通鑑紀事本末石勒、河朔を侵す(石勒宼河朔)

幽州の王浚が鮮卑叚氏と結んで勢を張り、ついに僭立を謀るところから始まる。石勒は襄國の防戦で叚末柸を擒にしながら厚遇して帰し、叚氏を離間して自陣に引き寄せ、王子春を遣わして卑辞と献物で王浚を欺き、薊を襲って王浚を斬る。劉琨は箕澹の諫めを退けて石勒に大敗し、并州を失って叚匹磾に身を寄せるが、叚氏の内訌のなかで縊り殺される。残る晉の藩鎮の邵続・叚匹磾も石虎・孔萇に攻められ、叚文鴦の力戦もむなしく厭次が陥ちて幽・冀・并の三州はすべて後趙に帰する。太安二年(303年)から大興四年(321年)まで。

年表(12件)

晉惠帝太安二年(303年)

  • 安北將軍・都督幽州諸軍事王浚は天下がまさに乱れるとして夷狄と援を結ぼうとし、そこで一人の娘を鮮卑の叚務勿塵に妻せ、また上表して遼西郡を封として叚務勿塵を遼西公とした。

懷帝永嘉四年(310年)

  • 冬十月壬子、劉琨を平北大將軍、王浚を司空とし、鮮卑の叚務勿塵を大単于に進めた。

永嘉五年(311年)王浚の僭立と劉琨

  • 秋七月、王浚が壇を設けて告類し皇太子を立て、天下に布告して中詔を受けたと称し、制を承けて封拝し、百官を備え置き、征鎮を列署した。荀藩を太尉、琅邪王司馬睿を大將軍とし、王浚は自ら尚書令を領し、裴憲およびその婿の棗嵩を尚書、田徽を兖州刺史、李惲を青州刺史とした。
  • 劉琨は招き懷けることに長じたが撫し御することに短く、一日のうちに帰する者が数千あってもまた去る者が相継いだ。
  • 劉琨が子の劉遵を遣わして代公猗盧に兵を請い、また族人の髙陽内史劉希を遣わして中山で衆を合わせさせた。幽州の統べる代郡・上谷・廣寧の民は多くこれに帰し、衆は三万に至った。
  • 王浚は怒って燕相胡矩を遣わして諸軍を督させ、遼西公叚疾陸眷とともに劉希を攻めて殺し、三郡の士女を駆り略して去った。叚疾陸眷は叚務勿塵の子である。

