通鑑紀事本末魏、遼東を平定する(魏平遼東)
公孫淵が叔父の恭から遼東の位を奪って以来、魏と呉の間で去就を変え、孫権の封じた燕王の使者を斬って魏に首を送りながら、のちに自ら燕王を称して叛くまで。毌丘儉の討伐が長雨に阻まれた翌年、司馬懿が四万を率いて襄平を囲み、公孫淵父子を梁水に斬って遼東・帯方・樂浪・玄菟の四郡を平定する十年間。
年表(5件)
- 魏明帝
- 太和二年228年公孫淵が叔父の恭から位を奪い、劉曄の討伐論は退けられる
- 太和六年232年呉と通じた公孫淵を討たせるが、蔣濟の諫めどおり功なく罷める
- 青龍元年吳との通交と決裂233年孫権の使者を斬って首を魏に送り、大司馬に封じられる
- 景初元年公孫淵の叛237年毌丘儉の討伐が長雨に阻まれ、公孫淵は燕王を称する
- 景初二年襄平の陥落238年司馬懿が襄平を囲んで陥し、公孫淵父子を斬って四郡を平らげる
魏明帝太和二年(228年)
- 公孫康が死んだとき子の晃・淵らはみな幼く、官属はその弟の恭を立てたが、恭は劣弱で国を治められなかった。公孫淵は成長すると恭を脅して位を奪い、その事情を上書した。
- 侍中劉曄が進言した。公孫氏は漢代に用いられて代々官を相承し、水路は海によって陸路は山に阻まれ、外は胡夷と連なって遠く制しがたい。権を世襲して久しいので今誅さなければ後に必ず患を生ずる。二心を懐いて兵に拠ってから誅すのは難しい。新たに立って党も仇もある今、不意を突いて兵を臨ませ賞募を設ければ、師を労せず定められる、と。明帝は従わず、公孫淵を揚烈將軍・遼東太守に拝した。
太和六年(232年)
- 秋九月、公孫淵がひそかに二心を懐いて度々吳と通じた。明帝は汝南太守田豫に青州の諸軍を督させて海道から、幽州刺史王雄を陸道から討たせた。
- 散騎常侍蔣濟が諫めた。互いに呑み合う関係でない国、叛いていない臣を軽々しく伐つべきでない。伐って制しえなければ賊に追い立てるようなものだ。虎狼が路に当たるなら狐狸を先に除くのではなく、大害を治めれば小害は自ずと止む。今、海の彼方の地は代々質を委ね毎年計吏・孝廉を選んで職貢を欠かさない。議者はこれを先にせよと言うが、たとえ一挙に克てても、その民を得ても国は益さず財を得ても富にならぬ。意のごとくならなければ怨を結び信を失うだけだ、と。明帝は聴かず、田豫らは行っても功なく、詔で軍は罷められた。
青龍元年(233年)吳との通交と決裂
- 春二月、公孫淵が校尉宿舒・郎中令孫綜を遣わして吳に上表し臣を称した。吳主は大いに喜んで大赦した。
- 三月、吳主は太常張彌・執金吾許晏・將軍賀達に兵一万と金宝珍貨・九錫の備物を持たせ海を渡らせ、公孫淵を燕王に封じた。顧雍以下の朝廷大臣はみな、公孫淵は信ずるに足らぬのに寵待が厚すぎる、吏兵で宿舒・孫綜を護送するだけにすべきと諫めたが、吳主は聴かなかった。
- 張昭は、公孫淵が魏に背いて討伐を懼れ遠く来て援を求めたのは本志ではない、公孫淵が図を改めて魏に自らを明かそうとすれば二人の使者は帰らず、天下の笑いものになると述べた。吳主は繰り返し張昭に反論したが張昭の意はいよいよ切なった。吳主は堪えられず刀に手をかけて怒り、吳国の士人は宮に入れば自分を拝し宮を出れば君を拝す、自分の君への敬も至れりというのに、度々衆中で自分を折る、自分は常に失計を恐れているのだと言った。
- 張昭は吳主をじっと見て、言が用いられぬと知りながら毎度愚忠を尽くすのは、太后が崩じる際に老臣を牀下に呼んで遺詔顧命した言葉が耳に残っているからだと述べ、涕泣が横に流れた。吳主は刀を地に投げ、共に泣いた。しかし結局張彌・許晏を遣わした。張昭は言が用いられぬことを憤り、病と称して朝せず、吳主はこれを恨んでその門を土で塞いだ。張昭も内から土で封じた。
- 夏六月、公孫淵は吳が遠く恃みがたいと知り、張彌・許晏らの首を斬って京師に伝送し、その兵と資と珍宝をすべて没収した。
