通鑑紀事本末羌胡の叛乱(樹機能・斉万年)(羌胡之叛(齊萬年/樹機能))
西晉初期に西北辺で相次いだ異民族の叛乱を扱う。前半は鮮卑の秃髪樹機能の乱で、胡烈・牽弘・楊欣といった刺史級の將が次々に敗死し、涼州が一時陥落するに至った。帝の悔恨のなか、司馬督馬隆が三千の募兵と扁箱車で温水を渡り、咸寧五年に樹機能を斬って涼州を平定する。後半は氐羌の齊萬年の乱で、梁王司馬肜の私怨により後援を絶たれた周處が六陌に力戦して死に、のち孟観が齊萬年を捕えて鎮圧した。郭欽と江統が相次いで戎狄を塞外に徙す策を上ったが、いずれも用いられなかった。泰始五年(269年)から元康九年(299年)まで。
年表(12件)
- 晉武帝
- 泰始五年269年秦州を置き、雍凉に雑居する鮮卑を鎮撫させるべく胡烈を刺史とする
- 泰始六年胡烈の敗死270年胡烈が萬斛堆で秃髪樹機能に敗死し、救援を怠った司馬亮も免官される
- 泰始七年牽弘の敗死271年涼州刺史牽弘が青山で樹機能らに囲まれて敗死し、陳騫の予見が的中する
- 咸寧三年277年文鴦が樹機能を討ち破り、諸胡二十万口が来降する
- 咸寧四年278年涼州刺史楊欣が武威で敗死し、討伐の請いも朝議に退けられる
- 咸寧五年馬隆の涼州平定279年馬隆が募った三千余で扁箱車を連ねて西進し、樹機能を斬って涼州を平定する
- 太康元年郭欽の徙戎の議280年郭欽が内郡の雑胡を辺地に徙すよう上疏するが、帝は聴かない
- 惠帝
- 元康四年294年匈奴の郝散が上黨に反し、降ったのち馮翊都尉に殺される
- 元康六年齊萬年の乱296年秦雍の氐羌がこぞって反して齊萬年を帝に立て涇陽を囲み、周處が討伐に向かう
- 元康七年周處の戦死297年梁王司馬肜に後援を絶たれた周處が六陌で矢尽きるまで戦って死ぬ
- 元康八年298年張華・陳凖の推挙で孟観が討伐に当たり、十数度の大戦にすべて勝つ
- 元康九年江統の徙戎論299年孟観が齊萬年を捕えて乱が収まり、江統が徙戎論を著すが用いられない
晉武帝泰始五年(269年)
- 春二月、雍・凉・梁州を分けて秦州を置き、胡烈を刺史とした。
- これに先立ち、鄧艾が降ってきた鮮卑数万を納れて雍・凉の間に置き、民と雑居させていた。朝廷はそれが久しくして患となることを恐れ、胡烈がもとより西方で名を著していたのでこれを鎮撫させた。
泰始六年(270年)胡烈の敗死
- 夏六月戊午、胡烈が鮮卑の秃髪樹機能を萬斛堆で討ったが、兵は敗れて殺された。
- 都督雍凉州諸軍事扶風王司馬亮が將軍劉旂を遣わして救わせたが、劉旂は観望して進まなかった。司馬亮は坐して平西將軍に降格され、劉旂は斬に当たった。司馬亮が上言して、節度の咎は自分から出たので劉旂の死を丐うと述べた。詔で、罪が劉旂にないなら在るところがあるはずだとされ、そこで司馬亮の官を免じた。
- 尚書の樂陵人石鑒を安西將軍代行・都督秦州諸軍事として樹機能を討たせた。
- 樹機能の兵は盛んで、石鑒は秦州刺史杜預に出兵して撃たせようとした。杜預は、虜は勝に乗じて馬は肥え、官軍は縣けて乏しい、力を併せて大いに芻糧を運び、春を待って進討すべきと考えた。石鑒は杜預が軍興を稽らせ乏しくしたと奏し、檻車で徴して廷尉に詣らせ、贖で論じられた。やがて石鑒が樹機能を討ったが、ついに克てなかった。
