通鑑紀事本末諸葛恪、淮南を侵す(孫綝の反逆を付す)(諸葛恪冦淮南(孫綝逆節附))

孫権が幼主孫亮の後事を諸葛恪に託してから、諸葛恪の淮南出兵の失敗と誅殺、続く孫峻・孫綝兄弟の専横と滅亡までを扱う。諸葛恪は東興で胡遵・諸葛誕の魏軍を大破して威名を得たが、滕胤・聶友らの諫めを退けて二十万を挙げて新城を囲み、張特の守りと疫病に阻まれて大敗する。帰国後の苛政で人望を失い、嘉平五年に孫峻に殺され三族を滅ぼされた。孫峻は滕胤・呂據を誅して権を専らにし、死後は孫綝が継いで孫亮を廃し孫休を立てる。孫休は丁奉・張布と謀って臘会の席で孫綝を斬り、孫氏専権が終わる。嘉平三年(251年)から太平三年(258年)まで。

年表(9件)

魏邵陵厲公嘉平三年(251年)諸葛恪への託孤

  • 冬十一月、吳主孫権は太子孫亮が幼小なので付託先を議した。孫峻が大將軍諸葛恪に大事を託せると薦めた。吳主は諸葛恪が剛狠で自ら用いる性を嫌ったが、孫峻は、今の朝臣の才で諸葛恪に及ぶ者はないと述べた。そこで武昌から諸葛恪を召した。
  • 諸葛恪が出発しようとするとき、上大將軍呂岱が、世はまさに多難だ、あなたは事あるごとに必ず十思せよと戒めた。諸葛恪は、昔季文子は三思して後に行い、孔子は再思でよいと言った、今あなたが自分に十思を命ずるのは自分の劣を明らかにするものだと答えた。呂岱は答えるところがなく、当時みなこれを失言だと言った。

史論(虞喜論)

  • 天下を託されるのは至って重く、人臣として主の威を行うのは至って難しい。この二つの至難を兼ねて万機を管し、それに勝てる者は稀である。呂侯は国の元老で志度は遠くを経る。十思を戒めとしただけなのに、それをもって劣を示すものとして拒んだのは、諸葛恪(元遜)が機と神を兼ね備えていなかった証である。もし十思の義に因って当世の務めを広く諮り、善を聞くこと雷の動くより速く、諫めに従うこと風の移るより急であったなら、殿堂で首を隕とし凶豎の刃に死ぬことがあったろうか。
  • 世人は諸葛恪の英辯が造次に観るに足ると奇とし、呂侯が対答できなかったのを陋と哂うが、安危終始の慮を思わない。これは春の藻の繁華を楽しんで秋の実の口に甘いことを忘れるものだ。
  • 昔魏人が蜀を伐ち、蜀人が禦えて精厳、出発の間際に費禕はなお来敏と碁を打って厭倦の意がなかった。来敏はそれで必ず賊を捌けると考え、明略が内に定まって貌に憂色がないと言った。しかし習鑿齒(長寧)は、君子は事に臨んで懼れ、謀を好んで成すものだ、蜀は蕞爾たる小国でありながら大敵に向かい、規るところ図るところは守と戦だけなのに、どうして自ら余裕があると誇り晏然として憂いがないでいられるかとした。これは費禕の性が寛簡で細微を防がなかったもので、ついに降人の郭循に害された。兆しが彼に見えて禍がここに成ったのではないか。
  • 往に習鑿齒が費禕を甄したのを聞き、今、諸葛恪が呂侯に逆らったのを覩る。二つの事は体を同じくし、いずれも世の鑑とするに足る。

嘉平三年 後事の託

  • 諸葛恪は建業に至り、吳主に臥内で会見し、牀下で詔を受け、大將軍として太子太傅を領し、孫弘が少傅を領した。詔で有司に、諸事はすべて諸葛恪に一統し、ただ殺生の大事のみその後に聞かせるよう制とした。群官百司の拜揖の儀もそれぞれ品序を設けた。また会稽太守の北海人滕胤を太常とした。滕胤は吳王の婿である。

