通鑑紀事本末慕容氏、鄴に拠る(慕容據鄴)

鮮卑の莫護䟦が遼西の棘城に入って慕容部を号してから、涉歸・慕容廆と続く前燕の興起を追う。慕容廆は叔父慕容删の簒奪を逃れて立ち、宇文部・叚氏と争いつつ晉に降って鮮卑都督となり、棘城に拠って遼東を併せた。中原の喪乱で北へ逃れた裴嶷・封弈・游邃・皇甫岌ら中国の士民を厚遇して謀主とし、崔毖が煽動した高句麗・叚氏・宇文氏の連合を慕容翰の奇兵で破って遼東を制する。晉に勧進の使を送って平州刺史・遼東公に封ぜられ、死後は慕容皝が継いで燕王を称し、劉翔の建康での粘り強い弁論によって大將軍・燕王の冊命を得る。太康二年(281年)から咸康八年(342年)の龍城遷都まで。

年表(27件)

晉武帝太康二年(281年)慕容部の由来

  • 鮮卑の莫護䟦が初めて塞外から遼西の棘城の北に入り居り、慕容部と号した。莫護䟦は木延を生み、木延は涉歸を生んで遼東の北に遷った。代々中国に附いて度々征討に従って功があり、大単于を拝した。
  • 冬十月、涉歸が初めて昌黎を冦した。

太康三年(282年)

  • 三月、安北將軍嚴詢が慕容涉歸を昌黎で敗り、斬獲は万を計った。

太康四年(283年)

  • 鮮卑の慕容涉歸が死に、弟の慕容删が簒って立ち、涉歸の子の慕容廆を殺そうとした。慕容廆は亡げて遼東の徐郁の家に匿れた。

太康六年(285年)慕容廆の立位

  • 慕容删がその部下に殺され、部衆は改めて涉歸の子の慕容廆を迎えて立てた。
  • 涉歸は宇文部ともとより隙があり、慕容廆は討伐を請うたが朝廷は許さなかった。慕容廆は怒って遼西に侵入し、殺し略すること甚だ多かった。帝は幽州の軍を遣わして慕容廆を討たせ、肥如で戦って慕容廆の衆は大敗した。以後、毎年辺を犯した。
  • また東に扶餘を撃ち、扶餘王依慮は自殺し、子弟は走って沃沮を保った。慕容廆はその国の城を夷し、一万余人を駆って帰った。

太康七年(286年)

  • 夏、慕容廆が遼東を冦した。故扶餘王依慮の子の依羅が現存の人々を帥いて還って旧国を復することを求め、東夷校尉何龕に援を請うた。何龕は督護賈沈に兵を将いさせて送らせた。慕容廆はその將孫丁に騎を帥いさせて路で邀えさせたが、賈沈は力戦して孫丁を斬り、そのまま扶餘を復した。

太康十年(289年)晉への帰服

  • 夏四月、慕容廆が使を遣わして降を請うた。五月、詔で慕容廆に鮮卑都督を拝した。
  • 慕容廆が何龕に謁見するとき、士大夫の礼で巾衣で門に詣った。何龕は兵を厳しくして会ったので、慕容廆は服を戎衣に改めて入った。人がその故を問うと、慕容廆は、主人が礼で客を待たぬのだから客は何をなそうかと言った。何龕はこれを聞いて甚だ慙じ、深く敬い異とした。
  • 当時、鮮卑の宇文氏・叚氏はまさに強く、度々慕容廆を侵掠した。慕容廆は辞を卑しくし幣を厚くしてこれに事えた。叚國単于の叚階が娘を慕容廆に妻せ、慕容皝・慕容仁・慕容昭を生んだ。
  • 慕容廆は遼東が僻遠であることから徒河の青山に移り居った。

惠帝元康四年(294年)

