通鑑紀事本末司馬懿、曹爽を誅す(司馬懿誅曹爽)

魏の明帝が病に倒れ、中書の劉放・孫資の工作で燕王曹宇らの輔政案が覆り、曹爽と司馬懿が後事を託されるところから始まる。曹爽は何晏・鄧颺・丁謐ら浮華の士を腹心として司馬懿を太傅に祭り上げ、太后を永寧宮に遷して朝政を専擅した。司馬懿は病と称して退き、李勝を欺いて油断させたうえ、嘉平元年の高平陵行幸の隙に太后の令を得て挙兵する。曹爽は桓範の許昌行きの計を退けて降り、兄弟と何晏ら一党は三族を滅ぼされた。景初二年(238年)から嘉平元年(249年)までの経緯。

年表(7件)

魏明帝景初二年(238年)中書の権と輔政の人選

  • もともと太祖が魏公であったとき、贊令の劉放と参軍事の孫資はともに祕書郎であった。文帝が即位すると祕書を中書と改め、劉放を監、孫資を令として機密を掌らせた。明帝の即位後はとくに寵任され、ともに侍中・光禄大夫を加えられ本県侯に封じられた。当時明帝は自ら万機を覧て度々軍旅を興し、腹心の任はすべて二人が管し、大事があるたび朝臣が会議しても常に二人にその是非を決させて択んで行っていた。
  • 中護軍蔣濟が上疏した。大臣が重すぎれば国は危うく、左右が親しすぎれば身は蔽われる、古の至戒である。かつて大臣が事を秉って外内が扇動したが、陛下が卓然と自ら万機を覧るに至って皆が祗み肅んだ。大臣が不忠なのではないが、威権が下にあれば衆心が上を慢るのは勢の常である。陛下は既に大臣について察されたのだから、左右についても忘れないでほしい。左右の忠正と遠慮は必ずしも大臣に勝らないが、便辟に合わせることは巧みかもしれぬ。今、外で言われることはすぐ「中書が」と言われる。恭慎で外と交わらぬとしても、その名だけで世俗を惑わす。まして実際に事の要を握って日々目前にあり、疲倦の間に割制するところがあれば、衆臣はそれが事を動かせると見て時に従って向かう。この端が一つあれば私に朋援を招き、臧否毀誉が起こり、功負賞罰に必ず易えられるところが生ずる。直道で上る者は塞がれ、曲げて左右に附く者は逆に達する。微を因として入り形に縁って出るので、意の狎れ信ずるところは疑わなくなる。聖智が早く聞くべきことだ。外に意を経らせれば形の際は自ずと見える。あるいは朝臣が言が合わずに左右の怨みを受けるのを畏れ、報せる者がないのを恐れる。
  • 蔣濟は続けて、しかし人君が天下の事をすべて自ら任ずるわけにはいかず必ず付する所がある、もし一臣に委ねるなら、周公旦の忠と管夷吾の公でなければ機を弄び官を敗る弊がある、今柱石の士は少ないが、行いが一州に称され智が一官に効き忠信で命を竭くす者はいるのだから、並べて駆策して聖明の朝に「専吏」の名を生じさせぬべきだと述べた。明帝は聴かなかった。
  • 明帝が病に臥せると後事を深く念い、武帝の子燕王曹宇を大將軍とし、領軍將軍夏侯獻・武衛將軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎將軍秦朗らを対で輔政させることとした。曹爽は曹真の子、曹肇は曹休の子である。明帝は若い頃から燕王曹宇と親しかったので後事を託した。
  • 劉放と孫資は長く機任を掌ってきたので、夏侯獻と曹肇は内心不平であった。殿中に鶏の棲む樹があり、二人は「これも久しい、あとどれほどもつか」と語り合った。劉放と孫資はこれを聞いて後害を懼れ、ひそかに離間を図った。
  • 燕王曹宇は性が恭良で、誠を陳べて固辞した。明帝が劉放・孫資を臥内に引き入れ、燕王は本当にそのようかと問うと、二人は、燕王は実に自ら大任に堪えぬと知っているのだと答えた。明帝が誰なら任せられるかと問うと、その時曹爽だけが明帝の側にいた。劉放・孫資は曹爽を薦め、さらに司馬懿を召して参画させるべきだと言った。明帝が曹爽に、その事に堪えるかと問うと、曹爽は汗を流して答えられなかった。劉放が足を踏んで耳に「臣は死をもって社稷に奉ずと言え」と告げた。
  • 明帝は劉放・孫資の言に従い曹爽と司馬懿を用いようとしたが、その後思い直して前の命を停めるよう敕した。劉放・孫資は再び入って明帝に説き、明帝は再び従った。劉放が手詔にすべきだと言うと、明帝は困篤でできぬと言った。劉放はそのまま牀に上がり明帝の手を執って強引に書かせ、それを持って出て大声で「詔があり燕王曹宇らの官を免ず、省中に留まるべからず」と告げた。皆涕を流して出た。
  • 甲申、曹爽を大將軍とした。明帝は曹爽の才が弱いのを嫌い、尚書孫礼を大將軍長史に拝して補佐させた。
  • 当時司馬懿は汲にいた。明帝は給使の辟邪に手詔を持たせて召した。これに先立ち燕王が明帝のために計を画き、關中の事は重いので司馬懿を軹關経由で西に長安へ還すべきとし、既に施行されていた。司馬懿はほどなく前後で相反する二つの詔を得たので、京師に変があると疑い、疾駆して入朝した。

