通鑑紀事本末魏、蜀を滅ぼす(魏滅蜀)

費禕の死後に姜維が北伐を再開してから、蜀漢が魏に滅ぼされ、その後始末が終わるまでを扱う。姜維は洮西で王経を大破するも陳泰に狄道の囲みを解かれ、段谷で鄧艾に敗れて国力を損ない、譙周の「仇国論」や廖化の諫めを受けながらも出兵を重ねた。黄皓の専横で防備の献策が握り潰されるなか、景元四年に鍾会・鄧艾・諸葛緒の三道が進撃し、鄧艾が陰平の険を越えて諸葛瞻を緜竹に破り、劉禪は譙周の議に従って降伏する。翌年、鍾会は姜維と結んで叛したが軍中の反発で殺され、鄧艾も衛瓘の手で斬られた。嘉平五年(253年)から泰始九年(273年)までの経緯。

年表(14件)

魏邵陵厲公嘉平五年(253年)姜維の北伐再開

  • 漢の衛將軍姜維は自ら西方の風俗に習熟しているうえ才武を負い、諸羌胡を誘って羽翼としようとし、隴以西は断ち切って有せると考え、しばしば大挙して軍を興そうとした。
  • 大將軍費禕は常にこれを裁制して従わず、与える兵は一万を超えなかった。費禕は、自分たちは丞相に遠く及ばない、丞相ですら中夏を定められなかったのに自分たちに何ができよう、まずは国を保ち民を治め社稷を謹んで守り、功業は能ある者を待つべきで、僥倖を希って一挙に成敗を決すべきでない、志のごとくならなければ悔いても及ばぬと語っていた。
  • 費禕が死ぬと姜維はその志を行えるようになり、数万人を率いて石営に出て狄道を囲んだ。

髙貴鄉公正元元年(254年)

  • 夏四月、狄道長の李簡が密書で漢に降を請うた。
  • 六月、姜維が隴西に侵攻した。
  • 冬十月、姜維が狄道から進んで河間・臨洮を抜いた。魏の將軍徐質が戦って漢の盪冦將軍張嶷を殺し、漢兵は還った。

正元二年(255年)洮西の大勝と狄道の失敗

  • 秋七月、姜維が再び出軍を議した。征西大將軍張翼が廷争して、国は小さく民は労しているので武を黷すべきでないと述べたが、姜維は聴かず、車騎將軍夏侯霸および張翼を率いて共に進んだ。
  • 八月、姜維が数万人で抱䍐に至り狄道に向かった。魏の征西將軍陳泰は雍州刺史王経に狄道に進屯し、陳泰の軍が到って東西で勢を合わせてから進むよう敕した。陳泰の軍は陳倉にあった。
  • 王経が統べる諸軍は故關で漢軍と戦って利あらず、王経はそのまま洮水を渡った。陳泰は王経が堅く狄道に拠らねば必ず他の変があると見て、諸軍を率いて後を継いだ。
  • 王経は既に洮西で姜維と戦って大敗し、一万余人で還って狄道城を保ち、他は皆奔散して死者は万を数えた。
  • 張翼が姜維に、止めるべきだ、これ以上進めばこの大功を毀ち蛇に足を画くことになると言った。姜維は激怒し、進んで狄道を囲んだ。
  • 辛未、詔で長水校尉鄧艾を安西將軍代行として陳泰と力を併せて姜維を防がせ、戊辰、さらに太尉司馬孚を後継とした。
  • 陳泰が隴西に進軍すると、諸將はみな、王経は新たに敗れ蜀の衆は大いに盛んだ、將軍が烏合の卒で敗軍の後を継ぎ乗勝の鋒に当たるのはおそらく不可だ、古人に「蝮蛇が手を螫せば壮士は腕を解く」の言があり、孫子は「兵に撃たぬところがあり地に守らぬところがある」と言った、小を失って大を全うするためだ、険に拠って自保し隙を観て敝れを待ってから進み救うのが得計だと言った。
  • 陳泰は答えた。姜維は軽兵を提げて深入し、まさに我と原野で鋒を争い一戦の利を求めていた。王経は高壁深塁でその鋭気を挫くべきだったのに戦って賊に計を得させた。王経が破走した後、姜維がもし戦克の威で東に進み櫟陽の積穀の実に拠り、兵を放って降を収め羌胡を招納し、東に關隴を争って四郡に檄を伝えれば、それは我が悪むところだった。ところが乗勝の兵を峻城の下に挫き、鋭気の卒を屈して力を致命させている。攻守は勢が殊なり客主は同じでない。兵書に「櫓・轒輼を修めるに三月、拒堙に三月」とある。まことに軽軍が遠く入るのに利ではない。今、姜維の孤軍は遠く僑して糧穀が継がない。これは我が速やかに進んで賊を破る時であり、いわゆる「疾雷は耳を掩うに及ばず」の自然の勢である。洮水がその表を帯び、姜維らはその内にある。今、高きに乗じて勢に拠りその項領に臨めば、戦わずして必ず走る。冦は縦すべきでなく囲は久しくすべきでない。諸君はどうしてそんなことを言うのか、と。
  • そのまま進軍して高城嶺を越え、潜行して夜に狄道の東南の高山上に至り、烽火を多く挙げ鼓角を鳴らした。狄道城中の將士は救が至ったのを見てみな憤り踴った。姜維は救兵が突如至るとは思わず、山に沿って急ぎ攻めてきた。陳泰は交戦し、姜維は退いた。陳泰は兵を引いて姜維の帰路に向かうと揚言し、姜維は懼れた。
  • 九月甲辰、姜維は遁走し、城中の將士はようやく出られた。王経は、糧は十日分もなかった、救兵が速く至らなければ城を挙げて屠裂され一州を覆喪していたと歎じた。
  • 陳泰は將士を慰労して前後に還らせ、改めて軍を差して守らせ、城塁も修治して上邽に還り屯した。
  • 陳泰は常に、一方に事があるたび虚声で天下を擾動させるとして、上事を希簡にし、駅書は六百里を超えなかった。大將軍司馬昭は、陳征西は沈勇で断ができる、方伯の重きを荷い陥ちようとする城を救いながら増兵を求めず、上事も希簡なのは必ず賊を捌けるからだ、都督大將はこうあるべきではないかと語った。
  • 姜維は退いて鍾提に駐した。