  • 慕容廆が大棘城に移り居った。

太安元年(302年)宇文部の撃退

  • 鮮卑の宇文単于莫圭は部衆が強盛で、弟の屈雲を遣わして慕容廆を攻めさせた。慕容廆はその別帥の素怒延を撃って破った。
  • 素怒延はこれを恥じ、再び兵十万を発して慕容廆を棘城に囲んだ。慕容廆の衆はみな懼れたが、慕容廆は、素怒延の兵は多いが法制なく自ら誇っており、吾の算中にある、諸君はただ力戦せよ、憂うるところはないと言い、そのまま出撃して大破した。追奔百里、俘斬は万を計った。
  • 遼東の孟暉は先に宇文部に没していたが、その衆数千家を帥いて慕容廆に降った。慕容廆はこれを建威將軍とした。
  • 慕容廆はその臣の慕輿句が勤恪・廉靖であるとして府庫を掌らせた。慕輿句は心で計り黙して識り、簿書を案ぜずして終始漏れがなかった。慕輿河が明敏・精審であるとして獄訟を典らせ、覆訊は清允であった。

懷帝永嘉元年(307年)

  • 冬十二月、慕容廆が自ら鮮卑大単于と称した。拓䟦猗盧が慕容廆と好を通じた。

永嘉三年(309年)

  • 遼東太守龎本が東夷校尉李臻を襲って殺した。詔で勃海の封釋をこれに代え、封釋は龎本を収めて斬った。

永嘉五年(311年)遼東の併合

  • 東夷校尉李臻が死んだとき、遼東の附塞の鮮卑の素喜連・木丸津が李臻のために仇を報ずると託して諸県を攻め陥し、士民を殺し掠め、度々郡兵を敗り、年を連ねて冦をなした。東夷校尉封釋は討てず、連和を請ったが、素喜連・木丸津は従わなかった。
  • 民は業を失って慕容廆に帰する者が甚だ多かった。慕容廆は廩を給して還し遣わし、留まりたい者はそのまま撫し存した。
  • 慕容廆の少子の鷹揚將軍慕容翰が慕容廆に言った。古来、有為の君は天子を尊んで民望に従わぬ者がない。今、素喜連・木丸津は外は龎本を名としながら内実は災を幸いとして乱をなしている。封使君は既に龎本を誅して和を請ったのに、冦暴は已まない。中原は離乱して州の師は振るわず、遼東は荒散して救い恤む者がない。単于はその罪を数えて討つに勝らぬ。上は遼東を興復し、下は二部を併呑する。忠義は本朝に彰かとなり私利は我が国に帰する。これが霸王の基である、と。
  • 慕容廆は笑って、孺子がここまで及べたかと言い、そのまま衆を帥いて東に木丸津を撃ち、慕容翰を前鋒として破って斬り、二部の衆をすべて併せた。掠められた民三千余家および先に慕容廆に帰した者を得て、ことごとく郡に付した。遼東はこれに頼って復び存した。
  • 封釋が病になり、その孫の封弈を慕容廆に属した。封釋が死ぬと慕容廆は封弈を召して語り、これを悦んで、奇士だと言い、小都督に補した。封釋の子の冀州主簿封悛・幽州参軍封抽が喪に奔って来た。慕容廆はこれを見て、この家は抎々たる千斤の犍だと言った。道が通らず喪を還せなかったので、みな留まって慕容廆に仕えた。慕容廆は封抽を長史、封悛を参軍とした。
  • 王浚が妻の舅の崔毖を東夷校尉とした。

