通鑑紀事本末淮南の三叛(毌丘倹・文欽・諸葛誕)(淮南三叛(文欽/母丘儉/諸葛誕))

司馬氏の専権に対して淮南で相次いだ叛乱のうち、毌丘儉・文欽の挙兵と諸葛誕の挙兵を扱う。正元二年、毌丘儉と文欽は太后の詔を偽って寿春に挙兵したが、司馬師が王基・鄧艾らを用いて持久策をとり、淮南の將士の家が北にあることから衆心が離れて潰え、毌丘儉は殺され文欽は呉に奔った。甘露二年、賈充の探りを受けた諸葛誕が樂綝を殺して十余万を擁し呉に救を請うが、司馬昭は二十六万で寿春を囲み、反間で全懌らを降らせて城中を飢えさせた。翌年、内訌から諸葛誕が文欽を殺し、城は陥ちて三族を滅ぼされる。司馬昭は降兵を殺さず、王基の諫めを容れて追撃を止めた。正元元年(254年)から甘露三年(258年)まで。

年表(5件)

魏髙貴鄉公正元元年(254年)叛の下地

  • 揚州刺史文欽は驍果が人に絶し、曹爽は同郷であることから愛していた。文欽は曹爽の勢を恃んで人を陵ぎ傲る態度が多かった。曹爽が誅されると文欽は内心懼れ、また虜の首級を増やして功賞を邀えるのを好んだので、司馬師は常にこれを抑えた。これによって怨望した。
  • 鎮東將軍毌丘儉はもとより夏侯玄・李豐と親しかった。夏侯玄らが死ぬと毌丘儉も自ら安まらず、計を用いて文欽を厚く待遇した。
  • 毌丘儉の子の治書侍御史毌丘甸が父に、大人は方岳の重任にある、国家が傾覆しているのに晏然と自守すれば四海の責を受けることになると言い、毌丘儉はこれを然りとした。

