、盗にこれを江中で殺させても威刑は顕れぬ。何で天下に示すに足ろうか、と。李雄は大いに驚いて、どうしてそんなことがあろうかと言った。
- 司隷校尉景騫が李雄に、張淳は壮士である、留めることを請うと言った。李雄は、壮士がどうして留まることを肯じよう、しかもあなたの意で試みに観てみようと言った。景騫が張淳に、あなたは体が豊大で天は熱い、しばらく下吏を遣わして少し住まって涼しくなるのを須つべきと言った。
- 張淳は答えた。寡君は皇輿が播越し梓宮が返らず生民が塗炭にあってこれを振い救う者がないので、それゆえ淳を遣わして上都に誠を通じさせたのだ。論ずる事は重く下吏の伝えうるところではない。下吏で了えられるなら淳もまた来なかった。火の山や湯の海でもなお赴くつもりだ。どうして寒暑を憚るに足ろうか、と。
- 李雄が張淳に、貴主は英名が世を蓋い土は険しく兵は強い、なぜまた帝を称して一方に自ら娯しまぬのかと言った。張淳は、寡君は祖考以来、代々忠貞に篤い、讎恥がまだ雪がれぬので戈を枕にして旦を待っている、どうして自ら娯しむことがあろうかと答えた。
- 李雄は甚だ慙じて、我が祖考ももとまた晉の臣であった、天下の大乱に遭って六郡の民とともに難をこの州に避け、衆に推されてついに今日があるのだ、琅邪がもし大晉を中国で中興しうるなら、また衆を帥いてこれを輔けようと言い、厚く張淳を礼して遣わした。張淳はついに命を建康に致した。
- 長安が守られなかったとき、敦煌の計吏耿訪が漢中から江東に入り、度々上書して大使を遣わして涼州を慰撫することを請うた。朝廷は耿訪を守持書御史として張駿に鎮西大將軍を拝させ、隴西の賈陵ら十二人を選んでこれに配した。耿訪は梁州に至って道が通らず、詔書を賈陵に付し、賈客を偽らせて達させた。この年、賈陵が初めて涼州に至った。張駿は部曲督王豐らを遣わして報謝した。
咸和九年(334年)
- 春二月丁卯、詔で耿訪・王豐を遣わして印綬を齎させ、張駿に大將軍・都督陝西雍秦涼州諸軍事を授けた。これより毎年、使者が絶えなかった。
咸康元年(335年)張駿の治世
- 張軌および二子の張寔・張茂は河右に保拠したとはいえ、軍旅の事は年ごとに絶えなかった。張駿が位を嗣ぐと境内は次第に平らぎ、張駿は勤めて庶政を修め文武を総御して、みなその用を得た。民は富み兵は強く、遠近はこれを称えて賢君とした。
- 張駿が將の楊宣を遣わして龜兹・鄯善を伐たせ、そこで西域の諸国、焉耆・于窴の類がみな姑臧に詣って朝貢した。
- 張駿は姑臧の南に五殿を作り、官属はみな臣と称した。
- 張駿には秦・雍を兼ねる志があり、参軍麴護を遣わして上疏し、石勒と李雄が既に死に、石虎が逆を継ぐ期にある、兆庶は主を離れ、次第に世を経て、先の老は消え落ち後に生まれた者は慕い恋う心を識らず、日を遠ざけて日々忘れていく、司空郗鑒・征西庾亮らに敕して舟を江・沔に汎かべ首尾を斉しく挙げさせることを乞うと述べた。
咸康五年(339年)
- 九月、張駿が辟雍・明堂を立てて礼を行った。十一月、世子の張重華に涼州の事を行わせた。
咸康六年(340年)
- 春三月、張駿が別駕馬詵を遣わして趙に入貢したが、表の辞は蹇傲であった。趙王石虎は怒って馬詵を斬ろうとした。侍中石璞が諫めて、今、国家がまず除くべきは遺晉である、河西は僻陋で意とするに足らぬ、今、馬詵を斬れば必ず張駿を征することになり、兵力は分かれて二つとなって建康に再び数年の命を延ばさせると言い、そこで止めた。石璞は石苞の曽孫である。
穆帝永和元年(345年)三州の分置
- 十二月、張駿が焉耆を伐って降した。