景初三年(239年)明帝の死と曹爽の専権

  • 春正月、司馬懿が至って謁見した。明帝はその手を執り、後事を君に託す、君と曹爽が少子を輔けよ、死は忍べるものだ、自分は死を忍んで君を待ち、会えたのでもう恨みはないと述べた。斉王と秦王を召して司馬懿に示し、別に斉王芳を指して「これである、よく視て誤るな」と言い、また斉王に司馬懿の頸を抱くよう教えた。司馬懿は頓首して涕を流した。この日、斉王を皇太子に立て、明帝はほどなく死去した。

史論(孫盛論)

  • 長老に聞くところ、魏の明帝は天姿が秀出し、立つと髪が地に垂れ、口ごもって言葉少なだったが沈毅で断を好んだ。当初、諸公が遺託を受けて輔導したが、明帝は皆を方面の任に処し、政は自らから出た。大臣を優礼し、善直を寛容に容れ、顔を犯して極諫しても摧き戮すことはなかった。人君としての量はこれほど偉大であった。しかし徳を建てて風を垂れることを思わず、維城(宗室藩屏)の基を固めなかったため、大権が偏って据えられ社稷に衛りがなくなった。悲しいことである。

正始初年(239年〜)曹爽による司馬懿の疎外

  • 太子が即位、年八歳。大赦し、皇后を皇太后と尊んだ。曹爽と司馬懿に侍中を加え節鉞を仮し、中外諸軍の都督・録尚書事とした。宮室の役として興作中のものはすべて遺詔として罷めた。曹爽と司馬懿はそれぞれ兵三千を領して交替で殿内に宿した。曹爽は司馬懿の年と位が高いことから常に父のように事え、事あるごとに諮り専行しなかった。
  • 并州刺史の東平人畢軌および鄧颺・李勝・何晏・丁謐はみな才名があったが富貴に急で時に趨り勢に附いた。明帝はその浮華を憎んで皆抑えて用いなかった。曹爽はもとより彼らと親しく、輔政すると急に引き立てて腹心とした。何晏は何進の孫、丁謐は丁斐の子である。
  • 何晏らはみな共に曹爽を推戴し、重権は人に委ねるべきでないとした。丁謐が曹爽のために策を画き、曹爽から天子に申して詔を発させ、司馬懿を太傅に転じ、外は名号で尊びながら内では尚書の奏事を先に自分の手に通させてその軽重を制せるようにさせた。曹爽はこれに従った。
  • 二月丁丑、司馬懿を太傅とした。曹爽の弟の羲を中領軍、訓を武衛將軍、彦を散騎常侍・侍講とし、その他の弟もみな列侯として侍従し禁闥に出入りした。貴寵はこれ以上盛んなものはなかった。曹爽は太傅に事える礼貌は保っていたが、興造することは再び太傅を経ることは稀になった。
  • 曹爽は吏部尚書盧毓を僕射に徙して何晏を代わりに据え、鄧颺・丁謐を尚書、畢軌を司隷校尉とした。何晏らは勢に依って事を行い、附会する者は昇進し違忤する者は罷退され、内外は望風して誰も旨に忤らおうとしなかった。
  • 黄門侍郎傅嘏が曹爽の弟の羲に、何平叔(何晏)は外は静かだが内は躁がしく、銛巧で利を好み本に務めることを念わぬ、必ず先にあなたの兄弟を惑わし、仁人が遠ざかって朝政が廃れることを恐れると語った。何晏らは傅嘏と不仲になり、些細な事に因って傅嘏を免官した。また盧毓を廷尉に出し、畢軌が再び枉げて奏して盧毓を免官させた。衆論が多くこれを訟えたので改めて光禄勲とされた。孫礼は亮直で撓まなかったので曹爽は都合が悪く、揚州刺史に出した。