- 冬十二月、詔で公孫淵は大司馬に拝され樂浪公に封じられた。吳主はこれを聞いて激怒し、朕は六十年、世事の難易を経験しないものはないが、近ごろ鼠のような小僧に翻弄され、気は山のように踊る、自ら鼠の首を截って海に投げなければ万国に臨む顔がない、顚沛するとも恨みではないと言った。
- 陸遜が上疏した。陛下は神武の姿で天運を受け、烏林で曹操を破り西陵で劉備を敗り荆州で關羽を禽にした。この三者は当世の雄傑でいずれもその鋒を摧いた。聖化は万里に及び、まさに華夏を蕩平し大猷を統一しようという時である。今、小忿を忍ばず雷霆の怒りを発し、堂に垂れる戒めに違い万乗の重きを軽んじるのは惑うところだ。万里を行く者は中道で足を止めず、四海を図る者は細を懐いて大を害さない。強冦は境にあり荒服は服さぬのに、陛下が桴に乗って遠征すれば必ず隙を窺われ、憂いが至ってから悔いても及ばない。大事が速やかに成れば公孫淵は討たずとも服する。今なぜ遠く遼東の衆と馬を惜しみ、江東万安の本業を捨てて惜しまないのか、と。
- 尚書僕射薛綜も上疏した。昔漢の元帝が楼船に乗ろうとしたとき薛廣徳は頸を刎ねて血で車を染めると請うた。水火の険は至って危うく帝王が渉るべきでないからだ。今、遼東の戎貊の小国には城隍の固めも防禦の術もなく、器械は鈍く政もなく、行けば必ず禽にできる。詔の通りだろう。しかしその土地は寒く瘠せて穀は育たず、民は鞍馬に慣れて転徙が定まらぬ。大軍が至ると聞けば敵わぬと見て鳥獣のように驚き駭え長駆奔竄し、一人一馬も見られなくなる。空地を得て守っても益はない。これが不可の第一である。加えて洪流は広く成山の難があり、海の航行は風波が定まらず、たちまち人と船が別々の勢になる。堯舜の徳と智があっても施すところなく、孟賁・夏育の勇と力も設けようがない。これが不可の第二である。さらに鬱霧が上を暗くし鹹水が下から蒸し、流腫を生じやすく互いに感染する。海を行く者でこの患のない者は稀である。これが不可の第三である。天が神聖を生んだのは時に乗じて乱を平らげこの民物を康んずるためだ。今逆虜は滅びようとし海内は定まろうとしているのに、必然の図に違い至危の阻を求め九州の固さを忽せにして一朝の忿を肆にするのは、社稷の重計ではなく、開闢以来なかったことである。これこそ群僚が身を傾け息を側め、食も甘からず寝も安からぬ理由である、と。
- 選曹尚書陸瑁も上疏した。北の冦(魏)と我が国は土地が接し、隙があれば機に応じて至る。海を越えて馬を求め公孫淵に意を曲げるのは、目前の急に赴き腹心の疾を除くためだ。ところが本を棄てて末を追い近を捨てて遠を治め、忿によって規を改め激して衆を動かすのは、狡猾な虜が聞きたがることで大吳の至計ではない。また兵家の術では功役で疲れさせ逸で労を待つもので、得失の差は気づけば大きくなる。しかも沓渚から公孫淵までの道はなお遠い。その岸に着けば兵勢は三分され、強者が進取し、次が船を守り、その次が糧を運ぶ。行く人が多くてもすべては使えぬ。加えて単身で糧を負い遠路深入して賊地に入れば、馬の多い彼らに定まらず邀撃される。公孫淵に詐りがあって北と絶っていなければ、衆を動かした日に唇歯のように助け合う。もし本当に孤立して頼るものがなければ、畏怖して遠く逃げ、たちまち滅ぼすのは難しい。後に天誅が朔野で滞れば山虜が隙に乗じて起こる。万安の長慮ではない、と。
- 吳主が許さなかったので陸瑁は重ねて上疏した。兵革はもとより前代が暴乱を誅し四夷に威を示した手段だが、その役はいずれも姦雄が既に除かれ天下が無事で、廟堂で余議をもって議するときのことだ。中夏が鼎沸し九域が盤互する時には、根を深くし本を固め力を愛しみ費を惜しむのが常であり、この時に近を捨てて遠を治め軍旅を疲れさせた例はない。昔尉他が叛逆して僭号し帝を称したが、当時天下は安らかで百姓は富んでいた。それでも漢の文帝は遠征は容易でないとして告げ諭すにとどめた。今、凶桀は未だ殄びず疆場はなお警がある。公孫淵を先にすべきではない。威を抑えて計に任せ、しばらく六師を寧んじ神を潜め黙して規を立て後図とされたい、と。吳主はようやく中止した。
