通鑑紀事本末晋、呉を滅ぼす(晉滅呉)

孫休の死後に孫皓が立ってから、晉が呉を滅ぼして三国の分立が終わるまでを扱う。孫皓は当初こそ明主と称されたが、まもなく暴虐奢侈に走り、陸凱・華覈・賀邵・陸抗らの諫めをことごとく退けて人心を失った。一方、晉では羊祜が襄陽を鎮して徳と信で呉人を懐け、王濬が益州で大艦を造って伐呉の備えを整える。陸抗は西陵で歩闡の叛を平らげて守りを支えたが、その死で上流の要が失われた。羊祜の遺志を継いだ杜預と張華が反対論を押し切って出師を決し、太康元年に二十余万が並び進んで孫皓は降った。景元三年(262年)から太康元年(280年)まで。

年表(16件)

魏元帝景元三年(262年)

  • 冬十月、吳主孫休が濮陽興を丞相、廷尉丁密と光禄勲孟宗を左右の御史大夫とした。濮陽興が会稽太守だった頃、吳主が会稽にいて濮陽興は厚く待遇した。左將軍張布はかつて会稽王の左右の督將であった。それゆえ吳主の即位後、二人はともに貴寵されて事を用いた。張布は宮省を典り濮陽興は軍国に関わり、佞巧をもって互いに表裏となった。吳人は失望した。

咸熙元年(264年)孫皓の即位

  • 秋七月、吳主が病に臥せ、口が利けなくなり、自筆で書いて丞相濮陽興を呼び入れ、子の孫𩅹を出して拝させた。孫休は濮陽興の臂を把り孫𩅹を指して託した。
  • 癸未、吳主が死去し、景帝と諡された。群臣は朱后を皇太后と尊んだ。
  • 吳人は蜀が滅んだばかりで交趾が離反したことから国内が恐懼し、年長の君を得たいと望んだ。左典軍萬彧はかつて烏程令であり、烏程侯孫皓と親しかったので、孫皓は才識明断で長沙桓王(孫策)の類だと称え、加えて学を好み法度を奉遵すると、丞相濮陽興と左將軍張布に度々言った。濮陽興と張布は朱太后に説いて孫皓を嗣にしようとした。朱后は、自分は寡婦で社稷の慮など知らぬ、吳国が隕ちず宗廟が頼るところがあればそれでよいと答えた。
  • そこで孫皓を迎え立て、元興と改元して大赦した。
  • 冬十月丁亥、詔で、寿春で獲た吳の相國参軍事徐紹を散騎常侍、水曹掾孫彧を給事黄門侍郎として吳に使わせ、その家人がこちらにいる者はすべて自ら随うことを許し、必ず還らせるとはせず、それで広く大信を開くとした。晉王はそれに因って吳主に書を致し禍福を諭した。
  • 吳主が立った当初、優詔を発して士民を恤み、倉廩を開いて貧乏を振い、宮女を科出して妻のない者に配し、苑中で養っていた禽獸はみな放った。当時は翕然として明主と称された。志を得るとやがて麤暴驕盈となり、忌諱が多く酒色を好み、大小は失望した。
  • 濮陽興と張布はひそかにこれを悔いた。ある者がそれを吳主に譛した。十一月朔、濮陽興と張布が入朝したところ、吳主はこれを捕えて廣州に移し、道中で殺して三族を滅ぼした。

晉武帝泰始元年(265年)

  • 春三月、吳主が光禄大夫紀陟・五官中郎將洪璆を徐紹・孫彧とともに来させて報聘した。徐紹が濡須まで行ったところ、徐紹が中国の美を誉めたと言う者があった。吳主は怒って追い還して殺した。
  • 冬、吳の西陵督歩闡が上表して吳主に武昌への遷都を請い、吳主は従い、御史大夫丁固・右將軍諸葛靚に建業を守らせた。

泰始二年(266年)陸凱の諫言

  • 春三月、吳主が群臣を大いに会したとき、廬江王蕃が沈酔して頓伏した。吳主はその詐りを疑い、王蕃を輿して外に出し、しばらくして召し還した。王蕃の行止は自若としていた。吳主は激怒して斬った。
  • 五官中郎將丁忠が吳主に、北方は守戦の備えがない、弋陽は襲って取れると説いた。吳主が群臣に問うと、鎮西大將軍陸凱は、北方は巴蜀を併せたばかりで使を遣わして和を求めたのは我に援を求めたのではない、力を蓄えて時を待とうとしているだけだ、敵の勢はまさに強いのに僥倖で勝を求めるのは利があるとは思えぬと述べた。吳主は出兵しなかったが、そのまま晉と絶った。
  • 秋八月、吳主が陸凱を左丞相、萬彧を右丞相とした。
  • 吳主は人が自分を視るのを憎み、群臣は侍見しても敢えて目を挙げなかった。陸凱が、君臣に相識らぬ道はない、もし突如不虞があれば赴くところが分からぬと述べ、吳主は陸凱には自ら視ることを許したが他人には従来どおりとした。
  • 吳主が武昌にいたので、揚州の民は流れを遡って供給し、甚だ苦しんだ。また奢侈が無度で公私ともに窮匱した。
  • 陸凱が上疏した。今、四辺に事はなく、民を養い財を豊かにすることに務めるべきなのに、かえって奢を窮め欲を極めている。災がなくて民命は尽き、為すことがなくて国財は空しい。ひそかにこれを痛む。昔、漢室が衰えて三家が鼎立した。今、曹氏と劉氏は道を失っていずれも晉の有となった。これは目前の明らかな証である。自分は愚かだが、ただ陛下のために国家を惜しむだけだ。武昌の土地は危険で瘠せて確しく、王者の都ではない。しかも童謡に「寧ろ建業の水を飲むとも武昌の魚を食わず、寧ろ建業に還って死すとも武昌に居ることを止めず」という。これから見れば民心と天意は明らかである。
  • 陸凱は続けて、今、国に一年の蓄えなく民に離散の怨があり、国に根を露わす漸があるのに、官吏は苛急に務めて誰もこれを恤まぬと述べた。大帝の時、後宮の列女および織絡の者は数が百に満たなかったが、景帝以来は千を数える。これは財を耗する甚だしいものだ。また左右の臣はおおむね適任の人でなく、群党が相扶けて忠を害し賢を隠す。いずれも政を蠧み民を病ませるものだ。陛下は百役を省き息め、苛擾を罷め去り、宮女を科出し、百官を清く選ばれたい。そうすれば天は悦び民は附き国家は永く安んずる、と。吳主は不快であったが、その宿望によって特に寛容に容れた。
  • 冬十二月、吳主は黄門を州郡に徧く行かせ、將吏の家の女を科取した。二千石の大臣の子女はみな毎年、名と年を報告し、十五、六になると一度簡閲され、簡閲に中らなければ嫁ぐことを許された。後宮は千を数えたが採択は止まなかった。

泰始三年(267年)昭明宮の造営

  • 夏六月、吳主が昭明宮を作った。二千石以下はみな自ら山に入って伐木を督し、苑囿を大いに開き土山と楼観を起こし、伎巧を極め尽くした。功役の費は億万を計った。陸凱が諫めたが聴かれなかった。
  • 中書丞華覈が上疏した。漢の文帝の世は九州が晏然としていたが、賈誼だけは火を積薪の下に厝いてその上に寝るようだと考えた。今、大敵は九州の地に拠り太半の衆を有し、国家と相呑む計を立てようとしている。単に漢の淮南・濟北のようなものではない。賈誼の世に比べればどちらが緩急か。今、倉庫は空匱で編戸は業を失っているが、北方は穀を積んで民を養い専心して東に向かっている。しかも交趾が淪没して嶺表は動揺し、胸背に嫌があり首尾に多難で、国朝の厄会である。この急務を捨てて力を尽くして工作すれば、突如風塵不虞の変があったとき版築を委てて烽燧に応じ、怨む民を駆って白刃に赴かせることになる。これこそ大敵が資とするところだ、と。
  • 当時、吳の俗は奢侈であった。華覈はまた上疏した。今、事は多く役は繁く、民は貧しくして俗は奢っている。百工は無用の器を作り、婦人は綺靡の飾りを為し、互いに倣い効って独りそれを持たぬことを恥じる。兵民の家までなお俗を追い、内に甔石の貯えなく出ては綾綺の服がある。上に尊卑等級の差なく、下に財を耗し力を費やす損がある。その富給を求めても得られようか、と。吳主はいずれも聴かなかった。