正元二年(255年)毌丘儉・文欽の乱

  • 春正月、毌丘儉と文欽は太后の詔を偽って寿春で挙兵し、州郡に檄を移して司馬師を討つとした。また上表して、相國司馬懿は忠正で社稷に大勲があるので宥恕を後世に及ぼすべきだ、司馬師を廃して侯として第に就かせ弟の司馬昭を代えられたい、太尉司馬孚は忠孝で小心、護軍司馬望は忠公で親事、いずれも親寵して要任を授けるべきと述べた。司馬望は司馬孚の子である。
  • 毌丘儉はさらに使を遣わして鎮南將軍諸葛誕を誘ったが、諸葛誕はその使を斬った。
  • 毌丘儉・文欽は五、六万の衆を率いて淮を渡り、西の項に至った。毌丘儉は堅く守り、文欽を外に置いて游兵とした。
  • 司馬師が河南尹王肅に計を問うた。王肅は、昔關羽が于禁を漢の濱で虜にし、北に向かって天下を争う志があったが、後に孫権がその將士の家属を襲い取ると關羽の士衆は一朝で瓦解した、今、淮南の將士の父母妻子はみな内州にある、急ぎ往って禦衛し前進できぬようにすれば必ず關羽の土崩の勢となると答えた。
  • 当時、司馬師は目の瘤を切ったばかりで創が甚だしく、大將軍は自ら行くべきでなく太尉司馬孚を遣わして拒がせるに勝らぬと言う者があった。ただ王肅と尚書傅嘏・中書侍郎鍾会が司馬師の親征を勧めた。司馬師が疑って決しないと、傅嘏が、淮楚の兵は勁く毌丘儉らは力を負って遠く闘う、その鋒は当たりやすくない、もし諸將の戦に利鈍があって大勢を一度失えば公の事は敗れると述べた。司馬師は蹶然と起って、自分は輿で病を運んで東すると言った。
  • 戊午、司馬師は中外諸軍を率いて毌丘儉・文欽を討った。弟の司馬昭に中領軍を兼ねさせて洛陽に留め鎮させ、三方の兵を陳・許に会させた。
  • 司馬師が光禄勲鄭袤に計を問うた。鄭袤は、毌丘儉は謀を好むが事情に達せず、文欽は勇だが算がない、今大軍がその不意に出れば、江淮の卒は鋭いが固くはできない、深溝高塁でその気を挫くべきで、これが周亞夫の長策だと答えた。司馬師は善しと称した。
  • 司馬師は荆州刺史王基を行監軍として節を仮し許昌の軍を統べさせた。
  • 王基が司馬師に言った。淮南の逆は吏民が乱を思ってのことではない。毌丘儉らが誑し誘い迫り脅かし、目下の戮を畏れて屯聚しているだけだ。大兵が一度臨めば必ず土崩瓦解し、毌丘儉・文欽の首は朝を終えぬうちに軍門に致される、と。司馬師は従い、王基を前軍とした。
  • ところがその後、王基に停駐を敕した。王基は、毌丘儉らは軍を挙げて深入するに足るのに久しく進まないのは、その詐偽が既に露れ衆心が疑い沮んでいるからだと考えた。今、威形を張り示して民望に副わず、軍を停めて塁を高くするのは畏懦に似て用兵の勢ではない。もし毌丘儉・文欽が人民を虜略して自らを益し、また州郡の兵家が賊に得られれば離心を懐く。毌丘儉らに迫り脅かされた者は自ら罪が重いことを顧みて還るのを敢えてしない。これは兵を無用の地に錯き姦宄の源を成すことだ。吳の冦がこれに因れば淮南は国家のものでなくなり、譙・沛・汝・豫まで危うくして安からぬ。計の大失である。
  • 王基は、軍は連ねて進み南頓に拠るべきだと述べた。南頓には大邸閣があり軍人四十日分の糧に足る。堅城を保ち積穀に因り、人に先んじて人の心を奪うのが賊を平らげる要である、と。王基が度々請うのでようやく進んで㶏水に拠ることを許された。
  • 閏月甲申、司馬師は㶏橋に次した。毌丘儉の將吏の招(史招)・李続が相次いで来降した。
  • 王基が再び司馬師に言った。兵は拙速を聞くが巧の久しきを覩ぬという。今、外に強冦あり内に叛臣あり、時に決しなければ事の深浅は測れない。議者の多くは將軍が持重だと言う。持重は是だが軍を停めて進まぬのは非だ。持重とは行かぬことを言うのではなく、進んで犯されぬということだ。今、壁塁を保って積実を虜に資し、遠く軍糧を運ぶのは甚だ計でない、と。
  • 司馬師がなお許さないと、王基は、將が軍にあれば君令に受けぬところがある、彼が得れば利、我が得ても利、これを争地という、南頓がそれだと言い、そのまま進んで南頓に拠った。毌丘儉らも項から往って争おうとしたが、十余里発したところで王基が先に到ったと聞いて、還って項を保った。
  • 吳の丞相孫峻が驃騎將軍呂據・左將軍会稽の留贊を率いて寿春を襲った。司馬師は諸軍にみな深壁高塁して東軍の集まるのを待つよう命じた。