永嘉六年(312年)襄國の防戦と叚氏の帰服

  • 冬十二月、廣平の游綸・張豺が衆数万を擁して苑鄉に拠り、王浚の仮署を受けた。石勒が夔安・支雄ら七將を遣わして攻めさせ、その外塁を破った。
  • 王浚が督護王昌を遣わして諸軍および遼西公叚疾陸眷、叚疾陸眷の弟の叚匹磾・叚文鴦、從弟の叚末柸の部衆五万を帥いさせて襄國の石勒を攻めさせた。叚疾陸眷は渚陽に屯した。石勒が諸將を出して戦わせたがみな叚疾陸眷に敗れた。叚疾陸眷は大いに攻具を造って城を攻めようとし、石勒の衆は甚だ懼れた。
  • 石勒が將佐を召して謀り、今、城塹は未だ固からず糧儲は多くない、彼は衆く我は寡く外に救援がない、吾は衆を尽くしてこれと決戦したいがどうかと言った。諸將はみな、堅守して敵を疲れさせ、その退くのを待って撃つに勝らぬと言った。
  • 張賔・孔萇が言った。鮮卑の種で叚氏が最も勇悍であり、叚末柸がとくに甚だしい。その鋭卒はみな叚末柸の所にある。今、叚疾陸眷が日を刻して北城を攻めると聞く。その大衆は遠来して戦闘が連日である。我を孤弱で敢えて出戦せぬと思い、意は必ず懈り惰っている。しばらく出ずして怯を示し、北城に突門二十余道を鑿ち、彼が来て列守が未だ定まらぬのを俟って不意に出、直に叚末柸の帳を衝くべきだ。彼は必ず震駭して計をなす暇がなく、破るのは必至である。叚末柸が敗れればその余は攻めずして潰える、と。
  • 石勒は従い、密かに突門を作った。やがて叚疾陸眷が北城を攻め、石勒は城に登って望み見、その將士のある者が仗を釈いて寝ているのを見た。そこで孔萇に鋭卒を督させ突門から出て撃たせ、城上で鼓を鳴らして騒いでその勢を助けさせた。
  • 孔萇は叚末柸の帳を攻めて克てず退いた。叚末柸が追ってその塁門に入り、石勒の衆に獲られた。叚疾陸眷らの軍はみな退き走り、孔萇は勝に乗じて追撃し、尸を枕すること三十余里、鎧馬五千匹を獲た。叚疾陸眷はその余衆を収めて還り渚陽に屯した。
  • 石勒は叚末柸を質とし、使を遣わして叚疾陸眷に和を求め、叚疾陸眷は許した。叚文鴦が諫めて、今、叚末柸一人のゆえに垂亡の虜を縦せば、王彭祖に怨まれて後患を招かぬはずがないと言ったが、叚疾陸眷は従わなかった。
  • 改めて鎧馬・金銀を石勒に賂し、しかも叚末柸の三弟を質として叚末柸を請うた。諸將はみな石勒に叚末柸を殺すよう勧めた。
  • 石勒は、遼西の鮮卑は健やかな国であり我とはもとより仇讎なく、王浚に使われただけだ、今、一人を殺して一国の怨を結ぶのは計ではない、これを帰せば必ず深く我を徳として再び王浚に用いられなくなると言い、そこで厚く金帛でこれに報い、石虎を遣わして叚疾陸眷と渚陽で盟い兄弟の結びを為させた。
  • 叚疾陸眷は引き帰り、王昌らも独り留まれず、兵を引いて薊に還った。石勒は叚末柸を召して燕飲し、父子の誓いを為して遼西に還し遣わした。叚末柸は途上で日ごとに南に向かって拝すること三度であった。これによって叚氏は心を専らにして石勒に附き、王浚の勢はそこで衰えた。
  • 游綸・張豺が石勒に降を請うた。石勒が信都を攻めて冀州刺史王象を殺し、王浚は改めて邵舉に冀州刺史を行わせて信都を保たせた。

