通鑑紀事本末劉淵、平陽に拠る(太弟乂の殺害を付す)(劉淵據平陽(殺太弟义附))

南匈奴の単于羌渠が殺され、於扶羅が平陽に止まってから、曹操が匈奴を五部に分けて并州に居らせるまでの経緯を前史とする。劉豹の子の劉淵は晉の武帝・王渾らに重んじられながら孔恂・齊王攸に警戒され、司馬氏の内訌に乗じて大単于に推され、漢王を称して離石・左國城に拠った。永嘉二年に皇帝を称して翌年平陽に遷都するが、劉淵の死後に劉和が兄弟を襲って劉聰に討たれ、劉聰が兄弟相残のすえ即位する。劉聰は太弟劉义を立てながら呼延后・郭猗・靳準・王沈らの讒言に動かされ、東宮を囲んで劉义を廃殺し、子の劉粲を太子とする。王沈の養女の立后を諫めた王鑒・崔懿之らも斬られ、漢の乱脈が極まる。中平五年(188年)から大興元年(318年)まで。

年表(19件)

漢靈帝中平五年(188年)南匈奴の内乱

  • 春三月、詔で南匈奴の兵を発して劉虞に配し張純を討たせた。単于の羌渠が左賢王に騎を将いさせて幽州に詣らせた。国人は発兵が已まぬことを恐れ、そこで右部の䤈落が反して屠各胡と合し、およそ十余万人で羌渠を攻め殺した。国人はその子の右賢王於扶羅を立てて持至尸逐侯単于とした。

中平六年(189年)

  • 南単于於扶羅が立つと、国人でその父を殺した者たちがそのまま叛き、兵は須卜骨都侯を単于に立てた。於扶羅は闕に詣って自ら訟えた。
  • 折しも霊帝が崩じて天下は大乱し、於扶羅は数千騎を将いて白波賊と兵を合わせて郡県を冦した。当時、民はみな保聚しており鈔掠に利がなく、兵はついに挫き傷ついた。改めて国に帰ろうとしたが国人が受けなかったので、河東の平陽に止まった。
  • 須卜骨都侯は単于となって一年で死に、南庭はそこでその位が虚しくなり、老王に国事を行わせた。

獻帝興平二年(195年)

  • 冬十二月、南単于於扶羅が死に、弟の呼廚泉が立って平陽に居った。

建安二十一年(216年)五部への分割

  • 秋七月、南単于呼廚泉が魏に入朝した。魏王曹操はそれに因って鄴に留め、右賢王去卑にその国を監させた。単于には毎年、綿・絹・銭・穀を給し、列侯のように子孫がその号を伝襲した。その衆を分けて五部とし、それぞれその貴人を帥に立て、漢人を選んで司馬として監督させた。

魏邵陵厲公嘉平三年(251年)鄧艾の献策

  • 南匈奴は自ら先祖がもと漢室の甥(外孫)だとして、そこで冒って劉氏を姓とした。太祖は単于呼厨泉を鄴に留め、その衆を分けて五部とし并州の境内に居らせた。
  • 左賢王劉豹は単于於扶羅の子で左部帥となり、部族は最も強かった。
  • 城陽太守鄧艾が上言した。単于が内にあって羌夷は統を失い、合散して主がない。今、単于の尊が日々疎くなり外土の威が日々重くなれば、胡虜は深く備えざるをえない。劉豹の部に叛く胡があると聞く。叛に因って割いて二国とし、その勢を分けるべきだ。去卑の功は前朝に顕れたのに子が業を継いでいない。その子に顕号を加えて鴈門に居らせるべきだ。国を離し冦を弱め、旧勲を追い録す。これが辺を御する長計である、と。
  • また、羌胡で民と同処する者は次第に出して民の表に居らせ、廉恥の教を崇め姦宄の路を塞ぐべきと陳べた。司馬師はみな従った。

晉武帝泰始六年(270年)