甘露元年(256年)段谷の敗

  • 春正月、姜維が大將軍に進位した。
  • 夏六月、姜維が鍾提にいた。議者の多くは姜維の力は既に竭き再び出られぬと考えたが、安西將軍鄧艾は五つの理由を挙げて反論した。洮西の敗は小さな失ではない、士卒は彫残し倉廩は空虚、百姓は流離している。策で言えば、彼には乗勝の勢があり我には虚弱の実があるのが第一。彼は上下が相習い五兵は犀利だが、我は將を易え兵は新しく器仗も復していないのが第二。彼は船で行き我は陸軍で労逸が同じでないのが第三。狄道・隴西・南安・祁山にそれぞれ守りを置くべきで、彼は一に専らにでき我は四に分かれるのが第四。南安・隴西からなら羌の穀を食に因れ、祁山に趣けば熟麥千頃が外の倉となるのが第五。賊に黠計があり、その来襲は必至である、と。
  • 秋七月、姜維は再び衆を率いて祁山に出たが、鄧艾が既に備えていると聞いて回り、董亭から南安に向かった。鄧艾は武城山に拠って防いだ。姜維は鄧艾と険を争って克てず、その夜、渭を渡って東行し山に沿って上邽に向かった。鄧艾は段谷で戦ってこれを大破した。鄧艾は鎮西將軍・都督隴右諸軍事となった。
  • 姜維は鎮西大將軍胡濟と上邽で会する約束をしていたが、胡濟が期を失って至らなかったために敗れた。士卒は星散し死者は甚だ多く、蜀人はこれによって姜維を怨んだ。姜維は上書して謝し自ら貶黜を求め、衛將軍として大將軍事を行うこととなった。

甘露二年(257年)沈嶺の対峙と譙周の仇国論

  • 冬十二月、姜維は魏が關中の兵を分けて淮南に赴かせたと聞き、虚に乗じて秦川に向かおうと、数万人を率いて駱谷から出て沈嶺に至った。当時、長城には積穀が甚だ多く守兵は少なかった。征西將軍・都督雍凉諸軍事司馬望および安西將軍鄧艾が進兵してこれに拠り姜維を防いだ。姜維は芒水に壁し、しばしば挑戦したが司馬望・鄧艾は応じなかった。
  • この頃、姜維がしばしば出兵して蜀人は愁苦した。中散大夫譙周が「仇国論」を作ってこれを諷した。
  • その趣旨は次のとおり。ある人が、往古に弱で強に勝ちえた者はどういう術を用いたのかと問う。答えて、大に処して患のない者は常に慢りが多く、小に処して憂ある者は常に善を思う。慢りが多ければ乱が生じ、善を思えば治が生ずる。理の常である。だから周の文王は民を養って少で多を取り、句践は衆を恤んで弱で強を斃した。これがその術だ、と。
  • ある人が、昔項羽が強く漢が弱くて相争ったとき、項羽は漢と鴻溝を分けることを約してそれぞれ帰って民を休ませようとしたが、張良は民の志が定まれば動かしがたいとして兵を率いて項羽を追い、ついに項氏を斃した。必ずしも文王の事によらぬではないかと問う。
  • 答えて、商周の際は王侯が世々尊く君臣は久しく固まり、民は専らとするところに習っていた。根の深い者は抜きがたく固に拠る者は遷しがたい。この時、漢祖でも剣を仗み馬を鞭って天下を取れたであろうか。秦が侯を罷めて守を置いた後は、民が秦の役に疲れて天下は土崩し、年ごとに主が改まり月ごとに公が易わり、鳥獣のように驚き駭えて従うところを知らなかった。そこで豪強が並び争い虎狼のように裂き分け、疾く搏つ者が多くを獲、遅れた者は呑まれた。今、我と彼はいずれも国を伝えて世を易えている。秦末の鼎沸の時ではなく、実に六国が並び拠る勢がある。だから文王となることはできても漢祖となることは難しい、と。
  • 続けて、民が疲労すれば騷擾の兆が生じ、上が慢り下が暴なら瓦解の形が起こる。諺に「射て度々跌るより、審らかに発つに勝らず」という。だから智者は小利に目を移さず、意に似たもので歩を改めず、時が可となってから動き、数が合ってから挙げる。だから湯・武の師は再び戦わずして克った。まことに民の労を重んじ時を審らかに度ったのだ。もし武を極めて征を黷し、土崩の勢が生じて不幸に難に遇えば、智者があっても謀ることはできなくなる、と結んだ。

甘露三年(258年)漢中の防衛方針転換

  • 春二月、姜維は退いて成都に還り、再び大將軍を拝した。
  • もともと漢の昭烈帝は魏延を留めて漢中を鎮させ、諸圍にみな実兵を置いて外敵を禦ぎ、敵が来て攻めても入れないようにしていた。興勢の役で王平が曹爽を捍拒したのもこの制を承けたものであった。
  • 姜維が事を用いるようになると、諸圍を分け守るのは敵を禦げるだけで大利を得られぬと建議した。むしろ敵の来襲を聞けば諸圍はみな兵を収め穀を聚めて退いて漢城・樂城の二城に就き、敵を平地に入らせ、重ねて關頭を鎮守して捍ぎ、游軍を傍らから出して虚を伺う。敵は關を攻めて克てず野に散穀もなく、千里の運糧で自然に疲乏する。退く日に諸城が並び出て游軍と力を併せて搏てば、これが敵を殄す術である、と。
  • そこで漢主は督漢中の胡濟を漢壽に退いて住まわせ、監軍王含に樂城を、護軍蔣斌に漢城を守らせた。

甘露四年(259年)

  • 尚書令陳祗は巧佞で漢主に寵された。姜維は位は陳祗の上にありながら衆を率いて外に在ることが多く朝政に親しむことは稀で、権任は陳祗に及ばなかった。
  • 秋八月丙子、陳祗が死去。漢主は僕射の義陽人董厥を尚書令、尚書諸葛瞻を僕射とした。