泰始七年(271年)牽弘の敗死
- 夏四月、北地の胡が金城を冦し、涼州刺史牽弘が討った。衆胡はみな内から叛き、樹機能とともに牽弘を青山で囲んだ。牽弘の軍は敗れて死んだ。
- もともと大司馬陳騫が帝に、胡烈と牽弘はいずれも勇だが謀がなく自ら用いることが強い、辺を綏める材ではなく国の恥となるだろうと言っていた。当時、牽弘は揚州刺史で陳騫の命に承順しないことが多く、帝は陳騫が牽弘と協わずに毀っているのだと考えた。そこで牽弘を徴し、着くとほどなく涼州刺史とした。陳騫はひそかに歎息して必ず敗れると考えた。
- 二人は果たして羌戎の和を失い、兵は敗れ身は没した。征討は年を連ね、やっと定まった。帝はそこで悔いた。
咸寧三年(277年)
- 春三月、平虜護軍文鴦が涼・秦・雍州の諸軍を督して樹機能を討ち破り、諸胡二十万口が来降した。
咸寧四年(278年)
- 春正月、司馬督の東平人馬隆が上言し、涼州刺史楊欣は羌戎の和を失っており必ず敗れると述べた。
- 夏六月、楊欣が樹機能の党の若羅拔能らと武威で戦い、敗死した。
- 冬十二月、鮮卑の樹機能が長く辺患となっていたので、僕射李憙が発兵して討つことを請うたが、朝議はみな出兵は重大な事であり、虜は憂うるに足らぬとした。
咸寧五年(279年)馬隆の涼州平定
- 春正月、樹機能が涼州を攻め陥した。帝は甚だ悔い、朝に臨んで歎き、誰が自分のためにこの虜を討てるかと言った。
- 司馬督馬隆が進み出て、陛下が自分を任じられるなら自分は平らげられると述べた。帝は、必ず賊を平らげられるならなぜ任じないことがあろう、ただ方略がどうかだと言った。馬隆は、勇士三千人を、どこから来た者かを問わずに募り、これを帥いて西すれば虜は平らげるに足らぬと述べた。帝は許した。
- 乙丑、馬隆を討虜護軍・武威太守とした。公卿はみな、見える兵は既に多く横に賞募を設けるべきでない、馬隆は小將で妄言しており信ずるに足らぬと言ったが、帝は聴かなかった。
- 馬隆は弓を四鈞引き弩を九石挽ける者を募って取り、標を立てて簡試し、旦から日中までに三千五百人を得た。馬隆は足りると言った。
- また自ら武庫に行って仗を選ぶことを請うた。武庫令が馬隆と忿争し、御史中丞が馬隆を劾奏した。馬隆は、自分は戦場で命を畢えるつもりだ、武庫令は魏の時の朽ちた仗を給しているが、陛下が自分を使われる意ではないと述べた。帝は馬隆の取るところに任せるよう命じ、さらに三年の軍資を給して遣わした。
- 十一月、馬隆は西に温水を渡った。樹機能らが数万の衆で険に拠って拒んだ。馬隆は山路が狭隘なので扁箱車を作り、木屋を車上に施し、転戦しながら前進した。千余里行き、殺傷は甚だ多かった。
- 馬隆が西したときから音問が断絶し、朝廷は憂え、既に没したと言う者もあった。後に馬隆の使が夜に到り、帝は掌を撫して歓び笑い、翌朝に群臣を召して、諸卿の言に従っていたら涼州はなかったと語った。そこで詔で馬隆に節を仮し宣威將軍を拝した。
- 馬隆が武威に至ると、鮮卑の大人の猝跋韓且萬能らが一万余落を帥いて来降した。
- 十二月、馬隆が樹機能と大戦してこれを斬り、涼州はそこで平定された。
太康元年(280年)郭欽の徙戎の議