  • 魏人が南匈奴の五部を并州の諸郡に居らせ、中国の民と雑居させた。彼らは自ら先祖が漢氏の外孫だとして、そこで姓を劉氏に改めた。

咸寧五年(279年)劉淵の登場

  • 南単于呼廚泉は兄の於扶羅の子の劉豹を左賢王とした。魏の武帝が匈奴を五部に分けると、劉豹を左部帥とした。
  • 劉豹の子の劉淵は幼くして儁異で、上黨の崔㳺に師事して博く経史を習った。かつて同門生の上黨の朱紀・鴈門の范隆に、自分は常に隨何・陸賈に武がなく絳侯(周勃)・灌嬰に文がないことを恥じている、隨何・陸賈は高帝に遇いながら封侯の業を建てられず、絳侯・灌嬰は文帝に遇いながら庠序の教を興せなかった、惜しくないかと語った。そこで武事も兼ね学んだ。
  • 長ずると猿臂で射を善くし、膂力は人に過ぎ、姿貌は魁偉であった。任子として洛陽にあり、王渾およびその子の王濟はみなこれを重んじ、度々帝に薦めた。帝は召して語り、これを悦んだ。王濟が、劉淵には文武の長才がある、陛下が東南の事を任せられれば吳は平らげるに足らぬと言った。孔恂・楊珧は、我が族類でなければその心は必ず異なる、劉淵の才器はまことに比べる者が少ないが、重任すべきではないと言った。
  • 涼州が覆没したとき、帝が將を問うと李憙は、陛下がまことに匈奴五部の衆を発して劉淵に一將軍の号を仮しこれを将いて西させれば、樹機能の首は日を指して梟せると答えた。孔恂は、劉淵が果たして樹機能を梟せば、涼州の患はまさにさらに深くなるだけだと言い、帝はそこで止めた。
  • 東萊の王彌は家が代々二千石で、王彌は学術と勇略があり騎射を善くした。青州の人はこれを飛豹と呼んだ。しかし任俠を喜んだ。処士の陳留人董養が見て、君は乱を好み禍を楽しむ、天下に事があれば士大夫にはならぬだろうと言った。
  • 劉淵は王彌と友善で、王彌に、王氏・李氏が郷曲のよしみで知られて毎度称え薦めるのは、まさに自分の患となるだけだと言い、それに因って歔欷して涕を流した。
  • 齊王司馬攸はこれを聞いて帝に、陛下が劉淵を除かねば、并州が久しく安んじられぬことを恐れると言った。王渾は、大晉はまさに信で殊俗を懷けようとしている、どうして無形の疑いで人の侍子を殺すのか、なんと徳度の弘くないことかと言った。帝は、王渾の言が是だと言った。
  • 折しも劉豹が死に、劉淵が代わって左部帥となった。

太康十年(289年)

  • 冬十一月、詔で劉淵を匈奴北部都尉とした。劉淵は財を軽んじ施しを好み、心を傾けて人に接した。五部の豪傑や幽・冀の名儒は多く往って帰した。

惠帝永熈元年(290年)

  • 冬十月、劉淵を建威將軍・匈奴五部大都督とした。

永興元年(304年)大単于の推戴

  • 太弟司馬穎が上表して匈奴左賢王劉淵を冠軍將軍・監五部軍事とし、兵を将いて鄴にあらせた。
  • 劉淵の子の劉聰は驍勇が人に絶し、博く経史を渉り、よく文を属し、弓を三百斤に彎いた。弱冠で京師に遊び、名士は交わらぬ者がなかった。司馬穎は劉聰を積弩將軍とした。
  • 劉淵の從祖の右賢王劉宣がその族人に言った。漢が亡んで以来、我が単于はただ虚号を有つだけで再び尺土もなく、その余の王侯は降されて編戸と同じである。今、我が衆は衰えたとはいえなお二万を減らぬ。どうして手を斂めて役を受け、たちまち百年を過ごしたのか。左賢王は英武が世に超えている。天が匈奴を興そうと欲しなければ、必ずこの人を虚しく生じさせなかった。今、司馬氏は骨肉が相残し四海は鼎沸している。呼韓邪の業を復するのはこの時である、と。
  • そこで相与に劉淵を大単于に推すことを謀り、その党の呼延攸を鄴に詣らせて告げた。劉淵は司馬穎に申し上げて葬に会するため帰ることを請うたが、司馬穎は許さなかった。劉淵は呼延攸に先に帰って劉宣らに告げ、五部および雑胡を招集させ、司馬穎を助けると声言しながら実は叛こうとした。
  • 王浚・東嬴公司馬騰が司馬穎を攻めると、劉淵は帰って五部の兵を発して王浚・司馬騰を撃つことを請い、司馬穎は許した。
  • 劉淵は左國城に至り、劉宣らが大単于の号を上った。二旬の間に衆五万を有し、離石に都した。
  • 劉淵は司馬穎が鄴を去ったと聞き、劉景らに兵を将いさせて鮮卑を撃たせようとしたが、劉宣らが諫めて止めた。