元皇帝景元二年(261年)黄皓の専横

  • 冬十月、漢主は董厥を輔國大將軍、諸葛瞻を都護・衛將軍として共に尚書事を平らげさせ、侍中樊建を尚書令とした。
  • 当時、中常侍黄皓が事を用い、董厥・諸葛瞻もこれを矯正できず、士大夫の多くが黄皓に附いた。ただ樊建だけは黄皓と往来しなかった。
  • 祕書令郤正は長く内職にあり、黄皓と屋を並べて三十余年周旋したが、澹然と自守して書に自ら娯しんだ。黄皓に愛されもせず憎まれもしなかったので、官は六百石を超えなかったがその禍にも罹らなかった。
  • 漢主の弟の甘陵王劉永が黄皓を憎むと、黄皓は譛して十年間朝見できなくさせた。
  • 吳主が五官中郎將薛珝を漢に聘せしめた。還ると吳主が漢の政の得失を問い、薛珝は、主は闇くしてその過を知らず、臣下は身を容れて罪を免れることを求めている、その朝に入っても直言を聞かず、その野を経れば民はみな菜色である、と答えた。さらに、燕雀が堂に処して子母が相楽しみ自ら至って安全だと思うが、突が決け棟が焚けても燕雀は怡然として禍の及ぶのを知らぬという、まさにこれを言うのだろうと述べた。薛珝は薛綜の子である。

景元三年(262年)侯和の敗と姜維の沓中屯田

  • 秋八月、大將軍姜維が出軍しようとした。右車騎將軍廖化が、兵を戢めなければ必ず自ら焚かれるというのは伯約(姜維)のことだ、智は敵に出ず力は冦より少ないのに、それを厭くことなく用いてどうして存られようかと言った。
  • 冬十月、姜維が洮陽に侵攻した。鄧艾が侯和で戦って破り、姜維は退いて沓中に住んだ。
  • 姜維は羈旅の身で漢に依り重任を受けたが、兵を興して年を累ね功績が立たなかった。黄皓が中で事を用い、右大將軍閻宇と親しくして、ひそかに姜維を廃して閻宇を樹てようとした。姜維はこれを知り、漢主に、黄皓は姦巧専恣で国家を敗る、殺すよう請うと言った。
  • 漢主は、黄皓は趨り走る小臣にすぎぬ、以前董允が毎度切歯したのを自分は常に恨んだ、あなたが介意するに足らぬと答えた。姜維は黄皓の枝が附き葉が連なっているのを見て失言を懼れ、遜辞して出た。漢主は黄皓に姜維のもとに詣って陳謝させた。
  • 姜維はこれによって自ら疑い懼れ、洮陽から返ると沓中での麥の種蒔きを求め、成都に帰ることを敢えてしなかった。
  • 司馬昭は姜維が度々冦をなすのを患えた。官騎の路遺が刺客として蜀に入ることを求めたが、從事中郎荀朂が、明公は天下の宰であり正義を仗んで違貳を伐つべきで、刺客で賊を除くのは四海に刑を示す道でないと述べ、司馬昭は善しとした。荀朂は荀爽の曽孫である。
  • 司馬昭は大挙して漢を伐とうとした。朝臣の多くは不可としたが、司隷校尉鍾会だけがこれを勧めた。
  • 司馬昭が衆に諭した。寿春を定めて以来役を息めて六年、兵を治め甲を繕って二虜に擬えてきた。今、吳の地は広大だが下は湿り、攻めるには功を用いるのがやや難しい。まず巴蜀を定め、三年の後に順流の勢に因って水陸並進するに勝らない。これが虢を滅ぼして虞を取る勢である。蜀の戦士九万を計るに、成都に居守し他境に備える兵が四万を下らない。それなら余衆は五万を過ぎない。今、姜維を沓中に絆いで東を顧みられぬようにし、直に駱谷を指してその空虚の地に出て漢中を襲えば、劉禪の闇さでは辺城が外で破れ士女が内で震え、その亡は知れる、と。
  • そこで鍾会を鎮西將軍・都督關中とした。征西將軍鄧艾は蜀にまだ隙がないとして度々異議を陳べた。司馬昭は主簿の師纂を鄧艾の司馬として諭させ、鄧艾はようやく命を奉じた。
  • 姜維が漢主に上表し、鍾会が關中で兵を治め進取を規ろうとしていると聞く、左右車騎の張翼・廖化を並び遣わして諸軍を督させ、陽安關口および陰平の橋頭を分けて護らせ未然に防ぐべきだと述べた。黄皓は巫鬼を信じ、敵は結局自ら来ないと言って漢主に上申しこの事を寝かせ、群臣は誰も知らなかった。