邵陵厲公正始四年(243年)曹冏の上書

  • 冬十一月、宗室の曹冏が上書した。古の王者は必ず同姓を建てて親を親しむことを明らかにし、必ず異姓を樹てて賢を賢とすることを明らかにした。親親の道を専用すればやがて微弱となり、賢賢の道に偏任すればその弊は劫奪である。先聖はそれを知って、親疎を広く求めて並べ用い、社稷を保って紀を歴して長久だった。今、魏の尊尊の法は明らかだが親親の道が備わらず、任じても重くせず、あるいは釈いて任じない。これを思うと寝ても席に安んじられぬので、聞くところを撰り合わせその成敗を論ずる。
  • 曹冏の論旨は次のとおり。昔夏商周は世を歴すること数十だったのに秦は二世で亡んだ。三代の君は天下を民と共にしたので天下がその憂いを同じくし、秦王は独り民を制したので傾危して救う者がなかった。秦は周の弊を見て小さく弱いから奪われたと考え、五等の爵を廃して郡県の官を立てた。内に自らを毗輔する宗子なく、外に藩衛となる諸侯なく、股肱を刈って独り胸腹に任せるようなものだ。見る者は寒心したが始皇は晏然として子孫帝王万世の業と思った。悖ったことである。だから漢祖は三尺の剣を奮い烏のように集まった衆を駆って五年で帝業を成した。深い根を伐つのは功をなしがたく、枯朽を摧くのは力をなしやすい。理勢の当然である。
  • 続けて、漢は秦の失に鑑みて子弟を封殖したので、諸呂が権を擅にして劉氏を危うくしようとしても天下が傾動しなかったのは、諸侯が強大で磐石のように膠固だったからだ、と述べた。しかし高祖の封建は地が古制を過ぎたので、賈誼は天下の治安を欲するなら諸侯を多く建てて力を少なくするに勝るものはないと考えた。文帝は従わず、孝景に至って鼂錯の計を用いて諸侯を削黜し七国の患を招いた。兆しは高帝に発し、釁は文帝・景帝で鍾まった。地が制を過ぎ、急にして漸を経なかったからだ。末が大きければ必ず折れ、尾が大きければ掉いがたい。尾が体に同じでもなお従わぬことがあるのに、まして体でない尾を掉えるものか。
  • さらに、武帝が主父偃の策に従って推恩の令を下し、それ以後は陵夷して子孫は微弱となり、租税を衣食するだけで政事に与らなくなった、哀帝・平帝に至って王氏が権を秉り、周公の事に仮託して田常の乱をなした、宗室の王侯のなかにはそのために符命を作り王莽の恩徳を頌える者もあった、哀しいことだと述べた。これから言えば、宗子が恵帝・文帝の間には忠孝で哀帝・平帝の際に叛逆したのではなく、ただ権が軽く勢が弱くて定めるところがなかっただけだ。光武皇帝が不世の姿を挺して既に成った王莽を擒にし、既に絶えた漢の嗣を紹いだのは、まさに宗子の力ではないか。それでいて秦の失策に鑑みず周の旧制を襲い、桓帝・霊帝に至って閹宦が事を用い、君は上に孤立し臣は下に権を弄び、天下は鼎沸して姦宄が並び争い、宗廟は灰燼となり宮室は榛藪となった。太祖皇帝が龍飛鳳翔して凶逆を掃除し、大魏の興ってから今二十四年である。
  • 曹冏は続けて現状を批判した。五代の存亡を観ながらその長策を用いず、前車の傾覆を覩ながら轍迹を改めない。子弟は空虚の地に王とされ、君は使えぬ民を有し、宗室は閭閻に竄れて邦国の政を聞かず、権は匹夫に均しく勢は凡庶に斉しい。内に深根不抜の固めなく、外に磐石宗盟の助けがない。社稷を安んじ万世の業とする道ではない。しかも今の州牧・郡守は古の方伯・諸侯であり、みな千里の土を跨いで軍武の任を兼ね、一国に数人いたり兄弟が並んで拠ったりしている。それなのに宗室子弟は一人もその間に厠わって相維制することがない。幹を強くし枝を弱くし万一の虞に備える道ではない。今の賢の用い方は、名都の主に超されたり偏師の帥となったりするが、宗室で文ある者は必ず小県の宰に限られ、武ある者は必ず百人の上に留まる。賢能を勧進し宗室を褒異する礼ではない。「百足の虫は死に至るまで僵れず」というのは扶ける者が多いからだ。この言は小さいが大に喩えられる。だから聖王は安にあって危を忘れず存にあって亡を忘れず、天下に変があっても傾危の患がないのだ、と。
  • 曹冏はこの論で曹爽を感悟させることを期したが、曹爽は用いられなかった。