- 漢魏以来、羌・胡・鮮卑の降者は多く塞内の諸郡に置かれていたが、その後、度々忿恨に因って長吏を殺害し、次第に民の患となった。
- 侍御史の西河人郭欽が上疏した。戎狄は強獷で古来より患をなしてきた。魏初は民が少なく、西北の諸郡はみな戎の居となり、内は京兆・魏郡・弘農にも往々これがある。今は服従しているが、百年の後に風塵の警があれば、胡騎は平陽・上黨から三日で孟津に至り、北地・西河・太原・馮翊・安定・上郡はすべて狄の庭となろう。吳を平らげた威と謀臣猛將の略が及ぶうちに、内郡の雑胡を次第に辺地に徙し、四夷出入の防を峻しくし、先王の荒服の制を明らかにすべきだ。これが万世の長策である、と。帝は聴かなかった。
惠帝元康四年(294年)
- 夏五月、匈奴の郝散が反して上黨を攻め、長吏を殺した。
- 秋八月、郝散が衆を帥いて馮翊都尉に降ったが、都尉はこれを殺した。
元康六年(296年)齊萬年の乱
- 夏、郝散の弟の郝度元が馮翊・北地の馬蘭羌・盧水胡とともに反し、北地太守張損を殺し、馮翊太守歐陽建を敗った。
- 征西大將軍趙王司馬倫が雍州刺史の濟南人解系と軍事を争って互いに表奏した。朝廷は梁王司馬肜を征西大將軍・都督雍凉二州諸軍事とした。
- 秋八月、解系が郝度元に敗れた。秦・雍の氐羌がすべて反し、氐帥の齊萬年を立てて帝とし、涇陽を囲んだ。
- 御史中丞周處は弾劾に権戚を避けなかった。梁王司馬肜がかつて法に違い、周處は按じて劾した。
- 冬十一月、詔で周處を建威將軍とし、振威將軍盧播とともに安西將軍夏侯駿の隷下として齊萬年を討たせた。
- 中書令陳凖が朝で言った。夏侯駿および梁王はいずれも貴戚で將帥の才ではない。進んで名を求めず退いて罪を畏れぬのは周處で、吳人だが忠直勇果である。しかし仇があって援がない。詔で積弩將軍孟観に精兵一万人で周處の前鋒とさせれば必ず冦を殄せる。そうでなければ、梁王は周處を先駆させて救わず陥れるだろう。その敗は必至である、と。朝廷は従わなかった。
- 齊萬年は周處が来ると聞いて、周府君はかつて新平太守で文武の才がある、専断して来れば当たれぬ、だが人の制を受けるなら禽になるだけだと言った。
元康七年(297年)周處の戦死
- 春正月、齊萬年が梁山に屯し、衆七万を有した。梁王司馬肜・夏侯駿が周處に五千の兵で撃たせようとした。周處は、軍に後継がなければ必ず敗れる、ただ身を亡ぼすだけでなく国のために恥を取ると言った。司馬肜・夏侯駿は聴かず、迫って遣わした。
- 癸丑、周處は盧播・解系とともに六陌で齊萬年を攻めた。周處の軍士は食していなかったが、司馬肜が速やかに進むよう促した。旦から暮れまで戦って斬獲は甚だ多かった。弦は絶え矢は尽き、救兵は至らなかった。左右が周處に退くよう勧めると、周處は剣を按じて、これが自分が節を効し命を致す日だと言い、そのまま力戦して死んだ。朝廷は司馬肜を咎めたものの、罪することはできなかった。
元康八年(298年)
- 秋九月、張華・陳凖は趙王・梁王が相継いで關中にありながらみな雍容驕貴で師は老いて功がないとして、孟観が沈毅で文武の材用があると薦め、齊萬年を討たせた。孟観は身をもって矢石に当たり、十数度大戦していずれも破った。
元康九年(299年)江統の徙戎論
- 春正月、孟観が中亭で氐の衆を大破し、齊萬年を獲た。