嘉平四年(252年)東興堤と東興の大勝

  • 春二月、吳主が病困となり、諸葛恪・孫弘・滕胤および將軍呂據・侍中孫峻を臥内に召して後事を託した。
  • 夏四月、吳主が死去した。孫弘はもとより諸葛恪と不仲で、諸葛恪に処治されるのを懼れ、喪を秘して発せず、詔を偽って諸葛恪を誅そうとした。孫峻が諸葛恪に告げた。諸葛恪は孫弘を招いて事を諮うと称し、席上で殺した。そして喪を発し、吳主に大皇帝と諡した。
  • 太子孫亮が即位し、大赦して建興と改元した。閏月、諸葛恪を太傅、滕胤を衛將軍、呂岱を大司馬とした。
  • もともと吳の大帝(孫権)が東興堤を築いて巢湖を遏いていたが、その後淮南に侵攻して敗れ、内の船を出すのに妨げとなったため廃して修治しなかった。
  • 冬十月、太傅諸葛恪が東興に衆を会し、改めて大堤を作って左右を山に結び、俠んで二つの城を築いてそれぞれ千人を留め、將軍全端に西城、都尉留略に東城を守らせ、軍を引いて還った。
  • 鎮東將軍諸葛誕が大將軍司馬師に、今吳が内に侵したのに乗じ、王昶(文舒)に江陵を逼らせ、毌丘儉(仲恭)を武昌に向かわせて吳の上流を羈し、その後精卒を選んでその二城を攻めれば、救が至る前に大いに獲るところがあると言った。
  • 当時、征南大將軍王昶・征東將軍胡遵・鎮南將軍毌丘儉らがそれぞれ征吳の計を献じた。朝廷は三征の計が異なるので詔で尚書傅嘏に問うた。
  • 傅嘏が答えた。議者は、舟を汎かべて直ちに渡り江表を横行しようとする者、四道並進して城塁を攻めようとする者、疆場に大いに屯田して隙を観て動こうとする者がある。いずれも確かに賊を取る常計だ。しかし治兵以来出入三年、掩襲の軍ではない。賊が冦をなしてほぼ六十年、君臣が相保ち吉凶を共に患えている。加えてその元帥を喪って上下が憂危している。船を津要に列べ堅城が険に拠るとなれば、横行の計はおそらく速やかには成らない。今の辺壤の守りは賊と遠く隔たり、賊は羅落(斥候線)を設け特に重密で、間諜が行かれず耳目が聞くところもない。軍に耳目なく校察も詳らかでないのに大衆を挙げて巨険に臨むのは、僥倖で功を求め先に戦って後に勝を求めるもので、全軍の長策ではない。
  • 傅嘏は、ただ進軍して大いに屯田するのが最も完牢だとし、七つの利を挙げた。王昶・胡遵らに詔して地を択び険に居らせ錯置を審らかにし、三方に一時に前守させれば、その肥壤を奪って瘠土に還らせるのが第一。兵が民の表に出て冦の鈔略が犯さぬのが第二。近路を招懷して降附が日々至るのが第三。羅落が遠くに設けられて間構が来なくなるのが第四。賊が守りを退けば羅落は必ず浅くなり佃作を立てやすいのが第五。積穀を坐して食い士が運輸せずに済むのが第六。釁隙が時に聞こえ討襲が速やかに決するのが第七。これらは軍事の急務であり、拠らなければ賊が便資を擅にし、拠れば利は国に帰する。
  • さらに、屯塁が相迫って形勢が交われば智勇を陳べられ巧拙を用いられる、策って得失の計を知り角して有余不足を知る、虜の情偽はどこに逃げられよう、小をもって大に敵すれば役は煩わしく力は竭き、貧をもって富に敵すれば歛は重く財は匱しくなる、だから「敵が逸なら労させ、飽なら飢えさせる」というのはこれだと述べた。司馬師は従わなかった。
  • 十一月、詔で王昶らが三道から吳を撃った。
  • 十二月、王昶が南郡を攻め、毌丘儉が武昌に向かい、胡遵・諸葛誕が衆七万を率いて東興を攻めた。
  • 甲寅、吳の太傅諸葛恪が兵四万を率いて昼夜兼行して東興を救った。胡遵らは諸軍に浮橋を作らせて渡り、堤上に陣し、兵を分けて二城を攻めたが、城は高峻にあってにわかに抜けなかった。
  • 諸葛恪は冠軍將軍丁奉を呂據・留贊・唐咨とともに前部として山の西から上らせた。丁奉は諸將に、今諸軍の行は緩く、賊が便宜な地に拠れば鋒を争いがたい、自分が急行したいと言い、諸軍を避けさせて道を下り、自ら麾下三千を率いて直進した。折しも北風で、丁奉は帆を揚げて二日で東關に至り、徐塘に拠った。
  • 当時は雪が降って寒く、胡遵らは酒宴を張って高会していた。丁奉はその前部の兵が少ないのを見て部下に、封侯の爵賞を取るのはまさに今日だと言い、兵にみな鎧を解かせ矛戟を捨てさせ、兠鍪と刀楯だけで裸身のまま堨を攀じ登らせた。魏人は望み見て大いに笑い、すぐ兵を厳しくしなかった。吳兵は上りきると鼓を鳴らして騒ぎ、魏の前屯を斫り破った。呂據らが続いて至り、魏軍は驚擾して散り走り、争って浮橋を渡ろうとして橋は壊れ断ち切れ、自ら水に投じ互いに踏み合った。前部督韓綜・樂安太守桓嘉らはみな没し、死者は数万であった。
  • 韓綜はもと吳の叛將で度々吳の害をなし、吳の大帝は常に切歯して恨んでいた。諸葛恪はその首を送って大帝の廟に報告させた。車乗・牛馬・驢騾をそれぞれ千を数え、資器は山と積まれた。旅を振るって帰還した。

