通鑑紀事本末明帝の奢侈(明帝奢靡)

魏の明帝が許昌宮・洛陽宮の造営に力役を重ね、後宮を増やして女尚書を置いたのに対し、陳羣・髙柔・辛毗・楊阜・王肅・衛覬・董尋・張茂ら諸臣が相次いで諫めた顛末。崇華殿の火災や彗星の変を髙堂隆が天の戒めと説き、銅人・土山の造作にも諫言が絶えなかったが、明帝はおおむね聴かなかった三年間。

年表(4件)

魏明帝青龍三年(235年)

  • 明帝は土木工事を好み、許昌宮を作ったうえ洛陽宮も修治し、昭陽殿・太極殿を起こし十余丈の総章観を築いた。力役は止まず、農桑は業を失った。
  • 司空陳羣が上疏した。昔禹は唐虞の盛を承けながら宮室を卑しくし衣服を粗末にした。まして今は喪乱の後で人民は極めて少なく、漢の文帝・景帝の時に比べても一大郡ほどにすぎない。加えて辺境に事があって將士は労苦している。水旱の患があれば国家の深憂となる。昔劉備が成都から白水まで多くの伝舍を作り人役を費やしたとき、太祖はそれが民を疲れさせると見抜いた。今中国が力を労するのはまさに吳蜀の願うところで、これが安危の機である、と。
  • 明帝は、王業には宮室も並び立てるべきだ、賊を滅ぼした後は守禦を罷めるだけで、どうして再び役を興そうか、これこそ君の職であり蕭何の大略だと答えた。
  • 陳羣は、昔漢祖は項羽と天下を争っただけで、項羽が滅んだとき宮室は焼かれていた、だから蕭何が武庫・太倉を建てたのはみな急を要したためだが、高祖はなおその壮麗を非とした、今二虜は未平で古と同じにすべきでないと述べた。さらに、人の欲するところには必ず言い分がある、まして天王には誰も敢えて違わない、先に武庫を壊そうとしたときは壊さざるをえないと言い、後に置こうとしたときは置かざるをえないと言った、必ず作るというなら臣下の言葉で屈するものでなく、少し神を留めて卓然と意を回されるならそれも臣下の及ぶところではない、と述べた。漢の明帝が徳陽殿を起こそうとしたとき鍾離意が諫めて即座に用いられたが、後に再び作り、殿が成ると群臣に「鍾離尚書がいたらこの殿は成らなかった」と語った。王者が一臣を憚るのではなく百姓のためである。今自分は少しも聖聴を凝らせず、鍾離意に遠く及ばない、と。明帝はそのため少し減省した。
  • 明帝は内寵に耽り、婦官の秩石は百官の数に擬え、貴人以下掖庭の掃除係まで数千人に及んだ。書を解し信頼できる女子六人を選んで女尚書とし、外からの奏事を掌り決裁の可否を書かせた。
  • 廷尉髙柔が上疏した。昔漢の文帝は十家の資を惜しんで小臺の娯しみを営まず、霍去病は匈奴の害を慮って邸宅を治める暇もなかった。まして今損ずるのは百金の費だけでなく、憂うるのは北狄の患だけではない。営立中のものを粗く成して朝宴の儀に充て、作事を罷めて農に就かせ、二方が平定してから徐々に興せばよい。周礼では天子の后妃以下百二十人で嬪嬙の儀は既に盛んである。聞くところ後庭の数はそれを超えるという。聖嗣が昌えないのはおそらくこれによる。淑媛を精選して内官の数に備え、残りはすべて家に還し、精を育て神を養い専静を宝とすべきだ。そうすれば螽斯の徴も期しうる、と。明帝は、昌言を承った、他にも聞かせよと答えた。
  • 明帝はまた北芒を平らげてその上に台観を作り孟津を望み見ようとした。衛尉辛毗が、天地の性は高きを高く低きを低くするもので、今それを反転させるのは理に反する、加えて人功を損費し民は役に堪えない、また九河が盈溢して洪水が害となったとき丘陵がみな平らでは何で防ぐのかと諫め、明帝は中止した。