  • 諸將が項への進軍を請うと、司馬師は答えた。諸軍はその一を得てその二を知らぬ。淮南の將士はもともと反志がない。毌丘儉・文欽が説き誘って共に挙事し、遠近が必ず応ずると言ったが、事が起こった日に淮北は従わず、史招・李続が前後に瓦解した。自ら必ず敗れると知って、困った獸が闘いを思っている。速やかに戦えばかえってその志に合う。必ず克つとはいえ人を傷つけるのも多い。しかも毌丘儉らは將士を欺誑し詭変が万端だ。しばらく持久すれば詐りの情は自ずと露れる。これが戦わずして克つ術である、と。
  • そこで諸葛誕に豫州の諸軍を督させて安風から寿春に向かわせ、征東將軍胡遵に青州・徐州の諸軍を督させて譙・宋の間に出て帰路を絶たせ、司馬師は汝陽に屯した。
  • 毌丘儉・文欽は進んで闘えず、退けば寿春が襲われることを恐れ、計窮して為すところを知らなかった。淮南の將士の家はみな北にあり、衆心は沮み散じ、降者が相次いだ。ただ淮南の新附の農民だけが彼らに用いられた。
  • 毌丘儉が挙兵した当初、健歩を遣わして書を兖州に至らせたが、兖州刺史鄧艾はこれを斬り、兵一万余人を率いて兼道で前進し、先に樂嘉城に向かって浮橋を作って司馬師を待った。毌丘儉は文欽に兵を率いてこれを襲わせた。司馬師は汝陽からひそかに兵を進めて樂嘉の鄧艾に合した。
  • 文欽は突然大軍を見て驚愕し為すところを知らなかった。文欽の子の文鴦は十八歳で勇力が人に絶し、父に、まだ定まらぬうちに撃てば破れると言った。そこで二隊に分かれて夜に挟み攻めた。文鴦が壮士を率いて先に至り鼓を鳴らして騒ぐと、軍中は震擾した。司馬師は驚駭して病んだ目が突き出た。衆に知られることを恐れ、被を噛んでみな破った。文欽は期を失って応じなかった。
  • 明け方、文鴦は兵の盛んなのを見て引き還した。司馬師が諸將に、賊は走った、追うべきだと言うと、諸將は、文欽父子は驍猛でまだ屈するところがない、何を苦しんで走ろうかと言った。司馬師は、一たび鼓すれば気を作し、再びすれば衰える、文鴦は鼓し騒いで応じを失った、その勢は既に屈した、走らずして何を待とうかと答えた。
  • 文欽が引いて東しようとすると、文鴦は、先にその勢を折らねば去れないと言い、驍騎十余とともに鋒を摧き陣を陥れ、向かうところみな披靡した。そのまま引き去った。
  • 司馬師は左長史司馬班に驍騎八千を率いさせて翼のように追わせた。文鴦は一騎で数千騎の中に入り、そのたび百余人を殺傷して出た。これを六、七度繰り返し、追騎は誰も敢えて迫らなかった。
  • 殿中の人尹大目は幼くして曹氏の家奴となり常に天子の左右にいた。司馬師が共に行こうとしたとき、尹大目は司馬師の一目が既に出ていることを知り、文欽はもと明公の腹心で人に誤られただけだ、また天子の郷里でもとより自分と相信じている、公のために追って解き語らって還らせて公と再び好とさせたいと願い出た。司馬師は許した。
  • 尹大目は単身で大馬に乗り鎧冑を被って文欽を追い、遥かに語った。尹大目は心中では曹氏のためにしようと思い、偽って、君侯は何を苦しんで数日のうちを忍べぬのかと言い、文欽にその意を解らせようとした。文欽はまったく悟らず、かえって厲声で尹大目を罵り、お前は先帝の家人でありながら報恩を念わず、逆に司馬師と共に逆をなし上天を顧みぬ、天はお前を祐けぬと言い、弓を張り矢を傅えて尹大目を射ようとした。尹大目は涕泣して、世事は敗れた、よく自ら努められよと言った。
  • この日、毌丘儉は文欽が退いたと聞いて恐懼し夜に走り、衆はついに大いに潰えた。文欽は還って項に至ったが、孤軍で後継がなく自立できず、寿春に還ろうとしたが寿春は既に潰えていたので、吳に奔った。吳の孫峻は東興に至ったところで毌丘儉らの敗を聞いた。
  • 壬寅、進んで橐臯に至り、文欽父子は軍に詣って降った。毌丘儉は走り、慎県に至る頃には左右の人兵が次々に毌丘儉を棄てて去った。毌丘儉は水辺の草中に隠れた。甲辰、安風津の民張属が近づいて毌丘儉を殺し、首を京師に伝送した。張属は侯に封じられた。
  • 諸葛誕が寿春に至ると、寿春城中の十余万口は誅を懼れ、山澤に流れ迸り、あるいは散り走って吳に入った。詔で諸葛誕を鎮東大將軍・儀同三司・都督揚州諸軍事とした。
  • 毌丘儉の三族が滅ぼされた。毌丘儉の党七百余人が獄に繋がれたが、侍御史杜友がこれを治め、首謀者十人だけを誅し、残りはみな奏して免じた。
  • 吳の孫峻は諸葛誕が既に寿春に拠ったと聞いて兵を引いて還った。文欽を都護・鎮北大將軍・幽州牧とした。