愍帝建興元年(313年)王浚の孤立

  • 夏四月、石勒が石虎に鄴を攻めさせ、鄴は潰えた。劉演は廩丘に奔り、劉琨は再び劉演を兖州刺史として廩丘を鎮させた。
  • 石勒が李惲を上白で攻めて斬った。王浚は改めて薄盛を青州刺史とした。
  • 王浚が棗嵩に諸軍を督させて易水に屯させ、叚疾陸眷を召してともに石勒を撃とうとした。叚疾陸眷が至らず、王浚は怒って重い幣を拓跋猗盧に賂し、あわせて慕容廆らに檄して共に叚疾陸眷を討たせた。猗盧が有賞王六脩に兵を将いさせて会させたが、叚疾陸眷に敗れた。
  • 五月、石勒が孔萇に定陵を撃たせて田徽を殺した。薄盛は部下を帥いて石勒に降り、山東の郡県は相継いで石勒に取られた。漢主劉聰は石勒を侍中・征東大將軍とした。烏桓もまた王浚に叛いてひそかに石勒に附いた。
  • 冬十一月、王浚は父の字が処道であることから、自ら「當塗髙」の讖に応ずるとして尊号を称そうと謀った。前勃海太守劉亮・北海太守王搏・司空掾髙柔が切に諫め、王浚はみな殺した。
  • 燕國の霍原は志節が清高で度々徴辟を辞していた。王浚が尊号の事を問うと霍原は答えなかった。王浚は霍原が群盗と通じたと誣って殺し、その首を梟した。そこで士民は駭え怨んだが、王浚の矜り豪ることは日々甚だしく、政事に親しまず、任じるところはみな苛刻な小人であった。棗嵩・朱碩の貪横はとくに甚だしく、北州の謡に「府中赫赫たり朱丘伯、十嚢五嚢は棗郎に入る」と言われた。
  • 調発は殷んで煩わしく、下は命に堪えられず、多くが叛いて鮮卑に入った。從事韓咸が桞城を監護し、盛んに慕容廆が士民を接納しうることを称えて王浚に諷そうとしたが、王浚は怒って殺した。
  • 王浚は初め鮮卑・烏桓だけを恃んで強としていたが、やがてみなこれに叛き、加えて蝗と旱が年を連ね、兵勢はいよいよ弱くなった。
  • 石勒はこれを襲おうとしたが虚実を知らず、使を遣わして覘わせようとした。参佐が羊祜・陸抗の故事を用いて王浚に書を致すことを請うた。石勒が張賔に問うと、張賔は答えた。王浚は名は晉の臣だが実は晉を廃して自ら立とうとしている。ただ四海の英雄がこれに従わぬことを患えるだけだ。將軍を得ようとするのは、項羽が韓信を得ようとしたようなものだ。將軍の威は天下を振るわせている。今、辞を卑しくし礼を厚くし節を折って事えてもなお信じられぬことを懼れるのに、まして羊祜・陸抗のような亢敵となってはどうか。人を謀ってその情を覚らせれば、志を得がたい、と。石勒は、善しと言った。
  • 十二月、石勒は舎人王子春・董肇を遣わして多く珍宝を齎して王浚に表を奉った。その趣旨は次のとおり。勒はもと小胡であり、世の饑乱に遭って流離し屯厄し、命を冀州に竄めてひそかに相保聚して性命を救っただけである。今、晉の祚は淪夷して中原に主がない。殿下は州郷の貴望で四海の宗ずるところ、帝王となるべき者が公でなくて誰か。勒が躯を捐てて兵を起こし暴乱を誅討したのは、まさに殿下のために駆り除いただけである。伏して願う、殿下は天に応じ人に順って早く皇祚に登られたい。勒が殿下を奉戴するのは天地父母のごとくである。殿下が勒の微心を察されるなら、また子のように視られるべきだ、と。また棗嵩に書を遺して厚く賂した。
  • 王浚は叚疾陸眷が新たに叛き士民の多くが自分を棄てて去ったところであり、石勒が附こうとしていると聞いて甚だ喜び、王子春に、石公は一時の英傑で趙・魏を拠有している、それが孤に藩を称そうというのだ、信じられるかと言った。
  • 王子春は答えた。石將軍の才力は強盛で、まことに聖旨のとおりです。ただ殿下は中州の貴望で威は夷夏に行われる。古来、胡人が輔佐の名臣となったことはあるが、帝王となった者はない。石將軍は帝王を悪んでならぬのでなく殿下に譲るのだ。ただ帝王には自ずと暦数があり智力で取れるものでなく、強いて取っても必ず天と人に与えられぬからそうするのだ。項羽は強かったがついに漢の有となった。石將軍を殿下に比べれば陰精と太陽のようなもの。それゆえ遠く前事に鑑みて身を殿下に帰した。これこそ石將軍の明識が遠く人に過ぎるところ。殿下は何を怪しまれよう、と。
  • 王浚は大いに悦び、王子春・董肇をみな列侯に封じ、使を遣わして報聘し、厚い幣で酬した。
  • 游綸の兄の游統は王浚の司馬として范陽を鎮しており、使を遣わして私に石勒に附いた。石勒はその使を斬って王浚に送った。王浚は游統を罪しなかったが、いよいよ石勒を忠誠と信じ、再び疑わなくなった。