嘉平五年(253年)新城の役

  • 春正月、光禄大夫張緝が司馬師に、諸葛恪は勝ったが誅されるのは久しくないと言った。司馬師が理由を問うと、張緝は、威はその主を震わせ功は一国を蓋う、死なずにいられようかと答えた。
  • 二月、吳軍が東興から還り、太傅諸葛恪は陽都侯に進封され、荆州・揚州牧を加えられ中外諸軍事を督した。諸葛恪はそこで軽敵の心を持ち、再び出軍しようとした。諸大臣は度々の出兵で疲労するとして辞を同じくして諫めたが、諸葛恪は聴かなかった。中散大夫蔣延が固く争うと、諸葛恪は扶けて出すよう命じ、論を著して衆に諭した。
  • その論旨は次のとおり。およそ敵国が互いに呑み合おうとするのは、仇讎が互いに除き合おうとするのと同じだ。讎があってそれを長じさせれば、禍は自分にでなければ後人に及ぶ。遠慮せざるをえない。昔秦は關西を得ただけで六国を併呑した。今、魏を古の秦に比べれば土地は数倍、吳と蜀を古の六国に比べれば半分に及ばない。それでも今これに敵しうるのは、ただ曹操の時の兵衆が今ちょうど尽き、後に生まれた者がまだ皆長大していないからで、まさに賊が衰えて少なく盛んでない時である。加えて司馬懿は先に王凌を誅し、続いて自らも隕斃した。その子は幼弱でありながら彼の大任を専らにしている。智計の士があっても施し用いるところを得ていない。今伐つのはその厄会である。聖人は時に趨るに急であり、まことに今日を言うのだ。
  • 続けて、もし衆人の情に順って偷安の計を懐き、長江の険が世に伝えられると考え、魏の終始を論ぜず今日をもって後を軽んずれば、それが自分が長く歎息する理由だと述べた。今、衆人のうち百姓がまだ貧しいので閑息に務めたいと言う者があると聞く。これは大なる危を慮ることを知らず小なる勤を愛しむものだ。昔漢祖は既に三秦の地を有していた。なぜ關を閉じて険を守り自ら娯しまなかったのか。空しく出て楚を攻め、身は創痍を被り介冑に蟣蝨を生じ、將士は困苦に厭いた。鋒刃を甘としてやすらぎを忘れたのではなく、長久を慮って両存できぬと考えたからだ。荆邯が公孫述に進取の図を説いたのを鑑みるたび、また近く家の叔父(諸葛亮)が賊と争競する計を表陳したのを見るたび、喟然と歎息せぬことはない。夙夜反側して慮るのはこのようなことだ。だから愚言を陳べて二三君子の末に達し、もし一朝隕没して志画が立たなくても、来世に自分の憂うるところを知らせ後に思わせたい、と。
  • 衆人はみな心中で不可と思ったが、誰も再び難ずる者はなかった。
  • 丹陽太守聶友はもとより諸葛恪と親しく、書で諫めた。大行皇帝はもともと東關を遏く計をお持ちで、それが施行されぬままだった。今、公が輔けて大業を賛し先帝の志を成した。冦は遠く自ら送られてきて、將士は威徳に憑り身を出して命を用い、一旦非常の功があった。宗廟の神霊と社稷の福でなくて何であろう。今はしばらく兵を按じ鋭を養い、隙を観て動くべきだ。この勢に乗じて再び大挙しようというのは天時が許さず、盛意に任せているだけで、私心には安からぬところがある、と。
  • 諸葛恪は論の後に題して聶友に返書し、あなたには自然の理はあるが大数を見ていない、この論をよく読めば開悟できると述べた。
  • 滕胤が諸葛恪に言った。あなたは伊尹・霍光の託を受け、内で本朝を安んじ外で強敵を摧いた。名声は海内に振るい天下は震動せぬものなく、万姓の心はあなたのおかげで休息できると期している。今かたじけなくも労役の後に師を興して出征すれば、民は疲れ力は屈し、遠くの主は備えがある。城を攻めて克てず野を略して獲るものがなければ、前の労を喪って後の責を招く。甲を按じ師を息め、隙を観て動くに勝らない。しかも兵は大事であり、事は衆で済すもの、衆が悦ばぬのにあなた独りどうして安んじられよう、と。
  • 諸葛恪は、不可と言う者はみな計算を見ず居を懐いて安を求める者だ、あなたまでそう思うのなら自分は何を望めようと答えた。曹芳は闇劣で政は私門にあり、彼の民と臣にはもとより離心がある、今自分は国家の資に因り戦勝の威を藉るのだから、どこへ行って克てぬことがあろう、と。
  • 三月、諸葛恪は州郡から二十万の衆を大いに発して再び侵攻し、滕胤を都下督として留守の事を統べさせた。
  • 夏四月、諸葛恪が淮南に侵入し民人を駆略した。諸將のある者が諸葛恪に、今軍を引いて深入すれば疆場の民は必ず互いに率いて遠く遁れる、兵が労して功が少ないことを恐れる、新城を囲むにとどめるのがよい、新城が困れば救は必ず至る、至ってからこれを図れば大いに獲られると言い、諸葛恪はその計に従った。
  • 五月、軍を還して新城を囲んだ。詔で太尉司馬孚が諸軍二十万を督して赴いた。
  • 大將軍司馬師が虞松に問うた。今東西に事があって二方ともに急だが、諸將の意が沮んでいる、どうすべきか、と。