景元四年(263年)魏の三道進撃

  • 夏五月、詔で諸軍が大挙して漢を伐った。征西將軍鄧艾に三万余人を督させて狄道から甘松・沓中に向かわせ姜維を連繋させ、雍州刺史諸葛緒に三万余人を督させて祁山から武街・橋頭に向かわせ姜維の帰路を絶たせ、鍾会が十余万の衆を統べて斜谷・駱谷・子午谷から分かれて漢中に向かった。廷尉衛瓘に節を持たせて鄧艾・鍾会の軍事を監させ、行鎮西軍司とした。衛瓘は衛覬の子である。
  • 鍾会が幽州刺史王雄の孫の王戎に、計はどう出るべきかと問うた。王戎は、道家に「為して恃まず」の言がある、功を成すのが難しいのでなく保つのが難しいのだと答えた。
  • ある者が参相國軍事の平原人劉寔に、鍾会と鄧艾は蜀を平らげるかと問うと、劉寔は、蜀を破るのは必至だが二人とも還らぬと答えた。客が理由を問うと、劉寔は笑って答えなかった。
  • 秋八月、軍が洛陽を発し、將士に大いに賚を与え、師を陳ねて衆に誓った。將軍鄧敦が蜀は討つべきでないと言い、司馬昭は斬って徇えた。
  • 漢人は魏兵が来ると聞いて、廖化に兵を率いて沓中に詣らせ姜維の後援とし、張翼・董厥らを陽安關口に詣らせて諸圍の外助とした。大赦して炎興と改元した。諸圍にはみな戦わず退いて漢城・樂城の二城を保つよう敕し、城中にはそれぞれ兵五千を置いた。張翼・董厥は陰平に至ったとき諸葛緒が建威に向かうと聞き、一月余り留まってこれを待った。
  • 鍾会は諸軍を率いて平らかに進んで漢中に至った。九月、鍾会は前將軍李輔に一万人を統べさせて樂城の王含を囲ませ、護軍荀愷に漢城の蔣斌を囲ませ、鍾会自身は直に過ぎて西の陽安口に向かい、人を遣わして諸葛亮の墓を祭らせた。
  • もともと漢の武興督蔣舒は在職中に称するところがなく、漢の朝廷は人を代わりに立て、蔣舒には助將軍傅僉を助けて關口を守らせた。蔣舒はこれを恨んでいた。
  • 鍾会が護軍胡烈を前鋒として關口を攻めさせると、蔣舒は偽って傅僉に、今賊が至ったのに撃たず城を閉じて自守するのは良図でないと言った。傅僉は、命を受けて城を保つのだから全うすることが功だ、今命に違って出戦し、もし師を喪って国に負ければ死んでも益がないと答えた。蔣舒は、あなたは城を保って全うすることを功とし、自分は出戦して敵に克つことを功とする、それぞれの志を行おうと言い、そのまま衆を率いて出た。
  • 傅僉は蔣舒が戦うと思って備えを設けなかった。蔣舒は衆を率いて胡烈に迎え降り、胡烈は虚に乗じて城を襲った。傅僉は格闘して死んだ。傅僉は傅彤の子である。
  • 鍾会は關口が既に下ったと聞いて長駆して前進し、庫蔵の積穀を大いに得た。
  • 鄧艾は天水太守王頎を遣わして直に姜維の営を攻めさせ、隴西太守牽弘にその前を邀えさせ、金城太守楊欣を甘松に向かわせた。姜維は鍾会の諸軍が既に漢中に入ったと聞いて兵を引いて還った。楊欣らが彊川口で追い迫って大戦し、姜維は敗走した。
  • 姜維は諸葛緒が既に道を塞いで橋頭に屯していると聞き、孔函谷から北道に入って諸葛緒の後に出ようとした。諸葛緒はこれを聞いて三十里退き還った。姜維が北道に三十余里入ったところで諸葛緒の軍が却いたと聞き、すぐ還って橋頭を通り過ぎた。諸葛緒が急いで姜維を截ろうとしたが一日ほど及ばなかった。
  • 姜維は還って陰平に至り士衆を合集し、關城に赴こうとしたが、着かぬうちに既に破れたと聞いて退いて白水に向かい、廖化・張翼・董厥らと遇い、兵を合わせて劒閣を守り鍾会を防いだ。
  • 冬十月、鄧艾が進んで陰平に至り、精鋭を選んで諸葛緒と江油から成都に向かおうとした。諸葛緒はもと節度を受けて姜維を邀えたのだから西行は本詔でないとして、軍を白水に向けて鍾会と合流した。鍾会は軍勢を専らにしようとし、密かに諸葛緒が畏懦して進まなかったと申し立て、諸葛緒は檻車で徴還され、その軍はすべて鍾会に属した。
  • 姜維が営を列べて険を守り、鍾会は攻めて克てなかった。糧道は険しく遠く軍食が乏しくなり、鍾会は引き還そうとした。
  • 鄧艾が上言した。賊は既に摧折した、そのまま乗ずべきだ。陰平から邪径を通り漢徳陽亭を経て涪に向かえば、劒閣の西百里で成都から三百余里である。奇兵でその腹心を衝き不意に出れば、劒閣の守りは必ず還って涪に赴き、そうすれば鍾会は軌を並べて進める。劒閣の軍が還らなければ涪に応ずる兵は寡ない、と。
  • そこで陰平から無人の地を七百余里行き、山を鑿って道を通し橋閣を造作した。山は高く谷は深く至って艱険であり、また糧運が匱しくなって危殆に瀕した。鄧艾は氈で自らを裹んで推し転がって下り、將士はみな木に攀じ崖に縁って魚貫して進んだ。
  • 先登が江油に至り、蜀の守將馬邈が降った。
  • 諸葛瞻が諸軍を督して鄧艾を防ぐべく涪に至ったが、留まって進まなかった。尚書郎黄崇は黄権の子で、しばしば諸葛瞻に速く行って険に拠り敵を平地に入れさせぬよう勧めた。諸葛瞻は猶豫して納れず、黄崇は再三言って涕を流すに至ったが、諸葛瞻は従えなかった。
  • 鄧艾はそのまま長駆して前進し、諸葛瞻の前鋒を撃破した。諸葛瞻は退いて緜竹に住んだ。鄧艾は書で諸葛瞻を誘い、降れば必ず琅邪王に表すると言った。諸葛瞻は怒って鄧艾の使者を斬り、陣を列べて鄧艾を待った。