建興二年(314年)王浚の滅亡

  • 春正月壬辰、王子春らおよび王浚の使者が襄國に至った。石勒はその勁卒・精甲を匿し、師を羸せ府を虚しくして示し、北面して使者を拝して書を受けた。
  • 王浚が石勒に麈尾を遺すと、石勒は敢えて執らぬふりをして壁に懸け、朝夕これを拝して、我は王公に見えられぬが、その賜ったものを見るのは公を見るようだと言った。
  • 再び董肇を遣わして王浚に表を奉り、三月中旬に親しく幽州に詣って尊号を奉上することを期し、また棗嵩に牋を修めて并州牧・廣平公を求めた。
  • 石勒が王浚の事情を王子春に問うと、王子春は答えた。幽州は去年の大水で人は粒食していない。王浚は粟百万を積んでいるが賑い贍えず、刑政は苛酷で賦役は殷んで煩わしく、忠賢は内で離れ夷狄は外で叛き、人はみなその亡ぶことを知っているのに、王浚の意気は自若として曽も懼れる心がない。さらに台閣を置き立て百官を布列し、自ら漢の高祖・魏の武も比べるに足らぬと言っている、と。石勒は几を撫して笑い、王彭祖は真に擒にできると言った。
  • 王浚の使者が薊に還り、石勒の形勢が寡弱で款誠に二つなしと具に言った。王浚は大いに悦び、いよいよ驕り怠って再び備えを設けなかった。
  • 二月、石勒が厳戒を纂え王浚を襲おうとしたが、猶豫して発しなかった。張賔が、人を襲う者は不意に出るべきだ、今、軍を厳しくして日を経ても行かぬのは、劉琨および鮮卑・烏桓が吾の後患となることを畏れているのではないかと言った。石勒は、そうだ、どうすべきかと言った。
  • 張賔は答えた。彼の三方の智勇に將軍に及ぶ者はない。將軍が遠く出ても彼は必ず敢えて動かぬ。しかも彼は將軍がすぐ軍を千里に懸けて幽州を取れるとは思っていない。軽軍で往還すれば二旬を出ない。仮に彼に心があっても、その謀議して師を出す頃には吾は既に還っている。しかも劉琨と王浚は同じく晉の臣と名づけられているが実は仇敵である。もし牋を劉琨に修めて質を送って和を請えば、劉琨は必ず我の服することを喜び王浚の亡を快とし、ついに王浚を救って我を襲うことはない。兵を用いるのは神速を貴ぶ、時を後らせるな、と。石勒は、吾の了えなかったことを右侯が既に了えた、吾は何を疑おうかと言った。
  • そのまま火を燃やして宵行し、柏人に至って主簿游綸を殺した。その兄の游統が范陽にあり、軍謀の漏れることを恐れたからである。
  • 使を遣わして牋を奉り質を劉琨に送り、自ら罪悪を陳べて王浚を討って自ら効することを請うた。劉琨は大いに喜び、州郡に檄を移して、自分は既に猗盧とまさに石勒討伐を議した、石勒は走って伏す地なく、幽都を抜いて罪を贖うことを求めた、今すぐ六脩を遣わして南に平陽を襲い僭偽の逆類を除き、死を知った逋羯を降らせる、天に順い民に副い皇家を翼奉する、これこそ曩年の積誠と霊祐の致すところだと称した。
  • 三月、石勒の軍が易水に達した。王浚の督護孫緯が馳せて王浚に申し上げ、兵を将いて拒もうとしたが、游統が禁じた。王浚の將佐はみな、胡は貪で信がない、必ず詭計がある、撃つことを請うと言った。王浚は怒って、石公が来たのはまさに我を奉戴しようとするだけだ、敢えて撃つと言う者は斬ると言い、衆は再び敢えて言わなかった。王浚は饗を設けて待った。
  • 壬申、石勒が朝に薊に至り、門者を叱して門を開かせたが、なお伏兵があると疑い、まず牛羊数千頭を駆り、上礼だと声言しながら実は諸々の街巷を塞ごうとした。王浚は初めて懼れ、坐ったり起ったりした。