  • 虞松は答えた。昔周亞夫が昌邑で堅壁して吳楚が自ら敗れた。事には弱いように見えて強いものがあり、察せざるをえない。今、諸葛恪はその鋭衆を尽くして暴を肆にするに足るのに、坐して新城を守っているのは一戦を致そうとしているだけだ。城を攻めて抜けず戦を請うても得られなければ、師は老い衆は疲れて勢いとして自ら走る。諸將が直進しないのはむしろ公の利である。姜維は重兵を有しながら軍を縣けて諸葛恪に応じ、我が麥を食に投じている。根を深くした冦ではない。しかも我が力を東に併せていて西方は必ず虚だと考えている。だから直進しているのだ。今、關中の諸軍に倍道で急ぎ赴かせ不意に出れば、おそらく走るだろう、と。
  • 司馬師は善しとし、郭淮・陳泰に關中の衆をすべて率いさせて狄道の囲を解かせ、毌丘儉らには兵を按じて自守するよう敕し、新城は吳に委ねた。陳泰が洛門まで進むと、姜維は糧が尽きて退き還った。
  • 揚州牙門將の涿郡人張特が新城を守った。吳人が連月攻め、城中の兵は合わせて三千人、疾病と戦死者は半を超えた。諸葛恪が土山を起こして急攻し、城が陥ちようとして守りきれなくなった。
  • 張特は吳人に告げた。今、自分は再び戦う心はない。しかし魏の法では攻められて百日を過ぎ救が至らなければ、降っても家族は罪に坐さない。敵を受けて以来九十余日である。この城にはもと四千余人おり、戦死者は既に半を過ぎた。城が陥ちても半分の人は降りたがらない。自分が還って説き、善悪を条別して明日早くに名簿を送る。まず自分の印綬を持って行って信とせよ、と。そう言って印綬を投げ与えた。
  • 吳人はその辞を聴いて印綬を取らなかった。張特はその夜のうちに諸屋の材と柵を徹して欠けを補い二重にした。翌日、吳人に「自分にはただ闘い死ぬのみだ」と告げた。吳人は激怒して進み攻めたが抜けなかった。
  • 折しも大暑で、吳の士は疲労し、水を飲んで下痢し腫れを流し、病む者は大半となり、死傷が地に塗れた。諸営の吏が日々病者が多いと報せたが、諸葛恪は詐りだとして斬ろうとし、以後誰も言わなくなった。
  • 諸葛恪は内心では失計を思いながら城が下らぬのを恥じ、忿りを色に表した。將軍朱異が軍事で諸葛恪に逆らうと、諸葛恪はその場で兵を奪い建業に斥け還した。都尉蔡林が度々軍計を陳べたが用いられず、馬を策って魏に奔った。
  • 諸將が吳兵が既に疲れたと伺い知って救兵を進めた。
  • 秋七月、諸葛恪は軍を引いて去った。士卒は傷病して道路に流曳し、坑壑に頓仆する者、掠獲される者があり、存亡ともに哀痛して大小が嗟呼した。それでも諸葛恪は晏然として自若とし、出て江渚に一月留まり、潯陽で屯田を起こそうと図った。詔召が相継いだのでようやく師を旋した。これによって衆庶は失望し、怨みと譏りが起こった。
  • 汝南太守鄧艾が司馬師に言った。孫権は既に没し大臣は服いていない。吳の名宗大族はみな部曲を持ち兵に拠り勢を仗んで命に違うに足る。諸葛恪は新たに国政を秉りながら内にその主がなく、上下を撫恤して根基を立てることを念わず外事を競い、その民を虐使している。国の衆を尽くして堅城の下に頓し、死者は万を数え、禍を載せて帰った。これが諸葛恪の罪を獲る日である。昔子胥・吳起・商鞅・樂毅はみな時の君に任じられながら主が没すればなお敗れた。まして諸葛恪の才は四賢に非ばずして大患を慮らない。その亡は待てる、と。
  • 八月、吳軍が建業に還った。諸葛恪は兵を陳ねて導從させて府館に帰り入り、すぐ中書令孫嘿を召して厲声で、お前たちはどうして度々みだりに詔を作ったのかと詰った。孫嘿は惶懼して辞去し、病と称して家に還った。
  • 諸葛恪は征行の後、曹が奏して署した令長の職司を一律に罷めて選び直し、いよいよ治は威厳となり罪責するところが多く、進見しようとする者は竦み息をつめぬ者がなかった。また宿衛を改易して親近の者を用い、さらに兵に厳戒して青州・徐州に向かおうとした。
  • 孫峻は民の怨みが多く衆の嫌うところに因り、諸葛恪が変を起こそうとしていると吳主に構言した。
  • 冬十月、孫峻は吳主と謀って酒を設け諸葛恪を招いた。諸葛恪が入ろうとする前夜、精爽が擾動して一晩眠れず、また家にしばしば妖怪があった。諸葛恪は疑い、翌朝、車を宮門に停めた。孫峻は既に帷中に兵を伏せており、諸葛恪が時に入らず事が漏れることを恐れ、自ら出て諸葛恪に会い、使君の尊体が安からぬなら後でもよい、孫峻から主上に申し上げると言い、諸葛恪の意を試した。諸葛恪は自ら力めて入ると答えた。
  • 散騎常侍張約・朱恩らが密書を諸葛恪に送り、今日の設けは非常で他に故があると疑うと告げた。諸葛恪は書を滕胤に示し、滕胤は還るよう勧めたが、諸葛恪は、児輩に何ができよう、ただ酒食の中に人を置いているのを恐れるだけだと言った。