  • 少府楊阜が上疏した。陛下は武皇帝の開拓した大業を奉じ、文皇帝の克終の元緒を守るのだから、往古の聖賢の善治に斉しからんと思い、季世の放蕩な悪政を総観すべきだ。もし桓帝・霊帝が高祖の法度と文帝・景帝の恭儉を廃さなかったなら、太祖に神武があっても施すところはなく、陛下がこの尊位にあることもなかった。今吳蜀は未定で軍旅は外にある、繕治はすべて約節に従われたい、と。明帝は優詔で答えた。
  • 楊阜は重ねて上疏した。堯は茅茨を尚んで万国はその居に安んじ、禹は宮室を卑しくして天下はその業を楽しんだ。殷周に至ってようやく堂の高さ三尺、九筵の広さだった。桀は琁室・象廊を作り紂は傾宮・鹿臺を作って社稷を喪い、楚の霊王は章華を築いて身に禍を受け、秦の始皇は阿房を作って二世で滅んだ。万民の力を度らず耳目の欲に従って亡びなかった者はない。陛下は堯舜禹湯文武を法とし、夏桀・殷紂・楚霊・秦皇を深く戒めとすべきなのに、自ら暇と逸を求め宮台の飾りばかりであれば必ず顚覆危亡の禍がある。君は元首、臣は股肱、存亡は一体で得失を同じくする。自分は駑怯だが争臣の義を忘れられない。言が切至でなければ陛下を感悟させられぬ。陛下が臣の言を察されなければ、皇祖烈考の祚が地に墜ちるのを恐れる。自分の死が万一の補いとなるなら死の日も生の年と同じだ。棺を叩き沐浴して重誅を伏して待つ、と。明帝はその忠言に感じ、自筆の詔で答えた。
  • 明帝がかつて帽をかぶり縹綾の半袖を着ていたとき、楊阜が、これは礼の何の法服かと問うた。明帝は黙って答えず、以後は法服でなければ楊阜に会わなかった。
  • 楊阜はまた上疏して宮人のうち幸を受けていない者を省こうとし、御府の吏に後宮の人数を問うた。吏が旧令を守って、禁密で宣露できぬと答えると、楊阜は怒って吏を杖百打ち、国家は九卿と密にせず小吏と密にするのかと詰った。明帝はいよいよ楊阜を厳しく憚った。
  • 散騎常侍蔣濟が上疏し、昔句践は胎を養って用に待ち、昭王は病を恤んで仇を雪いだ、だから弱い燕で強い斉を服させ羸れた越で勁い吳を滅ぼせた、今二敵は強盛で我が代で除かねば百世の責となる、陛下の聖明神武の略で緩やかな事を捨て専心して賊を討てば難くないと述べた。
  • 中書侍郎の東萊人王基が上疏した。古人は民を水に喩え、水は舟を載せもするが覆しもするという。顔淵は「東野子の御は馬力が尽きているのに進むことを求めて止まぬ、やがて敗れるだろう」と言った。今、事役は労苦で男女は離れ空しくしている。陛下は東野の弊を深く察し舟と水の喩えに意を留め、奔る駟を尽きる前に息ませ、力役を困窮する前に節されたい。昔漢が天下を得て孝文の時、同姓の諸侯しかいなかったのに賈誼はこれを憂え、火を積薪の下に置いてその上に寝ながら安全だと言うようなものだと述べた。今、冦賊は殄びず猛將は兵を擁している。これを検すれば敵に応じられず、久しければ後に遺しがたい。盛明の世に患を除くことに務めず、子孫が競わなければ社稷の憂いとなる。賈誼が再び現れれば往時よりさらに切に説くだろう、と。明帝はいずれも聴かなかった。
  • 殿中監が役を督して勝手に蘭臺令史を捕えた。右僕射衛臻が案件として奏すると、詔で、殿舍が成らぬのは自分の留心するところだ、なぜ追及するのかと問われた。衛臻は、古制に侵官の法があるのは事に勤めるのを憎むからでなく、益するところが小さく墮すところが大きいからだ、校事の類はみなこの通りで、これを縦せば群司が職を越えて陵夷に至るのを懼れると答えた。
  • 尚書の涿郡人孫礼が役を罷めるよう固く請うと、明帝は讜言を欽納するとして民作を促し帰らせよと詔した。監作者が一月留めれば成るところがあると重ねて奏したが、孫礼は直ちに作業場に行き、重ねて奏することなく詔と称して民を帰らせた。明帝はその意を奇として責めなかった。
  • 明帝は群臣の直諫の言をすべて用いることはできなかったが、いずれも寛容に受け入れた。