  • 石勒は入城すると兵を縦って大いに掠めた。王浚の左右が防ぐことを請ったが、王浚はなお許さなかった。石勒がその聴事に升ると、王浚はそこで走り出て堂皇に至り、石勒の衆が執えた。
  • 石勒は王浚の妻を召して並んで坐り、王浚を執えて前に立たせた。王浚は罵って、胡奴めが乃公を調弄した、なんという凶逆かと言った。
  • 石勒は、公は位が元台に冠たり手に強兵を握りながら、坐して本朝の傾覆を観て曽も救援しなかった、そのうえ自ら尊んで天子となろうとした、凶逆ではないか、また姦貪を委任して百姓を残虐し忠良を賊害し、毒は燕の土に徧った、これは誰の罪かと言った。
  • その將王洛生に五百騎で先に王浚を襄國に送らせた。王浚は自ら水に投じたが、束ねて出し、襄國の市で斬った。石勒は王浚の麾下の精兵一万人を殺した。
  • 王浚の將佐らは争って軍門に詣って謝罪し、饋賂が交錯した。前尚書裴憲・從事中郎荀綽だけが至らなかった。石勒は召して譲り、王浚は暴虐で孤が討って誅した、諸人はみな来て慶謝したのに、二君だけが彼と悪を同じくした、どうしてその戮を逃れられようかと言った。
  • 二人は答えた。憲らは代々晉朝に仕えてその栄禄を荷った。王浚は凶麤とはいえなお晉の藩臣であり、それゆえ憲らは従って敢えて二心を持たなかった。明公が苟に徳義を修めず専ら威刑を事とされるなら、憲らの死は自らその分である。また何を逃れよう。死に就くことを請う、と。拝さずして出た。
  • 石勒は召して謝し、客礼で待した。荀綽は荀勗の孫である。
  • 石勒は朱碩・棗嵩らが賄を納れ政を乱して幽州の患となったことを数え、游統が事えるところに不忠であったことを責め、みな斬った。
  • 王浚の將佐・親戚の家の貲を籍すると、みな巨万に至った。ただ裴憲・荀綽だけは書百余袠、塩と米それぞれ十余斛があるだけであった。石勒は、吾は幽州を得たことを喜ばぬ、二子を得たことを喜ぶと言い、裴憲を從事中郎、荀綽を参軍とした。
  • 流民を分け遣わしてそれぞれ郷里に還した。石勒は薊に停まること二日、王浚の宮殿を焼き、故尚書の燕國人劉翰に幽州刺史を行わせて薊を戍らせ、守宰を置いて還った。孫緯が遮り撃ち、石勒はやっと免れた。
  • 石勒は襄國に至り、使を遣わして王浚の首を奉じて漢に捷を献じた。漢は石勒を大都督・督陝東諸軍事・驃騎大將軍・東単于とし、封を十二郡増した。石勒は固辞して二郡だけを受けた。
  • もともと王浚は邵続を樂陵太守として厭次に屯させていた。王浚が敗れると邵続は石勒に附き、石勒は邵続の子の邵乂を督謢とした。
  • 王浚の署した勃海太守の東萊人劉㣧が郡を棄てて邵続に依り、邵続に、およそ大功を立てるには必ず大義を仗むもの、君は晉の忠臣なのに、どうして賊に従って自ら汚すのかと言った。
  • 折しも叚匹磾が書で邵続を邀えてともに左丞相司馬睿に帰そうとし、邵続は従った。その人々はみな、今、石勒を棄てて叚匹磾に帰すなら邵乂はどうするのかと言った。邵続は泣いて、我がどうして子を顧みて叛臣となれようかと言い、異議を言う者数人を殺した。石勒はこれを聞いて邵乂を殺した。
  • 邵続が劉㣧を江東に使わせ、司馬睿は劉㣧を参軍、邵続を平原太守とした。石勒が兵を遣わして邵続を囲み、叚匹磾がその弟の叚文鴦に救わせ、石勒は引き去った。