  • 諸葛恪は剣と履のまま殿に上がり、進み謝して席に還った。酒が設けられたが諸葛恪は疑って飲まなかった。孫峻が、使君の病がまだよく癒えていないなら常服の薬酒があるだろう、それを取られよと言うと、諸葛恪の意はようやく安んじ、別に持参した酒を飲んだ。数巡して吳主が内に還り、孫峻は厠に立つと称して長衣を解いて短服を着て出て、「詔があり諸葛恪を収める」と言った。諸葛恪は驚いて起ち剣を抜こうとして間に合わず、孫峻の刀が交わり下った。張約が傍らから孫峻を斫って左手をわずかに傷つけたが、孫峻は応じて張約を斫って右腕を断った。武衛の士がみな殿に趨り上がると、孫峻は「取るべきは諸葛恪だ、今既に死んだ」と言い、皆に刃を納めさせ、地を掃除して改めて飲んだ。
  • 諸葛恪の二子の竦・建は難を聞いてその母を載せて逃げようとしたが、孫峻は人を遣わして追い殺した。葦の席で諸葛恪の尸を包み、篾で腰を束ねて石子岡に投げた。また無難督施寛を遣わして將軍施績・孫壹の軍に赴かせ、諸葛恪の弟の奮威將軍諸葛融を公安で殺し、その三子も殺した。諸葛恪の外甥の都鄉侯張震、常侍朱恩もみな三族を滅ぼされた。
  • 臨淮の臧均が上表して諸葛恪の収葬を乞うた。その趣旨は次のとおり。震雷電激は一朝を崇めず、大風の衝発も日を極めることは稀で、それでも雲雨が継ぎ物を潤す。天地の威も日を経て辰を浹すことはできぬのだから、帝王の怒も情を訖して意を尽くすべきでない。自分は狂愚で忌諱を知らぬが、敢えて破滅の罪を冒して風雨の会を邀えたい。
  • 臧均は続けて、故太傅諸葛恪は罪が積み悪が盈ちて自ら夷滅を致した、父子三首が市に梟され、日を積んで観る者は数万、詈る声は風となった、国の大刑は震わせぬところなく、長老も孩幼もみな残らず見た、と述べた。人情は品物に対して楽が極まれば哀が生ずる。諸葛恪の貴盛が世に二つなく身が台輔に処したのを見てから中間数年、今の誅夷は禽獸と異ならない。観終わって情が反れば憯然とせずにいられようか。しかも既に死んだ人は土壌と域を同じくし、鑿り掘り斫り刺しても加えるものはない。聖朝が乾坤に則り、怒を旬を極めぬようにし、その郷邑または故吏民に士伍の服で収め三寸の棺を恵まれたい。昔項籍は殯葬の施を受け韓信は収斂の恩を獲た。これこそ漢の高祖が神明の誉を発した所以である。陛下は三皇の仁を敦くし哀矜の心を垂れ、国の澤を辜戮の骸に加え、已まざる恩を再び受けさせられたい。それで声を遐方に揚げ天下を沮め勧めるのは大きなことではないか。
  • さらに臧均は、昔欒布が命を偽って彭越を葬ったのを自分はひそかに恨む、主上に先に請わず勝手に名をもって情を肆にし、誅されなかったのは実に幸いだっただけだ、今自分は敢えて愚情を章宣して天恩を露わすことはせぬ、謹んで自筆で冒昧に陳聞する、聖明の哀察を乞うと結んだ。そこで吳主と孫峻は諸葛恪の故吏に斂葬を許した。
  • 諸葛恪は若くして盛名があり大帝は深く器重したが、父の諸葛瑾は常にこれを憂え、家を保つ主ではないと言っていた。父の友の奮威將軍張承もまた、諸葛恪は必ず諸葛氏を敗ると考えていた。陸遜はかつて諸葛恪に、自分の前にある者は必ず奉じ、自分の下にある者は扶け接ける、今あなたを観ると気は上を陵ぎ意は下を蔑する、安徳の基ではないと語った。
  • 漢の侍中諸葛瞻は諸葛亮の子である。諸葛恪が再度淮南を攻めたとき、越嶲太守張嶷が諸葛瞻に書を送った。その趣旨は次のとおり。東主(孫権)が崩じた当初、帝は実に幼弱で、太傅は寄託の重きを受けた。それは容易なことではない。周公の才を親しく有していてもなお管叔・蔡叔の流言の変があり、霍光が任を受けても燕王・蓋主・上官の逆乱の謀があり、成王・昭帝の明に頼ってこの難を免れたにすぎない。かつて東主は殺生賞罰を下の人に任せなかったと毎度聞いたのに、今は垂没の命でにわかに太傅を召して後事を託した。まことに慮るべきことだ。加えて吳楚の剽急は昔から記されるところで、太傅が少主を離れて敵の庭を履むのは、良計・長算ではあるまい。東家の綱紀は肅然として上下は輯睦だと言われても、百に一失があるのは明者の慮ではない。古を取れば今、今も古である。郎君が忠言を太傅に進めなければ、他に誰が言を尽くす者があろう。軍を旋し農を広め徳恵を行い、数年のうちに東西並び挙げても実に遅くはない。深く採察されたい、と。諸葛恪は果たしてこれで敗れた。
  • 吳の群臣が共に議して上奏し、孫峻を太尉、滕胤を司徒に推した。孫峻に媚びる者があって、万機は公族にあるべきだ、もし承嗣(滕胤)が亞公となれば声名はもとより重く衆心が附いて量りがたいと言った。そこで上表して孫峻を丞相・大將軍・督中外諸軍事とし、また御史大夫を置かなかった。これによって士人は失望した。
  • 滕胤の娘は諸葛恪の子の竦の妻であり、滕胤はこれを理由に位を辞した。孫峻は、鯀と禹の罪は相及ばない、滕侯はどうして辞するのかと言った。孫峻と滕胤は内では相合わなかったが外では互いに包容し、滕胤の爵を髙密侯に進め、以前どおり共に事に当たった。