正始八年(247年)司馬懿の引退

  • 二月、日食があった。当時尚書何晏らは曹爽に朋附して法度を変改するのを好んだ。太尉蔣濟が上疏し、昔大舜が治を佐けたときは比周を戒めとし、周公が輔政したときはその朋に慎んだ、国の法度を為すのは命世の大才こそその綱維を張って後に垂れられるもので、中下の吏が改易すべきものではない、結局治に益なくただ民を傷つけるだけだ、文武の臣にそれぞれの職を守らせ清平をもって率いれば、和気と祥瑞は感じて致せると述べた。
  • 大將軍曹爽は何晏・鄧颺・丁謐の謀を用いて太后を永寧宮に遷し、朝政を専擅し、親党を多く樹て、制度をしばしば改めた。太傅司馬懿は禁じられず曹爽と隙を生じた。
  • 五月、司馬懿は病と称して政事に与らなくなった。

正始九年(248年)曹爽の驕奢と司馬懿の偽病

  • 大將軍曹爽は驕奢で度がなく、飲食衣服は乗輿に擬え、尚方の珍玩でその家を満たした。また先帝の才人を私に取って伎樂とし、窟室を作って綺疏を四周に施し、しばしば何晏ら党人とその中で酒に耽った。弟の羲は深く憂え、度々涕泣して諫止したが曹爽は聴かなかった。
  • 曹爽兄弟がしばしば揃って遊びに出るので、司農の沛国人桓範が、万機を総べ禁兵を典るのだから並んで出るべきでない、城門を閉ざされたら誰が中に入れるのかと言った。曹爽は「誰が敢えてそうするか」と答えた。
  • 清河と平原が境界を争って八年決着しなかった。冀州刺史孫礼は、天府に蔵する烈祖が平原を封じたときの図で決すべきと請うた。曹爽は清河の訴えを信じてその図は用いられぬと言った。孫礼は上疏して自ら弁じ、辞はかなり剛直であった。曹爽は激怒して孫礼を怨望と弾劾し、五年の刑に処した。久しくして再び并州刺史となった。
  • 孫礼が太傅司馬懿に会ったとき、忿色を帯びて何も言わなかった。司馬懿が、并州を得たのが少ないと思うのか、境界の分を理めることに失したのを恨むのかと問うと、孫礼は、明公の言はなんと的を外れているのか、自分は不徳だが官位や往事を意にするものか、もともと明公は伊尹・呂尚に蹤を斉しくして魏室を匡輔し、上は明帝の託に報い下は万世の勲を建てられると思っていた、今社稷はまさに危うく天下は兇々としている、これが悦ばぬ理由だと答え、涕泣が横に流れた。司馬懿は「まあ止めよ、忍べぬことを忍べ」と言った。
  • 冬、河南尹李勝が荆州刺史に出るにあたり太傅司馬懿に辞去の挨拶に来た。司馬懿は二人の婢に衣を持たせて侍らせ、衣を落とし、口を指して渇いたと言った。婢が粥を進めると、司馬懿は杯を持たず飲み、粥はみな流れ出て胸を濡らした。
  • 李勝が、衆情は明公の旧風(中風)が発動したと言っているが、まさか尊体がこれほどとは思わなかったと言うと、司馬懿はやっと声を出して、年老いて病に臥し死は旦夕にある、君は并州に屈するのだ、并州は辺に近いのでよく備えよ、もう会えないだろう、子の師と昭の兄弟を託すと言った。李勝が、還るのは本州(荆州)で并州ではないと言うと、司馬懿は辞を錯乱させて「君はまさに并州に到るのだ」と言った。李勝が重ねて荆州だと言うと、司馬懿は「年老いて意が荒れ君の言が解せぬ、今本州に還るのだな、盛徳壮烈でよく功勲を建てられよ」と答えた。
  • 李勝は退いて曹爽に、司馬公は屍が余気に居るようで形と神は既に離れている、憂うるに足らぬと告げた。後日また曹爽らに向かって涕を垂れ、太傅の病は回復できぬ、人を愴然とさせると言った。それゆえ曹爽らは再び備えを設けなかった。
  • 何晏は平原の管輅が術数に明るいと聞いて会見を請うた。十二月丙戌、管輅が何晏を訪ねた。何晏は管輅と易を論じた。同席していた鄧颺が管輅に、あなたは易を善くすると自称しながら語は易の辞義に及ばぬのはなぜかと言うと、管輅は「易を善くする者は易を言わない」と答えた。何晏は笑いを含んで「要を言って煩わしからずというべきだ」と賛じた。
  • 何晏は管輅に、試みに一卦を立てて位が三公に至るかを知りたい、また連日夢に青蠅が数十匹鼻の上に集まって追っても去らぬのはなぜかと問うた。
  • 管輅は答えた。昔元凱が舜を輔け周公が周を佐けたのは、みな和恵謙恭によって多福を享けたのであり、これは卜筮で明かせるものではない。今君侯は位が尊く勢が重いが、徳を懐く者は少なく威を畏れる者が多い。小心に福を求める道ではない。また鼻は天中の山であり、高くて危うくないから長く貴を守れる。今青蠅が臭悪で集まっている。位の峻しい者は顚れ、軽豪の者は亡ぶ。深く思わねばならない。君侯は多を裒めて寡に益し、礼でなければ履まぬようにされたい。そうすれば三公に至れて青蠅も追い払える、と。
  • 鄧颺が「これは老生の常譚だ」と言うと、管輅は「老生とは生きぬことを見、常譚とは譚らぬことを見るのだ」と答えた。管輅が邑舎に還って舅にすべて語ると、舅は言が切至すぎたと責めた。管輅は「死人と語って何を畏れよう」と言い、舅は激怒して管輅を狂とした。
  • 太傅司馬懿はひそかに子の中護軍師・散騎常侍昭と曹爽誅殺を謀った。