愍帝建興元年(313年)中国士民の帰服

  • 中国の士民で乱を避ける者は多く北に王浚に依ったが、王浚は存撫できず、また政法が立たなかったので、士民は往々また去った。叚氏兄弟は専ら武勇を尚んで士大夫を礼さなかった。ただ慕容廆だけが政事が修明で人物を愛重した。それゆえ士民は多くこれに帰した。
  • 慕容廆はその英俊を挙げて才に随って任を授けた。河東の裴嶷・北平の陽耽・廬江の黄泓・代郡の魯昌を謀主とし、廣平の遊邃・北海の逢羨・北平の西方䖍・西河の宋奭および封抽・裴開を股肱とし、平原の宋該・安定の皇甫岌とその弟の皇甫眞・蘭陵の繆愷・昌黎の劉斌および封弈・封裕に機要を典らせた。封裕は封抽の子である。
  • 裴嶷は清方で幹略があり昌黎太守であった。兄の裴武は玄菟太守で、裴武が死ぬと裴嶷は裴武の子の裴開とその喪を奉じて帰り、慕容廆のもとを過ぎた。慕容廆は敬い礼し、去るときは厚く資送を加えた。
  • 行って遼西に及んだところで道が通らなかった。裴嶷は還って慕容廆に就こうとした。裴開は、郷里は南にある、どうして北行するのか、しかも同じく流寓するなら叚氏は強く慕容氏は弱い、なぜここを去ってあちらに就くのかと言った。
  • 裴嶷は答えた。中国は喪乱している。今、往って就くのは相帥いて虎口に入ることだ。しかも道は遠くどうして達せよう。その清通を俟つのも歳月で冀えることではない。今、足を託す地を求めるのに、どうして慎んでその人を択ばずにいられよう。あなたは諸叚を観るに、遠略があり国士を待てる者があるか。慕容公は仁を修め義を行い霸王の志がある。加えて国は豊かで民は安らかだ。今、往って従えば、上は功名を立てられ下は宗族を庇える。あなたは何を疑うのか、と。裴開はそこで従った。着くと慕容廆は大いに喜んだ。
  • 陽耽は清直・沈敏で遼西太守であった。慕容翰が陽樂で叚氏を破ってこれを獲た。慕容廆は礼して用いた。
  • 游邃・逄羨・宋奭はみなかつて昌黎太守であり、黄泓とともに薊に避地し、後に慕容廆に帰した。
  • 王浚が度々自筆の書で游邃の兄の游暢を召した。游暢が赴こうとすると、游邃は、彭祖(王浚)は刑政を修めず華・戎が離れ叛いている、邃が推し量るに必ず久しくできぬ、兄はしばらく磐桓してこれを俟たれたいと言った。游暢は、彭祖は忍で疑いが多い、近ごろ流民が北に来ると在るところで追い殺すよう命じている、今、自筆の書が殷勤なのに我が稽り留まって往かねば、あなたに累が及ぶだろう、しかも乱世には宗族は分かれて遺種を冀うべきだと言い、そのまま従った。ついに王浚とともに没した。
  • 宋該は平原の杜羣・劉翔とともに先に王浚に依り、また叚氏に依ったが、いずれも託すに足らぬとして諸流寓を帥いてともに慕容廆に帰した。
  • 東夷校尉崔毖が皇甫岌を長史に請い、辞を卑しくして説き諭したが、ついに致せなかった。慕容廆が招くと、皇甫岌は弟の皇甫真とともに即時ともに至った。
  • 遼東の張統が樂浪・帶方の二郡に拠り、髙句麗王乙弗利と相攻めて年を連ねても解けなかった。樂浪の王遵が張統に説き、その民千余家を帥いて慕容廆に帰した。慕容廆はこれのために樂浪郡を置き、張統を太守、王遵を参軍事とした。

元帝建武元年(317年)晉への勧進

  • 三月、晉王が鮮卑大都督慕容廆を都督遼左雜夷流民諸軍事・龍驤將軍・大単于・昌黎公とした。慕容廆は受けなかった。
  • 征虜將軍魯昌が慕容廆に説いた。今、両京は覆没し天子は蒙塵している。琅邪王が制を承けて江東にあり四海の係属するところである。明公は雄として一方に拠っているが、諸部がなお兵を阻んで服さぬのは、官が王命によらぬからである。琅邪に使を通じて大統を承けるよう勧め、その後に詔令を奉じて罪ある者を伐てば、誰が敢えて従わぬだろう、と。
  • 処士の遼東人髙詡も、霸王の資は義でなければ済せぬ、今、晉室は微といえど人心はなおこれに附いている、使を江東に遣わして尊ぶところがあることを示し、その後で大義を杖んで諸部を征せば、辞なきことを患えぬと言った。慕容廆は従い、長史王濟を海を浮かんで建康に詣らせて進むよう勧めた。