  • 鄧艾は子の惠唐亭侯鄧忠らをその右に、司馬師纂らをその左に出した。鄧忠と師纂は戦って利あらず、ともに引き還って賊は撃てぬと言った。鄧艾は怒って、存亡の分はこの一挙にある、何が不可かと言い、二人を叱って斬ろうとした。鄧忠と師纂は馳せ還って改めて戦い、大破して諸葛瞻および黄崇を斬った。
  • 諸葛瞻の子の諸葛尚は、父子は国の重恩を荷いながら早く黄皓を斬らず国を敗り民を殄すに至った、生きて何になろうと歎じ、馬を策って陣を冒して死んだ。
  • 漢人は魏兵が突如至るとは思わず城守の調度をしていなかった。鄧艾が既に平土に入ったと聞くと百姓は擾々として皆山野に迸り、禁制できなかった。
  • 漢主が群臣を会議させた。蜀と吳はもと盟国だから吳に奔るべきという者、南中七郡は険阻で斗絶し自守しやすいから南に奔るべきという者があった。
  • 光禄大夫譙周は次のように述べた。古来、他国に寄って天子となった者はない。今、吳に入っても国として臣服することになる。しかも治政が変わらなければ大が小を呑むのは数の自然である。これから言えば、魏が吳を併せられ吳が魏を併せられぬのは明らかだ。同じ臣を称するなら、小に臣となるのと大に臣となるのとどちらがよいか。再び辱を受ける恥は一度の辱とどちらがましか。また南に奔りたいなら早く計るべきで、その後で行ける。今は大敵が既に近く禍敗が及ぼうとしており、群小の心は一つも保証できない。足を発する日にその変は測れず、どうして南に至れよう、と。
  • ある者が、今、鄧艾は既に遠くない、降を受けないのではないかと言うと、譙周は、今、東吳が服いていないので、事勢として受けざるをえず、受ければ礼せざるをえない、もし陛下が魏に降って魏が土を裂いて陛下を封じないなら、自分が身を京都に詣らせて古義をもって争うと述べた。衆人はみな譙周の議に従った。
  • 漢主はなお南に入りたく狐疑して決しなかった。譙周が上疏し、南方は遠夷の地で平常は供するものもないのに度々反叛した、丞相諸葛亮が兵威で迫ってようやく窮して率い従った、今、南に至れば外は敵を拒み内は服御を供せねばならず、費用の張り広がりは他に取るところもなく諸夷を耗損させる、その叛は必至だと述べた。
  • 漢主はそこで侍中張紹らを遣わし璽綬を奉じて鄧艾に降った。
  • 北地王劉諶は怒って、理が窮し力が屈して禍敗が及ぶなら、父子君臣が城を背に一戦し共に社稷に死んで先帝にまみえるべきだ、どうして降るのかと言った。漢主は聴かなかった。この日、劉諶は昭烈の廟で哭し、先に妻子を殺してから自殺した。
  • 張紹らが雒で鄧艾に会うと、鄧艾は大いに喜び、返書で褒め納れた。漢主は太僕蔣顯を遣わして別に姜維に鍾会に降るよう敕し、また尚書郎李虎に士民の簿を鄧艾に送らせた。戸二十八万、口九十四万、甲士十万二千、吏四万人であった。
  • 鄧艾が成都城北に至ると、漢主は太子・諸王および群臣六十余人を率い、面縛して櫬を輿して軍門に詣った。鄧艾は節を持って縛を解き櫬を焼き、招いて会見した。將士を検御して虜略させず、降附した者を綏納して旧業に復させた。
  • そのまま鄧禹の故事に依り、制を承けて漢主劉禪に驃騎將軍代行を、太子に奉車を、諸王に駙馬都尉を拝し、漢の群司にはそれぞれ高下に随って王官を拝し、あるいは鄧艾の官属を領させた。師纂に益州刺史を領させ、隴西太守牽弘らに蜀中の諸郡を領させた。
  • 鄧艾は黄皓の姦険を聞いて捕え閉じて殺そうとしたが、黄皓は鄧艾の左右に賄賂して結局免れた。
  • 姜維らは諸葛瞻の敗を聞いたが漢主の向かうところを知らず、軍を引いて東の巴に入った。鍾会が涪に進軍し、胡烈らを遣わして姜維を追わせた。姜維が郪に至って漢主の敕命を得ると、兵にすべて仗を放たせ節と伝を胡烈に送り、自ら東道から廖化・張翼・董厥らとともに鍾会に詣って降った。將士はみな怒って刀を抜いて石を斫った。そして諸郡県の圍守もみな漢主の敕を受けて兵を罷めて降った。鍾会は姜維らを厚遇し、いずれも印綬・節・蓋を仮に還した。
  • 魏が蜀を伐ったとき、吳人のある者が襄陽の張悌に、司馬氏が政を得て以来大難が度々起こり百姓は服いていない、今また力を労して遠征している、敗れるのは間もない、どうして克てようかと言った。
  • 張悌は答えた。そうではない。曹操は功が中夏を蓋ったが、民はその威を畏れてその徳を懐かなかった。曹丕・曹叡がこれを承け、刑は繁く役は重く、東西に駆馳して寧い歳がなかった。司馬懿父子は大功を累ね、その煩苛を除いてその平惠を布き、謀主となってその疾苦を救った。民心が帰したのも既に久しい。だから淮南で三度叛いても腹心は擾れず、曹髦が死んでも四方は動かなかった。賢を任じ能を使ってそれぞれ心を尽くさせ、その本根は固く姦計は立った。今、蜀は閹宦が朝を専らにし国に政令なく、それでいて戎を玩び武を黷し、民は労し卒は敝れ、外の利を競って守備を修めない。彼此は強弱が同じでなく智算もまた勝る。危に因って伐てばおそらく克てぬことはない。ああ、彼が志を得ることは我が憂いである、と。吳人はその言を笑ったが、この時に至ってようやく服した。
  • 十二月乙卯、鄧艾を太尉、鍾会を司徒とした。