甘露元年(256年)

  • 秋九月、吳の孫峻が死去し、孫綝が輔政した。

甘露二年(257年)諸葛誕の叛と寿春の囲

  • 夏四月、征東大將軍諸葛誕はもとより夏侯玄・鄧颺らと親しかった。夏侯玄らが死に、王凌・毌丘儉が相継いで誅滅されると、諸葛誕は内心自ら安まらず、帑蔵を傾けて振施し、罪ある者を曲げて赦して衆心を収め、揚州の軽俠数千人を畜養して死士とした。吳人が徐堨に向かおうとしているのに因り、十万の衆で寿春を守ることを請い、また臨淮に築城して吳の冦に備えたいと求めた。
  • 司馬昭は政を秉ったばかりで、長史賈充が参佐を遣わして四征を慰労しその志を観るよう請い、司馬昭は賈充を淮南に遣わした。
  • 賈充は諸葛誕に会って時事を論説し、洛中の諸賢はみな禅代を願っているがどう思うかと言った。諸葛誕は厲声で、あなたは賈豫州の子ではないか、世々魏の恩を受けていながら社稷を人に輸そうというのか、洛中に難があれば自分はそこに死ぬと答えた。賈充は黙然として還り、司馬昭に、諸葛誕は再び揚州にあって士衆の心を得ている、今召しても必ず来ぬが、反は疾く禍は小さい、召さなければ反は遅いが禍は大きい、召すに勝らぬと言い、司馬昭は従った。
  • 甲子、詔で諸葛誕を司空とし京師に召し赴かせた。諸葛誕は詔書を得ていよいよ恐れ、揚州刺史樂綝が自分を間したと疑い、樂綝を殺した。淮南および淮北の郡県の屯田口十余万の官兵と、揚州の新附で勝兵の者四、五万人を収め、穀を一年分聚め、門を閉じて自守する計を立てた。長史吳綱を遣わし少子の諸葛靚を吳に至らせて臣を称し救を請い、あわせて牙門の子弟を質とすることを請うた。
  • 司馬昭が帝および太后を奉じて諸葛誕を討った。吳綱が吳に至ると吳人は大いに喜び、將軍全懌・全端・唐咨・王祚に三万の衆を率いさせ、文欽とともに諸葛誕を救わせた。諸葛誕を左都護・假節・大司徒・驃騎將軍・青州牧として寿春侯に封じた。全懌は全琮の子、全端はその從子である。
  • 六月甲子、車駕が項に次した。司馬昭は諸軍二十六万を督して進み丘頭に屯し、鎮南將軍王基を行鎮東將軍・都督揚豫諸軍事として、安東將軍陳騫らとともに寿春を囲ませた。
  • 王基が着いた当初、囲城が完成していないうちに、文欽・全懌らが城の東北から山に因り険に乗じてその衆を率いて城に突入した。司馬昭は王基に軍を収めて堅壁するよう敕した。王基は度々進討を求めた。
  • 折しも吳の朱異が三万人を率いて安豐に進屯し文欽の外勢となったので、詔で王基に諸軍を引いて北山に転拠するよう命じた。王基は諸將に、今、囲塁は次々に固まり兵馬が集まりつつある、ただ守備を精修して越逸を待つべきで、かえって兵を移して険を守り放縦させれば、智者があってもその後を善くできぬと言い、そのまま便宜を守った。
  • 王基は上疏した。今、賊家と対敵しているのだから、山のごとく動かぬべきだ。もし遷移して険に依れば人心は揺蕩し、勢に大損である。諸軍が並んで深溝高塁に拠れば衆心はみな定まり傾動しない。これが兵を御する要である、と。書が奏されると聴許の報があった。
  • そこで王基らは四面を合囲し、表裏二重にして塹塁は甚だ峻しくした。文欽らが度々出て囲を犯したが、迎撃して走らせた。