景初元年(237年)公孫淵の叛
- 秋七月、公孫淵が度々国中の賓客に対して悪言を吐いた。明帝は討とうとして荆州刺史の河東人毌丘儉を幽州刺史とした。
- 毌丘儉が上疏し、陛下の即位以来書くべき事績がない、吳蜀は険を恃んで急に平らげられぬ、ひとまずこの方面の無用の士で遼東を克定すべきと述べた。
- 光禄大夫衛臻は、毌丘儉の陳べるところはみな戦国の細術で王者の事ではないと述べた。吳は毎年兵を称して辺境を冦乱しているが、それでも甲を按じ士を養って討伐に至らないのは、百姓が疲労しているからだ。公孫淵は海の彼方に生い育ち三世を相承し、外は戎夷を撫し内は戦射を修めている。毌丘儉が偏軍で長駆して朝に至って夕べに巻き上げようというのは妄想だ、と。
- 明帝は聴かず、毌丘儉に諸軍と鮮卑・烏桓を率いて遼東の南界に屯させ、璽書で公孫淵を召した。公孫淵は兵を発して反逆し、毌丘儉は遼隧で戦った。折しも十余日雨が続いて遼水が大いに漲り、毌丘儉は戦って利あらず軍を右北平に引いた。
- 公孫淵はそこで自ら燕王を称し、紹漢と改元して百官を置き、使を遣わして鮮卑単于の璽を仮し辺民に封拝し、鮮卑を誘い呼んで北方を侵擾した。
景初二年(238年)襄平の陥落
- 春正月、明帝は司馬懿を長安から召し、兵四万を率いて遼東を討たせた。議臣のうち四万は兵が多く役費を供しがたいと言う者があったが、明帝は、四千里の征伐は奇を用いるとはいえ力にも任ずべきで、役費を細かく計るべきでないと述べた。
- 明帝が司馬懿に、公孫淵はどう対処するかと問うと、司馬懿は次のように答えた。城を棄てて予め走るのが上計、遼東に拠って大軍を防ぐのが次、襄平に坐して守るのは禽にされるだけだ。明帝が三つのどれを出るかと問うと、司馬懿は、明智な者だけが彼我を審らかに量って予め割棄できる、それは公孫淵の及ぶところでない、また我が遠征で長く支えられぬと考えるだろうから、まず遼水で拒み遠く襄平を守るだろうと答えた。往復の日数を問われると、往きに百日、攻めに百日、還りに百日、休息に六十日で一年あれば足ると答えた。
- 公孫淵はこれを聞いて再び使を吳に遣わして臣を称し救を求めた。吳人はその使を戮そうとしたが、羊衟が、それは匹夫の怒を肆にして覇王の計を捨てることだ、むしろ厚遇し奇兵をひそかに送ってその成果を要求すべきだ、魏が伐って克たず我が軍が遠く赴けば恩は遐夷に結び義は万里に形れる、兵が連なって解けず首尾が離隔すれば、その傍郡を虜にして駆略して帰るだけでも天の罰を致し先の事を報復できると述べた。吳主は善しとし、大いに兵を整えて公孫淵の使者に、後の報せを待って簡書に従う、必ず弟と休戚を同じくすると言い、また司馬懿は向かうところ前なしで弟のために深く憂うると告げた。
- 明帝が護軍將軍蔣濟に、孫権は遼東を救うかと問うと、蔣濟は、彼は官の備えが既に固く利が得られぬと知っている、深入すれば力が及ばず浅く入れば労して獲るものがない、孫権は子弟が危うくても動かないほどで、まして異域の人であり過去の辱もある。今それを外に揚げるのは、彼らの使者を騙して我に疑わせ、我が克てなければ節を折って自分に仕えることを期待しているだけだ。ただし沓渚から公孫淵まではなお遠く、大軍が相守って事が速やかに決しなければ、孫権の浅い企みが軽兵で掩襲することもありえて測りがたいと答えた。
- 六月、司馬懿の軍が遼東に至った。公孫淵は大將軍卑衍・楊祚に歩騎数万を率いさせて遼隧に屯し、二十余里の囲塹を作った。
- 諸將が撃とうとしたが、司馬懿は、賊が堅壁するのは我が兵を老いさせるためだ、今攻めるのはまさにその計に落ちる、賊の大衆はここにあり巣窟は空虚なので、直に襄平を指せば必ず破れると述べた。そこで旗幟を多く張って南に出るように見せ、卑衍らが鋭を尽くしてそこへ向かうと、司馬懿はひそかに水を渉って北に出、直に襄平に向かった。卑衍らは恐れて夜に兵を引いて走り、諸軍が追って首山に至った。公孫淵が再び卑衍らに迎撃させたが、司馬懿は大破し、進んで襄平を囲んだ。