嘉平元年(249年)高平陵の変

  • 春正月甲午、帝が高平陵に謁した。大將軍曹爽と弟の中領軍羲・武衛將軍訓・散騎常侍彦がみな従った。
  • 太傅司馬懿は皇太后の令をもって諸城門を閉ざし、兵を勒して武庫に拠り、兵を授けて洛水の浮橋に出屯した。司徒髙柔を召して節を仮し大將軍事を行わせ曹爽の営に拠らせ、太僕王観に中領軍事を行わせ羲の営に拠らせた。
  • そのうえで曹爽の罪悪を帝に奏した。その趣旨は次のとおり。昔遼東から還ったとき、先帝は陛下と秦王および自分を御床に上げ、自分の臂を把って深く後事を念とされた。自分は、太祖・髙祖もまた自分に後事を託されたと申した。これは陛下の見られたことで憂苦するところはなく、万一意のごとくないことがあれば死をもって明詔を奉ずるつもりであった。今、大將軍曹爽は顧命に背き棄て国典を敗乱している。内では僭擬し外では専権し、諸営を破壊して禁兵をすべて据え、群官の要職はみな親しい者を置き、殿中の宿衛を私人に易え、根拠が槃互して縦恣は日々甚だしい。また黄門張當を都監として至尊を伺察させ、二宮を離間して骨肉を傷害している。天下は洶々として人は危懼を懐き、陛下は寄坐同然でどうして久安を得られようか。先帝が陛下と自分を御床に上げた本意ではない。自分は朽邁とはいえ往時の言を忘れられない。太尉臣濟らはみな曹爽に無君の心があり兄弟が兵と宿衛を典るべきでないとしている。永寧宮の皇太后に奏したところ、令で奏のとおり施行せよと敕された。よって主管者と黄門令に敕し、曹爽・羲・訓の吏兵を罷めて侯として第に就かせ、逗留して車駕を稽らせぬようにし、敢えて稽留する者があれば軍法で処す。自分はしいて病を押して兵を率い洛水の浮橋に屯して非常を伺察する、と。
  • 曹爽は司馬懿の奏事を得たが取り次げず、迫窘して為すところを知らず、車駕を伊水の南に宿らせ、木を伐って鹿角を作り、屯田兵数千人を発して衛りとした。
  • 司馬懿は侍中の髙陽人許允と尚書陳泰を遣わし、曹爽に早く自ら罪に帰すべきと説かせ、また曹爽の信ずる殿中校尉尹大目に、免官だけで済むと洛水に誓って告げさせた。陳泰は陳羣の子である。
  • 曹爽は桓範を郷里の老宿として九卿のうち特に礼遇していたが、それほど親しくはなかった。司馬懿が起兵し太后の令で桓範を召して中領軍を行わせようとした。桓範は命に応じようとしたが、その子が止めて、車駕は外にあるので南に出るべきだと言った。
  • 桓範は出て平昌城門に至ったが城門は既に閉じられていた。門候の司蕃はもと桓範の挙げた吏であった。桓範は手中の版を示して偽って「詔があって自分を召している、早く門を開けよ」と言った。司蕃が詔書を見ようとすると、桓範は叱って「お前は自分の故吏ではないか、どうして敢えてそうするのか」と言い、司蕃は開けた。桓範は城を出て振り返り司蕃に「太傅は逆を図っている、お前も自分と共に去れ」と言った。司蕃は徒歩で及ばず、道の側に避けた。
  • 司馬懿が蔣濟に「智囊が行ってしまった」と言うと、蔣濟は「桓範は智だが、駑馬は棧の豆を恋しがる、曹爽は必ず用いられない」と答えた。