咸熙元年(264年)鄧艾の失脚と鍾会の乱

  • 鄧艾は成都にあってかなり自ら矜り伐り、蜀の士大夫に、諸君は鄧艾に遭ったから今日があるのだ、吳漢の徒に遇っていたら既に殄滅されていたと語った。
  • 鄧艾が書で晉公司馬昭に言った。兵には先に声を挙げて後に実を行うものがある。今、蜀を平らげた勢に因って吳に乗ずれば、吳人は震恐し、席巻の時である。しかし大挙の後で將士は疲労しており、すぐには用いられぬので、しばらく緩やかにすべきだ。隴右の兵二万人と蜀の兵二万人を留めて塩を煮て冶を興し、軍農の要用とし、並せて舟船を作って順流の事に予え、その後で使を発して利害を告げれば吳は必ず帰化する。征さずして定められる。
  • 鄧艾はさらに、今は劉禪を厚遇して孫休を招くべきだとし、劉禪を扶風王に封じてその資財を賜い左右を供し、郡に董卓の塢があるのでその宮舍とし、子を公侯に爵して郡内の県を食ませ、帰命の寵を顕らかにし、廣陵・城陽を開いて吳人を待てば、威を畏れ徳を懐いて望風して従うと述べた。
  • 司馬昭は監軍衛瓘に、事は報せを待つべきで勝手に行うべきでないと鄧艾に諭させた。
  • 鄧艾は重ねて言った。命を銜んで征行し指授の策を奉じた。元悪は既に服した。制を承けて拝仮し新たに附いた者を安んじたのは権宜に合うと考える。今、蜀は衆を挙げて帰命し、地は南海に尽き東は吳会に接する。早く鎮定すべきだ。国命の往復を待てば道途に日月が延引する。春秋の義に、大夫が疆を出て社稷を安んじ国家を利するに可なることがあれば専らにしてよいとある。今、吳は服いておらず勢は蜀と連なる。常に拘って事機を失うべきでない。兵法に「進んで名を求めず、退いて罪を避けず」とある。鄧艾は古人の節がないとはいえ、決して自らを嫌って国家の計を損じたりはしない、と。
  • 鍾会は内に異志があり、姜維はそれを知って擾乱を構成させようと鍾会に説いた。あなたは淮南以来算に遺策なく、晋の道が克ち昌えたのはみなあなたの力だと聞く。今また蜀を定め威徳は世に振るった。民はその功を高しとし主はその謀を畏れる。これでどこに安んじて帰ろうというのか。陶朱公に倣って舟を泛かべ迹を絶ち、功を全うし身を保たぬのか、と。鍾会は、あなたの言は遠すぎる、自分は行えない、それに今の道はこれに尽きてはいまいと答えた。姜維は、その他ならあなたの智力の能くするところで老夫を煩わすことはないと言った。これによって情好は甚だ歓ばしく、出れば輿を同じくし坐れば席を同じくした。
  • 鍾会は鄧艾が制を承けて事を専らにしたのに因り、衛瓘とともに密かに鄧艾に反状があると申し立てた。鍾会は人の書を巧みに真似たので、劒閣で鄧艾の章表・白事を待ち受けてみなその言を易え、辞指を悖傲で自ら矜り伐るものにし、また晉公司馬昭の返書を毀って自筆で作り、鄧艾を疑わせた。
  • 春正月壬辰、詔で檻車で鄧艾を徴した。晉公司馬昭は鄧艾が命に従わぬことを恐れ、鍾会に成都への進軍を敕し、また賈充に兵を率いて斜谷に入らせ、司馬昭自身は大軍を率いて帝に従って長安に幸した。諸王公がみな鄴にいたので、山濤を行軍司馬として鄴を鎮させた。
  • もともと鍾会は才能で任じられていたが、司馬昭の夫人王氏は司馬昭に、鍾会は利を見て義を忘れ事端を為すのを好む、寵が過ぎれば必ず乱れる、大任すべきでないと言っていた。
  • 鍾会が漢に発とうとしたとき、西曹属邵悌が晉公に、今、鍾会に十万余の衆を率いさせて蜀を伐たせるが、鍾会は単身で任がない、他の人を行かせるに勝らぬと述べた。
  • 晉公は笑って答えた。自分がそれを知らぬものか。蜀は度々辺を冦し師は老い民は疲れた。今伐つのは掌を指すようなものだ。それなのに衆は蜀は伐てぬと言う。人心が予め怯えれば智勇はともに竭き、智勇が竭きたのを強いて使えば敵に禽にされるだけだ。ただ鍾会だけが自分と意を同じくした。今、鍾会に蜀を伐たせれば蜀は必ず滅ぼせる。蜀を滅ぼした後は、あなたの憂いどおりとしても、どうしてそれを捌けぬことを憂えよう。蜀は既に破亡して遺民は震恐し、共に事を図るに足らない。中国の將士はそれぞれ帰ることを思い、同じようにはしない。鍾会が悪をなせばただ自ら族を滅ぼすだけだ。あなたはこれを憂える必要はない。慎んで人に聞かせるな、と。
  • 晉公が長安に行こうとするとき、邵悌が再び、鍾会の統べる兵は鄧艾の五、六倍だ、鍾会に鄧艾を取るよう敕せばよく自ら行く必要はないと述べた。
  • 晉公は、あなたは前言を忘れたのか、行く必要はないと言うのかと答え、続けて言った。とはいえ言ったことは宣べられぬ。自分は自ら信の意で人に待つべきで、人が自分に負くべきでないだけだ。自分がどうして人より先に心を生じられよう。近日、賈護軍が自分に、鍾会をかなり疑わぬかと問うたので、自分は、今あなたを行かせるのにあなたを疑えるものかと答えた。賈も自分の言を易えるところがなかった。自分が長安に到れば自ずと片づく、と。
  • 鍾会は衛瓘を先に成都に至らせて鄧艾を収めさせた。鍾会は衛瓘の兵が少ないので、鄧艾に衛瓘を殺させてそれを鄧艾の罪にしようとした。衛瓘はその意を知ったが拒めず、夜に成都に至り、鄧艾の統べる諸將に檄して、詔を奉じて鄧艾を収める、その他は一切問わぬ、官軍に来て赴けば爵賞は以前のとおり、敢えて出ぬ者は誅が三族に及ぶと称した。鶏鳴の頃までにみな来て赴き、鄧艾の帳内の者だけが残った。
  • 平旦に門が開くと、衛瓘は使者の車に乗って直に入り、鄧艾の居る所に至った。鄧艾はまだ臥して起きておらず、そのまま鄧艾父子を捕え、鄧艾を檻車に置いた。
  • 諸將が鄧艾を劫そうと図って仗を整え衛瓘の営に向かった。衛瓘は軽々と出て迎え、偽って表の草稿を作り鄧艾の事を申し明かそうとしていると見せた。諸將はこれを信じて止まった。
  • 丙子、鍾会が成都に至り、鄧艾を京師に送った。鍾会が憚ったのは鄧艾だけであった。鄧艾父子が禽にされると、鍾会が独り大衆を統べて威は西土を震わせ、ついに謀反を決意した。
  • 鍾会は姜維に五万人を率いさせて斜谷に出て前駆とし、自らは大衆を率いてその後に随い、長安に至れば騎士を陸道から、歩兵を水道から渭に浮かべて順流し河に入れ、五日で孟津に到り騎兵と洛陽で会し、一朝で天下を定められると考えた。
  • 鍾会は晉公の書を得た。鄧艾が徴に就かぬことを恐れる、今、中護軍賈充に歩騎一万を率いさせ直に斜谷に入って樂城に屯させる、自分は自ら十万を率いて長安に屯する、相見は近い、と。
  • 鍾会は書を得て驚き、親しい者を呼んで語った。ただ鄧艾を取るだけなら、相國は自分が独りで捌けると知っている。今の来援は重すぎる。必ず自分の異心を覚ったのだ。速やかに発すべきだ。事が成れば天下を得られ、成らなければ退いて蜀漢を保ち、劉備となることは失うまい、と。