泰始五年(269年)羊祜の襄陽鎮

  • 春二月、帝は吳を滅ぼす志を持った。壬寅、尚書左僕射羊祜を都督荆州諸軍事として襄陽を鎮させ、征東大將軍衛瓘を都督青州諸軍事として臨淄を鎮させ、鎮東大將軍東莞王司馬伷を都督徐州諸軍事として下邳を鎮させた。
  • 羊祜は遠近を綏め懷けて甚だ江漢の心を得、吳人と大信を開き布いた。降者が去りたければみな行かせた。戍邏の卒を減らして田八百余頃を墾いた。着いた当初は軍に百日の糧もなかったが、末年には十年の積みができた。羊祜は軍中で常に軽い裘と緩い帯で身に甲を被らず、鈴閣の下の侍衛も十数人を超えなかった。
  • 汝南の何定はかつて吳の大帝の給使であった。吳主の即位後、自ら先帝の旧人だと表して内侍への復帰を求め、吳主は樓下都尉として酤糴の事を典知させた。何定はそこで威福を専らにし、吳主は信任して衆事を委ねた。
  • 左丞相陸凱が面と向かって何定を責め、あなたは前後の事主に不忠で国政を傾乱させている、寿を終えられる者があろうか、なぜ専ら姦邪をなして天聴を塵穢するのか、自ら改め厲むべきだ、そうでなければまさに不測の禍を見ることになると言った。何定は大いに恨んだ。
  • 陸凱は公家に心を竭くし、忠懇が内から発し、表疏はみな事を指して飾らなかった。病になると吳主が中書令董朝を遣わして言いたいことを問わせた。
  • 陸凱は、何定は信用できぬので外任を授けるべきだ、奚熙は小吏で浦里の田を建て起こそうとしているがこれも聴くべきでないと陳べた。また姚信・樓玄・賀邵・張悌・郭連・薛瑩・滕脩および族弟の陸喜・陸抗は、清白忠勤か資才卓茂であり、いずれも社稷の良輔である、陛下は重ねて神思を留め時務を訪ね、それぞれ忠を尽くさせて万一の遺漏を拾わせたいと述べた。賀邵は賀齊の孫、薛瑩は薛綜の子、樓玄は沛の人、滕脩は南陽の人である。
  • 陸凱はほどなく死去した。吳主はもとよりその切直を銜み、しかも日ごと何定の譛言を聞いていたので、久しくして結局陸凱の家を建安に移した。

泰始六年(270年)陸抗の諫言

  • 夏四月、吳の左大司馬施績が死去。鎮軍大將軍陸抗を都督信陵・西陵・夷道・樂鄉・公安諸軍事として樂郷に治した。
  • 陸抗は吳主の政事に欠けるところが多いとして上疏した。徳が均しければ衆多い者が勝ち、力が侔しければ安んじている者が危うい者を制すると聞く。これが六国が秦に併された理由であり、西楚が漢に屈した理由である。今、敵の拠るところは關右の地や鴻溝以西だけではない。それでいて国家は外に連衡の援なく、内は西楚の強もない。庶政は陵遲し黎民は乂まらない。議者の恃むところはただ長江の峻山が封域を限り帯びていることだけだが、これは国を守る末事で智者の先とするところではない。これを念うたび、夜中に枕を撫し餐に臨んで食を忘れる。君に事える義は犯すも欺かぬことだ、謹んで時宜十七条を陳べて聞かせる、と。吳主は納れなかった。
  • 吳主が監軍李朂に督軍徐存を督させて建安の海道から交阯を撃たせた。李朂は建安の道が不利なので導將の馮斐を殺して軍を引いて還った。以前、何定が子のために李朂に婚を求めたが李朂は取り合わなかったので、何定は李朂が枉げて馮斐を殺し勝手に軍を撤して還ったと申し立て、李朂と徐存およびその家属が誅され、そのうえ李朂の尸が焼かれた。
  • 何定はまた諸將にそれぞれ御犬一頭を上らせた。犬一頭は縑数十匹に相当し、纓紲は銭一万に相当し、兔を捕えて厨に供させた。吳人はみな罪を何定に帰したが、吳主は忠勤とみなして列侯の爵を賜った。
  • 陸抗が上疏し、小人は理道に明るくなく見るところは浅い、情を竭くし節を尽くしてもなお任ずるに足らぬ、まして姦心がもとより篤く憎愛が移り易わる者ならと述べたが、吳主は従わなかった。
  • 冬十一月、吳主の從弟の前將軍孫秀が夏口督となった。吳主はこれを憎み、民間ではみな孫秀が図られると言った。折しも吳主が何定に兵五千を率いさせて夏口で狩りをさせた。孫秀は驚いて夜に妻子と親兵数百人を率いて来奔した。
  • 十二月、孫秀を驃騎將軍・開府儀同三司として会稽公に封じた。

泰始七年(271年)華里への出兵

  • 春正月、吳人の刁玄が讖文を偽って増し、「黄旗紫蓋が東南に見え、ついに天下を有つ者は荆揚の君」と称した。吳主はこれを信じた。
  • この月の晦、大いに兵を挙げて華里に出た。太后・皇后および後宮数千人を載せ、牛渚から西へ上った。東観令華覈らが固く諫めたが聴かなかった。
  • 行く途中で大雪に遭い、道は陥ち壊れ、兵士は甲を被り仗を持ちながら百人で一台の車を引き、寒さに凍えて死にそうになり、みな「敵に遇えばそのまま戈を倒す」と言った。吳主はこれを聞いて還った。
  • 帝は義陽王司馬望に中軍二万・騎三千を統べさせて寿春に屯して備えさせた。吳の師が退いたと聞いて罷めた。