青龍三年 崇華殿の火災

  • 秋七月、洛陽の崇華殿が火災に遭った。明帝が侍中領太史令の泰山人髙堂隆に、これは何の咎か、礼に祈禳の義はあるかと問うた。
  • 髙堂隆は、易伝に「上が倹ならず下が節せざれば孽火その室を燒く」とあり、また「君その臺を高くすれば天火災を為す」とある、これは人君が宮室の飾りに務め百姓が空竭したのを知らぬために、天が旱と火で応じ、火が高殿から起こったのだと答えた。
  • 明帝が、漢の武帝のとき柏梁が焼けて大いに宮殿を起こしてこれを厭したと聞くがどういう義かと詔問すると、髙堂隆は、夷越の巫のすることで聖賢の明訓ではないと答えた。五行志には柏梁の火災の後に江充の巫蠱の事があったとあり、志の言のとおり越巫の建章は何も厭さなかった。今は民役を罷散し宮室の制は約節に従い、災の場所を清掃してそこに建造しないようにすれば、萐莆・嘉禾が必ずこの地に生ずる。民の力を疲れさせ財を竭くすのは符瑞を致し遠人を懐かせる道ではない、と。
  • 秋八月、詔で崇華殿を再建し九龍と改名した。榖水を引いて九龍殿前を通し玉井・綺欄を作り、蟾蜍が受け神龍が吐き出す仕掛けとした。博士の扶風人馬鈞に司南車と水で回る百戯を作らせた。
  • 陵霄闕を建て始めたとき、その上に鵲が巣を作った。明帝が髙堂隆に問うと、髙堂隆は、詩に「惟鵲有巣、惟鳩居之」とある、今宮室を興して陵霄闕を起こしたのに鵲が巣を作ったのは、この宮が成っても自身は住めない象である、天意は宮室が未完のうちに他姓が制御するようになると言っているようなもので、上天の戒めだと答えた。天道に親はなくただ善人に与するもので、太戊・武丁は災を見て恐れ竦んだので天は福を降した。今、百役を休罷し徳政を崇めれば三王に四たり五帝に六たることもできる、商の宗のように禍を福に転ずるだけではない、と述べ、明帝は容を動かした。
  • 明帝の性は厳急で、宮室修築で期限に遅れた者があると自ら召し問い、言葉が口にあるうちに首と身が分かれていた。
  • 散騎常侍領祕書監王肅が上疏した。今宮室は未完で作業者は三四万人いる。九龍は聖体を安んずるに足り、その内は六宮を列するに足る。ただ泰極以前は工事量が大きい。常食を給される士のうち急要でない者を選び、丁壮を択んで一万人だけ留め、一年で交替させれば、休息の日があると知って皆悦んで事に就き、労しても怨まない。一年に三百六十万夫で少なくもない。一年で成るものを三年かけて許し、残りは分けて帰し農に就かせれば無窮の計となる。
  • 王肅は続けて、民に対する信は国家の大宝だと述べた。先に車駕が洛陽に幸するとき民を発して営を作らせ、有司は営が成れば帰すと命じた。成った後もその功力を利として時に帰さなかった。有司はただ目前の利を営むだけで経国の体を顧みない。今後もし再び民を使うなら令を明らかにし、必ず期のとおりに順次事を行い、むしろ改めて発するとしても信を失わせぬべきだ、と。
  • さらに、陛下が臨時に刑を行うのはみな罪ある吏で死ぬべき者だが、衆庶はそれを知らず倉卒と考える、吏に下してその罪を暴かれたい、死は同じでも宮掖を汚し遠近に疑われることがないようにと述べた。人命は至重で、生じがたく殺しやすく、気が絶えれば続かないから聖賢は重んじる。昔漢の文帝が蹕を犯した者を殺そうとしたとき廷尉張釋之は「その時に上が誅せしめたならそれで済んだ、今廷尉に下されたのだから、廷尉は天下の平であって傾けられない」と述べた。これは義を大いに失っており忠臣が陳べるべきものではない。廷尉は天子の吏でありながら平を失ってはならぬのに、天子自身は惑い誤ってよいのか。己のために重んじ君のために軽んずるもので、不忠の甚だしいものだ、察せられたい、と。