- この年、張駿は武威など十一郡を分けて涼州とし世子の張重華を刺史とし、興晉など八郡を分けて河州とし寧戎校尉張瓘を刺史とし、敦煌など三郡および西域都護など三営を分けて沙州とし西胡校尉楊宣を刺史とした。
- 張駿は自ら大都督・大將軍・假涼王と称して三州を督摂し、初めて祭酒・郎中・大夫・舍人・謁者などの官を置いた。官号はみな天朝に倣ってわずかにその名を変え、車服・旌旗は王者に擬えた。
永和二年(346年)張重華と趙の攻防
- 夏五月丙戍、西平忠成公張駿が薨じた。官属が上って世子の張重華を使持節・大都督・太尉・護羌校尉・涼州牧・西平公・假涼王とし、その境内を赦した。嫡母の嚴氏を大王太后、母の馬氏を王太后と尊んだ。
- 趙の將軍王擢が張重華を撃ち、武街を襲って護軍曹権・胡宣を執え、七千余戸を雍州に徙した。涼州刺史麻秋・將軍孫伏都が金城を攻め、太守張沖が降を請い、涼州は震動した。
- 張重華は境内の兵をことごとく発して征南將軍裴恒に将いさせて趙を禦がせた。裴恒は廣武に壁して久しく戦わなかった。
- 涼州司馬張躭が張重華に言った。国の存亡は兵にあり、兵の勝敗は將にある。今、議者が將を挙げるのに多く宿旧を推す。韓信の挙は旧徳によったのではない。明主の挙用に常人はなく、才の堪えるところがあれば大事を授けるものだ。今、強冦が境にあり諸將は進まず、人情は危懼している。主簿謝艾は文武を兼ね資し、用いて趙を禦げる、と。
- 張重華が謝艾を召して方略を問うと、謝艾は兵七千人を請い、必ず趙を破って報いると願った。張重華は謝艾に中堅將軍を拝し、歩騎五千を給して麻秋を撃たせた。
- 謝艾が兵を引いて振武を出ると、夜に二羽の梟が牙(本営)の中で鳴いた。謝艾は、六博で梟を得た者が勝つ、今、梟が牙中で鳴いたのは敵に克つ兆だと言った。進んで趙と戦って大破し、五千級を斬った。張重華は謝艾を福禄伯に封じた。
永和三年(347年)枹䍐の攻防と謝艾の活躍
- 夏四月、趙の涼州刺史麻秋が枹䍐を攻めた。晉昌太守郎坦は城が大きく守りがたいとして外城を棄てようとしたが、武成太守張悛は、外城を棄てれば衆心を動かす、大事は去ると言った。寧戎校尉張璩は張悛の言に従って大城を固守した。
- 麻秋は衆八万を帥いて囲塹を数重にし、雲梯と地突を百道からみな進めた。城中は防いで麻秋の衆の死傷は数万であった。趙王石虎は再びその將劉渾らを遣わして歩騎二万で会させた。
- 郎坦は言が用いられなかったことを恨み、軍士李嘉に教えて潜かに趙兵千余人を引いて城に登らせた。張璩が諸將を督して力戦し二百余人を殺すと、趙兵はそこで退いた。張璩はその攻具を焼き、麻秋は退いて大夏を保った。
- 石虎は中書監石寧を征西將軍として并・司州の兵二万余人を帥いさせ麻秋らの後継とした。張重華の將宋秦らが戸二万を帥いて趙に降った。
- 張重華は謝艾を使持節・軍師將軍として歩騎三万を帥いさせ進軍して河に臨ませた。謝艾は軺車に乗り白い幍を戴き鼓を鳴らして行った。麻秋は望み見て怒り、謝艾は年少の書生で冠服がこの通り、我を軽んじているのだと言い、黒矟龍驤三千人に馳せて撃つよう命じた。
- 謝艾の左右は大いに擾れ、ある者が謝艾に馬に乗るよう勧めたが、謝艾は従わず、車を下りて胡牀に踞して指麾し処分した。趙人は伏兵があると思い、懼れて敢えて進まなかった。別將張瑁が間道から兵を引いて趙軍の後を截り、趙軍は退いた。謝艾は勢に乗じて進撃して大破し、その將杜勲・汲魚を斬り、首虜一万三千級を獲た。麻秋は単馬で大夏に奔った。