- 太子洗馬の陳留人江統は、戎狄が華を乱すのだから早くその原を絶つべきと考え、「徙戎論」を作って朝廷を警めた。
- その論旨は次のとおり。夷蠻戎狄は地が要荒にあり、禹が九土を平らげて西戎も叙に就いた。その性気は貪婪で凶悍不仁であり、四夷のなかで戎狄が最も甚だしい。弱ければ畏れ服し、強ければ侵し叛く。強いときには漢の高祖が白登で困じ孝文が霸上に軍した。弱いときには元帝・成帝の微でも単于が入朝した。これが既に然る証である。それゆえ有道の君が夷狄を牧うには、ただ待つに備えを有ち禦ぐに常を有つ。稽顙して贄を執っても辺城は固守を弛めず、強暴が冦をなしても兵甲を遠征に加えず、境内に安を獲て疆場を侵されぬだけにする。
- 続けて、周室が統を失って諸侯が征を専らにすると、封疆が固まらず利害に心を異にし、戎狄は隙に乗じて中国に入り、あるいは招き誘い安撫して自らの用とした、以来、四夷が交侵して中国と錯居した、秦の始皇が天下を併せると兵威が旁く達して胡を攘い越を走らせ、当時、中国にはもう四夷がいなかったと述べた。
- さらに、漢の建武中、馬援が隴西太守を領して叛いた羌を討ち、その余種を關中に徙して馮翊・河東の空地に居らせた、数年後に族類は蕃息し、その肥強を恃み、また漢人に侵されることを苦しんだと述べた。永初の元年、群羌が叛乱し、將守を覆没させ城邑を屠り破り、鄧隲は敗北して河内まで侵された。十年のうちに夷夏はともに敝れ、任尚・馬賢がやっと克った。それ以後、余燼が尽きず、少しでも際会があればまた侵し叛いた。中世の冦ではこれが最大である。
- 続けて、魏が興った初め、蜀と分かれ隔てられ、疆場の戎は彼此が入れ替わった、武帝は武都の氐を秦川に徙し、冦を弱めて国を強くし蜀虜を扞ぎ禦ごうとしたが、これは権宜の計であって万世の利ではなかった、今、当事者は既にその弊を受けていると述べた。
- 江統は本論を展開した。關中は土が沃え物が豊かで帝王の居るところ、戎狄がこの土に在るべきとは聞かない。我が族類でなければその心は必ず異なる。それでいてその衰敝に因って畿服に遷し、士庶がそれに慣れてその軽弱を侮り、その怨恨の気を骨髄に毒せしめた。蕃育して衆が盛んになれば坐してその心を生じる。貪悍の性で憤怒の情を挟み、隙を候い便に乗じてそのまま横逆をなす。しかも封域の内に居って障塞の隔たりがなく、不備の人を掩い散野の積みを収める。だから禍をなして滋り蔓り、暴害が測れなくなる。これは必然の勢で、既に験された事である。
- 今の宜しきとして、江統は次の措置を挙げた。兵威がまさに盛んで衆事がまだ罷まぬうちに、馮翊・北地・新平・安定の界内の諸羌を先零・罕开・析支の地に徙し、扶風・始平・京兆の氐を出して隴右に還らせ陰平・武都の界に著かせる。道路の糧を廩し自ら致すに足らせ、それぞれ本種に附いて旧土に反らせ、属国に夷を撫させて安集に就かせる。戎と晉が雑わり並ばずそれぞれの所を得れば、たとえ夏を猾す心があり風塵の警があっても、中国と遠く絶ち山河で隔閡され、冦暴に害されるところは広くない。