青龍四年(236年)彗星と髙堂隆の諫言

  • 冬十月甲申、彗星が大辰に現れ、また東方にも現れた。
  • 髙堂隆が上疏した。およそ帝王が都を徙し邑を立てるときは、まず天地社稷の位を定めて敬恭してこれを奉ずる。宮室を営むなら宗廟を先に、廏庫を次に、居室を後にする。今、圜丘・方澤・南北郊・明堂・社稷の神位は未定で、宗廟の制もまだ礼に適わぬのに、居室を崇飾し士民は業を失っている。外の人はみな、宮人の費用と軍国の費用がほぼ同じで民は命に堪えず、皆に怨怒があると言っている。書に「天の聡明は我が民の聡明より、天の明畏は我が民の明威より」とある。天の賞罰が民の言に従い民心に順うことを言う。采椽・卑宮こそ唐虞と大禹が皇風を垂れた理由であり、玉臺・瓊室こそ夏の癸と商の辛が昊天を犯した理由である。今、宮室が過盛で天の彗が章灼するのは慈父の懇切な訓であり、孝子として祗み聳える礼を崇めるべきで、忽せにして天怒を重ねるべきではない、と。
  • 髙堂隆が度々切に諫めるので明帝はかなり不快であった。侍中盧毓が進み出て、君が明であれば臣は直だと聞く、古の聖王はただ自らの過を聞けぬことを恐れた、これこそ臣らが髙堂隆に及ばぬところだと述べ、明帝はようやく解けた。盧毓は盧植の子である。