泰始八年(272年)王濬の造艦と歩闡の叛

  • もともと廣漢太守の弘農人王濬は羊祜の参軍で、羊祜は深くこれを知っていた。羊祜の兄の子の羊暨が、王濬は志が大きく奢侈で専任できぬ、裁くところがあるべきだと言った。羊祜は、王濬には大才がある、欲するところを済させれば必ず用いられると答え、改めて車騎從事中郎に転じた。
  • 王濬は益州で威信を明らかに立て、蠻夷は多く帰附した。ほどなく大司農に遷った。
  • 当時、帝と羊祜はひそかに吳を伐つことを謀っていた。羊祜は吳を伐つには上流の勢を藉るべきと考え、密表して王濬を留め、再び益州刺史として水軍を治めさせた。ほどなく龍驤將軍・監益梁諸軍事を加えた。
  • 詔で王濬に屯田兵を罷めて大いに舟艦を作らせた。別駕何攀が、屯田兵は五、六百人を超えず船を急には整えられぬ、後のものが未完のうちに前のものが腐る、諸郡の兵を召して一万余人を合わせて造れば年末に成ると考えた。王濬は先に上申して報せを待とうとしたが、何攀は、朝廷が突如一万の兵を召すと聞けば必ず聴かぬ、そのまま召すに勝らぬ、却けられたとしても功夫は既に成っていて勢いとして止められぬと述べ、王濬は従った。
  • 何攀に船艦・器仗の造作を典らせ、そこで大艦を作った。長さ百二十歩、二千余人を収め、木で城を作り楼櫓を起こし、四方に出る門を開き、その上でみな馬を馳せて往来できた。
  • 当時、船を作った木の削り屑が江を蔽って下った。吳の建平太守の吳郡人吾彦が流れる屑を取って吳主に、晉には必ず吳を攻める計がある、建平の兵を増してその衝要を塞ぐべきと申し上げた。吳主は従わず、吾彦は鉄鎖で江路を横断した。
  • 秋八月、吳主が昭武將軍・西陵督歩闡を徴した。歩闡は代々西陵にあり、突如徴されて自ら職を失い、しかも讒があることを懼れた。九月、城に拠って来降した。
  • 冬十月、吳の陸抗は歩闡の叛を聞き、急ぎ將軍左奕・吾彦らを遣わして討たせた。帝は荆州刺史楊肇を遣わして西陵で歩闡を迎えさせ、車騎將軍羊祜が歩軍を帥いて江陵に出、巴東監軍徐胤が水軍を帥いて建平を撃って歩闡を救った。
  • 陸抗は西陵の諸軍に、赤谿から故市まで厳重な囲みを築き、内は歩闡を囲み外は晉兵を禦ぐよう敕し、昼夜催し切って敵が既に至ったかのようにしたので、衆は甚だ苦しんだ。
  • 諸將が諫め、今は三軍の鋭に乗じて急ぎ歩闡を攻めるべきだ、晉の救が至る前に必ず抜ける、何を囲みなどして士民の力を敝らせるのかと言った。陸抗は、この城は処勢が既に固く糧穀も足り、およそ備禦の具はみな自分がかつて規したものだ、今これを逆に攻めても急には抜けない、北兵が至って備えがなければ表裏から難を受け、何で防げようかと答えた。
  • 諸將がみな歩闡を攻めたがるので、陸抗は衆心を服させようと一度攻めさせた。果たして利がなかった。
  • 囲みの備えがようやく合わさった頃、羊祜の兵五万が江陵に至った。諸將はみな陸抗は上るべきでないと言ったが、陸抗は、江陵は城が固く兵も足り憂うるところはない、たとえ敵が江陵を得ても必ず守れず損ずるところは小さい、もし晉が西陵に拠れば南山の群夷がみな擾動し、その患は量りがたいと述べ、自ら衆を帥いて西陵に赴いた。
  • 陸抗は以前、江陵の北は道路が平易なので、江陵督張咸に大堰を作って水を遏き平土を漸漬させ冦と叛を絶つよう敕していた。羊祜はその遏いた水に因って船で糧を運ぼうとし、堰を破って歩軍を通すと揚言した。陸抗はこれを聞いて張咸に急ぎ破らせた。諸將はみな惑って度々諫めたが聴かれなかった。羊祜は当陽に至って堰が壊れたと聞き、船を改めて車で糧を運び、大いに功力を費やした。
  • 十一月、楊肇が西陵に至った。陸抗は公安督孫遵に南岸に沿って羊祜を禦がせ、水軍督留慮に徐胤を拒がせ、自ら大軍を率いて囲みに憑って楊肇に対した。
  • 將軍朱喬と営都督俞賛が亡げて楊肇のもとに詣った。陸抗は、俞賛は軍中の旧吏で自分の虚実を知っている、自分は常に夷兵がもとより簡練でないことを慮ってきた、敵が囲みを攻めるなら必ずここを先にすると述べ、その夜に夷兵をみな易えて精兵で守らせた。
  • 翌日、楊肇は果たしてもと夷兵のいた所を攻めた。陸抗が撃つよう命じ、矢石が雨のように下り、楊肇の衆で傷死する者が相次いだ。
  • 十二月、楊肇は計窮して夜に遁れた。陸抗は追おうとしたが、歩闡が力を蓄えて隙を伺い兵を分けるに足らぬことを慮り、ただ鼓を鳴らして衆を戒め追うかのように見せた。楊肇の衆は匈懼して、みな甲を解いて走った。陸抗は軽兵で追蹤させ、楊肇の兵は大敗した。羊祜らはみな軍を引いて還った。
  • 陸抗はそこで西陵を抜き、歩闡および同謀の將吏数十人を誅してみな三族を滅ぼし、その余で赦免を請うた者数万口は赦した。東の樂郷に還り、貌に矜る色なく、謙沖として常のごとくであった。吳主は陸抗に都護を加えた。羊祜は坐して平南將軍に降格され、楊肇は免ぜられて庶人となった。
  • 吳主は西陵に克って以来、自ら天の助けを得たとし、志はいよいよ張大した。術士の尚廣に天下を取ることを筮させ、尚廣は吉である、庚子の歳に青蓋が洛陽に入ると答えた。吳主は喜び、徳政を修めず専ら兼併の計を立てた。
  • 吳主の華里行きのとき、右丞相萬彧が右大司馬丁奉・左將軍留平と密かに、もし華里に至って還らなければ社稷の事は重い、自ら還らざるをえぬと謀った。吳主はかなりこれを聞いていたが、萬彧らが旧臣であることから隠忍して発しなかった。
  • この年、吳主は会に因って毒酒を萬彧に飲ませた。酒を伝える人がひそかに減らした。また留平に飲ませたが、留平は気づいて他の薬を服して解き、死なずに済んだ。萬彧は自殺し、留平は憂悶して一月余りで死んだ。萬彧の子弟は廬陵に移された。
  • 萬彧は以前、忠清の士を選んで近職に補うことを請い、吳主は大司農樓玄を宮下鎮・主殿中事とした。樓玄は身を正して衆を帥い法を奉じて行い、応対は切直であった。吳主は次第に不快になった。
  • 中書令領太子太傅賀邵が上疏して諫めた。近年以来、朝列は紛錯して真偽が相貿り、忠良は排け墜され信臣は害されている。それゆえ正しい士は方を摧かれ庸臣は苟に媚び、意に先んじ指を承け、それぞれ時趣を希い、人は理に反する評を執り士は詭道の論を吐く。ついに清流を濁らせ忠臣は舌を結んだ。陛下は九天の上に処し百里の室に隱れ、言が出れば風が靡き令が行かれれば景が從う。寵媚の臣に親洽し日々順意の辞を聞かれるので、この輩が実に賢で天下は既に平らかだと思われているのだろう。
  • 賀邵は続けて、興国の君は自らの過を聞くことを楽しみ、荒乱の主は自らの誉を聞くことを楽しむ、過を聞く者は過が日々消えて福が臻り、誉を聞く者は誉が日々損じて禍が至ると述べた。陛下は刑法を厳しくして直言を禁じ、善士を黜けて諫口に逆らう。杯酒のはずみに死生が保てず、仕える者は退くことを幸いとし、居る者は出ることを福とする。まことに洪緒を保ち光らせ道化を熙隆する道ではない。
  • さらに、何定はもと僕隷の小人で身に行いも能もないのに、陛下はその佞媚を愛して威福を仮している、小人が入り込めば必ず姦利を進める、何定は間々みだりに事役を興し、江辺の戍兵を発して麋鹿を駆り、老弱は飢え凍え大小は怨み歎いていると述べた。伝に「国の興るや民を赤子のごとく視、その亡ぶや民を草芥とす」とある。今、法禁はますます苛しく賦調はいよいよ繁く、中官・近臣は在るところで事を興し、長吏は罪を畏れて民を苦しめて捌こうとする。それゆえ人力は堪えられず家戸は離散し、呼び嗟く声が和気を感傷させている。
  • 賀邵はさらに、今、国に一年の貯えなく家に一月の蓄えもないのに、後宮の中には坐して食う者が一万余人いる、また北の敵は目を注いで国の盛衰を伺っている、長江の限りは久しく恃めず、我が守れなければ一葦でも渉れる、陛下は基を豊かにし本を強くし、情を割いて道に従われたい、そうすれば成王・康王の治が興り聖祖の祚は隆まると述べた。吳主は深く恨んだ。
  • そこで左右が共に、樓玄と賀邵が行き合って立ち止まり耳語して大笑し政事を謗訕したと誣った。二人はともに詰責された。
  • 羊祜が江陵から帰り、徳と信を修めることに務めて吳人を懷けた。交兵するたび日を刻して戦い、掩襲の計を用いなかった。將帥に譎計を進めようとする者があれば、その者に醇酒を飲ませて言えなくさせた。羊祜が出軍して吳の境を行き穀を刈って糧としたときは、みな侵したところを計って絹を送って償った。衆を江沔に会して遊猟するときは常に晉の地に止まり、禽獸が先に吳人に傷つけられて晉兵に得られた場合はみな送り還した。そこで吳の辺人はみな悦服した。
  • 羊祜と陸抗は境を接し、使命は常に通っていた。陸抗が羊祜に酒を送ると羊祜は疑わず飲んだ。陸抗が病んで羊祜に薬を求めると、羊祜は成薬を与え、陸抗はすぐ服した。人が多く陸抗を諫めたが、陸抗は、羊叔子が人に毒を入れるものかと言った。
  • 陸抗は辺の戍に、彼は専ら徳を為し我は専ら暴を為せば、これは戦わずして自ら服することだ、それぞれ分界を保つだけで細利を求めるなと告げた。吳主が二境の交和を聞いて陸抗を詰ると、陸抗は、一邑一郷でも信義がなくてはならぬ、まして大国ならと答え、自分がこうしなければまさに彼の徳を彰かにするだけで、羊祜には傷つくところがないと述べた。
  • 吳主は諸將の謀を用いて度々晉の辺を侵盗した。陸抗が上疏した。昔、夏に罪多くして殷の湯が師を用い、紂が淫虐をなして周の武が鉞を授けた。その時がなければ大聖でも威を養って自保すべきで、軽々しく動くべきでない。今、力めて農を富ませ国を富まし、官を審らかにし能を任じ、黜陟を明らかにし刑賞を慎み、諸司を徳で訓え百姓を仁で撫することに務めず、諸將に名を徇わせて兵を窮め武を黷し、動けば万を費やし士卒は彫瘁している。冦は衰えず我はもう大いに病んでいる。今、帝王の資を争いながら十百の利に昧いのは、人臣の姦便であって国家の良策ではない。昔、齊と魯が三度戦い魯人は二度克ったが亡ぶのは踵を旋さぬうちだった。大小の勢が異なるからだ。まして今、師の克獲は喪ったものを補わぬのだから、と。吳主は従わなかった。