建興四年(316年)箕澹の敗と劉琨の失地

  • 夏四月、石勒が石虎に廩丘の劉演を攻めさせた。幽州刺史叚匹磾がその弟の叚文鴦に救わせたが、石虎は廩丘を抜き、劉演は叚文鴦の軍に奔り、石虎は劉演の弟の劉啓を獲て帰った。
  • 冬十一月、石勒が樂平太守韓據を坫城に囲んだ。韓據が劉琨に救を請うた。劉琨は拓跋猗盧の衆を得たばかりで、その鋭気に因って石勒を討とうとした。
  • 箕澹・衛雄が諫めた。これは晉の民といえど久しく異域に淪んで明公の恩信に習っていない。用いがたいことを恐れる。しばらく内には鮮卑の余穀を収め、外には胡賊の牛羊を抄い、關を閉じて険を守り、農に務め兵を息め、その化に服し義に感ずるのを待ってから用いれば、功は済せぬことがない、と。
  • 劉琨は従わず、その衆をことごとく発し、箕澹に歩騎二万を帥いさせて前駆とし、劉琨は廣牧に屯して声援となった。
  • 石勒は箕澹が至ったと聞いて迎え撃とうとした。ある者が、箕澹の士馬は精強でその鋒は当たれぬ、しばらく兵を引いて避け、深溝高塁でその鋭を挫けば必ず万全を獲ると言った。
  • 石勒は、箕澹の兵は多いが遠来して疲弊し号令は斉しくない、何の精強があろう、今、冦敵がまさに至ろうというのにどうして捨て去れよう、大軍が一度動けばどうして易々と中途で還れるか、もし箕澹が我の退くのに乗じて逼れば、逃げ潰える暇もない、どうして深溝高塁を得られようか、これは自ら亡ぶ道だと言い、その場で言った者を斬った。
  • 孔萇を前鋒都督とし、三軍に後から出る者は斬ると令した。石勒は険要に拠り、疑兵を山上に設け、前に二つの伏を設け、軽騎を出して箕澹と戦い、偽って勝てぬふりをして走った。箕澹は兵を縦って追い、伏の中に入った。石勒は前後から挟撃して大破し、鎧馬を万で計って獲た。箕澹・衛雄は騎千余を帥いて代郡に奔り、韓據は城を棄てて走った。并の土は震え駭えた。
  • 十二月、司空長史李弘が并州をもって石勒に降った。劉琨は進退に拠るところを失い為すところを知らなかった。叚匹磾が信を遣わしてこれを邀え、己未、劉琨は衆を帥いて飛狐から薊に奔った。叚匹磾は劉琨に会って甚だ相親しみ重んじ、婚を結んで兄弟の約を為した。
  • 石勒は陽曲・樂平の民を分けて襄國に徙し、守宰を置いて還った。

元帝建武元年(317年)

  • 春三月、劉琨と叚匹磾が相与に血を㰱って同盟し、晉室を翼戴することを期した。辛丑、劉琨が華夷に檄告し、兼左長史・右司馬温嶠を遣わし、叚匹磾は左長史榮邵を遣わして表および盟文を奉じて建康に詣らせ、進むよう勧めた。
  • 秋七月、叚匹磾が劉琨を大都督に推し、その兄の遼西公叚疾陸眷および叔父の叚渉復辰・弟の叚末柸らに檄して固安に会し共に石勒を討つこととした。
  • 叚末柸が叚疾陸眷・叚渉復辰に説き、父兄でありながら子弟に従うのは恥である、しかも幸いに功があっても叚匹磾が独りこれを収める、我らに何があろうかと言い、それぞれ兵を引いて還った。劉琨・叚匹磾も独り留まれず、これも薊に還った。