永興元年 漢の建国

  • 冬十月、劉淵は都を左國城に遷し、胡・晉で帰する者はいよいよ多くなった。
  • 劉淵は群臣に、昔、漢が天下を有したのは久長で、恩は民に結ばれた。吾は漢氏の甥であり、兄弟の約を為していた。兄が亡んで弟が紹ぐのもよいのではないかと語り、そこで国号を建てて漢とした。
  • 劉宣らが尊号を上ることを請うたが、劉淵は、今、四方は未定である、しばらく高祖に依って漢王と称せばよいと言った。そこで漢王の位に即き、大赦して元熈と改元した。安樂公劉禪を孝懷皇帝と追尊し、漢の三祖五宗の神主を作って祭った。
  • 妻の呼延氏を王后に立て、右賢王劉宣を丞相、崔游を御史大夫、左於陸王劉宏を太尉、范隆を大鴻臚、朱紀を太常、上黨の崔懿之・後部人の陳元達をいずれも黄門郎、族子の劉曜を建武將軍とした。崔游は固辞して就かなかった。
  • 陳元達は若くして志操があった。劉淵がかつて招いたが陳元達は答えなかった。劉淵が漢王となったとき、ある者が陳元達に、君は懼れているかと言った。陳元達は笑って、吾はその人を知って久しい、彼も吾の心を亮している、ただ二、三日を過ぎずして駅書が必ず至ると答えた。その暮れ、劉淵は果たして陳元達を徴した。陳元達は劉淵に事えて度々忠言を進め、退いて草稿を削り、子弟でさえ知り得なかった。
  • 劉曜は生まれつき眉が白く目に赤い光があった。幼くして聡慧で胆量があり、早くに孤となって劉淵に養われた。長ずると儀観は魁偉で、性は拓落・高亮で衆と群れず、読書を好みよく文を属した。鉄の厚さ一寸を射て貫き、常に自ら樂毅および蕭何・曹参に比した。時人はこれを許さなかったが、ただ劉聰だけがこれを重んじ、永明(劉曜)は漢の世祖・魏の武の流である、数公など道うに足らぬと言った。

懷帝永嘉二年(308年)皇帝即位

  • 冬十月甲戌、漢王劉淵が皇帝の位に即き、大赦して永鳯と改元した。
  • 十一月、子の劉和を大將軍、劉聰を車騎大將軍、族子の劉曜を龍驤大將軍とした。
  • 十二月乙亥、漢主劉淵は大將軍劉和を大司馬として梁王に封じ、尚書令劉歓樂を大司徒として陳留王に封じ、后の父の御史大夫呼延翼を大司空として鴈門郡公に封じた。宗室は親疎によってことごとく郡県王に封じ、異姓は功伐によってことごとく郡県公侯に封じた。

永嘉三年(309年)平陽遷都

  • 春正月、都を平陽に徙し、大赦して河瑞と改元した。
  • 五月、漢主劉淵が子の劉裕を齊王、劉隆を魯王に封じた。
  • 漢主劉淵が楚王劉聰らを遣わして洛陽を冦させたが、軍は利を失い、劉淵は劉聰らを召し還した。
  • 十二月、漢主劉淵は陳留王劉歓樂を太傅、楚王劉聰を大司徒、江都王劉延年を大司空とし、都護大將軍曲陽王劉賢を征北大將軍劉靈・安北將軍趙固・平北將軍王桑とともに東の内黄に屯させた。王彌が上表して左長史曹嶷に安東將軍を行わせ、東に青州を徇えあわせてその家を迎えることを求め、劉淵は許した。