泰始九年(273年)

  • 春三月、吳が陸抗を大司馬・荆州牧とした。

泰始十年(274年)陸抗の死

  • 秋七月、吳の大司馬陸抗が病になり上疏した。西陵と建平は国の蕃表であり、上流に処して二境から敵を受ける。もし敵が舟を汎かべて順流し星のように奔り電のように邁れば、他部の援を恃んで倒懸を救うことはできない。これは社稷の安危の機であり、単に封疆を侵陵される小害ではない。自分の父の陸遜は昔、西垂にあって、西陵は国の西門であり、守りやすいと言われても失いやすい、もし守れなければ一郡を失うだけでなく荆州が吳の有でなくなる、危うきことがあれば国を傾けて争うべきだと上言した。
  • 陸抗は続けて、自分は先に精兵三万を屯させることを乞うたが主管者は常に循って差し赴かせようとしなかった、歩闡以後はいよいよ損耗したと述べた。今、自分の統べるところは千里、外は強敵を禦ぎ内は百蠻を懷け、上下の見える兵はやっと数万で、羸敝が久しく変に待ちがたい。愚かに思うに、諸王は幼沖で兵馬を用いて要務を妨げるべきでない。また黄門の宦官が占募を開き立て、兵民が役を避け逋れ逃げて占に入っている。特に詔で簡閲し一切を科出して、疆場の敵を受ける常処に補われたい。自分の部が八万に満ちれば、衆務を省き息め力を併せて備禦し、憂いなきを期しうる。そうでなければ深く憂うべきである。自分の死後は西方を属していただきたい、と。
  • 死ぬと、吳はその子の陸晏・陸景・陸玄・陸機・陸雲に兵を分け将させた。

咸寧二年(276年)羊祜の伐吳上疏

  • 秋七月、吳人のある者が吳主に、臨平湖は漢末から薉塞していた、長老の言に、この湖が塞がれば天下が乱れ、この湖が開けば天下が平らぐという、近ごろ故なくたちまち開通した、これは天下がまさに太平になり青蓋が洛に入る祥だと言った。
  • 吳主が奉禁都尉の歴陽人陳訓に問うと、陳訓は、自分は気を望むだけで湖の開塞には達せぬと答えた。退いて友に、青蓋が洛に入るというのは璧を御する事があるということで吉祥ではないと告げた。
  • 冬十月、羊祜を征南大將軍とした。羊祜は上疏して吳を伐つことを請うた。
  • その趣旨は次のとおり。先帝は西に巴蜀を平らげ南に吳会と和し、海内が休息できることを期した。ところが吳が再び信に背き辺事を改めて起こした。期運は天の授けるところだが、功業は必ず人に因って成る。一度大挙して掃滅しなければ兵役は息む時がない。蜀が平らいだとき天下はみな吳も併せて亡ぶと言った。それから十三年である。謀は多くともよいが決するのは独りでありたい。およそ険阻で全うしうる者は、勢が均しく力が敵する場合のことだ。軽重が斉しくなく強弱が勢を異にすれば、険阻があっても保てない。
  • 羊祜は続けて、蜀という国は険しくないわけではなかった、みな「一夫が戟を荷えば千人も当たれぬ」と言った、しかし進兵の日には藩籬の限りもなく、勝に乗じて席巻し直に成都に至った、漢中の諸城はみな烏のように棲んで出るのを敢えてしなかった、戦う心がなかったのではなく力が抗するに足らなかったのだと述べた。劉禪が降を請うと諸営堡は索然としてともに散った。今、江淮の険は劒閣に及ばず、孫皓の暴は劉禪に過ぎ、吳人の困は巴蜀より甚だしく、大晉の兵力は往時より盛んである。この際に四海を平壹せず、かえって兵を阻んで相守り天下を征戍に困じさせるのは、盛衰を経歴して長久ではありえない。
  • 羊祜は進撃の構想を示した。今、梁益の兵を引いて水陸ともに下し、荆楚の衆が進んで江陵に臨み、平南・豫州が直に夏口を指し、徐揚青兖が並んで秣陵に会すれば、一隅の吳が天下の衆に当たることになり、勢は分かれ形は散じて備えるところがみな急となる。巴漢の奇兵がその空虚に出て、一処が傾き壊れれば上下が震蕩する。智者があっても吳のために謀ることはできなくなる。
  • さらに、吳は江に縁って国となり東西数千里、敵するところは大きく寧い息みがない、孫皓は情を恣にし意に任せて下と忌が多く、將は朝に疑い士は野に困じ、世を保つ計も一定の心もない、平常の日でもなお去就を懐いているのだから、兵が臨む際には必ず応ずる者があり、ついに力を斉しくして死を致せぬことは既に知れると述べた。その俗は急速で久しくは持てず、弓弩・戟楯は中国に及ばない。ただ水戦だけが便とするところだ。一度その境に入れば長江はもはや保つところでなくなり、還って城池に趣き、長を去って短に入る。我が敵ではない。官軍が縣けて進めば人には死を致す志があり、吳人は内を顧みてそれぞれ離散の心を持つ。こうなれば軍は時を踰えずして克つのは必至である、と。
  • 帝は深く納れたが、朝議はまさに秦・凉を憂えていた。羊祜は再び表して、吳が平らげば胡は自ら定まる、ただ速やかに大功を済すべきだと述べた。
  • 議者は多く同じでなく、賈充・荀朂・馮紞はとくに吳を伐つことを不可とした。羊祜は難じて、天下の意のごとくならぬ事は十のうち常に七、八ある、天が与えるのに取らぬのは、事を経た者が後の時を恨むことにならぬかと言った。
  • ただ度支尚書杜預と中書令張華が帝の意と合い、その計を賛成した。