  • 桓範は着いて曹爽兄弟に、天子を許昌に詣らせ四方の兵を発して自らを輔けるよう勧めた。曹爽は疑って決しなかった。桓範が羲に、この事は明白だ、書を読んで何になるのか、今日あなたたちの門戸は貧賤を求めても得られようか、匹夫でも一人を質にとれば生きたいと望むのに、あなたは天子と相随ってその令を天下に下すのだ、誰が敢えて応じないかと言ったが、二人は何も言わなかった。
  • 桓範はさらに羲に、あなたの別営は近く闕の南にあり、洛陽典農の治所は城外にあって呼び召せば意のままだ、今許昌に詣るのは中宿を過ぎない、許昌の別庫は仮すに足る、憂うべきは穀食だが大司農の印章は自分の身にあると言った。羲兄弟は黙然として従わなかった。
  • 甲夜から五鼓まで、曹爽はついに刀を地に投げ「自分とて富家翁になるのは失うまい」と言った。桓範は哭して「曹子丹(曹真)は佳人だったのに、お前たち兄弟のような豚犢を生んだのか、まさか今日お前たちのために族が滅ぼされるとは思わなかった」と言った。
  • 曹爽は司馬懿の奏事を通し、帝に詔を下して自らを免官させ、帝を宮に還した。曹爽兄弟が家に帰ると、司馬懿は洛陽の吏卒を発して囲み守らせ、四隅に高楼を作って楼上から曹爽兄弟の挙動を観察させた。曹爽が弾を挟んで後園に行くと、楼上の者は「もと大將軍が東南に行く」と唱えた。曹爽は愁悶して計るところを知らなかった。
  • 戊戌、有司が、黄門張當が私に選んだ才人を曹爽に与えており姦があると疑われると奏した。張當を捕えて廷尉に付し考実すると、曹爽が尚書何晏・鄧颺・丁謐、司隷校尉畢軌、荆州刺史李勝らと陰謀して反逆し三月中に発すつもりだったと供述した。そこで曹爽・羲・訓・何晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝ならびに桓範を捕えて獄に下し、大逆不道として弾劾し、張當とともに三族を滅ぼした。
  • 曹爽の出行のとき、司馬の魯芝は府に留まっていた。変があったと聞いて営騎を率い津門を斫って出て曹爽のもとに赴いた。曹爽が印綬を解いて出ようとすると、主簿の楊綜が止めて、公は主を挟み権を握っているのに、これを捨てて東市に行くのかと言った。有司が魯芝と楊綜を捕えて罪を治めるよう奏したが、太傅司馬懿は「彼らはそれぞれの主のためにしたのだ」として宥した。ほどなく魯芝を御史中丞、楊綜を尚書郎とした。
  • 魯芝が出ようとしたとき参軍の辛敞を呼んで共に行こうとした。辛敞は辛毗の子で、その姉の憲英は太常羊耽の妻であった。辛敞は憲英と謀り、天子は外にあり太傅は城門を閉ざした、人は国家に不利になると言うが、事はそうなるだろうかと問うた。
  • 憲英は、自分が推し量るに太傅のこの挙は曹爽を誅すだけのことだと答えた。辛敞が、では事は成るのかと問うと、憲英は、おそらく成るだろう、曹爽の才は太傅の相手ではないと答えた。辛敞が、では自分は出なくてもよいかと問うと、憲英は、どうして出ないでいられよう、職を守るのは人の大義だ、およそ人が難にあれば恤む者もあるのに、人に任じられていながらその事を棄てるのは不祥これより大なるものはない、人に任じられ人のために死ぬのは親昵の職だ、衆に従うがよいと答えた。辛敞はそこで出た。事が定まった後、辛敞は「自分が姉に謀らなければ義を失うところだった」と歎じた。