景初元年(237年)銅人・土山と諸臣の諫言

  • 長安の鍾簴・橐佗・銅人・承露盤を洛陽に移した。盤が折れた音は数十里に聞こえた。銅人は重くて運べず霸城に留めた。大いに銅を集めて銅人二体を鋳、翁仲と号して司馬門外に列坐させた。また黄龍・鳳凰を各一つ鋳、龍は高さ四丈、鳳は三丈余で、内殿の前に置いた。
  • 芳林園の西北隅に土山を起こし、公卿群僚にみな土を負わせ、松竹雑木や善草をその上に植え、山禽雑獸を捕えてその中に入れた。
  • 司徒軍議掾董尋が上疏して諫めた。古の直士は国に言を尽くし死亡を避けなかったと聞く。だから周昌は高祖を桀紂に比べ、劉輔は趙后を人婢に喩えた。天が忠直を生むのは、白刃や沸湯に向かっても顧みないのは、まことに時の主が天下を愛惜するためである。建安以来、野戦で死亡し門ごと絶えた家もあり、生き残っているのは遺孤と老弱だ。今宮室が狭小で広大にすべきだとしても、時に随って農務を妨げぬべきなのに、まして無益の物を作るとは。黄龍・鳳凰・九龍・承露盤はみな聖明の興すべきものでなく、その工費は殿舍の三倍だ。陛下は群臣を尊び冠冕で顕し文繡を着せ華輿に載せて小人と異なる扱いをしておきながら、方を穿ち土を挙げさせ、顔は垢で黒く体は泥にまみれ足は塗にまみれ衣冠は乱れる。国の光を毀って無益を崇めるのは大いに謂われない。孔子は「君は臣を使うに礼をもってし、臣は君に事えるに忠をもってす」と言った。忠も礼もなくて国は何で立つのか。自分は言えば必ず死ぬと知るが、牛の一毛に等しい身で、生きても益なく死んでも何の損もない。筆を執って涕を流し心は世と辞す。自分には八子があり、死後は陛下に累を及ぼす、と。奏そうとして沐浴して命を待った。明帝は、董尋は死を畏れぬかと言った。主管者が董尋の収監を奏したが、詔で問わぬことにされた。
  • 髙堂隆が上疏し、今の小人は秦漢の奢靡を説くのを好んで聖心を蕩かし、亡国の不度の器を求め取り、労役し費損して徳政を傷つけている、礼楽の和を興し神明の休を保つ道ではないと述べたが、明帝は聴かなかった。
  • 髙堂隆は再び上書した。昔洪水が天に滔ること二十二年、堯舜の君臣は南面していただけだ。今その時のような急もないのに、公卿大夫を厮徒と並べて共に役事に供させている。四夷が聞いても嘉声ではなく、竹帛に垂れても令名ではない。今、吳蜀の二賊は単なる白地の小虜や聚邑の冦ではなく、僭号して帝を称し中国と衡を争おうとしている。もし今、孫権と劉禪がともに徳政を修め租賦を軽減し、事あるごとに耆賢に諮り礼度に遵っていると告げる者があれば、陛下はぞっとして、彼らがそうであることを憎み、急には討滅しがたいと国の憂いとされないだろうか。もし告げる者が、二賊はともに無道で侈りは度なく、士民を役し賦斂を重くし、下は命に堪えず日々嘆きが甚だしいと言えば、陛下は彼らの疲弊を幸いとし取るのは難しくないとされないだろうか。もしそうなら、心を換えて事を度れば義の数もそう遠くない。亡国の主は自ら亡ばぬと思って亡に至り、賢聖の君は自ら亡ぶと思って亡ばぬに至る。
  • さらに続けて、今天下は彫敝し民に儋石の貯えなく国に終年の蓄えがない、外に強敵があって六軍が辺を暴し、内では土功を興して州郡が騒動している、冦の警があれば版築の士が虜庭に命を投じられぬことを懼れると述べた。また將吏の俸禄が減らされ昔の五分の一になり、休暇の者は禀賜を絶たれ、輸すべきでない者も今は半を出している。これは官の収入がかつてより多いのに支出が少なく、それでいて度支の経用は毎度不足し、牛肉の小賦が前後相継いでいる。逆に推すと、これらの費用は必ずどこかにある。禄賜の穀帛は人主が吏民を恵み養い司命となるものだ。今これを廃するのはその命を奪うことで、既に得たものをまた失わせるのは怨みを生ずる府である、と。明帝はこれを覧て中書監令に、髙堂隆のこの奏を見ると朕は懼れると語った。