髙貴鄉公正元元年(254年)

  • 孫峻は驕矜淫暴で、国人は側目した。司馬の桓慮が孫峻を殺して太子孫登の子の吳侯孫英を立てようと謀ったが克たず、みな死んだ。

正元二年(255年)

  • 秋七月、吳の將軍孫儀・張怡・林恂が孫峻を殺そうと謀ったが克たず、死者は数十人であった。全公主が朱公主を孫峻に譛して、孫儀と同謀だったと言い、孫峻はそこで朱公主を殺した。

甘露元年(256年)孫峻の死と滕胤・呂據の誅

  • 秋九月、孫峻が驃騎將軍呂據および車騎將軍劉纂・鎮南將軍朱異・前將軍唐咨を江都から淮泗に入らせて青州・徐州を図らせた。孫峻は石頭で餞したが、暴疾に遇い、後事を從父弟の偏將軍孫綝に付して死去した。吳は孫綝を侍中・武衛將軍・都督中外諸軍事とし、呂據らを召し還した。
  • 呂據は孫綝が孫峻に代わって輔政したと聞いて激怒し、諸督將と連名で滕胤を丞相に薦める上表をした。孫綝は逆に滕胤を大司馬として呂岱に代え武昌に駐屯させようとした。呂據は兵を引いて還り、人を遣わして滕胤に報せ、共に孫綝を廃そうとした。
  • 冬十月丁未、孫綝は從兄の孫憲に兵を率いさせて江都で呂據を迎撃させ、中使を遣わして文欽・劉纂・唐咨らに共に呂據を撃ち取るよう敕した。また侍中左將軍華融・中書丞丁晏を遣わして滕胤に速やかに去るべきと告げ諭させた。
  • 滕胤は自ら禍が及ぶと考え、華融・丁晏を留め、兵を勒して自衛し、典軍楊崇・將軍孫咨を召して孫綝が乱をなしていると告げ、華融らに迫って書で孫綝を難ずるようにさせた。孫綝は聴かず、滕胤が反したと上表し、將軍劉丞に封爵を約して兵騎で滕胤を攻め囲ませた。滕胤はまた華融らを劫して詔を偽らせ兵を発しようとしたが、華融らが従わなかったのでみな殺した。
  • ある者が滕胤に兵を率いて蒼龍門に至るよう勧め、將士が公が出たのを見れば必ず孫綝を捨てて公に就くと言った。しかし時は既に夜半で、滕胤は呂據との約束を恃み、また宮に向けて兵を挙げることを難しとし、部曲に「呂侯はもう近道にいる」と説き約束させた。それゆえ皆滕胤のために死を尽くし離散する者はなかった。滕胤の顔色は変わらず談笑は常のごとくであった。
  • 時に大風で、暁になっても呂據は至らず、孫綝の兵は大いに集まり、ついに滕胤および將士数十人を殺し、滕胤の三族を滅ぼした。
  • 己酉、大赦して太平と改元した。ある者が呂據に魏に奔るよう勧めたが、呂據は叛臣となるのを恥じるとして自殺した。
  • 十一月、孫綝が大將軍に遷った。孫綝は貴を負って倨傲で無礼な行いが多かった。孫峻の從弟の孫憲はかつて諸葛恪誅殺に与わり、孫峻は厚遇して官は右將軍・無難督・平九官事に至った。孫綝の孫憲への待遇は孫峻の時より薄く、孫憲は怒って將軍王惇と孫綝殺害を謀った。事が漏れ、孫綝は王惇を殺し、孫憲は薬を服して死んだ。

太平二年(257年)

  • 夏四月、吳主が正殿に臨んで大赦し、初めて親政した。孫綝の表奏は難問されることが多かった。
  • 孫綝はまた兵の子弟で十八以下十五以上の三千余人を徴発し、大將の子弟で年少で勇力ある者を選んで将とし、日々苑中で教習させ、「自分はこの軍を立ててこれと共に長じたい」と言った。また度々中書を出させて大帝時代の旧事を見、左右の侍臣に「先帝は度々特制があった、今の大將軍は事を問うのに自分に可と書かせるだけか」と問うた。