大興元年(318年)裴嶷の献策

  • 三月、帝が再び使を遣わして慕容廆に龍驤將軍・大単于・昌黎公を授けた。慕容廆は公爵を辞して受けなかった。
  • 慕容廆は游邃を龍驤長史、劉翔を主簿とし、游邃に府朝の儀法を創定するよう命じた。
  • 裴嶷が慕容廆に言った。晉室は衰微して江表に介居し、威徳は遠くに及べぬ。中原の乱は明公でなければ拯えぬ。今、諸部はそれぞれ兵を擁しているが、みな頑愚が相聚まっているだけだ。次第に併せ取ってそれを西討の資とすべきだ、と。
  • 慕容廆は、君の言は大きく孤の及ぶところでない、しかし君は中朝の名徳でありながら孤の僻陋を厭わず教誨してくれる、これは天が君を孤に賜ってその国を祐けるものだと言い、そこで裴嶷を長史として軍国の謀を委ね、諸部の弱小な者を次第に撃ち取った。

大興二年(319年)崔毖と三国連合の撃破

  • 平州刺史崔毖は自ら中州の人望をもって遼東を鎮していたが、士民が多く慕容廆に帰したので心が平らかでなく、度々使を遣わして招いたがみな至らなかった。慕容廆が拘留していると思い、そこでひそかに髙句麗・叚氏・宇文氏に説いて共に攻めさせ、慕容廆を滅ぼしてその地を分けることを約した。
  • 崔毖の親しい勃海の髙瞻が力めて諫めたが崔毖は従わなかった。三国が兵を合わせて慕容廆を伐った。
  • 諸將が撃つことを請うと、慕容廆は言った。彼らは崔毖に誘われて一切の利を邀えようとしている。軍勢が合わさった当初はその鋒が甚だ鋭く、戦うべきでない。固守して挫くべきだ。彼らは烏合で来ており統一なく相帰服しない。久しければ必ず携え貳く。一つには吾が崔毖と詐って覆すのを疑い、二つには三国が自ら相猜忌する。その人情が離れ貳くのを待ってから撃てば、破るのは必至である、と。
  • 三国が進んで棘城を攻め、慕容廆は門を閉じて自守し、使を遣わして独り牛と酒で宇文氏を犒った。二国は宇文氏が慕容廆と謀があると疑い、それぞれ兵を引いて帰った。
  • 宇文の大人の悉獨官は、二国は帰ったが吾は独りこれを取ろうと言った。宇文氏の士卒は数十万、営を連ねること四十里であった。
  • 慕容廆は子の慕容翰を徒河から召させた。慕容翰は使を遣わして慕容廆に申し上げた。悉獨官は国を挙げて冦をなしている。彼は衆く我は寡く、計で破りやすいが力で勝ちがたい。今、城中の衆は冦を禦ぐに足る。翰は外で奇兵となり、その間を伺って撃ちたい。内外がともに奮えば彼を震駭させて備えるところを知らせず、破るのは必至である。今、兵を併せて一つにすれば、彼は意を専らにして城を攻め再び他の虞がなくなる。策の得たものではない。しかも衆に怯を示せば、士気が戦わぬうちに先に沮むことを恐れる、と。
  • 慕容廆はなおこれを疑った。遼東の韓夀が慕容廆に、悉獨官には慿陵の志があり、將は驕り卒は惰り、軍は堅密でない、もし奇兵が突如起こってその無備を掎めば、必ず破る策だと言った。慕容廆はそこで慕容翰に徒河に留まることを聴した。