- 秋七月、大霖雨で遼水が暴漲し、運船は遼口から城下まで直行できた。雨は一月余り止まず平地で水は数尺となり、三軍は恐れて営を移そうとした。司馬懿は軍中で移営を口にする者は斬ると令し、都督令史の張静が令を犯して斬られると、軍中はようやく定まった。
- 賊は水を恃んで平然と樵採・放牧していた。諸將が取ろうとしたが司馬懿はみな聴かなかった。司馬の陳珪が、昔上庸を攻めたときは八部が並進し昼夜休まず、旬の半分で堅城を抜き孟達を斬った、今は遠来してかえって緩やかなのが解せないと言うと、司馬懿は次のように説いた。孟達は衆が少なく食は一年分あり、將士は孟達の四倍だが糧は一月に及ばなかった。一月で一年を図るのだから速くせざるをえない。四で一を撃つのだから半を失っても克てるならやるべきで、死傷を計らず糧と競ったのだ。今は賊が衆で我が寡、賊は飢え我は飽き、水雨がこの通りで功力を設けられない。急いでも何になろう。京師を発ってから賊が攻めることは憂えず、ただ賊が走るのを恐れていた。今、賊の糧は尽きようとしているのに囲は完成していない。その牛馬を掠め樵採を妨げるのは、まさに走らせることだ。兵は詭道であり事の変に因るのがよい。賊は衆と雨を恃んでいるので飢え困じても手を束ねようとしない。無能を示して安心させるべきで、小利を取って驚かすのは計ではない、と。
- 朝廷は師が雨に遭ったと聞いてみな兵を罷めたがったが、明帝は、司馬懿は危に臨んで変を制する、公孫淵を禽にするのは日を数えて待てると述べた。
- 雨が晴れると司馬懿は合囲し、土山・地道・楯櫓・鉤衝を作って昼夜攻め、矢石は雨のようであった。公孫淵は窘急し糧が尽きて人が互いに食い、死者は非常に多く、將の楊祚らが降った。
- 八月、公孫淵は相国王建・御史大夫柳甫を遣わし、囲を解いて兵を却けば君臣が面縛して出ると請うた。司馬懿は二人を斬るよう命じ、公孫淵に檄した。楚と鄭は列国だが鄭伯はなお肉袒し羊を牽いて迎えた。自分は天子の上公であるのに、王建らは自分に囲を解いて退舎せよという、礼にかなうか。二人は老耄で伝言が要を失っていたので代わりに斬った。まだ意が尽きぬなら、改めて年少で明決な者を遣わせ、と。
- 公孫淵は改めて侍中衛演を遣わし、日を決めて人質を送ると乞うた。司馬懿は衛演に、軍事の大要は五つ、戦えるなら戦い、戦えぬなら守り、守れぬなら走る、残る二つは降と死だけだ、面縛を肯じないのは決して死に就くということだ、人質を送る必要はないと告げた。
- 壬午、襄平が潰れた。公孫淵は子の脩と数百騎で囲を突いて東南に走ったが、大軍が急撃して梁水の上で父子を斬った。
- 司馬懿は入城後、公卿以下および兵民七千余人を誅して京観を築いた。遼東・帯方・樂浪・玄菟の四郡がみな平定された。公孫淵が反しようとしたとき將軍綸直・賈範らが苦諫し、公孫淵はみな殺していたので、司馬懿は綸直らの墓を封じその遺嗣を顕彰し、公孫淵の叔父恭を囚から釈いた。中国人で旧郷に還りたい者はすべて許し、班師した。
- もともと公孫淵の兄の晃は恭の任子として洛陽にいた。公孫淵が反する前から度々その変を陳べ、国家に公孫淵を討たせようとしていた。公孫淵が謀逆すると、明帝は市で斬るに忍びず獄で殺そうとした。
- 廷尉髙柔が上疏した。晃は先に自ら帰して公孫淵の禍の萌しを陳べたと聞く。凶族ではあるが心を原れば恕すべきだ。仲尼は司馬牛の憂いを明らかにし、祁奚は叔向の過を明らかにした。昔の美義である。晃に本当にその言があったのなら死を貸すべきで、自ら言がなかったのなら市で斬るべきだ。今、進んではその命を赦さず、退いてはその罪を明らかにせず、囹圄に閉じて自ら命を絶たせれば、四方が国を観てこの挙を疑うだろう、と。
- 明帝は聴かず、結局使者に金屑を持たせて晃とその妻子に飲ませ、棺と衣を賜って自宅で殯歛させた。