咸寧三年(277年)

  • 夏五月、吳の將邵顗・夏祥が衆七千余人を帥いて来降した。
  • 冬十二月、吳の夏口督孫慎が江夏・汝南に入り千余家を略して去った。詔で侍臣を遣わして羊祜に追討しなかった意を詰り、あわせて荆州を移そうとした。
  • 羊祜は、江夏は襄陽から八百里、賊の消息を知る頃には賊が去ってすでに日が経っている、歩軍でどう追えよう、師を労して責を免れるのは自分の志ではないと述べた。昔、魏の武帝が都督を置いたのは、いずれも州と相近くさせたので、兵勢は合を好み離を悪むからだ。疆場の間は彼此が入れ替わるもので、慎んで守るだけである。もし勝手に州を徙せば、賊の出るところは常なく、州が拠るべきところも分からない、と。

咸寧四年(278年)羊祜の死と杜預の後継

  • 夏六月、羊祜が病で入朝を求めた。至ると帝は輦で殿に入ることを命じ、拝せずに坐らせた。羊祜は面と向かって吳を伐つ計を陳べ、帝は善しとした。羊祜の病で度々入るべきでないとして、改めて張華を遣わして籌策を問わせた。
  • 羊祜は、孫皓の暴虐は既に甚だしく、今なら戦わずして克てる、もし孫皓が不幸にも没して吳人が改めて令主を立てれば、百万の衆があっても長江を窺えず、後患となるだろうと述べた。張華は深く然りとした。羊祜は、自分の志を成すのはあなただと言った。
  • 帝は羊祜に臥したまま諸將を護らせようとしたが、羊祜は、吳を取るのに自分が行く必要はない、ただ平らげた後に聖慮を労されよう、功名の際は自分が居るのを敢えてしない、事が了えば付授するところがあるはずで、その人を審らかに択ばれたいと述べた。
  • 冬十月、吳人が皖城で大いに屯田し、侵入を謀ろうとした。都督揚州諸軍事王渾が揚州刺史應綽を遣わして攻め破り、五千級を斬り、その積穀百八十余万斛を焼き、稲苗四千余頃を踐み、船六百余艘を毀した。
  • 十一月、羊祜の疾が篤くなり、杜預を挙げて自らに代えた。辛卯、杜預を鎮南大將軍・都督荆州諸軍事とした。羊祜が死去し、帝はこれを哭して甚だ哀しんだ。
  • 南州の民は羊祜の死を聞いて市を罷め、巷の哭声が相接いだ。吳の辺を守る將士もまたこれのために泣いた。羊祜は峴山に遊ぶのを好み、襄陽の人はその地に碑を建て廟を立てて歳時に祭祀した。その碑を望む者は涕を流さぬ者がなく、それゆえ墮涙碑と呼ばれた。
  • 杜預は鎮に至ると精鋭を選んで吳の西陵督張政を襲い大破した。張政は吳の名將で、備えなしに敗を取ったことを恥じ、実を吳主に告げなかった。杜預は離間しようと、表して獲たものを還した。吳主は果たして張政を召し還し、武昌監の留憲を代わりに遣わした。

咸寧五年(279年)伐吳の決断

  • 吳主は群臣を宴するたびみな沈酔させ、また黄門郎十人を司過として置き、宴が罷んだ後にそれぞれ闕失を具えて奏させた。逆らって視ることも誤った言も挙げぬことがなく、大きな者はすぐ刑戮を加え、小さな者は罪として記録された。人の面を剝ぎ人の眼を鑿つこともあった。これによって上下は離心し、誰も力を尽くさなくなった。
  • 益州刺史王濬が上疏した。孫皓は荒淫凶逆であり、速やかに征伐すべきだ。もし一旦孫皓が死んで改めて賢主が立てば強敵となる。自分が船を作って七年、日々朽ち敗れている。自分は年七十で死亡の日も知れぬ。この三つのうち一つでも違えば図りがたい。まことに陛下が事機を失われぬことを願う、と。
  • 帝はそこで吳を伐つ意を決した。折しも安東將軍王渾が孫皓が北上しようとしていると上表し、辺の戍はみな戒厳した。朝廷はそこで改めて明年の出師を議した。
  • 王濬の参軍何攀が使を奉じて洛にあり、上疏して、孫皓は必ず敢えて出ない、戒厳に因って掩い取るのは甚だ易しいと述べた。
  • 杜預が上表した。閏月以来、賊はただ厳戒を敕しただけで下に兵はなく上にもない。理勢で推せば、賊の窮計は力が両つを完うできず、必ず夏口以東を保って視息を延ばそうとする。多兵を西上させて国都を空しくするはずがない。それを陛下が過って聴いてしまわれ、大計を委棄し敵を縦して患を生ずるのは、まことに惜しむべきだ。かつて挙げて敗れたのなら挙げぬのもよい。今は事に制を為し完牢に従うことに務めている。成れば太平の基を開き、成らなくても日月の間の費損に過ぎない。何を惜しんで一度試さぬのか。もし後年を待たねばならぬとすると、天時人事が常のごとくとはいかず、いよいよ難くなることを恐れる。今、万安の挙があって傾敗の慮はない。自分の心は実に了えている。曖昧の見で自ら後の累を取ることは敢えてしない。陛下が察されたい、と。
  • 旬月たっても報せがなかったので、杜預は再び上表した。羊祜は先に朝臣に博く謀らず密かに陛下と共にこの計を施したので、いよいよ朝臣に異同の議を多くさせた。およそ事は利害を相校べるべきだ。今、この挙の利は十のうち八、九であり、その害は一、二で無功に止まるだけだ。朝臣に破敗の形を言わせても得られまい。ただ計が自分から出ず功が自分に在らぬので、それぞれ前言の失を恥じて固く守っているのだ。近ごろ朝廷では事の大小を問わず異意が鋒のように起こる。人心が同じでないのもあるが、恩を恃んで後患を慮らぬので軽々しく同異を言うのだ。秋以来、討賊の形はかなり露れた。今、中止すれば孫皓は怖れて計を生じ、武昌に都を徙し、改めて江南の諸城を完修し、その居民を遠ざけるかもしれぬ。城は攻められず野に略するものがなくなれば、明年の計も及ばぬところとなろう、と。
  • 帝がまさに張華と碁を囲んでいたとき、杜預の表がちょうど至った。張華は盤を推し手を斂めて、陛下は聖武で国は富み兵は強く、吳主は淫虐で賢能を誅殺している、今これを討てば労せず定められる、疑いとされぬようにと述べた。帝はそこで許し、張華を度支尚書として運漕を量計させた。
  • 賈充・荀朂・馮紞が固く争い、帝は激怒した。賈充は冠を免いで謝罪した。僕射山濤は退いて人に、聖人でなければ外が寧かであれば必ず内に憂いがある、今、吳を外の懼れとして釈いておくのも算ではないかと語った。
  • 冬十一月、大いに吳を伐った。鎮軍將軍琅邪王司馬伷を涂中に、安東將軍王渾を江西に、建威將軍王戎を武昌に、平南將軍胡奮を夏口に、鎮南大將軍杜預を江陵に出し、龍驤將軍王濬・巴東監軍の魯國人唐彬を巴蜀から下らせ、東西合わせて二十余万であった。
  • 賈充を使持節・假黄鉞・大都督とし、冠軍將軍楊濟を副とした。賈充は固く吳を伐つのは不利だと陳べ、しかも自ら衰老で元帥の任に堪えぬと言った。詔で、君が行かねば自分が自ら出るとされ、賈充はやむなく節鉞を受け、中軍を率いて南に襄陽に屯し諸軍の節度となった。