太平三年(258年)孫綝の廃立と孫休の即位

  • 秋八月、孫綝は吳主が政事を親覧して難問が多いのを甚だ懼れ、鑊里から返ると病と称して朝せず、弟の威遠將軍孫據を倉龍門に入れて宿衛させ、武衛將軍孫恩・偏將軍孫幹・長水校尉孫闓を分けて諸営に屯させ、自ら固めようとした。吳主はこれを憎んだ。
  • 吳主が朱公主の死の事情を推及すると、全公主は懼れて、自分は実は知らぬ、みな朱據の二子の熊・損が申し立てたことだと言った。当時、熊は虎林督、損は外部督であった。吳主は二人を殺した。損の妻は孫峻の妹であった。孫綝は諫めたが聴かれず、これによっていよいよ懼れた。
  • 吳主はひそかに全公主および將軍劉丞と孫綝誅殺を謀った。全后の父の全尚は太常・衛將軍であった。吳主は全尚の子の黄門侍郎全紀に語った。孫綝は勢を専らにして自分を軽んじ小者扱いする。先に敕して速やかに上岸し唐咨らの援となるよう命じたのに、湖中に留まって一歩も上岸しなかった。また罪を朱異に負わせ、勝手に功臣を殺して先に表聞しなかった。橋の南に邸を築いて再び朝見しない。これは自在で畏れるところがないということで、久しく忍べない。今これを取り除くつもりだ。あなたの父を中軍都督とし、密かに士馬を厳整させよ。自分は自ら出て橋に臨み、宿衛の虎騎と左右無難を率いて一時に囲む。版詔を作って孫綝の領する者に解散を敕し手を挙げられぬようにすれば、そのまま自然に取れる。あなたは行って、ただ密にせよ。父に詔を宣べ、母には知らせるな。女人は大事を解せず、しかも孫綝の同堂の姉である。たまたま漏泄して自分を誤らせれば小事ではない、と。
  • 全紀は詔を承けて父の全尚に告げた。全尚は遠慮なく全紀の母に語り、母は人を遣わして密かに孫綝に告げた。
  • 九月戊午、孫綝は夜に兵で全尚を襲って捕え、弟の孫恩を遣わして劉丞を蒼龍門外で殺し、明け方には宮を囲んだ。
  • 吳主は激怒して馬に乗り鞬を帯び弓を執って出ようとし、「自分は大皇帝の適子で位にあること既に五年、誰が敢えて従わぬのか」と言った。侍中や近臣および乳母が共に牽き攀って止め、出られなかった。歎き咄いて食わず、全后を罵って「お前の父が憒々として自分の大事を敗った」と言った。また人を遣わして全紀を呼ばせた。全紀は、自分の父が詔を奉じて謹まなかった、上に負いて再び見える面目がないと言い、自殺した。
  • 孫綝は光禄勲孟宗に太廟に告げさせ、吳主を廃して会稽王とした。群臣を召して議し、少帝は荒病昏乱で大位に処して宗廟を承けられぬ、既に先帝に告げてこれを廃した、諸君に不同があれば異議を出せと述べた。皆震え怖れて「ただ將軍の令のとおりに」と言った。
  • 孫綝は中書郎李崇を遣わして吳主の璽綬を奪い、吳主の罪を遠近に班告した。尚書桓彞が署名を肯じないと、孫綝は怒って殺した。
  • 典軍施正が孫綝に琅邪王孫休を迎え立てるよう勧め、孫綝は従った。己未、孫綝は宗正孫楷と中書郎董朝を遣わして琅邪王を会稽に迎えさせ、將軍孫耽を遣わして会稽王孫亮をその国に送らせた。孫亮は当時十六歳であった。全尚を零陵に移し、ほどなく追って殺した。全公主を豫章に移した。
  • 冬十月戊午、琅邪王が行って曲阿に至った。一人の老公が王を遮って叩頭し、事が久しくなれば変が生ずる、天下は喁々としている、陛下は速く行かれたいと言った。王はこれを善しとした。この日、布塞亭まで進んだ。
  • 孫綝は琅邪王が未着なので宮中に入って居ようとし、百官を召して会議した。皆惶怖して色を失い、ただ唯々とするばかりであった。選曹郎虞汜が、明公は国のために伊尹・周公となり將相の任に処し廃立の威を擅にした、まさに上は宗廟を安んじ下は百姓に恵まんとするもので、大小は踴躍して伊尹・霍光が再び現れたと思っている、今、王を迎えて未着のうちに宮に入ろうとすれば群下は揺蕩し衆の聴は疑惑する、忠孝を永く終え名を後世に揚げる道ではないと述べた。孫綝は不快ながら止めた。虞汜は虞翻の子である。
  • 孫綝は弟の孫恩に丞相事を行わせ、百僚を率いて乗輿・法駕で琅邪王を永昌亭に迎えさせ、宮を築き武帳を便殿として御座を設けた。己卯、王が至って便殿の東廂に止まった。孫恩が璽符を奉り上げ、王は三度譲ってから受けた。群臣が順次奉引し、王は乗輿に就き、百官が陪位した。孫綝は兵千人で半野に迎え、道の側で拝した。王は車を下りて答拝した。即日、正殿に御して大赦し、永安と改元した。
  • 孫綝は草莽の臣と称して闕に詣り上書し、印綬・節鉞を上って賢路を避けることを求めた。吳主は引見して慰諭し、詔で孫綝を丞相・荆州牧として五県を加増し、孫恩を御史大夫・衛將軍・中軍督として県侯に封じ、孫據・孫幹・孫闓もみな將軍を拝して侯に封じた。また長水校尉張布を輔義將軍として永康侯に封じた。