永嘉四年(310年)劉淵の死と劉和の乱

  • 春正月、漢王劉淵が単徴の娘を皇后に立て、梁王劉和を皇太子とし、大赦して子の劉义を北海王に封じ、長樂王劉洋を大司馬とした。
  • 秋七月庚午、漢主劉淵が病に臥せた。辛未、陳留王劉歓樂を太宰、長樂王劉洋を太傅、江都王劉延年を太保、楚王劉聰を大司馬・大単于とし、並んで録尚書事とし、単于台を平陽の西に置いた。齊王劉裕を大司徒、魯王劉隆を尚書令、北海王劉义を撫軍大將軍・領司隷校尉、始安王劉曜を征討大都督・領単于左輔、廷尉喬智明を冠軍大將軍・領単于右輔、光禄大夫劉殷を左僕射、王育を右僕射、任顗を吏部尚書、朱紀を中書監、護軍馬景に領左衞將軍、永安王劉安國に領右衛將軍、安昌王劉盛・安邑王劉欽・西陽王劉璿にみな領武衛將軍を任じ、禁兵を分け典らせた。
  • 丁丑、劉淵は太宰劉歓樂らを禁中に召して遺詔を受け輔政させた。己卯、劉淵が死去し、太子劉和が即位した。
  • 劉和は性が猜忌で恩がなかった。宗正呼延攸は呼延翼の子であるが、劉淵はその才行がないとして終身官を遷さなかった。侍中劉乘はもとより楚王劉聦を憎み、衛尉西昌王劉銳は顧命に与われなかったことを恥じていた。そこで相与に謀って劉和に説いた。先帝は軽重の勢を思わず、三王に内で強兵を総べさせ、大司馬は十万の衆を擁して近郊に屯している。陛下は寄坐同然である。早く計を立てるべきだ、と。
  • 劉和は呼延攸の甥で、深くこれを信じた。幸巳の夜、安昌王劉盛・安邑王劉欽らを召して告げた。劉盛は、先帝の梓宮はまさに殯にあり、四王に逆節はない、一旦自ら相魚肉すれば天下は陛下を何と言うか、しかも大業はこれからだ、陛下は讒夫の言を信じて兄弟を疑われるな、兄弟すら信じられぬなら他人の誰が信ずるに足ろうと述べた。
  • 呼延攸・劉銳は怒って、今日の議に理は二つない、領軍は何を言うのかと言い、左右に刃を加えるよう命じた。劉盛が死ぬと劉欽は懼れて、ただ陛下の命のとおりにと言った。
  • 壬午、劉銳が馬景を帥いて単于台の楚王劉聰を攻め、呼延攸が永安王劉安國を帥いて司徒府の齊王劉裕を攻め、劉乘が安邑王劉欽を帥いて魯王劉隆を攻め、尚書田密・武衛將軍劉璿に北海王劉义を攻めさせた。田密・劉璿は劉义を挟んで關を斬って劉聰に帰し、劉聰は甲を貫いて待つよう命じた。
  • 劉銳は劉聰に備えがあると知り、馳せ還って呼延攸・劉乘とともに劉隆・劉裕を攻めた。呼延攸・劉乘は劉安國・劉欽に異志があると疑って殺した。この日、劉裕を斬った。癸未、劉隆を斬った。
  • 甲申、劉聰が西明門を攻めて克った。劉銳らは走って南宮に入り、前鋒がこれに随った。乙酉、劉和を光極西室で殺し、劉銳・呼延攸・劉乘を収めて首を通衢に梟した。
  • 群臣が劉聰に帝位に即くよう請うた。劉聰は北海王劉义が単后の子であることから位をこれに譲った。劉义は涕泣して固く請い、劉聰は久しくして許し、劉义および群公はまさに禍難がなお殷んなことから孤の年長を貪ったのだ、これは家国の事だから孤がどうして辞せよう、劉义の年長を俟って大業をこれに帰すと言った。
  • そのまま即位し、大赦して光興と改元した。単氏を皇太后、その母の張氏を帝太后と尊んだ。劉义を皇太弟・領大単于・大司徒とし、妻の呼延氏を皇后に立てた。呼延氏は劉淵の后の從父の妹である。子の劉粲を河内王、劉易を河間王、劉翼を彭城王、劉悝を髙平王に封じ、なお劉粲を撫軍大將軍・都督中外諸軍事とした。石勒を并州刺史として汲郡公に封じた。
  • 九月辛未、漢主劉淵を永光陵に葬り、光文皇帝と諡し、廟号を髙祖とした。
  • 漢主劉聰は自ら次を越えて立ったことからその嫡兄の劉恭を忌み、劉恭の寝ているのに因ってその壁の間に穴をあけ、刺して殺した。
  • 漢の太后単氏が死去し、漢主劉聰は母の張氏を皇太后と尊んだ。単氏は年少で美色があり、劉聰はこれを烝した。太弟劉义が度々これを言うので、単氏は慙じ恚って死んだ。劉义の寵はこれによって次第に衰えた。しかし単氏のゆえになお廃されなかった。
  • 呼延后が劉聰に言った。父が死んで子が継ぐのは古今の常道だ。陛下は高祖の業を承けているのに、太弟は何をなす者か。陛下の百年の後、劉粲兄弟には必ず種がなくなる、と。劉聰は、そうだ、吾は徐々に思うつもりだと言った。呼延氏は、事は留めれば変を生ずる、太弟は劉粲兄弟が次第に長ずるのを見て必ず不安の志を持つ、万一小人がその間に交わり構えれば、禍が今日に発せぬとは限らぬと言い、劉聰は心中これを然りとした。
  • 劉义の舅の光禄大夫単沖が泣いて劉义に、疎は親を間てない、主上は河内王に意がある、殿下はどうして避けぬのかと言った。劉义は答えた。河瑞の末、主上は自ら嫡庶の分を思って大位を义に譲られた。义は主上の歯が長いので推し奉ったのだ。天下は高祖の天下であり、兄が終われば弟が及ぶ、なぜ不可であろう。劉粲兄弟が壮になっても今日と同じだ。しかも子と弟の間で親疎がどれほどのものか。主上にどうしてそんな意があろうか、と。