  • これより先、曹爽は王沈と泰山の羊祜を召していた。王沈が羊祜に命に応ずるよう勧めたが、羊祜は、質を委ねて人に事えるのは容易なことではないと言った。王沈は行った。曹爽が敗れると王沈は故吏として免官され、羊祜に「自分はあなたの前の言葉を忘れない」と言った。羊祜は「これは初めの慮の及ぶところではなかった」と答えた。
  • 曹爽の従弟の文叔の妻の夏侯令女は早く寡となり子がなかった。その父の文寧が嫁がせようとすると、令女は刀で両耳を截って自ら誓い、常に曹爽のもとに寄っていた。曹爽が誅されると、その家は上書して婚を絶ち、強いて迎え帰らせ、再び嫁がせようとした。令女はひそかに寝室に入り刀を引いて自ら鼻を断った。
  • 家人は驚き惋しみ、人が世に生きるのは軽塵が弱草に棲むようなもの、なぜこれほど自ら苦しむのか、夫の家は既に夷滅し尽くした、これを守って誰のためにするのかと言った。令女は、仁者は盛衰で節を改めず、義者は存亡で心を易えぬと聞いている、曹氏が前に盛んだった時ですら終を保とうと思っていた、まして今衰亡してどうして棄てるに忍びよう、それは禽獸の行いだ、自分がそんなことをするものかと答えた。司馬懿はこれを聞いて賢とし、子を乞い養って曹氏の後嗣とすることを許した。
  • 何晏らが権勢にあった頃、自ら一時の才傑で人の及ぶところでないと思っていた。何晏はかつて名士を品目して、「深いからこそ天下の志に通じられる」のは夏侯泰初、「幾(機微)だからこそ天下の務めを成せる」のは司馬子元(司馬師)、「神であって疾からずして速く行かずして至る」については、その語を聞いたがその人を見たことがないと言った。神を自らに擬えようとしたものである。
  • 選部郎の劉陶は劉曄の子で、若くして口辯があり、鄧颺の徒は彼を伊尹・呂尚に比して称えた。劉陶はかつて傳玄に、仲尼は聖ではない、なぜ分かるかというと、智者にとって群愚は掌中で丸を弄ぶようなもののはずだが、天下を得られなかったのだからどうして聖と言えるのかと語った。傳玄は反論せず、ただ「天下の変は無常だ、今あなたが窮するのを見よう」と言った。曹爽が敗れると劉陶は里舎に退居し、その言が過ぎていたことを謝した。
  • 管輅の舅が管輅に、お前は前にどうして何晏・鄧颺の敗を知ったのかと問うた。管輅は、鄧颺の歩みは筋が骨を束ねず脈が肉を制さず、立てば傾き倚りかかり手足がないようだ、これを「鬼躁」という。何晏の視候は魂が宅を守らず血が色を華やかにせず、精爽は煙のように浮き、容は槁木のようだ、これを「鬼幽」という。いずれも遐福の象ではないと答えた。
  • 何晏は性として自ら喜び、白粉を手から離さず、歩けば影を顧みた。とくに老荘の書を好み、夏侯玄・荀粲および山陽の王弼の徒と競って清談し、虚無を祖尚し、六経を聖人の糟粕とした。これによって天下の士大夫が争って慕い倣い、ついに風流となって再び制せられなくなった。