太康元年(280年)吳の滅亡

  • 春正月、杜預が江陵に向かい、王渾が横江に出て吳の鎮戍を攻め、向かうところみな克った。
  • 二月戊午、王濬・唐彬が丹揚監盛紀を撃破した。
  • 吳人は江の磧の要害の処に並べて鉄鎖を横に截し、また長さ一丈余の鉄錐を作って暗に江中に置き、舟艦を逆に拒んでいた。王濬は大筏数十を作り、方百余歩で、草を縛って人形とし甲を被せ仗を持たせ、泳ぎのうまい者に筏を先に行かせた。鉄錐に遇うと錐はそのまま筏に着いて去った。また長さ十余丈、太さ数十囲の大炬を作って麻油を灌ぎ、船の前に置いて鎖に遇えば炬を燃やして焼くと、たちまち融け液となって断絶した。こうして船は障るところがなくなった。
  • 庚申、王濬が西陵を克ち、吳の都督留憲らを殺した。壬戌、荆門・夷道の二城を克ち、夷道監陸晏を殺した。
  • 杜預が牙門周㫖らを遣わして奇兵八百を帥いさせ、舟を泛かべて夜に江を渡り樂郷を襲わせた。旗幟を多く張り巴山で火を起こした。吳の都督孫歆は懼れ、江陵督伍延に書を送って、北から来た諸軍はまさに飛んで江を渡っているようだと言った。
  • 周㫖らが樂郷城外に兵を伏せた。孫歆が軍を出して王濬を拒ませたが大敗して還った。周㫖らは伏兵を発して孫歆の軍に随って入り、孫歆は気づかず、直に帳下に至って孫歆を虜にして還った。
  • 乙丑、王濬が吳の水軍都督陸景を撃ち殺した。杜預が進んで江陵を攻め、甲戌、これを克って伍延を斬った。そこで沅・湘以南から交・廣に接するまで、州郡はみな望風して印綬を送った。杜預は節を仗み詔を称して綏撫した。斬獲したのはすべて吳の都督・監軍十四、牙門・郡守百二十余人であった。胡奮が江安を克った。
  • 乙亥、詔で、王濬・唐彬は巴丘を定めたら胡奮・王戎と共に夏口・武昌を平らげ、順流に長く騖せて直に秣陵に造れ、杜預は零・桂を鎮静し衡陽を懷輯すべきだ、大兵が過ぎれば荆州の南境はもとより檄を伝えて定まると命じた。杜預らはそれぞれ兵を分けて王濬・唐彬に益した。太尉賈充は項に屯を移した。
  • 王戎が参軍の襄陽人羅尚・南陽人劉喬に兵を率いさせて王濬と合し武昌を攻めさせた。吳の江夏太守劉朗と武昌の諸軍を督した虞昺はみな降った。虞昺は虞翻の子である。
  • 杜預が衆軍と会議した。ある者が、百年の冦をすべて克てるものではない、まさに春の水が生じ久しく駐しがたい、来冬を待って改めて大挙すべきだと言った。杜預は、昔、樂毅は濟西の一戦を藉って強い齊を併せた、今、兵威は既に振るった、竹を破るように数節の後はみな刃を迎えて解け、もう手を著けるところはないと述べ、そのまま群帥に方略を指授し、直に建業に造った。
  • 吳主は王渾が南下したと聞き、丞相張悌に丹陽太守沈瑩・護軍孫震を督させ、副軍師諸葛靚とともに衆三万を帥いて江を渡り迎撃させ、牛渚に至った。
  • 沈瑩が言った。晉が蜀で水軍を治めて久しい。上流の諸軍はもとより戒備がなく、名將はみな死んで幼小の者が任じられており、防げまい。晉の水軍は必ずここに至る。衆力を蓄えてその来るのを待ち一戦すべきだ。幸いに勝てれば江西は自ずと清まる。今、江を渡って晉の大軍と戦い、不幸にも敗れれば大事は去る、と。
  • 張悌は答えた。吳がまさに亡ぶのは賢愚の知るところで、今日のことではない。自分は蜀の兵がここに至れば衆心が駭え懼れて再び整えられぬことを恐れる。今、江を渡ればなお決戦できる。敗れて喪われても共に社稷に死ぬのだから恨むところはない。もし克てれば北の敵は奔り走り、兵勢は万倍する。そのまま勝に乗じて南上し、中道で迎え撃てば、破れぬことを憂えぬ。あなたの計のようにすれば、士衆が散り尽き坐して敵の到来を待ち、君臣がともに降って難に死ぬ者一人もなくなる。辱ではないか、と。
  • 三月、張悌らは江を渡り、王渾の部將城陽都尉張喬を楊荷で囲んだ。張喬の衆はやっと七千で、柵を閉じて降を請うた。諸葛靚はこれを屠ろうとしたが、張悌は、強敵が前にあるのだからその小なるものを先に事とすべきでない、しかも降者を殺すのは不祥だと言った。諸葛靚は、この連中は救兵が未着で力少なく敵わぬから偽って降って我を緩めているだけで、真に伏したのではない、これを捨てて前に進めば必ず後患となると述べた。張悌は従わず、撫して進んだ。
  • 張悌は揚州刺史の汝南人周浚と陣を結んで相対した。沈瑩が丹陽の鋭卒で刀楯五千を帥いて三度晉兵を衝いたが動かなかった。沈瑩が引き退くとその衆は乱れた。將軍薛勝・蔣班がその乱に乗じ、吳兵は次々に奔潰し、將帥は止められなかった。張喬が後ろから撃ち、版橋で吳兵を大敗させた。
  • 諸葛靚は数百人を帥いて遁れ去り、使を送って張悌を迎えさせたが張悌は去るのを肯じなかった。諸葛靚は自ら往って牽き、存亡には自ずと大数がある、あなた一人の支えるところではない、なぜ故に自ら死を取るのかと言った。
  • 張悌は涕を垂れて、仲思よ、今日は自分の死ぬ日だ、しかも自分が児童の時からあなたの家の丞相に識り抜かれた、常にその死処を得られず名賢の顧みに負くことを恐れてきた、今、身を社稷に徇わせるのだから、また何を言おうかと答えた。諸葛靚は再三牽いたが動かず、涙を流して放って去った。百余歩行って振り返ると、既に晉兵に殺されていた。あわせて孫震・沈瑩ら七千八百級を斬った。吳人は大いに震えた。
  • 当初、詔書で王濬は建平を下ったら杜預の節度を受け、建業に至ったら王渾の節度を受けることとされていた。杜預は江陵に至って諸將に、王濬が建平を得たなら順流して長駆し威名は既に著しい、自分の制を受けさせるべきでない、克てなければ節度を施す縁もないと語った。
  • 王濬が西陵に至ると、杜預は書を送り、足下は既にその西藩を摧いたのだから、そのまま直に建業を取り、累世の逋冦を討ち吳人を塗炭から釈き、旅を振るって都に還るのも曠世の一事だと述べた。王濬は大いに悦び、表に杜預の書を呈した。
  • 張悌が敗死すると、揚州別駕何惲が周浚に言った。張悌が全吳の精兵を挙げてここで殄滅され、吳の朝野は震懾せぬ者がない。今、王龍驤(王濬)は既に武昌を破り、勝に乗じて東下し向かうところみな克っている。土崩の勢は見えた。速やかに兵を引いて江を渡り直に建業を指すべきだ。大軍が突如至ればその胆気を奪い、戦わずして禽にできる、と。
  • 周浚はその謀を善しとし、王渾に申し上げさせようとした。何惲は、王渾は事機に闇く自ら慎んで咎を免れようとしている、必ず自分に従わぬと言った。周浚が固く申し上げさせると、王渾は果たして、詔を受けたのはただ江北に屯して吳軍に抗せということで軽々しく進ませるものでない、貴州は武とはいえどうして独りで江東を平らげられよう、今、命に違って勝っても多とするに足らず、勝てなければ罪はいよいよ重い、しかも詔で龍驤に自分の節度を受けさせている、ただあなたの舟檝を具えて一時にともに渉るべきだと言った。