愍帝建興二年(314年)劉聰の統治機構

  • 春正月、劉聰は丞相など七公を置き、また輔漢など十六大將軍を置いてそれぞれ兵二千を配し、諸子をこれに充てた。また左右司隷を置いてそれぞれ戸二十余万を領させ、一万戸に一内史を置いた。単于左右輔にそれぞれ六夷十万落を主らせ、一万落に一都尉を置いた。左右選曹尚書に並んで選挙を典らせた。司隷以下の六官はみな位が僕射に亞いだ。
  • 子の劉粲を丞相・領大將軍・録尚書事として晉王に進封し、江都王劉延年に録尚書六条事、汝陰王劉景を太師、王育を太傅、任顗を太保、馬景を大司徒、朱紀を大司空、中山王劉曜を大司馬とした。
  • 十一月、漢主劉聰は晉王劉粲を相國・大単于として百揆を総べさせた。劉粲は若くして儁才があったが、宰相となってからは驕奢専恣で、賢を遠ざけ佞に親しみ、厳刻で諫めに愎かった。国人は憎み始めた。

建興三年(315年)太弟义の危機

  • 三月、漢の東宮の延明殿に血の雨が降った。太弟劉义はこれを憎んで太傅崔瑋・太保許遐に問うた。
  • 崔瑋・許遐が劉义に説いた。主上が往日に殿下を太弟とされたのは、衆心を安んじようとしただけである。その志は晉王にあること久しい。王公以下は旨を希って附かぬ者がない。今また晉王を相國とし、羽儀の威重は東宮を踰え、万機の事はこれに由らぬものがない。諸王はみな営兵を置いて羽翼としている。事勢は既に去った。殿下はただ立てられぬだけでなく、朝夕に不測の危がある。早く計を立てるに勝らぬ。今、四衛の精兵は五千を減らず、相國は軽佻でまさに一刺客を煩わすだけで足る。大將軍はその営を出ぬ日がなく、襲って取れる。その余の王はみな幼く、もとより奪いやすい。殿下に意さえあれば、二万の精兵は指顧のうちに得られる。鼓を鳴らして雲龍門に入れば、宿衛の士で誰が戈を倒して殿下を迎えぬだろう。大司馬もその異をなすことを慮る必要はない、と。劉义は従わなかった。
  • 東宮舍人の荀裕が、崔瑋・許遐が劉义に謀反を勧めたと告げた。漢主劉聰は崔瑋・許遐を詔獄に収め、他の事に仮託して殺し、冠威將軍卜抽に兵を将いて東宮を監守させ、劉义が朝会に聴くことを禁じた。
  • 劉义は憂懼して為すところを知らず、上表して庶人となることを乞い、あわせて諸子の封を除いて晉王を襃美し、これを嗣とすることを請うた。卜抽は抑えて通さなかった。