  • 尚書衛覬が上疏した。今の議者は耳に悦ばしいことを好み、政治を論ずれば陛下を堯舜に比べ、征伐を論ずれば二虜を狸鼠に比べる。自分はそうは思わない。四海の内が分かれて三となり、群士が力を陳べてそれぞれの主に仕えている。六国の分治と異ならない。今、千里に煙なく遺民は困苦している。陛下が善く留意されねば、やがて凋敝して振るい直せなくなる。武皇帝の時、後宮の食は一肉を過ぎず衣に錦繡を用いず、茵蓐に飾り縁を付けず器物に丹漆を用いなかった。それゆえ天下を平定し福を子孫に遺せた。これはみな陛下の覧るところだ。今の務めは君臣上下で府庫を計り、入るを量って出るを為すことだが、それでも及ばぬのを恐れるのに、工役は絶えず侈靡は日に崇まり帑蔵は日に竭きている。昔漢の武帝は神仙の道を信じ、雲表の露を得て玉屑を餐すべきと考えて仙掌を立てて高露を承けた。陛下は通明でこれを常に非として笑われる。漢武は露に求めるところがあってなお非とされるのに、陛下は露に求めるところなく空しく設けている。好みにも益さず功夫を糜費するもので、みな聖慮が裁制されるべきことだ、と。
  • 当時、詔で士女を選び取り、既に嫁いで吏民の妻となっている者も還して兵士に配し、生口(奴隷)で自ら贖うことを許し、また容姿ある者を選んで掖庭に入れた。
  • 太子舍人の沛国人張茂が上書して諫めた。陛下は天の子であり、百姓吏民もまた陛下の子である。今あちらから奪ってこちらに与えるのは、兄の妻を奪って弟に妻せるのと異ならず、父母の恩に偏りがある。また詔書で生口の年齢・容色が妻に相当する者で代えることを許したので、富者は家財を傾け貧者は借財して高く生口を買って妻を贖った。県官は兵士に配すると名目を立てながら実は掖庭に入れ、醜悪な者を出している。妻を得た兵士も必ず喜ぶとは限らず、妻を失った者は必ず憂いを抱く。窮する者も愁う者も皆志を得ない。君が天下を持ちながら万姓の歓心を得られなければ危殆でないことは稀である。
  • 張茂は続けて、軍師は外に数十万あり一日の費は千金では済まない、天下の賦を挙げてこの役に奉じてもなお足らぬのに、宮庭に定員外・無記録の女があり、椒房・母后の家への賞賜が横に与えられ、内外の交引でその費は軍の半ばに及ぶと述べた。昔漢の武帝が地を掘って海とし土を封じて山としたのは、当時天下が一つで争う者がなかったからだ。衰乱以来四五十年、馬は鞍を捨てず士は甲を解かず、強冦が疆にあって魏室を危うくしようとしている。陛下は戦々兢々として節約を崇めることを念うべきなのに、奢靡に務め、中尚方は玩弄の物を作り後園には承露の盤を建てている。まことに耳目の観を快くするが、冦讎の心を騁せるにも足りる。惜しいことに堯舜の節儉を捨てて漢武の侈事をなす、陛下のために取らないところだ、と。明帝は聴かなかった。
  • 髙堂隆は病が篤くなり、口述で上疏した。曽子は「人の将に死せんとするや、その言や善し」と言った。自分は寝疾が増すばかりで、たちまち亡くなって忠款が明らかにされぬことを常に恐れる。丹誠を陛下が少しでも省覧されたい。三代が天下を保ったのを見ると、聖賢が相承して数百年を歴し、尺土もその有でないものなく一民もその臣でないものはなかった。しかし癸(桀)と辛(紂)の徒が心を縦にして欲を極めると、皇天は震怒し宗国は墟となった。紂は首を白旗に梟され桀は鳴条に放たれた。天子の尊は湯・武が有したが、彼らも異人ではなく皆明王の胄であった。
  • さらに、黄初の際に天がその戒めを兆した、異類の鳥が燕の巣で育ち長じ、口と爪と胸が赤かった、これは魏室の大異である、蕭牆の内に鷹揚の臣を防ぐべきで、諸王を選んで国に君とし兵を典らせ、碁石のように配して皇畿を鎮撫させ帝室を翼亮させるべきだと述べた。皇天に親はなくただ徳のみを輔ける。民が徳政を詠えば期を延べ暦を過ぎ、下に怨嘆があれば録を輟めて能ある者に授ける。これから見れば天下は天下の天下であって陛下ひとりの天下ではない、と。明帝は自筆の詔で深く慰労した。髙堂隆はほどなく死去した。

史論(陳壽評)

  • 髙堂隆は学業が修明で君を匡すことに志を存し、変事に因って戒めを陳べ、その言葉は懇誠から発しており、忠であった。ただし正朔を必ず改めさせ、魏に虞を祖とさせようとしたのは、意が通を過ぎたというべきだろう。