  • 司馬昭はまた奮武將軍・監青州諸軍事石苞に兖州刺史州泰・徐州刺史胡質らを督させ、鋭卒を選んで游軍とし外の冦に備えさせた。州泰が陽淵で朱異を撃破し、朱異は走り、州泰が追って二千人を殺傷した。
  • 秋七月、吳の大將軍孫綝が大いに卒を発して鑊里に出屯し、再び朱異に將軍丁奉・黎斐ら五人を帥いさせて寿春の囲を解こうとした。朱異は輜重を都陸に留めて進み黎漿に屯したが、石苞・州泰が再びこれを撃破した。泰山太守胡烈が奇兵五千で都陸を襲い、朱異の資糧をすべて焼いた。朱異は余兵に葛の葉を食わせながら走って孫綝のもとに帰った。
  • 孫綝は朱異に改めて死戦させようとしたが、朱異は士卒に食が乏しいとして命に従わなかった。孫綝は怒り、九月己巳、鑊里で朱異を斬った。辛未、兵を引いて建業に還った。孫綝は諸葛誕を抜き出せぬまま士衆を喪敗し、自ら名將を戮した。これによって吳人は皆これを怨んだ。
  • 司馬昭は、朱異が寿春に至れなかったのはその罪ではないのに吳人が殺したのは、寿春に謝して諸葛誕の意を堅くし、なお救を望ませようとしているのだと述べた。今は堅く囲んでその越逸に備え、多方に誤らせるべきだ、と。
  • そこで反間を縦にし、吳の救がまさに至る、大軍は食が乏しく羸疾の者を分け遣わして淮北で穀に就かせている、勢いとして久しくできぬと揚言させた。諸葛誕らはいよいよ寛ろぎ恣に食い、ほどなく城中は糧が乏しくなり、外の救は至らなかった。
  • 將軍蔣班・焦彝はいずれも諸葛誕の腹心の謀主であった。二人が諸葛誕に言った。朱異らが大衆で来ても進めず、孫綝は朱異を殺して江東に帰った。外には発兵を名としながら内実は坐して成敗を待っている。今、衆心がまだ固く士卒が用いられることを思っているうちに、力を併せて死を決し一面を攻めるべきだ。すべて克てなくてもなお全うできる者はある。空しく坐して守り死ぬのは無為だ、と。
  • 文欽は反対した。公は今、十余万の衆を挙げて吳に帰命し、文欽と全端らはみな同じく死地に居り、父兄子弟はことごとく江表にある。孫綝が来させたくなくとも、主上とその親戚がどうして聴くものか。しかも中国は事のない年がなく、軍民ともに疲れている。今、我を一年守れば内変が起こる。どうしてこれを捨てて危に乗じて僥倖を邀えようとするのか、と。
  • 蔣班・焦彝が固くこれを勧めると、文欽は怒り、諸葛誕は二人を殺そうとした。二人は懼れ、十一月、諸葛誕を棄てて城を踰えて来降した。
  • 全懌の兄の子の全輝・全儀が建業でその家内と争訟し、母を携えて部曲数十家とともに来奔した。当時、全懌とその兄の子の全靖および全端の弟の全翩・全緝はみな兵を率いて寿春城中にあった。司馬昭は黄門侍郎鍾会の策を用い、密かに全輝・全儀の名で書を作り、二人の親信の者に持たせて城に入らせ、全懌らに、吳中は全懌らが寿春を抜けぬことを怒り、諸將の家をすべて誅そうとしているので逃れて帰命したのだと告げさせた。
  • 十二月、全懌らはその衆数千人を率いて門を開いて出て降った。城中は震え懼れて為すところを知らなかった。詔で全懌に平東將軍を拝して臨湘侯に封じ、全端らもそれぞれ差を付けて封拝した。