建興四年(316年)宦官の専横

  • 漢の中常侍王沈・宣懷、中宮僕射郭猗らはみな寵幸されて事を用いた。漢主劉聰は後宮で遊宴し、三日醒めぬこともあり百日出ぬこともあった。去る冬から朝を視ず、政事は一切相國劉粲に委ね、ただ殺生と除拜だけを王沈らに入って申し上げさせた。
  • 王沈らは多くを申し上げず自らその私意で決した。それゆえ勲旧の者が叙されず、姦佞の小人で数日で二千石に至る者があった。軍旅は毎年起こるのに將士に銭帛の賞がなく、後宮の家への賜は僮僕にまで及び、動けば数千万に至った。王沈らの車服・第舍は諸王を踰え、子弟や中表で守令となった者は三十余人あり、みな貪残で民の害となった。靳準は一族を挙げてこれに謟事した。
  • 郭猗と靳準はいずれも太弟劉义に怨みがあった。郭猗が相國劉粲に言った。殿下は光文帝の世孫、主上の嫡子であり、四海は心を属さぬ者がない。どうして天下を太弟に与えようとするのか。しかも臣が聞くところ、太弟は大將軍と謀って三月の上巳の大宴に因って乱をなし、事が成れば主上を太上皇、大將軍を皇太子とし、また衛將軍を大単于とすることを許したという。二王は疑われぬ地に処し並んで重兵を握っている。これで事を挙げれば成らぬはずがない。
  • 郭猗は続けて、しかし二王は一時の利があれば父兄を顧みぬ。事が成った後、主上にどうして全うされる理があろう。殿下の兄弟はもとより言うまでもない。東宮・相國・単于は武陵兄弟に在ることになる。どうして人に与えようか。今、禍の期は甚だ迫っている。早く図るべきだ。臣は度々主上に言ったが、主上は友愛に篤く、臣は刀鋸の余(宦官)なのでついに信じられぬ。殿下は泄らさず密かにその状を表されたい。殿下がもし臣の言を信じられぬなら、大將軍從事中郎王皮・衛軍司馬劉悙を召して恩意を仮し、帰首を許して問われれば必ず知れる、と。劉粲は許した。
  • 郭猗は密かに王皮・劉悙に、二王の逆状は主上および相國が具に知っている、あなたたちもこれに与わったのかと言った。二人は驚いて、そんなことはないと言った。郭猗は、この事は既に決している、吾はあなたたちの親旧があわせて族滅されることを憐れむだけだと言い、それに因って歔欷して涕を流した。二人は大いに懼れて叩頭して哀を求めた。
  • 郭猗は、吾があなたたちのために計る、用いられるかと言い、相國があなたたちに問えばただ「ある」と言え、先に啓さなかったことを責められたら、臣はまことに死罪に負くが、仰いで思うに主上は寛仁で殿下は敦睦であり、苟に言って信じられなければ誣譛に陥って不測の誅を受ける、それゆえ敢えて言わなかったのだと言え、と教えた。王皮・劉悙は許諾した。
  • 劉粲が召して問うと、二人は至った時が同じでなかったのにその辞は一つのようであった。劉粲はこれをまことと思った。
  • 靳準が再び劉粲に説いた。殿下は自ら東宮に居って相國を領し、天下に早く繋がるところを持たせるべきだ。今、道路の言はみな、大將軍・衛將軍が太弟を奉じて変をなそうとしており、期は季春だという。もし太弟に天下を得させれば、殿下に足を容れる地はなくなる、と。
  • 劉粲がどうすべきかと問うと、靳準は答えた。人が太弟が変をなすと告げても主上は必ず信じぬ。東宮の禁を緩めて賓客が往来できるようにすべきだ。太弟はもとより士を待つのを好むから必ずこれを嫌わぬ。軽薄な小人は太弟の意に迎合してこれのために謀らぬはずがない。その後で下官が殿下のためにその罪を露表する。殿下がその賓客で太弟と交通した者を収めて考問すれば、獄辞が既に具わり、主上に信じぬ理はなくなる、と。