大興元年(318年)劉琨の死

  • 春正月、遼西公叚疾陸眷が死に、その子が幼かったので叔父の叚渉復辰が自ら立った。叚匹磾が薊から往って喪に奔った。叚末柸が、叚匹磾の来訪は簒おうとするものだと宣言した。
  • 叚匹磾が右北平に至ると叚渉復辰が兵を発して拒んだ。叚末柸は虚に乗じて叚渉復辰を襲って殺し、あわせてその子弟・党与も殺して自ら単于を称し、叚匹磾を迎え撃って敗った。叚匹磾は走って薊に還った。
  • 叚匹磾が叚疾陸眷の喪に奔ったとき、劉琨はその世子の劉羣に送らせた。叚匹磾が敗れて劉羣は叚末柸に得られた。叚末柸は厚く礼し、劉琨を幽州刺史とすることを許して、ともに叚匹磾を襲おうとした。密かに使を遣わして劉羣の書を齎して劉琨に内応を請わせたが、叚匹磾の邏騎に得られた。
  • 当時、劉琨は別に征北小城に屯していてこれを知らなかった。来て叚匹磾に会うと、叚匹磾は劉羣の書を劉琨に示し、意はまた疑わぬ、公はそれゆえ公に申し上げるだけだと言った。
  • 劉琨は、公と同盟したのは国家の恥を雪ぐことを庶うたからだ、もし児の書が密かに達しても、ついに一子のゆえに公に負いて義を忘れることはないと言った。
  • 叚匹磾はもとより劉琨を重んじており、初め劉琨を害する意はなく、屯に還ることを聴そうとした。その弟の叚叔軍が叚匹磾に言った。我らは胡夷にすぎぬ。晉人を服させえたのは吾の衆を畏れたからだ。今、我の骨肉が乖き離れているのは、彼が良く図る日である。もし劉琨を奉じて起つ者があれば、吾の族は尽きる、と。
  • 叚匹磾はそこで劉琨を留めた。劉琨の庶長子の劉遵は誅を懼れ、劉琨の左長史楊橋らと門を閉じて自守した。叚匹磾は攻めてこれを抜いた。代郡太守辟閭嵩・後將軍韓據が再び潜かに叚匹磾を襲うことを謀り、事が漏れた。叚匹磾は辟閭嵩・韓據およびその徒党を執えてことごとく誅した。
  • 五月癸丑、叚匹磾が詔と称して劉琨を収めて縊り殺し、あわせてその子・姪四人を殺した。
  • 劉琨の從事中郎盧諶・崔恱らが劉琨の余衆を帥いて遼西に奔って叚末柸に依り、劉羣を主に奉じた。將佐は多く石勒に奔った。崔恱は崔林の曽孫である。
  • 朝廷は叚匹磾がなお強く、河朔を平らげうることを冀って、劉琨のために哀を挙げなかった。温嶠が上表して、劉琨は帝室に忠を尽くして家が破れ身が亡んだ、褒め恤むべきだと述べた。盧諶・崔恱も叚末柸の使者に因って上表して劉琨のために冤を訟えた。後、数年してようやく劉琨に太尉・侍中を贈り愍と諡した。
  • そこで夷・晉は劉琨の死のゆえにみな叚匹磾に附かなかった。叚末柸がその弟を遣わして叚匹磾を攻め、叚匹磾はその衆数千を帥いて邵続に奔ろうとしたが、石勒の將石越が鹽山で邀えて大敗させ、叚匹磾は再び還って薊を保った。叚末柸は自ら幽州刺史を称した。

大興二年(319年)

  • 夏四月、石勒が石虎を遣わして鮮卑の日六延を朔方で撃たせ大破し、二万余級を斬り、三万余人を俘虜とした。孔萇が幽州の諸郡を攻めてことごとく取った。
  • 叚匹磾の士卒は飢えて散り、移って上谷を保とうとした。代王鬱律が兵を勒して撃とうとし、叚匹磾は妻子を棄てて樂陵に奔って邵続に依った。