  • 悉獨官はこれを聞いて、慕容翰はもとより驍果と名がある、今、城に入らぬのは患をなせるかもしれぬ、まず取るべきだ、城は憂うるに足らぬと言い、そこで数千騎を分け遣わして慕容翰を襲わせた。
  • 慕容翰はこれを知り、叚氏の使者を偽って道で迎え、慕容翰は長く吾の患であった、これを撃つと聞く、吾は既に兵を厳しくして待っている、速やかに進まれたいと言った。使者が去ると慕容翰はすぐ城を出て伏を設けて待った。宇文氏の騎は使者を見て大いに喜び、馳せ行って再び備えを設けず、進んで伏の中に入った。慕容翰は奮撃してすべてこれを獲た。
  • 勝に乗じて直進し、間使を遣わして慕容廆に出兵して大戦するよう伝えた。慕容廆は子の慕容皝と長史裴嶷に精鋭を将いさせて前鋒とし、自ら大兵を将いて継いだ。
  • 悉獨官は初め備えを設けず、慕容廆が至ったと聞いて驚き、衆をすべて出して戦った。前鋒が交わり始めたところで慕容翰が千騎を将いて傍らから直にその営に入り、火を縦って焼いた。衆はみな惶擾して為すところを知らず、ついに大敗した。悉獨官はやっと身だけ免れた。慕容廆はその衆をすべて俘にし、皇帝の玉璽三紐を獲た。
  • 崔毖はこれを聞いて懼れ、兄の子の崔燾を棘城に詣らせて偽って賀させた。折しも三国の使者も至り、和を請って、我が本意ではない、崔平州が我らに教えたのだと言った。慕容廆はこれを崔燾に示し、兵で臨んだ。崔燾は懼れて首服した。
  • 慕容廆はそこで崔燾を帰し遣わして崔毖に、降るのが上策、走るのが下策だと言わせ、兵を引いて随った。崔毖は数十騎で家を棄てて髙句麗に奔り、その衆はことごとく慕容廆に降った。
  • 慕容廆は子の慕容仁を征虜將軍として遼東を鎮させ、官府・市里は従来どおり案堵させた。
  • 髙句麗の將の如奴子が于河城に拠り、慕容廆は將軍張統を遣わして掩撃して擒にし、その衆千余家を俘にした。
  • 崔燾・髙瞻・韓恒・石琮を棘城に帰らせて客礼で待した。韓恒は安平の人、石琮は石鑒の孫である。
  • 慕容廆が髙瞻を將軍としたが、髙瞻は病と称して就かなかった。慕容廆は度々臨み候い、その心を撫して言った。君の疾はここにあって他にない。今、晉室は喪乱し、孤は諸君とともに世難を清め帝室を翼戴しようとしている。君は中州の望族であるから同じくこの願いを持つべきだ。どうして華夷の異をもって介然と疎むのか。功を立て事を立てるのはただ志略がどうかを問うだけだ。華夷が問うに足ろうか、と。髙瞻はなお起たず、慕容廆はかなり平らかでなかった。
  • 龍驤主簿宋該は髙瞻と隙があり、慕容廆にこれを除くよう勧めたが、慕容廆は従わなかった。髙瞻は憂えて死んだ。
  • 宋該が慕容廆に江東へ捷を献ずるよう勧めた。慕容廆は宋該に表を作らせ、裴嶷にこれを奉じさせ、あわせて得た三璽を建康に詣らせて献じた。