  • 劉粲はそこで卜抽に兵を引いて東宮を去らせた。
  • 少府陳休・左衛將軍卜崇は人となり清直で、もとより王沈らを憎み、公座にあってもいまだ語ったことがなかった。王沈らは深くこれを疾んだ。
  • 侍中卜幹が陳休・卜崇に、王沈らの勢力は天地を回すに足る、あなたたちは自ら親と賢を料るに竇武・陳蕃とどちらかと言った。陳休・卜崇は、吾らは年五十を踰え職位は既に崇い、ただ一死を欠くだけだ、忠義に死ぬのが所を得たことになる、どうして首を俛せ眉を低くして閹豎に事えられよう、去れ卜公、再び言うなと言った。
  • 二月、漢主劉聰が出て上秋閤に臨み、陳休・卜崇および特進綦母達・太中大夫公師彧・尚書王琰・田歆・大司農朱諧を収めて並んで誅すよう命じた。いずれも宦官の憎むところであった。
  • 卜幹が泣いて諫め、陛下はまさに席を側めて賢を求められているのに、一旦、卿大夫七人を戮した。みな国の忠良である。不可ではないか。仮に陳休らに罪があるとしても、陛下が有司に下してその状を暴き明らかにされなければ、天下は何によって知ろう。詔はなお臣のところにあり、敢えて宣露していない。陛下が熟思されたいと述べ、それに因って叩頭して血を流した。
  • 王沈が卜幹を叱して、卜侍中は詔を拒もうというのかと言った。劉聰は衣を拂って入り、卜幹を免じて庶人とした。
  • 太宰河間王劉易・大將軍勃海王劉敷・御史大夫陳元達・金紫光禄大夫西河王劉延らがみな闕に詣って上表して諫めた。王沈らは詔旨を矯め弄び日月を欺き誣り、内は陛下に謟し外は相國に佞い、威権の重きは人主に侔しく、多く姦党を樹てて毒は海内に流れている。陳休らが忠臣で国のために節を尽くし、その姦状を発かれることを恐れて、それゆえ巧みに誣り陥れたのだ。陛下は察せずして急に極刑を加えられた。痛みは天地に徹り、賢愚は傷み懼れている。今、遺晉は未だ殄びず巴蜀は賔わず、石勒は趙・魏に拠ることを謀り、曹嶷は全齊に王たろうとしている。陛下の心腹・四支のどこに患がないか。それでいて再び王沈らに乱を助けさせ、巫咸を誅し扁鵲を戮している。臣はついに膏肓の疾を成すことを恐れる。後で救おうとしても及ばぬ。王沈らの官を免じて有司に付して罪を治めることを請う、と。
  • 劉聰は表を王沈らに示した。王沈らは笑って、群児は陳元達に引かれてついに癡となったと言った。王沈らは頓首して泣き、臣らは小人で、過ぎて陛下の識抜を蒙り閨閤を洒掃するを得た。ところが王公・朝士は臣らを讎のように疾み、また深く陛下を恨んでいる。臣らを鼎鑊の膏としてくだされば朝廷は自然に雍穆となるだろうと言った。劉聰は、この者らの狂言は常のことだ、あなたたちが恨むに足ろうかと言った。
  • 劉聰が王沈らについて相國劉粲に問うと、劉粲は盛んに王沈らの忠清を称えた。劉聰は悦んで王沈らを列侯に封じた。
  • 太宰劉易が再び闕に詣って上疏して極諫した。劉聰は大いに怒り、手ずからその疏を壊した。三月、劉易は忿恚して死んだ。
  • 劉易はもとより忠直で、陳元達はこれに倚って援とし諫争を尽くしえた。死ぬと陳元達はこれを哭して慟き、「人の云に亡ぶれば邦國殄瘁す」、吾は既に再び言えぬ、どうして黙々として苟に生きようかと言い、帰って自殺した。
  • 九月、漢主が群臣を光極殿に宴し、太弟劉义を引見した。劉义の容貌は憔悴し鬢髪は蒼然としており、涕泣して陳謝した。劉聰もこれのために慟哭し、そこで酒を縦にして歓を極め、初めのように待遇した。