- 江統は反論を想定して答えた。難ずる者は、氐の冦が新たに平らぎ關中は饑疫で百姓は愁苦し、みな寧息を望んでいるのに、疲悴の衆で自ら猜む冦を徙させれば、勢が尽き力が屈して緒業が卒わらず、前の害が弭む前に後の変が改めて横に出るのを恐れると言うだろう。答えて、あなたは今の群氐がなお余資を挟んで悪を悔い善に反り、我が徳恵を懷いて柔らかに附いて来たと思うのか、それとも勢が窮まり道が尽きて智力ともに困じ、我が兵誅を懼れてここに至ったと思うのか。余力がなく勢が窮まり道が尽きたからである。それなら我は彼の短長の命を制して進退を自らに由らせられる。
- 続けて、その業を楽しむ者は事を易えず、その居に安んずる者は遷る志がない、彼らが自ら疑い危懼して畏れ怖れ促遽している今こそ兵威で制して左右に違わせぬことができると述べた。その死亡・散流・離逷がまだ鳩まらず、關中の人と戸ごとに讎となっている今こそ、遐かに遷し遠く処らせてその心が土を懷わぬようにできる。
- さらに、聖賢が事を謀るのは未だ有らざるうちに為し未だ乱れざるうちに治めるもので、道が著れず徳が顕れずして平らぎ成る、その次は禍を福に転じ敗に因って功をなし、困に値えば必ず済し否に遇えば通ずることができると述べた。今、あなたは敝れた事の終わりに遭って改制の始めを図らず、轍を易える勤めを愛しんで覆車の軌に遵うのはなぜか。
- 費用についても答えた。關中の人は百余万口、その多少を率いれば戎狄が半を占める。ここに処らせるにも遷すにも口実は必須である。窮する者があって糝粒が継がなければ、もとより關中の穀を傾けてその生を全うすべきで、生きる計は必ず溝壑に擠されず侵掠の害をなさない。今、我が彼らを遷し伝食させて至らせ、その種族に附けて自ら相贍わせれば、秦地の人はその半の穀を得る。これは行く者に廩糧を済し、居る者に積倉を遺すことだ。關中の逼りを寛くし盗賊の原を去り、旦夕の損を除いて終年の益を建てる。もし暫くの挙の小労を憚って永逸の弘策を忘れ、日月の煩苦を惜しんで累世の冦敵を遺すなら、業を創り統を垂れ謀を子孫に及ぼす者とは言えない。
- 江統は并州の胡についても論じた。并州の胡は本は実に匈奴で、桀悪の冦である。建安中、右賢王去卑に呼厨泉を誘い質とさせ、その部落が六郡に散居するのを許した。咸熙の際に一部が強すぎるとして三率に分け、泰始の初めにさらに四に増した。そこで劉猛が内から叛いて外の虜と連結し、近くは郝散の変が榖遠で発した。今、五部の衆は戸が数万に至り、人口の盛んなことは西戎に過ぎる。その天性は驍勇で弓馬に便利なこと氐羌の倍である。もし不虞・風塵の慮があれば并州の域は寒心すべきものとなる。
- さらに、正始中に毌丘儉が句驪を討ってその余種を滎陽に徙した、徙した当初は戸落が百数だったが子孫が孳息して今は千を数える、数世の後には必ず殷熾に至ると述べた。今、百姓が職を失えばなお亡叛することもある。犬馬が肥え充ちれば噬み齧ることがある。まして夷狄が変をなさぬはずがあろうか。ただその微弱で執る力が及ばぬだけである。
- 結びとして、邦を為す者は憂いが寡いことにあるのでなく安からぬことにある、四海の広さと士民の富をもって、どうして夷虜が内にいてから足を取る必要があろうと述べた。これらはみな申し諭して発遣し、その本域に還らせるべきだ。彼らの覊旅・懷土の思いを慰め、我が華夏の芥介の憂いを釈く。この中国を恵んで四方を綏め、徳の施しは永世に及ぶ。計として長い、と。朝廷は用いることができなかった。