大興三年(320年)邵続の捕縛

  • 春正月、叚末柸が叚匹磾を攻めて破った。叚匹磾は邵続に、吾はもと夷狄だが義を慕って家を破った、君は久き約を忘れぬ、相与に共に叚末柸を撃つことを請うと言った。邵続は許し、そのまま相与に叚末柸を追撃して大破した。
  • 叚匹磾は弟の叚文鴦と薊を攻めた。後趙王石勒は邵続の勢が孤であると知り、中山公石虎を遣わして兵を将いて囲ませた。孔萇が邵続の別営十一を攻めてみな下した。
  • 二月、邵続が自ら出て石虎を撃った。石虎は伏騎でその後を断ち、そのまま邵続を執えてその城を降らせようとした。邵続は兄の子の邵笁らを呼んで、吾は志が国に報いることにあったが不幸にもここに至った、あなたたちは努めて叚匹磾を主に奉じ、二心を持つなと言った。
  • 叚匹磾は薊から還り、厭次に至らぬうちに邵続が既に没したと聞き、衆は懼れて散り、また石虎に遮られた。叚文鴦が親兵数百で力戦して初めて城に入り、邵続の子の邵緝・兄の子の邵存・邵笁らと城を嬰んで固守した。
  • 石虎が邵続を襄國に送り、石勒は忠として釈いて礼し、從事中郎とした。それに因って令を下し、今後は敵に克って士人を獲たら勝手に殺してはならぬ、必ず生きて致せとした。
  • 吏部郎劉㣧が邵続が攻められていると聞いて帝に、北方の藩鎮は尽きた、ただ邵続を余すだけだ、もし再び石虎に滅ぼされれば義士の心を孤にし本に帰する路を阻む、愚かに思うに兵を発して救うべきだと言った。帝は従えなかった。邵続が既に没したと聞いて、そこで詔で邵続の位任をその子の邵緝に授けた。
  • 六月、後趙の孔萇が叚匹磾を攻めた。勝を恃んで備えを設けなかったので、叚文鴦が襲撃して大破した。

大興四年(321年)厭次の陥落

  • 春三月、後趙の中山公石虎が幽州刺史叚匹磾を厭次で攻め、孔萇はその統内の諸城を攻めてことごとく抜いた。
  • 叚文鴦が叚匹磾に言った。我は勇で聞こえて民に倚り望まれている。今、民が掠められるのを視て救わなければ怯である。民が望を失えば、誰が再び我のために死を致そう、と。そのまま壮士数十騎を帥いて出戦し、後趙の兵を殺すこと甚だ多かったが、馬が乏しく伏して起きられなくなった。
  • 石虎が呼んで、兄と我はともに夷狄である、久しく兄と同じく一家になりたかった、今、天が願いに違わずここで相見えた、なぜ再び戦うのか、仗を釈くことを請うと言った。
  • 叚文鴦は罵って、お前は冦賊であり死ぬべき日が久しい、吾の兄が吾の策を用いなかったのでお前をここに至らせた、我は寧ろ闘って死んでもお前に屈さぬと言い、そのまま馬を下りて苦戦し、槊が折れると刀を執って戦って已まず、辰から申まで戦った。後趙の兵は四面から馬の羅披を解いて自ら前を鄣り、叚文鴦を執えた。叚文鴦は力竭きて執えられ、城内は気を奪われた。
  • 叚匹磾は単騎で朝に帰ろうとしたが、邵続の弟の樂安内史邵洎が兵を勒して聴かなかった。邵洎はさらに台使の王英を執えて石虎に送ろうとした。叚匹磾は正色して責め、あなたは兄の志に遵えず、吾を逼って朝に帰らせぬのも既に甚だしい、さらに天子の使者を執えようというのか、我は夷狄だがまだ聞いたことがないと言った。
  • 邵洎は兄の子の邵緝・邵笁らと襯を輿して出て降った。
  • 叚匹磾が石虎に会って、我は晉の恩を受け、志は汝を滅ぼすことにあった、不幸にもここに至った、汝のために敬をなせぬと言った。後趙王石勒および石虎はもとより叚匹磾と兄弟の結びを為していたので、石虎はすぐ起って拝した。
  • 石勒は叚匹磾を冠軍將軍、叚文鴦を左中郎將とし、諸々の流民三万余戸を散じてその本業に復し、守宰を置いて撫させた。そこで幽・冀・并の三州はみな後趙に入った。
  • 叚匹磾は石勒に礼せず、常に朝服を著けて晉の節を持った。久しくして叚文鴦・邵続とともにみな後趙に殺された。