大興三年(320年)平州刺史への任命

  • 三月、裴嶷が建康に至り、盛んに慕容廆の威徳を称え、賢儁がみなその用となっていると述べた。朝廷は初めてこれを重んじた。
  • 帝が裴嶷に、あなたは中朝の名臣だから江東に留まるべきだ、朕が別に龍驤に詔してあなたの家属を送らせようと言った。
  • 裴嶷は答えた。臣は若くして国恩を蒙り省闥に出入した。もし再び輦轂を奉ずるを得られれば臣の至れる栄である。ただ旧京は淪没し山陵は穿ち毀たれ、名臣・宿將といえど恥を雪げなかった。独り慕容龍驤だけが王室に忠を竭くし凶逆を除く志があり、それゆえ臣を万里に誠を帰させた。今、臣が来て返らなければ、必ず朝廷がその僻陋によって棄てたと思い、その義に嚮う心を孤にして討賊に体を懈らせよう。これが臣の甚だ惜しむところで、それゆえ敢えて私に徇って公を忘れられぬのだ、と。帝は、あなたの言が是だと言い、そこで使を遣わして裴嶷に随わせ、慕容廆に安北將軍・平州刺史を拝した。

大興四年(321年)遼東公への封建

  • 十二月、慕容廆を都督幽平二州東夷諸軍事・車騎將軍・平州牧として遼東公に封じ、単于は従来どおりとし、謁者を遣わしてただちに印綬を授け、制を承けて官司・守宰を置くことを聴した。
  • 慕容廆はそこで僚属を備え置き、裴嶷・游邃を長史、裴開を司馬、韓夀を別駕、陽耽を軍諮祭酒、崔燾を主簿、黄泓・鄭林を参軍事とした。
  • 慕容廆は子の慕容皝を世子に立て、東横(学舎)を作り、平原の劉讃を祭酒として慕容皝に諸生と同じく業を受けさせた。慕容廆は暇を得ればまた自ら臨んで聴いた。慕容皝は雄毅で権略が多く、経術を喜んだので国人はこれを称えた。
  • 慕容廆は慕容翰を徙して遼東を鎮させ、慕容仁を平郭に鎮させた。慕容翰は民と夷を撫し安んじ、甚だ威恵があり、慕容仁もこれに次いだ。

成帝咸和六年(331年)燕王封建の議

  • 冬、慕容廆が使を遣わして太尉陶侃に牋を送り、兵を興して北伐し共に中原を清めることを勧めた。
  • 僚属の宋該らが共に議し、慕容廆は一隅に功を立てながら位は卑く任は重く、等差に別がない、これでは華夷を鎮めるに足らぬ、上表して慕容廆の官爵を進めることを請うべきと述べた。
  • 参軍韓恒が駁して言った。功を立てる者は信義の著れぬことを患え、名位の高からぬことを患えない。桓公・文公には匡復の功があったが、先に礼命を求めて諸侯に令したのではない。甲兵を繕い群凶を除くべきだ。功が成った後には九錫は自ずと至る。君を邀えて寵を求めるのに比べれば、栄ではないか、と。慕容廆は悦ばず、韓恒を出して新昌令とした。
  • そこで東夷校尉封抽らが疏を陶侃の府に上って、慕容廆を燕王に封じて大將軍事を行わせることを請うた。陶侃は返書で、功が成れば爵を進めるのは古の成制である、車騎(慕容廆)はまだ官のために石勒を摧けぬとはいえ忠義に誠を竭くしている、今、牋を騰げて上聴させる、可否と遅速はまさに天台にあると述べた。

咸和八年(333年)慕容廆の死

  • 夏五月甲寅、遼東武宣公慕容廆が死去した。
  • 六月、世子の慕容皝が平北將軍・行平州刺史として部内を督摂し、繋がれた囚を赦した。長史裴開を軍諮祭酒、郎中令髙詡を玄菟太守とした。
  • 慕容皝は帶方太守王誕を左長史とした。王誕は遼東太守陽騖が才があるとして譲り、慕容皝は従って王誕を右長史とした。
  • 秋七月、慕容皝が長史の勃海人王濟らを遣わして喪を告げに来させた。

咸和九年(334年)

  • 秋八月、王濟が遼東に還った。詔で侍御史王齊を遣わして遼東公慕容廆を祭らせ、また謁者徐孟を遣わして慕容皝に鎮軍大將軍・平州刺史・大単于・遼東公・持節都督を策拝し、制を承けて封拝することは一切、慕容廆の故事のようにさせた。