甘露三年(258年)寿春の陥落

  • 春正月、文欽が諸葛誕に、蔣班・焦彝は自分たちが出られぬと言って走り、全端・全懌もまた衆を率いて逆らって降った、これは敵が無備の時だ、戦えると言った。諸葛誕および唐咨らもみな然りとし、大いに攻具を作り、昼夜五、六日にわたって南囲を攻め、囲を決して出ようとした。
  • 囲上の諸軍が高きに臨んで石車と火矢を発し、逆にその攻具を焼き破った。矢石が雨のように下り、死傷が地を蔽い、血が流れて塹に盈ちた。再び城に還った。
  • 城内の食はいよいよ竭き、出て降る者は数万口に及んだ。文欽は北方の人をすべて出して食を省き吳人と堅守しようとしたが、諸葛誕は聴かず、これによって争い恨んだ。文欽はもとより諸葛誕と隙があり、ただ計のために合していただけで、事が急になるといよいよ相疑った。文欽が諸葛誕に会って事を議したところ、諸葛誕はついに文欽を殺した。
  • 文欽の子の文鴦・文虎は兵を率いて小城中にあり、文欽が死んだと聞いて兵を勒して赴こうとしたが、衆は用いられなかったので、単独で走り城を踰えて出て司馬昭に自ら帰した。
  • 軍吏が誅すよう請うと、司馬昭は、文欽の罪は誅しても容れられぬ、その子ももとより戮に就くべきだ、しかし文鴦・文虎は窮して帰命し、しかも城が未抜のうちに殺すのは彼らの心を堅くすることだと述べ、文鴦・文虎を赦した。二人に数百騎を率いさせて城を巡らせ、「文欽の子でさえ殺されぬのだから、その余は何を懼れよう」と呼ばせた。また上表して文鴦・文虎をともに將軍とし關内侯の爵を賜った。城内はみな喜び、しかも日ごとに飢え困じた。
  • 司馬昭が自ら囲に臨み、城上で弓を持つ者が発たないのを見て、攻められると言った。そこで四面から進軍し同時に鼓を鳴らして騒ぎ城に登った。
  • 二月乙酉、これを克った。諸葛誕は窘急し、単騎で麾下を率いて小城を突いて出ようとしたが、司馬胡奮の部兵が撃って斬り、その三族を滅ぼした。
  • 諸葛誕の麾下数百人はみな手を拱いて列をなし降らなかった。一人斬るごとに降るよう勧めたが、ついに変わらぬまま尽きるに至った。
  • 吳の將于詮は、大丈夫が主から命を受けて兵で人を救うのに、克てぬうえに敵に手を束ねるのは自分の取らぬところだと言い、冑を脱いで陣を冒して死んだ。
  • 唐咨・王祚らはみな降った。吳兵一万の衆、器仗は山と積まれた。
  • 司馬昭が寿春を囲んだ当初、王基・石苞らはみな急攻しようとした。司馬昭は、寿春は城が固く衆が多い、攻めれば必ず力が屈する、外の冦があれば表裏から敵を受けることになり危道だと考えた。今、三叛が孤城の中に相聚まったのは、天がおそらく同じく戮に就かせようとしているのだ。自分は全策でこれを縻すことにする。ただ三面を堅守し、吳の賊が陸道から来れば軍糧は必ず少ない、游兵と軽騎でその転輸を絶てば、戦わずして破れる。吳の賊が破れれば文欽らは必ず擒になる、と述べ、諸軍に甲を按じて守るよう命じ、ついに攻めるのを煩わさずに破った。
  • 議者はまた、淮南は続けて叛逆をなし、吳兵の家族は江南にあるので縦すべきでなく、すべて坑にすべきだと言った。司馬昭は、古の用兵は国を全うするを上とし、その元悪を戮するだけだと述べた。吳兵が亡げ還ったとしても、かえって中国の大度を示せるだけだ、と。一人も殺さず、三河の近郡に分布して安らかに処らせた。唐咨に安遠將軍を拝し、その余の禆將もみな位号を仮した。衆はみな悦服した。淮南の將士・吏民で諸葛誕に脅略された者はみな赦した。文鴦兄弟には父の喪を収斂させ、車牛を給して旧墓に葬らせた。
  • 司馬昭は王基に書を遺した。当初、議者は種々に言い、移動を求める者は甚だ多く、自分もその時は現地を臨履しておらずそうすべきかと思った。將軍は利害を深く算し、独り固い志を秉り、上は詔命に違い下は衆議を拒み、ついに敵を制し賊を禽にするに至った。古人の述べるところもこれに過ぎない、と。
  • 司馬昭は諸軍の軽兵を深入させて唐咨らの子弟を招き迎え、隙に因って吳を滅ぼす勢を得ようとした。
  • 王基が諫めた。昔諸葛恪は東關の勝に乗じて江表の兵を竭くして新城を囲んだが、城は抜けず衆の死者は大半に及んだ。姜維は洮西の利に因って軽兵で深入したが、糧餉が継がず軍は上邽で覆った。大捷の後は上下が敵を軽んじ、敵を軽んじれば難を慮ることが深くない。今、賊は新たに外で敗れ、また内患が弭んでいない。これは彼が備えを修め慮を設ける時である。しかも兵が出て年を越え、人には帰る志がある。今、俘馘十万、罪人はこれで得た。歴代の征伐で今日ほど盛んに兵を全うして独り克ったものはない。武皇帝は官渡で袁紹に克ち、自ら獲るところ既に多いとして再び奔る者を追わなかった。威を挫くことを懼れたのだ、と。司馬昭はそこで中止した。王基を征東將軍・都督揚州諸軍事とし、東武侯に進封した。

史論(習鑿齒)

  • 君子は司馬大將軍がこの役で徳をもって攻めえたと言うだろう。業を建てる者は道を異にしそれぞれ尚ぶところがあり、兼ね併せることはできない。だから武を窮めた雄は不仁で斃れ、義を存する国は懦退で喪われる。
  • 今、一度の征で三叛を禽にし、吳の衆を大いに虜にし、淮浦を席巻して俘馘十万、壮とすべきである。それでいて安坐するに及ばず、王基の功を賞し、恵を吳人に種え、異類の情を結び、文鴦を寵して文欽を葬り、疇昔の隙を忘れ、諸葛誕の衆を咎めず、揚土を愧じ入らせた。功は高くして人はその成を楽しみ、業は広くして敵はその徳を懐いた。武と昭が既に敷かれ文と算もまた洽った。この道を推せば、天下に誰がこれに当たれよう。