  • 丁丑、鍾会は護軍・郡守・牙門・騎督以上および蜀の故官をすべて招き、太后のために蜀の朝堂で哀を発し、太后の遺詔を偽って、鍾会に兵を起こして司馬昭を廃させるとし、すべて席上の人に班示して下に議させた。議が終わると書版に署して置き、さらに親信の者に諸軍を代領させた。招いた群官はすべて益州の諸曹の屋中に閉じ込め、城門・宮門をみな閉じて兵を厳しくして囲み守らせた。
  • 衛瓘は病篤と偽って外の廨に出た。鍾会はこれを信じ、もう憚るところがなくなった。
  • 姜維は鍾会に北から来た諸將をすべて殺させ、その後に鍾会を殺して魏兵をすべて坑にし、改めて漢主を立てようとした。密書を劉禪に送り、陛下が数日の辱を忍ばれたい、自分は社稷を危うくして再び安んじ、日月を幽くして再び明らかにしたいと述べた。
  • 鍾会は姜維の言に従って諸將を誅そうとしたが、猶豫して決しなかった。
  • 鍾会の帳下督の丘建はもと胡烈に属し、鍾会は愛信していた。丘建は胡烈が独りで閉じられているのを気にして、鍾会に願い出て、親兵一人を入れて飲食を取らせることを許させた。諸牙門も例に随ってそれぞれ一人を入れた。
  • 胡烈は親兵に言葉を与え、また子の胡淵に文を送って、丘建が密かに消息を説いた、鍾会は既に大坑を作り白棓数千を用意し、外の兵をすべて呼び入れて一人一人に白幍を賜い散將を拝すと言って、順に棓で殺して坑中に納めるつもりだと伝えた。諸牙門の親兵もみなこの語を説き、一夜のうちに互いに告げ合ってみな行き渡った。
  • 己卯の日中、胡淵が父の兵を率いて鼓を雷のように鳴らして門を出た。諸軍は期していないのにみな鼓を鳴らして騒ぎ出、督促する者もないのに争って先に城に赴いた。
  • 当時、鍾会はまさに姜維に鎧と杖を給していた。外に匈々たる声があり失火のようだと報せられ、しばらくして兵が城に向かって走ると報せられた。鍾会は驚いて姜維に、兵が来て悪をなそうとしているようだ、どうすべきかと言った。姜維は、ただ撃つべきだと答えた。
  • 鍾会が兵を遣わして閉じていた諸牙門・郡守をすべて殺そうとすると、中の人は共に机を挙げて門を支え、兵は門を斫っても破れなかった。ほどなく城外から梯を倚せて城に登り、城の屋を焼く者もあり、蟻のように附いて乱れ進み、矢が雨のように下った。牙門・郡守はそれぞれ屋に沿って出て、その軍士と相見た。
  • 姜維が鍾会の左右を率いて戦い、手ずから五、六人を殺したが、衆が格して姜維を斬り、争って前に出て鍾会を殺した。鍾会の將士の死者は数百人であった。漢の太子劉璿および姜維の妻子も殺された。軍衆は鈔略し、死喪が狼藉した。衛瓘が諸將を部分して数日でようやく定まった。
  • 鄧艾の本営の將士が追って鄧艾を檻車から出し迎え還した。衛瓘は自ら鍾会と共に鄧艾を陥れたことから変を起こされることを恐れ、護軍田続らに兵を率いさせて鄧艾を襲わせ、緜竹の西で遇って鄧艾父子を斬った。
  • 鄧艾が江油に入ったとき田続が進まず、鄧艾は斬ろうとしてから捨て置いていた。衛瓘が田続を遣わすとき、江油の辱を報いられるぞと言った。
  • 鎮西長史杜預が衆に、伯玉(衛瓘)は免れまい、身は名士で位望は既に高いのに、徳音もなく下を正で御しない、どうしてその責に堪えられようと言った。衛瓘はこれを聞き、駕を待たずに杜預に謝した。杜預は杜恕の子である。
  • 洛陽にいた鄧艾の他の子はすべて誅され、その妻と孫は西城に移された。
  • 鍾会の兄の鍾毓はかつて密かに晉公に、鍾会は術を挟んで保ちがたい、専任すべきでないと言っていた。鍾会が反したとき鍾毓は既に死んでいた。晉公は鍾繇の勲と鍾毓の賢を思い、特に鍾毓の子の鍾峻・鍾辿の官爵を以前のとおりとした。
  • 鍾会の功曹向雄が鍾会の尸を収めて葬った。晉公は召して責め、以前、王経が死んだときあなたは東市で哭したが自分は問わなかった、鍾会は自ら叛逆をなしたのに勝手に収葬した、また容せば王法をどうするのかと言った。
  • 向雄は答えた。昔、先王は骸を掩い胔を埋め、仁は朽骨に流れた。当時、その功罪を先に卜してから収葬したのか。今、王誅は既に加えられ法は既に備わった。向雄は義に感じて収葬した。教もまた欠けたところはない。法が上に立ち教が下に弘まる。これで物を訓えるのもよいのではないか。どうして向雄に死に背き生に違わせて世に立たせようとするのか。明公が枯骨に讎対して中野に捐つのは、仁賢の度量ではあるまい、と。晉公は悦び、宴談を与えて遣わした。
  • 三月、劉禪が家を挙げて東の洛陽に遷った。当時は擾攘倉卒で、劉禪の大臣で従行する者はなく、祕書令郤正と殿中督の汝南人張通だけが妻子を捨てて単身で劉禪に随った。劉禪は郤正に導かれて挙動が宜適に欠けるところがなく、慨然と歎息して郤正を知るのが遅かったことを恨んだ。
  • もともと漢の建寧太守霍弋が南中を都督していた。魏兵が至ると聞いて成都に赴こうとしたが、劉禪は敵への備えが既に定まったとして聴かなかった。成都が守られなくなると、霍弋は素服して三日大いに臨んだ。
  • 諸將がみな霍弋に速く降るべきと勧めた。霍弋は、今は道路が隔塞して主の安危が詳らかでない、去就の大事は苟にできぬ、魏が主上を礼遇するなら境を保って降っても遅くない、もし万一危辱があれば死をもって拒む、遅速を論ずるところではないと答えた。
  • 劉禪の東遷の報を得ると、初めて六郡の將守を率いて上表した。人は三つに生じてこれに一のごとく仕えると聞く、ただ難のあるところにその命を致すのみ。今、臣は国が敗れ主が附いた。死を守っても行くところがない。それゆえ質を委ね二心あるを敢えてしない、と。晉王は善しとして南中都尉を拝し、もとの任を委ねた。
  • 丁亥、劉禪を安樂公に封じた。子孫および群臣で侯に封じられた者は五十余人であった。
  • 晉王が劉禪と宴し、そのために故蜀の技を演じさせた。旁の人はみな感愴したが劉禪は喜笑して自若としていた。晉王は賈充に、人の無情はここまでに至るものか、諸葛亮が在っても久しく全うは輔けられなかっただろう、まして姜維ではと語った。
  • 後日、晉王が劉禪に、蜀をかなり思うかと問うと、劉禪はここは楽しく蜀を思わぬと答えた。郤正がこれを聞いて劉禪に、王が後に問われたら泣いて、先人の墳墓が遠く岷蜀にあり心は西に悲しんで思わぬ日はないと答え、目を閉じるべきだと言った。晉王が再び問うと劉禪は前のとおり答えた。晉王が、どうして郤正の言のようなのかと言うと、劉禪は驚いて視て、まことに尊命のとおりだと答え、左右はみな笑った。
  • 鍾会が漢を伐ったとき、辛憲英は夫の兄の子の羊祜に、鍾会は在職で縦恣であり、久しく下に処する道ではない、他志があることを畏れると語った。鍾会がその子の郎中辛琇を参軍に請うと、辛憲英は憂えて、他日は自分が国のために憂えたが、今日は難が自分の家に至ったと言った。辛琇は晉王に固く辞退を請うたが聴かれなかった。辛憲英は辛琇に、行きなさい、戒めよ、軍旅の間で済しうるのはただ仁恕だけだと言った。辛琇はついに全うして帰った。癸巳、詔でかつて鍾会の反を諫めたことによって關内侯の爵を賜った。