咸康元年(335年)

  • 秋七月、慕容皝が子の慕容儁を世子に立てた。
  • 冬十月、王齊が南に還った。十二月、慕容皝が初めて朝命を受けた。

咸康二年(336年)

  • 秋九月、慕容皝が長史劉斌・兼郎中令の遼東人陽景を遣わして徐孟らを建康に送り還した。

咸康三年(337年)燕王の称号

  • 秋九月、鎮軍左長史封弈らが慕容皝に燕王を称するよう勧め、慕容皝は従った。
  • そこで群司を備え置き、封弈を國相、韓夀を司馬、裴開を奉常、陽騖を司隷、王㝢を太僕、李洪を大理、杜羣を納言令、宋該・劉睦・石琮を常伯、皇甫眞・陽恊を宂騎常侍、宋晃・平熈・張泓を將軍、封裕を記室監とした。李洪は李臻の孫、宋晃は宋奭の子である。
  • 冬十月丁卯、慕容皝が燕王の位に即き、大赦した。十一月甲寅、武宣公を武宣王、夫人叚氏を武宣后と追尊し、夫人叚氏を王后、世子の慕容儁を王太子に立て、魏の武帝・晉の文帝が輔政した故事のようにした。

咸康四年(338年)

  • 十二月、燕王慕容皝が叚遼を討った。

咸康五年(339年)

  • 燕王慕容皝は自ら王を称して晉の命を受けていないことから、冬、長史劉翔・参軍鞠運を遣わして捷を献じ功を論じ、あわせて権に仮称した意を述べ、日を刻して大挙して共に中原を平らげることを請わせた。