- 五月、麻秋が石寧と再び衆十二万を帥いて進んで河南に屯した。劉寧・王擢が晉興・廣武・武街を略地して曲栁に至り、張重華は將軍牛旋にこれを禦がせたが、退いて枹罕を守った。姑臧は大いに震えた。
- 張重華が自ら出て拒もうとしたが謝艾が固く諫め、別駕從事索遐が、君は一国の鎮であり軽々しく動くべきでないと言った。そこで謝艾を使持節・都督征討諸軍事・行衛將軍、索遐を軍正將軍として歩騎二万を帥いて拒がせた。別將楊康が劉寧を沙阜で敗り、劉寧は退いて金城に屯した。
- 秋七月、趙王石虎が再び征西將軍孫伏都・將軍劉渾に歩騎二万を帥いさせて麻秋の軍と会し、長駆して河を渡って張重華を撃ち、そのまま長最に城を築いた。
- 謝艾が牙を建てて衆に誓ったとき、風が旌旗を吹いて東南を指した。索遐が、風は号令である、今、旌旗が敵を指したのは天が賛けるものだと言った。謝艾は神鳥に軍した。王擢が謝艾の前鋒と戦って敗走し、河南に還った。
- 八月戊午、謝艾が進んで麻秋を撃って大破し、麻秋は遁れて金城に帰った。石虎はこれを聞いて歎じ、吾は偏師で九州を定めた、今、九州の力で枹罕に困じている、彼に人がある、図りえぬと言った。謝艾は還って叛虜の斯骨眞ら一万余落を討ち、みな破って平らげた。
- 九月、趙の麻秋がまた張重華の將張瑁を襲って敗り、三千余級を斬った。枹罕護軍李逵が衆七千を帥いて趙に降り、河以南の氐羌はみな趙に附いた。
- 冬十月乙丑、侍御史俞歸を涼州に至らせ、張重華に侍中・大都督・督隴右關中諸軍事・大將軍・涼州刺史・西平公を授けた。
- 俞歸が姑臧に至ると、張重華は涼王を称したくて詔を受けることを肯じなかった。親しい沈猛にひそかに俞歸へ、主公は代々晉の忠臣である、今かえって鮮卑に及ばぬのはなぜか、朝廷は慕容皝を燕王に封じたのに主公はやっと大將である、何で忠賢を表し勧められよう、明台は河右に移って共に州主を涼王とすることを勧めるべきだ、人臣が使に出れば苟に社稷を利するなら専らにしてよいと言わせた。
- 俞歸は答えた。あなたは失言している。昔、三代が王であったとき、爵の貴いものは上公に及ぶものがなかった。周の衰えるに至って吳・楚が初めて僭号して王を称し、諸侯もこれを非としなかったが、それは蛮夷として畜ったからだ。仮に齊・魯が王を称したら、諸侯は四面から攻めなかったろうか。漢の高祖は韓信・彭越を王に封じたが、ほどなくみな誅滅した。権に時の宜しきによるもので、厚くしたのではない。聖上は公の忠賢を貴とし、それゆえ上公に爵し方伯に任じた。寵栄は極まっている。どうして鮮卑・夷狄と比べられよう。しかも吾が聞くところ、功に大小があり賞に軽重がある。今、貴公は世を継いだばかりで王となれば、もし河右の衆を帥いて東に胡・羯を平らげ陵廟を修復し天子を迎えて洛陽に返したら、何を加えられるのか、と。張重華はそこで止めた。
永和五年(349年)索振の諫言
- 秋九月、涼州の官属が共に上って張重華を丞相・涼王・雍秦涼三州牧とした。
- 張重華は度々銭帛を左右の寵臣に賜い、また博弈を喜んでかなり政事を廃した。徴事索振が諫めた。先王が夙夜勤儉して府庫を実たしたのは、まさに讎恥が未だ雪がれず海内を平らげることに志したからである。殿下が位を嗣いだ当初、強冦が侵し逼り、重い餌によって戦士の死力を得てやっと社稷を保てた。今、蓄積は既に虚しく冦讎はなお在る。どうして軽々しく耗散して功なき人に与えられよう。昔、漢の光武は躬ら万機に親しみ、章奏が闕に詣れば報せは日を終えなかった。それゆえ中興の業を隆くしえた。今、章奏は停滞して動けば時月を経る。下の情は上に通じられず、沈める寃は囹圄に困じている。おそらく明主の事ではない、と。張重華は謝した。