  • 何惲は、龍驤は万里の冦に克ち、既に成った功を持って節度を受けに来るなど聞いたことがない、しかも明公は上將であり可を見て進むもの、どうして一つ一つ詔令を待てよう、今この機に江を渡れば十全で必ず克てる、何を疑い何を慮って淹留して進まぬのか、これが鄙州の上下が恨み恨む理由だと述べた。王渾は聴かなかった。
  • 王濬は武昌から順流して直に建業に向かった。吳主が游撃將軍張象に舟師一万人を帥いさせて防がせたが、張象の衆は旗を望んで降った。王濬の兵甲は江に満ち、旌旗は天を燭らし、威勢は甚だ盛んで、吳人は大いに懼れた。
  • 吳主の嬖臣岑昏は傾険と諛佞で九列の位に至り、功役を興すのを好んで衆の患苦となっていた。晉兵がまさに至ろうとしたとき、殿中の親近数百人が叩頭して吳主に、北軍は日々近づくのに兵が刃を挙げない、陛下はどうされるのかと請うた。吳主が理由を問うと、まさに岑昏に坐すと答えた。吳主は独り言のように、そうならその奴で百姓に謝そうと言った。衆はそこで「唯」と言って並び起って岑昏を捕えた。吳主が絡驛して追い止めたが既に屠っていた。
  • 陶濬が郭馬を討つべく武昌に至り、晉兵が大挙して入ったと聞いて兵を引いて東に還り建業に至った。吳主が引見して水軍の消息を問うと、陶濬は、蜀の船はみな小さい、今、兵二万を得て大船に乗って戦えば破るに足ると答えた。そこで衆を合わせて陶濬に節鉞を授けた。翌日出発しようとしたが、その夜に衆はすべて逃げ潰えた。
  • 当時、王渾・王濬および琅邪王司馬伷はみな近境に臨んでいた。吳の司徒何植・建威將軍孫晏はすべて印節を送って王渾に詣って降った。
  • 吳主は光禄勲薛瑩・中書令胡冲らの計を用い、使者を分け遣わして王渾・王濬・司馬伷に書を奉じて降を請うた。また群臣に書を遺して深く自ら咎責し、しかも今、大晉が四海を平治し、これは英俊が節を展ばす秋である、朝が移り朔が改まったからといって志を損じるなと述べた。使者は先に璽綬を琅邪王司馬伷に送った。
  • 壬寅、王濬の舟師が三山を過ぎた。王渾が信を遣わして王濬にしばらく寄って事を論じることを要めたが、王濬は帆を揚げて直に建業を指し、風が利くので泊まれぬと報せた。
  • この日、王濬の戎卒八万、舟を方べて百里、鼓を鳴らして騒ぎ石頭に入った。吳主孫皓は面縛し櫬を輿して軍門に詣って降った。王濬は縛を解き櫬を焼き、招いて会見し、その図籍を収めた。克った州は四、郡は四十三、戸五十二万三千、兵二十三万であった。
  • 朝廷が吳の平定を聞くと群臣はみな賀して上寿した。帝は爵を執って涕を流し、これは羊太傅の功だと言った。
  • 驃騎將軍孫秀は賀さず、南に向かって涕を流し、昔、討逆(孫堅)は弱冠で一校尉から創業した、今、後主は江南を挙げて棄てた、宗廟と山陵はここで墟となる、悠々たる蒼天、これは何人かと言った。
  • 吳がまだ下らなかった頃、大臣はみな軽々しく進むべきでないとし、独り張華が堅く執って必ず克つとした。賈充が上表して、吳の地はすべて定められるものでない、まさに夏で江淮は下って湿り疾疫が必ず起こる、諸軍を召し還して後図とすべきだ、張華を腰斬しても天下に謝すに足らぬと述べた。帝は、これは自分の意である、張華はただ自分と同じくしただけだと言った。荀朂が再び賈充の表のようにすべきと奏したが、帝は従わなかった。
  • 杜預は賈充が兵を罷めるよう奏したと聞き、馳せて表を送って固く争った。使が轘轅に至ったところで吳が既に降った。賈充は慙じ懼れて闕に詣り罪を請うたが、帝は撫して問わなかった。
  • 夏四月甲申、詔で孫皓に歸命侯の爵を賜った。乙酉、大赦して改元し、五日の大酺とした。使者を分けて荆・揚に詣らせ撫慰した。吳の牧守以下はみな更易せず、その苛政を除いてすべて簡易に従わせ、吳人は大いに悦んだ。
  • 滕脩は郭馬を討って克たぬうちに晉の伐吳を聞き、衆を帥いて難に赴いた。巴丘に至って吳の亡を聞き、縞素して涕を流して還り、廣州刺史閭豐・蒼捂太守王毅とともにそれぞれ印綬を送って降を請うた。
  • 孫皓が陶璜の子の陶融に自筆の書を持たせて陶璜に諭させた。陶璜は涕を流して数日、やがて印綬を送って降った。帝はみなその本職に復させた。
  • 王濬が東下したとき、吳の城戍はみな望風して降附したが、独り建平太守吾彦だけが城を嬰んで下らず、吳の亡を聞いてようやく降った。帝は吾彦を金城太守とした。
  • もともと朝廷は孫秀・孫楷を尊寵して吳人を招こうとしていた。吳が亡んで降ると、孫秀を伏波將軍、孫楷を度遼將軍とした。
  • 琅邪王司馬伷が使を遣わして孫皓およびその宗族を洛陽に送った。五月丁亥朔、孫皓が至り、その太子孫瑾らとともに頭に泥を塗り面縛して東陽門に詣った。詔で謁者を遣わしてその縛を解き、衣服・車乗・田三十頃を賜い、毎年、銭・穀・綿・絹を甚だ厚く給した。孫瑾を中郎に拝し、諸子で王だった者はみな郎中とした。吳の旧望は才に随って擢叙した。孫氏の將吏で江を渡った者は十年、百姓は二十年、課役を免じた。
  • 庚寅、帝は軒に臨んで文武の有位者および四方の使者を大いに会し、国子学生もみな与わった。歸命侯孫皓および吳の降人を引見した。
  • 孫皓が殿に登って稽顙すると、帝は孫皓に、朕はこの座を設けてあなたを待つこと久しかったと言った。孫皓は、臣も南方でこの座を設けて陛下を待っていましたと答えた。
  • 賈充が孫皓に、あなたは南方で人の目を鑿ち人の面の皮を剝いだと聞くが、これはどういう刑かと問うた。孫皓は、人臣でその君を弑する者や姦回で不忠な者にこの刑を加えるだけだと答えた。賈充は黙然として甚だ愧じたが、孫皓の顔色に怍じるところはなかった。
  • 帝が從容として散騎常侍薛瑩に孫皓の亡んだ理由を問うと、薛瑩は、孫皓は小人を昵み近づけ刑罰は放濫で、大臣諸將は人みな自ら保てなかった、それが亡んだ理由だと答えた。
  • 他日また吾彦に問うと、吾彦は、吳主は英俊で宰輔は賢明でしたと答えた。帝は笑って、それならなぜ亡んだのかと言った。吾彦は、天禄が永く終わり暦数に属するところがあった、それゆえ陛下に禽にされただけだと答えた。帝は善しとした。
  • 王濬が建業に入った翌日、王渾はようやく江を渡った。王濬が自分を待たず先に孫皓の降を受けたので、意は甚だ愧じ忿り、王濬を攻めようとした。何攀が王濬に孫皓を王渾に送るよう勧め、これによって事は解けた。