元帝建武元年(317年)太弟义の死

  • 春三月、漢の相國劉粲がその党の王平に太弟劉义へ、ちょうど中詔を奉じたが、京師にまさに変があるので甲を衷にして非常に備えるべきと言わせた。劉义はこれを信じ、宮臣にみな甲を衷にして居るよう命じた。
  • 劉粲は馳せて靳準・王沈に告げ、靳準が漢主劉聰に、太弟がまさに乱をなそうとしている、既に甲を衷にしていると申し上げた。劉聰は大いに驚いて、そんなことがあろうかと言った。王沈らはみな、臣らはこれを聞いて久しく、度々言ったのに陛下は信じられなかったと言った。
  • 劉聰は劉粲に兵で東宮を囲ませた。劉粲は靳準・王沈に氏羌の酋長十余人を収めさせ窮め問うた。いずれも首を高い格に懸けて鉄を焼いて目を灼くと、酋長らは自ら劉义と謀反したと誣った。
  • 劉聰は王沈らに、吾は今になってあなたたちの忠を知った、知って言わぬことなきを念い、往日に言って用いられなかったことを恨むなと言った。
  • そこで東宮の官属および劉义がもとより親厚とした者、靳準・王沈らがもとより憎み怨んだ大臣数十人を誅し、士卒一万五千余人を坑にした。
  • 夏四月、劉义を廃して北部王とした。劉粲はほどなく靳準に賊殺させた。劉义は形神が秀爽で寛仁・器度があったので、士心は多くこれに附いた。劉聰はその死を聞いて哭して慟き、吾の兄弟はただ二人を余すだけなのに相容れられなかった、どうして天下に吾の心を知らせられようかと言った。
  • 秋七月、漢主劉聰が晉王劉粲を皇太子に立て、領相國・大単于として朝政を総摂させ、従来どおりとして大赦した。

大興元年(318年)王沈の養女の立后

  • 夏四月、漢の中常侍王沈の養女に美色があり、漢主劉聰は立てて左皇后とした。
  • 尚書令王鑒・中書監崔懿之・中書令曹恂が諫めた。臣が聞くところ、王者が后を立てるのは徳を乾坤に比べ、生きては宗廟を承け没しては后土に配するものだから、必ず世徳・名宗で幽閑令淑な者を択び、それで四海の望に副い神祇の心に称うのだ。孝成帝が趙飛鷰を后とし、継嗣は絶滅して社稷は墟となった。これが前鑑である。麟嘉以来、中宮の位は徳で挙げられていない。仮に王沈の弟の娘であっても、刑余の小醜であるから椒房を塵汚すべきでない。まして家の婢ならば。六宮の妃嬪はみな公子公孫である。どうして一旦、婢でこれを主らせられよう。臣はこれが国家の福ではないことを恐れる、と。
  • 劉聦は大いに怒り、中常侍宣懷に太子劉粲へ、王鑒らの小子は狂言で侮り慢って再び君臣上下の礼がない、速やかに考実せよと言わせた。そこで王鑒らを収めて市に送り、みな斬った。金紫光禄大夫王延が馳せて入って諫めようとしたが、門者が通さなかった。
  • 王鑒らが刑に臨むと、王沈が杖でこれを叩き、庸奴めが再び悪をなせるか、乃公があなたたちの事に何の関わりがあるかと言った。王鑒は目を瞋らせて叱し、豎子め、大漢を滅ぼすのはまさにお前たち鼠輩と靳準に坐す、要はお前を先帝に訴えてお前を地下に取って治めてやると言った。
  • 靳準が王鑒に、吾は詔を受けて君を収めた、何の不善があろう、君は漢の滅ぶのが吾によると言うのかと言った。王鑒は、お前は皇太弟を殺して主上に不友の名を獲させた、国家がお前たちを畜養して、どうして滅びずにいられようかと言った。崔懿之は靳準に、お前の心は梟鏡のようで必ず国の患となる、お前が既に人を食ったのだから人もお前を食うことになると言った。