晉武帝泰始五年(269年)蜀の名臣子孫の登用

  • 春二月、濟陰太守の巴西人文立が上言し、故蜀の名臣の子孫で中国に流徙している者は才を量って叙用し、巴蜀の心を慰め吳人の望を傾かせるべきと述べた。帝は従った。
  • 己未、詔して、諸葛亮は蜀にあって心力を尽くし、その子の諸葛瞻は難に臨んで死んで義であった、その孫の諸葛京は才に随って吏に署すべきと述べた。
  • また詔して、蜀の將傅僉の父子はその主のために死んだ、天下の善は一つであり、彼此によって異とするものか、傅僉の子の傅著・傅募は没して奚官に入れられているが、免じて庶人とすべきと述べた。

泰始七年(271年)

  • 安樂思公劉禪が死去した。

泰始九年(273年)鄧艾の名誉回復

  • 鄧艾の死は人みなこれを寃としたが、朝廷に弁ずる者はなかった。帝が即位すると議郎の敦煌人段灼が上疏した。
  • その趣旨は次のとおり。鄧艾は心に至忠を懐きながら反逆の名を荷い、巴蜀を平定しながら三族の誅を受けた。鄧艾の性は剛急で功を矜り善を伐り、朋類と協同できなかったので、誰も理ろうとしなかった。自分がひそかに思うに、鄧艾はもと屯田の犢を掌る人で、寵位は既に極まり功名も既に成った。七十の老公が何を求めよう。まさに劉禪が降ったばかりで遠郡が未附だったので、令を矯め制を承けて社稷を権に安んじたのだ。鍾会に悖逆の心があり、鄧艾の威名を畏れ、その疑わしい体に因って構成したのだ。
  • 段灼は続けて、鄧艾は詔書を被ると強兵を遣らせて身を束ねて縛に就き、敢えて顧望しなかった、まことに先帝に奉見すれば死に当たる理はないと自ら知っていたのだと述べた。鍾会が誅された後、鄧艾の官属將吏が愚戇にも相聚まって自ら鄧艾を追い、檻車を破壊してその囚執を解いた。鄧艾は困地にあって狼狽し拠るところを失い、腹心の人と平素の謀を交わしたことなどなかったのに、独り腹背の誅を受けた。哀しくないか。
  • さらに、陛下は龍興して大度を闡弘された、鄧艾に旧墓への帰葬を許しその田宅を還し、蜀を平らげた功でその後を継いで封じ、鄧艾に棺を闔じて諡を定めさせ、死んで恨みがないようにされたい、そうすれば天下の名を徇う士や功を立てたいと思う臣は必ず湯火に身を投じ、楽んで陛下のために死ぬだろうと述べた。帝はその言を善しとしたが従えなかった。
  • ちょうど帝が給事中樊建に諸葛亮の蜀の治め方を問い、自分だけが諸葛亮のような者を得て臣とすることができぬのかと言った。樊建は稽首して、陛下は鄧艾の寃を知りながら直せない、諸葛亮を得ても馮唐の言のようになりませぬかと答えた。帝は笑って、あなたの言は自分の意を起こしたと言い、鄧艾の孫の鄧朗を郎中とした。