  • 何惲は王渾が王濬と功を争ったことについて周浚に牋を送り、書は充譲を貴び易は謙光を大とする、先に張悌を破って吳人が気を失い、龍驤がそれに因ってその区宇を陥した、前後を論ずれば我は実に師を緩めた、既に機会を失って事に及ばず、今、その功を競っている、彼が声を呑まなければ雍穆の弘きを虧き、矜争の鄙しさを興す、これは愚情の取らぬところだと述べた。周浚は牋を得てすぐ王渾を諫め止めたが、王渾は納れなかった。
  • 王渾は王濬が詔に違って節度を受けなかったと表し、罪状を誣った。王渾の子の王濟は常山公主を娶り、宗党は強盛であった。有司が檻車で王濬を徴すよう奏請したが、帝は許さず、ただ詔書で王濬に王渾の命に従わず制に違い利に昧いことを責め譲した。
  • 王濬が上書して自ら理を述べた。先に詔書で自分に直に秣陵に造るよう命じられ、また太尉賈充の節度を受けるよう命じられた。自分は十五日に三山に至り、王渾の軍が北岸にあるのを見た。書を遣わして自分を邀えたが、自分の水軍は風のように発し勢に乗じて直に賊の城に造ろうとしており、船を廻して王渾に寄る縁はなかった。自分は日中に秣陵に至り、暮れになってようやく王渾が下した節度を受けるべき符を被った。自分に明日十六日に率いるものをすべて還して石頭を囲ませようとし、また蜀兵および鎮南諸軍の人名の定見を索めていた。自分は、孫皓が既に降ってきたのに空しく石頭を囲む縁はなく、兵人の定見も倉卒には成せぬ、いずれも当今の急ではなく承け用いられぬと考えたのであって、明制を忽せに棄てるのを敢えてしたのではない。
  • 王濬は続けて、孫皓は衆が叛き親が離れて匹夫が独り坐しているようなもので、雀鼠が生を貪って苟に一活を乞うただけだ、江北の諸軍は虚実を知らず、早く縛り取らなかったのは自らの小さな誤りだ、自分が至って改めて見えると怨恚され、賊を守ること百日なのに他人に得られたと言われたと述べた。愚かに思うに、君に事える道は苟に社稷を利するなら死生をこれに賭すことだ。もし嫌疑を顧みて咎責を避ければ、これは人臣の不忠の利で、実に明主・社稷の福ではない、と。
  • 王渾はまた周浚の書を騰げて、王濬の軍が吳の宝物を得たと言い、また王濬の牙門將李髙が火を放って孫皓の偽宮を焼いたと言った。
  • 王濬は再び上表した。自分は孤根で独り立ち、恨みを強宗に結んだ。上を犯し主に干すのはその罪も救えるが、貴臣に乖き忤らうのは禍が不測にある。偽中郎將孔攄の説くところでは、去る二月、武昌が失守し水軍が行き至ると、孫皓が石頭を案行して還ったとき、左右の人がみな刀を跳らせて大呼し、陛下のために一死戦して決すべしと言った。孫皓の意は大いに喜んで必ずそうできると思い、そこで金宝をすべて出して賜り与えた。小人は無状で、得るとそのまま持って走った。孫皓は懼れて降を図り首を降した。降の使がちょうど去ると、左右が財物を劫奪し妻妾を略取して火を放って宮を焼いた。孫皓は身を逃し首を竄めて死を脱れられぬことを恐れた。自分は至って参軍・主管者を遣わしてその火を救い断たせただけだ。
  • 王濬は続けて、周浚が先に孫皓の宮に入り、王渾がまた先に孫皓の舟に登った、自分が入って観たのはみなその後だ、孫皓の宮の中には坐る席さえなかった、遺宝があったのなら周浚と王渾が先に得たことになると述べた。周浚らは、自分が蜀人を屯聚させ時に孫皓を送らず反状があると言い、また吳人を恐動させて、自分がみな誅殺してその妻子を取ろうとしていると言い、その作乱を冀って私忿を騁せようとしている。謀反大逆さえ加えられるのだから、その余の謗りはもとより当然というべきだ。今年、吳を平らげたのはまことに大慶だが、自分の身には改めて咎累を受けている、と。
  • 王濬が京師に至ると、有司が王濬は詔に違い大不敬である、廷尉に付して罪を科すよう奏したが、詔で許されなかった。また王濬が赦の後に賊船百三十五艘を焼いたので廷尉に付して禁推するよう敕せと奏したが、詔で推さぬこととされた。
  • 王渾と王濬の功争いが止まないので、帝は守廷尉の廣陵人劉頌にその事を校べさせ、王渾を上功、王濬を中功とした。帝は劉頌が法を折り理を失ったとして京兆太守に左遷した。
  • 庚辰、賈充に邑八千戸を増した。王濬を輔國大將軍として襄陽県侯に封じ、杜預を當陽県侯、王戎を安豐県侯とし、琅邪王司馬伷の二子を亭侯に封じ、京陵侯王渾に邑八千戸を増して爵を公に進め、尚書關内侯張華を廣武県侯に進封して邑一万戸を増し、荀朂は詔命を専典した功で一子を亭侯に封じた。その余の諸將および公卿以下の賞賜はそれぞれ差があった。
  • 帝は吳を平らげた策を羊祜の廟に告げ、その夫人夏侯氏を萬歳鄉君として食邑五千戸を封じた。
  • 王濬は自ら功が大きいのに王渾父子とその党与に挫き抑えられたとし、進見するたびその攻伐の労と枉げられた状を陳べ、忿憤に勝てず辞せずそのまま出ることもあった。帝はそのたび寛恕した。
  • 益州護軍范通が王濬に言った。あなたの功は美だが、恨むべきは美に居る仕方が善を尽くしていないことだ。あなたが旆を旋す日、角巾で私第に居り、口に吳を平らげた事を言わず、問う者があればそのたび聖主の徳と群帥の力で老夫に何の力があろうと言えばよかった。これが藺相如が廉頗を屈した理由だ。王渾も愧じずにいられまい、と。
  • 王濬は、自分は初め鄧艾の事に懲りて禍が身に及ぶことを懼れ、言わずにいられなかった、結局それを胸中から遣れなかったのは自分の褊なところだと答えた。
  • 当時の人はみな王濬の功が重く報が軽いとしてこれを憤り邑んだ。博士秦秀らが並び上表して王濬の屈を訟え、帝はそこで王濬を鎮軍大將軍に遷した。王渾がかつて王濬を訪ねたとき、王濬は厳重に備衛を設けてから会った。
  • 杜預は襄陽に還り、天下が安んじても戦を忘れれば必ず危ういとして、講武に勤め戍守を申し厳しくした。また滍水・淯水を引いて田一万余頃を浸し、揚口を開いて零・桂の漕を通し、公私がこれに頼った。
  • 杜預は身は馬に跨がらず射ても札を穿てなかったが、用兵して勝を制するのは諸將の及ぶところでなかった。杜預は鎮にあって度々洛中の貴要に餽遺した。ある者が理由を問うと、杜預は、自分はただ害となることを恐れるだけで益を求めるのではないと答えた。
  • 王渾は征東大將軍に遷り、再び寿陽を鎮した。
  • 諸葛靚は逃竄して出なかった。帝は諸葛靚と旧交があり、諸葛靚の姉は琅邪王の妃であった。帝は諸葛靚が姉のもとにいると知り、そこに行って会った。諸葛靚は厠に逃げたが、帝はさらに迫って会い、今日また相見えるとは思わなかったと言った。諸葛靚は涕を流し、自分は身を刻み面を皮ぐことができぬまま再び聖顔を覩た、まことに慙じ恨むと答えた。詔で侍中とされたが固く辞して拝さず、郷里に帰り、終身、朝廷に向かって坐ることはなかった。