咸康七年(341年)燕王冊命

  • 春正月、燕王慕容皝が唐國内史陽裕らに桞城の北、龍山の西に城を築かせ、宗廟・宮闕を立てて龍城と命名した。
  • 二月、劉翔が建康に至った。帝が引見して慕容鎮軍は平安かと問い、劉翔は、臣が遣わされる日に朝服して章を拝しましたと答えた。
  • 劉翔は燕王慕容皝のために大將軍・燕王の章璽を求めた。朝議は、故事に大將軍は辺に処らず、漢魏以来、異姓を王に封じたことはないので、求めるところは許せぬとした。
  • 劉翔は言った。劉氏・石氏が乱を構えて以来、長江以北は翦られて戎の藪となった。いまだ中華の公卿の胄で一人でも臂を攘げ戈を揮って凶逆を摧き破った者があると聞かぬ。ただ慕容鎮軍父子だけが力を竭くして心を本朝に存し、寡をもって衆を撃ち度々強敵を殄し、石虎を畏懼させて辺陲の民をことごとく徙し三魏に散居させ、国を蹙めること千里、薊城を北境とさせた。功烈がこれほどなのに、海北の地を惜しんで封邑としないのはなぜか。昔、漢の高祖は王爵を韓信・彭越に愛しまなかったので帝業を成しえた。項羽は印を玩んで授けるに忍びず、ついに危亡を用った。吾の至心は、苟に事えるところを尊びたいのではない。ひそかに聖朝が忠義の国を疎んじ、四海に勧み慕うところをなくさせることを惜しむだけだ、と。
  • 尚書諸葛恢は劉翔の姉の夫であるが、独り異議を主とし、夷狄が相攻めるのは中国の利だ、ただ器と名は軽々しく許せぬとした。そして劉翔に、仮に慕容鎮軍が石虎を除きえても、それはまた一人の石虎を得ることだ、朝廷が何を頼るのかと言った。
  • 劉翔は、嫠婦でさえ宗周の隕ちるのを恤むことを知る、今、晉室は阽危であるのに、君の位は元凱に侔しくして曽も国を憂える心がないのか、かつて靡と鬲の功が立たなければ少康は何で夏を祀れたか、桓公・文公の戦が捷たなければ周人はみな左衽となっていた、慕容鎮軍は戈を枕にして旦を待ち凶逆を殄す志があるのに、君はかえって邪惑の言を唱えて忠臣を忌み間てている、四海がまだ壹にならぬのはまさに君らのせいだと言った。
  • 劉翔は建康に留まること一年余り、衆議はついに決しなかった。劉翔はそこで中常侍彧弘に説いた。石虎は八州の地を苞み、甲を帯びること百万、江漢を呑む志がある。索頭・宇文および諸小国はみな臣服せぬ者がない。ただ慕容鎮軍だけが天子を翼戴し精は白日を貫くのに、それでも殊礼の命を獲られない。ひそかに天下が心を移し体を解いて、再び南に向かう者がなくなることを恐れる。公孫淵は吳に尺寸の益もなかったが吳主は燕王に封じ九錫を加えた。今、慕容鎮軍は度々賊の鋒を摧いて威は秦・隴に振るった。石虎は近ごろ重使を遣わし甘言・厚幣で曜威大將軍・遼西王を授けようとした。慕容鎮軍はその正でないことを憎んで却けて受けなかった。今、朝廷はかえって虚名を矜り惜しんで忠順を沮み抑えている。どうして社稷の長計であろう。後で悔いても及ばぬことを恐れる、と。
  • 彧弘はこれのために入って帝に言い、帝の意もまた許そうとしていた。折しも慕容皝が上表して庾氏兄弟が権を擅にして乱を召いている、斥け退けて社稷を安んずべきと称し、また庾冰に書を送って、国に当たり権を秉りながら国のために恥を雪げぬことを責めた。庾冰は甚だ懼れ、絶遠で制しうるところでないとして、そこで何充と奏してその請を従わせた。
  • 乙卯、慕容皝を使持節・大將軍・都督河北諸軍事・幽州牧・大単于・燕王とし、備物・典策はみな殊礼に従った。またその世子の慕容儁を假節・安北將軍・東夷校尉・左賢王とし、軍資・器械を千万で計って賜った。また諸功臣百余人を封じた。
  • 劉翔を代郡太守として臨泉鄉侯に封じ、貟外散騎常侍を加えたが、劉翔は固辞して受けなかった。
  • 劉翔は江南の士大夫が驕奢・酣縱を相尚ぶのを疾んだ。かつて朝の貴が宴集した折に何充らに言った。四海が板蕩してたちまち三紀を踰え、宗社は墟となり黎民は塗炭にある。これこそ廟堂が焦り慮る時、忠臣が命を畢える秋である。それなのに諸君は江沱に宴安し情を肆にし欲を縦にし、奢靡を栄とし傲誕を賢とし、謇諤の言は聞かれず征伐の功は立たない。何で主を尊び民を済せようか、と。何充らは甚だ慙じた。
  • 詔で兼大鴻臚郭悕を節を持たせて棘城に詣らせ燕王を册命させ、劉翔らとともに北させた。公卿が江の上で餞した。劉翔は諸公に言った。昔、少康は一旅を資として有窮を滅ぼし、句踐は会稽に慿って強い吳に報いた。蔓草でもなお早く除くべきだ、まして冦讎ならば。今、石虎と李夀は互いに呑み噬むことに志している。王師がたとえまだ北方を澄清できずとも、しばらく巴蜀に従事すべきだ。一旦、石虎が人に先んじて事を挙げ李夀を併せて有し、形便の地に拠って東南に臨めば、智者があってもその後を善くできまい、と。中護軍謝廣が、それが吾の心だと言った。
  • 秋七月、郭悕・劉翔らが燕に至った。燕王慕容皝は劉翔を東夷護軍・領大將軍長史とし、唐國内史陽裕を左司馬、典書令李洪を右司馬、中尉鄭林を軍諮祭酒とした。

咸康八年(342年)

  • 冬十月、燕王慕容皝が都を龍城に遷し、その境内を赦した。