  • これより先、丹陽太守李衡が度々事で琅邪王を侵していた。その妻の習氏が諫めたが李衡は聴かなかった。琅邪王は上書して他郡に移ることを乞い、詔で会稽に移された。琅邪王が即位すると李衡は憂懼して妻に、あなたの言を用いずこうなった、自分は魏に奔りたいがどうかと言った。
  • 妻は不可とし、あなたはもと庶民で先帝の抜擢が過重だった、既に度々無礼をなしておきながらさらに逆らって自ら猜嫌し、逃叛して活を求めてそれで北に帰って、どんな顔で中国の人に会うのかと述べた。李衡が計はどこから出るかと問うと、妻は、琅邪王はもとより善を好み名を慕い、まさに天下に自らを顕そうとしている、決して私怨であなたを殺さぬことは明らかだ、自ら囚となって獄に詣り、前の失を表列して顕らかに罪を受けることを求めよ、そうすればかえって優饒を受けられ、単に生き延びるだけでは済むまいと答えた。李衡は従った。
  • 吳主は詔して、丹陽太守李衡は往事の嫌によって自ら司敗に拘した、鉤を射ち祛を斬ったのも君のために君のしたことである、李衡を郡に還し自ら疑わせるなと述べ、さらに威遠將軍を加えて棨戟を授けた。
  • 己丑、吳主はもとの南陽王孫和の子の孫皓を烏程侯に封じた。群臣が皇后・太子を立てるよう奏したが、吳主は、朕は寡徳で洪業を承け、事に涖んで日が浅く恩澤も敷いていない、后妃の号や嗣子の位は急ぐものではないと述べた。有司が固く請うたが許さなかった。
  • 孫綝が牛と酒を持って吳主に詣ったが、吳主は受けなかった。孫綝はそれを持って左將軍張布のもとに行き、酒が酣なると怨言を吐いた。少主を廃したとき自分が自らその位に就くよう勧める者が多かったが、自分は陛下が賢明だから迎えたのだ、帝は自分でなければ立たなかった。今、礼を上って拒まれたのは凡臣と異ならぬ扱いだ、また図を改めるべきだ、と。張布がこれを吳主に告げ、吳主は含んで、変があることを恐れ度々賞賜を加えた。
  • 戊戌、吳主は詔して、大將軍は中外諸軍事を掌り事の統べが煩多である、衛將軍・御史大夫孫恩に侍中を加え大將軍と諸事を分掌させると述べた。
  • ある者が孫綝が怨を懐いて上を侮り反を図ろうとしていると告げると、吳主はこれを捕えて孫綝に付し、孫綝は殺した。これによっていよいよ懼れ、孟宗を通じて武昌への出屯を求め、吳主は許した。
  • 孫綝は督する中営の精兵一万余人にすべて装載させ、また武庫の兵器を取った。吳主はいずれも給与させた。孫綝が中書の両郎に荆州の諸軍事を典知させることを求めると、主管者は中書は外に出るべきでないと奏したが、吳主は特に許した。その請求は一つも違えられなかった。
  • 將軍魏邈が吳主に、孫綝が外に居れば必ず変があると説き、武衛士施朔もまた孫綝の謀反を告げた。吳主は孫綝を討とうとして密かに輔義將軍張布に問うた。張布は、左將軍丁奉は吏書はできぬが計略は人に過ぎ大事を断てると答えた。吳主は丁奉を召して告げ、計画を問うた。
  • 丁奉は、丞相の兄弟と支党は甚だ盛んで、人心が同じでなければにわかに制せられぬことを恐れる、臘会に陛兵を置いて誅すべきだと答え、吳主は従った。
  • 十二月丁卯、建業中に明日の会に変があるという謡言が立った。孫綝はこれを聞いて不快であった。夜、大風が屋を発き沙を揚げ、孫綝はいよいよ懼れた。
  • 戊辰の臘会に孫綝は病と称して至らなかった。吳主は強いて起こそうとして使者を十余度送った。孫綝はやむなく入ろうとし、衆はこれを止めた。孫綝は、国家から度々命があって辞せない、予め兵を整え府内に火を起こさせよ、それで速やかに還れると言い、そのまま入った。
  • ほどなく火が起こり、孫綝は退出を求めた。吳主は、外の兵はもとより多い、丞相を煩わすに足らぬと言った。孫綝が起って席を離れると、丁奉と張布が左右に目配せしてこれを縛らせた。
  • 孫綝は叩頭して交州に移されたいと願った。吳主は、あなたはなぜ滕胤と呂據を交州に移さなかったのかと言った。孫綝が改めて没して官奴となりたいと願うと、吳主は、あなたはなぜ滕胤と呂據を奴としなかったのかと言い、斬った。
  • 孫綝の首をその衆に示して、孫綝と同謀した者はみな赦すと言い、仗を放った者は五千人であった。孫闓は船に乗って北に降ろうとし、追って殺された。孫綝の三族を滅ぼし、孫峻の棺を発いてその印綬を取り、その木を斫って埋めた。
  • 吳主は諸葛恪を改葬した。朝臣に諸葛恪のために碑を立てることを乞う者があったが、吳主は詔して、盛夏に出軍して士卒を傷損し尺寸の功もなかった、能があったとは言えないと述べた。